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1.高知県の水害
高知県は、地形上、気候上、多雨地帯、台風常襲地帯であることから集中豪雨や台風による多くの水害を被ってきた。戦後昭和20年〜45年までの主なる水害を追ってみると、
昭和20年9月 枕崎台風 28年9月 23号台風 29年8月 5号台風 34年8月 6号、15号台風 35年8月 16号台風 36年9月 第2室戸台風 39年9月 20号台風 40年9月 23号台風 43年7月 7月台風 45年8月 10号台風
と続く。この昭和45年8月第10号台風(土佐湾台風)の被害者が綴った、古沢和子編『その手を放すな』(「その手を放すな」出版委員会・昭和48年) から、赤裸々な体験をそのまま引用する。
泥にまみれた嫁入り衣装 森本美喜恵(当時27歳)
『 祖母が「もう、ここに(2階)いては命が危ない。泳げる者だけで逃げるかよ」 といいましたが、この嵐の中どうやって逃げられましょう。 いっそうだめならみんな一緒の方がいいと覚悟をきめました。 いろいろのことが頭の中を走馬灯のように駆けめぐり、涙がこぼれて仕方ありません。この秋には長かった独身時代に終止符を打って第二の人生への門出が待っていたのに……運命なんてなんと皮肉なものでしょう。心待ちにして色々と嫁入仕度も準備していたのに。−−−(略)−−− それからどれだけ時間がたったのでしょう。 「命だけは助かったよ」 「まあよかった、よかった」 「これが夜なら水に流されていたろう」 それぞれの声が出るようになりました。 翌日の昼前から少しずつ水が引き始め、階段が一つずつ現れてきました。 −−−(略)−−− それから二ヵ月たった十一月六日、結婚式をあげました。 式や披露宴だけでも大変なのに、嫁入り仕度が二度になり、家の修理など親たちの苦労は大変なものだったろうと感謝しております。』
2.大渡ダムの建設
高知県は、明治以降平成17年までに治水と利水を目的としたダムが50基程完成している。左岸吾河郡吾川村、右岸高岡郡仁淀村に位置する大渡ダムもそのうちの1基である。
この大渡ダムの建設について、大渡ダム事業パンフレットに、次のように記してある。
仁淀川は、四国の雄峰石鎚山(標高1982m)にその源を発し、愛媛、高知両県にまたがって太平洋に流れる四国有数の河川である。流路延長 124km、流域面積は1560km2でその大部分は、山地であるが、下流域は、高知県の主要な農耕地帯をなし、最近は特に、園芸農業が盛んである。
また、仁淀川流域は、台風の常襲地帯に位置すると同時に、わが国有数の温暖多雨地帯で、上、中流域の年間総雨量は、3500┝を越え、その殆どが、台風に起因しており、大洪水を引き起こす原因にもなっている。特に、昭和18年と20年には大洪水に見舞われ、各地に被害を受けたが、まだその復旧の進まぬ昭和21年の洪水ではついに下流地域において破堤するなど、大被害を与える惨事となった。これらを契機として昭和23年11月から建設省直轄による河川改修に着手したが、昭和38年8月洪水では基準点伊野においてやく13,000m3/sにおよぶ出水があり、しかも沿川一帯は近年益々土地利用の高度化、資産の蓄積が進んでおり、治水の安全度をさらに向上させることが重要になった。
一方、仁淀川は、年間を通じて流况が不安定であり、豊水渇水の差は河状係数1700と極めて大きく、地域開発において隘路となっていた。また、高知市は年々需要量の増加している水道用水の水源を仁淀川に求めた。 このような状況から仁淀川上流に洪水調節、不特定かんがい等用水の補給、水道用水の供給及び発電をあわせた多目的ダムである大渡ダムを建設したもので、この総事業費は約 780億円である。
大渡ダムの建設経過をみると、昭和41年度に実施計画調査に入り、昭和43年度工事に着手、昭和46年7月損失補償基準妥結、昭和51年6月にダムコンクリート打設を開始し、昭和55年8月打設を完了した。そして昭和56年試験湛水を開始したが、翌昭和57年4月湖畔において地すべりが発生したが為貯水位を低下し対策工事を行い昭和60年10年湛水を再開、昭和61年7月試験湛水を終了し、11月に竣工、翌昭和62年5月大渡ダム管理所となった。
このダム建設記録については、大渡ダム工事誌編纂委員会『大渡ダム工事誌』(建設省大渡ダム工事事務所・昭和62年)がある。
3.大渡ダムの目的、諸元
この『工事誌』によれば、治水、利水の目的をもってダムは造られた。 すなわち、大渡ダムは、大渡ダム地点で計画高水流量6000m3/sのうち、2200m3/sの洪水調節を行い、既得水利である鎌田用水、吾南用水に対し、渇水補給し、また高知市に対し、 120,000m3/s( 1.4m3/s)の水道用水を供給、さらに、大渡ダムの貯水池と落差を利用して、大渡発電所にて 33000KW、面河第三発電所にて最大出力2,2000KWの発電を行う多目的ダムである。
一方、大渡ダムの諸元は、堤高96m、堤頂長 325m、堤体積約 100万m3、総貯水容量6600万m3、型式は重力式コンクリートダムである。起業者は建設省(国土交通省)、施工者は大成建設であり、事業費 780億円(建設のアロケーション治水89.8%、水道 4.7%、発電 5.5%)を要した。
なお、大渡ダムの堤高96mは、魚梁瀬ダム 115m早明浦ダム 106mに次ぎ、総貯水容量6600万m3は、早明浦ダム3億1600万m3、魚梁瀬ダム1億 462.5万m3に次ぎともに高知県第3位を誇っている。
4.補償の概要
大渡ダムの水没戸数は吾川村53戸、仁淀村37戸、併せて90戸であり、用地取得面積は、柳谷村、吾川村、仁淀村の水没、道路、その他を合計すると173.46haに及ぶ。
さらに、公共補償として国道、村道、林道を含めて21.895mの付替道路、柳谷村のプール補償、吾川村の小学校、診療所、公民館、プール、仁淀村の農協、プール等である。また、特殊補償として、四国電力の面河第三発電所、岩屋発電所、仁淀川発電所、鉱業権2件、さらに漁業権2件は下流の仁淀川漁業協同組合、上流の面河川漁業協同組合の補償が行われた。だが、一部関係者が補償基準を不満として、ダムサイトに団結小屋を設置し、ダム反対の運動が強化されたものの、収用裁決がなされ、その後和解が成立した経過もある。
5.海区の漁組との交渉
内水面漁組との補償解決後、昭和51年5 月海区の漁組から、ダムによってドロメが獲れなくなるということで補償要求がなされた。高知大学の上森先生たちによる調査委員会での検討の結果、「影響がない」という回答を得た。この回答日11月16日の翌日から「けしからん」ということで、漁組の座り込みが始まった。
この件について、下平典夫所長は前掲書『大渡ダムの工事誌』のなかで、語っている。
『 そのためには立ち入り禁止の区域をきちんと明示しなければならないということで、上流・下流の締め切りから左岸・右岸の高いところへ、ずっとバラ線の柵を張りまして、「関係者以外、立入禁止」という札をつけたり、ダムの下流から入ってくるところ、前の村道のところ、ちょうどコンプレッサー室がありました曲がり角のあたりに黄色い線を入れて、「ここから先は関係者以外、立ち入り禁止」という表示をしたわけです。 機動隊は絶対に前に出ませんので、起業者と施工者が前に出て、そこで話し合いをするというか言い合いをした。最初は「工事をとめろ」、「いや、影響はない」という話し合いをしておりまして、3日ほどそれを続けましたが、向こうも、そう簡単なものではないという判断と、県のほうも、いつまでもというわけにもいかんので、「なんとか、もう1回、話し合いをしましょう」と。向こうは「工事をとめろ」というけれども、「それはできない。工事をやりながら話し合いはしましょう」ということで、さらに話し合いを続けていきましたが、最終的に回答をしたのは52年の春になってからでした。 建設省としては、「影響はない。ダム完成後、影響があった場合には、調査して、損害賠償の協議に応じましょう」という文書回答をして解決しました。』
6.補償交渉の精神
「工事をとめろ」、「いや影響はない」と言い合っている。 起業者側は絶対に工事はとめられない。工事をやりながら話し合いをしょうとするスタンスである。結局、このスタンスは「影響はない。ダム完成後影響があった場合には調査をして、損害賠償の協議に応じましょう」と文書回答で交渉は終了した。
下平所長の交渉は、学識経験者による大渡ダム建設はドロメの漁獲には影響しないとの確定を得て、それを貫いた。
補償はあくまでもダム建設によって明らかに支障を受けるものであって、当然支障とならないものは補償の対象とはならない。ここに補償交渉の精神をみることができよう。
おわりに
この工事誌には、ダムを造る側から記されたものであり、完成までの多大な苦労が伺える。
一方、大渡ダムを造られる側から著した書に、吉岡重忠著・発行『湖底に消えた仁淀峡谷』(昭和56年)があり、吾川村、仁淀村のふるさとを離れざるを得ない水没者の心情を切々と描いている。湖水に消えた別枝大橋、長渕小学校、みこの岩、どい瀬、石鎚様といかだ場、和田の氏神様・地主八幡様等を捉える。次の短歌にその哀愁が漂う。
秋葉口のさまかはりたり眼下なる旧道もダムの水に隠れむ (小野興二郎)
ダムとなる川河岸に立ち真向えば高き山肌に茶畑の畝 (源田多美子)
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