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文献にみる補償の精神【62】
「ダムの安全性について、多くの熱気ある議論が行われ、
我々は、その説明に全力を傾けたものでした」
(阿木川ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1. ダム建設の外圧

 ダム建設は一般的に予備調査から始まり、地元の了解が得られれば、さらなる技術調査、補償調査を終え、補償基準が妥結して、地権者との補償契約が完了し、本格的な工事に着手する。ダム建設の原動力は、地元の協力が第一であり、ダム建設の大義名分が明確に示され、世論の後押もまた重要な要件である。起業者における技術力、組織力、資金力などが備わって、ダム完成に向うが、起業者はダム完成まで、様々な外圧に遭遇することがある。その外圧とは戦争であり、天災事故であり、金融危機であり、石油危機であり、そしてダム事故である。

 大正期、電力王と呼ばれた福沢桃介も外圧に遭っている。その当時、木曽川に日本一のハイダム大井ダムを建設中、大正12年9月1日関東大震災がおこった。その影響を受けてダム資材の高騰、労力の不足により、大同電力鰍フ資金不足が生じ、工事の継続が危ぶまれた。桃介は外資導入を図るため、アメリカに渡った。その時の様子が、杉本苑子の小説『冥府回廊』(日本放送出版協会・1984年)に描かれている。

 「アメリカ経済は世界最大の富強を誇っています。連邦準備銀行の金の保有額は、百二十億ドルにも及ぶと聞いていますが、だぶつきすぎるのもけっして良いことではありません。お国はいずれローマのごとく、金の毒素によって衰亡のたどることになりかねない。わたしは金を借りに来たのではなく、この毒素をわずかながらも取りのぞきにまいったわけで、アメリカから感謝されてしかるべきだと自負しています」と、流暢な英語で語っている。そして、彼はクリスチャンでもないのに、日曜日に教会にでかけ礼拝をおこなって、アメリカ人の信頼と歓心を得ている。桃介の努力によって、大同電力鰍フ社債は売り出されると、その日に完売したという。資金不足の危機を脱した大井ダムは、大正13年9月に完成した。高さ42.4m、堤頂長271.24m、総貯水容量2780万m3の湖水の誕生である。大同電力鰍ヘ現在の関西電力鰍フ前身である。

 大井ダム完成から67年後、その下流木曽川左支川阿木川に阿木川ダムが完成したが、その建設中、思わぬ出来事に出遭った。それは昭和51年6月5日アメリカにおけるティートンダムの決壊事故である。阿木川ダムの型式を重力式ダムからロックフィルダムへ変更した時であり、決壊したティートンダムと同じタイプのロックフィルであったことから、起業者は、このダム事故問題の対処に大変な労苦をあじわったという。
 まず、水資源開発公団阿木川ダム建設所編・発行『阿木川ダム工事誌』(平成3年)により、ダムの建設経過、目的、諸元などをみてみたい。


2. 阿木川ダムの建設

 阿木川は、その源を岐阜県中津川市焼山(標高1709u)に発し、寺川、岩村川、永田川、横町川、濁川などを併合し、大井ダム直下流で木曽川左岸に合流する流域面積133km2、河川延長21kmの一級河川である。阿木川ダムはこの木曽川水系阿木川の岐阜県恵那市東野字山本、字花無山に平成3年に完成した。阿木川ダム建設の背景には、中部圏の都市発展による都市用水等の供給と水害の減災をはかる目的があった。そのダム建設の経過を次のようにまとめた。

 阿木川ダム建設の歩み

昭和40年水資源開発促進法に基づき木曽川水資源開発水系指定告示
42年建設省、予備調査開始
44年実施計画調査開始、阿木川ダム調査事務所開設
用地調査を開始し、46年に完了
48年水資源開発公団に事業仮継承
ダムの型式を重力式ダムからロックフィルへ変更
49年水源地域対策特別措置法のダム指定を受ける
51年水資源開発公団に事業正式に承継
アメリカのティートンダム決壊事故おこる
52年補償基準発表
53年指定ダムに係わる水源地域整備計画の決定
岩村町小沢地区補償協定妥結
中津川市阿木地区補償協定妥結
迂回道路(国道257号線)工事着工
54年恵那市正家地区補償協定妥結
岩村町及び中津川市の公共補償妥結
木曽三川水源地対策基金による阿木川ダム事業計画の決定
55年恵那市東野地区補償協定妥結
恵那市公共補償妥結
恵那漁業協同組合と漁業補償妥結
仮排水トンネル着工、ダム本体着工
58年転流開始、ダム本体盛り立て開始
59年ダム洪水吐コンクリート打設開始
61年ダム本体盛土か開始
63年ダム本体盛立完了
国道257号全線使用開始
平成元年ダム湛水開始
2年法面対策、水質対策、周辺整備完了
3年阿木川ダム完成、ダム管理開始

 このように阿木川ダムは、昭和42年建設省の予備調査に始まり、水資源開発公団に事業が継承され、23年の歳月を経て完成した。


3. 阿木川ダムの目的

 阿木川ダムは、岐阜県恵那市で木曽川に合流する阿木川に建設された多目的ダムである。木曽川河口からおよそ110km上流に位置する、ダムは4つの目的を持って造られた。

@ 洪水調節
 木曽川の洪水調節は、基準地点犬山における基本高水流量16000?/sのうち3500?/sを岩屋ダム、味噌川ダムなどの上流ダム群により調節し、阿木川ダムでは、ダム地点における計画高水流量850?/sを調節する計画となっている。

A流水の正常な機能の維持
 河川の正常な機能のために必要な水量として、水質保全、塩害防止、舟運、漁業、観光及び地下水の補給などに、阿木川ダムにより補給する。            

B水道用水の供給
 阿木川ダムによって、水道用水1.902?/sを新規に生み出し、その供給先は、岐阜県東濃地区(中津川市、恵那市、土岐市、多治見市、笠原町)に対し、最大0.8?/sを、愛知用水地区に対し、最大1.102?/sをそれぞれ供給する。

C工業用水の供給
 阿木川ダムによって、工業用水最大2.098?/sが新規に生み出し、愛知県愛知用水地区に供給する。
これらの目的以外に、阿木川ダムの管理用水力発電設備は、ダムからの放流水量最大4.7?/s、有効落差66.98mを利用し、最大出力2600kwの電力を発電し、この電力はダム管理用として使用するとともに、余った電力は電力会社に売電することにより、管理費用の削減を図っている。


4. 阿木川ダムの諸元と補償

 続いて、阿木川ダムの諸元と主なる補償関係についてみてみたい。
ダムの諸元は、堤高101.5u、堤頂長362m、堤体積490万?、堤頂標高417.5m、流域面積81.8km2、湛水面積1.58km2、利用水深49.0m、総貯水容量4800万?、有効貯水容量4400万?、堆砂容量400万?、型式は中央土質しゃ水壁型ロックフィルダムである。起業者は水資源開発公団(現・水資源機構)、施工者は大林組、青木建設、大日本土木共同企業体である。事業費は1066億円を要した。費用の負担割合は洪水調節50%、水道用水20%、工業用水30%となっている。

 主なる補償関係は、土地取得面積約254ha、補償水没家屋30戸(中津川市阿木地区13戸、岩村町飯羽間地区17戸)で、水没移転者は、中津川市、恵那市、岩村町などにそれぞれ移転している。公共補償は中津川市、恵那市、恵那郡岩村町の2市1町の林道新設、行政需要の増大に対する費用、特殊補償は恵那漁業協同組合に対する漁業補償であった。このほか関連事業として「水特法」の活用により、土地改良事業、道路等の整備事業41事業と「木曽三川基金」による、土地改良事業、道路等の整備事業36事業が行政によって実施された。このことは用地交渉の進展に大きな役割を果したという。なお、地権者関係の関係機関は中津川市阿木川ダム対策協議会など6団体である。


5. ティートンダムの決壊とダムの安全性

 阿木川ダムの建設上、影響及ぼしたティートンダムの事故について、ロバートB.ヤンセン著『ダムと公共の安全―世界の重大事故例と教訓』(東海大学出版会・1983年)の中に、次のように記されている。

 アメリカ合衆国開拓局が建設したティートンダムは、アイダホ州ティートン川に造られた中央コア式のゾーンタイプアースダムで、河床面上高さ93m、基礎最低点上123mに造られていた。滲透水を抑制する対策には、両アバットメント岩盤中に掘り込まれたキイトレンチと、河底の基礎岩盤中に掘った遮水トレンチが設けられている。この下方にはグラウトカーテンが延びている。ダムは1975年11月26日に天端まで仕上げられ、湛水開始は1975年10月3日で、決壊した1976年6月5日まで続けられた。

 前掲書『阿木川ダム工事誌』には、地権者との交渉において、ダム型式がコンクリートダムからロックに変更され、さらにティートンダムの事故がおこり、ダムの安全性に不安を訴える者が多く出て、その説得にダム建設所長たちは、苦労を重ねていることが記されている。

 河野進所長は、「私が当ダムに赴任いたしました時は、ダムの調査が全て中断され、ダムのタイプがコンクリートダムよりフィルダムに変更決定されましたので、地元にその変更理由を説明しなければならない時でした。調査中断の地元の主張理由は、今迄コンクリートダムの調査については、全面的に協力してきたのであるから、以前から提出してある要望事項には、納得のいく回答をもらわなければ、今後の調査立ち入りについては、一切認められないという厳しいものでした。ダムタイプ変更理由の説明会は、何回となく行われ、特にダムの安全性について多くの熱気ある議論が行われ、我々はその説明に全力かたむけたものでした。・・・内外とも多難な時期でした。このような時期でしたが、関係各位のご指導ご鞭撻及び地元のご協力によりまして、昭和49年9月にようやく調査立ち入り再開が地元に認められました。それから事務所は活気が漲り、当ダムは公団での第1号の水特法指定ダムとなり、その建設に向けて大きな一歩を踏み出すこととなり、感無量なものがありました。」と、語っている。

 一方、ティートンダム事故についても、地元に対し、阿木川ダムの安全性の理解を求めるため、その説得に苦労している。
 藪亀淳夫所長は、「昭和50年2月に赴任しましたが、当時、恵那市、中津川市、岩村町の2市1町とも、未だダム建設反対の旗印を降ろしていなかった時期でした。岩村町は、長年にわたる水没者の不安をおもんばかり、2市に先行して交渉を進めたい意向でしたが、ダム地点の恵那市では、東野在住者が、ダム建設に頑強に反対し、建設省の調査時代を通じ難航したものです。主としてダムの安全性についての主張でした。昭和51年6月、2市1町がやっと同じテーブルにつき、初めての連絡協議会の席上、皮肉にもアメリカのティートンダム決壊のニュースが伝わり、同じロックフィルダムであったため、蜂の巣をつついたような状況となりました。岐阜県は、地元県会議員、水資源課長などを含めた調査団を現地に派遣し、報告会などを行って、日本のフィルダムの安全性を説いたのですが、なかなか納得されず、この時期日夜を分かたず、説明会を行いました。この種の一般市民への説明の難しさを痛感したことはまだ記憶に新しいものがあります。ともかく、岩村町の水没者の対応が先行し、昭和54年には岩村町、中津川市の公共補償が相次いで妥結したのですが、これには当時制定された水源地域対策特別措置法による移転家屋に対する利子補給、木曽三川基金に基づく地域整備事業の後押しがあったればこそだとおもいます。」と述べている。


6. 補償の精神

 阿木川ダム完成まで、23年の歳月が流れているが、この間何回ともなく会合がもたれ、関係者に対し、ダムの安全性、調査、補償交渉、工事説明などを含めての説得がなされいる。このような交渉や説明会の積み重ねがダム完成に繋がる道であろう。所長たちは、ダム建設の過程で必ずや大きな問題に直面する。阿木川ダムの場合はダム型式の変更とティートンダム決壊の問題であった。関係者に対し、ダムの安全性について説明を繰り返し、繰り返し行って、理解を求めている。ダムの補償の精神とはいったいなんであろうか。河野所長は、「ダムの安全性について、多くの熱気ある議論が行われ、我々はその説明に全力を傾けた」と、語っている。一方藪亀所長もまた同じように「日本のフィルダムの安全性を説いたのですが、なかなか納得されず、この時期日夜を分かたず、説明会を行いました。」とある。二人の所長のダムかける情熱と真摯な対応のなかに、「補償の精神」が貫ぬかれている、といえるであろう。


7. おわりに

 繰返すことになるが、福沢桃介は、関東大震災という外圧に対し、連邦準備銀行の関係者だけでなく、アメリカ留学時に知友のあったあらゆるアメリカ人にも、外債の説明を行って、協力を仰ぎ、成功している。桃介と同様に関東大震災の影響受けたダムがある。八田與一が台湾において、烏山頭ダムを建設中で、日本からの融資がとどこおり、一時従事者を解雇せざるを得なかったが、再融資により昭和5年に竣工させ、台南地方の荒地嘉南平原を緑に変えた。いまでも八田與一は台湾の人から愛されている。

 太平洋戦争からの外圧は、沢山のダム建設に影響を与えた。二、三の例をあげてみる。相模ダム、小河内ダムは戦争によって物資不足などが生じ、一時工事を中断し、相模ダムは昭和24年に完成、小河内ダムは昭和23年に工事を再開し、昭和32年漸く完成。両ダムとも水没者等への補償は不十分であったため、苦労した人も出現した。

 ダム事故の影響を受けたダムとしては、梓川渓谷における揚水発電ダム群のアーチダムがあった。当時、昭和34年12月2日には、南フランスのカンヌ地方に造られていたマルパッセダムがほぼ湛水が満水になったときに突如の崩壊、さらに北イタリアのアルプス地帯に、昭和35年に造られたアーチダム・バイオントダムが、昭和38年10月9日に地すべりを起こした事故があった。建設中の奈川渡ダム等が同タイプのアーチダムであつたことから、ダム関係者は、フランス、イタリアまで原因調査を行い、その後のダム造りに万全を尽くした。この二つダムの事故の影響を受けたものの、昭和44年奈川渡ダム、水殿ダムなどは完成した。

 また、昭和48年第4次中東戦争による第1次石油危機、昭和54年イラン革命による第2次石油危機で、日本のダム建設は影響を被っている。このようにダム造りは、様々な外圧を受ける。これらの難題を乗り越えて、ダムは完成する。

[関連ダム]  阿木川ダム
(2009年8月作成)
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