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文献にみる補償の精神【43】
「米を一握り持ち、砂子瀬の人に差し出したのです」
(目屋ダム・青森県)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1.水と川と海の日

 地球温暖化の影響であろう。私が住む福岡県筑紫野市では11月初旬とはいえ、ちらほらと桜が咲き、そのかたわらに金木犀の香りがただよっていた。気候変動が続くなか、2カ月近くも雨がほとんど降らないと気にかかり、また雨が降り続くと洪水にならないかと心配になってくる。なかなか四季を通じて適量に降らないのが現状である。

 すでに10年程経てしまったが、平成6年は異常少雨のため各地で給水制限が生じ、水のありがたさを実感したことを想い出した。毎年水と川と海の記念日にはその大切さと感謝する行事が行われている。

 3月22日は「国連水の日」、5月1日から5月31日(北海道地区は6月1日から6月30日)は「水防月間」、5月15日から5月21日は「総合治水推進週間」、6月1日から6月7日は「水道週間」、7月7日は「川の日」、7月1日から7月31日は「河川愛護月間」、7月20日は「海の日」、7月21日から7月31日は「森と湖に親しむ旬間」である。

 そして8月1日は「水の日」、この日から一週間を「水の週間」と定められた。この週間は水資源の有限性、水の貴重さが水資源開発の重要性に対する関心を高め、理解を深めるための諸行事を行う。このことによって、わが国の水問題の解決を図り、もって国民経済の成長と国民生活の向上に寄与することを目的としている。こため水資源開発の重要性に関し、全国各地で様々なイベントが行われる。

 平成19年、第31回「水の週間」のイベントは、東京都千代田区北の丸公園内にある科学技術館において7月27日に記念式典が開催され、水源地域からのメッセージ(群馬県沼田市長から)、記念講演として中西友子東大教授による「農業と水」、さらに、水資源功績者、全日本中学生水の作文コンクール受賞者、水とのふれあいフォトコンテスト受賞者の表彰がなされた。

 水の作文コンクールは、「水について考える」をテーマとして、中学生を対象とした作文の募集である。今回は海外を含め16173編の応募があったという。最優秀賞(国土交通大臣賞)を受賞したのは青森県弘前市立第三中学校2年小山内香純さんの「移転した人たちに感謝して」であった。移転した人たちとは、昭和35年青森県中津軽郡西目屋村に完成した「目屋ダム」の水没者たちのことを指している。


2.津軽平野と岩木川

 青森県は本州の最北端に位置し、ヒバ林で知られる下北半島と津軽半島が北に突き出しており「兜」に似た形となっている。津軽地域は、秋田県境、白神山地から流れだす岩木川が津軽平野を形成する。

 岩木川は、その水源を青森、秋田両県境の雁森岳(標高987m)に発し、平川、浪岡川、小田川などの多数の支川を合わせ、津軽平野を南北に貫流し、十三湖を経て日本海に注ぐ流域面積2540km2、流路延長101.6kmの一級河川である。

 津軽平野は青森県内随一の穀倉地帯で、また全国的に知られている青森リンゴの産地であり、岩木川はその貴重な水源となっている。

 岩木川の河床勾配はわが国の河川に比べて上流で急なため、流出が速く短時間に水が集中して流れ、勾配が穏やかとなる下流部で氾濫する危険な河川である。河川改修は藩政時代からの懸案となっていた。このため大正5年10月1日河川法の河川に編入され、大正7年より国直轄で河川改修を行ってきた。昭和10年8月21日〜23日にかけて、大出水により甚大な被害を受け、計画洪水流量が大幅に改定され、既改修および未改修の全面的な増強が必要となった。そのため上流部右岸青森県中津軽郡西目屋村居森、左岸同村藤川地先に、昭和35年3月多目的ダムとして目屋ダムが完成した。


3.目屋ダムの完成

 目屋ダムについては、建設省東北地方建設局目屋ダム工事事務所編・発行「目屋ダム工事報告書」(昭和36年)、建設省東北地方建設局河川部編・発行「東北のダム五十年」(平成5年)、小笠原功著「白神山地・岩木川周辺の物語」(北の街社・平成18年)、それに「津軽ダム事業パンフレット」より追ってみた。

 目屋ダムの諸元は、堤高58m、堤頂長170m、堤体積11.8万m3、総貯水容量3880.4万m3、型式重力式コンクリートダムである。

 ダムの目的は次のとおりである。
・洪水量500m3/Sのうち、450m3/Sを洪水調節する。
・灌漑用水の補給として、ダム下流約4km地点にある青森県公営企業局岩木川発電所を通 して流す。
・岩木川発電所において、最大出力1万1000kwの発電を行う。

 この目屋ダムの主なる補償関係は移転家屋89戸、土地取得面積約143ha、岩木川漁業補償等であった。
 移転家屋89戸の内訳は川原平地区3戸、砂湖瀬地区86戸であり、その当時は移転先地はズリ上がり方式であったのであろう。ダム周辺にほとんどが移転し、残りは弘前市へ移った。後で述べるが、ダム周辺に移転した人たちは、津軽ダムの建設に伴って再移転することになる。昭和35年当時は夢にも思わなかったことであろう。


4.米一握り運動

 目屋ダムが完成して半世紀が過ぎようとしている。小山内香純さんの作文「移転した人たちに感謝して」は、独立行政法人水資源機構監修「水登とともに(’07・10月号)」(水資源協会・平成19年)に掲載されていた。小山内さんの作文を読むと「補償の精神」が見えてくる。

「そんなダムのために、住みなれた家や土地、砂子瀬の文化や歴史など、今まで大切にしてきたものをすべて失わなければいけないのです。皆移転に反対しました。祖母も、祖母の家族や親戚の人たちも、猛反対しました。しかし下流の人たちは、何としても水不足や洪水の被害をなくしたっかったのです。そこで起こったのが「米一握り運動」でした。砂子瀬の人は我々のために移らねばならない。だからみんなで一握りの米を、砂子瀬の人に気持ちとして出そう。そう思った下流の人たちは、自分たちの食料も水不足で少ないなか、米を一握り持ち、砂子瀬の人に差し出したのです。津軽平野に住む全住民を対象にした運動でした。その気持ちが砂子瀬の人に伝わり、皆移転を承知しました。目屋ダムは、そんなたくさんの人のいろいろな思いがつまり、建設されたのだそうです。」

 ダム補償の解決の一要因には、水没移転者の精神をいかにしてつかみ、心よく補償に応じてくれるかであろう。ここ目屋ダムでは、受益者である下流の人たちの「米一握り運動」の拡がりが、水没地区の西目屋村川原平、砂子瀬集落の人たちの心を動かしたといえる。

 昭和34年当時の物価等を振り返ると、白米(2等10・)870円、かけそば35円、コーヒー60円、ラーメン50円、理髪料150円、たばこ(ピース)40円、教員初任給1万円であった。そのころの主食であった白米は貴重で、高価な食品であり、お金の代わりにもなっていた。

 繰り返すが、岩木川の下流域の人たちは、目屋ダムによって水害から減災される。そのことの感謝をもって「一握りの米」を水没者に差し出した。米一握りの義援金は150万円になったという。感謝の気持ちは一握りの米を通して「補償の精神」を強く表しているといえるだろう。


5.津軽ダム−再度の移転−

 小山内香純さんの「移転した人たちに感謝して」の作文を続けて読んでみる。

「しかし、そんな目屋ダムも、今じゃ公然と容量不足が指摘されているのです。そして新しく、津軽ダムが建設されることになったのだと教えてくれました。祖母は一度の移転ですみましたが、祖母の親戚の人たちは、移転に田代地区からもまた移転しなければいけなかったのです。しかも今度の移転によって、今までの、山に日々接し自然に囲まれてきた生活は困難になり、生活スタイルは変わってしまうのです。それなのに、この津軽ダムは、津軽地方の安全で豊かな暮らしを実現するための、大きな役割が期待されているのです。二度も大切にしてきたものを失わなければならなくなった田代地区の人の気持ちを考え
ると、決して水を無駄にしてはいけないのだと反省しました。」

 平成17年5月、岩木川の計画流量は五所川原基準点における目屋ダムの建設によって移転した人たちが、半世紀を経て、再び津軽ダムのため水没するとは皮肉である。

 最近の岩木川の洪水被害を追ってみた。
昭和50年8月浸水面積6243ha、浸水戸数 9330戸、死者1人
52年8月浸水面積8207ha、浸水戸数13684戸、死者7人
平成 9年5月浸水面積 718ha、浸水戸数   13戸、死者0人
16年9月浸水面積 452ha、浸水戸数   19戸、死者0人

 国土交通省は、平成17年5月岩木川の計画流量は、五所川原基準点における基本高水流量5500m3/Sと改定し、浅瀬石川ダム、津軽ダム等のダム上流群により1700m3/Sを調節し、計画高水流量3800m3/Sまで低減する計画とした。

 津軽ダムは目屋ダムの位置から後方60mのところに、堤高97.2m(目屋ダム58m)、総貯水容量1億4090万m3(目屋ダム3880.4万m3)で、平成28年度完成に向けて建設が進められている。

 このダムは6つの目的をもって造られている。
・ダム地点計画高水流量3100m3/Sを160m3/Sに調節する。
・既得用水の安全補給を行うほか、河川環境の保全を図る。
・岩木川左岸地区の約9600haの農地に対し、灌漑用水を補給する。
・弘前市に対し、新たに水道用水14000m3/日を供給する。
・五所川原市に対し、新たに工業用水10000m3/日を供給する。
・最大出力8500kwの発電を行う。

 このため津軽ダムの移転世帯は砂子瀬、川原平地区の併せて187世帯(620人)にのぼり、土地取得面積272haとなった。移転先地は、西目屋村内の田代地区へ53世帯、旧岩木町へ30世帯、弘前市へ33世帯が移った。移転する人たちはふるさとを離れるのに後ろ髪を引かれる思いであろう。このなかには50年程前の目屋ダム建設による移転から、再度移転せざるを得なかった世帯もあった。
 このとき「補償の精神」は、どのようなことがなされたのであろうか。


6.健全な水循環

 8月1日は水に感謝する日であることは、先に述べたが、目屋ダムで開発された水は家庭や工場等で使用されることによって必ず汚れる。その汚水は下水道へ流れ、下水処理場で浄化され、川へ排出され、それが最終的には海へ注ぐ。汚水を取り除く下水道の促進や水質保全を図る目的とした水に係わる記念日が制定されている。

 9月10日は「下水道促進デー」である。下水道に対する一般国民の理解と関心を深め、下水道の普及とその十分な活用を促進する日である。また10月1日は「浄化槽の日」である。浄化槽の普及促進を通じて、生活水準の向上、公共用水域の水質保全を図る日である。さらに10月1日から10月10日は「下水汚泥資源利用旬間」である。

 最後に、5月1日から5月31日、11月1日から11月30日は「水質保全強調月間」である。全国の河川、湖沼等が清潔な水環境のもとで、国民の健康と生活環境の保全を図る月間であり、水質浄化や水域美化の実践活動が行われている。

 水の循環は、水が蒸発して雲になり、雨を降らし、森をつたい、川へ流れ、海へ注ぎ、蒸発してまた雨を降らす。この循環のなかで、水は多様な生態系に様々な恩恵を与えてくれる。しかし、その反面人間の活動により水質汚濁等、水と川と海へ大きな影響を及ぼした。水と川と海の日の行事に参加することによって、日頃から水と川と海に対し尊敬、敬愛する心を忘れずに、21世紀にむけて健全な水循環の構築を図る必要がある。その健全な水循環の構築することこそ、小山内香純さんの「移転した人たちに感謝して」、「水を大切に」の意に沿うことになる。

  未来とは 涼しきことば 水もまた  原田耕二

(2009年10月作成)
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 (古賀 邦雄)
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