「そんなダムのために、住みなれた家や土地、砂子瀬の文化や歴史など、今まで大切にしてきたものをすべて失わなければいけないのです。皆移転に反対しました。祖母も、祖母の家族や親戚の人たちも、猛反対しました。しかし下流の人たちは、何としても水不足や洪水の被害をなくしたっかったのです。そこで起こったのが「米一握り運動」でした。砂子瀬の人は我々のために移らねばならない。だからみんなで一握りの米を、砂子瀬の人に気持ちとして出そう。そう思った下流の人たちは、自分たちの食料も水不足で少ないなか、米を一握り持ち、砂子瀬の人に差し出したのです。津軽平野に住む全住民を対象にした運動でした。その気持ちが砂子瀬の人に伝わり、皆移転を承知しました。目屋ダムは、そんなたくさんの人のいろいろな思いがつまり、建設されたのだそうです。」
「しかし、そんな目屋ダムも、今じゃ公然と容量不足が指摘されているのです。そして新しく、津軽ダムが建設されることになったのだと教えてくれました。祖母は一度の移転ですみましたが、祖母の親戚の人たちは、移転に田代地区からもまた移転しなければいけなかったのです。しかも今度の移転によって、今までの、山に日々接し自然に囲まれてきた生活は困難になり、生活スタイルは変わってしまうのです。それなのに、この津軽ダムは、津軽地方の安全で豊かな暮らしを実現するための、大きな役割が期待されているのです。二度も大切にしてきたものを失わなければならなくなった田代地区の人の気持ちを考えると、決して水を無駄にしてはいけないのだと反省しました。」