「吾等曽て満蒙の大陸に朔北の樺太に雄飛するも、敗戦の憂目に会い、再びは踏まずと誓いし故国の地に憔悴傷心を抱きて還る。本州最北、下北の深奥に住昔より斧鉞を知らざる原始林の地あり野平という。 吾等この地を三度青山の地と定め鍬を入れし者左の如し。 時正に昭和二十四年なり。 元満蒙開拓青少年義勇隊 五戸 元満州開拓団 山形団体 六十一戸 元樺太開拓者 十二戸 以来昼尚暗き原生林開拓に言語を絶する辛酸の日々を刻み、耕地となりたる後も、朝に星を頂き夕に月を仰ぎて耕す様は野平小中学校の校歌に歴然たり。 入植二十年にして漸く生計の基礎成りたるも、折しも国の勧める経営適正化に伴う離農助成策に、前途に光明を見ることなく、止むなく離農せる者四十二戸あり、寂として声なくこの地を去る。 残れる三十六戸、変転する農政下に愈々志を固くし畜産に畑作に協業共同経営化を推進し、大いにその実を上げ将来を展望せむとする時、たまたま川内ダム建設の議成り、朝野挙げてその完成を期さむとす。紆余曲折を経たるも、吾等野平住民は三十年に亘る艱難辛苦の地と汗の滲む青山の地を未来永劫に湖底に沈むるは真に忍びざるものあれど、川内町勢伸展の大義に涙をのみて同意せるものなり。 今吾等それぞれに新転地を得て野平開拓三十年の歴史を閉じるにあたり、蔭に陽に温情支援を賜りし関係各位に万腔の感謝を捧げ今後にその恩義に報えむことを心に誓う。 いつの日にか満々と水を湛え、吾等開拓民の苦闘の跡を鎮める山上の湖畔に往時を忍ぶよすがと、併せて野平に住せし三十六戸の開拓魂を留め、この碑を建立する。 昭和五十六年 盛夏」