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文献にみる補償の精神【34】
「艱難辛苦の地と汗の滲む青山の地を
未来永劫に湖底に沈むるは
真の忍びざるものあれど」
(川内ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1.下北半島の名勝

 青森県下北地域は本州最北端で斧の形をした半島を成しており、恐山や仏ケ浦など特異な風景をかもし出す。

 恐山は比叡山、高野山とともに日本三大霊場に数えられ、周囲を蓮華八葉にたとえられるように8つの外輪山に囲まれた宇増利山湖がある。7月には恐山大祭、10月上旬には恐山秋詣りが行われ賑わう。また仏ケ浦は長年の波浪と風の浸食によって緑色凝灰岩が大小様々な仏像・仏具に形づくられ奇岩奇石海岸が約1.5kmにわたって続いている。

 ヒバは県木となっているように津軽半島と同様に生育地である。ヒバは秋田のスギ、木曽のヒノキとともに日本三大美林と呼ばれている。

 下北地域の中心地むつ市(人口6.6万人)は下北半島全域の交通の要街である。この地域では、稲作農業、酪農、漁業、林業における第一次産業が盛んで大畑町では水産加工、製材所の工場が発達してきた。


2.川内川の流れ

 下北半島の河川は、川内川、宿野部川、奥戸川、大畑川、正津川、新田名部川などが流れている。下北半島で一番大きな川内川は、南西部に位置し、その源を縫道石山(標高626m)に発し、野平開拓地を通り途中矢櫃川、中川を合わせて東流し、畑地点にて支川湯の川と合流して南流し、さらに安部城に至り平野部に入り、中小渓流を合流しながら川内町を貫流し、陸奥湾に注ぐ流路延長30.9km、流域面積203.4km2の二級河川である。川内川の水利用は古くから行われ、灌漑用水および発電等に利用されている。

 川内川上流の洪水は前線性の降雨が主であり、特に停滞前線による集中豪雨が多い。また台風による水害発生頻度も高い。流域の平均年間雨量は2000mmをこえる多雨地域であり、年平均気温は6.8℃である。


3.川内川の水害

 川内川の殆どは、原始河川のままで連続雨量50〜80mmで河川は氾濫し、古くよりたびたび被害を受けており昭和41年4月の集中豪雨で家屋浸水568戸、昭和43年8月豪雨により家屋浸水627戸、水田冠水220ha、昭和44年8月台風9号で家屋浸水425戸、水田冠水380ha、被害総額924百万円の被害となった。さらに昭和45年台風9号により被害総額48百万円、昭和46年10月被害総額130百万円、昭和47年7月被害総額59百万円、昭和48年9月被害総額334百万円等、毎年のように氾濫を繰り返してきた。

 このため、川内川河口から上流1.0kmを昭和46年度から小規模河川改修事業、その上流6.0kmを56災害復旧助成事業等の治水事業により地巣安全度の向上が図られてきた。だが、川内川は臨海山村のため平地部が少なく、加えて最近の川内川沿川の高度な土地利用の状況および開発整備の必要性から、抜本的治水対策を地元民より強く要請されていた。

 そこで計画規模を現行の超過確率1/30から1/60と治水安全度を高め、最近の降雨量も加えて、安全度を見直した結果、基準点(川内橋)において、基本高水流量が現行1100m3/secに対して1370m3/secに改正された。しかし、本河川の沿川は、耕地、市街地として高度に利用され用地の再取得は極めて困難な状況であり、このため、河川改修事業と相まって、上流部に川内ダムを設置し、洪水調節をはかるのが最も意義があり、かつ経済的であった。

 また川内川は、沿川の耕地等に対する水源として広く利用されているため、不特定用水の補給を行い流水の正常な機能の維持をはかる必要もあった。以上川内川の水害については、青森県土木部編・発行『青森県土木五十年史』(平成12年)を参考、引用した。


4.川内ダムの建設

 前述のような必要性から、川内ダム(かわうち湖)は川内川の青森県下北郡川内町大字板家戸、副浦地先に昭和48年から20年の歳月を経て平成5年に完成した。この建設記録として、青森県むつ土木事務所編『川内ダム工事誌』(青森県・平成7年)がある。この書から川内ダムの目的、諸元、補償について追ってみる。

 その目的は、

・ 洪水調節は自然調節方式とし、ダム地点における計画高水流量370m3/Sのうち、335m3/Sを調節し、35m3/S(最大50m3/S)を放流する。これに要する調節容量は950万m3である。

・ 既得用水の補給および流水の正常な機能の維持と増進をはかるため、川内頭首工下流基準点において、1.371m3/Sを確保することとし、これに要する容量は500万m3を利用して補給する。
 なお、川内川沿岸下流の水田161.2haの灌漑用水は川内頭首工により、代掻期0.821m3/S、通常期0.544m3/Sを取水する。

・ 東北電力岩谷沢発電所では、最大使用量3.34m3/S(通常使用量1.67m3/S)でもって、最大出力800KWの発電し、また、管理用発電と洪水調節や維持用水の放流を利用し、最大出力260KWを発電する。

 次に、ダムの諸元は堤高55m、堤頂長137m、堤体積9.3万m3、有効貯水容量1450万m3、総貯水容量1650万m3、型式は直線重力式コンクリートダムである。起業者は青森県、施工者は熊谷組、清水建設、日本国土開発共同企業体、事業費は202億円を要した。なお、主なる補償関係は土地取得面積92.4ha、移転家屋36戸、漁業権であった。移転家屋は36戸であるが、川内町では水没11戸、過疎地域集落再編成事業8戸、佐井町少数残存者17戸の内訳で、移転先は袰川新住区28戸、川内本町1戸、むつ市6戸、青森市1戸となっている。


5.36戸の移転世帯

 川内ダム建設に伴う集落移転の方法については、川内町の11戸は水没者のため損失補償で移転し、8戸は過疎地域集落再編事業により、残る佐井村の17戸は少数残存者損失補償で移転した。昭和56年7月15日離村式が行われ、36戸全戸は野平の地を去った。ここに36戸の移転世帯の名を掲げたい。

1)川内町の水没移転補償
 安達千代太、阿部宗市、五十嵐貞作、大泉吉郎、押切秀哉、工藤昭之助、工藤武智衛、斉藤慶三、鈴木亘、高橋芳美、横沢又寿さんの11名である。

2)川内町の過疎地域集落再編成事業補償世帯
 青山昭三、小林五郎、斉藤好七、佐藤学、菅野辰衛、茶木春雄、水戸政夫、結城幸蔵さんの8名である。

3)佐井村の少数残存者損失補償世帯
 阿部清四郎、奥山長三郎、小田徳太郎、鴨田三雄、軽部正三郎、草刈春雄、越野勇造、小林章介、坂尻博、佐藤忠夫、鈴木悦雄、鈴木政雄、須田はるこ、茶木一美、成田徳蔵、芳賀ミツ、水戸重次さんの17名である。


6.野平・留魂の碑

 昭和56年7月15日、移転者36世帯の離村式に先立ち、野平地先に次のような「留魂の碑」が建立された。野平入植から離村に至るまで年月を忍ぶものであるが、それは辛酸の日々であったと言える。

「吾等曽て満蒙の大陸に朔北の樺太に雄飛するも、敗戦の憂目に会い、再びは踏まずと誓いし故国の地に憔悴傷心を抱きて還る。本州最北、下北の深奥に住昔より斧鉞を知らざる原始林の地あり野平という。
 吾等この地を三度青山の地と定め鍬を入れし者左の如し。
 時正に昭和二十四年なり。
  元満蒙開拓青少年義勇隊   五戸
  元満州開拓団 山形団体 六十一戸
  元樺太開拓者       十二戸
 以来昼尚暗き原生林開拓に言語を絶する辛酸の日々を刻み、耕地となりたる後も、朝に星を頂き夕に月を仰ぎて耕す様は野平小中学校の校歌に歴然たり。
 入植二十年にして漸く生計の基礎成りたるも、折しも国の勧める経営適正化に伴う離農助成策に、前途に光明を見ることなく、止むなく離農せる者四十二戸あり、寂として声なくこの地を去る。
 残れる三十六戸、変転する農政下に愈々志を固くし畜産に畑作に協業共同経営化を推進し、大いにその実を上げ将来を展望せむとする時、たまたま川内ダム建設の議成り、朝野挙げてその完成を期さむとす。紆余曲折を経たるも、吾等野平住民は三十年に亘る艱難辛苦の地と汗の滲む青山の地を未来永劫に湖底に沈むるは真に忍びざるものあれど、川内町勢伸展の大義に涙をのみて同意せるものなり。
 今吾等それぞれに新転地を得て野平開拓三十年の歴史を閉じるにあたり、蔭に陽に温情支援を賜りし関係各位に万腔の感謝を捧げ今後にその恩義に報えむことを心に誓う。
 いつの日にか満々と水を湛え、吾等開拓民の苦闘の跡を鎮める山上の湖畔に往時を忍ぶよすがと、併せて野平に住せし三十六戸の開拓魂を留め、この碑を建立する。
   昭和五十六年 盛夏」


7.補償の精神

 この碑文によると、「戦前、満州や樺太に移住するが、敗戦によって故国の地を踏み、昭和24年下北半島を開拓するも、入植20年にして国の勧める農業経営適正化に伴う離農政策によって止むなく42戸が離農、残36戸も川内ダムの建設により移転せざるを得なかった。」とある。国の政策によって二転三転して移転する、断腸の想いがこの碑に重く刻まれている。

 再度繰り返すが、「たまたま川内ダム建設の議成り、朝野を挙げてその完成を期さむとす。紆余曲折を経たるも吾等野平住民は30年に亘る艱難辛苦の地と汗の滲む青山の地を未来永劫に湖底に沈むるは忍びざるものあれど、川内勢伸展の大義に涙をのみて同意せるものなり。」とある。

 ここに川内勢伸展の大義に涙をこらえ同意に至るまでの36世帯の「補償の精神」の苦しみが現れている。ダムを造る側にとっては、ダムを造られる人々がすべて、幸せになって欲しいと、常に心に懐いているものだ。前掲書『川内ダム工事誌』のなかに移転者の36世帯ご芳名を記し、ダムを造る側からの感謝の念を率直に表していると言える。これからの工事誌の作成では必ず水没者を含めた移転者のの方々の名を記すべきであろう。なぜなら、ダムは造られる側と造る側との協働によって完成するからである。


おわりに

 川内ダム建設に伴って、野平〜畑集落間11kmの町道がその後県道に昇格し、ダムの付替県道工事とともに野平〜畑集落間の道路改良事業も進められ、現在では下北半島観光ルートの大動脈となった。また、ダム事業に伴い付替えられた長後川内線の板家戸大橋南東詰に川内ダムの環境整備事業により「レイクサイドパーク」が設けられ、このなかに「野平高原交流センター・レイクハウス」が川内町により建てられ、川内町の特産品の販売、軽食、休息コーナーが設けられた。また、近くには日本における川柳の第一人者時実新子の文学碑も建立されており、下北半島の代表的な観光地である恐山と仏ケ浦の中継地点の役割を果たしている。平成6年から10月に、川内ダムを会場として「川内町高原まつり&ベコまつり」が開催されるようになった。

 なお、平成17年3月川内ダムは、ダム水源地整備センターによる『ダム湖百選』に選ばれている。

 川内ダムは本州の最北端に位置するが、現在、青森県施行の奥戸ダム(奥戸川)が建設中であり、このダムが完成すれば、その位置を譲ることになる。

   初恋の 人も去りゆく ダムの春 (吉永貞志)

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(2007年4月作成)
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 (古賀 邦雄)
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