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文献にみる補償の精神【28】
「そこで、村長は、自らの写真を人柱として
土手の下に埋めたのです」
(大谷池・愛媛県)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1.伊予の国、松山藩

 JR松山駅に降り立つと、正岡子規の「春や昔十五万石の城下哉」の碑を仰ぐことができる。加藤嘉明が統治した伊予松山藩は実際の石高は20万石であったという。江戸時代は米の生産高が藩力を支えていた。家老足立重信は、普請奉行として、松前城から仕え、松前城の南を流れる伊予川(重信川)を下流12km北側へ付替えた。さらに松山城を築く際、勝山を流れる石手川を岩堰地点で南に変え、南西方向に8km開削し、重信川の出会い地点で合流させた。この2つの河川改修によってかんがいの便を来たし道後平野 300haの新田が開発された。足立重信の功績を讃え、伊予川は重信川と呼ばれるようになった。

 近代国家を歩むわが国は、明治以降も食糧の増産は最大の課題であり、そのためには、なによりもかんがい用水の確保と管理を必要とした。愛媛県中予地方の大谷池の築造を追ってみたい。


2.大谷池(大谷川)の建設

 愛媛県では大谷川という名の川は18もみられるが、この大谷川は上流端を伊予市上三谷建石にあって、八反地川を併合し、伊予灘に流出する延長8.39kmの二級河川である。大谷池はこの大谷川に昭和20年3月、愛媛県営用排水改良事業として、伊予市南伊予地点に完成した。現在の諸元は堤高35.3m、堤頂長 164m、堤体積35.5万m3、総貯水容量 175.9万m3で型式はアース式である。

 伊豫郡大谷池土地改良区・発行『大谷池 築造五拾周年記念誌』(平成6年)には、その構造から竣工までの経過、工事に貢献された人々のことが述べてある。大谷池の関係区域は南伊予、北伊予、郡中、松前町の一部であるが、毎年のように干害と水害に悩まされてきた。大正11年大干ばつ、12年に大水害に見舞われ、特に昭和5年の大干ばつは稲は枯死し、一望焼け野原のようであったという。この惨状をみかねて南伊予村長武智惣五郎は私財を投入し、大谷池築造に取り組んだ。昭和6年伊予郡南伊予村3ケ町村用排水改良事業として工事はスタートしたものの、昭和9年室戸台風で仮締切り、床堀りなど基礎工事が流失し埋没してしまった。また岩質がもろく、セメントグラウトの漏水防止に苦労、工作機械もなくほとんど人力施工、着工まもなく、日中、太平洋戦争に突入し、労務者と資金不足、そして昭和17年工事は愛媛県営事業に移行した。だが村民の奉仕的な作業が続き、述べ人数37万3000人を擁し、苦難を乗り越え昭和20年4月竣工式を迎えた。補償関係は水没家屋移転7戸、水没面積約16haである。残念なことは、この工事において、土砂運搬作業中崩壊してきた土砂の中に埋まり3人の尊い命を亡くした。

 大谷池の築造によって、35haの新たな水田が開かれた。さらに、昭和37年大谷国有林72haの払下げを受け、昭和40年道前道後農業水利事業に伴う調整池となり、昭和42年干ばつのときには面河ダムから導水された経過がある。武智惣五郎らの先人たちの尽力によって、戦前に造られた大谷池は愛媛県の誇るダムのひとつである。


3.大谷池の水没補償

 前掲書『大谷池』に、水没補償について次のように記されている。

【 地域の住民を災害から守り、あるいは生活を保障するための大谷池を造成するには、その陰に、永年住み馴れた家屋敷、永年耕して来た田・畑を犠牲にして、提供しなければならない人々のあったことを忘れることはできない。
 住居を移転しなければならない家庭が七戸あった。
 家屋移転という大変なご迷惑をおかけした七戸の戸主は次の方々である。(敬称を省く)
  上三谷古池ノ内四0二九番地    水口長五郎 
  上三谷大字建石四一0四番地    林 儀太郎 
  原町村大字七折字大谷三八八番地  曽根 亀吉 
  原町村大字七折字大谷三七二番地  平田 谷次 
  原町村大字七折字大谷甲三七0番地 竹内 美坂 
  原町村大字七折甲三七二番地    橋本長五郎 
  原町村大字七折甲三六九番地    小笠原鶴一 
 この方々が居住家屋から立ち退くことを承知していただかなければ、いかに地域の多くの人々のためとは言え、この造成は不可能であった。】

 このように、大谷池土地改良区は水没者7名の方々に大谷池築造に関し心から感謝と敬意を表している。


4.工事犠牲者の補償

 前述したが、工事で亡くなった3名に対し、次のような扶助料支払い、供養塔を建立している。少し長いがそのまま『大谷池』から引用する。

【 長期にわたる大谷池築造工事中に、不幸にして不慮の事故に遭い、若く尊い生命を捧げた方が三名あった。どの方も地元出身で前途有為の青年であり、家族の皆様の悲しみいかばかりであったかと心から痛惜の念に堪えない次第である。
 用排水改良工事組合では、この三名の事故の度に直ちに役員会を開き協議の結果、遺族に対する扶助料その他を次の通り決定し支出して遺族に贈呈した。
 但し、大谷池工事は昭和一七年以降、県直営となったので丸橋貫一殿(昭和一八年死亡)の遺族扶助料等は、不詳である。
一、労働者災害扶助法施行令第八条及び第十五条第一項第三号に依り遺族扶助料として金弐百八拾八円を支出すること。
二、労働者災害扶助法施行令第九条及び第十五条第一項第三号に依り葬祭料として金参拾円を支出すること。
三、他に弔慰金として金壱百円を支出すること。
 ここに、この尊い工事犠牲者三名の住所・氏名と当時の年齢等を記し、深い感謝をこめて永遠の御冥福を祈りたい。
伊予郡南伊予村上三谷平松(現在伊予市上三谷)
 故高橋進平殿  当時一九歳
 昭和一0年一二月二日、大谷池築堤工事現場において、土砂運搬作業中崩壊して来た土砂の中に埋まり、そのまま死亡した。
伊予郡南伊予村上野下郷(現在伊予市上野)
 故水口勝吉殿  当時二0歳
 昭和一一年五月九日正午頃、大谷池築堤工事現場において、土砂運搬作業中突然崩壊して来た土砂に逃げおくれたため下半身生き埋めとなり、居合わせた人たちに助け出されたが瀕死の重傷で、直ちにタンカで自宅まで連れ帰られたが、間もなく死亡した。
伊予郡郡中村米湊(現在伊予市米湊)
 故丸橋貫一殿  当時四0歳
 昭和一八年三月七日午前八時頃、大谷池築堤工事現場において、土砂運搬作業中突然崩れ落ちて来た土砂に全身生き埋めとなり、幸いにも周囲の人の必死の救出で一命は取り止めたかと思われたが、翌三月八日遂に死亡した。
 翌昭和一九年になって右の殉職者三名の供養塔建設の議が起こり、大谷池堤防の西端龍王社社殿の側面に石碑を建て、その霊を永遠に祀ることとした。この碑の入魂式が昭和一九年一二月二四日しめやかにかつ厳粛に行われた。】

 このように工事の犠牲者に対し、起業者は遺族に対し、扶助料を支払い、さらに供養塔を建立し、その霊を祀っている。公共事業に係わるダムや水路の建設を纏めた「工事誌」や「事業誌」には、水没者と工事犠牲者のご芳名は、ほとんど記されていない。
 これから編纂される工事誌等には明確にご芳名を記すべきであろう。このことはただ単なる財産補償だけでなく、感謝と敬意を表す「補償の精神」につながっているからだ。


5.武智惣五郎−補償の精神

 大正10年武智惣五郎は南伊予村長に就任する。翌年南伊予村地方は大干ばつに見舞われた。これまで、たびたび大谷川の上流と下流の田畑では、水をめぐり、紛争がおこり大乱闘に及んだ。武智は私財を投入し、大谷川の上流にかんがい施設の設置のため東奔西走するものの、はじめは村民たちは冷やかであった。

「農民は金を取られるだけだ。その上水は少々しか来んぞ。」
「太陽が西から出たりしないように、低い所から高い所へ水が流れてきたためしはないぞ。」とささやかれた。

 昭和3年武智惣五郎は、父から「これはお前一代の仕事じゃ、大谷池はやらにゃあいかん、やれ。」と激励された。

 この父の言葉と「成否は固より天にあり、吾れ死すとも辞せず」の精神が、大谷池築造の完成まで突き進んだ。日中、太平洋戦争に突入、労力、物資が不足し、工事の苦難が続く。先述したように工事の犠牲者が3名出ている。伊予市上野の栗田宗明さんは、その当時、工事に従事した想い出として、
「そこで、村長さんは自からの写真を人柱として、土手の下に埋めたのです」と述べている。

 ここに武智惣五郎の「補償の精神」をみることができる。
 自分の写真を人柱として土手に埋めた、この行為はあくまでも大谷池の竣工に、財産だけでなくわが生命までも投げ出した。水の神、池の神、竜王に「わが生命」を捧げ、工事の完成を祈った。


6.おわりに

 平成8年農林水産省構造改善局の調査では、わが国のため池数は63,591基、総受益面積 122万5882ha、有効貯水量29億9971.2万m3となっている。(豊田高司編『にっぽんダム物語』 (山海堂・平成18年) )

 これらのため池の築造には、必ずや大谷池と同様、武智惣五郎のような先人の尽力、土地提供者、工事の犠牲者らの多くの人たちの苦難の足跡を辿ることができる。

 愛媛県のため池数は昭和28年度において5137基、その後急速な都市化が進み、兵制元年度では3396基に減少した。(内田和子著『日本のため池』 (海青社・平成15年) )

 ため池の減少は、治水力を弱め、地下水の低下、都市水害など水環境の悪化を招いている。

 地球温暖化の影響であろうか、地域によっては異常豪雨、異常渇水に見舞われている。これ以上、貴重な財産のため池を埋めるてはならない。治水、利水、親水として、重要な役割りをもつため池を再評価し、その地域における水環境の改善を図る時代だ。ため池を埋めるとなれば、築造を図った先人たちの尽力も無となってしまう。

[関連ダム]  大谷池
(2007年4月作成)
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