第二次世界大戦中、ウェーキ島の米軍俘虜が相当貯水池の建設工事の使役に服した。人情豊かな当時の柚木村の人たちは何かと彼等を世話して非常に感謝されていた。こられ俘虜のうち、不幸にも死亡した54名の兵士のために墓碑建設の話が進んでいたとき、たまたま朝鮮動乱で韓国にいる夫を見舞っての帰途立ち寄った一米婦人があった。これは貯水池の使役で死亡した父の霊を慰めるためで、当時の関戸村長は案内して当時の模様を伝えたところ、感ひとしおのものがあったのであろう。その場に立ててあった簡単な碑に敬けんな祈りを捧げた。その姿はまことに神々しく、胸に打たれるものがあったと関戸村長は洩らしている。 このことがあって同村長の熱心な努力もあり、この慰霊碑建立の実現となったのである。慰霊碑は1.5mの二段の台座に高さ4mの鉄管を型どったコンクリート塔で水道創設(明治36年)以来の殉職者名とともに、この地に散った54人の名を刻み、その安らけきを祈り、あわせて永遠の平和を願うことになったのである。