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文献にみる補償の精神【52】
「その場に立ててあった簡単な碑に敬けんな祈りを捧げた」
(相当ダム・長崎県)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1. 佐世保市水道の現状

 長崎県佐世保市内、弓張岳から眺める九十九島の風景は素晴らしい。その眼下には佐世保港が見える。誰もが入り込んだ湾の中にある佐世保港を良港だと認めるであろう。この良港が明治政府によって鎮守府に選ばれてのは当然の結果であった。

 わが国は明治以降各海軍区の警備、防御、所管の出征準備に関することを司り、所属部隊を指揮監督する海軍の機関として、鎮守府4ヶ所が横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各軍港に設置された。
 佐賀県佐世保に第3海軍区佐世保鎮守府の開庁は明治22年であった。当時3400人の寒村佐世保村は一躍5万人あまりの都市に膨張し、明治35年市政を施行した。さらに佐世保市は順次周辺の町村を合併し、30万人の都市に発展、昭和20年8月太平洋戦争の敗戦によって人口は14万人に激減した。平成20年7月現在人口は25万3千人を擁している。

 このような人口の急速な変動は佐世保市の水道事業の拡張と重なるが、それはダム建設の歴史でもあった。次のようにその歴史を追ってみた。

明治33年海軍による岡本ダム竣工
41年海軍による山の田ダム・浄水場竣工
大正15年山の田第二浄水場竣工
昭和3年海軍による、転石ダム竣工
15年佐世保市による菰田ダム竣工
19年海軍による相当ダム竣工
20年海軍、佐世保市の二本立ての水道運営が市に一本化
31年川谷ダム竣工
42年集中豪雨で災害
43年下の原ダム竣工
44年広田浄水場第一期工事竣工
63年転石ダム浚渫
平成6年給水制限213日間
7年南北水系融通配水池施設竣工
8年川棚川からの暫定豊水取水施設完成
9年「水を大切にする日」を創設
小森川取水安定施設完成
12年山の田ダム堤体改修
18年下の原ダム再開発事業竣工

 佐世保市で一年間の水道使用量は約3000万m3で市内の六つのダムの貯水量は557.5万m3で、一日の使用水量は平均して約8万m3で夏の日は約10万m3にもなる。佐世保市における一年間の水道使用量約3000万m3の配水量の水源は地下水や大河川がないため、小河川を上流で締め切ってダムに貯水しているが、それでも不足するので隣接町の川から取水しているのが現状である。

 その水源の内訳はダム貯水分52.9%(川谷ダム 14.5%、菰田ダム 8.5%、下の原ダム 11.7%、山の田ダム 7.2%、相当ダム 6.8%、転石ダム 4.2%)で、河川水 46.2%(相浦川ほか 33.2%、川棚川 13%)となっている。


2. 相当ダムの建設

 第3海軍区が施工したダムは岡本ダムをはじめ山の田ダム、転石ダム、相当ダムにみられる。
 長崎市の水道ダム本河内高部ダム、本河内低部ダムの設計施工に当たったのは吉村長策博士で、博士は佐世保市においても、明治32年軍港水道の計画と設計施工を担当している。山の田ダム、浄水施設、配水管の設計並びに佐世保市上水道の基本計画を立てた。これによって佐世保市の水道が初めて各戸に給水が可能になり、近代都市水道のスタートであった。長崎市より10年後のことで、吉村長策博士は佐世保市水道の始祖として崇められている。

 永元為市著・発行「佐世保と水」(昭和56年)は佐世保市における水道とダムに関して詳細に網羅された書である。著者は昭和7年佐世保市水道局に勤務以来、昭和46年退職の間、佐世保市の発展に尽くした。この書から相当ダムの建設を追ってみた。

 相当ダムは昭和16年2月、米英に宣戦布告する前の臨戦体制の中で起工された。ダムの設計施工の主任者は海軍技師中村清人であった。当時このダムをもって軍港水道の最後のダムになろうとは唯一人として関係者は夢想だにしなかったという。

 相当ダムは元柚木村相当を流れる相浦川の支流牟田川の上流、下岳免と相当免地先に建設された。ダムの諸元は堤高34m、堤頂長150m、貯水容量40万m3、型式重力式コンクリートダムである。ダムは昭和19年7月戦争遂行のための突貫工事によって堰堤堤頂手摺の仕上げを残し、湛水を開始し、竣工の形がとられた。


3. 相当ダムのエピソード

 いくつか相当ダムの建設に関するエピソードを挙げてみたい。

@ 昭和18年、既に激しい統制経済下にあって鋳鋼材をはじめ全ての物資は民需のみならず軍需も乏しかった。

A 相当ダムの施工用のシューチングタワー等の機械は佐世保市所有の菰田ダムに使用したものをそっくり用いられた。

B 戦前のダム工事は、コンクリート用材の配合仕方が異なる点や機器類の不備で沢山の労務者を要した。

C 軍は内地における労働力の不足を補うため南方戦線より米兵の俘虜を徴し、相当ダムの工事現場には200人ほどが充てられていた。南方からの俘虜は野球選手のような背番号をつけられ、慣れない風土と闘いながらダム工事に従事した。柚方の寒冷に耐えられなかった54人が羅病ののちに最後を遂げた。

D 昭和20年8月太平洋戦争は日本の敗戦によって、終止符がうたれ、工事中の俘虜病没者54人は、戦中仮埋葬された場から米軍の手によって発掘され、その遺体は無言の帰国となった。

E 佐世保市は相当ダム敷地内に昭和31年4月勇士54人の霊を弔い、他のダム工事での日本人の殉職者を含めて合祀し、佐世保市水道殉職者慰霊塔を建立し、それぞれの氏名を記し、祭礼されている。


4. 慰霊塔の建立

 日本水道協会編・発行「日本水道史各論V(中国、四国、九州編)」(昭和42年)なかで、相当ダム建設に従事した俘虜のことが、次のように述べられている。

 第二次世界大戦中、ウェーキ島の米軍俘虜が相当貯水池の建設工事の使役に服した。人情豊かな当時の柚木村の人たちは何かと彼等を世話して非常に感謝されていた。こられ俘虜のうち、不幸にも死亡した54名の兵士のために墓碑建設の話が進んでいたとき、たまたま朝鮮動乱で韓国にいる夫を見舞っての帰途立ち寄った一米婦人があった。これは貯水池の使役で死亡した父の霊を慰めるためで、当時の関戸村長は案内して当時の模様を伝えたところ、感ひとしおのものがあったのであろう。その場に立ててあった簡単な碑に敬けんな祈りを捧げた。その姿はまことに神々しく、胸に打たれるものがあったと関戸村長は洩らしている。
 このことがあって同村長の熱心な努力もあり、この慰霊碑建立の実現となったのである。慰霊碑は1.5mの二段の台座に高さ4mの鉄管を型どったコンクリート塔で水道創設(明治36年)以来の殉職者名とともに、この地に散った54人の名を刻み、その安らけきを祈り、あわせて永遠の平和を願うことになったのである。


5. 補償の精神

 ダム建設には様々な葛藤や確執が必ず生じるものである。相当ダムの場合はアメリカ捕虜200人が強制労働を強いられた。その当時のダム建設は現在のダム技術、資材、機器類などを比較すると、全てが貧弱であり、土工等の多くの労働力が大きな役割を果たしていた。こういう状況でのダム造りに、残念ながら54名のアメリカ兵が命をおとした。異郷の地に重労働を強いられ、寒さと飢えに死んでいった。

 昭和31年4月、山中辰四郎市長の筆による「佐世保市水道殉職者慰霊塔」が相当ダム敷地内に建立された。この建立には、アメリカ婦人の「敬けんな祈り」を捧げた姿に、関戸村長が心をうたれ、碑の建設のために東奔西走された結果だ。ここに補償の精神が貫かれているようだ。


6. おわりに

 生活用水の1人1日平均使用量は約300?であるが、いったん、水不足が生じると、日常生活に大いに支障をきたすことになる。即ち、少雨傾向が続き渇水ともなれば、給水制限がなされるからだ。
時間給水にはいると、先づ水をくみおきしとかなければならない。核家族、共稼ぎ、老人世帯の増加により、家事労働力も減少しており、思うようにできないのが現状であろう。また、風呂や洗濯の回数も減って不衛生である。

 少雨傾向が長びくと大きな河川のない佐世保市においても、たびたび給水制限がなされてきた。最近では日本列島渇水と呼ばれる、平成16年8月1日〜17年3月5日までの213日間、さらに平成19年11月23日〜20年4月30日までの159日間の長い間、給水制限がなされ、市民生活に支障となった。

 今年の夏も給水制限の可能性が生じそうだ。佐世保市の6つのダムと小河川の水源に、佐世保市民253000人の命が左右されていると言えるだろう。

 このようなことを考えると昭和19年前後、相当ダム建設に重労働力を強いられたアメリカ捕虜200人、そのうち死者54人のことを想い出さざるを得ない。

[関連ダム]  相当ダム
(2009年8月作成)
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