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文献にみる補償の精神【47】
「村造りを良くし、文化水準を高めること」
(井川ダム・静岡県)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1. 大井川の流れ

 良好な河川とはどのような状態であろうか。それは水量が豊富で水質がよいこと。上流からの土砂が海まで流れ、白砂青松を形成していること。川は上下に連なっており、分断されてないこと。そして瀬と渕をつくり、蛇行を繰り返し多くの動植物が生息していることである。

 川は常に変化する。自然現象や人工的な改変によって変化する。
 現在、新幹線から大井川を眺めると、極端に流量が少ないため河川敷は砂に覆われ、わずかに中央に水が流れているに過ぎない。

 江戸期の大井川は滔々と流れていた。東海道五十三次中23番の宿場が島田宿で、島田宿から大井川を越え、金谷宿まで約1里の距離になる。東西の国へ向かっての旅は、必ず駿河、遠江の国堺大井川を越えねばならない。大井川は戦略上江戸城の外堀りともいわれ、架橋することも通船することも禁止された。大井川を渡る川越制度は元禄9(1696)年に確立、川合所が島田宿に設置され、川庄屋が管理するようになった。

 大井川の常水は2尺5寸(約76cm)と定められ、この深さでは馬越しは可能で、常水よりさらに1尺5寸(約45cm)増水の4尺(1.2m)のときは馬越しは禁止、歩行越しのみとなり、水深が5尺(1.5m)をもって川留めと定められた。大井川以外の橋のない川は東海道53次では酒匂川、興津川、安倍川、瀬戸川、草津川であった。


2. 大井川のすがた

 大井川は、静岡県中央部を南北に貫流し、その源は3000m級の南アルプス山岳地帯の静岡県最北端、間ノ岳(標高3189m)に発し、途中山間部を蛇行しながら、寸又川長尾川、笹間川、家山川、大代川等多くの支川を合流し、島田市向谷付近で山間地を出、この地点から大井川平野20┥ほどを経て、駿河湾に注ぐ、流域面積1280km2、幹線流路延長168kmのー級河川である。

 地形、地質は、西南日本構造線と赤石山地の東界、糸魚川ー静岡構造線に挟まれ、地質条件は脆弱であり、とくに上流部では、著しい急勾配の地形となっているため崩壊地は2500カ所を越え、膨大な土砂を供給している。大井川流域は、降水量が上流域で年平均3000mm、下流域で2000mmであり多雨地帯といえる。流域地帯は常に水害に悩まされてきた。一方、このような多雨地帯の豊富な水資源は明治期から積極的に水力発電に利用されてきた。また島田市、藤枝市などの水道用水、工業用水にも利用されており、大井川の水は多くの人々に恩恵を与えている。だがこのような水力発電などによる水利用のため逆に大井川は水がほとんど流れずに荒廃化している。


3. 井川ダムの建設

 大井川流域の産業の発達はまず金鉱石、木材であり、茶であり、さらに近代化をもたらした水力発電である。大井川水系の水力発電は明治43年小山発電所建設から始まっているが、ダム技術の向上によって本格的なハイダムが築造されたのは戦後であり、その最初は井川ダムである。

 井川ダムは、大井川上流の接岨峡入口にあたる静岡県安倍郡井川村井川(現・静岡市葵区井川地区)に水力発電を目的として、中部電力(株)によって昭和32年9月に完成した。ダムの諸元は堤高103.6m、堤頂長243.0m、堤体積43万m3、総貯水容量1億5000万m3、最大出力6万2000kw、型式は日本初の中空重力ダム、事業費163億円、施工者は(株)間組である。


4. 井川ダムの補償

 井川ダムでは、井川村総戸数550戸のうち35%にあたる193戸の移転家屋を生じている。その補償の特徴として、いままでの金銭補償より代替補償を重視し、積極的に新しい村造りが行われたことである。その補償解決を前進させた要因は、斎藤寿夫静岡県知事が井川村の要請に基づく、次の補償三原則を受け入れたからである。

 第一に、村民の永年に亘り、希望する文化の障壁となる大日道路をダムの完成までに隧道として貫通させること。
 第二に、村造りを良くし、文化の水準を高めること。
 第三に、村民の納得する個人補償の完遂、現在を上廻る民生の安定を図ること。

 この三原則は、昭和33年3月大日道路と匹敵する井川林道が完成した。陸の孤島といわれた井川村は富士見峠を越えて静岡市まで2時間で結ばれるようになった。このとき多数の土地所有者が林道用地を無償にて提供し、協力を行っている。

 一方、新しい村造りについては、宅地造成、耕地造成は勿論のこと、井川小学校、井川中学校の移転、プールの新設、神社合祀移転、簡易水道の敷設、巡査駐在所の新設、火葬場の新設、共同墓地の造成、さらには井川大橋の架橋、村内道路が整備された。いままで稲が育たなかった井川村に造成された標高800mの水田から反当たり6俵が収穫できた。

 このような新しい村造りについては、井川村役場編・発行「井川ダムの記録−写真集」(昭和33年)に詳しい。


5. 補償の精神

 ダムは造られる側と造る側との間に確執が生じる。交渉のなかで、この確執を解きほぐす契機が必ず訪れる。その契機が補償解決に向かわせ、そのことが「補償の精神」の根幹をなすものであろう。

 前述のように井川ダムの補償の特徴は、いままでの金銭補償より代替補償を重視したことである。それは水没関係者と行政側、それにダム起業者が一体となって積極的に水没後の井川村造りに専念したことである。「より良い村造り」こそが「補償の精神」であった。昭和33年3月井川村と水没者が強く要求した大日道路に代わり、それに匹敵する井川林道が完成した。陸の孤島井川村が開放された。交通の便が良くなることで人交流や物資の流通が盛んとなり文化の水準も高まった。補償の三原則の一つであった「村造りを良くし、文化の水準を高める」結果となった。


6. 50年後の移転者たち

 井川ダムが完成後、すでに50年が過ぎた。現静岡市葵区井川地区の移転者たちはどのような状況であろうか。蔵治光一郎編「水をめぐるガバナンス」(東信堂・平成20年)のなかで、武貞稔彦氏は「ダム建設と水没移転のガバナンス」として、井川ダムにおける西山平地区に移転した9世帯にインタビューした結果について、次のように論じている。

「多くの人が西山平に移り住むという当時の選択と、その後の生活について、どちらかというと満足しているということである。まず、交通の便が良くなり、生活が便利になったということであるが、満足の最大理由は自分たちの暮らしが維持できて、子ども世代がより高い教育を受けて自立したことにあった。ダム建設前は子どもたちは村の中学校を卒業するとほとんど仕事に就いた。」

 「米作りについては、移転後10数年は一生懸命取り組んだし、自分たちで作った米を食べられたことは嬉しかったと多くの人が語る。ただし、中部電力や静岡県が望んだ米作りの計画があったからこそ西山平に移転した意見はなかった。西山平移転の決め手は世帯ごとの事情によるが、ここに代替地を得られるということにあったようである。」

 さらに、武貞氏は村外に移転した人々は様々な運命が訪れたという。

「昭和38年の調査では、多くの移転者が静岡市や富士宮市で農業を営み、商業やアパート、下宿経営を行う世帯も多く、おおむねその生活は安定していると報告された。移転25年後では、富士宮市に移った専業農家はほとんど離農し、サラリーマン生活を送っていた。失敗や挫折を乗り越えて再起した人たちがいる一方で、成功から苦難の道へ転落した人たちもいる。」


7. おわりに−水没者年金基金の制度−

 一般的に開発事業を評価する際に、ダムが生み出す便益と費用をダムの寿命に応じて、まとめて数値化して、便益が費用より大きければよいという考え方である。だがこの考え方について、武貞氏は井川ダム移転を、数十年単位で見たとき、便益にせよ、費用にせよ、定量化してまとめて比較するという方法がどのくらい現実をくみ取ることができるか、また人々の人生を数値化することにどのように意味があるのだろうかと疑問を呈している。

 現在の荒廃化した大井川の負についての数値化と水没者の人生の数値化を積算することは困難であろう。
 その数値化を計算することとは別であるが、水没者が人生に失敗したときに、何らかの方法で助成する制度を設けておくべきではなかろうか。それは受益者らのダム協力感謝金を水没者年金基金にあて、水没者が何らかの理由で働けなくなったときには、その基金を活用することが望ましいと思われてならない。そのことは将来にわたる「補償の精神」につながることになるだろう。

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(2009年9月作成)
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