【 そして其日一番あとに見たのが石河内の城だった。 其処も自分達にすっかり気に入った。 其処は擦鉢の底のように、四方高い山に囲まれていた。そして城は石河内の村とは川をへだてて如何にも別天地だった。それの三方をかこんで流れる川は昨日の見た川の上流で更に美しかった。激流の処や淵の処があった。仲間の一人は、十一月に近かったが、その川にとび込んで泳いだ。 自分はともかく特色のある土地をのぞんでいた。最初の土地は何かの点で、比類のないものを持っている必要があった。】【 しかし話はそううまく進まなかった。 提供すると云う土地は五万円なら売ると云う土地だった。自分達には手が出せない。そして城は一反七十円なら売ると云った。 自分は少しいやな気がした。自分は平均五十円位なら買ってもいい気があった。しかし折れるにはきまっていると云う人もあったが、中々折れて来なかった。自分達は又土地捜しを始めた。高城の宿屋を根拠地にして。】【 自分は矢張り「城」も得ておく必要がある。しかしそれは、我等を守護するものの心に任せよう。金のない今二つに別れて住むのも考えものである。すべてはなるように任せておこう。そして其処で全力を尽そう。許された範囲で信義を守って生きてゆこう。城は一反五十円なら買う、それ以上ならよそう。そうきめよう。】【 翌朝、自分達は南那珂郡の福島の郵便局の前を通った時、馬車から下りて郵便局によって高城にいる兄弟から何か知らせがあるかと思ってよって見た。妻から電報が来ていた。 それには、「五十円にまけた」とかいてあった。 万歳!やっと万事がうまくいった。】【 自分達は峠の上から見おろした。よろこんだ。あすこが我等の仕事の第一の根をはる処だ。幸あれ! 其処はもと城のあった処で、今は一軒の家もなく、一人の人も住んでいない。川をへだてて石河内の村がある。 自分達は船で城に渡った。自分達の土地に。】【 登記もやっとすんで自分は十二月のある日石河内に引越した。 その翌日の朝自分は城の下を流れる川の岸の岩の上に立った。 日向日向と云っていたのが、いつのまにか日向に来、土地土地と云っていたのがいつのまにか土地を得、登記がすんだらと思っていたら、いつのまにか登記がすんだ。 そして今日から自分達の土地の上で働く。幸よあれ。】
【 下筌に関する私の関心は高かった。高かったといってもやはり地方職員として「他山の石」としての関心であった。ところが野島所長の後任に君がいけといきなの話である。どうなることかと心配したが、いろいろ考えているうちに思い出したのは10年前の昭和30年宮崎工事高鍋出張所長時代に聞いた老町長の話であった。高鍋町を流れる小丸川の改修工事に従事した、たった1年の勤務であったが、ある夕べ、老町長にご馳走になった。私としては町長には自民党宮崎県連の長老という知識しかなかったが、宴終わる頃、町長はいきなり「貴方は建設省の上城(カミジョウ)という男を知っているか」と聞かれた。そこで私は本省厚生課長の上城さんなら名前だけは知っていると答えたが、そこででて来たのが次の話である。 小丸川の河水統制事業(現在の河川総合開発)がはじまったとき上城氏は県庁土木課の若い事務官であった。ところが第一号の発電ダムで武者小路氏の「新しき村」が水没ることになった。武者小路はどうしてもうんといわない。その武者小路氏から承諾印をとってこいという命令が若い上城氏にいいつけられたのである。早速上城氏は現場近くの部落に下宿して「ベントウ」さげて日参したそうである。晴れて武者小路氏が畑にあればだまって耕作の手伝いをし、雨降れば薪を割ったりし下男代わりの仕事に従事して一事も用地の話はしなかった。それが相当続いたある日座敷に上げられ、承諾印を黙ってくださったというのである。武者小路氏にしてみれば、県庁の若い者と始めから見透しだったわけである。上城氏は喜び勇んで県庁に帰った。このことが当時の知事相川勝六氏の知るところとなり、「みどころのある若者」ということで内務省に帰るとき連れていかれたのが上城氏ですよという話である。私もこの先輩の苦労から勉強しなければならぬといろいろ考えた。まず考えたのは・一番最初にあいさつにいくこと、・絶対に玄関払いを喰わぬこと、であった。室原さんの人柄では一ぺん会わぬと言ったら二度と会ってくれぬだろう。そうなれば野島所長七年間の歴史の繰返しになる。最初のあいさつで会ってもらうことが絶対に必要だと考えた。そこで熊本大学の藤芳教授(東京裁判で室原側鑑定人を勧められた元九州地建企画部長)に頼んで紹介状、室原さん宛の手紙をもらった。】