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文献にみる補償の精神【29】
「だまって耕作の手伝いをし、薪を割ったり下男代わりの
仕事に従事して一事も用地の話はしなかった」
(川原ダム・宮崎県)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1.武者小路実篤の新しき村

 武者小路実篤(明治18年〜昭和51年)という作家を知る人は少なくなってきた。「友情」、「その妹」、「愛と死」、「人間萬歳」、「お目出たき人」、「愛と人生」の作品には、人生を前向きに捉え、博愛主義、人道主義を貫いて、人と自然が共に生きる喜びを描く。それは自然と社会と人間との大調和が可能だという理想的な考え方であった。このような理念はロシアの作家トルストイの人道主義の影響に享けている。実篤はこの理念を実現するために、桃源郷を求め「新しき村」を大正7年宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城、続いて昭和13年埼玉県入間郡毛呂山町大字葛貫下中尾の地に創立した。

 新しき村は、共同生活の中で、義務労働(8時間労働、のちに6時間)をして、農業を中心とした作業を行い、それ以外は自由時間として各自が文学や美術などに親しみ、個性を伸ばす理想郷の世界であった。

 日向の新しき村は、小丸川右岸沿いの土地 6.5ha、耕地はわずかな畑、山林、原野に子供を含めた18人が入居。当時ここへ行くには橋がなく、舟で渡っている。先ず、麦や野菜の種まきから始まり、開墾、住居造りも共同作業を行った。大正10年水不足に悩む村は4キロ上流の大瀬内渓谷から水を引いた。会員たちの生活は、休日や労働の合間に文学、美術、音楽、演劇などに親しみ、互いに刺激し合って、個性を伸ばし、自己形成を図った。大正14年、村に印刷所が設けられ、ドイツのレクラム文庫にならい、トルストイやゲーテに関する書を発行。実篤は日向時代に「幸福者」、「耶蘇」、「友情」、「或る男」の作品を発表した。

 新しき村はこのような理想郷であったといえ、会員のなかには村への考え方の違いから離村する人もいた。大正14年実篤は村を離れ、村外会員となって、文筆活動で村の経済を支える。原稿料、印税、書画の謝礼も村の自立に投じた。(調布市武者小路実篤記念館編・発行『新しき村80年』平成8年)


2.新しき村の土地捜し

 実篤は「新しき村の建設には、先ず土地が必要である。一定の土地を買わなければならない。安いほうがよい。」との決意のうえ、兄(武者小路公共・外交官)から2000円の経済的支援を受け、宮崎県へ土地捜しに出発。船で土々呂に着き、延岡、小林、宮崎市、妻駅付近御陵参考地、児湯郡高城を見て、木城村石河内の城に辿り着く。そのことを『現代日本の文学 武者小路実篤集』(学習研究者・昭和45年)の「土地」から次のように引用する。

【 そして其日一番あとに見たのが石河内の城だった。
 其処も自分達にすっかり気に入った。
 其処は擦鉢の底のように、四方高い山に囲まれていた。そして城は石河内の村とは川をへだてて如何にも別天地だった。それの三方をかこんで流れる川は昨日の見た川の上流で更に美しかった。激流の処や淵の処があった。仲間の一人は、十一月に近かったが、その川にとび込んで泳いだ。 自分はともかく特色のある土地をのぞんでいた。最初の土地は何かの点で、比類のないものを持っている必要があった。】

【 しかし話はそううまく進まなかった。
 提供すると云う土地は五万円なら売ると云う土地だった。自分達には手が出せない。そして城は一反七十円なら売ると云った。
 自分は少しいやな気がした。自分は平均五十円位なら買ってもいい気があった。しかし折れるにはきまっていると云う人もあったが、中々折れて来なかった。自分達は又土地捜しを始めた。高城の宿屋を根拠地にして。】

【 自分は矢張り「城」も得ておく必要がある。しかしそれは、我等を守護するものの心に任せよう。金のない今二つに別れて住むのも考えものである。すべてはなるように任せておこう。そして其処で全力を尽そう。許された範囲で信義を守って生きてゆこう。城は一反五十円なら買う、それ以上ならよそう。そうきめよう。】

【 翌朝、自分達は南那珂郡の福島の郵便局の前を通った時、馬車から下りて郵便局によって高城にいる兄弟から何か知らせがあるかと思ってよって見た。妻から電報が来ていた。
 それには、「五十円にまけた」とかいてあった。
 万歳!やっと万事がうまくいった。】

【 自分達は峠の上から見おろした。よろこんだ。あすこが我等の仕事の第一の根をはる処だ。幸あれ!
 其処はもと城のあった処で、今は一軒の家もなく、一人の人も住んでいない。川をへだてて石河内の村がある。
 自分達は船で城に渡った。自分達の土地に。】

【 登記もやっとすんで自分は十二月のある日石河内に引越した。
 その翌日の朝自分は城の下を流れる川の岸の岩の上に立った。
 日向日向と云っていたのが、いつのまにか日向に来、土地土地と云っていたのがいつのまにか土地を得、登記がすんだらと思っていたら、いつのまにか登記がすんだ。
 そして今日から自分達の土地の上で働く。幸よあれ。】

 実篤の用地交渉は、新しき村が危険思想の温床だとの中傷や土地価格の駆け引きに遭遇した。曲折の末、土地を取得、登記完了後「今日から自分達の土地の上で働く、幸よあれ。」とその喜びを素直に表した。この喜びは、現在、インフラ整備のため、日々公共事業に携わって苦労している用地担当者と全く同一の心境に通じる。

 実篤は、この土地の選定理由について、日向という名が気に入り、冬も働ける、天孫降臨日本発祥地であったことをあげている。

 後述するが、昭和13年宮崎県施行小丸川総合開発事業浜口ダム(現・川原ダム)の建設に伴い、新しき村の土地の一部水田4反2畝が水没することになる。小丸川は、その源を宮崎県椎葉村三方岳に発し、東へ流れ、南郷村、東郷町を流下し、木城町南端で平地部に出て、高鍋町で日向灘に注ぐ、延長75km、流域面積 474km2の一級河川である。


3.新しき村・川原ダム建設の経過

 武者小路実篤の誕生から新しき村と小丸川水系における川原ダムの建設とその後について、『新潮日本文学アルバム10 武者小路実篤』(新潮社・平成12年)、『宮崎県企業局五十年史』(宮崎県企業局総務課・平成3年)により追ってみた。

明治16年 宮崎県庁開庁
  18年 武者小路実篤、東京に生まれる
  27年 日清戦争(〜28年)
  36年 トルストイ 読み始める
     日露戦争(〜38年)
  39年 学習院卒業
  43年 有島武郎らと「白樺」創刊
     「お目出たき人」発刊
大正5年 千葉県我孫子へ転居
  7年 「新しき村」の建設のため宮崎県児湯郡木城村に、小丸川沿いの
     土地を購入、
     木城村へ転居
  8年 小説『友情』発刊
  12年 「白樺」廃刊
     日中戦争始まる
  14年 実篤、書画を始める
昭和2年 東京府下南葛飾郡へ転居
     「新しき村」へ資金援助続く
  13年 宮崎県施行小丸川河水統制事業、浜口ダム建設着工
     日本発送電(株)の設立
     浜口ダム(現・川原ダム)の事業用地に新しき村4反2畝がかかる
     実篤、用地取得に応じる
  14年 川原ダムの補償費で、埼玉県入間郡毛呂山町葛貫に雑木林1haを購入
     「東の新しき村」を建設
  15年 川原ダム、川原発電所の完成
  16年 川原ダム、川原発電所、日本発送電(株)に強制出資
     太平洋戦争始まる
  18年 宮崎県施行、戸崎ダム、石河内第2発電所完成
     日本発送電(株)に強制出資
  20年 日中、太平洋戦争に敗れる
  21年 宮崎県電力確保期成同盟会の結成
     川原ダムなど宮崎県へ復元運動始まる
  23年 「新しき村」財団法人となる
  26年 実篤、文化勲章受賞
     河水統制事業を河川総合開発事業に変更
     日本発送電(株)の解散
     九州電力(株)の設立
     川原ダム、九州電力(株)に移る
     松尾ダム(小丸川)完成
  31年 渡川ダム(小丸川)完成
  33年 「新しき村」、経済的自立を達成
  34年 川原ダム、九州電力(株)から宮崎県へ復元
  42年 小丸川一級河川の指定
  43年 「新しき村」50周年記念詩碑建立
  51年 実篤逝去(90歳)

 なお、川原ダムの諸元は、堤高23.6m、堤頂長 150m、総貯水容量 322万m3、最大出力21,600KWで、型式重力式コンクリートダムである。


4.武者小路実篤の補償交渉

 宮崎県施行小丸川河水統制事業は昭和13年に着手された。その後、現在まで上流から階段状に鬼神野ダム、渡川ダム、渡川発電所、松尾ダム、石河内第一発電所、戸崎ダム、石河内第二発電所、川原ダム、川原発電所が築造され、各々ダムと発電所は電力の供給を図っている。

 昭和13年新しき村の土地は川原ダムの建設に必要となった。このとき実篤と交渉担当にあたったのは宮崎県土木課の上城という人であった。

 昭和40年2月、下筌ダム闘争で有名な室原知幸と相対せざるを得なかった、建設省下筌・松原ダム工事事務所の副島健所長は、室原との最初の出合いについて、この川原ダムの交渉からヒントを得たと、下筌・松原ダム問題研究会編『公共事業と基本的人権』(帝国地方行政学会・昭和47年)のなかで次のように語っている。

【 下筌に関する私の関心は高かった。高かったといってもやはり地方職員として「他山の石」としての関心であった。ところが野島所長の後任に君がいけといきなの話である。どうなることかと心配したが、いろいろ考えているうちに思い出したのは10年前の昭和30年宮崎工事高鍋出張所長時代に聞いた老町長の話であった。高鍋町を流れる小丸川の改修工事に従事した、たった1年の勤務であったが、ある夕べ、老町長にご馳走になった。私としては町長には自民党宮崎県連の長老という知識しかなかったが、宴終わる頃、町長はいきなり「貴方は建設省の上城(カミジョウ)という男を知っているか」と聞かれた。そこで私は本省厚生課長の上城さんなら名前だけは知っていると答えたが、そこででて来たのが次の話である。
 小丸川の河水統制事業(現在の河川総合開発)がはじまったとき上城氏は県庁土木課の若い事務官であった。ところが第一号の発電ダムで武者小路氏の「新しき村」が水没ることになった。武者小路はどうしてもうんといわない。その武者小路氏から承諾印をとってこいという命令が若い上城氏にいいつけられたのである。早速上城氏は現場近くの部落に下宿して「ベントウ」さげて日参したそうである。晴れて武者小路氏が畑にあればだまって耕作の手伝いをし、雨降れば薪を割ったりし下男代わりの仕事に従事して一事も用地の話はしなかった。それが相当続いたある日座敷に上げられ、承諾印を黙ってくださったというのである。武者小路氏にしてみれば、県庁の若い者と始めから見透しだったわけである。上城氏は喜び勇んで県庁に帰った。このことが当時の知事相川勝六氏の知るところとなり、「みどころのある若者」ということで内務省に帰るとき連れていかれたのが上城氏ですよという話である。私もこの先輩の苦労から勉強しなければならぬといろいろ考えた。まず考えたのは・一番最初にあいさつにいくこと、・絶対に玄関払いを喰わぬこと、であった。室原さんの人柄では一ぺん会わぬと言ったら二度と会ってくれぬだろう。そうなれば野島所長七年間の歴史の繰返しになる。最初のあいさつで会ってもらうことが絶対に必要だと考えた。そこで熊本大学の藤芳教授(東京裁判で室原側鑑定人を勧められた元九州地建企画部長)に頼んで紹介状、室原さん宛の手紙をもらった。】

 副島所長は藤芳教授の紹介状を携え、真先に室原知幸に会い、挨拶を兼ねてその紹介状を手渡した。そのときの対応が良かったのであろうか、それ以来室原の信用を得た。


5.武者小路実篤・補償の精神

 新しき村の所有地のうち、一番肥沃な水田4反2畝が川原ダムで水没する。その他に工事用地も必要になった。 実篤と上城との交渉であるが、上城は新しき村に手弁当をさげて、日参し、耕作を手伝い、雨のときは薪を割ったり、下男の様な仕事を行った。そのとき、一事も用地交渉の話はしなかったという。当然に村では一人でも労働力が必要であったことは確かだ。まさしく、実篤と上城の根比べである。どのくらいの日数を要したのであろうか。正しく2人の「阿吽」の呼吸が一致し、実篤はだまって土地契約売買契約書に署名押印し、ダムの補償が解決した。実篤は上城の誠実な行動に共感を得たのであろう。ここに実篤は無言のうちに「補償の精神」を物語っている。20数年間会員達が愛情を注いだ耕地は、当然土地価格には反映されず補償費は3000円であったという。水没する下の城の水田の表土を全部、上の城の水田に移すことになり、その後の稲作に役立った。戦後九州電力・から再補償の形で宮崎県を通じて援助があり、水路の改修などが行われた。(木城町編・発行『木城町史』(平成3年)

 実篤は埼玉県入間郡毛呂山町葛貫に雑木林地1haを購入。この補償金は「東の新しき村」の創立に大いに貢献した。


6.おわりに

 以上、作家武者小路実篤が理想郷「新しき村」に係わる用地補償交渉について概観してきた。日向の新しき村は、川原ダムに一部水没したものの、ダムサイトの直上流に、小さな半島のようなところに位置し、現在、2家族4人が 5.5haの土地で有機農業による米や野菜を栽培し生活している。

 一方、埼玉の新しき村は、10haの土地と借地を加えて6家族29人が生活し、養鶏、米、椎茸、野菜の栽培、パンづくりもはじめている。(前掲書『新しき村80年』

 木城町には実篤自身の「人間萬歳」と「山と山とが讃嘆しあうように 星と星とが讃嘆しあうように 人間と人間とが讚嘆しあいたいものだ」の碑が建っている。大正年間、新しき村については理想主義は夢想主義に終わる(山川均)、経済的には資本主義の圧迫を受けて失敗する(河上肇)と、酷評されていた。しかしながら、実篤が「自己を生かし、他人も生かす生活」の理想を貫いた新しき村は、現代の経済第一主義のなかでもなお生き続けている。

[関連ダム]  川原ダム
(2007年4月作成)
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