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文献にみる補償の精神【26】
「貴殿方が現在以上に幸福と考える方策を、
我社は責任を以って樹立し」
(御母衣ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1.庄川の流れ

 岐阜から長良川沿い上流に向かって国道 156号線を遡ると、関、美濃、郡上八幡、白鳥と過ぎ、約90┥で郡上市高鷲町蛭ケ野峠にたどりつく。この峠(875.95m)は、大日獄の山腹を縫ってくだる清流が、永久に袂を分かち、南は長良川の源流となり太平洋に注ぎ、片や北は庄川となって日本海へ注ぐ分水嶺である。

 庄川は美濃と飛騨を分ける烏帽子岳と鷲子岳もまた源流をなしている。上流域は岐阜県荘川村(現高山市)と白川村にまたがる御母衣ダム(昭和36年完成)を経て、世界文化遺産合掌造りの集落白川郷を流れ、富山県上平村五箇山に至る。五箇山は赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの谷間の総称である。さらに庄川は国道 156号線沿いに北流し、平村に入り、右支川の利賀川を合流し、庄川町で祖山ダム、小牧ダム(昭和5年完成)に入り、庄川合口ダムでは、屋敷林散居村の風景が拡がる栃波平野を灌漑し、扇状地を形成し、高岡市と新湊市との境界を流れ富山湾に入る。総延長 115km、流域面積1120km2の一級河川である。

 庄川は水量が豊かなうえ、急勾配のため、古くから飛騨・五箇山地方から切り出された木材輸送の川の道であった。また水力発電にも適し、多くのダムが造られた。昭和初期庄川町の祖山ダム、小牧ダムの建設を巡って伐採木を流す木材会社と電力会社との争いが起こった。いわゆる「庄川流木事件」である。


2.ああ御母衣ダムよ

 庄川水系では、昭和初期から平成17年まで、御母衣ダムなど17基のダムが建設された。庄川沿いの地域は雪が深く、38豪雪、56豪雪、59豪雪と度々豪雪災害に見舞われ、いくつかの集落はその豪雪とまたダム建設によって離村を余儀なくせざるを得なかった。

 電源開発鰍ノよる御母衣ダムの建設では500人程の村人が離村することとなる。次のような、ふるさとを偲ぶ「ああ御母衣ダムよ」の歌がみられる。(服部勇次音楽研究所編・発行『ダムと水の歌102曲集』(昭和62年))

【 ああ御母衣ダムよ(作詞・作曲 服部勇次)
  1.庄川堤の 雪とけて
    湖水に遊ぶ 人の声
    ダムサイトの 石ぶみを
    読んで語って 伝えてよ
    ああ御母衣ダムは わがふるさとよ
  2.桜の花が 咲く頃に
    ひと目見たさに 庄川へ
    湖面にうつる 家のあと
    涙を流し 手を合わす
    ああ御母衣ダムは わがふるさとよ
  3.ダムに追われた 人々は
    大和 名古屋市 岐阜市へと
    夢に見るのは ふるさとの
    荘川桜と 四季の色
    ああ御母衣ダムは わがふるさとよ 】

3.電源開発・の発足、初代総裁高碕達之助

 昭和20年8月我が国は日中、太平洋戦争に破れ、戦後の経済復興が最大課題であり、その原動力の一つが電力エネルギーの確保にあった。その確保のため東京電力・等九電力株式会社が再編され、さらに昭和27年「電源開発促進法」「電源開発株式会社法」の制定に基づき、電源開発・が設立された。

 その目的は、

・大規模または実施困難な電源開発を引き受ける。
・国土の総合的な開発、利用、保全との関連において計画、立案する。
・地域的な電力需要を調整するなどのため必要な電源の開発を速やかに行い、電力の安定供給に貢献することであった。

 初代総裁高碕達之助、副総裁進藤武左エ門が就任した。
 高碕総裁の就任は、吉田茂首相の意を受けて白洲次郎が高碕の承諾をとって決まったという。高碕総裁は初訓辞を次のように行った。

【私の考えていることは8000万人もいる日本人の中で、この電発に集まって、同じ目的で、同じ仕事をする事は何かの縁であると思います。総裁とか、副総裁とかその他色々な役職がありますが、仕事の上では共同責任で皆んなボートを漕ぐのと同じです。ボートに乗っている人々は共同責任なのです。日本は国の建て直しに当たっては資源は殆ど有りません。ただ、さいわいに持っているのは多くの優秀な人材と雨量です。日本経済の自立の為には水力電気利用を大いに考えなくてはなりません。】(水野清著『電源開発物語』(時評社・平成17年)

 昭和27年9月16日電源開発・は発足により、糖平ダム(音更川)、佐久間ダム(天竜川)、そして御母衣ダム(庄川)等の建設がスタートした。御母衣ダムは関西電力・から引き継いだ。


4.御母衣ダムの諸元

 御母衣ダムは水力発電を目的として庄川本川、岐阜県大野郡白川村平瀬地点に昭和36年に完成した。このダム直下約 210mに御母衣発電所の設置により21.5万KWの電力が関西方面へ供給されている。

 ダムの諸元は堤高 131m、堤頂長 405m、堤体積 795万m3、流域面積 395.7km2、湛水面積 880ha、総貯水容量3億7000万m3、型式ロックフィルダムで、事業費415.26億円を要し、施工者は(株)間組である。その水没地は白川村、荘川村に及ぶが、その6割が荘川村で中野地区、海上地区等であった。

 主なる補償は、土地面積 700ha、移転世帯 240戸、公立学校3、営林署貯水場2、郵便局1、農協支所1、神社5、寺院3、重要文化財2、天然記念物2、となっている。これらの補償解決まで8年の歳月が流れた。


5.御母衣ダム建設反対−死守会の行動

 水没地荘川村中野地区等は、豊かな文化と経済と地域連帯感を誇っていた。突然のダム建設の発表に、驚き、戸惑いながらも、直ちに「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」(会長建石福蔵)が結成された。小寺廉吉編・発行『山村民とその居住地〔ふるさと〕の問題』(昭和61年)の書がある。この書に、ダム反対運動について、死守会書記長若山芳枝著『ふるさとはダムの底に』も掲載されており、その行動を追ってみた。

 昭和27年10月 政府は御母衣発電所建設を公表
   28年1月 御母衣ダム「絶対反対期成同盟死守会」(会長建石福蔵)
        の結成(17世帯)
        個々人勝手に売らないことの委任状を全員からとる
     3月 賛成派「新荘白川村建設同盟会」の結成(約30人)
        電発、協力派に移転準備金20万円を支払う
     4月 死守会、ダム代替案として中野地区等が水没しない支流案を提示
     5月 死守会、電発本社にダム反対と準備金支払い中止を直訴
        進藤副総裁ら現地視察
     10月 死守会、ダム反対大陳情団上京
        高碕総裁と会見
     11月 死守会、サベージ博士に支流案を提示
     12月 高碕総裁、「御母衣ダム建設工事一時延期」を発表
        この間ダムサイト地質調査等続行
   29年4月 死守会、ニッケル氏に支流案を提示
     7月 電発、御母衣ダム堰堤の型式はロックフィルに内定
     10月 電発、御母衣発電所工事の近況を発表
        死守会、世界銀行ピッカリ氏に陳情
     11月 荘川村のダム対策協議会は賛成へ動き出す
   30年5月 電発、岐阜県に土地立入許可申請書を提出
     6月 木村議員、参議院予算委員会で国会質問
   31年1月 死守会、ダム反対陳情書を政界、官界、学会等に提出
        小坂総裁、死守会全員に「移転先に支障をきたさないように」
        との挨拶状を提出
        死守会、連名で、ダム反対の返信を出す
     3月 藤井副総裁、死守会を突然訪問
     5月 藤井副総裁、死守会を再度訪問
        藤井副総裁、死守会会長に「幸福の覚書」を提出
        死守会、補償交渉に軟化の態度あらわれる
     8月 電発、中野地区に「庄川補償本部」を設置
        補償交渉始まる
     11月 死守会、総会に於いて、残地所有農家グループ、商工グループ、
        半農半労グループ、労働グループ、尾神地区の交渉グループを
        つくり、役員を決定
   32年3月 死守会、60項目にのぼる要望書を提出
     5月 尾神地区交渉妥結
     7月 労働グループ、岩瀬地区、商工グループ、補償妥結
   34年7月 海上地区、補妥結
     11月 死守会の解散式
   35年11月 御母衣ダム湛水開始
     12月 荘川桜2本移植
   36年1月 御母衣ダム完成、発電所運転開始


6.補償の精神−幸福の覚書

 わが故郷を守るためにダムを造らせまいとする死守会と、わが国の電力エネルギーの確保のために、どうしてもダムを造らねばならない電源開発・とは本来、対立関係にあった。だが、お互いに対立しながらも、長い年月を重ねるうちに、あるきっかけによって歩み寄ることもある。御母衣ダムの交渉においては、高碕総裁、小坂総裁、藤井副総裁らの電発・首脳陣の熱意が、死守会の人たちの心を和らげ、補償交渉妥結の道へと進ませたのではなかろうか。

 藤井副総裁から、いわゆる「幸福の覚書」がそれを物語っているといえよう。

  覚 書
御母衣ダム建設によって立退きの余儀ない状況に相成ったときは、貴殿方が現在以上に幸福と考えられる方策を、我社は責任を以って樹立し、之を実行するものであることを約束する。
              昭和31年5月8日
         電源開発開発株式会社  副総裁 藤井崇治
         御母衣ダム絶対反対死守会 会長 建石福蔵殿

 この覚書は、学校の便箋に書かれたものであった。恐らく、最初から用意された文書ではなかったのであろう。死守会は、覚書の確認によって、その後、紆余曲折はあるもののダム絶対反対の声は消え、60項目の要望を提出し、補償条件闘争に変化していく。藤井副総裁は「貴殿方が現在以上に幸福を考えられる方策を、我社は責任を以って樹立し、之を実行する」と断言した。ここに「補償の精神」をみることができる。

 補償の精神とは、あくまでも対立する両者が歩み寄るきっかけとなる行動のことをいう。それはお互いに心の琴線に触れ、握手へのプロセスを辿る精神的支柱となるものである。 死守会は、ダム絶対反対の旗を下ろしたが、「死守会は決して敗北したのではない。幾多の困難にもめげず、また大きな壁にぶつかりながら、終始一貫目的達成に向かって努力してきたが、最後には大局的な立場に立ってダム建設に自ら協力したのだ」(前掲書『ふるさとはダムの底に』)と公表し、昭和34年11月12日高碕達之助らを招き解散式を行った。8年間の長い闘いを終え、水没者は東京都、名古屋市、岐阜市、美濃市、飛騨地区へと移転していった。


7.湖底の桜−古きが故に尊い

 高碕達之助は、死守会解散式の日、集落を訪れ、光輪寺の老桜の巨木を目にした。その時のことを「文藝春秋」(昭和37年8月号)に「湖底の桜」として述べている。

【水没予定地をゆっくりまわってみたが、湖底に近い学校の隣にある光輪寺という古刹のかたわらまで来た時、私はふと歩をとめた。境内の片隅に幹周一丈数尺はあろうと思われる桜の古木がそびえていた。葉はすっかり落ちていたが、それはヒガン桜に違いなかった。私の脳裏にはこの巨木が水を満々とたたえた青い湖底にさみしく揺らいでいる姿がはっきりみえた。この桜を救いたいという気持ちが胸の奥の方から湧き上がってくるのを私は抑えられなかった】

 高碕の桜を救いたいという優しさは、まさしく藤井副総裁の「幸福の覚書」と同様に「補償の精神」につながっているといえる。

 さらに、

【進歩の名のもとに古き姿は次第にうしなわれていく、だが、人力で救えるかぎりのものはなんとか残していきたい。古きものは古きが故に尊い】

と、古きものへの価値観を語る。

 この巨木桜の移植については、神戸淳吉著・清水勝絵『ふるさとのさくら』(岩崎書店・昭和52年)、電源開発・編・発行『荘川桜』(平成13年)、佐藤良二写真集『名金線に夢を追う』(岐阜新聞社・平成14年)の書がある。


8.おわりに

 桜巨木2本(後に荘川桜と命名)は、移植のため広く張った枝を切り、樹幹や枝が巻かれ、 100mも張っていた根も切られ、直径5mの根土も含まれたものにされた。 500人も動員され、1本40トンもある巨桜がクレーン車、鋼鉄のソリ、ブルドーザーによって、湖畔中野展望台に移植された。雪が舞う昭和35年12月24日のことであった。(前掲書『荘川桜』) 。移植から50年を迎えようとしている。

 私は平成17年6月5日御母衣ダムを訪れた。満水であった。巨桜はすでに葉桜であったが、朝日を受けて、実に緑が美しく輝き、近づくと7本程の柱によって、しっかりと支えられている。これらの一本一本の支柱が、高碕達之助、水没者、樹医らの多くの温かい手のように思われてならなかった。毎春荘川桜は豪華絢爛な花を咲かせ、御母衣のふるさとをよみがえらせる。それは「幸福の覚書」の指標として、笑顔を以って水没者とその子孫に永遠に継承されるであろう。

  ふるさとは 湖底(みなそこ)となりつ
       うつし来し この老桜咲け とこしへに
                     (高碕達之助)

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(2007年4月作成)
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