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文献にみる補償の精神【6】
「木の見返りに米をあたえる」(味噌川ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 宮崎駿監督作品「千と千尋の神隠し」は、米アカデミー賞・長編アニメーション賞、独ベルリン映画祭金熊賞を受賞し、2340万人を魅了した。あれから3年、今秋「ハウルの動く城」が人気を呼んでいる。平成10年に上映された「もののけ姫」もまた、その当時話題を投げかけたシネマである。この「もののけ姫」は室町時代、屋久島を背景としている。森林を破壊しながらタタラ工場で武器をつくるエボシ。山犬に育てられた少女サンが森林を守るためにエボシと闘う。そのサンを優しく見守り、援けるアシタカの活躍を描く。古代から人間は自然を開発することによって暮らさざるを得なかった。このシネマは、森林を開発する側と開発される側との拮抗物語であり、自然界と人間界とが対峙する永遠のテーマでもある。しかしながら、今日では、市民や漁師たちが山に木を植え森林との共生が図られる時代となってきた。

 よく、森林は水を育てるといわれる。雪や雨が降ると、森林の腐葉土を通した豊富なミネラル分を含んだ水が川に流れだし、やがて海へ注ぎ、汽水域では魚介類を育む。汽水域では植物プランクトンの大量発生により、漁獲量が増える。森は海の恋人と呼ばれ、その仲立ちを行うのが川であり、まさしく森と川と海は密接に繋がっていることが分かる。

 宮城県船形山のブナ原生林の水がおいしい良質な米をつくり、岩手県室根村の森林水が大川を流れて気仙沼湾の牡蠣、帆立貝、昆布を育てる。そのために漁業関係者は市民と協力しながら、室根山に木を植えつづけている。また昔から富山湾の漁師は「ブナ一本、ブリ千匹」と言っているように、富山県立山連峰の雪が寒鰤を育てる。 

 このような森と川と海の関係について、柳沼武彦著『木を植えて魚を殖やす』(家の光協会・平成5年)、松永勝彦著『森が消えれば海も死ぬ』(講談社・平成5年)、畠山重篤著『日本<汽水>紀行』(文藝春秋・平成15年)に論じられている。

 昭和48年、日本でも有数な森林地帯である木曽川水系木曽川の長野県木曽郡木祖村小木曽地点に味噌川ダムが建設されることになった。堤高 140m、堤頂長446.9 m、堤体積 890万m3、総貯水容量6100万m3の中央土質しゃ水型ロックフィルダムで、起業者は水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)である。補償の概要は取得面積 276.8ha、水没家屋はなく、公共補償、漁業補償である。取得面積のうち91.4%が山林で、 253haの山林は国有林、組合林、村有林で占められ、当時の用地担当者は国有林等の補償、ダム掘削土による土捨場用地に係わる補償、地域振興対策等に苦労されている。
 この当時木祖村の村長であった日野文平著『源流村長』(銀河書房・平成元年)には、味噌川ダム建設に係わる村の真摯な対応が綴られている。この書に、昭和55年4月21日の中日新聞記事「古文書生き返る、あるダム補償 尾張方式で援助」が転載されており、ここに日野村長の「補償の精神」を読みとることができる。

 五十三年二月のことである。木曽最上流部の「味噌川(みそがわ)ダム」=長野県木曽郡木祖村の実地調査をしていた水資源開発公団に、地元・木祖村の日野文平村長が、たまりにたまったうっぷんをぶちまけた。
  〔村長の一言で愛知県動く〕
「水をもらう愛知県は、地主にあいさつもせんで大工を送り込むのか」
 怒りを伝え聞いて愛知県の幹部が、初めて現地にすっ飛んできた。体育館の落成の日でもあったが、村長はモーニングに威儀を正して(?)愛知県との初交渉に臨んだ。
 「名古屋の衆は、木曽の水を持ってって水洗便所を使う。しかし、木曽に水洗便所はほとんどないんですぞ」「昔、尾張藩は、木曽のヒノキを守る私らに年間一万石の米をくれていたことを知ってなさるか」
 ダム建設に伴う上流部と下流部の宿命的な利害の対立は、数え切れない。が、きわめて複雑な状況といわれた味噌川ダムの場合は、この村長の一言から劇的な展開を繰り広げていった。
 木祖村の中心・藪原から、山道をジープで三十分。村の名前の通り「木曽の祖」ともいえる木曽川の源流点近くがダム建設の現場である。周辺の民有林、村有林約百五十haが湖底に沈む計画を知らされた当初、村人たちの心には複雑なキ裂が走った。
 まず、補償の実態を調べていた関係者は、現行法規をみてガク然とした。水源地域対策特別措置法では「水没農家三十戸以上または水没農地三十ha以上」が補償の基準で、家屋も農地もない味噌川ダムは適用外だったのである。
 法の基準に達しない地域を救う「水源基金制度」(東海三県と名古屋市で設置)でも、長野県が加盟していないため、木祖村への補償・援助はダメ。「そんなバカな」「先祖代々守り育ててきた森林を、むざむざ沈められてたまるか」・・・。
 が、どんなに調べても、公団からの直接補償以外、木祖村への見返りは制度的に何もないのが実情だった。愛知県が「地主にあいさつもせんで大工を送り込んだ」のはまさにこの理由からだったが、村の人たちからは当然のように不満がわき上がった。「こんな状態で名古屋がそんなに水がほしけりゃ、濃尾平野に池を掘れ」とまで言い切ってうやむやな法や制度に率先して挑みかかったのは、元陸軍少尉の熱血漢、日野村長自身だった。
  〔木の見返りに米をあたえる〕 
 郷土史を調べる・・・。信州・木曽地方は江戸時代、ずーっと尾張藩に属した。明治になっても一時、名古屋県の所管になっている。
 なぜか。理由は木である。御岳のすそ野に広がる広大なヒノキの天然材は、木曽川を下って熱田・白鳥(名古屋市)の貯木場に集められ、江戸城、名古屋城とその城下町、伊勢神宮など中世・近世日本の重要な拠点を造り続けてきたのだ。 
 尾張藩はここを直轄地とし「木一本、首ひとつ」の過酷な林政をしいた。が、古文書はまた、その見返りとして尾張が木曽に年一万石の米を与えていたことも示していた。その米の一部は尾張藩の命で伊那地方から送り込まれたとか。だから伊那節の中にも〃木曽へ木曽へとくり出す米は 伊那や高遠のなみだ米(余り米ともいう)〃とある。
 「これだ!」。こぶしを握りしめた村長は、冒頭に紹介した愛知県との最初の交渉から、この歴史的事実をぶつけていった。
 「三百年も昔に、上流と下流はギブ・アンド・テークの関係を持っていたんですぞ」「木が水に代わっただけ。法や制度を乗り越えてこそ、真の交流が出来るんじゃないか」
 村長が提出した木と水の膨大な古文書は、愛知県の仲谷知事の手元に届き、難航していたダム問題は一気に解決の糸口を見いだした。昨年五月、同県は木祖村への制度外援助を歴史的事実に基づいて了承、仲谷知事と西沢長野県知事とのトップ会談で最終的合意に達した。

 このように藩政期から木曽川源流域の人々は木曽の森林を育成し、このことが現代では下流域に良質な都市用水の供給となっている。山奥での過酷な労働の対価として尾張藩は、「木の見返りに米をあたえてきた」という史実は、上下流域の人々との共存共栄の補償の精神に繋がるものである。日野村長はこの補償の精神を強く主張され、仲谷愛知県知事の心を動かし、実際にダム建設促進の起爆剤となった。この地域振興対策はを尾張藩方式と呼ばれており、その方式について、味噌川ダム建設所編・発行『味噌川ダム工事誌』(平成8年)から追ってみる。

 昭和52年9月財団法人木曽三川水源地域対策基金が設置され、昭和57年12月味噌川ダムに対する基金事業が議決された。これを受けて、味噌川ダム対策基金46億円のうち木祖村分として基金対象額23億円となり、ほとんどの額を愛知県が負担した。

 昭和57年度以降林道、農道、灌漑排水事業が施行され、木祖村小学校の改築、簡易水道、消防施設、保健センターの建設がされた。さらに、スポーツ、レクリエーション施設として、野外緑地広場、テニスコート、体育館が設置されている。

 これらの設置はすべて村民のための公共施設であり、山間地木祖村(面積 140km2、人口3600人)にとっては、村の発展につながる社会資本基盤の充実が図られた。また村は日本一のキャンパス枠の画材の生産を誇り、デザイン室も設け、「日曜画家の村」として著名であり、絵を描く人たちにとっては理想の村である。

 完成後8年を経過した。今では、味噌川ダムはダム地点の計画高水流量 650m3/sのうち、550 m3/sの洪水調節を行い、流水の正常な機能の維持を図り、都市用水として、愛知県、名古屋市、岐阜県に対し、合計4.30m3/sを供給可能ならしめ、下流域における都市の発展に寄与している。さらにダムの放流水を利用し、長野県は最大4800kwの発電を行い、その効果を十分に発揮している。


味噌川ダム(撮影:XE/S)
 終わりに、繰り返すことになるが、日野文平村長の「木の見返りに米をあたえる」の発想から「水の見返りに木祖村の発展を」という補償の精神は、まさしく森と川と海が一体であることを物語っている。味噌川ダムは、水源地域対策特別措置法の指定がなく、その代わりに木曽三川水源地域対策基金が大きな役割を果たした。この基金を受けて、日野村長の補償の精神が生かされ、木曽川上流域と下流域の人々の共生といえる共存共栄がなされた。日野村長の「補償の精神」とは共生の信条であったといえる。

 海の幸が山からの授かり物であることを認識させるスルメやコンブが、木曽の山々の神社や祠に奉納されている。このことは日本全国の山々で見られる光景であるが、その根底には森の恵みに感謝し、森と川と海との共生が図られていることの実証を表している。

  森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの 愛紡ぎゆく
                            (熊谷 龍子)

[関連ダム]  味噌川ダム
(2006年2月作成)
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