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文献にみる補償の精神【18】
「どこまでも被害者は被害者でないようにしたい」
(大野ダム・蜷川虎三)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
1.台風23号の水害

 死ぬということはその人ともう会えない。その人ともう一度会って語りたい願いが絶対不可能だということである。だから悲しいのである。人は、死からまぬがれない宿命であるが、その死が災害に因るものであれば、一層悲しみを増すことになる。災害の一つに水害がある。水害は人生を狂わし、また文化的、経済的被害を及ぼす。

 急峻な山々から流れる急勾配な日本の河川は、梅雨前線や台風の大雨によって毎年のように水害が起こっている。地球温暖化の影響であろうか、異常気象(過去30年間に観測されなかったような値を観測した場合)が続き、平成16年には台風が10個も上陸した。

 とくに台風23号は、京都府中部地域を流れる由良川筋に水害を生じさせ、9人の死者を出した。このとき舞鶴市由良川沿いの国道 175号線で37人の観光バス乗客が洪水に遭遇し、救出されたことはまだ耳新しい。


2.由良川の水害

 由良川は、その源を京都、滋賀、福井の府県境三国岳(標高 959m)に発し、京都府下北桑田郡の山岳部を西流しながら、高屋川、上林川などを合わせ、さらに福知山市において、土師川を合流し、北に流れを転じ、大江町、舞鶴市、宮津市に沿って流れ日本海に注ぐ。

 その流域は、京都府、兵庫県に及び、流域面積1880km2(京都府内1700km2、兵庫県うち 180km2)、幹線流路延長 135kmで、京都府下の約1/4の流域面積を占めている。

 由良川流域は、綾部、福地山両市周辺の東西20kmが盆地として開けて、ほとんどが山地であり、その比率は、山地89%、平地11%の代表的な山地河川で、福地山から海に向かっては、両岸山が狭まり、洪水が起こりやすい。戦前、戦後を通じ水害に見舞われた。

 明治期の由良川の水害は、明治29年8月30日〜31日、明治40年8月23日〜25日と起こった。明治45年〜大正6年まで由良川の改修が行われたがなお不十分であった。

 政府は大正10年第2次治水計画において、由良川改修着手に関する意見書を可決したが施工されなかった。昭和8年第3次治水計画に由良川緊急改修が必要とされ、築堰、拡幅による治水改修が内務省による河水統制事業に組み込まれ、治水と発電を目的とした大野ダムの築造へと変わった。昭和18年6月漸く起工式が行われたものの、19年6月太平洋戦争の時局の影響により中止せざるを得なかった。


3.大野ダムの建設

 戦後、建設省近畿地方建設局による大野ダムの建設は再開された。大野ダム誌・編さん委員会編・発行『大野ダム誌−由良川』(昭和54年)により主に用地補償を中心にその経過を追ってみる。

昭和26年6月 京都府由良川改修工事期成同盟会設置
    8月 大野ダム被害者同盟結成
    10月 近畿地建 大野ダム構想発表
        地形、地質、骨材 用地調査開始
  27年9月 地元、地建の補償方針説明拒否
  28年6月 地建、第1回水没補償説明会
    9月 台風13号 由良川大水害(死者 111人)
    11月 知事 協力要請、地元立入調査拒否
    12月 大野ダム事業に関し環境懇談会
  29年1月 地元、下流受益者と懇談会
    2月 宮島村民大会、ダム反対決議
    6月 「建設省直割の公共事業の施行に伴う損失基準」
       の制定
    9月 大野ダム工事事務所開設
    11月 地元立入調査に対する条件提示
    12月 宮島村・大野ダム対策委、土地立入調査承認
  30年4月 美山町設置
    10月 大野ダム懇談会
  31年2月 地建、大野ダム建設を公式に発表
    4月 同盟の総会で絶対反対より条件闘争に切り換え
       決定
    6月 京都府、現地に連絡事務所設置
    11月 水没土地物件の確認終了
    12月 第1回補償交渉(8日)
        知事と地建局長補償最終協議(30日)
        個人補償交渉全て妥結
        協定書調印(31日)
  32年3月 大野ダム仮説工事着工
    4月 居住権補償妥結
    11月 大野ダム本体工事着工
    12月 上由良川漁業補償妥結
  33年3月 公共補償妥結調印
        7ケ年にわたる補償交渉終わる
    11月 被害者同盟解散
       大野ダム地域振興協議会発足
    12月 大野ダム定礎式
  34年1月 大野、宮島酪農組合結成
    3月 ダム地域茶業組合結成
  35年3月 さくら、もみじダム周辺に2300本植樹
    11月 貯水池名「虹の湖」に決定
  36年5月 美山茶工場落成
    11月 大野ダム、大野発電所竣工式
  37年3月 大野ダム、建設省から京都府の管理となる。


4.上原義太郎大野ダム被害者同盟会長の決意

 由良川の度重なる水害によって、由良川改修問題は京都府の最大の懸案事項であった。戦後、本格的な大野ダム建設が動きだしたが、生活基盤を脅かされる地元民はダム建設に絶対反対であった。

 この反対が続いているとき、昭和28年9月台風13号が由良川流域を襲った。上林地方で 500mmに達する豪雨は、綾部市、福知山市、舞鶴市など死者 111人、行方不明9人、流失家屋 400戸、全壊家屋2613戸など甚大な被害を及ぼした。これを契機として、由良川下流域自治体から大野ダム建設の要請が一層強まった。京都府の仲介もあり、地元民は絶対反対から条件闘争へ変化していく。

 上原義太郎大野ダム被害者同盟会長は、京都新聞(昭和31年12月13日付)に、補償問題について、次のように決意を述べている。

「近畿地建は ”たとえ地元の反対派あってもダムは建設する”と宣言した。京都府は ”水没農家の補償をはじめ、事後の営農振興に責任をもって処理する”と勧告してきた。われわれは下流の切実な要望にも応えて、府が全責任をもつなら協力する方向に進みたいと、その勧告を受諾した」

とある。さらに、上原会長の決意は続く。

「われわれ被害者は再三繰り返しているように、大野ダムの公共性について、敢えて反対するものではないが、祖先伝来の家を失い、昔からの百姓よりしたことのない農民が、その基盤である田畑を奪われることは明日からの生活をどうしょうかとの不安は勿論、生活の見通しすら樹たないがためであって、去る昭和26年から過去6年絶対反対を続けてきた所以もここにある。しかし前述の通り府の親心を持った勧告と下流の誠意に期待して条件闘争に切り換え今日の段階に至った……地建側が今後われわれの切実な要求に応えてくれるものと信じ、今後の交渉で円満解決を図りたい」

 この条件闘争に変化したときから、地建の誠意ある補償、府からの営農振興対策、下流見舞金によって、補償問題は前進していく。


5.蜷川虎三知事の補償スタンス

 前掲書『大野ダム誌−由良川』により、蜷川虎三知事の補償スタンスを追ってみる。昭和27年5月20日の由良川改修工事期成委員会で、次のように挨拶を行った。

「由良川改修問題は多年の懸案であり、洪水調節を大野村に設け、発電と両方面使用するかどうか、これは今日両方とも使用することが必要だと思う。最近電力会社の電気料金値上げによる、一般府民の迷惑は国民経済的に考えて重要なことである。技術面は不明だが、この工事による多少の犠牲は出ると思うが、これは止むを得んと思う。しかし、これに対する住民の経済生活の基盤を失うことは、即ち農民から土地を奪うことはできぬ。これに対する補償について国のはっきりした線を出す必要があり、十分なしかも適正な補償をしてもらう。住民が今までより一層よくなる対策を講じてやってこそ私は工事をやれると思う。国家補償は国家補償、府は府としての対策を講ずる必要ありと考える。」

 続いて、知事は、昭和28年12月6日、現地住民の声を聞くため大野小学校で地元懇談会に出席、緊迫した空気の中で住民 200人に対し語っている。

・府としては国の補償以外に犠牲者に補償を出す。今までのやり方は国の補償だけであるが、私としては知事として犠牲者の生活ができるようにしたいと考えている。
・従来の農業経営を継続できるよう十分考えるが、今までの経営方法ができなければ別の方途を講ずるようにする。
・由良川を何んとかして京都府の立派な河川としてもっていきたい。国からも十分維持施設をして貰いたいと思っている。そのため犠牲者が出た場合は国よりも十分な補償をしてもらうし、知事としても皆様の生活と経済を守るため努力する。

 このように、蜷川知事はダムによって住民たちの生活基盤が失われてはならない、そのために国からは適正な十分な補償を行ってもらい、府としては、水没者が従来の農業経営を継続できるようにその方途を講ずると言い切っている。


6.蜷川知事の補償の精神

 昭和31年12月30日、補償交渉の大詰めであった。知事と地建局長との間で最終折衝がもたれ、このとき知事は「どこまでも被害者は被害者でないようにしたい」との基本方針で望まれたという。この折衝で、地元案の要求に近づけられ、住居移転と栗の補償基準が引き上げによって、翌日12月31日、補償妥結、補償協定書が調印された。これらの補償解決は、蜷川知事の「どこまでも被害者は被害者でないようにしたい」という「補償の精神」を貫いた結果である。

 さらにその「補償の精神」の具体的化について、次のようにみることができる。
 現地に京都府の連絡事務所の設置、一般補償以外では、京都府による協定感謝金と有線放送施設、下流見舞金、一方ダム関係農家 350戸に対し、営農振興5ケ年計画がなされた。その振興策は土地造成と利用の高度化、酪農の導入(和牛肥育)、養鶏センターの設置、茶園の造成、製茶工場の設置、椎茸、わさびの増殖など、「水源地域対策特別措置法」(昭和48年10月17日法律第 118号)に基づく事業の先取りともいえる政策であった。


おわりに

 繰り返すことになるが、蜷川知事はダム水没者等に対し「どこまでも被害者は被害者でないようにしたい」との「補償の精神」を貫徹した。昭和36年、京都府北桑田郡美山町樫原地先に京都府初の近代的な大野ダムが完成した。ダムの諸元は堤高61.4m、堤頂長 305m、総貯水容量 2,885万・。治水と発電の目的をもったダムで事業費29.3億円である。

 大野ダムの完成時に、淀川水系桂川、京都府園部町に日吉ダム(当初宮村ダム)建設構想が打ち出される。それ以来日吉ダム水没者の23年間にわたる反対闘争から、紆余曲折を経て条件闘争に変わり、昭和59年9月損失補償基準の調印式を迎えた。このとき、蜷川知事と同様に、林田悠紀夫知事は「犠牲を犠牲としないダム造り」をモットーに、水没者等の生活再建対策、日吉町などの地域振興策を積極的に実施されている。(日吉ダム対策天若同盟編・発行『日吉ダム対策天若同盟30年のあゆみ』(平成9年)

 このように「補償の精神」が継承された。そして平成10年、日吉ダムは完成した。
 今日、日吉ダムは治水、利水の役割を果たし、ダム周辺では水辺空間を創り出し、府民の憩いの場となっている。

     水没の さだめ知らず 山眠る
                (石田修岳)

[関連ダム]  大野ダム
(2006年4月作成)
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