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1.鹿鳴館の電灯
鹿鳴は、宴会で客をもてなすときの詩歌、音楽のことである。中国の唐時代に州県から推挙され、貢士(才学ある人物)を都に送る宴会に、必ず詩経の小雅「鹿鳴」を歌い、その門出を祝ったという。このことから鹿鳴は貴賓をもてなす酒宴を指す。
明治16年鹿鳴館は、コンコルドの設計によって内外人の社交クラブとして東京府麹町区山下町(現・千代田区内幸町)に建てられた。洋風二階建である。この館には、華族、外国使臣にのみ入会が許され、舞踏会、仮想会、婦人慈善会が頻繁に催され、西欧風俗、文化の中心となった。
明治20年1月鹿鳴館の舞踏会に電灯を点火させたのは、日本最初の電気会社東京電灯(明治19年創立)である。伊藤博文らは燦然と輝いた電灯に喝采を博し、文明の利器として日本中に喧伝されて、全国各地に電灯会社の設立が続出した。
名古屋電灯(明治20年創立)、神戸電灯(明治21年)、札幌電灯舎(明治22年)、熊本電灯(明治24年)、広島電灯(明治26年)、仙台電灯(明治27年)、高松電灯・徳島電灯(明治28年)、富山電灯(明治32年)等、明治29年には電灯会社が全国に35社をかぞえた。
最初の電灯事業はすべて石炭を燃料とした汽力発電であった。まもなく、水力発電が始まった。民間会社では、明治21年わが国最初の水力発電所である仙台市三沢、宮城紡績所の三居沢発電所、明治23年足尾銅山の間藤発電所が自家用発電運転を開始し、公営では、明治24年琵琶湖疎水事業に伴う京都市の蹴上水力発電所が開業し、明治28年この発電所ので電源によって、日本初の京都に路面電車を走らせた。
明治20年の電灯需要は、わずか家数83、灯数 1,447であったものの明治30年には家数29,701、灯数 140,683と増加しているが、明治30年の総人口は 4,288万人で、まだまだ庶民には手が届かず、ランプの生活であった。
いまでこそ、電力エネルギーは鉱工業、林業、農業、漁業のあらゆる産業の基盤であり、電力なくしては、一日とも日常生活は成り立たない状況である。
以上、電灯の歴史については、電力技術百年史編纂委員会編『水力技術百年史』(電力土木技術協会・平成4年)を参考とした。
2.只見川の水力発電
昭和20年代、戦後のわが国は食糧を含めてあらゆる物資が不足していた。産業の振興に欠かせない電力エネルギーも勿論不足していた。大正7年富山県で起こった「米よこせ運動」(米騒動)ではないが、「電気よこせ市民大会」が昭和21年11月25日関西扇町公園で開催されている。昭和25年6月朝鮮戦争が勃発し、昭和28年7月休戦になった。いまだ休戦状態のままである。朝鮮動乱によって特需景気を背景とした電力需要も増大した。
この電力需要に対処するため昭和26年5月電力界は、強制的に電力会社の再編成が行われ、現在の9電力会社が成立した。
電気事業の再編成後、東北電力(株)は、阿賀野川水系只見川の水力発電所の建設に積極的に取り組み、昭和28年柳津発電所( 最大出力75,000Kw)、同年片門発電所(57,000Kw)、昭和29年本名発電所(78,000Kw)、同年上田発電所(63,000Kw)を完成させた。 さらに電源開発(株)によって、只見川には昭和34年田子倉発電所( 380,000Kw)、35年奥只見発電所( 360,000Kw)、36年滝発電所(92,000Kw)、38年大島発電所(95,000Kw)が竣工している。
3.新海五郎の短歌
東北電力(株)の新海五郎は、この只見川の柳津、片門、本名、上田の発電所の各々の建設に係わる現地での補償を解決し、続いて昭和28年9月から電源開発(株)の嘱託として、田子倉発電所の建設における補償交渉に全力を傾けた。しかしながら翌年29年3月極度の過労のため宿舎で倒れ、東京事務所へ配転されている。新海五郎は、約10年間補償業務に携わり、この間、 932首の短歌を詠んだ。短歌の師は土屋文明である。この短歌を編んだ新海五郎著『歌集 只見川』(東北アララギ会・郡山発行・昭和29年)に、ダム調査から補償交渉、妥結、ダム完成、そして闘病生活までの折々の歌が数首みられ、この短歌から「補償の精神」を読みとることができる。
先ずは、福島県只見の村に入る心情である。 ・砂をかむタイヤー音にしてやすらけく吾が自動車只見村に入る ・吊橋二つ大きく懸れる村に入る野末にとほく照れる白雲 ・幌高きトラックすでにタイヤーを洗ひ終へたりつどふ電源踏査隊
只見川調査所の風景 ・埃あげ道吹くかぜに窓に置く設計図とべり只見川調査所 ・決裁箱に夕日ありて退(ひ) けし室にわが幾時か稟議書を読む ・ボーリングに出で製図残る調査所の昼しずかなり山羊庭に鳴く
そして補償交渉 ・畳のうへに地図つき合わせ説明する此の仕種(しぐさ) もすでに幾年を経つ ・昼よりの交渉に心疲れつつ稲架の陰濃き月夜をかへる ・わが仕事にかかる長閑(のど)けき時ありて水に映らふ蕨手折りぬ ・交渉は桜咲く日にはじめつつ氷柱(つらら) も長き冬に入りたり ・もらひ来し補償の枠の小さきを嘆きつつ対(むか)ふきびしき面罵に ・反対派賛成派とふ色分けを吾は好まずただに説くべき
補償交渉の妥結 ・補償解決近きに洋服屋入り来り二十八着の注文とりてゆきたり ・電文もいちいち支店長が口授しつつ交渉妥結のよろこびをつぐ ・阿武隈川の冬波さむく光る見え涙たりつつ調印終る
ダム施工の風景 ・発破知らす長きサイレンに吾がジープ後ずさりつつ或距離をとる ・パワー・ショベェルの始動を夜半に聞き留めつつ梢ありて聞くクラッシャーの音 ・リベッター鳴る工事場の一室に注射針を煮る若き保健婦
水力発電所の完成 ・胸にとむる紅のリボン朝かぜに吹かるるに吾が式場に入る ・工成りしダム締切り見むものと草萌ゆる岸に群がれる人 ・水漬く家わが目にありて君に対す慰むべきかはた励ますべきか
闘病生活 ・いささかも譲るなかりし村びとら吾が病めば今日も訪ひ来てやさし ・口述しつつ妻にかかしむ病状報告の出社の見込みに書きおよび今日 ・温泉につれだつこともなかりけり吾が病むゆゑに妻を伴ふ
4.補償の精神
新海五郎は、前掲書『只見川』のあとがきで、 「敗戦によって大陸その他ことごとく資源を失った日本への産業は地下資源を始めとする豊富な東北の天然資源によって起きあがらなければならない。そしてそれらの資源によって立つ諸産業はかならずや電源と結ばれなければならない」 と、電源開発の重要性を論じ、さらに、 「只見川の補償は私の会社生活を通じてもっとも心血をそそいだ業務であった」 とある。 前記のように、短歌は人生の一断面をわずか三十一文字で詠まれるもので、補償交渉10年間電源開発に情熱を注いだ、ひとりの用地マンの真摯な姿が浮かび出てくる。新海五郎の「補償の精神」は、「反対派賛成派とふ色分けを吾は好まずただに説くべき」に読みとることができる。「反対派賛成派とふ色分けを吾は好まず」、そして、「ただに説くべき」と自分に諭している。「ただに説くべき」とは僧が仏教を伝導する心境にも類似するが、まだまだこの歌にも詠み切れない労苦があったことと推測されてならない。「ただに説くべき」という七文字の裡には、補償交渉のプロセスにおける苦渋が奥底に秘められている。交渉はなかなか割り切れないことが多い。それ故に「勘定」と「感情」との激突が生じ、やがてその調和が調印式を迎えることとなる。
5.おわりに
日本の総人口は約1億2千万人であり、すべての人々は電力エネルギーの恩恵を受けている。平成13年度における全国の発電電力量は9240億KWH であり、その構成比は、原子力35%、LNG27%、石炭21%、水力9%、石油6%、その他2%となっている。明治20年石炭から始まった電力エネルギーは、いまでは原子力を含めて種々の資源から生み出され、その歴史は、118 年を経過した。水力発電に賭け、「反対派賛成派とふ色分けを吾は好まずただに説くべき」との「補償の精神」を貫いた新海五郎の甘酸の人生もこの歴史のなかに埋没しているが、このような用地マンのひたむきな補償業務こそが、今日の日本経済の発展をきずいてきた一要因であることは確かだ。
おわりに、只見川水力発電に係わる書を揚げる。 国分理著『電源只見川開発史』(福島県土木部・昭和35年)。福島民報社出版局編・発行『只見川ーその自然と電源開発の歴史』(昭和39年)。城山三郎の『黄金峡』(中央公論社・昭和35年)、小山いと子の『ダム・サイト』(光書房・昭和34年)、三島由起夫の『沈める滝』(中央公論社・昭和30年)の三冊は小説である。 |
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