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文献にみる補償の精神【39】
「明日荒川村に引っ越すので、この風景は今日までです」
(滝沢ダム・埼玉県)
古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会
これは、
財団法人公共用地補償機構
編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
1.埼玉県立浦和図書館へ
私は水・河川・湖沼に関する書籍を集めるようになって30年を過ぎたが、ときどき、先輩や友人や出版社から「こんな本が発行されているよ」と連絡を受けたり、またその本を贈られてくると、これほどうれしいことはない。
このような類の書は、ほとんどがその地域性、郷土性を持っていることから、その地域の図書館、資料館、博物館へ足を運ばねばなかなか見つからないことがある。
例えば、「岩木川」について調べようとした場合、青森県立図書館が多くの書を所蔵している。「琵琶湖」の書はやはり滋賀県立図書館に行かざるを得ない。インターネットでみつけて、その書を取り寄せることも一つの方法であるが、なるべく全国の図書館へ出掛け手にとって調べることにしている。その図書館で新たな河川書が見つかることもある。そして地方の書店や古書店に立ち寄ったり、また、可能な限り河川やダムや水路等を歩くことにしている。
平成19年7月11日小雨のなかJR浦和駅西口に降りた。デパート、商店街、飲食店を通りすぎると、5分程で埼玉県立浦和図書館へ着いた。階段を上がって左側の郷土資料室へ入ると新着図書が並んでいる。
その中の一冊、新井靖雄写真集「奥秩父−(滝沢)ダムで移転した人びと」(埼玉新聞社・平成19年)を手に取ったとき、なにかしらジーンとくるものが彷彿してきた。図書館を出ると早速近くの須原屋書店でこの写真集を購入した。書店は広くゆったりしており、
噴水
が設置されているのにはいささか驚いた。ここにも水が生きている。
2.うしろ姿の老女
写真集の表紙をめくると、洗濯物が干してあり、その前に老女が座り込んでいる。そのうしろ姿を撮っている。「中津川渓谷に建つ家の縁側で、日陰の対岸を見る、手ぬぐいを姉さんかぶりにした年老いた後姿を逆光で撮影した写真に、新井さんの滝沢の人々への心が伝わりました」と埼玉県立近代美術館ファムス会長の清水武司はこの書のなかで述べている。 ダムによって移転せざるを得なかった滝ノ沢地区の老女の残り少ない日々の心理状態をこの一枚の写真で十分に表現されている。
もう少し、移転者の生活を追ってみたい。
野良仕事を終えてつり橋を渡って帰る姿(塩沢)、材木を切る人(浜平)、簡易炭焼きの作業する人(滝ノ沢)、小麦干し(滝ノ沢)、味噌造り(滝ノ沢)、栃の実干し(浜平)、急斜面の山の上の畑に行く人(浜平)、逆さぼりで鍬一本で畑を耕している夫婦(滝ノ沢)、仲の良い老夫婦の憩いの姿(塩沢)、孫と日向ぼっこのおばあちゃん(廿六木)、簡易水道での鍋洗い(浜平)、井戸端会議(浜平)、つるし柿をむいている人(浜平)、背丈もあるようなフキを持った3人(塩沢)、じいちゃん元気だねと診察風景(廿六木)を写し出す。さらに、急斜面地でガスボンベを運ぶ人、郵便配達人、子どもたちの屈託ない屋根のぼり(廿六木)、晴れ姿の姉妹(滝ノ沢)、子どもたちのラジオ体操(廿六木)、奉納舞い(浜平)と続いている。
そこにはダムで水没する前の滝沢の人々の暮らしを写し出し、一コマ、一コマの写真は
滝沢の人々の心を捉えている。
3.滝沢ダムの建設
滝沢ダムは、埼玉県秩父郡大滝村(荒川左支川中津川)に建設される。ダムの諸元は
堤高
140m、
堤頂長
424m、堤体積180万m3、
総貯水容量
6300万m3、
有効貯水容量
5800万m3で、
型式
は
重力式コンクリートダム
である。
昭和40年建設省(現国土交通省)によって、予備調査が開始され、昭和51年に水資源開発公団(現独立行政法人水資源機構)が承継し、平成19年の完成である。
滝沢ダムは次の4つの目的を持っている。
・ダム地点における
計画高水流量
1850m3/Sのうち、1550m3/Sの
洪水調節
を行い、下流の高水流量を低減させる。
・荒川中流部での既得用水の取水の安定化及び荒川中下流部での河川環境の保全等のための流量を確保する。
・埼玉県の水道用水として最大3.68m3/S、皆野・長瀞水道企業団の水道水として最大0.06m3/S、東京都の水道用水として最大0.86m3/Sを取水可能にする。
・ダムからの放流水を利用して埼玉県が最大出力3400kwの発電を行う。
4.滝沢ダムの
補償
補償に係わる区域は、埼玉県秩父郡大滝村であって、ダムの事業用地は274ha、移転戸数は112戸で、その内訳は廿六木9戸、滝ノ沢42戸、浜平43戸、塩沢18戸となっている。
公共補償
は
付替道路
(国道5.0km、県道3.3km、村道5.4km)、神社、消防施設等で、特殊補償は漁業権補償1件、鉱業補償3件、発電所2ケ所等であった。
水没協議会は滝沢ダム地元対策協議会、滝沢ダム対策協議会、滝沢ダム建設地元対策協議会、滝沢ダム対策水没者同志会、滝沢ダム水没者協議会、滝沢ダム建設同盟会(平成4年10月滝沢ダム建設反対同盟会から名称変更)の6つの協議会である。
主な補償の経過は次の通りである。
昭和56年 4月
滝沢ダム建設同盟会を除く5協議会と用地調査立入協定締結
〜60年3月
61年 5月
用地調査概ね完了
62年 6月
5協議会は「滝沢ダム建設補償対策委員会」を結成
63年 3月
補償基準
を提示
12月
補償基準を締結
平成 4年 3月
漁業補償妥結
11月
「滝沢ダム建設同盟会」と調査立入、損失補償基準同時妥結
6年 2月
水没移転112世帯との契約完了
8年12月
水没家屋移転を完了
11年 3月
鉱業補償妥結
12年11月
高圧送電線路移設補償妥結
生活再建
対策については、水資源機構が横瀬代替地24区画を集団移転地として取得造成した。移転代替地の取得等については埼玉県の協力を得るとともに、利根川・荒川
水源地域対策基金
の協力を得て、利子補給を行った。
以上、補償については、水資源開発公団編・発行「水とともに 水資源開発公団40年の足跡と新世紀への飛翔」(平成15年)を引用した。
5.写真家と用地担当者
新井靖雄さんが滝沢ダムの現場をを撮り始めたのは平成2年ごろからである。勤めの秩父消防署大川大滝分署の明けた時間を利用して、週2、3回のペースで現地を訪れた。新井さんの写真の師匠清水武甲さんから「自分の目に入ったものは何でも撮れ」という教えを受け、フィルムは茶箱2箱分、重さが20キログラムになった。(読売新聞・平成19年4月3日付)
最初から、水没者にカメラを向けてシャッターを押すことは出来なかった。水没者との心が交わねばシャッターチャンスは訪れないからであろう。
「こんにちは」と家々に声をかけてても返事がなく「記録写真を撮りたいだけ」と言っても、不審者に見られ相手にされなかった。このことは正しく用地担当者が初めて水没者に接する時の状況に類似する。様々な折衝を重ねたうえで漸く水没者の信頼を得ることが出来る。このように水没者に対する交渉は写真家と用地担当者の行動によく似ている。
新井さんは何度も大滝村に通ううちにチャンスが訪れた。炎天下の急斜面を上り、寺の境内で休んでいる時、中年の女性が声をかけてきた。「あんた良く来るが何屋さんでね」、「ここにダムができると聞いたのでダム記録写真を撮りに来ているのです」、「それはご苦労さん」と家に行き、サイダーを持って来てくれた。今でもあの時のサイダーの味が忘れられないという。そして、だんだんと村人たちと仲良くなってきた。新井さんは平成2年から17年間にわたって滝沢ダムで移転する人々の生活や四季折々の行事を撮り続けた。再度、この写真集からダム完成まで追ってみたい。
二百十日祭り(浜平)、悲しい葬儀(廿六木)、施餓鬼(滝ノ沢)、先代住職の墓参り。そして移転が始まる。
うしろ姿の老女のところで前述してきたが、この老女から「明日、荒川村に引越すので、この風景は今日までです。ああ、良いところに来てくれたね」と。この老女のうしろ姿を撮影し、「残り少ない日々」として作品に仕上げ、感動を呼ぶ一コマとなった。滝ノ沢地区は急斜面の地形のため車が入って来れない。家族の手で家具を一つ一つ丁寧に運び出している。解体される家も写し出す。屋根に重機の爪が刺さるのを見た子どもが「家がかわいそう」と叫び、それを聞いたおばあさんが泣きだしたときは、シャツターを押せなかったという。
6.補償の精神
新井靖雄さんは、17年間シャツターを押す喜びと悲しみ味わった。しかもシャツターを押せなかった苦しみも体験した。この二つの相対するシャツターチャンスに補償の精神が現れているようだ。それは新井さんの優しさがレンズを通して凝縮されている。その思いやりは水没者の心情となって一コマ、一コマの写真に捉えられている。水没者の心と一体となっている写真だから人々に感動をあたえるのであろう。補償の精神はその優しさと思いやりで十分だ。
7.滝沢ダム水没地域の総合調査
水没するということは、土地や家屋もそこで生活してきた全てが消滅に繋がってくる。幾千年にわたっての大滝村の歴史、文化、生産、生業、遊び、また自然、動物、植物も少なからず消えることになる。
このように消えていくこととなるが、これを記録として残す総合調査が小林茂氏を団長として、平成2年から4年にわたって多くの調査員と先生方の協力によってなされた。滝沢ダム水没地域総合調査会編・発行「秩父滝沢ダム水没地域総合調査報告書(上巻)自然編」(平成6年)には、地形、地質、地理、植物、動物編からなり、同「秩父滝沢ダム水没地域総合調査報告書(下巻)人文編」は大滝村の歴史、近世大滝村産出木材の筏流し、大滝村の地名、社会生活、民家、食生活、生産・生業、交通・運輸・通信、信仰、人の一生、年中行事、民俗芸能、口頭伝承等、貴重な調査となった。
これらの調査もまた、補償の精神につながってくるのではなかろうか。それは、やはり消えていくものを何らかの形で後世へ遺すことは大滝村の生きた証となり、その裡には当然に優しさと思いやりの心情が貫かれているからである。
8.ダムもすぐれた作品
移転者が次第に村を去っていくと、静寂な谷間にダム工事が始まる。
谷間に付替道路が竣工し、
ダムサイト
の掘削が行われ、ダム本体の
コンクリート
打設
によって滝沢ダムの雄姿が次第に現れてくる。
新井さんはダム現場で働く人々も捉える。「ダムは俺が造るんだ」とダム職人たちの笑顔をも写し出す。ダムは沢山の人たちの手によって完成する。
栃の実を初めて知りぬダムの村 吉永 貞志
[関連ダム]
滝沢ダム
(2009年10月作成)
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