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文献にみる補償の精神【27】
「君の山には木が幾本ある、一本幾らだ…。山ぐるみ
買つてやらう。値段を云ひなさい」
(小牧ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1.庄川水系ダムの歌

 庄川は、その源を烏帽子岳付近に発し、岐阜県荘川村、白川村を曲流しながら、富山県に入り、平村、利賀村を北流し庄川町金屋において山地から出、砺波平野の扇状地を貫流し富山湾に注ぐ、流域面積1180km2、流路延長 133kmの一級河川である。

 この庄川には、昭和初期以降多くの水力発電用のダムが築造されてきた。次のような「庄川水系ダムの歌」(作詩・作曲服部勇次)で、階段状にそのダム群がみられる。(『ダムと水の歌 102曲集』( 服部勇次音楽研究所・昭和62年) )

 庄川水系ダムの歌

1.荘川村の 牧戸より
  庄川の流れ 百余キロ
  その川沿いに ダム多し
  日本海へと 注いでる
2.庄川渓谷 右に見て
  バスは走るよ 風切って
  合掌造りが のき連らね
  鳩谷ダムに しぶき飛ぶ
3.加須良部落の 六世帯
  集団離村で 今は無し
  その人々に 幸よあれ
  椿原ダム 山の下
4.成出制御所 川向こう
  通信装置 完備され
  多くの人が 勤務する
  トンネル出ると 成出ダム
5.岐阜と富山の 県境
  総合開発 着々と
  境川ダム 建設中
  働く人に 汗光る
6.送電線が 空高く
  なびいているよ 音たてて
  国道沿いに 見えるのは
  赤尾ダムに 発電所
7.菅沼集落 後にして
  川幅だんだん 広くなる
  こきりこ節が 流れるは
  水の豊かな 小原ダム
8.橋のたもとの お小夜の碑
  きれいに磨かれ 光ってる
  やがてぞ見える 前方に
  えん堤高いぞ 祖山ダム
9.庄川支流 利賀川を
  どんどん登れば 見えて来る
  堤の緑が 目にしみる
  千束ダムの 音高し
10.大雨降れば ダムにため
  洪水調節 役目する
  日照りが続けば 放流す
  利賀ダム水に 恵まれる
11. 豊かな水に さそわれて
  遊覧船に 人の声
  行楽客の 数多い
  大型化した 小牧ダム
12. 道はだんだん せまくなり
  鳥も通わぬ 山の里 
  せせらぎの音 こだまして
  利賀川ダムに セミの声
13. 雄神中野に 水送り
  水車を回し 発電す
  庄川合口 ダムしぶき
  川は流れて 日本海

 このように庄川はダム多しと詠まれている。建設中の境川は富山県によって平成5年に完成している。この歌以外に御母衣ダム(昭和36年完成)、大白川ダム(昭和38年完成)、白水ダム(昭和38年完成)、和田川ダム(昭和42年完成)、大黒谷ダム(昭和42年完成)が造られ、平成17年現在ダムは17基に及ぶ。


2.小牧ダムの建設

 庄川流域は古くから、飛騨越中の木材輸送の川の道であった。また下流域では農業が発達してきた。昭和14年、富山県砺波市庄川町大字金屋地区に、砺波平野を潤す農業用水用等の庄川合口ダムが築造されているが、この合口ダムから上流3キロ程に、同庄川町小牧字矢ケ瀬地先に、昭和5年水力発電用(最大出力7万2000KW)を目的とした小牧ダムが完成、同年その上流に祖山ダムも竣工した。

 小牧ダムの諸元は堤高79.2m、堤頂長 300.8m、堤体積28.9万m3、総貯水容量3795.7万m3、型式重力式コンクリートダム、17箇所のゲート魚道の設置もあり、当時東洋一のダムを誇った。富山県氷見市出身の実業家セメント王といわれた浅野総一郎(嘉永元年〜昭和5年)が庄川水力電気(株)を創立し、社長となって小牧ダム建設を始めたが、大正12年関東大震災の影響などで資金調達が不能となり、その後日本電力(株)(現・関西電力(株))の傘下に入り完成させた。ダム工事中は洪水に見舞われた。また、用地、流木輸送、灌漑用水、魚道などの補償問題がおこり、エレベーター式の魚道、流木の運材設備も設置された。とくに難問題だったのは、小牧ダムは庄川本川の築造であったために、飛騨・五箇山地域からの木材流しに支障を来すことから、飛州合同木材(株)との間で争いが生じたことである。新規加入の電力水利権と慣行流木権との抗争となり、いわゆるその当時社会問題となった「庄川流木事件」である。

 この飛州木材(株)専務取締役平野増吉(明治11年〜昭和34年)は、木材を流す権利即ち流木権を主張し、木材業者の生活権を守るために、ダム撤去とダム計画の中止の訴訟を起こした。その間、両者間では幾たびか流血の惨事となった。


3.庄川流木事件の経過

 小牧ダム建設に係わる庄川電力(株)と飛州木材(株)の争いについて、主に小坂田和美著・発行『庄川流木事件』(平成4年)により、次のように追ってみた。

大正6年     浅野総一郎、庄川水利権の使用を富山県に申請
  8年1月28日 富山県、水利権を認可
    6月7日 富山県参事会、堰堤許可取消の意見書を決議
  14年4月   庄電、小牧堰堤工事に着手
    9月   庄川筋木材業者、岐阜県知事・大阪営林局長に上申書提出
  15 2月27日 青島村長、堰堤築造反対の意見書提出
    7月8日 庄川一市三郡(高岡市、東砺波郡、西砺波郡、射水郡)の
         農民代表、発電工事反対の総決起大会開催
    7月   富山県議会参事会、堰堤工事現場踏査
         岐阜県白川村、堰堤反対の村民大会開催
    10月5日 飛州木材、行政裁判所に「堰堤工事禁止の仮処分」申請
昭和2年3月   飛州木材、昭電に対する「発電水利庄変更許可並びに同工事
         の実施認可取消」の行政訴訟を提起
  3年4月25日 青島村で実業団体連合大会開催、堰堤工事反対を決議
    5月   庄電、魚道設備の認可申請
         庄電、庄川(左右両岸)合口期成同盟会に1万円寄付
    7月   岐阜県荘川・白川村、林業擁護会結成
    7月25日 流送方法に関する三省会議開催(〜28日)
    11月5日 富山市において、庄川沿岸民電気反対連合大会開催
    12月   庄電、庄川合口期成同盟会に九万円寄付
  4 3月5日 青島村・清見村・荘川村・白川村、行政訴訟に原告補助として
         従参加
    4月   富山県知事、魚道設備認可
    6月   庄川沿岸民連合会・地方実業団体連合会、庄川堰堤問題大
         演説会開催
    夏    小牧堰堤ほぼ完成、第一締切り破壊、第二締切破壊工事着手
         庄川沿岸大旱魃
  5年2月6日 東山見村議会、発電促進の意見書提出
    3月   綿貫栄・田中清文、飛州木材取締役を辞任
      26日 富山商工会議所、発電促進決議
    4月   庄電、庄川合口期成同盟会に15万円寄付
    4月4日 高岡商工会議所、発電促進決議
      5日 飛州木材、青山村で庄川問題批判演説会開催
      6日 飛州木材、富山市で庄川問題批判演説会開催
      7日 飛州木材、岐阜市で庄川問題批判演説会開催
      10日 電力会社と岐阜県が、白鳥−鳩ケ谷間の自動車道路(百万円道路)
         改削に関する覚書交換
      12日 井波町、発電促進決議
      22日 飛州木材、庄電を相手に「堰堤仮排水路締切禁止」の民事仮処分
         を申請
    5月1日 庄電、民事仮処分取消を申請
      8日 飛州木材、庄電を相手に「流木権確認権利妨害排除」の民事訴訟
         を提起
      13日 逓信次官中野正剛、飛州木材と電力会社との調停に失敗
    6月21日 飛州木材、「高堰堤式発電区域内木材輸送設備認可取消請求」の
         行政訴訟提起
    7月10日 仮処分取消訴訟、庄電の勝訴・飛州木材控訴
    8月   乾新兵衛(飛州木材の運動資金源)、横領容疑で逮捕
      22日 富山県知事、流材設備完工認定、仮排水路閉塞認可
      30日 行政訴訟の実施検証
    9月10日 行政裁判所、飛州木材の仮処分申請を却下
      14日 庄川用水合口起工式開催
      21日 小牧堰堤仮排水路の閉塞完了
      25日 飛州木材の仮処分取消に関する控訴棄却
    10月20日 飛州木材、「排水路閉塞並びに排水口填塞工事認可取消」の
         行政訴訟提起
    11月   小牧発電所、発電開始
      9日 浅野総一郎(83歳)死去
      20日 飛州木材、民事仮処分上告取下げ
    12月   祖山発電所、発電開始
  6年1月12日 流木に関する事前協議、開催
    4月   飛州木材、「流木認可の一部取消並びに木材陸揚げ命令取消」を
         行政裁判所に請求
    5月   庄電、民事仮処分事件の担保権利者として飛州木材に対する
         損害賠償請求を申請
    9月19日 民事訴訟の実施検証
  7年2月11日 民事訴訟の実施検証(〜12)
    12月20日 行政訴訟の判決言い渡し、「原告の請求相立たず」庄電勝訴
  8年3月7日 民事訴訟の判決言い渡し、流木権の確認 
    8月8日 和解に因り、全ての訴訟を解訴


4.補償の精神−山ぐるみ買つてやらう

 昭和2年12月31日、ある仲介人によって、浅野総一郎と平野増吉とは相対した。その敵対する二人の模様について、石川賢吉著『庄川問題』(ダイヤモンド社・昭和7年)に次のように描かれている。

 浅野老はイキナリ平野君に向つて
『君は、材木が流れぬと云つて、水力電気工事に、故障を申立てゝ居るそうだが、怪しからんぢゃないか。』
と、云つた。是れは、老一流の經濟觀から立論したもので、傍若無人の云ひ分ではそう云つても惡毒く聴へぬのが老の徳であつた。平野君は老と争ふ気はないが、そう云はれゝば、何とか返事をせねばならぬので、
『流れぬものを流れぬと云つた處で、別段差支ないぢやありませんか。』
と、小さな聲で答へた。
 無論、老には聴えない。老は聴えようと聴えまいと、平野君の返事には頓着なく、手取り早く此問題を片附けようと掛り、
『君の山には木が幾本ある、一本幾らだ…。山ぐるみ殘らず買つてやらう。値段を云ひなさい。』
と出た。
 これでは丸で山の取引に來たやうなものだ。平野君には返辭が出來ない。そこで平野君は止むを得ず良三君に向つて其旨話をすると、良三君は兎も角も親爺の云ふ事を一ト通り聴いて呉れと云ふ。
 浅野老は一人で勝手にしゃべり續けるのであつた。
『君が山の木を伐つて、流れないと苦情を云ふのは要するに金にならないからであらう。だから、俺が君の所の木を買つてやる。それでよからう。名古屋の相場で山ぐるみ買つてやる。そうすれば君の方に文句はない筈だ。』
と、老は一人で決めて一人で合點して居る。
 平野君はこれに對して何とか返事をしたいが、如何に雄辯を振つても哲人然と構へて居る浅野老の耳へ届きそうもない。そこで又止むを得ず良三君に向つて云ふのであつた。
『どうも御老人と私等とは目標が違ふから困る。私等は山の賣買を目的として居るのではない。庄川にダムが出來て、木材が流れなくなれば、其流域に屬する山林が全部立ち腐れになつて了ふ。之を憂ふるのが我々の根本思想である。云はゞ我々は國家の山林の爲に抗議をして居るのだ。之を諒解して貰はなければ話は出來ん。』
 平野君が斯う云ふと、良三君は親爺の耳許へ口を持つて行つて其意味を傳へた。
 すると、親爺は噛んで吐き出したような態度で、
『君は何と云ふ物の解らぬ男だ。世の中で金で話の付かぬ事があるか。誤って人の命を失つても、金で話が付くぢやないか。俺は今まで君のような物の解からぬ男に會つた事がない。』
と云ふ。すると平野君も負けて居らず、
『私も貴下のような物の解らない人に會つた事がない。』
と云ひ返してやつた。
 話せば話すほど兩者の距離は遠くなつて、到底纏まりそうもない。そのうち、浅野老は、出掛けなければならぬと云ふ。平野君は旅行から歸つたばかりだから、歸宅せねばならぬと云ふ。
 それで兩者は物別れとなつた。

 この浅野総一郎の言葉には、まず話し合ってみようとする「補償の精神」さえ全然見えてこない。平野増吉の話をひとかけらも聞く耳をもっていない。一方的に金銭のみで問題の解決を図ろうとしている。大正8年浅野は庄川を視察して、「おお、黄金がながれている」と叫んだという。お金が万能であると考える浅野には、平野を「ゆすり・たかり」の輩と勘違いしてしまった。

 この「庄川流木事件」がこじれるにつき、仲介者が現れた。富山県知事白上佐吉の妥協案、前農林次官松村眞一郎の森林鉄道敷設の案、逓信次官中野正剛の庄川水力(株)、日本電力(株)、飛州木材(株)が三社合併し、利害を調整する案であったが、いずれも不調に終わった。

5.流木権の確立

 昭和5年5月、飛州木材(株)は、庄電(株)を相手にダムの湛水を防ぐために「堰堤仮排水路締切禁止」の仮処分を申請、申請が認可された。これに対し、庄電(株)は民事仮処分取消を申請し、争いとなった。

 昭和5年10月大阪地方裁判所第二民事部裁判長判事片山通夫は、次のように判決を下した。

【 被申立人は伐木流送を營業とする以上この其有すると主張する流木權は、該營業を維持するに付いての唯一重要なる權利を以て、單に財産的価値のみに止まらず、一面人格的価値をも有するものと看做すを妥當とする。】

 飛州木材(株)による伐木流送の営業として、流木権を認めている。さらに、

【 電力會社が事故の權利を行使するに際し、他人の權利を侵害する虞れあるものに對しては、誠意ある態度を以て其解決を計る可きのである。にも拘らず、之に就て何等の努力をなさず、只工事の進捗に汲々たりしは甚だ遺憾である。】

 と、いって電力会社の横暴を戒めている。

【 被申立人(飛州木材(株))が湛水後運材設備の改造改善、若しくは之による損害の賠償の權利を行使し得るを以ての別途の方法により、結局法律上客観的に見て満足すべき状態に置くことを得べきにより、双方地位利害の均等を保持し得可しと認めらるる以上は民事訴訟法第七五九條に所謂特別の事情ありとし、保證を立てしめ其取消を爲すを妥当の處置なりと認む。】

 そして、眞に事の重大なるを深く思慮し、共存共栄の大精神に則り、協調互譲以って一日も早く平和なる解決をなすことと結んでいる。

 電力会社は保證金を支払うことで、仮処分行為は取消され、飛州木材(株)は流木権は確立したものの訴訟に敗れた。続いて飛州木材(株)は行政訴訟をおこしたが、それも却下されてしまった。このような裁判の結果を招いた背景には、わが国にとって電力エネルギーが最も必要とした時代であったからであるといえる。小牧ダムは湛水が始まり、ダム湖が誕生した。


6.補償の解決

 この判決を受けて、湛水後の運材設備の改造改善、損害賠償に係わる交渉がなされた。飛州木材(株)は流木流送が不可能となる代償として森林鉄道敷設資金 800万円を要求したが、これは実現しなかった。

 庄電(株)は、この地域の山林の購入、山林所有者の木材会社の株の取得、山林労務者、流材人夫に対する失業補償を行い、国鉄越美南線美濃白鳥駅から白川村役場鳩谷に至る32kmの「百万円道路」の建設がなされた。現在の国道 156号線である。

 昭和8年8月、庄川流木事件は内務、逓信、農林各省、富山県、岐阜県等の斡旋により両者の和解が成立し、すべて解決した。流木に携わった人たちの多くは、北海道、朝鮮、さらに満州に職を求めて散って行った。

 昭和9年、木材輸送は高山線の開通によって次第に鉄道輸送に変わっていく。その後のダム造りは、木材流送に代わる手段として鉄道、道路の建設が慣行となった。今では木材輸送はほとんど道路による陸送に変わり、時の流れを感じる。


7.平野増吉・補償の精神

 平野増吉が率いた流木争議は、その資金を神戸市の金融業者が出資していたことから、「ゆすり・たかり」と目されていたことは、平野にとっては心外であったであろう。

 前掲書『庄川流木争議』によれば、

【 平野増吉は、後に庄川流木争議を振り返り、「電力の開発は国策上の緊用事であるのみならず、とうじと比して、民衆の生活権を充分尊重し、保障の如きも、充分以上に国家でこれを与える。(中略)現在のような国家的保障があれば民衆は国家自立の将来のため、進んで電力ダムの建設のため犠牲になるべきであると考えている。これは立場の相違ではなく時代の変化である。庄川事件当時、現在のような制度(憲法)が完備されていたら、あのような事件は起らなかったかもしれぬと思う」と述べている。つまり、平野増吉は、自己の「流木権」を主張することで、主な目的を利潤追求に置いて補償問題を軽んじる電源開発の波から、地域産業及び流域住民の庄川を利用する権利(慣行水利権)を守ろうとしていたのである。】

 と、平野増吉の真意について結論づけている。

 以上、平野増吉の「補償の精神」を推測すれば、庄川流域民の生活権を確保するとともに、庄川流域における民主主義の社会を築きたかったのではなかろうか。このことは終戦時、平野増吉は中野正剛、宇垣一成、近衛文麿等と戦争終結工作のため、東奔西走するに及んだことから理解できそうだ。浅野総一郎の金銭万能主義と平野増吉の民主主義の考え方は、所詮相いれなかった。そこに「補償の精神」の悲劇が生じたといえる。

 なお、この事件を扱った富山県砺波市出身山田和の『瀑流』(文藝春秋・平成14年)の小説はなかなかの力作だ。あらゆる争議資料を渉猟し、丹念な調査のうえ、その真相に迫っており、時代に翻弄される男女の恋も描いている。


おわりに

 平成2年7月庄川町水記念公園に、浅野総一郎翁の銅像が建立された。顕彰碑に「この事業の遂行により工業の発展はもとより灌漑、治水、文化、観光等に与えた影響ははかり知れず、その恩恵は無限である。さらに戦後に至っては和田川総合開発につながり、わが富山県発展の画期的大事業になった。」とその功績を讃えている。

 このように小牧ダムは「庄川流木事件」の舞台となったが、一方では、わが国における土木技術史上特筆されるダムである。それは大正14年物部長穂東京帝大助教授が「貯水用重力式堰堤の特性及び其合理的設計方法」を発表し、小牧ダムはこれによる「耐震設計理論」を適用した最初のダムであり、その後、ハイダム建設の嚆矢となったからである。さらに、平成14年小牧ダムは河川ダムにおける初の「国の登録有形文化財」に指定された。

 平成18年6月4日私が訪れたとき、17のゲートを擁するその円曲で優美なダムサイトは緑の湖面に映し出され、その風格と威厳を保っていた。

[関連ダム]  小牧ダム
(2007年4月作成)
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