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1.只見川水力発電の変遷
今年(平成17年)は、戦後60年にあたる。いまの物資の豊富さに比べると、昭和20年代はすべてが欠乏していた。電力も勿論不足していた。わが国の国民生活の向上と経済の発展に資するため、水力発電用のダム建設が至上命令であった。このような時代の要請に基づき、昭和24年相模ダム(相模川)、25年松尾ダム(小丸川)、26年成出ダム(庄川)、27年平岡ダム(天竜川)、28年久瀬ダム(揖斐川)、29年丸山ダム(木曽川)、30年上椎葉ダム(耳川)、31年佐久間ダム(天竜川)などのダムが完成している。
阿賀野川水系只見川の開発は、水力発電ダムの宝庫といわれ戦前から行われていたが、本格的なダム建設が始まったのは昭和20年代以降からである。その水力発電の変遷について、水力技術百年史編纂委員会編『水力技術百年史』(電力土木技術協会・平成4年)で次のようにみることができる。
『わが国の有数の電源地帯である只見川は昭和3年からようやく開発の手が入ったが、河川一貫開発の構想は第3次発電水力調査時代から日発東北支店によって練られてきた。昭和23年に日発から奥只見、田子倉の大貯水池を中核とする只見川の本流一貫開発の計画が発表されると新潟県は奥只見から分水する計画を打ち上げ長い論争が始まることとなった。(中略)ちょうど電源開発促進法が施行され電源開発(株)が創立された頃で、昭和27年9月の電調審で只見川が電源開発(株)の調査河川に指定され、本流、分流案論争はますます激しく、昭和28年6月22日の電調審で初めて取り上げ、両県知事の意見が聴取された。それから数日を経て29日に再び俎上に上げ、全体計画の優劣について詳細な議論がなされた。こうしてようやく7月22日の電調審で本流を主体にした全体計画が決まり、そのうちの一部である奥只見、田子倉、黒又第一の開発地点が決まり、一応本流、分流案論争にピリオドが打たれ、只見川の一貫開発が始まることとなった。』
田子倉ダム地点は、福島県南会津郡只見町田子倉、奥只見ダムは同県南会津郡檜枝岐村駒獄である。後述するが、このダムの建設をめぐる水没者の人間模様を作家城山三郎が小説『黄金峡』で描いている。
2.田子倉ダムの補償経過
田子倉ダムの補償経過について、国分理編『電源只見川開発史』(福島県土木部砂防電力課・昭和35年)により、次のように追ってみた。
昭和27年9月16日 電源開発(株)の設立 28年6月27日 田子倉地区関係代表15名、大竹福島県知事と会見 7月22日 只見川開発が本流案で決定(一部新潟県へ分流) 29年4月14日 賛成派32戸補償交渉妥結 5月29日 電発(株)、現地に「補償対策推進本部」設置 8月10日 土地収用法における事業設定申請書の提出 9月2日 水没者50戸のうち建設反対者5戸となる 9月14日 収用土地の細目64筆公告 9月16日 賛成派45戸と補償契約調印なる 11月24日 田子倉ダム工事着手 30年1月17日 〜25日 賛成派45戸に対し、補償金支払われる 6月13日 電発(株)、福島県庁にダム反対5戸に対する 土地細目の公告方を陳情 6月21日 奥只見発電所の補償案に対し、南会津郡檜枝岐 村の代表12名が大竹知事に斡旋依頼 7月5日 大竹知事斡旋に入る 8月12日 奥只見発電所(福島県内分)檜枝岐村の片貝沢 地区の補償妥結が伝えられる 10月17日 田子倉ダム、土地の強制測量が始まる 11月23日 反対派 強制測量に対し、妨害する 31年7月25日 建設反対5戸、円満妥結 35年5月2日 田子倉ダム貯水開始
3.補償交渉の描写
城山三郎の『黄金峡』(中央公論社・昭和35年)は、ダム補償問題を真正面から捉え、ダム現場にて徹底的な取材に拠る作品である。水没者喜平次老人とダム所長織元との交渉を中心に、純朴な村民たちが、ダム絶対反対と言いながらも、逆に補償金の期待への奇妙な錯綜する心理状況と、補償契約後は、次第に華美なる生活へと変化していく、その人間の生きざまを描く。
『「絶対反対なんですね」今度は織元は念を押すように云った。 「ンだ」「ンだ」の声が返ってくる。 「困りましたなあ。あんた方は絶対反対と云われるが、われわれは絶対につくらにゃならん」 人垣の表情がいっせいにけわしくなった。 喜平次もまたダムには絶対反対であった。発電関係者を見ることさえいやであった。 ゴールドラッシュがはじまった。 一戸あたり平均四百万という山林水没補償金の支払いがはじまるとほとんど同時に行商人の群れが戸倉へなだれこんだ。』
少しずつ水没者の補償交渉がまとまっていく。だが、喜平次は頑強にも抵抗していく。水没者交渉の最後のつめの段階で、突如織元所長はダム現場所長の職を解かれ「東京本社役員室詰」の閑職へ左遷を命ぜられる。ようやく、反対していた喜平次も補償契約に調印する。
しかしながら、喜平次は54年型クライスラーの外車に乗って、村の峠にさしかかったとき、吹雪のなかの川へ、車もろとも転落して死ぬ。悲しいやるせない結末であるが『喜平次の頬を一瞬だが、残忍で幸福そうな笑いがかすめた』と、この小説は結んでいる。
4.補償の精神
小説『黄金峡』のなかで、ダム所長織元は「困りましたなあ、あんた方は絶対反対と云われるが、われわれは絶対につくらにゃならん」と水没者に言い放っている。ダム建設には、造る側と造られる側との葛藤や確執が必ず生じる。造る側は、組織力、経済力、技術力はもちろん必要であるが、それに加えて、大義名分、時代の要請に基づく世論の後押しもまた成否を決定することとなる。
只見川の開発は、新潟、福島両県の水の争奪戦であり、ようやく福島県の本流案に落ち着いた。しかも、当時の吉田茂首相やGHQの幹部までが介在し、国政、県政を含め、もめにもめて決着した経緯がある。だが水没者は、水没者の気持ちなどおかまいなしに、政争にあけくれて、計画だけが進んでいくことに不安と焦燥が生じていた。いつのまにか怒りとなりダム反対を助長していた。一方、所長(実際のモデルは北松友義)にとっては、「絶対につくらねばならん」ダムであった。敗戦からの国土の復興を図らねばならない義務感が背景にあったといえる。所長は「絶対につくる」という「補償の精神」を貫き、所長といえども、自ら補償交渉にあたった。
5.北松所長の信条
田子倉ダムの建設は電源開発(株)が行うことになった。技術者北松友義は東北電力・から電源開発(株)に移り、田子倉建設所長となる。北松所長は「技術者はダム、発電所を造るだけでは足りない。できるだけ早く、安く造ることが大切だ」「建設所には、補償専門の次長や課長もいるが、所長はたとえ土木屋でも補償に無関心ではいられない。わたしは補償を有利に解決するのも発電所建設技術のひとつだ」との信条をもって、精力的に補償交渉を行った。頑強な反対者は「只見川の鬼、北松をたたき殺せ」、「北松が来たら塩をぶつけろ」のビラが貼られたが、毎日50人の地主と折衝を重ねた。
このような北松所長の「ダムをつくらねばならない」という「補償の精神」が、誠意ある行動につながり、反対者の心を動かし、補償解決に向かわせたといえるだろう。しかしながら、この激務のため、所長は次第に視力が衰え、昭和35年田子倉ダムの完成を見ずに電源開発(株)を退職せざるを得なくなった。以上、福島民報社出版局編・発行『只見川−その自然と電源開発の歴史』(昭和39年)に拠った。
なお、田子倉ダムの諸元は堤高 145m、堤頂長 462m、堤体積 195万m3、総貯水容量49,400万m3、有効貯水量37,000万m3で型式は重力式コンクリートダムである。事業費346.38億円、施工者は前田建設工業(株)である。
おわりに
城山三郎は、『黄金峡』のあとがきで、しみじみと述べている。
『主題のひとつは、金銭というものが、いかに人間を動かし、人を変えていくか、というところにある。(逆に金銭に動じない人間の魅力もある。)(中略)だが金銭による充足には、とどめがない。それまで考えもしなかった欲望が、次から次へとふくらみ、足もとをすくう。そして最後には、土地を失った悲しみだけが残る、ということになりかねない。沈める側の人間にも、もし心があれば、それがわかる。 この作品に登場する所長は、農民たちへの人間的な共感を抱えながら、彼なりの誠意と努力で奔走する。この種の人間がこれほどするならと、人を動かすだけのものがある。 土に生きる人間のみずみずしさと、黄金の冷やかな軽さ、したたかさ。黄金が舞い狂う谷間は、しかし、ここだけではないはずである。黄金に向き合って、得るもの失うもの何なのか。心の中にぽっかり谷間に穴をあけ、虚しく吹きぬける風の音だけが聞こえるということを、おそらくだれも望んではいないであろうに。』
日本が高度経済成長へ向かっていくとき、この小説はこれからの日本人が、金銭至上主義へ進むことを暗示している。
ダム底想ひてをれば天炎ゆる (横山白紅)
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