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文献にみる補償の精神【58】
「故郷は路傍の石さえ母の乳房の匂いがする」
(北山ダム・佐賀県)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1. 兼山・清正・兵庫の水利事業

 わが国は縄文時代から今日まで米作りに勤しんできた水田稲作民族である。米の増産には水田開発による水利施設の充実が重要な位置を占める。

 江戸期の水利事業を図った武将たちを挙げてみたい。土佐藩家老野中兼山は、吉野川流域での宮古野堰、下津野堰、行川溝の開削、物部川での山田堰、仁淀川での八田堰、鎌田堰、さらに四万十川流域でのカイロク堰、松田川流域での河戸堰等を築いた。

 肥後藩主加藤清正は、熊本城を築き、その城や町を守るために白川を付替え、水門、堰を造り、土砂の流入を防ぐため白川と坪井川を分離させ、洪水を減災させ、また坪井川と井芹川は城を防御する堀の役割をもたせ、舟運にも役立つように改修した。白川上流の灌漑用水路には、「はなくり」という工法を用い、水勢で土砂が用水路に溜まらないようにしている。菊池川では、河口玉名干拓、横島小島石塘、くつわ塘、船着場を設置し、緑川では、鵜の瀬堰を造り、用水を引き、御船川の付替え、乗越堤、遊水地、桑鶴の轡塘、六間石樋、川尻船着場を設置した。

 清正と親交のあった佐賀藩の成富兵庫茂安は、朝鮮の役などで活躍した武将であったが、治世が安定してくると、佐賀領内の治水・利水の整備を行った。川上川の上流から巨勢川までの市の江水路を引き新田を開発、嘉瀬川から佐賀城内の多布施川に分水する石井樋、筑後川右岸堤の千栗堤、城原川の三千石堰、田手川の蛤水道などの施工を行っている。平坦な佐賀平野は水利に乏しく排水不良の地であったが、兵庫は高度な水利技術をもつて、佐賀平野を豊かな穀倉地帯に変えていった。兵庫は佐賀藩における水、土壌、気象、地形を長年の体験から知り尽くし、嘉瀬川、六角川、松浦川、筑後川の特徴をそれぞれ活かし、治水利水の水利秩序を確立した。それは自然の力に対抗せず、逆にその力を利用し、水を遊ばせ、ゆっくりと流す、貯める、そして循環させる治水利水の思想をもって、各河川に自然遊水地、横堤、野越し、水防林、淡水(アオ)取水の伝統的な河川技術を採用したことである。


2. 佐賀平野の河川

 佐賀県は九州の西北部に位置し、東に福岡県、西に長崎県と接し、北に玄界灘、南は有明海に面し、面積約2439ku、人口約87万人である。県内をながれる河川は、@佐賀平野を蛇行して流れ有明海に注ぐ嘉瀬川、六角川、A佐賀平野における干潟を流れる河川水と有明海の潮汐により、澪筋に形成された江湖佐賀江川、八田江川、本庄江川、B長崎県堺にある多良岳山系等から流れ有明海へ注ぐ急流河川塩田川、鹿島川、C県西部の山系から流れ出し玄界灘へ注ぐ松浦川、D福岡県境に沿って有明海に注ぐ九州一の大河筑後川、である。前述したが、佐賀平野は、背振山地から流出した土砂が有明海より戻されて堆積し、広大な低平地をつくりだした。県土44.8%山地で、55.2%が平地を占め、全国平均の66.4%の山地、33.6%の平地から対比すると、山地の割合が少なく、平地の割合が多い。このことは、森林が少なく、保水力に乏しく、逆に広大な平野には当然水利用の需要が多くなり、水が逼迫する。一端降水になれば、一気に雨水が流出することとなる。昔から「降れば大水、照れば干ばつ」といわれ、洪水から生活を守り、また灌漑用水や生活用水得るために水との闘いであった。成富兵庫の水利施設の築造もまた、佐賀藩における治水利水との闘いの結果であったことを物語っている。


3. 北山ダムの建設

 このように「降れば大水、照れば干ばつ」の状況について、近代的なダムや水路の建設は、水を時間的に、地域的に過不足の調整を図る役割を持っている。さらに電力エネルギーを供給する。佐賀県におけるダム建設の嚆矢は、嘉瀬川農業水利事業の一環として、昭和32年に完成した北山(ほくざん)ダムである。ダムサイトは嘉瀬川の上流佐賀郡富士町(現・佐賀市)藤ノ瀬、関屋地先に位置する。この建設記録について、嘉瀬川農業水利史編集委員会編『嘉瀬川農業水利史』(九州農政局嘉瀬川農業水利事業所・昭和48年)が刊行されている。

 嘉瀬川の水は、藩政期に灌漑用水や生活用水のため、取水堰、水路が築造され、佐賀平野を潤してきたが、その後、水田の拡張及び有明海の干拓による農地造成、さらには度重なる干ばつを受け、用水不足を来たすようになってきた。昭和9年頃から嘉瀬川総合開発計画がなされてきたが、ようやく戦後にその計画が確定し、実施された。

 この事業は、嘉瀬川の上流に北山ダムを築造して、水源を確保し、下流大和町惣座地点に川上頭首工を設置し、この地点から最大水量18.693m3/sで、左右両岸90kmに及ぶ幹線水路によって、灌漑面積1万1159haを潤す。昭和48年国営事業、昭和60年県営事業が竣工した。さらに灌漑用水を流用して洪水調節を図り、九州電力鰍ヘ、北山ダム直下流に小関発電所を建設し、この水を有効利用するために、支流神水川の水を加えて新設の鮎の瀬発電所に落とし、新設の南山発電所を経て、既設の川上第5発電所に合流させ、最大出力2万7500kwの発電を行う。

 北山ダムの諸元をみてみると、堤高59.3m、堤頂長180m、堤体積14万5000m3、総貯水容量2225万m3、型式は重力式溢流型コンクリートダムである。主なる補償は家屋移転110戸、取得面積200ha(宅地等59ha、農地100ha、林地41ha)、公共補償、鉱業権補償からなっている。総事業費は18億4500万円を要し、企業者は農林省、施工者は大成建設鰍ナある。現在のダム管理は佐賀土地改良区が行っている。


4. 北山ダムの建設経過

 戦後間もなく、物資不足のなかで始まった北山ダムの建設、そして完成後今日までの経過について、追ってみた。

昭和23年農林省と北山ダム対策会補償交渉開始
24年嘉瀬川農業水利事業所の開設
補償調査が行われる
仮設・クラグライン索道の着工
25年用地補償交渉妥結(7月)
堤体及び仮設工事の着工
26年土地改良事業計画確定
27年ダム水没者移転完了
北山ダムコンクリート打設開始
31年小関村、北山村が富士村となる
32年北山ダムの完成
33年川上頭首工の着工
37年満水位面上の水辺に住む4戸追加移転(最終的には110戸移転)
第一回北山ダム移転者及び土地提供者懇談会の開催
48年大井手幹線上流部など国営事業竣工
60年金立線など県営事業竣工
61年北山ダム功労者顕彰碑の建立
62年鎮魂碑の建立
平成17年富士町と三瀬村、佐賀市に合併
18年第20回北山ダム移転者及び土地提供者懇談会の開催(最後)


5. 補償の特徴

 戦後、昭和20年代は、わが国が一番貧しく、食糧も電力エネルギーも極端に不足していた時代で、北山ダムの建設は佐賀県全域において待望されたプロジェクトであった。国、県、市町村、土地改良区等の関係者は、このプロジェクトに熱意をもって取り組んだ。

 水没移転者106戸、土地提供者150戸との交渉は難航しているが、前書『嘉瀬川農業水利史』では、ダムを造る側から次の3点を挙げている。

@ダム建設自体が、その当時としては例に乏しく、用地補償の基準になるようなお手本がなかったこと。
A時あたかも終戦直後で、農地改革によって、自営農民としての意識を高めた人々(主権者)と公務員(公僕)との交渉の困難さ。
B国営水路の工事が末流の方に進むにつれて、都市周辺部を通過することになるので、鉄道、道路、工場等他事業による近隣土地の取得価格との相違による困難な問題が生じた。

 当初、現地側からはダム建設反対の決議を突きつけられる場面もあったというが、事業所の担当者、熊本農地事務局建設部長、佐賀県からは知事、大井手普通水利組合、東・西両芦刈水道普通水利組合、市の江水利組合の組合長、県出身代議士、県議会議員、受益地市町村長等の関係者の協力が、ダム水没者の事業の意義を理解せしめ、妥結に至った。

 補償交渉の特徴は、移転者1戸当たり平均の補償額が争点となったことである。北山村28戸、小関村40戸、三瀬村38戸併せて106戸における1戸の補償平均額は196万9000円であった。1戸当たりの補償額の内訳は、10万円から1000万円の間で分かれる。評価基準として農地は公定価格を買収費とし、別に離作料を払っている。山林・原野は財産税の課税標準額を買収費、宅地は課税標準額を買収費とし、別に造成費として、移転先における実費を加え、時価に適合させたという。まだ、補償基準要綱、代替地対策、生活再建対策という補償の精神は確立されていなかった。昭和25年7月に妥結し、106戸606人は、ダム周辺地、佐賀市、福岡県、長崎県などに昭和27年3月までに移転が完了した。


6. 補償の精神

 北山ダム移転者及び土地提供者懇談会は、昭和37年から開催されており、平成18年8月古川康佐賀県知事らが出席して懇談会が行われた。その懇談会まとめた佐賀県県土づくり本部編・発行『北山ダム移転者及び土地提供者懇談会記念誌』(平成19年)から、ダム造られる側の水没者の肉声が聞こえてくる。

 豆田眞幸移転代表(旧北山村出身)
 今から55年昔、昭和26年当時のことが走馬灯のように脳裏によみがえってきます。そのころは、土葬も多く、移転がはじまると、先祖代々の墓も掘りあげて、その場で荼毘に付し、小さく変わり果てた先祖のお骨を大事に拾い上げて甕に納めたものでした。毎日のようにトラックが来て、家々からは家財道具が積み出され、見知らぬ第二のふるさとを求めて、別れ別れの旅立ちでした。小さな山里から、昨日は一軒、きょうは二軒と、灯火が消え、弾んだ声や明るい笑顔もみられなくなる中で、何とも言い知れぬ寂しさがこみあげてきたことを思い出します。ダムの移転補償金は1戸平均125万円(実際は195万円)ぐらいでしたが、移転がはじまった昭和26年、運悪く朝鮮動乱の勃発と重なり、物価は倍ぐらいに上昇し、将来を保障されたはずのお金も底をつき、筆舌に尽くしがたい皆さんのご苦労を思うとき胸がいたみます。・・・・・今もまだ、ご高齢ながらご健康の方もおありだと思いますが、世代も代わり、その後、後継者が各方面で、色々な分野で元気にご活躍されていることを推察致します。

 亀川太一(旧小関村出身)
 国家的事業で愚痴も申されないが、戦争で長男を失い、頼りと思う話し相手も無く、北山ダムで一家は犠牲者といわれて追放されるかと、自分等の生まれ時が悪かったと観念する外はありませんでした。補償金も十分には恵まれず、数回に分けて支払われ、数10回の移住地視察に多分の金は消費して、また諸物価は高くなるばかりでした。

 坂口辰雄(旧小関村出身)
 ダムの建設工事は諸般の調査も済み、愈々工事着工となった時期、万策尽きた農民は、工事中止の最後の手段として、工事関係者(役人)殺害の謀議が内密に行われ、決定した。実行者は村で猟銃鑑札の保持者が選ばれた。役人を殺せば、自分自身も亦死刑である。最終的には、鑑札保持者の一人が実行に当たる事に決定し、その家族の将来の生活を連帯責任で保証する証人と証文が取り交わされ、殺害場所は井田川、井田橋と決定した。

 しかし、この実行は、村一番の識者の知るところとなり、短絡的な無謀な行動は諭され未遂に終わった。

 ダム工事中止のため、家族を捨て一命を捧げ苦衷の村人を救わんとしたその行動は、義民佐倉倉五郎の現代版である。村を離れ、家郷を水没させる悲痛と苦しみが命以上の心境であった当時を物語る何よりの証しではなかろうか。故郷は路傍の石さえ母の乳房の匂いがすると言う。故郷を失くする事は親の死以上の淋しさがある。

 3人の移転者の苦痛の心境をみてきたが、その当時は移転する人は家を新築することはなく、自分が住んでいた古い家を解体して、移転先でそれを改めて建てたという。

 このように北山ダムの補償をみてくると、現在のダム補償と比較すると雲泥の差である。
 ある水没者の一人は、仏典に説く、菩薩心の「利他行」の訓が唯一の救いであり、そして心の安らぎは「貴方たちのお陰で、佐賀平野は潤い、嘉瀬川流域20万人が洪水のない安全、安心で暮らせるようになりましたよ」と言葉をかけられたときであると語っている。


7. おわりに

 北山ダムは、半世紀にわたり農業用水を送り続け、洪水を減災し、電力を供給し、戦後の佐賀県の社会基盤を確立してきた重要な水資源開発施設だ。いまでは、ダム湖周辺は、背振北山県立自然公園、北山国民休養地に指定され、北山少年自然の家、森林学習展示館、北山キャンプ場が設置された。また、椎、樫類の照葉樹林帯を創り出し、植物ではサクラタデ、ヤナギタデの群落、マガモ、ヒシクイ、セキレイの鳥も見られる。ダム湖はその周辺を含めて快適な水辺空間をつくり、21世紀県民の森となって訪れる人たちを和ませてくれる。現在、北山ダムの下流に治水、利水の多目的ダム嘉瀬川ダム(水没戸数160)が、国土交通省によって、平成23年度の完成に向けて急ピッチで工事が進んでいる。江戸期に成富兵庫が行った水利事業のシステムは、北山ダムと嘉瀬川ダムの建設によって大きく変容しようとしている。

   ほととぎす鳴いて北山ダム広し  平田縫子

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(2009年8月作成)
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