今から55年昔、昭和26年当時のことが走馬灯のように脳裏によみがえってきます。そのころは、土葬も多く、移転がはじまると、先祖代々の墓も掘りあげて、その場で荼毘に付し、小さく変わり果てた先祖のお骨を大事に拾い上げて甕に納めたものでした。毎日のようにトラックが来て、家々からは家財道具が積み出され、見知らぬ第二のふるさとを求めて、別れ別れの旅立ちでした。小さな山里から、昨日は一軒、きょうは二軒と、灯火が消え、弾んだ声や明るい笑顔もみられなくなる中で、何とも言い知れぬ寂しさがこみあげてきたことを思い出します。ダムの移転補償金は1戸平均125万円(実際は195万円)ぐらいでしたが、移転がはじまった昭和26年、運悪く朝鮮動乱の勃発と重なり、物価は倍ぐらいに上昇し、将来を保障されたはずのお金も底をつき、筆舌に尽くしがたい皆さんのご苦労を思うとき胸がいたみます。・・・・・今もまだ、ご高齢ながらご健康の方もおありだと思いますが、世代も代わり、その後、後継者が各方面で、色々な分野で元気にご活躍されていることを推察致します。
国家的事業で愚痴も申されないが、戦争で長男を失い、頼りと思う話し相手も無く、北山ダムで一家は犠牲者といわれて追放されるかと、自分等の生まれ時が悪かったと観念する外はありませんでした。補償金も十分には恵まれず、数回に分けて支払われ、数10回の移住地視察に多分の金は消費して、また諸物価は高くなるばかりでした。
ダムの建設工事は諸般の調査も済み、愈々工事着工となった時期、万策尽きた農民は、工事中止の最後の手段として、工事関係者(役人)殺害の謀議が内密に行われ、決定した。実行者は村で猟銃鑑札の保持者が選ばれた。役人を殺せば、自分自身も亦死刑である。最終的には、鑑札保持者の一人が実行に当たる事に決定し、その家族の将来の生活を連帯責任で保証する証人と証文が取り交わされ、殺害場所は井田川、井田橋と決定した。
ダム工事中止のため、家族を捨て一命を捧げ苦衷の村人を救わんとしたその行動は、義民佐倉倉五郎の現代版である。村を離れ、家郷を水没させる悲痛と苦しみが命以上の心境であった当時を物語る何よりの証しではなかろうか。故郷は路傍の石さえ母の乳房の匂いがすると言う。故郷を失くする事は親の死以上の淋しさがある。