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文献にみる補償の精神【13】
「あんた 100回位通いなさいよ、
そのうち何とかなるでしょう」
(城山ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
1.101回目のプロポーズ

 現在わが国の人口は約1億2千万人で、平均寿命は女性は85歳、男性77歳となっており、90歳以上の高齢者は 100万人を越えるという。数年後から人口の減少化が始まり、少子高齢化が一段と加速してくる。この少子化の要因として、未婚女性の増加と晩婚化による出生率の低下が挙げられる。最近、30代未婚女性の心理状況を鋭く描いた酒井順子著『負け犬の遠吠え』(講談社・平成15年)を読んだ。30代以上の未婚女性を負け犬、既婚女性を勝ち犬と称している。

 負け犬となった女性に共通することは、高学歴、高収入、仕事の面白さなどがあげられる。性格的には、何事にも好奇心が強く「世の中を楽しまなくちゃ」の心意気でトライするため、男性との付き合いも多い。まだまだ素晴らしい男性が現れてくるだろうと過ごしているうちに、30歳近くとなり、そして30歳過ぎると、結婚の話、見合いの話も極端に少なくなってくる。結婚願望は大いにあるものの「まあ、いいや結婚なんて」と変化していく。仕事、マンション購入、外国旅行、稽古事などに精を出すことになってしまうという。まわりの仲間たちもまた次第に負け犬の女性が増えてくる。

 この本を読み終えて、これほど未婚女性の心理を分析していることに感心したが、わが国の将来はどうなってくるのだろうかと一抹の不安を覚える。益々老人が増え、日本の経済、社会、生活に活気がなくなり、さらには年金制度にも影響を及ぼすことになるからである。

 負け犬の女性の前に、ホワイト・ナイトが現れないかと、ふとこんなことを思ったりする。それは野暮ったい胴長短足の俳優武田鉄矢のような男性であるが。TVドラマ『 101回目のプロポーズ』は武田鉄矢が浅野温子に一途な想いを馳せ、求婚をつづける。純情無垢な男性の姿に人気を呼んだ。この『 101回目のプロポーズ』をリメークした中韓合作ドラマ『第 101次求婚』も好評である。こちらは男性を台湾の人気俳優孫興が、女性を韓国の女優チェ・ジウが演じる。このような男性の 101回ものプロポーズは女性の心理にどのような影響を及ぼすことになるのだろう。

 補償交渉もまた、嫁さんをもらうこととよく似ていると言われることがある。「あんた 100回位かよいなさいよ、そのうち何とかなるでしょう」と水没者の要請に、実際 100回以上も交渉を重ねた補償担当者がいる。それは神奈川県の城山ダム建設時のことである。


2.城山ダムの建設

 昭和34年神奈川県は「土地及び水資源に関する総合計画」をまとめ、将来の増大する水需要予測を行った。この水源対策として、昭和35年12月県議会によって「相模川総合開発事業共同基本計画」が議決され、城山ダム(津久井湖)が正式に建設されることとなった。

 ダム完成までその経過について、神奈川県企業庁総合開発局編・発行『城山ダム建設工事誌』(昭和42年)の書から追ってみたい。


『城山ダム建設工事誌』
 昭和32年 内山岩太郎神奈川県知事は地元3町(相模湖町、津久井町
      、城山町)にダムの必要性を力説、協力要請。
   33年 『城山ダム建設反対期成同盟連合会』の発足。県は相模原
      市二本松地区に代替地約 270,000万坪を取得。
   35年 反対期成同盟会、補償物件調査同意。
   36年 知事、水没者全員に対し、協力要請の「お願い状」を発足。
      知事、水没全12地区を訪ね、協力要請
      県は、生活再建補償に係わる総合施策要綱を発表。損失補
      償単価協定の成立、知事は調印後、水没地区を訪ね、感謝
      の意を表す。個人補償契約始まる。
      建設工事の着手
   37年 『城山ダム絶対反対不津倉同志会』の27世帯補償契約完了。
   38年 定礎式。水没者 285世帯全員補償契約完了。
   40年 完工式。

 内山知事の地元への協力要請から8年間の歳月が流れたが、城山ダムは紆余曲折を経て、右岸神奈川県津久井町大字太井字発、左岸同県城山町川尻字水源地点に完成した。この経過から、内山知事は自ら先頭に立って奮闘されていることがよくわかる。


城山ダム

 城山ダムの目的は、洪水の調節、水道および工業用水16.0m3/sを供給し、さらに城山発電所では、本沢ダム(城山湖)を上流調整池、城山ダムを下部調整池として最大出力25万KWの発電を行う。一方、これらの用水確保のために、相模川の自然流量のほかに支川串川(津久井町根小屋)に取水堰を造り、串川導水路を建設し、この導水路によって最大2.0 m3/sを城山ダムへ流域変更を行っている。各用水の取水方法は、津久井分水池から相模原地区、川崎市の水道に分水し、城山ダム下流30kmの寒川取水堰(寒川町)から取水し、県営湘南地区、横浜市、横須賀市へ水道用水をそれぞれ送水する。

 このダムの諸元は、堤高75.0m、堤頂長 260m、堤体積36.2万m3、総貯水容量6230万m3、有効貯水容量4820万m3、直線越流型重力コンクリートダムで、事業費は68.3億円、起業者は神奈川県、施工者は(株)熊谷組である。なお、用地取得面積 230ha、水没世帯は 285世帯となっている。


3.補償の精神

 この城山ダム建設に関し、前掲書『城山ダム建設工事誌』では、相模川総合開発建設事務所次長朝見清を司会者として、ダムに携わった方々の座談会(「建設うら話し」)が掲載されている。

 当時揚水発電所にかかわるアロケーションの計算方式が確立されておらず、どのように各事業者にアロケートするか困難をきたしたこと、工事では仮排水路トンネルの落盤事故、ケーブルクレーンのメンワイヤーの上層部のはがれ、ケーブルクレーン走行路の掘削中に2万m3の地滑り事故、骨材の砂利獲得に奔走、ダム本体の掘削から打設時点での破砕帯の処理に苦労されたこと等が述べられている。残念ながら工事によって6人の尊い犠牲者が出た。

 一方、補償交渉について次のように引用するが、ここに「補償の精神」を読みとることができる。

司会 補償交渉はすべて忍耐が必要である。我慢して相手に当たれと、知事から「忍耐」と書いた額が工事現場に寄贈されまして、城山ダムが完成した後では、それが城山ダムのみやげ品にまでなっているということで、この交渉がいかに難航したかを物語っております】
 また、高橋惠二(当時相模川総合開発建設事務所次長)はSさんとの交渉の苦労について語っている。

【私がきた時分には中沢、三井、沼本の各地区は絶対反対ということでありました。広い区域ですから、地域の代表のかたがたと話合いを進めるのが一番よいのではないかということで各地区の委員長の考え方を打診したり骨を折って見たのですが、どうもやっぱりうまく行かなくて、一年かかってもなかなか話合いがつかない。今でも記憶に残るのはF地区のSさんのところに行った時のことですが、まあ簡単にいうと、自分の家に娘がいて、どうしてもあんたの娘を貰いたいとこられても、親とすれば気に入らないような人が貰いにきたということで、正面切ってはなかなか簡単にはいかない。「あんた 100回位通いなさいよ、そのうち何とかなるでしょう」というような話になってしまう。口では 100回といっても毎日毎日通うわけには行かない。それでもとにかくやらなければならない仕事ですから、補償課の連中と何回でも通ってみようということになった。確か、37年までに、この家に百何十回か通ったかな、それで最後にいよいよ交渉に応じましょうということで、妥結したのは37年3月でした。とにかく、相手に体当たりで当たって行くことですね。根がなかったらこの仕事はできないということ。相手の私有財産を何とか頂戴したいというんですから、難しい話で、われながら後になって考えてみるとよくまあ、ずうずうしく、そこまで通ったものだという気がしますよ】

 Sさんの同意を得るために百何十回を通って、調印したときの心境を思うとき、喜びと同時にさわやかな笑みと安堵感が湧いてきたのではなかろうか。武田鉄矢の演ずるような男性の誠意がようやくSさんの心に届いた。内山知事の言葉に「忍耐をもって相手方に対処すること」を実行された結果であるが、この 100回以上、お百度を踏むような交渉が「補償の精神」を貫いている。補償交渉と嫁さんをもらうための仲人の行動と、まさしく同一視されるゆえんがここにみられる。


4.内山知事の補償の精神

 前述のように、ダム建設促進について、内山知事が先頭に立ち率先してリードした。驚くことには、昭和35年4月知事は脳血栓で倒れ、5ケ月間療養生活をおくったが、回復後ただちに9月県議会において「城山ダム建設の促進」の議決を図った。

 当時水没者協議会は、いくつにも分かれ、膠着状態が続いていた。この打開のために残暑の厳しいおりに、病後の思い足を引いて、水没者の協議会を個別訪問、説得を行っている。この知事の行動は、一日も早く補償の解決を図らねばならないという補償担当者に勇気と活力を与えたといえる。今日では知事が先頭に立って水没者関係者に直接交渉に当たることは稀なことであるが、この内山知事の行動も「補償の精神」として捉えることができる。

 神奈川県のダム建設と人口の動向をみると、昭和22年相模ダム完成時 222万人( 100%)、40年城山ダム完成時 443万人( 200%)と急増しており、もし、城山ダム建設が遅れれば恐らく、深刻な水不足が生じていたであろう。その後の人口は53年三保ダム完成時 670万人( 303%)、平成12年宮ケ瀬ダム完成時 849万人( 384%)、平成17年3月現在 874万人( 393%)と増加している。
 このように、神奈川県当局は人口増加や産業の発展に伴う水の需要に対し、ダム等水資源開発施設の建設によってその都度対応してきたことがよくわかる。


5.おわりに

 城山ダムの生活再建措置として・集団移住地・希望代替地・公営住宅優先入居・建設相談・就職の斡旋・職業訓練・商工業相談・資金融資・不動産取得税の減免・転校斡旋・県立高校無試験・相談所の開設・移転者の共済制度が行われた。

 城山ダムの水没者 285世帯(1435人)は、相模原市二本松地区、城山町川尻地区などにそれぞれ移転した。神奈川新聞社編・発行『津久井湖誕生』(昭和40年)は、城山ダムの完成まで特集記事を連載していたものをまとめた書である。そのなかに

【相模原市二本松など県が同意した数ケ所の移転代替地に落ち着いて新しい人生の基盤を固めている。すっかり一画の町の体裁を整えた二本松には歓迎碑の立つ遊園地で子どもたちが何もなかったように明るい声をあげ遊んでいる。】


『津久井湖誕生』
とある。

 内山知事の行動や 100回以上お百度を踏んだ忍耐強い交渉、即ちこれらの「補償の精神」が二本松地区の「歓迎碑」に凝縮されているようだ。

  だれかれと 語りかけたし 夏のダム
                (東寺 三郎)

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(2006年4月作成)
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 (古賀 邦雄)
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