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文献にみる補償の精神【55】
「いつも作業衣で腰に手拭いをぶら下げ、
地元にとび込み、自ら山をかけ回り」
(川治ダム・栃木県)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1. 鬼怒川の流れ

 私は温泉が大好きである。私が住んでいる福岡県筑紫野市には古くから二日市温泉が湧く。歩いて5分、この温泉にはよく出かける。平安期、大宰府に左遷された菅原道真はこの湯で失意を癒されたことであろう。また大正期には、国鉄二日市駅長で赴任した佐藤栄作(内閣総理大臣)も当然楽しんでいる。

 20数年前のことであるが、東京在住のころ、鬼怒川温泉に出かけたことがあった。浅草駅から東武鬼怒川線特急に乗り2時間程で鬼怒川温泉に着く。夏にもかかわらず涼しく、とくに水と緑なす渓谷美には魅了された。鬼怒川といえば、先ずこのことが思い出され、懐かしい。

 鬼怒川は、その源を栃木県塩谷郡栗山村鬼怒沼(標高2040m)に発し、山峡を東へ流れ、栃木県日光市川治温泉地先において、男鹿川を合わせて南へ下る。今市市大桑で右支川の板穴川を、佐貫地先において日光中禅寺湖から発する左支川の大谷川をそれぞれ合流して、関東平野に入る。さらに鬼怒川は一路南へ下り、周辺沃野潤し、茨城県結城市に至り、田川を合わせ、水海道を経て、茨城県守屋市大木地先で利根川と合流する。利根川水系の一大支川である。幹川流路延長176.7km、全流路延長859.8km、流域面積1784.4km2、山地面積1105.4km2、平地面積607.6km2、流域内人口約55万人である。


2. 鬼怒川のダム

 江戸期、天和3年(1683)、日光・南会津地震(M6.8)によって、鬼怒川上流・男鹿川右岸の葛老山が大規模な地すべりをおこし、男鹿川を堰き止め、高さ70mの天然ダム五十里湖ができた。そして40年後にその五十里湖が集中豪雨によって決壊し、鬼怒川下流を襲い、50km離れた宇都宮市付近まで大災害を及ぼした歴史がある。恐らく、鬼怒川では、天然ダムとはいえこれが最初のダムではなかろうか。

 鬼怒川におけるダム建設を追ってみたい。
 鬼怒川上流は河床勾配が高く、積雪量も多く、豊かな水量もあることから、大正期には発電用ダムが造られた。大正元年黒部ダム、逆川ダム、大正13年中岩ダムは3基とも水力発電用ダムである。

 昭和3年日向砂防ダム(砂防)、31年五十里ダム(多目的ダム)、34年中禅寺ダム(多目的ダム)、38年西古屋ダム(電力)、土呂部ダム(電力)、41年川俣ダム(多目的ダム)、58年川治ダム(多目的ダム)、平成3年栗山ダム(電力)、今市ダム(電力)の12基に及ぶ。現在湯西石川ダム(多目的)が建設中である。

 とくに、鬼怒川上流、鬼怒川の温泉地域周辺には、堤高100m以上の多目的ハイダム五十里ダム、川俣ダム、川治ダムが建設省(国土交通省)によって造られた。
 昭和58年に完成した川治ダムの補償について、建設省川治ダム工事事務所編・発行『川治ダム工事誌』(昭和59年)により追ってみたい。


3. 川治ダムの建設

 川治ダムは、昭和43年4月実施計画調査が始まり、45年4月川治ダム工事事務所の発足、昭和47年1月一筆測量完了、48年9月川治ダム建設に伴う損失補償妥結調印、53年4月本体コンクリート打設開始、56年11月湛水開始、昭和58年11月に15年を経て完成した。

 ダムの位置は栃木県塩谷郡藤原町川治地先で、水没地は藤原町、栗山村である。
 川治ダムは3つの目的をもっている。

@洪水調節
川治ダムの洪水調節計画は、ダムサイトにおける計画高水流量1800m3/sを、治水容量3600万m3を利用して1400m3/sの洪水調節を行い、400m3/sに低減して放流する。これにより、鬼怒川の基準地点栃木県宇都宮市石井における基本高水流量8800m3/sを五十里、川治ダム等の鬼怒川上流ダム群によって3400m3/sを調節し、5400m3/sとする。

Aかんがい用水
かんがい用水の補給計画としては、栃木県および千葉県下における土地改良事業の対象となるあわせて、7149haの地域に対し、補給を行う。

B 都市用水
新たに7.12m3/sの都市用水(上水道・工業用水道)の供給を行う。

 川治ダムの諸元をみてみると、堤高140m、堤頂長320m、堤体積70万m3、総貯水容量8300万m3、型式アーチ式コンクリートダムで事業費773億円を要した。


4. 水没地等の補償

 川治ダムの事業用地は、前述のように栃木県塩谷郡藤原町大字川治と、同郡栗山村日向・日陰の1町1村で水没等土地取得面積は182haである。

 藤原町の水没区域はダムサイトから上流3kmの栗山村との境界までで、水没移転者はなく、土地取得面積93.2ha(民有地3ha、国有林地90.2ha)であった。
 一方、栗山村の水没区域は藤原町の境から貯水池最上流までで、水没移転者73世帯、土地取得面積105.1ha(民有地60.7ha、国有林地44.4ha)であった。

 公共補償は水没する県道、村道の付替、河川水泳場喪失による代替施設プールの建設等で、特殊補償として、藤原町、栗山村漁業協同組合に対する漁業補償を行っている。
 一般補償については連日、連夜にわたる交渉の結果、昭和48年9月12日「利根川水系川治ダム建設に伴う損失補償基準」が妥結調印、順次契約が進み、48年度にはほぼ完了した。73世帯の水没移転先の内訳は、栗山村内の戸中、小指地区の地上げ地に30世帯、村内に28世帯、県内に12世帯、県外に3世帯であり、昭和51年3月には移転が完了した。

 昭和51年4月以降、公共補償は、昭和49年7月水源地対策特別法によるダム指定1号を受け、その指定に基づき順次整備計画事業、ダム周辺環境整備事業等地元要望に沿って再建対策が実施され、昭和58年には完了した。


5. 補償交渉の経過

 主なる補償交渉は、昭和43年4月実施計画調査開始から、昭和51年3月水没者の移転完了まで以下のとおりである。

43.4.17「川治ダム調査事務所」発足、実施計画調査開始
10.16藤原町川治地区住民「川治ダム対策協議会」が発足
12.16「川治ダム現況説明会」開催(対栗山村)
12.25「川治ダム現況説明会」開催(地元関係者)
44.5.31水没各地区との話し合いがもたれ、建設省よりダムの高さ140m程度になる見込み(水没部落は戸中、小指、野尻の75戸が予想された)
6.27地元は「拡大川治ダム反対期成同盟委員会」を解消し、日向川治ダム対策委員会を発足、補償及び生活再建対策にあたる。
12.9建設省より再建計画の概要について説明、(対、対策委員会)この際ダム建設による水没地区住民の「基本構想」が出された(地上げ案)
45.4.20建設省川治ダム工事事務所発足
11.9小指地区の再建計画のための地質調査を実施
46.6.1栗山村は、建設省日向連絡所(水没地区内に設置した現地連絡所)に川治ダム対策本部を設置し、再建対策にあたる。
12.28「水没地補償対象物件」のため土地立ち入りの調印
47.1.7一筆調査開始
3.25一筆調査完了
3.栗山村長の諮問機関として、栗山村ダム対策委員会を設置、村議会全員委員に委嘱
7.12「栗山村ダム対策委員会」「日向・川治ダム対策委員会」「川治ダム水没地区再建対策連合会」の三者が連絡機関として「川治ダム期成同盟会」を結成
9.26川治ダム建設に伴う損失補償基準発表
48.4.27川治ダム水没地区再建対策連合会、補償要求決議、補償交渉委員選出(10名)
5.10損失補償交渉開始(第1回)
7.25損失補償交渉終了(第35回)
8.18建設省(地建局長)、栃木県知事は「川治ダム建設に伴う再建要求書」に関する回答
9.12栗山村総合振興会館において「川治ダム建設に伴う損失補償基準」妥結調印
9.27個別交渉契約開始
12.25小指地区「地上げ工事」開始
49.1.5川治ダム本体工事契約着工
2.26戸中地区「地上げ工事」開始
5.野尻地区家屋移転開始
8.戸中地区地上げ地に家屋移転開始
50.1.20小指地区、地上げ地に家屋移転開始
51.3.水没移転完了


6. 水没者の手記

 川治ダムの建設に伴う水没者が綴った山越幸吉著『一滴の水』(日向川治ダム対策委員会・昭和58年〕の書がある。山越さんは栗山村役場に勤務し、川治ダム対策委員会の事務局長として、地元民と建設省との間に立ち、補償交渉等ダム対策に苦慮した一人である。

 川治ダム建設計画の公表、これを受けた地域住民の怒りと拡大ダム反対、たゆまぬ生活再建の道へ。そして反対から再建への具体化をつぎつぎに着想し、遂には納得出来得る生活基盤、農業基盤、環境整備の実現を成し遂げた。それまでは紆余曲折の連続だったという。

 山越さんは具体的に生活再建の基本について、3つ掲げ、水没者の将来の生活を図った

@ 道路の整備
個人的な財産に係わる補償のみに走らず公共投資を優先し、生活の基盤となる県道、村道の道路整備を行い、農業の振興、観光の開発を図った。

A 土地の救済(地上げ)
戸中、小指地区を地上げして約10haを水没から守り、さらに圃場整備事業を実施し、集落の再編成を確立し、生活基盤の合理化を図った。

B 生活の橋の整備
生活に係わる野尻大橋(長さ2100m)、戸中大橋(250m)、八汐大橋(260m)は、野尻〜戸中〜小指に至る間1500mを集落を縫うように通り、周辺環境に配慮し、観光面を図った。

 この書で、山越さんは起業者に対する信頼感について、次のように述べている。

 国からの使者水の男参上仕り候こと、山には山の男これあり候。これが川治ダム建設の糸口であり、水の男と山の男の論争の始まりである。ここに名をかりて恐縮ですが、先に申した水の男とは建設省関東地方整備局川治ダム工事事務所の初代所長(堀和夫)のことである。
 私も川治ダムに係わる地元水没者の一人として何回となく接してきたが、信望の厚い方であった。特に印象深いことは、いつも作業衣で腰に手拭いをぶら下げ、地元に飛び込み、自ら山をかけ回り、住民に接した姿は今でも目に浮かんでくる。こうしたことが地元に解け込み、ダムの基でを成した要因ではなかったか。四年余り、地元に現した作業衣からしみ出た汗は、ダムの足跡であり、村を変えた足跡でもある。

 ダム建設には、必ず造られる側と造る側との確執が生じるものであるが、このような所長の地元への対応は、やがて相互に協調の精神が芽生えてくるものだ。ここに補償の精神が貫かれている。


7.起業者の対応

 前掲書『川治ダム工事誌』のなかで、歴代川治ダム工事事務所長たちのダムの想い出が綴られている。地元交渉の対応について、いくつかみてみたい。

 堀和夫初代所長は、地域を知り地元の気持ちなることだという。

 事務所発足は拡大ダム反対の声の中に、出発した。とにかく、地域の関係の方々の声を聞いて見よう。反対の意見を直接聞き、その苦衷を心で受け止めよう。このために、話し合いの糸口を見出そうと努力したのが昭和43年であった。先ず、地域を知り、栗山の人の気持ちになることだという観点で、水没に関連した地域再建問題を解く鍵を求めて、今市、川俣、湯西川、更には鹿沼、又五十里ダムの水没移転の方々を尋ねて、黒磯方面など県下一円を歩きまわった。時には、再建構想を求めて、南平山、葛老山、田茂沢、稲ヶ沢などへ足を踏み入れた。これら山行の際に山で仕事をしている地元の方々が、昼食を休息している場所を通ることも数多くあり、それが挨拶の始まりとなり、会話の始まりとなったこともあった。地元の方々の反対の生の声を聞き、しっかりした水没対策を打ち出すため、下流受益地域の協力を得るために栃木県当局との打ち合わせに走りまわった年であった。

 和気三郎第2代所長は、誠意と信頼の大切さ強調する。

 補償交渉は、地上げによる生活再建の目途がついた5月から始められたが、週3回の正式会議のペースで、合計35回の交渉の結果、結論を得た。その間、多忙の中をさいて集まって頂いた交渉委員の方々のご協力と熱意には、頭の下がる思いがした。終始、寺沢委員長、湯沢会長さんは、「誠意と信頼」によって川治ダム問題を解決しようと言って下さった。誠に尊い言葉である。この気持ちは、川治関係者一同、ダム完成後いつまでも同じと思う。

 また、糸林芳彦第3代所長は、ダム造りについて、

 水没者にはそれはそれは大きい取り返しのつかないような、祖先伝来の土地を奪われるというような大きな影響を及ぼします。そういう影響力の大事業に参加する以上は、後味のいいダムをつくりたい。

と語っている。


7. おわりに

 以上、川治ダムの補償について述べてきた。ダムを造られる側の真摯な態度、ダムを造る側の誠実な対応が相互に信頼関係を生み出し、補償解決の道が開かれたのであろう。

 また、藤原町、栗山村、それに栃木県、千葉県当局の協力も欠かせない。水源地域対策特別措置法に基づく地域の公共事業、環境周辺整備事業はよい結果を生じさせた。ここに川治ダムの完成によって、水源地域住民と水の恩恵を受ける千葉県下流住民との交流がはじまった。治水や農業用水、水道用水、工業用水の水の役割が友を築く。

  四十八とせの学びや後に光さし豊かな水が友をつなぎて

 この碑が栗山村立日向小学校の跡地に建立されている。

[関連ダム]  川治ダム
(2009年8月作成)
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