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ダムの書誌あれこれ(90)
〜江の川土師ダム、太田川高瀬堰〜

 これは、「月刊ダム日本」に掲載された記事を一部修正して転載したものです。著者は、古賀邦雄氏(水・河川・湖沼関係文献研究会)です。
 
◆ 1. 江の川の流れ

 江の川は広島・島根県にまたがる「中国太郎」の異名をもつ中国地方最大の河川である。中国山地の真中あたりを、ちょうど中国山地を横切る形で日本海にそそいでいる。
 江の川について、水の文化情報誌『FRONT No. 210』(平成18年発行)より引用しながら、次のようにその流れを追ってみる。

 水源の広島県北広島町の阿佐山(標高1,218m)から島根県江津市の河口までの直線距離は30qに過ぎないが、円を描くように中国地方を迂回して流れるため、幹川流路延長はその6倍以上の194qに及ぶ。流域面積3,900km2、流域内人口約208,000人である。

 江の川の上流は可愛えの川かわと呼ばれる。島根との県境にそびえる阿佐山に発した川は、北広島町東部を南東流して安芸高田市の土師ダムに入る。なお、北広島町西部は太田川水系の源流域となっている。後述するが、土師ダムは昭和49年に完成した多目的ダムで、洪水調節、水道用水の供給など重要な役割を果たしている。また、八千代湖と呼ばれるダム湖は、広島市から約一時間の近距離にあるため、行楽地として親しまれている。土師ダムを下った江の川は、北東に向きを変えて安芸高田市を流れる。上流域の北広島町、安芸高田市一帯は山間部だが、出雲文化の影響を受けて早くから開け、神楽や田楽などの伝統芸能が残っている。北広島町大朝エリアは中世には吉きっ川かわ氏の城下町、安芸高田市吉田町は毛利氏発祥の地である。

 梨などの果樹園が広がる安芸高田市甲田町を過ぎた江の川はやがて三み次よし盆地に入る。盆地に開けた三次市の中心部で、江の川に馬ば洗せん川、西さい城じょう川、神かん野の瀬せ川が合流し、一般にここから先が江の川と呼ばれる。山陰と山陽を結ぶ交通の要衝地である三次市は、備北地方の中心都市である。古代、出雲文化、吉備文化の接触点として開けた盆地一帯は砂鉄生産地として知られ、4,000基近くの古墳が確認されている。奈良時代の古代寺院跡などがみられる。江戸時代には三次五万石の城下町となり、舟運の拠点として栄えた。その名残りは四百年の伝統を持つ土人形「三次人形」や、夏の風物詩の鵜飼にしのばれる。

 三次盆地を下った江の川は、流路を西に転じ、島根県邑おお南なん町の境をなす脊梁山地を先行性の峡谷をつくって流れる。やがて島根県美郷町の中国電力の浜原ダム(昭和28年完成)の下流で大きく屈曲し、川本町を経て江津市に入る。美郷町、川本町は古くから石見銀山街道の一部として、また、舟運として栄えた。カヌーや火振り漁など江の川の恵みを活かした観光も人気がある。最下流部の江津市は、古くから日本海と江の川の舟運で開けた。既に述べてきたが江の川の流域面積は3,900km2であり、そのうち広島県に占める上流部分が2,640km2、島根県に占める中流部、下流部が1,260km2で、両県の割合は2:1となっている。江の川の特徴といえば、中国山地を横断区間で「江の川関門」というわが国有数の大先行谷を形成していることである。先行谷とは、河川を含む地域が隆起したとき、河川の力が強い場合に、河川が元の流れに沿って山地を浸食し、深い峡谷が形成されることをいう。


◆ 2. 土師ダムの建設

 土師ダムへのルートは、山陽新幹線広島駅で降り、広島のバスセンターの吉田行きのバスに乗り勝田で下車して、徒歩20分ほどで秀麗なダムサイトにたどり着く。私が平成23年4月4日に訪れたときは、ダムサイトの桜が歓迎してくれた。

 土師ダムは江の川の広島県安芸高田市八千代町地先に、多目的ダムとして、昭和49年に竣工した。土師ダムについては、中国建設弘済会編『土師ダム工事記録』(中国地方建設局三次工事事務所土師ダム管理支所・昭和50年)、国土交通省中国地方整備局製作・発行『土師ダム 水源地ビジョン』(平成18年)の書があり、併せて土師ダムのパンフレットにより、追ってみたい。先ず、土師ダムの必要性について以下のように述べてある。


『土師ダム工事記録』

『土師ダム 水源地ビジョン』
 江の川の改修工事は、昭和25年から中・小河川改修事業として、尾関山基準地点における計画高水流量を5,800m3/sと定め、三次市周辺から着手された。

 その後昭和28年からは直轄改修事業として引き継がれ、下土師地区から三次までの江の川、三次周辺の馬洗川及び西城川において主として堤防の新設、拡築、河道掘削などを実施してきたが、昭和40年、昭和47年と数回大きな洪水に見舞われ、沿川各地に大災害を引き起こしたため、水系一貫の立場から流量の検討が再度行なわれ、江の川工事実施基本計画の改訂が行なわれた。100年確率洪水を対象として尾関山基準点における基本高水流量を10,200m3/sとし、ダム群の建設によりこれをカットして、7,600m3/sに調整する。また、河口の江津基準地点では、基本高水流量を14,500m3/s、計画高水流量10,700m3/sと定めている。この治水計画の一環として土師ダムを建設し、洪水調整を図り、なおかつ広島市における人口増加による水道用水の供給に対処し、工業用水も供給する。事業は昭和41年4月調査を開始し、昭和49年3月まで8年間の歳月をかけて土師ダムは完成した。


◆ 3. 土師ダムの建設過程

 戦前に土師地点でのダム計画の構想があったが、猛反対で潰れた経過がある。戦後昭和22年から昭和27年まで調査の結果、下土師ダム当初計画ができるが、地元住民の強力な反対のため、調査を打ち切る。
 土師ダムの建設過程とその後のあゆみを記してみる。

昭和28年   江の川上流部の直轄改修事業開始
       基準地点尾関山計画高水流量5,800m3/s
昭和38年   水没関係者200名に対し、予備調査立ち入り協力要請
       地元の了解を得て下土師地点ダム建設予備調査開始
  40年7月 梅雨前線による大洪水おこる
  41年1月 江の川の一級河川指定
  41年4月 八千代町役場に下土師ダム調査事務所開設
    10月 ダム対策同盟会長と中国地建局長で「下土師ダム建設事業に伴う基本協定」
       を締結する。
    11月 土地測量物件調査開始
  42年5月 川井地区基本協定書締結
  43年2月 島根県江の川分水反対同盟結成総会
    4月 吉田町下土師ダム分水阻止期成同盟会、結成大会
       土師ダム工事事務所発足 ダムの名称を下土師ダムから土師ダムに変更
    11月 甲田町分水対策協議会結成
  44年1月 補償基準提示
  45年8月 損失補償基準の調印
    10月 本体工事着手
  46年4月 転流開始 仮設備、基礎掘削、付替道路工事本格化
    5月 公共補償妥結 上流地区損失補償基準妥結
    7月 江の川の出水によりジブクレーン災害
  47年2月 本体コンクリート打設開始
    4月 定礎式
    7月 中国地方豪雨災害発生 江の川水系全体に未曾有の被害
  48年3月 全用地取得事務完了
    10月 土師ダム工事事務所を管理用庁舎に移す
  49年1月 本体コンクリート打設完了
    2月 湛水開始
    3月 ダム本体工事完了
    5月 土師ダム竣功式
    9月 台風18号による大雨に対し洪水調節
  50年7月 都市用水分水開始 発電開始
  51年5月 土師ダム管理所発足
  58年7月 梅雨前線による豪雨発生 三次地区から下流部で被災
  60年7月 梅雨前線による洪水最大流入量1,053m3/s 最大放流量498m3/s
平成元年4月 ダム湖活用環境整備事業(レイクリゾート事業)着手
  6年4月 のどごえ公園完成
       第2回「地域に開かれたダム」に指定される
  7年5月 ダム管理用発電施設運転開始
  8年9月 土師ダムファミリーキャンプ場完成
       生態湿地公園完成
  11年6月 梅雨前線による豪雨
       上土師低水護岸被災
    11月 八千代湖ふれあい大橋完成
  12年3月 レイクリゾート事業完了
  15年10月 土師ダム完成30周年記念式
       河川環境の改善のためフラッシュ放流を開始
  17年3月 「ダム湖百選」に指定される
  18年2月 「土師ダム水源地域ビジョン」を策定する
  20年3月 低位放流設備完成

◆ 4. 土師ダムの諸元

 土師ダムの型式重力式コンクリートダムで、その規模は堤高50.0m、堤頂長300m、堤体積21万m3である。ダムの貯水能力は総貯水容量4,730万m3、有効貯水容量4,110万m3、その集水面積307.5km2、貯水池の最大湛水面積2.8km2に及ぶ。ダム天端標高259.0m、洪水時最高水位標高256.4m、平常時最高水位標高254.4m、洪水貯留標準水位標高242.9mとなっている。放流設備として、大規模な洪水対策時に活用される非常用洪水吐き(クレストゲート)幅7.8m×高さ11.736m×3門、洪水対策時に使用される常用洪水吐き(オリフィスゲート)幅4.5m×高さ4.0m×2門、低位放流設備幅2.285m×高さ2.13m×1門、それに通常の河川流量確保の目的で使用される利水放流設備がある。

 起業者は建設省(現・国土交通省)、施工者はフジタで事業費は100.09億円を要した。なお、主なる補償は、水没家屋203戸、土地取得面積253.6ha(宅地12.5ha、田88.8ha、畑13.6ha、山林・その他138.7ha)、公共補償として、八千代町立苅田北小学校移築補償費、プール建設補償、駐在所新設補償、特殊補償として、可愛川漁協、江の川漁協に対し、漁業補償を行なっている。


◆ 5. 土師ダムの目的

 土師ダムは、洪水調節不特定用水河川維持用水、かんがい用水、水道用水、工業用水、発電と、6つの役割を持った多目的ダムとして築造された。なお、水道用水、工業用水、発電の水は、土師ダム湖から取水され、トンネルで江の川から太田川へ分水され、広島市周辺に供給されている。

@ 洪水調節
 土師ダムでは、ダム地点における計画洪水流量1,900m3/sのうち1,100m3/sの調整を行い、800m3/sに減じ、ダム下流の水害を軽減する。洪水調節は、下流河川の水位上昇を可能な限り押さえ、より安全に洪水を放流することが目的である。土師ダムでは、江の川上流部の流量特性から一定率一定量方式と呼ばれる調節方法を採用し、洪水調節開始流量を200m3/sとして、より安全な調節放流を行なっている。
 昭和60年7月5日の低気圧による出水では、最大流入量1,053m3/sに対し、最大放流量501m3/s、総調節量953.5万m3に達した。また、平成11年6月29日の梅雨前線では、最大流入量1,141m3/sに対し、最大放流量529m3/s、総調節量1,385.7万m3に及び、下流の水害の減災を図った。


A 河川環境の保全
 渇水など河川流量が少ない場合には、ダムから貯水池の水を放流して河川に必要な流量を確保し、これによりダム下流の用水からの取水が安定するとともに、動植物の生息環境を確保し、河川環境の保全を図る。

B 灌漑用水の供給
 灌漑用水として、ダム下流の不特定灌漑用水を確保すると共に、新規に簸ノ川沿岸に灌漑用水の補給を行なう。

C 水道用水の供給
 水資源の広域かつ多目的利用を意図し、土師ダム貯水池から約19qの分水トンネルで30万m3/日を太田川へ流域変更する。このうち20万m3/日を広島市や呉市東広島市、竹原市、瀬戸内海の島々へ、水道用水を供給する。

D 工業用水の供給
 分水量30万m3/日のうち、残りの10万m3/sは広島市東部工業用水として供給されている。なお、水道用水および工業用水は太田川の高瀬堰により取水されている。

E 発電
 さらに、太田川への日量30万m3の分水は、そのトンネルの落差を利用して中国電力(株)可部発電所において、最大38,000kWの発電を行なっている。
 また、ダム直下でも発電所を設け、ここでは土師ダム管理用のための発電を行なっており、余った電力は中国電力(株)へ売電されている。

◆ 6. 土師ダムのまとめ

 再度、土師ダム建設の歩みをたどってみる。昭和28年ごろまでは、地元住民はダム建設反対一色であったが、度重なる水害によって、次第にダム建設の必要性が認識されてきた。昭和38年夏、水没関係者200名に対し、八千代町立苅田北小学校での予備調査の協力要請で地元の了解を得て、予備調査が始まった。このことが土師ダム建設へ向けての大きな転機といえる。その後、江の川から太田川への分水計画には、島根県などから分水反対が起こっている。また、昭和47年7月には豪雨によって土師ダムの工事に大被害を被った。昭和48年3月には、全用地取得が完了。昭和49年にはダム本体コンクリート打設が完了する。このようにダム反対や分水反対活動、さらには水害に対し、団結力、交渉力、技術力などで、それらの苦難を乗り越えて昭和41年事業を着手して以来、8年の歳月を経て、昭和49年5月23日めでたくダム竣功式を迎えた。八千代湖の誕生である。


 特に、土師ダムの特徴を挙げれば、山陰の水が太田川への分水によって山陽と結ばれたことではなかろうか。利水上、広島都市圏では重要なダムである。ダム完成以来、平成23年で37年過ぎたが、ダム周辺はのどこえ公園、生態湿地園、民俗資料館、ふれあい大橋、テニスコート、野球場、サッカー場などが整備され、広島市内から1時間ほどのアクセスであり、里ダムとして多くの人が訪れる。

◆ 7. 太田川の流れ

 既に述べてきたが、江の川の土師ダムから太田川分水路によって、太田川に送水され、上水道、工業用水、発電に利用されている。その導水された水は太田川の高瀬堰にて、広島都市圏に取水されている。

 太田川は広島県西部を貫流する中国地方有数の河川で、水源を中国山地の冠山(標高1,339m)に発し、途中柴木川、筒賀川、滝山川、水み内のち川がわなどの支川を集めて流下し、さらに可部町付近で根ノ谷川、三篠川を合流する。その後広島平野を南南西に流れ、大芝町地区の祗園水門で太田川放水路と大芝水門で旧太田川に分流し、広島市中心地ではさらに、天満川、元安川、京橋川、猿えん猴こう川がわに派川し、広島湾に注ぐ。流域面積1,690km2、幹川の流路延長110qである。

 太田川流域の林野面積は、全面積の80%を占めている。古くから灌漑用水として、八木用水など農業水利の恩恵を与えているほか、近年は上流に発電用ダムが多く設置され、また広島市周辺には都市用水が供給されてきた。上流柴木川の名勝三段峡をはじめ、広島市内の6派川は石積みで護岸が整備され、観光にも寄与し、水都広島の河川空間が保たれている。


 一方、太田川の洪水による被害は甚大であった。その歴史も古く、元和、承応、嘉永年間に洪水が記録されており、そのうち、特に承応2年(1653)の洪水は死者5,000人を出したといわれる。毛利、福島、浅野の三代にわたって大規模な治水工事が行なわれた。

 明治以後、明治7年、17年、大正8年、12年、15年、昭和3年、18年、20年と連続して広島平野は大水害を被った。また、昭和40年にも水害を被った。

◆ 8. 太田川の洪水と治水対策の歴史

 古くから太田川の水害は起こっているが、その治水対策について、次のように記してみる。

明治43年   国の臨時治水調査会において第二期河川に指定
大正8年7月 水害おこる 被災家屋2,611戸
  12年6月 水害おこる
昭和3年6月 水害おこる 被災家屋916戸
  7年   太田川改修事業に着手 太田川改修計画 西原地点4,500m3/s
  18年9月 台風18号襲う 流量西原地点 約6,700m3/s 被災家屋17,632戸
  20年9月 枕崎台風襲う 水害区域面積10,651ha 被災家屋50,028戸
  23年   太田川改修計画改訂 玖村地点6,000m3/s
  26年   太田川放水路事業再開
  40年   太田川放水路通水開始
  47年7月 梅雨前線による水害 水害区域面積200ha、被災家屋1,000戸
  50年   太田川水系工事実施基本計画
       玖村地点 基本高水のピーク流量 玖村地点基本高水のピーク12,000m3/s 
       計画高水流量7,500m3/s
    10月 高瀬堰完成(昭和47年着手)
平成11年6月 梅雨前線の水害おこる 被災家屋324戸
  14年3月 温井ダム完成
  17年9月 台風14号襲う 水害区域面積130ha 床上浸水284棟 床下浸水154棟

 治水事業の変遷を辿ってみたい。

@ 昭和18年、20年の大洪水は計画流量4,500m3/sを上回ったことから、昭和23年基準地点玖村で、計画流量を6,000m3/sとし、太田川放水路4,000m3/s、広島市内の派川2,000m3/sの分流計画とした。

A 昭和47年7月洪水ピーク流量6,800m3/sは、計画流量6,000m3/sを上回ったことから、昭和50年基本高水流量12,000m3/sとし、4,500m3/sを上流ダム群でカットし、計画高水流量を玖村地点で7,500m3/sとした。太田川放水路4,000m3/s、市内派川3,500m3/sの分流計画とした。

B 河川整備基本方針の策定に伴い、上流域におけるダム計画と河道改修事業等の最適化を行なった結果、平成19年玖村村地点で8,000m3/s、太田川放水路に4,500m3/s、市内派川に3,500m3/sとする分流計画とした。

◆ 9. 高瀬堰の建設

 高瀬堰は、太田川本川の河口から13.62q地点に、昭和50年に建設省(現・国土交通省)によって、治水と利水の目的で建設された。この堰の建設について、中国地方建設局編『太田川高瀬堰工事誌』 (建設省太田川工事事務所・昭和51年)の書から追ってみる。
 高瀬堰の必要性については、次のように記されている。

 太田川は昭和7年に直轄改修工事に着手、放水路を重点的に施工し、昭和40年に通水したが、その間太田川上流、中流沿岸一帯は急激な都市化に係わらず、殆んど未改修の状態にあったために、放水通水直後の6月に支川三篠川、7月引き続き右派川古川が全川にわたって大被害を受けた。ここに昭和40年度より上、中流部および支川の重点施工を行なうとともに、改修計画に従って古川締切を実施したが、中流部右岸一帯の灌漑用水等を補給している旧高瀬井堰(固定堰)は古川締切地点にあり、従来から洪水疎通の障害となっていた。この洪水疎通能力の確保と古川締切に伴う太田川流量増加に対処するため、可動堰を改築する必要にせまられた。一方、広島市、呉市を中心とする広島地方生活圏は、都市人口の増加と生活向上による都市用水の需要が高まってきた。これらに対処する治水、利水上の観点から高瀬堰の建設が進められた。


 昭和42年から堰建設の調査に着手、46年度に工事を開始し、50年10月完成した。高瀬堰は河口から13.62q地点の右岸広島市安佐南区八木、左岸同市安佐北区落合の位置に築造された。

◆ 10. 高瀬堰の諸元と目的

 堰の諸元は、高さ5.5m、堰の長さ273m、総貯水容量198万m3、有効貯水容量178万m3、湛水面積1.0km2、集水面積1,480km2となっており、型式は可動堰である。また堰の設備として、主ゲート鋼製ローラーゲート6門(高さ5.5m×長さ43m)、調整ゲート鋼製ローラーゲート1門(高さ5.5m×長さ10m)、魚道(鋼製起伏ゲート)2門、舟通し1門(閘門式)が設置されている。

(2) 高瀬堰の目的

@ 治水
 高瀬堰の地点における計画高水流量7,500m3/sの流下に必要な河積確保のため、高瀬井堰を可動堰に改築して、洪水の疎通能力の増大を図るとともに、河川の正常な機能の維持を図る。
A 発電
 江の川水系土師ダムより、都市用水として、日量30万m3の分水を行なうとともに、容量23万m3を利用して、可部発電所からの発電放流水による常時安定的な供給を図る。
B 水道用水
 容量155万m3を利用して、1日最大16.4万m3を水道用水として、広島市周辺に供給する。


◆ 11. 終 わ り に

 以上、江の川における土師ダム、太田川の高瀬堰の建設について、述べてきた。古くから治水工事は行なわれており、広島藩では、毛利氏、福島氏、浅野氏と三代にわたって施工されてきた。なお、現代においても継続されている。

 高瀬堰の右岸公園に、治水の神様「大禹謨(だいうぼ)」の碑が建立されていた。その碑文を読んでみる。

 「人生の哀歓を秘めた太田川 清澄な流れはわが町の政治、経済、文化に大きく寄与し又 われわれの生活に父祖の生活に潤いと安らぎを与えてくれた。しかし濁流は多年に亙って水と戦った人々の苦難の歴史を創った。
 元和、寛永、承応、嘉永、明治7年・17年、大正8年・12年・15年、昭和18年・20年の水禍は大きく、特に承応2年(1653)年の洪水には死者5,000人余に達したという。
 近く昭和18年(1943)年の大出水は八木村、川内村、緑井村の堤防を決壊し濁流は全村に流れ込み尊い人命と多くの財宝を奪い惨状被害は筆舌につくし得ないものがあった。
 水禍に対する住民の苦悩は深刻であった。当時三村の財政力では根本的な治水工事は出来なかった。
 幸い地元住民の協力により昭和7年より国費により改修が進められ40年星霜と30数億円の巨費を投じられ、太田川中流部の改修がかない願望の古川締め切り工事も昭和44年3月に完成し、近く高瀬堰の完成を見るに至った。永年に亙って父祖の努力と吾々の要望が身を結び偉業を成し遂げられたことを町をあげて喜び黄河の水を治めた夏の禹王の遠大なはかりごとにあやかり、大禹謨を建立して太田川の歴史を偲び治水の大業を称える。
        昭和47年5月20日
佐東町長 池田早人 」


 禹王は中国最古夏王朝(紀元前2070年)の皇帝で、黄河を治めたことから「治水の神」として祀られた。わが国の禹王の碑は、利根川水系片品川、利根川水系泙ひら川がわ、酒匂川、富士川、淀川、大和川、鴨川、香東川、太田川、臼杵川の各河川のほとりに建立されている。やはり、川を治めることは永遠の課題かもしれない。なお、2010年11月27日第一回「全国禹王(文命)文化まつり」が、酒匂川沿いの神奈川県開成町において開催された。

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(2013年3月作成)
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  [テ] ダムの書誌あれこれ(28)〜天竜川のダム〔下〕(美和・小渋・市の瀬・大泉砂防・横川・片桐・箕輪)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(29)〜千曲川のダム〔上〕(奈川渡・水殿・稲核・高瀬・七倉・大町)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(30)〜千曲川のダム〔下〕(奈良井・水上・小仁熊・北山・古谷・余地・金原・内村・豊丘)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(31)〜山梨県のダム(広瀬・荒川・大門・塩川・深城)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(32)〜三重県のダム(宮川・蓮・君ケ野・滝川・青蓮寺・比奈知・安濃・中里)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(33)〜庄川・常願寺川・小矢部川のダム(庄川合口・小牧・御母衣・有峰・刀利)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(34)〜愛媛県のダム(大谷池・黒瀬・台・石手川・鹿野川・野村)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(35)〜宮崎県のダム〔上〕(轟・上椎葉・一ツ瀬・杉安)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(36)〜宮崎県のダム〔下〕(川原・沖田・田代八重・瓜田・広渡・日南)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(37)〜高知県のダム〔上〕(永瀬、大森川、穴内川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(38)〜高知県のダム〔下〕(鎌井谷、大渡、桐見、中筋川、坂本)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(39)〜青森県のダム〔上〕(目屋、久吉、早瀬野、二庄内)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(40)〜青森県のダム〔中〕(浅瀬石川、浪岡、小泊、下湯)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(41)〜青森県のダム〔下〕(浅虫、川内、天間、世増)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(42)〜山形県のダム〔上〕(白川、長井、前川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(43)〜山形県のダム〔中〕(蔵王、寒河江、白水川、新鶴子、神室、田沢川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(44)〜山形県のダム〔下〕(月光川、荒沢、月山、温海川、横川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(45)〜千葉県のダム〔上〕(山倉、高滝、亀山)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(46)〜千葉県のダム〔中〕(片倉、郡、矢那川、保台、山内)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(47)〜千葉県のダム〔下〕(印旛沼開発、利根川河口堰、東金、長柄)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(48)〜ダムの事典、ダムの紀行〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(49)〜ダムの切手、ダムの話、緑のダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(50)〜ダムの景観〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(51)〜ダム湖の生態〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(52)〜ダムの堆砂〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(53)〜茨城県のダム(飯田・花貫・小山・緒川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(54)〜矢作川のダム(矢作・雨山・木瀬)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(55)〜埼玉県荒川のダム (上)(二瀬・有間)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(56)〜埼玉県荒川のダム (下)(浦山・合角・滝沢)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(57)〜長崎県のダム (上)(本河内高部/低部・土師野尾・萱瀬再開発)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(58)〜長崎県のダム (下)(相当・川谷・下の原再開発)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(59)〜熊本県のダム (上)(竜門ダム)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(60)〜熊本県のダム (下)(石打・上津浦・緑川・市房)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(61)〜鬼怒川のダム (上)(五十里・川俣)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(62)〜鬼怒川のダム (下)(川治・鬼怒川上流ダム群連携・三河沢)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(63)〜揖斐川のダム (上)(川浦・川浦鞍部・上大須)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(64)〜揖斐川のダム (下)(横山・徳山)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(65)〜長野県・味噌川ダム 〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(66)〜飛騨川のダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(67)〜木曽川水系阿木川ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(68)〜桃山発電所、読書第1発電所、賤母発電所、落合ダム、大井ダム、読書ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(69)〜木曽川水系丸山ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(70)〜牧尾ダムと愛知用水 (上)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(71)〜牧尾ダムと愛知用水 (中)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(72)〜牧尾ダムと愛知用水 (下)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(73)〜呑吐ダム・加古川大堰〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(74)〜一庫ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(75)〜利根川水系神流川・下久保ダム、塩沢ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(76)〜阿武隈川水系白石川・七ヶ宿ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(77)〜利根川水系渡良瀬川・草木ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(78)〜利根川最上流・矢木沢ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(79)〜利根川水系楢俣川・奈良俣ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(80)〜神流川発電所(南相木ダム・上野ダム)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(81)〜雄物川水系玉川ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(82)〜北上川水系江合川鳴子ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(83)〜北上川水系雫石川・御所ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(84)〜北上川四十四田ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(85)〜米代川水系森吉山ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(86)〜阿賀野川水系大川ダム・大内ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(87)〜東京都のダム(村山上貯水池・村山下貯水池・山口貯水池)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(88)〜東京都のダム(小河内ダム)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(89)〜筑後川水系・藤波ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(91)〜遠賀川福智山ダム・遠賀川河口堰〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(92)〜江の川水系馬洗川支川上下川 灰塚ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(93)〜九頭竜川 九頭竜ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(94)〜九頭竜川水系真名川 笹生川ダム・雲川ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(95)〜九頭竜川水系真名川・真名川ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(96)〜ダムマニアの撮った写真集〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(97)〜吉井川水系苫田ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(98)〜旭川水系旭川ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(99)〜利根川水系薗原ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(100)〜淀川水系琵琶湖支川野洲川ダム・青土ダム・姉川ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(101)〜川内川・鶴田ダムとその再開発事業〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(102)〜筑後川・筑後大堰〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(103)〜阿武隈川水系大滝根川・三春ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(104)〜豊川水系宇連川宇連ダム・大島川大島ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(105)〜安里川水系安里川 金城ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(106)〜荒川水系中津川 滝沢ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(107)〜鹿児島県の川辺ダム、大和ダム、西之谷ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(108)〜肝属川水系串良川支川高隈川 高隈ダム〜
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 (古賀 邦雄)
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