これは、「月刊ダム日本」に掲載された記事を一部修正して転載したものです。著者は、古賀邦雄氏(水・河川・湖沼関係文献研究会)です。
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◆ 1. 東京都水道の歴史
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東京都の水道のあゆみを東京都水道歴史館の資料に基づき、次のように追ってみた。
@ 天正18(1590)年、徳川家康は江戸入府に先立ち、家臣大久保藤五郎に、水道の見立てを命じ、藤五郎は小石川に水源を求め、目白台下あたりの流れを利用し、神田方面に通水する「小石川上水」を造り上げたという。江戸の発展につれ、井の頭池、善福寺池、妙正寺等の湧水を水源とする「神田上水」が、寛永6(1629)年頃とされている。江戸の初期は人口15万人と言われ、その後、三代将軍家光のとき、参勤交代の制度が確立すると、大名やその家族、家臣が住むようになり、人口増加に拍車がかかり既存の上水だけでは足りなくなった。承応2(1653)年、玉川兄弟によって羽村取水口から四谷大木戸まで43qが開鑿された。
A 文明開化の明治時代には、欧米から新技術が次々と導入されたが、その反面しばしばコレラが大流行した。その原因は玉川上水の水質がいかに良くても、末端の木樋に汚水が流入したからである。浄水場で原水を濾過し、鉄管を使用して加圧給水する近代水道の建設が急務となった。そこで、玉川上水を導水路として、そのまま使用し、代田橋附近から淀橋浄水場までを結ぶ新水路を建設し、明治31(1898)年12月に近代水道は神田、日本橋方面に給水を開始した。
B 大正13(1924)年村山上貯水池が完成し、境浄水場からの通水が始まった。続いて、昭和2(1927)年村山下貯水池が完成、昭和9(1934)年山口貯水池が完成した。戦前に始まった多摩川上流における小河内ダム建設は、戦争で一時中断されたが、昭和32(1957)年にようやく完成した。しかしながら、東京都の人口増加は加速し、水需要は増大したため、利根川からの導水が急務となってきた。
C 昭和39(1964)年は、多摩川水系は東京砂漠と呼ばれる大渇水に見舞われ、東京オリンピックが開催された。急遽武蔵水路から利根川の水が導水され、その難を免れた。 昭和40(1965)年、水資源開発公団(現・水資源機構)によって正式に武蔵水路が完成し、水不足の解消の切り札として、利根川の水が東京へ導かれた。淀橋浄水場は廃止となり、その機能は東村山浄水場へと移された。そして、玉川上水の導水路としての役割も野火止用水の分岐点でもある小平監視所で終了する。 一方、羽村取水口から取り入れられた多摩川の原水は、下流500mの第三水門を通過すると、取水所より遠隔操作で村山貯水池(自然流下方式)と小作浄水場(ポンプ圧送)へ送水される。残りはそのまま玉川上水水路をながれ、途中6分水(福生、熊川、拝島、立川、砂川、小平)に放流し、12q先の小平監視所に至る。沈砂池に導かれた原水は管路で東村山浄水場へ送られる。
D 昭和41(1966)年、朝霞浄水場の通水開始、翌年に利根川上流における矢木沢ダムが完成し、その後昭和43年下久保ダム、昭和51年草木ダム、平成2年奈良俣ダム、平成10年浦山ダムがそれぞれ完成した。利根川のダムによって開発された水は、利根大堰(昭和43年完成)で取水され、武蔵水路を通じ、さらに荒川のダムによって開発された水は、秋ケ瀬取水堰(昭和40年完成)にて取水され、朝霞水路を通じ朝霞浄水場に送られる。
E 現在、水源の有効活用をはかるため、利根川と多摩川との原水の相互融通を行っている。原水連絡施設を設け、利根川・荒川系の原水を荒川から取水し、東村山浄水場に揚水するとともに、多摩川系の原水を自然流下により朝霞浄水場へ補給できるように行なった。 通常は、主に利根川及び荒川の水を利用して需要をまかない、小河内貯水池など多摩川系貯水池の貯水を行ない、そして、最も水道需要の多い夏季や利根川または荒川の水質事故時、渇水時などに、多摩川の水を使用し、原水の効率的運用を図っている。
F 東京都の水道は、昭和30年代までは、水源の多くを多摩川に依存してきたが、その後の急激な需要の増加に対応するため、利根川水系の水資源開発に合わせて、利根川水系への依存度を高めてきた。平成22(2010)年現在の東京都の水源は、日量630万m3であり、ほとんどが河川水で、利根川水系・荒川水系が78%、多摩川水系が19%、相模川・地下水が3%の内訳になっている。
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◆ 2. 東京都のダム
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上記のように、昭和40年を過ぎると、東京都の水道は利根川・荒川のダムの水源が担うことになるが、ここで、佐藤志郎著『東京の水道』(都政通信社・昭和35年)、日本ダム協会編・発行『ダム年鑑』(2010)などにより、東京都のダム建設の歩みを見てみたい。
なお、以下のダムの表記は、型式、目的、堤高、総貯水容量の順で、E:アースダム、G:重力式コンクリートダム、FA:アスファルトフェイシングダム、また、W:水道用水、A:農業用水、P:発電用水を表す。
明治33年 羽村取水堰竣工 43年 東京市奥多摩水源林の経営開始 44年 中島悦治博士による村山貯水池計画の発表 大正5年 多摩川 村山下貯水池着工 6年 多摩川 村山上貯水池着工 9年 東京の人口369.9万人 12年 関東大震災発生 13年 村山上貯水池竣工 E W 24.2m 318.2m 33.3万m3 332.1万m3 昭和2年 村山下貯水池竣工 E W 32.6m 587.3m 83.6万m3 1,214.8万m3 多摩川 山口貯水池着工 9年 山口貯水池竣工 E W 35.0m 690.9m 140.4万m3 2,064.9万m3 安川 新堤竣工(八丈島) E A 17.0m 44.0m 1.9万m3 2.5万m3 10年 調布取水堰竣工 11年 多摩川 小河内ダム着工 14年 東京都の人口735.4万人 15年 多摩川異常渇水おこる 18年 東京都制を施行 小河内ダム工事一時中止 19年 山口貯水池防衛工事竣工 村山下貯水池防衛工事竣工 20年 太平洋戦争終わる 東京都の人口348.8万人 21年 村山貯水池愛護会発足 22年 キャスリーン台風の被害 23年 アイオン台風の被害 小河内ダム工事再開 24年 キティ台風の被害 32年 小河内ダム完成 G WP 149.0m 353.0m 167.6万m3 18,910万m3 33年 東京都大渇水 34年 東京オリンピック開催 35年 多摩川 白丸ダム着工 東京都の人口968.3万人 38年 白丸ダム完成 G P 30.3m 61.0m 1.4万m3 89.3万m3 46年 大谷川 乳房ダム着工(小笠原村母島) 48年 乳房ダム完成 G W 16.5m 64.0m 0.6万m3 3.5万m3 51年 八ッ瀬川 時雨ダム完成(小笠原村父島) FA W 24.2m 94.0m 5.8万m3 10万m3 55年 小作取水堰竣工 平成10年 山口貯水池堤体強化工事着工 15年 山口貯水池堤体強化工事竣工 E W 33.5m 716.0m 237.2万m3 2,064.9万m3 16年 村山下貯水池堤体強化工事着工 17年 東京都の人口1,257.6万人 21年 村山下貯水池堤体強化工事竣工 E W 32.6m 610.0m 110.0万m3 1,214.8万m3
以上、東京都のダムは8基を数えるが、型式ではアースダムは4基、重力式コンクリートダムは3基、アスファルトフェイシングダム1基であり、用途別には水道用水5基、水道用水と発電用水の多目的ダム1基、農業用水1基、発電用水1基となっている。離島に3基が建設されている。
なお、村山上・下貯水池は多摩湖、山口貯水池は狭山湖、小河内貯水池は奥多摩湖とそれぞれ呼ばれている。東京都民にとって水道用水として重要なダムは、これらの3湖である。昭和38年に、多摩川(奥多摩町白丸)に建設された白丸(しろまる)ダムは、東京都交通局の発電用のダムである。貯水された水は、下流の御岳にある多摩川第三発電所に送水され、最大16,400kWの発電を行う。平成13年には、国土交通省が魚道を新設。また、白丸ダム直下に白丸発電所が建設され、観光のための放流水を利用して、1,100kWの発電を行う。
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◆ 3. 村山上・下貯水池と山口貯水池
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多摩川は笠取山(標高1,953m)を源とし東京湾まで138qを流れ下る。河口から約55q地点に羽村取水堰が設けられている。この取水堰から村山上貯水池、村山下貯水池及び山口貯水池並びに小作浄水場へ水道用水の原水を導水する。また、小作取水堰は、羽村取水堰の2q上流に位置し、山口貯水池へ原水を導水している。羽村堰は投渡堰である。投渡堰とは、川の流れと直角方向に鉄のけたを渡し、これに杉丸太を立てかけ、粗朶、筵、砂利などを順に重ねて堰を構成するものである。多摩川が増水して一定水位以上になったとき、けたを吊り上げて堰を払うようになっている。 一方、小作取水堰は、伝統的な投渡堰の構造を持つ羽村取水堰とは異なり、鋼製門扉の近代的な取水堰である。取水した水は、左岸に設けた沈砂池を経由し、小作山口線導水路により山口貯水池に導水される。戦前に築造された村山上貯水池、村山下貯水池及び山口貯水池は、平成年間に、耐震のための補強工事が行われた。
各々の貯水池の諸元は補強工事竣工後を記した。 東京都東大和市芋窪に位置する村山上貯水池の諸元は、堤高24.2m、堤頂長318.2m、堤体積33.3万m3、流域面積1.3km2、湛水面積41ha、総貯水容量332.1万m3、有効貯水容量298.3万m3、利用水深11.0mで、東大和市清水に位置する村山下貯水池は、堤高32.6m、堤頂長610.0m、堤体積110.0万m3、流域面積2.0km2、湛水面積111ha、総貯水容量1,214.8m3、有効貯水容量1,184.3万m3、利用水深18mである。一方、埼玉県所沢市山口に位置する山口貯水池の諸元は、堤高33.5m、堤頂長716.0m、堤体積237.2万m3、流域面積7.2km2、湛水面積189ha、総貯水容量2,064.9万m3、有効貯水容量1,952.8万m3、利用水深20.0mとなっている。3貯水池とも、目的は水道用水の供給であり、型式は3貯水池ともアース式ダムである。3貯水池建設について、多摩湖の歴史編集委員会編『多摩湖の歴史』(東大和市教育委員会・昭和55年)、東大和市史編さん委員会編『多摩湖の原風景』(東大和市・平成7年)により、追ってみたい。
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『多摩湖の歴史』 |
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『多摩湖の原風景』 |
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◆ 4. 水没移転補償交渉の経過
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(1) 明治45年、村山貯水池建設の計画が東京府東京市によって発表された。水没予定地である狭山丘陵に囲まれた地域は、一般に石川の谷と呼ばれ、山林、畑、水田など324町歩、160戸の家が貯水池に必要となった。
(2) 160戸は農業を主体に、機織り、養蚕などを副業として生活を営んでいた。住民の多くは、先祖代々住んでいる人が多く、また強い血縁関係や水田耕作に伴う川や溜池の共同利用など地域的にも相互協力体制が強かった。
(3) しかし、生活は水田からとれる、わずかな米以外、特産物もこれといってなく、麦を主食とする貧しい生活をしていた。
(4) 住民側には、長い間住み慣れた地を離れることに対する抵抗はあったものの、日露戦争後の不況は、村にも押し寄せてきており、機械仕事さえ少なくなり、苦しい生活の中でダム移転やむなしの心境に向わせていた。
(5) しかし、大正3年、提示された土地価格が余りにも安かったため、住民地主など、600名の村民が結集して移転地住民大会を開き、反対決議がなされ、76名の代表を立てて東京市に陳情を行った。
(6) その時、次のように反対決議文が決定された。
一、 東京市ニ於テ該土地買収ノ協議ニ対シテハ住民極力共同一致ノ行動ヲ採リ各人別ニ応セサル事 二、 買収セラルヘキ土地ノ価額移転料地上物件移転中人々ノ手当及社寺堂宇其ノ他共有物等総テ一定ノ標準ヲ以テ起業者ト協議スル事ヲ各部委員ニ嘱託スル為メ移転民一同署名捺印スルモノトス右決議スル
となって、その団結を誓いあった。
(7) 土地価格が、余りにも予想より低いことに驚き、そのため、結束して拒絶行動を起こした。
承諾書調印拒絶書 東京市水道第二拡張ニ付高木村外五か村組合各村移住民及地主一同ハ昨大正三年九月市当局ノ意志トシテ貯水池敷地買収価格ノ二六新聞ニ顕ルルヤ当時売買格ノ半額ニ達セス其ノ低廉ナルニ驚キ市役所ニ向テ陳情セシモ要領ヲ得ス故ニ同月二十二日移住民約弐百名地主四百名余会同シ買収価格ハ不当ノ甚シキモノナルヲ以テ之ニ応セサルハ勿論該用地ハ他へ変更ヲ期セント決議シ直ニ市長へ上申シタル旧臘埼玉県入間郡山口村地内測量セシヲ目撃シ我々ハ稍先祖伝来ノ土地ニ離ルルノ悲惨ニ遭遇セサルニ至レリト稍ニ安堵セシニ今回上水道用地トシテ各所有者ニ配布セシメ之カ調印ヲ要請セラル此ノ算出ニヨレハ曩ニ低廉ナリトシ陳情セシ価格ヲ尚低減セシモノニシテ吃驚又吃驚如何ニ市当局ハ我々地主ヲ愚弄セラル、カ将ニ市ハ公共ノ為ナルヲ口実ニ我々世襲ノ財産ヲ奪取セラルルカ酷ハナ夕ハダ判断ニ苦メリ是ニ於テ承諾書ヲ拒絶候也 大正四年二月二十八日 以上 安い土地価格に抵抗した。
(8) こうした行動にもかかわらず、東京市は強引に土地取得を始めた。交渉は個々の地主と市との間の個別交渉という形で進められた。全体として次々に交渉に応じ、応じない人が8人となった。この人達は結束して上申書をもって、市へ陳情したり、弁護士と相談したり、粘り強く交渉したが、大正8年、国の強制収用により、全戸が立ち退くに至った。貯水池計画が提出されてから8年で土地取得補償は完了した。
(9) 補償交渉に遅くまで抵抗したもっとも大きな理由は、土地価格の安さにあったことは事実であるが、日清・日露戦争で働き手をとられ苦労した時期もあり、 「お上」をこころよく思っていなかったという。
(10) 水没者の移転者の多くは、大和・村山・小平、などに移った。多くは農業をつづけ、急速に地域と同化していった。近くに移ったなかで、千葉の八街や栃木の那須高原に移転した人達もいた (11) 三光院の移転に伴って出された補償金を、そのうちの半分を農工貯蓄銀行に預金したところ、この銀行が破産し回収出来なかった。
以上、移転に関する諸々の事実は、移転者にとって決して楽なものではなかった。国や東京市の移転者に対する態度はかなり強圧的で、また、冷酷であったという。
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◆ 5. 貯水池堰堤工事の実態
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村山上・下貯水池の二つ堰堤工事は、同じ工法で築造された。昔から各地で行われてきた工法であって、近くの丘や高台を切り崩し、その土をつき固めて積み上げて堰を造るやり方である。しかし、ほぼ平地に近い地形にこれだけの大規模なダムを造ることは、わが国では、他にみられなかった。古来からの工法に加え、粘土に砂利を混ぜて、しっかりとつき固め、要所にコンクリートを使うという、近代的な技術を駆使して築かれた。土を主に使うので、アース式ダムである。土が主成分なので当然のことながら、堰堤の底は幅が広く、断面は傾斜のゆるい三角形になる。工事の順序は次のように施工され、外面には張芝をすべて行った。
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(1) 堰堤工事
@ 敷鋤取(しきすきとり) 堰堤を築く場所全体の表土を除く工事である。
A 堤心掘削 村山貯水池の底部は、全部粘土岩盤で地質調査の結果、天与の良好な基礎岩盤が形成されていることがわかっていた。したがって、堤心掘鑿はその粘土岩盤まで掘鑿された。
B 盛土工事 盛土工事は、堤心掘鑿によって出る多量の土の中から盛土に適したものはそれを使い大部分は堰堤附近の土取場から、良質の土を運搬してきて、厚さ五寸に敷きならし、さらにこれを厚さ三寸まで、六トンや十トン蒸気輾圧機(ローラー)で押し固めた。ローラーが使えないような場所は、重さ九貫匁ほどの石蛸や木蛸で人力によって締め固めた。工事としては、この粘土を採取し運んできて練台の上でほぼ同量の砂利と混ぜ土運搬車(トロッコ、馬ドロなど)で施工場所まで運び、厚さ三寸に敷きならし、これを半分の厚さの一寸五分になるまで八貫や二十貫匁目の石蛸で何度となく繰り返して固めた。この粘土壁は堰堤の最も重要な部分なので、特に念入りに行われた。
C 堤心混凝土壁工事 混凝土とはコンクリートのことで、粘土で固めただけでは具合が悪く、主要部分にコンクリート工事が行われた。村山下貯水池堰では、その量は盛土1万2千2百坪(約73,329m3)、堤心粘土壁用粘土2千坪(約12,022m3)、コンクリート2,553坪が使用された(坪=六尺立方)。
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(2) 導水路工事
@ 羽村村山線 多摩川羽村の取水口から村山上貯水池までの水路を羽村村山線と呼び、羽村から瑞穂町の南部(横田基地)を経て、武蔵村山市の西部から新青梅街道を斜横断し、同市の市立一中の北側を通り、同市中央を北東に、そして丘陵の下を抜けて上貯水池西端に通じている。現在、この導水路は、延長8,329m、構造 内径2,900o、ダクタイル鋳鉄管、勾配1/1,500、最大流量12.5m3/sである。この水路の上を工事中は軽便鉄道が砂利、砂を運んだ。丘陵は隧道を掘って、下を水路にその上を軌条が走っていた。水路は暗渠で、軌条の跡はいま、自転車道(遊歩道)になっている。 上貯水池の取水塔下から下貯水池への導水路(延長223m)は、同取水塔下から深く隧道を掘り、通じている。通水時に下貯水池の水位との関係で間歇泉のように水柱が起こることがある。
A 村山境線 下貯水池から境浄水場までの導水路を村山境線と呼び、羽村村山線と同じように水路が施工された。下貯水池の取水塔下から武蔵大和駅近くの村山街道まで深い隧道を掘り、暗渠で境浄水場まで送水されている。延長11,233m、構造 内径2,000〜2,600o、ダクタイル鋳鉄管(一部鋼管)、勾配1.5/1,000〜1/1,200、最大流量20.0m3/s。途中急勾配による水圧を抜くため、地元の人達が急下とよんでいる開口部が水量豊かな滝となっている。 このほかの水路は、多摩川小作堰から山口貯水池へ導水する小作・山口線は、延長8,455m、構造 内径3,800o、鋼製セグメント 勾配1/600、最大流量22.77m3/sであり、羽村線分岐から山口貯水池へ導水する山口引き込み水路は、延長523m、構造 内径2,900o、ダクタイル鋳鉄管 勾配1/1,500、最大流量12.5m3/sとなっている。 また、村山下貯水池から東村山浄水場へ導水する村山線は、延長2,067m、構造 内径2,600o、ダクタイル鋳鉄管、勾配1/2,000、最大流量20.0m3/sである。
(3) 古老が語る工事の記録
村山貯水池の工事には、機動力は殆んどなかった。 「なにしろあの大きな堰堤をつるっぱしとシャベルで築きあげたんだからね」と、当時を知る人が語っている。機械といえば資材を運ぶ機関車とこれも蒸気の力でガタガタ動クローラーと、巻き上げのウインチぐらいであった。「まるでアリマチ(蟻の町)みたいだった」と表現されるほど、多くの人力を必要とした。古老が語る工事に関し、追ってみたい。
@ 作業員出しのこと 東京市と契約して作業員出しを請け負う組ができた。組は回田(めぐりた)の入山組と芋窪の多摩組で、上貯水池には、多摩組、下貯水池には入山組が事務所を置き、作業員は組から「デヅラ」というカードをもらって就業した。普通は8時間労働で毎日デヅラに印をもらい、1週間払いで給料もらった。作業員の頭を「棒頭(ぼうがしら)」といい、棒頭は定夫(じょうふ)といって市の職員の資格があり、今の現場監督のような仕事であった。当時の写真をみると、印半纏(しるしばんてん)の衿に東京市の市章と定夫という白い染め抜きの文字がみえる。
A タコつき 堰堤の基部の粘土やローラーのまわれない所を固めるのは、主にタコつきであった。一尺立方に土を切り取って検査をしてみると、タコでついた土の方が、ローラーで固めた土より重かった。そこで水に浸かる基部は特に念入りにタコつきが行われた。タコつきをするのは「女衆」が多かった。
B 筵(むしろ)敷き 筵敷きは、堰堤を築き上げる時トロッコで運んだ土をローラーでならすのに、土の上に筵を敷く仕事である。筵は三尺×六尺の小筵で、ローラーが通ると直ぐにはがして、竹の棒にかけ、二人で担いで次の所へ移動する。この仕事は子どもや女の人もやった。
C 馬ドロ 大正9年に機関車が走るまでは、 「馬ドロ」といって馬がトロッコを引いていた。上堰堤では、中藤村の丸山附近から粘土を運ぶ馬ドロが鹿島神社の西の旧道を周囲道路まで走っていた。
D 軽便鉄道 資材運搬の軽便鉄道は、大正9年6月東村山から上堰堤まで開通した。小さい煙突のある小型蒸気機関車が二台往復するようになった。機関車は、一台に一二台のトロッコを連結して、東村山駅から砂利やセメント樽を運んできた。東村山駅から殆んど平地を清水までくると仲山前で山を掘った隧道を通り取水塔附近に到達する。
E オロシの仕事 軽便鉄道のトロッコから荷をおろす仕事を「オロシ」といった。オロシは屈強な若者でないと務まらない重労働で専門にやった。一二台のトロッコに六人のオロシがつくので、一人二台の割り当てという計算になる。仕事は共同作業でセメント樽50貫をおろして倉庫に四段に立てて積み上げる。次の車の交換までにおろすのは大変だった。さらに袋13貫に変わってからなお、大変であった。
F 事故の話 「バタ」といってトロッコの脱線事故がよくあった。トロッコは手動のブレーキがあるが、故障で暴走とか追突事故を起こし、足などがはさまれた人がいた。堰堤が高くなるにつれ、材木で組んだ桟橋の上からトロッコごと落ちて大怪我をする人があった。馬ドロによる轢死者も出た。重傷者は担架や戸板にのせ四人で手車などで病院に運んだ。上堰堤では、突然土砂崩れが起こって三人が生き埋めになり一人の死者が出た。
G 関東大震災の被害 大正12年9月1日関東大震災が起こったとき、下堰堤の築造工事は全体の半分の高さまで出来ていた。上堰堤はその中央のあたりで、約六寸ほど沈下したり、盛土や張石に亀裂が生じたり、崩壊したり、導水管の内部が壊れたりしたが、いずれも修復可能であった。東京市の水道全般に甚大の被害を受けたが、応急工事の末、9月13日には給水を開始している。
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◆ 6. おわりに
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以上述べてきたように、大正13年村山上貯水池、昭和2年村山下貯水池、昭和9年山口貯水池がそれぞれ完成した。このように、多摩川の堰から引水された水は、村山上貯水池、村山下貯水池及び山口貯水池に導水され、その水は3貯水池を結び、さらに、境浄水場、東村山浄水場に運ばれ、これらの浄水場から各家庭に給水されるようになった。
この3貯水池の人力によった工事をみてみると、現在、中村哲医師らがアフガニスタンの地において、水路の建設を行なっているが、その施工工事を彷彿させてくれる。
平成22年10月私は初めて、この3貯水池を訪れた。3貯水池とも周辺は小高い森林に囲まれ、ダムサイトに佇むと、水景が素晴らしい。散歩連れや、トランペットを吹く人、絵を描いている人に出会った。ダムサイトの欄干、張石、階段状の余水吐き、丸い緑の取水塔の施工がそれぞれ丁寧であり、ひとつも粗雑な感じが生じなかった。ここには大正文化がいきづいていた。
それから村山貯水池上堰堤の北側まで歩いた。そこには貯水池の生みの親、中島悦治博士の頌徳碑が、博士の門下生たちにより、昭和11年に建立されていた。その碑文には次のように刻まれていた。
中島悦治先生は、本邦衛生工学の泰斗にして東京市水道の恩人なり。殊に嘱を受けて宮城東京御所の水道をはじめ東京市その他我国都市の大半に亘りて上下水道を計画施工。水道鉄管の基準の如きも先生が調査創定したる不朽の典型なり。宣なるかな先生の勲積はいやしくも天聴に達して、大正十三年五月特に旭日重光章を授与せらる先生栄与や大なりというべし。而して我学界並びに水道事業界はなお先生に倚頼する所多かりしに不幸に大正十四年二月十七日齢六十八を以ってなくなられる。先生の記念事業として日本水道史の編纂刊行を企図し、今又、先生と因縁浅からぬ此地に碑を建て先生の功徳を刻して景迎の意を昭にす。
中島博士らの尽力によって、3貯水池が築造されたが、大正9年東京の人口は369.9万人から、さらに、昭和14年人口は735.4万人にのぼり、多摩川上流における小河内ダム建設が進められ、戦後昭和32年小河内ダムが完成する。しかし、なお都市膨張した東京都は、現在、その水源を利根川上流ダム群によって図られている。
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[関連ダム]
村山上ダム
村山下ダム(元)
村山下ダム(再)
山口ダム(元)
山口ダム(再)
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(2012年10月作成)
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[テ] ダムの書誌あれこれ(15)〜大井川水系のダム(井川・畑薙・長島)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(16)〜神奈川県のダム(相模・城山・三保・宮ケ瀬)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(17)〜香川県のダム(満濃池・豊稔池・田万・門入・吉田)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(18)〜兵庫県のダム(布引五本松・引原・安富・安室・長谷・生野・青野・三宝・大路・大日・牛内・成相・北富士)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(19)〜富山県のダム(室牧・久婦須川・熊野川・境川・利賀川・城端・上市川・上市川第二・布施川ダム・大谷・朝日小川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(20)〜吉野川水系の水資源開発ダム(早明浦ダム、池田ダム、旧吉野川河口堰)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(21)〜島根県のダム(尾原・志津見・山佐・三瓶・八戸・浜田・御部・大長見・美田・銚子)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(22)〜山口県のダム(小瀬川・弥栄・菅野・屋代・中山川・末武川・島地川・川上・荒谷・一の坂・今富・阿武川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(23)〜黒部川のダム(仙人谷・黒四・宇奈月)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(24)〜京都府のダム(大野・天ケ瀬・高山・日吉)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(25)〜石川県のダム(子浦川防災・手取川・小屋・八ケ川ダム・医王)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(26)〜奈良県のダム(猿谷・坂本・大迫・室生・布目・白川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(27)〜天竜川のダム〔上〕(泰阜・平岡・佐久間)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(28)〜天竜川のダム〔下〕(美和・小渋・市の瀬・大泉砂防・横川・片桐・箕輪)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(29)〜千曲川のダム〔上〕(奈川渡・水殿・稲核・高瀬・七倉・大町)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(30)〜千曲川のダム〔下〕(奈良井・水上・小仁熊・北山・古谷・余地・金原・内村・豊丘)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(31)〜山梨県のダム(広瀬・荒川・大門・塩川・深城)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(32)〜三重県のダム(宮川・蓮・君ケ野・滝川・青蓮寺・比奈知・安濃・中里)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(33)〜庄川・常願寺川・小矢部川のダム(庄川合口・小牧・御母衣・有峰・刀利)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(34)〜愛媛県のダム(大谷池・黒瀬・台・石手川・鹿野川・野村)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(35)〜宮崎県のダム〔上〕(轟・上椎葉・一ツ瀬・杉安)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(36)〜宮崎県のダム〔下〕(川原・沖田・田代八重・瓜田・広渡・日南)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(37)〜高知県のダム〔上〕(永瀬、大森川、穴内川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(38)〜高知県のダム〔下〕(鎌井谷、大渡、桐見、中筋川、坂本)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(39)〜青森県のダム〔上〕(目屋、久吉、早瀬野、二庄内)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(40)〜青森県のダム〔中〕(浅瀬石川、浪岡、小泊、下湯)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(41)〜青森県のダム〔下〕(浅虫、川内、天間、世増)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(42)〜山形県のダム〔上〕(白川、長井、前川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(43)〜山形県のダム〔中〕(蔵王、寒河江、白水川、新鶴子、神室、田沢川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(44)〜山形県のダム〔下〕(月光川、荒沢、月山、温海川、横川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(45)〜千葉県のダム〔上〕(山倉、高滝、亀山)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(46)〜千葉県のダム〔中〕(片倉、郡、矢那川、保台、山内)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(47)〜千葉県のダム〔下〕(印旛沼開発、利根川河口堰、東金、長柄)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(48)〜ダムの事典、ダムの紀行〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(49)〜ダムの切手、ダムの話、緑のダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(50)〜ダムの景観〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(51)〜ダム湖の生態〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(52)〜ダムの堆砂〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(53)〜茨城県のダム(飯田・花貫・小山・緒川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(54)〜矢作川のダム(矢作・雨山・木瀬)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(55)〜埼玉県荒川のダム (上)(二瀬・有間)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(56)〜埼玉県荒川のダム (下)(浦山・合角・滝沢)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(57)〜長崎県のダム (上)(本河内高部/低部・土師野尾・萱瀬再開発)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(58)〜長崎県のダム (下)(相当・川谷・下の原再開発)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(59)〜熊本県のダム (上)(竜門ダム)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(60)〜熊本県のダム (下)(石打・上津浦・緑川・市房)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(61)〜鬼怒川のダム (上)(五十里・川俣)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(62)〜鬼怒川のダム (下)(川治・鬼怒川上流ダム群連携・三河沢)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(63)〜揖斐川のダム (上)(川浦・川浦鞍部・上大須)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(64)〜揖斐川のダム (下)(横山・徳山)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(65)〜長野県・味噌川ダム 〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(66)〜飛騨川のダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(67)〜木曽川水系阿木川ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(68)〜桃山発電所、読書第1発電所、賤母発電所、落合ダム、大井ダム、読書ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(69)〜木曽川水系丸山ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(70)〜牧尾ダムと愛知用水 (上)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(71)〜牧尾ダムと愛知用水 (中)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(72)〜牧尾ダムと愛知用水 (下)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(73)〜呑吐ダム・加古川大堰〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(74)〜一庫ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(75)〜利根川水系神流川・下久保ダム、塩沢ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(76)〜阿武隈川水系白石川・七ヶ宿ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(77)〜利根川水系渡良瀬川・草木ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(78)〜利根川最上流・矢木沢ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(79)〜利根川水系楢俣川・奈良俣ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(80)〜神流川発電所(南相木ダム・上野ダム)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(81)〜雄物川水系玉川ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(82)〜北上川水系江合川鳴子ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(83)〜北上川水系雫石川・御所ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(84)〜北上川四十四田ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(85)〜米代川水系森吉山ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(86)〜阿賀野川水系大川ダム・大内ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(88)〜東京都のダム(小河内ダム)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(89)〜筑後川水系・藤波ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(90)〜江の川土師ダム、太田川高瀬堰〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(91)〜遠賀川福智山ダム・遠賀川河口堰〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(92)〜江の川水系馬洗川支川上下川 灰塚ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(93)〜九頭竜川 九頭竜ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(94)〜九頭竜川水系真名川 笹生川ダム・雲川ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(95)〜九頭竜川水系真名川・真名川ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(96)〜ダムマニアの撮った写真集〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(97)〜吉井川水系苫田ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(98)〜旭川水系旭川ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(99)〜利根川水系薗原ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(100)〜淀川水系琵琶湖支川野洲川ダム・青土ダム・姉川ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(101)〜川内川・鶴田ダムとその再開発事業〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(102)〜筑後川・筑後大堰〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(103)〜阿武隈川水系大滝根川・三春ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(104)〜豊川水系宇連川宇連ダム・大島川大島ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(105)〜安里川水系安里川 金城ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(106)〜荒川水系中津川 滝沢ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(107)〜鹿児島県の川辺ダム、大和ダム、西之谷ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(108)〜肝属川水系串良川支川高隈川 高隈ダム〜
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(古賀 邦雄)
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