これは、「月刊ダム日本」に掲載された記事を一部修正して転載したものです。著者は、古賀邦雄氏(水・河川・湖沼関係文献研究会)です。
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◇ 1. ダム建設の外圧
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ダム建設は一般的に予備調査から始まり、地元地権者の了解が得られれば、さらなる技術調査、補償調査を終え、補償基準が妥結して、地権者との補償契約を完了し、本格的なダム工事に着手する。ダム建設の原動力は地元の協力が第一であり、ダム建設の大義名分が明確に示され、世論の後押しもまた重要な要件である。起業者における技術力、組織力、資金力などが備わってダム完成に向うが、起業者はダム完成まで、様々な外圧に遭遇することがある。その外圧とは、天災事故であり、戦争であり、外国のダム事故であり、金融危機であり、そして石油危機である。これらの外圧には地権者もまた多大な影響をうける。
大正期、電力王と呼ばれた福沢桃介も外圧に遭っている。当時、木曽川に日本一のハイダム大井ダムを建設中であったが、大正12年9月1日関東大震災が起こった。その影響を受けたダム資材の高騰、労力の不足により、大同電力(株)の資金不足が生じた。桃介がこの危機を乗り越えるためアメリカからの外資導入を図ったことは有名である。
桃介と同様に関東大震災の影響を受けたダムが烏山頭ダムである。 八田與一が台湾に於いて、烏山頭ダムを建設中に日本からの融資がとどこおり、一時従事者を解雇せざるを得なかったが、再融資により昭和5年に竣工させ、台南地方の荒地嘉南平原を緑地に変えた。今でも八田與一は台湾の人から尊敬されている。最近、古川勝三著『台湾を愛した日本人−土木技師八田與一の生涯−』(創風社出版・平成21年)が出版された。
日中、太平洋戦争からの外圧には多くのダムが影響を受けているが、二、三の例を挙げてみる。相模川の相模ダム、多摩川の小河内ダムは戦争によって物資不足などが生じ一時ダム工事を中断した。相模ダムは昭和24年に完成、小河内ダムは昭和23年に工事を再開し、昭和32年に漸く完成。後述する木曽川水系丸山ダムもまた同様に戦争に翻弄され、これらのダム水没者たちもまた苦難の道を辿った。
ダム事故の影響を受けたダムのひとつは、梓川渓谷における揚水発電ダム群のアーチダムであった。昭和34年12月2日南フランスのカンヌ地方に造られていたマルパッセダムが湛水がほぼ満水になったときに突如として崩壊、さらに北イタリアのアルプス地帯に昭和35年に造られたアーチダム・バイオントダムが、昭和38年10月9日に地すべりを起こした事故である。建設中の奈川渡ダム等が同タイプのアーチダムであったことから、ダム関係者はフランス、イタリアまで原因調査に赴き、その後のダム造りに万全を尽くした。このダム事故では、建設中の黒四ダムも影響を受けている。世界におけるダム事故については、ロバートB. ヤンセン著『ダムと公共の安全−世界の重大事故例と教訓−』(東海大学出版会・昭和58年)に詳述されている。
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『台湾を愛した日本人−土木技師八田與一の生涯−』 |
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『ダムと公共の安全−世界の重大事故例と教訓−』 |
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また、昭和48年第四次中東戦争による第一次石油危機、昭和54年イラン革命による第二次石油危機の影響でダム資材などが高騰し、日本における多くのダム建設は支障を被った。
関西電力によって昭和29年に完成した木曽川水系の丸山ダム建設について、戦争とそれに伴う電力の国家政策の影響などをみてみたい。
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◇ 2. 戦前における丸山ダム建設
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当初の丸山ダム建設については、日本発送電(株)解散記念事業委員会編・発行『日本発送電社史−技術編−』(昭和29年)に、次のように述べてある。
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「丸山発電所は、大同電力(株)によって計画されていたが、昭和3年末からの不景気で頓挫し、昭和8年経済界の立ち直りに乗じて丸山地点の着工計画を再度樹立。当時の電力界は、二股発電所と丸山発電所を合併して、1発電所とし、出力135,000kWの丸山発電所の開発計画をもって、大同電力(株)から日本発送電(株)が昭和14年に引継いだ。昭和16年6月調査班を編成して河床隧道による地質調査を行うと共に、測量調査を行って実施準備にとりかかった。翌年17年5月名古屋鉄道東美線の延長基礎工事を始める。同年12月ダム地点の県道付替工事に着手し、発電力135,000kWの計画を最大出力105,000kWに計画変更し、第1期工事として70,000kWを完成する事とした。 同18年9月工事用機械の新規製作は三浦、有峰、岩屋戸などから転用する方針のもとに工事実施することとなった。そこで12月に建設所を開設して工事に邁進する。幸いに下流の兼山に工事の拠点があった関係と、地理的好条件もあって、労務者及び木材には事欠かず、宿舎、一般仮設工事は順調に進捗した。ところが19年5月に至って全面的にコンクリート工事に移らんとしたが、折柄主要資材特にセメント、鉄鋼類が極度に不足して、ついに中止のやむなきに至った。出来高は仮設備70%、本工事2.5%、総合出来高13%、用地買収は浸水地域の一部を残して終了した。かくて終戦となって当分電源開発は望めない状況となった。」
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『日本発送電社史−技術編−』 |
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◇ 3. 戦後丸山ダム建設の再開
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丸山ダムの建設再開について、さらに同書『日本発送電社史−技術編−』により追ってみる。
「戦後深刻な電力不足となり、昭和23年の初めから電源開発の必要性が叫ばれるようになり、電源開発5ヵ年計画が樹立され、丸山発電所も23年12月再開準備の指令がでた。24年6月G.H.Q.からの認証を得て、設計等の再検討をはかり、最大取水量186m3/s、最大出力105,000kW、発電機52,500KVA2台となった。堤高88mのダムを造り、右岸延長965mの隧道によって導水し、発電を行うものである。昭和27年に竣工するものとして準備したが、資金放出許可の見透しがたたず、時のすぐるのを待つのみであった。昭和25年12月に漸く建設命令があったが、見返資金の対象とならなかったので、終にこのまま日本発送電(株)から関西電力(株)に引継がれた。」
電気事業の国家管理体制は、敗戦をはさんで、昭和26年まで続いたが、電力再編成によって日本発送電(株)は解体され、北海道電力(株)など9電力が発足した。丸山ダムの建設は、関西電力(株)が引継ぎ、工事に着手し、昭和29年に完成させた。
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◇ 4. 丸山ダムの諸元と目的
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丸山ダムは、木曽川水系木曽川の河口より約90q地点の右岸岐阜県可児郡御嵩町小和沢字北浦山、左岸岐阜県加茂郡八百津町八百津字安渡に位置する所に建設された。 そのダム諸元、目的について、関西電力(株)編・発行『丸山発電所工事誌 総括編』(昭和31年)、同『丸山発電所工事誌 仮設備編』 (昭和31年)、同『丸山発電所工事誌 土木編』(昭和31年)、同『丸山発電所工事誌 竣功図譜』(昭和31年)、丸山ダムのパンフレットなどにより見てみたい。
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『丸山発電所工事誌 総括編』 |
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『丸山発電所工事誌 仮設備編』 |
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『丸山発電所工事誌 土木編』 |
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『丸山発電所工事誌 竣功図譜』 |
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丸山ダムの諸元は、堤高98.2m、堤頂長260.0m、堤体積49.7万m3、総貯水容量7,952万m3、有効貯水容量3,839万m3(洪水調節容量2,017万m3、発電容量1,822万m3)、流域面積2,409km2、湛水面積2.63km2、型式は重力式コンクリートダムである。企業者は関西電力(株)、施工者は間組で事業費は559.2億円を要した。なお、現在ダム管理は国土交通省、関西電力(株)で行っている。
丸山ダムは二つの目的を持っている
(1) 洪水調節 丸山ダムでは、下流域に影響を及ぼさない4,800m3/sまでの流入量をそのまま放流し、4,800m3/sを越える部分の流入量についてはダムによって貯留を行う。丸山ダムの計画では、流入量6,600m3/sのうち4,800m3/sを放流し、その差1,800m3/sを貯留する。 後述するが、ダム完成後に流入量6,600m3/sを越える水害が生じ、水害の減災を図るためのダムの嵩上げ工事による丸山ダム再開発事業が施工されている。
(2) 水力発電 丸山ダムの貯水池に貯められた水の高低差を利用して発電を行う。関西電力(株)により、昭和29年4月9日に竣工した丸山発電所(岐阜県八百津町港向)では、有効落差80.75m、使用水量最大186m3/sでもって出力125,000kWの発電を行う。さらに、昭和46年5月21日に竣工した新丸山発電所(岐阜県八百津町鵜の巣)では、有効落差78.1m、使用水量最大93m3/sでもって出力63,000kWの発電を行う。この二つの発電所によって合計188,000kWの発電を行い、関西方面に供給している。
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◇ 5. 丸山ダムの特徴
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本格的な機械化施工で竣工した丸山ダムは堤高98m、堤頂長260m、堤体積49.7千m3を誇り、当時日本最大であった。そのダム施工の特徴について、大沢伸生・伊東孝著『ダムをつくる』(日本経済評論社・平成3年)により、いくつか追ってみたい。
(1) 工期わずか2年7ヵ月 丸山ダムは工事中止となった戦前に引続き間組が受注し、昭和26年9月8日に契約。契約条件は29年9月が通水期限であり、3ヵ年での当時最大のダム工事であった。さらに26年異常渇水に見舞われ、深刻な電力不足となり、政府及び電力業界からの強い社会的な要請により工期を半年短縮して、29年3月に変更となった。ダム関係者はダム工事において、初めて全面的な重機械化工法を導入し、工期を短縮し、昭和29年4月17日にハイダム丸山ダム及び丸山発電所の竣功式を迎えた。工期はわずか2年7ヵ月であった。
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『ダムをつくる』 |
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(2) ダム施工の全面的な重機械化施工 戦前の土木工事には、掘削、コンクリート打設に簡単な機械を使用し、重機械はほとんど無く、人力中心であった。戦後進駐した米軍の工事を受注して、建設業は機械化施工を学んだ。間組も入間川、横田、羽田などの飛行場の工事に重機械類の操作を学んでいる。ダンプトラック、クラッシャ、パワーシャベル、セメントサイロ、ミキサ、ケーブルクレーン、ベルトコンベヤなどがダム建設に威力を発揮した。 わが国における大規模ダム土木工事は、昭和24年に着工の天竜川平岡発電所で、熊谷組が試みているが、全面的に重機械類で施工したのは丸山ダムである。しかも丸山ダムでは、シャベルやダンプトラックなどの主要重機械は国産であった。 昭和27年6月1日ダンプがズリを初めて運ぶときのことを、堰堤工事係りの古橋利夫さんは「第1号ダンプがズリを満載していざ出発という時、ブワーっていう声が聞こえてきたのです。はっとしてふり仰ぐと、ダム右岸の道路やそばにあった吊橋の上に、うち(間組)の社員や労働者たちが黒山になって、一斉に万歳を叫んでいる。川底のわれわれも感極まって一緒に万歳を叫びました。みんな機械化施工を待ち望んでいたのですね。」と、その喜びを語っている。
(3) 驚異的なコンクリート打設量 掘削は、昭和27年9月に完了。残る1年7ヵ月で50万m3余りのコンクリート打設を終えなければならない。関電はアメリカ製のバッチャプラントを購入し、間組に貸与することになった。そして、工事契約満一周年にあたる9月8日定礎式を行って打設を開始。この時バッチャプラントと併せて、クーリングプラント、ふるい分けプラント、コンクリート運搬用のバンカー線、ケーブルクレーンおよび容量4.5m3のコンクリートバケットなどの設備が設置され、昼夜兼行でコンクリート打設が始まった。打設開始一年後9月3日には、一時間当り打設量145.5m3、一日当り打設量2,273.5m3、また9月には、一月当り打設量5万0,039m3となり、この当時世界最高の打設量を記録した。この記録はすぐに佐久間ダムや黒四ダムに軽く破られることになるが、機械化施工の威力が発揮された。 こうして、29年4月までに、堤体部、橋脚部、導流壁左岸・右岸、エプロン部、張コンクリート右岸上流・右岸下流、監査廊通路など合計52万5,600m3のコンクリ−ト打設が完了した。
(4) O.C.I.(海外技術顧問団)の技術援助 丸山ダム建設においては、O.C.I.の援助を受けているが、主に水力設備の設計に限られ、工事費算定、施工等の問題はほとんど触れられなかった。例えば、設備の簡素化並びに建設費の低廉化が強調されており、機械台数の減少、電線接続の簡素化、屋外発電所の推奨、水車入口弁及び鉄管弁の省略、運転維持費の軽減などの勧告を受けたという。 これに対し、関電側は電線接続について、戦時設計の電線接続は殆んどそのままのものを標準として採用してきたが、勧告は簡素化されており、特に、中小発電所に対しては、変圧器の高圧側及び線路側の遮断器の省略の必要性を認識し、わが国の実情に合うように検討すべきであると、また、配電用変圧器による発電機中性点の接地、所内電線のとり方、保護継電方式なども研究を要すると、述べている。
(5) 土木技術革新のさきがけ 昭和28年7月22日に、現場では集中豪雨に見舞われかなりの被害を受けたが、それも乗り切った。丸山ダムの工事は重機械化施工によって、短期間のうちに終わらせ、その後のダム計画が安心して重機械化工法を採用できるようになり、いわば第一次技術革新のさきがけを務めた。
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◇ 6. 丸山ダム建設の想い出
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このように重機械化施工による短期間での丸山ダム工事に従事した人達の回顧談が、丸山ダム管理所編・発行『丸山ダム五十年の記憶−聞き書き木曽川と八百津町の今昔−』 (平成16年)に掲載されており、幾人かあげてみる。
神野勝之助氏(大正10年生まれ、日本発送電、関電に勤務) 「骨材は、ダム下流の錦織地内の木曽川沿い耕地13.8haを掘削することでまかなうこととし、表土はよそに預け、終了後は農耕地に復元して返すことになっていました。輸送方法は、当時ダンプトラックがあまりないので、昔ながらの索道で輸送することになりました。戦前使っていた単線式索道の輸送能力では足りず、新たに複線式の索道を設け当初の約3倍の輸送力を確保しました。当時の施設として、骨材プラントの塔が5基残されています。途中にポツポツ穴があいています。これは我々の考えたことですが、塔の中は空洞で、穴が空いているところには「受け」がついていて、上からふるい分けのすんだ砂利を落とし、それがダッダッダッと落ちながら穴から外に落ちて骨材の山を作っていくための塔です。つまり、あの塔は骨材の貯蔵のための塔なのです。塔は、細骨材用に2つ(中砂、大砂・中砂・小砂の混合製品)、粗骨材用に3つ(小砂利、中砂利、大砂利)に振り分けられていたとおもいます。 コンクリートの配合の技術資料は進駐軍の図書館で借りました。今のようにゼロックスはありませんし、筆写するのも大変です。そこで電力中央研究所に依頼し、特殊カメラを使って1枚ずつ写真にとってそれを焼いて送ってもらいました。私の上司はその英語で書かれた資料を皆に配り、明日までに訳してくるように、言うのです。小さい字のため、ルーペで見ながら本当に悪戦苦闘しましたが、すごく勉強になりました。 日本発送電が招いたO.C.I.からゲートの指導を受けることになりました。ここが了承しないと、通産省も肝心要のG.H.Q.(連合国最高司令官総司令部)もオーケーしないわけです。そのため東京の水道橋にあるO.C.I.の事務所に設計図を持って夜行列車で上京、何度も足を運びました。 戦前実施したゲート実験の資料を見て、「この実験は駄目だ。洪水を絞って流すのでなく、真直ぐに流せ。ゲート数は五門。四門でもいい。そういうゲートを作れ」というのです。当時そんな規模のものは日本では作れませんでした。……試行錯誤を繰り返して、結局十×十五mのゲート5門に落ち着きました。 当時はものが何もない時代でしたが、O.C.I.の事務所に行くと本物のコーヒー、紅茶を出してくれるのです。それが美味しくて本当に嬉しかったことを思い出します。」
福嶋秋雄氏(大正9年生まれ、日本発送電時代から丸山ダム建設に従事) 「丸山ダムで一番印象に残っていることは、愛知用水の久野庄太郎さんという方が、知多半島のお百姓さん達を連れて何回も視察に見えたことかな。兼山に取水口を作って愛知用水へ引いていったがね、牧尾ダムを造って、その地域の人の理解をもらうように来られたから、私も何回も案内した覚えがある。久野さんというのはあの辺の名士だったね。愛知用水の建設運動で、吉田茂のとこに正月に鏡餅かなんか大勢で持っていってたよ。 他には、測量で苦労したね。あの頃の測量はこういう地形のところだから、随分難儀したことを覚えている。光波測距儀なんてないからね。」
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土谷廣雄氏(大正15年生まれ、間組社員、丸山ダム建設に従事) 「工事は間組だけでやったんだけどね。第一工区というのは堰堤とトンネル工事、発電所工事は第二工区になったんですよ。間組は第一工区の堰堤とトンネルを一番最初に発注してもらってやったんです。発注元の関西電力は、第二工区の発電所とサイタンク(調整棟)の方は、外に発注する予定だったんですよ。ところが、八百津町の当時の町長や県会議員が、二社入ると、労務者同士が喧嘩をしたりして、いろいろと物騒だからということで。それで結局全部間組がやったんですよね。本当は電力会社としては、そんだけの仕事を一遍にとてもできないだろうから二社でやるよということだったんですけど、治安が悪いっちゅうことでね。もっともその時分の労務者の単価(一日の賃金)はね、ニコヨンといって二百円か三百円ぐらいだったですからね。 労務者は戦地から引き上げて来た人たちがたくさんいました。東北の方の人たちが多かったですね。間組の下請けに「組」という組織があって、組の親方たちも東北の方が多かったですね。」
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『丸山ダム五十年の記憶−聞き書き木曽川と八百津町の今昔−』 |
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◇ 7. 丸山ダムの補償
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丸山ダムの補償についてみてみたい。昭和17年より昭和20年までの日本発送電による土地取得単価と昭和27年以降の関電による土地取得単価は大きな差が生じた。例えば、前回の坪当たり田の価格は4円、今回は112.5倍の450円であった。今回の取得面積約170ha、移転家屋37戸である。また、標高182mまでは、いわゆる発電用調整池用地として取得し、標高182mから190mまでを洪水調節用地として、約33haを取得している。水没戸数が一番多かった岐阜県加茂郡潮南村下立(おりたち)集落25戸の補償交渉について、水没者の一人である千賀東重著『湖底に沈む村』(大衆書房・昭和49年)に、詳細にまとめられている。
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下立集落の五人の補償交渉委員は関電と幾度となく折衝をもち、最初の関電補償提示額を2倍まで上げることができた。三浦又一委員長は「みんなえらい目をしたが、まあ大体のとこ、こちらの腹に流れる線まで押し上げてきた、もうこれでそう大した変わりも望めまい、まあ、やるだけやったで、此の辺で手を打たまいか。」と言って、妥結の心境を語っている。
また、この書で、時期の差によって損をした人、得をした人のケースをあげている。それは、前述のように、太平洋戦争末期から中断した丸山ダム工事は、土地の買収も中断していた。そこに昭和21年「自作農創設特別措置法」の施行で、所有者のM氏は不在地主として、耕地を強制的に買い上げられ、その土地を小作人のK氏が只同然で国から譲渡を受け、その土地が水没地にかかり、補償金が転がり込み、さらに移転促進費の名目による立ち退き慰謝料も手にすることが出来たという。このような不運と幸運をみてくると、その時代の皮肉さを強烈に感じてならない。
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『湖底に沈む村』 |
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なお、関電はその他の補償として、立木権一時補償、流筏業者補償、漁業権補償、遊船事業補償、骨材採取場耕地補償などを行っている。
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◇ 8. 新丸山ダムの建設
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丸山ダムは昭和29年に完成し、木曽川における水害の減災をはかり、電力の供給に寄与してきたが、水害はダム完成後も度々おこり、木曽川流域の人々に人的、物的の被害を及ぼしてきた。丸山ダム完成後から、水害の減災などを目的とした新丸山ダム建設に向けてのあゆみとその事業効果について、新丸山ダムの「パンフレット」及び「ホームページ」などにより追ってみる。
(1) 丸山ダム完成後の経過 昭和29年4月 関西電力による発電業務開始 7月 建設省による洪水調節業務開始 31年3月 丸山ダム全工事完成 36年6月 梅雨前線豪雨により最大流入量5,000m3/sが発生し、 このうち200m3/sを調節 39年9月 台風20号により最大流入量6,100m3/sが発生し、 このうち1,300m3/sを調節 44年8月 台風7号による出水で大量の流木が漂着 45年6月 ダム監視用カメラ設置 46年5月 新丸山発電所発電開始 47年7月 梅雨前線豪雨により最大流入量5,800m3/sが発生し、 このうち1,000m3/sを調節 58年9月 台風10号により計画高水流量をはるかに上回る8,200m3/sが 発生し、美濃加茂市、坂祝町、可児市など浸水被害、死者・行方不明4名、 被害家屋4,588戸に及ぶ 61年4月 建設省、新丸山ダム嵩上げ建設事業着手 平成5年7月 梅雨前線豪雨により5,700m3の流木が漂着 6年4月 ダム放流制御装置本格運用 11年6月 梅雨前線豪雨により最大流入量5,100m3/sが発生し、このうち400m3/sを調節 また、木曽川においては、毎年と云っていいほど、渇水が生じており、中部地域圏に経済活動や河川環境に影響を及ぼしている。これらの水害と渇水に対処するために、昭和61年4月新丸山ダムの建設が始まった。
(2) 新丸山ダム建設の効果 新丸山ダムは、既設丸山ダムの下流の位置に24.3m嵩上げして建設し、洪水調節容量7,200万m3と不特定容量1,500万m3を確保する。これによって、洪水調節容量は2,017万m3から約3.5倍の7,200万m3に、総貯水容量は7,952万m3から1億4,635万m3に、有効貯水容量は3,839万m3から1億522万m3に、それぞれ大幅に増量となり、しかも次のような効果を発揮することとなる。
@ 治水上の効果 新丸山ダムは、洪水調節容量7,200万m3により、河道の整備とあいまって、河川整備計画の目標である昭和58年9月洪水を安全に流下させる。試算によるが、その洪水調節効果は美濃加茂市、可児市の今渡ダム下流地点で約3m、一宮市、笠松町の木曽川橋下流地点で約1.5m水位低下となる。
A 流水の正常な維持 新丸山ダムは、不特定容量1,500万m3により、河川整備計画の目標である1/10規模の渇水時において、既設味噌川ダムと阿木川ダムの不特定補給と合わせて、既得取水の安定を図り、木曽成戸地点(岐阜県海津市)において、河川環境の保全のための一部である40m3/sを確保する。
B 発電の増量 新丸山ダムは、新たに確保する不特定容量1,500万m3による最大6.5mの落差増を活用し、関西電力の既設発電所において、最大出力22,500kWの増電を行い、最大出力210,500kWの発電を行う。 さて、このように丸山ダムの再開発によって、洪水調節容量及び不特定容量の増量に伴い、新たにダム効果が生み出される。振り返ってみると、丸山ダムは戦前に計画され、一部施工されたものの戦争で工事が中断し、ようやく昭和29年に完成したが、半世紀を経て、ダムの嵩上げ工事による木曽川流域の人達に治水、利水、環境の効果を果すこととなる。新丸山ダムの歴史がここからスタートする。
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[関連ダム]
丸山ダム(元)
新丸山ダム(再)
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(2010年10月作成)
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[テ] ダムの書誌あれこれ(29)〜千曲川のダム〔上〕(奈川渡・水殿・稲核・高瀬・七倉・大町)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(30)〜千曲川のダム〔下〕(奈良井・水上・小仁熊・北山・古谷・余地・金原・内村・豊丘)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(31)〜山梨県のダム(広瀬・荒川・大門・塩川・深城)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(32)〜三重県のダム(宮川・蓮・君ケ野・滝川・青蓮寺・比奈知・安濃・中里)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(33)〜庄川・常願寺川・小矢部川のダム(庄川合口・小牧・御母衣・有峰・刀利)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(34)〜愛媛県のダム(大谷池・黒瀬・台・石手川・鹿野川・野村)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(35)〜宮崎県のダム〔上〕(轟・上椎葉・一ツ瀬・杉安)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(36)〜宮崎県のダム〔下〕(川原・沖田・田代八重・瓜田・広渡・日南)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(37)〜高知県のダム〔上〕(永瀬、大森川、穴内川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(38)〜高知県のダム〔下〕(鎌井谷、大渡、桐見、中筋川、坂本)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(39)〜青森県のダム〔上〕(目屋、久吉、早瀬野、二庄内)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(40)〜青森県のダム〔中〕(浅瀬石川、浪岡、小泊、下湯)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(41)〜青森県のダム〔下〕(浅虫、川内、天間、世増)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(42)〜山形県のダム〔上〕(白川、長井、前川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(43)〜山形県のダム〔中〕(蔵王、寒河江、白水川、新鶴子、神室、田沢川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(44)〜山形県のダム〔下〕(月光川、荒沢、月山、温海川、横川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(45)〜千葉県のダム〔上〕(山倉、高滝、亀山)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(46)〜千葉県のダム〔中〕(片倉、郡、矢那川、保台、山内)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(47)〜千葉県のダム〔下〕(印旛沼開発、利根川河口堰、東金、長柄)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(48)〜ダムの事典、ダムの紀行〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(49)〜ダムの切手、ダムの話、緑のダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(50)〜ダムの景観〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(51)〜ダム湖の生態〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(52)〜ダムの堆砂〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(53)〜茨城県のダム(飯田・花貫・小山・緒川)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(54)〜矢作川のダム(矢作・雨山・木瀬)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(55)〜埼玉県荒川のダム (上)(二瀬・有間)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(56)〜埼玉県荒川のダム (下)(浦山・合角・滝沢)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(57)〜長崎県のダム (上)(本河内高部/低部・土師野尾・萱瀬再開発)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(58)〜長崎県のダム (下)(相当・川谷・下の原再開発)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(59)〜熊本県のダム (上)(竜門ダム)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(60)〜熊本県のダム (下)(石打・上津浦・緑川・市房)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(61)〜鬼怒川のダム (上)(五十里・川俣)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(62)〜鬼怒川のダム (下)(川治・鬼怒川上流ダム群連携・三河沢)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(63)〜揖斐川のダム (上)(川浦・川浦鞍部・上大須)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(64)〜揖斐川のダム (下)(横山・徳山)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(65)〜長野県・味噌川ダム 〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(66)〜飛騨川のダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(67)〜木曽川水系阿木川ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(68)〜桃山発電所、読書第1発電所、賤母発電所、落合ダム、大井ダム、読書ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(70)〜牧尾ダムと愛知用水 (上)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(71)〜牧尾ダムと愛知用水 (中)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(72)〜牧尾ダムと愛知用水 (下)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(73)〜呑吐ダム・加古川大堰〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(74)〜一庫ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(75)〜利根川水系神流川・下久保ダム、塩沢ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(76)〜阿武隈川水系白石川・七ヶ宿ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(77)〜利根川水系渡良瀬川・草木ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(78)〜利根川最上流・矢木沢ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(79)〜利根川水系楢俣川・奈良俣ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(80)〜神流川発電所(南相木ダム・上野ダム)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(81)〜雄物川水系玉川ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(82)〜北上川水系江合川鳴子ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(83)〜北上川水系雫石川・御所ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(84)〜北上川四十四田ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(85)〜米代川水系森吉山ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(86)〜阿賀野川水系大川ダム・大内ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(87)〜東京都のダム(村山上貯水池・村山下貯水池・山口貯水池)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(88)〜東京都のダム(小河内ダム)〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(89)〜筑後川水系・藤波ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(90)〜江の川土師ダム、太田川高瀬堰〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(91)〜遠賀川福智山ダム・遠賀川河口堰〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(92)〜江の川水系馬洗川支川上下川 灰塚ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(93)〜九頭竜川 九頭竜ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(94)〜九頭竜川水系真名川 笹生川ダム・雲川ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(95)〜九頭竜川水系真名川・真名川ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(96)〜ダムマニアの撮った写真集〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(97)〜吉井川水系苫田ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(98)〜旭川水系旭川ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(99)〜利根川水系薗原ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(100)〜淀川水系琵琶湖支川野洲川ダム・青土ダム・姉川ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(101)〜川内川・鶴田ダムとその再開発事業〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(102)〜筑後川・筑後大堰〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(103)〜阿武隈川水系大滝根川・三春ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(104)〜豊川水系宇連川宇連ダム・大島川大島ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(105)〜安里川水系安里川 金城ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(106)〜荒川水系中津川 滝沢ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(107)〜鹿児島県の川辺ダム、大和ダム、西之谷ダム〜
[テ] ダムの書誌あれこれ(108)〜肝属川水系串良川支川高隈川 高隈ダム〜
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(古賀 邦雄)
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