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ダムインタビュー(45)
古川勝三さんに聞く
「今こそ、公に尽くす人間が尊敬される国づくり=教育が求められている」
古川勝三さんは、『台湾を愛した日本人〜土木技師 八田與一の生涯〜』の著者として、平成2年度土木学会著作賞を受賞されています。この本によって、それまで日本国内ではほとんど知る人のいなかった八田技師の功績が、広く世に伝わることになりました。この辺の経緯についてはかつてインタビューにご登場いただいた(一財)全国建設研修センターの緒方さんのお話にも詳細な紹介があります。2009年には、烏山頭ダムが土木学会初の海外土木遺産にも認定されました。
今回は、古川さんから、今もなお「嘉南大しゅうの父」と慕われている八田技師の功績を掘り起こしていった経緯や、当時、八田氏以外で活躍した技術者たちのことなどを伺ってみたいと思います。また長年、教職の道に就いておられた経験から我が国における土木教育について、将来どういう方向に持っていけば良いのかという点についてもアドバイスをいただきたいと思います。
(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)
(注1)「嘉南大しゅう」のしゅうの字は、漢字で土偏に川ですが、日本で通常使う漢字にはないため、ひらがな表記にしました。
(注2)掲載写真は、インタビュー時の写真以外は、古川さんからご提供いただいたものです。
日本人学校の教師として台湾へ
中野:
古川さんは、台湾の日本人学校の教員として赴任されたことがきっかけで八田技師のことに関わるようになったとのことですが、なぜ台湾に行こうと思われたのですか?
古川:
ケニアのナイロビへの赴任を希望していたにも関わらず、命じられた任地がたまたま台湾だったということだけですが…。(笑)
大学を出てからずっと教員をしておりましたが、海外へ行きたいと思うようになったのは子供が出来て、子育ての目標としてグローバルな人間に成長して欲しいという思いがあったからです。
中野:
日本国内ではなく、海外で子育てしたいというお考えだったのですか?
古川:
単に海外で子育てしたいという意味ではなく、ヨットを通じた人間形成を体験させたいという思いもあったのです。
中野:
ヨットと子育てがどうつながるのでしょうか?
古川:
私は愛媛県の出身で、実家は材木屋をしておりました。男三人兄弟の長男として生まれましたが、どちらかというとおとなしい方で何でも積極的に取り組むというタイプではなかったのですが、大学のヨット部に入って人生観がガラリと変わったのです。
ヨットで海に出るということは…
中野:
どんなふうに変わったのですか?
古川:
ヨットというのは、ひとたび海に出て行けば、誰にも頼らず自分の知恵と体力だけで生きて帰ってこなければなりません。そこには肩書きや性別、年齢、お金など一切関係ありません。そこでまず人間を見る目が変わりました。ついている肩書きであの人は偉いとか、そういうふうに人を判断しなくなったのです。
1967年に大学を出て中学の教員になりましたが、教員組織や教育行政に対して、何か窮屈に感じていたことや、それまで自分が習って来たことに対しても、どこか日本の教育はおかしいなと思っていたのです。私は昭和19年生まれで、戦後の日教組による自虐史観に基づいた教育、つまり第二次大戦で日本軍はアジアの国々を侵略し大変に悪いことをしたという、罪の意識を強調するような、日本の恥部を強調するような教育を受けてきたことと関係があるのかも知れません。それで自分の子供には一つの方向から見るような偏狭なものの考え方をしない生き方をして欲しいと思い、子連れでのヨットでの世界一周旅行というのを思いついたのです。
中野:
その世界一周は実現されたのですか?
古川:
結果的には実現するまでに至りませんでした。30歳の時に中古でしたがフランス製のヨットを買い、3〜4年かけて家族全員で世界一周をしようと思い、家を売って旅行資金にしようと考えて父親に頼みにいったところ、夫婦だけで行くなら仕方ないが孫まで連れていくのは絶対に許さないと喧嘩になってしまったのです。
いつも穏やかな父親が血相を変えて怒ったので、そこを押し切り喧嘩をしてまで行くのはよくないと思って引き下がりました。それでも海外に出て行く何かいい方法はないかと考えていた時、日本人学校の教師になれば、実現できるということを知りました。それで文部省の試験を受けたところ運よく合格することが出来たのです。外務省での面接の時に「行きたい都市はどこか」と聞かれたので、日本軍が足を踏み入れていないアフリカのナイロビを希望しました。東南アジアなど日本軍がいたところは、きっと根深いところで反日感情があって暮らしにくいだろうと勝手に想像していたからです。
中野:
でも実際はアフリカではなく、1980年に台湾に赴任することになったという訳ですね。
古川:
そうです。日本が50年間も統治していた台湾です。私たちが子連れで行けば、日本人の子供はいじめられないか?とか生活用品などは売ってくれるのか…とまで心配しました。
赴任した台湾で感じた日本への感情
中野:
実際はどうでしたか。台湾で最初に感じたことは、どんなことですか?
古川:
まず、自分が受けた教育がいかに間違っていたかということを痛切に感じました。台湾は日本の植民地だった、悪いことをした、だから現地の人は日本人に決して良い顔はしないだろうと…ということはなく、まったく逆でした。
現地に行って借家が見つかるまでホテル暮らしをしていましたが、台湾人はとても親しげで、嫌な顔ひとつされませんでした。行く前は、当然、日本語の本は買えないだろうと思っていたので、子供の本をダンボールに詰めて10箱も送っていました。しかし台北や高雄では、日本で買うよりは少し割高になりますが、ごく普通に日本語の本を買うことができますし、一日遅れでしたが日本の新聞も取れましたし、たいていのものが不自由なく揃いました。
日本が敗戦した翌年に建てられたお墓
中野:
日本が嫌いだという人はいましたか?
古川:
いえ、むしろ親日的です。そういう思いを決定的にしたのは、八田與一の銅像を初めて見たときです。
家を借りて家具を買おうと思って行った高雄のお店のご主人が、周志和さんと言う台湾人で、家具工場が台南にありました。その周さんの工場を見に行ったとき、台南の古跡めぐりが終わった後に、連れていってくれたのが、烏山頭ダムだったのです。日本にいた時、黒四ダムや愛媛県にあるダムは何度か見に行ったことがあるので、ダムと言えばてっきり狭い渓谷に高い
コンクリート
の塀のようなものがあると思って行ったのですが、ダムらしきコンクリートは一切見えませんでした。そこには、いっぱい草が生えている土手があるだけで、とてもダムには見えません。まるで天然の湖だと思いました。
すると、周さんが「これは日本人が造った」と言うのです。丁度、鈴木明さんが書かれた本「誰も書かなかった台湾」を読んでいたのですが、その中に日本人が造ったダムのことが少し書いてありました。また、日本人学校の卒業式の時に、交流協会の出田政夫高雄事務所長が、「日本人技師の銅像が、烏山頭ダムの丘に再び設置されました」と話されたことを思い出したのです。それが八田與一の造った烏山頭ダムだったのです。
烏山頭ダムにある八田與一の銅像と八田夫婦の墓石(1982年撮影)
中野:
その時、八田與一の銅像をご覧になったのですか?
古川:
堰堤
を歩いてくる台湾人に、銅像の場所を聞いて見にいきました。銅像も素晴らしかったのですが、その後ろにあるお墓を見てさらに驚きました。表は八田與一・外代樹之墓と彫られ、側面には中華民国35年12月15日、嘉南大しゅう農田水利協会建立と刻まれていました。これは日本の暦に直すと昭和21年の事で、日本が敗戦した翌年に当たります。日本人がどんどん引き上げをしていた頃です。その時期にこのお墓は造られているのです。
日本人技師、八田與一を知りたいという思い
中野:
日本のものはことごとく壊されていったはずだと…。
古川:
当時、日本の敗戦で蒋介石の軍隊が、台湾接収のために台湾に進駐してきて、日本人墓地などを壊し、日本人の銅像を撤去していたという時代です。そんな時期に八田與一夫妻の墓は建てられているのです。
中野:
ちょっと驚きますね。
古川:
どう考えても台湾の人が故人を偲んで、厚意をもって造ってくれた銅像とお墓です。もちろん当時、私は烏山頭ダムがどうやって造られたのかを知りませんでした。日本人は戦争で悪いことをしたという教育を受けてきたので、台湾統治時代にそういう功績があったとは思ってもいませんでした。
また、帰宅した後に日本人学校の関係者や日本人会の人達に聞いても、誰も八田與一のことを知らなかったのです。年間100万人もの観光客が日本から訪れるのに、八田のことも、ダムのことも知らないで帰ってしまいます。しかし、台湾の人々からは親しまれ、大きな尊敬をもって受け入れられている日本人技師がいたという事実に大変興味を掻き立てられました。
中野:
それで八田技師の事業について本格的に調べられたのですね。
台南市にある嘉南農田水利組合(1982年撮影)
古川:
まず、台南駅のそばにある嘉南農田水利組合を訪ねて行きました。その時に、呉徳山さんと、黄さんという八田技師を尊敬している職員とお会いしました。彼らは「こんなに素晴らしい八田與一という日本人技師がいたということを、ぜひ日本の人たちに教えてほしい、そのためには協力しますよ」と言ってくれました。しかし、嘉南農田水利組合の人達も、あまり八田與一の事をよくは知らなかったようです。でも会長の部屋には、伊東哲の描いた八田の肖像画と烏山頭ダム工事現場の油絵が飾ってありました。それに、設計図や工事中の写真などは残っていました。何よりも、八田技師が造った嘉南大しゅうが実際に使われているのですからね。
八田與一の墓前祭に日本人として初めて出席
中野:
農業用水で恩恵を受けている嘉南農田水利組合の人達も八田技師の名前は知っていても、本当のところを知らなかったのですか。
古川:
嘉南大しゅうの事は、実際に運営しているから解っているでしょうが、八田技師その人や当時の工事内容については知らない人が、ほとんどでした。当然、戦後生まれの台湾人は中国語に翻訳した「台湾を愛した日本人」を読んで、八田技師の事を詳しく知ったということです。
当時、私は取材のために毎日曜日に高雄から汽車で台南に通いました。水利会の黄さんと呉さんが、毎回台南の駅まで車で迎えに来てくれて烏山頭の現場に連れていってくれましたが、私はダムのことは詳しく解らなかったので、まず八田さん自身のことを調べようと思いました。
墓前祭で銅像を囲む嘉南の人々(1982年撮影)
そうした取材を通して知り合った二人から、毎年5月8日の八田さんの命日には現地で墓前祭をするから、よかったら出席して下さいと招待され、出席しました。それは嘉南大しゅうの関係者や農民が参加するだけの素朴な墓前祭でした。その時、「戦後、墓前祭に参加した日本人は、古川さんが最初です」と言われたのを記憶しています。
その時私は、八田技師が乗っていて沈められた大洋丸の事を書いた新聞記事の切り抜きを持っていましたので皆さんに見せました。そこには、大洋丸の遺族による慰霊祭が四十年後、長崎で行われたという事が載っていました。墓前祭が終わった後に集まってきた嘉南の人達は、「あの八田さんが乗っていた大洋丸のことだ」と話題になりました。記事には遺族会である大洋丸会事務局の連絡先が書いてあったので、私も連絡をとってみることにしました。その後に大洋丸会の佐藤事務局長から名簿を送ってもらうことができ、八田さんのご遺族の住所が分かり、手紙を書いたのです。
中野:
ようやく八田さんのご遺族の方に連絡がとれたのですね。
古川:
長男の晃夫さんが名古屋におられることが分かり、私が手紙を出すと長い返事がきました。それから八田さん自身のことがだんだんと分かってくるようになりました。
会報誌に書かれた「台湾を愛した日本人」
中野:
八田技師のことを日本人会の会報誌に連載することになったのもそれがきっかけだったのですか。
古川:
そうですね。高雄の在留邦人にも八田さんのことを知って欲しかったので、高雄日本人会の会報誌に1982年6月から9回にわたって毎月原稿用紙10枚くらいを投稿して「台湾を愛した日本人」を書きました。当時、台中、台北にも日本人学校があってそれぞれが交流していました。台北には約800名、 台中にはおよそ100名、高雄には250名くらいの日本人の生徒がいました。初めは、高雄の日本人会の会報誌に載せていたところ、なかなか反響が大きくてやがて台北、台中にも送ってくれと依頼がきたと言うことを後で知らされました。
中野:
台湾で活躍した日本人は、在留の人にとっても栄誉なことですからね。反響も大きかったのでしょうね。
古川:
1983年のことですが、私があと3ヶ月で帰国という時に、交流協会高雄事務所の出田政夫所長が「このまま帰国しては八田さんの事が忘れられてしまうから、会報誌に載せた原稿をまとめて一冊の本にしてはどうか」という提案をしてくれたのです。当時、私は中学三年生の進路指導中だったので、バラバラの原稿を本にまとめるという作業は大変でした。手書きで原稿用紙3000枚近く書き、万年筆を2本半潰してしまいました。それは今でも記念にとってありますが…。(笑)
当時、日本製のオフセット印刷機械を持っている印刷屋は、あったのですが、日本語が分かるタイプライターは、高雄には居ませんでした。そこで私の手書き原稿を見ながら和文タイプで打ってもらいましが、日本語の「る」と「ろ」、「は」と「ほ」のように、似たようなひらがな文字は形だけを見て打っているので、良く間違えていました。それを校正するのは全部私です。生徒の進路指導と並行しての作業ですから、気づくと朝になっていたと言うことも良くありました。そうして出来たのが最初の本です。500部を印刷したのですが、瞬く間に売れて私が日本に持ち帰れたのは数冊でした。
1年がかりで調べて、台湾の歴史の本も書
中野:
八田さんの本とは別に、なぜ台湾そのものの歴史を書かれたのですか。
古川:
自分が教えている生徒が、台湾で暮らしながら台湾の歴史を何も知らなかったからです。そこで、週1回、現地理解教育の時間に台湾の歴史を調べて、授業で教えていったのです。1年後には、かなりの原稿が出来ましたので、それを基に「台湾の歩んだ道」を書き、出版しました。この本は高雄の邱永漢国際書局で売られましたが、日本語の分かる台湾人によく売れました。台湾の人達も学校では中国の歴史は学ぶのですが、台湾のことは一地方史だから教えてもらえない。だから、台湾人も台湾の歴史を知らないのです。
出版したのは1982年でした。この本は台中や台北の日本人学校でも現地理解教育の教科書にしたいとの申し入れがあり、買って頂きました。高雄日本人学校へは、40冊ほどを図書室に寄付して1983年3月に日本へ帰国しました。その後、何度か高雄日本人学校へ行く機会があったのですが、見てみるとその寄贈した本は一冊も残っていませんでした。赴任した先生や生徒が借りて、そのまま返さなかった結果だと知り、がっくりしました。
東京大学名誉教授 高橋裕先生との出会い
中野:
最初は会報誌に連載し、まとめた原稿を台湾で出版し、日本に帰国後改めて出版されたのですか。
古川:
以前に墓前祭に持っていった大洋丸の記事を書いた新聞記者に、もうすぐ帰国すると手紙を送っていたので、帰った時に「台湾を愛した日本人」を見せたら、その記者が朝日新聞東京版の夕刊にこういう本があるといって紹介してくれたのです。すると、いろんな方から反響がありましたが、驚いたのは、ある日突然に、東京大学工学部教授の高橋裕先生が松山の自宅に訪ねて来られたのです。
中野:
高橋先生がアポイントもなく急に来られたというのは、何か特別の理由があったのでしょうか?
古川:
日本の土木界の先人である廣井先生の教え子には、青山士、宮本武之輔、久保田豊という立派な土木技術者がいて皆それぞれ世の中に知られているが、実は八田與一のことは誰も取り上げて書いていなかった。高橋先生はそれを指摘しておられ、なんとか世に伝えて欲しいと言って来られたのです。
東京帝国大学時代の廣井勇先生
中野:
確かにそうですね。廣井先生は「小樽港築港」、青山士は「パナマ運河」などが有名ですが、八田與一のことはあまり知られていなかったのですね。
古川:
高橋先生は、八田與一の仕事ぶりをぜひ書いて欲しいということでした。「台湾を愛した日本人」は、台湾だけの取材しかしていないので、日本国内の関係者の追加取材をして改めて本にまとめて出してはどうだろうかと直接依頼に来られたのです。
高橋先生がそこまで言われるので、私も台湾に3年いて日本に戻ったばかりでしたから、八田與一のことを日本でも取材をして書きますが、期限は設けないということをお願いしてお約束したのです。確かに台湾で印刷した本は、紙質も印刷も悪くて写真もはっきりしていませんでしたし、何よりも八田技師の関係者にはぜひ会ってみたかったので、改めて再取材することにしたのです。
中野:
八田與一は、日本では土木工事をやっていなかったのですね。
古川:
彼は、東大卒業後すぐに台湾総督府の技手として就職しましたので、日本国内では仕事をしていませんでした。
「台湾を愛した日本人」を日本で出版
中野:
それで、日本でも出版されたのですね。
古川:
石川県金沢市の実家の八田家を訪問し、名古屋にお住まいの長男、晃夫氏や八田さんの造った嘉南大しゅうの農業指導をされた宇佐市に住む中島力夫氏、それに八田技師の後輩で、大洋丸に同行し九死に一生を得た宮地末彦氏などを取材して原稿を書きました。
しかし、実はどこの出版社も「本にしても売れない」と出版を引き受けてくれませんでした。せっかく原稿を書いたのだから、自費出版でもいいかなと考えていた時に、恩師から知っている出版社に聞いてやると言われ、小さな出版社を紹介されました。そこでは印税は出せませんが、とにかく本にはしましょうということになり、1989年に初版が出ました。1500部印刷したのですが、それが2週間で完売してしまいました。第2刷は1000部印刷して、1ヶ月もかからずに完売してしまい、その時の月刊ベストセラーに選ばれました。なぜかというと、実は八田さんの息子さんが300冊もまとめて購入して頂いたり、金沢市が大量に購入して学校に配って頂いたり、反響が結構有りました。
その後、金沢にも2回ほど講演に行ったりしました。そんなことで、この本の存在がだんだんと広まっていったのです。
ダムを学ぶ
中野:
この本は、ダムのことも詳しく書かれていますね。ダムの工法についてもかなり詳しく書いてありますが、相当勉強されたのですか。
古川:
ダムの技術についてはまったく詳しくなかったので、ずいぶんと図書館で調べました。私も突き詰めるタイプなので。
おかげでセミ・ハイドロリック・フィル工法もきちんと説明できるようになりました。その後、国土交通省の技術系のお役人を対象にセミ・ハイドロリック・フィル工法の講演をお願いしますという依頼がくるくらいになりましたから…。(笑)
中野:
古川さんご自身はお好きなダムがありますか。
古川:
本を書いてからは、どこへ行ってもダムを見るようになりました。四国で好きなのは、豊稔池ダムです。設計されたのは東京大学の佐野藤次郎先生ですが、技術指導には八田與一の部下も係わっているのです。銘板にその名前が残っています。あとは柳瀬ダム(土佐)も好きですね。どちらかというと
コンクリートダム
はあまり好きではないのですが…。
中野:
烏山頭ダムはどうですか。初の海外土木遺産に指定されましたが。
古川:
あれは特別なダムですね。今、現地では世界遺産に登録しようという運動が起こっていますが、中国共産党が台湾のユネスコ加盟に反対しているので、正式に登録ができないのです。それでぜひ日本から申請してくれと言っているのです。あそこに初めて行って実はあの
堰堤
を人間が造ったダムだと気づく人はほとんどいません。それほど自然環境に溶け込んだエコなダムです。
コンクリート
は、全体のわずか0.5%しか使っていませんからね。
中野:
私は写真でしか見たことがないのですが、あまりに広くて湖にしか見えませんでした。
古川:
烏山頭ダムのダム湖は、堰堤に根を張った珊瑚の木が樹枝状に広がる姿をしているので、「珊瑚潭」と台湾総督府の下村宏民政長官が名付けました。私もモーターボートで湖面を周ってみましたが、岸から離れるとどこにいるのかわからないくらい広かったです。あんな複雑な形をしたダム湖はないのではないかと思うくらいです。
「珊瑚潭」と呼ばれる烏山頭ダムのダム湖
人間、八田與一に迫る
中野:
八田さんや土木の歴史と関わることになって、ご自身はどう変化していきましたか?
古川:
日本で初版を出した時、巻末に連絡先を書きましたら、いろんな人から八田與一に関する資料を送りたいという連絡を頂くことができました。やがて送られてきた資料は段ボール1箱にもなり、新しい事実が次々と解っていくので、版を重ねるごとに内容が少しずつ変わっていきました。
一番つらかったのは、昔の資料、ダムの設計図、文書はすべて尺貫法で書かれているので、○○立方メートルと換算するのに計算器もなかったので大変だったことです。実は最初の頃、水路の長さについて計算間違いをして書いていました。日本に帰ってきてから計算をやり直してみて違っていることに気がついてあわてて書き直しました。(笑)
また、八田さんの人生をひとつずつ辿っていく時、自分の人生と対比しながら考えるようになりました。彼は何を考えながらダム工事を進めていたのか?言葉の通じない労働者たちをどう上手くまとめていったのか?などと。マラリヤや赤痢が蔓延しているジャングルを開墾して、住居をつくるにはどのような苦労があったのか?68戸の住居にも甲乙丙丁といったような種類があり、それぞれ独身者用、家族用と用途が分かれていたようです。また、住居地区には運動用にテニスコートやプール、それに弓道場もあったようです。
烏山頭に造られた烏山頭出張所と従業員宿舎の風景(1922年頃の写真)
中野:
いろんな工夫をされていたのですね。この本を読んでいた時、関東大震災が起きて、日本からの予算が途絶えた時に、他にも仕事があるだろうからと優秀な人から辞めてもらったということが書いてあって、八田さんはすごい人だなという印象をもちました。そういった人間的な力と人々の信頼があったからこそ、あの大事業ができたのでしょうね。
古川:
そうですね。私も管理職になった時に八田さんのことを考えました。
思えば、八田さんはとても劇的な人生を送っているのです。台湾で大事業を成功させている。銅像の秘話がある。フィリピンへの出張途中、米潜水艦の雷撃を受けて東シナ海の五島列島沖で亡くなった。奥さんの外代樹さんは、八田技師の造った放水路に身を投げて自死しているなど、本当にドラマチックすぎるのです。
インフラを教えるということ
中野:
こういった方がいるとダムが役立っていることが凄くわかるのですが。日本ではダムの役割など、世間での理解が深まりにくいのですが、何かご提案はありますか?
古川:
ダムだけではなく橋などもそうですが、日本ではインフラの役割やどうやって構築されたかといったことを教育していません。本の終章にも書きましたが、中国の詩経に「飲水思源」という言葉が出てきます。水を飲むときは井戸を掘った人のことを思い感謝して飲めという意味ですが、日本の教育では、このインフラに対する感謝の念を持つということがすっぽりと抜け落ちています。これは私の37年間の教員生活のなかでいちばん疑問に思ったことです。
私たちが蛇口をひねって簡単に飲料水が出るためには、山奥にダムを造りそこから長い水路を引き、浄水して配水する必要があります。それが出来るまでには、莫大な時間とお金がかかり、技術者の知恵などが含まれているわけですが、そういった生活基盤を支えるインフラ整備についての教育を日本では充分にしていないのです。だから公共事業が悪いことだと、無駄遣いだと簡単に責めるような意識しか生まれないのです。
中野:
そういえばダムに溜まっている水を飲んだらきたないと言っている人がいるとか聞きました…水道ですから溜まり水をいきなり飲むわけではないのですが、それほどダムの役割もわかってもらえていないような状況もあります。
古川:
他のインタビューで話したことがありますが、ダムや橋を造った時になぜ造った人の名前を銘板に残さないのかと役所の人に聞いたことがあります。答えは、担当がよく変わるのでといわれました。名前を書いていただければ、その技術者、設計者のお子さん達が見たときに、「お父さんはすごいね」って絶対に思いますよ。ぜひ残すべきだと提言しました。
日本は、土木偉人といわれる人達をきちんと顕彰し、感謝すべきだと思います。ダムを作ることで、洪水が調節されたり、水が飲めるようになったりするわけです。そういったことを子供達に教育しないといけない、今、日本の教科書には偉人の話が載っていないので、学校で子供たちに尊敬する人はと聞くとお父さん、お母さんという子供が多数います。何の分野でも偉人について教育していないからです。
土木偉人を教育の場に
中野:
たしかに教科書には載っていませんね。世の中ですばらしい働きをした偉人についての教育の必要性について、とくに土木偉人についてどうお考えですか。
古川:
今の子供には、将来、自分はこんな人物になりたいという具体的な目標となる人がいないのです。教科書には、ぜひ社会を支えるインフラを造った土木偉人を載せないといけないですね。今までの教育内容を見直さないといけないと思います。教科書を薄くしてしまったゆとり教育というのもよくないと思います。
台湾の学校では1日8時間授業があります。これでは学力についても、産業や技術力といった面でも、将来、日本は負けてしまうのではないかと思います。今は、きちんと教育ができていないので、大学に入ってから1年間また高校の授業をしないといけないということになっています。韓国の大学では、学生を120名とりますが卒業は100名しかできないと聴いたことが有ります。つまりちゃんと勉強していないと卒業ができないのです。日本は入学するまでは相当に勉強しますが、入学したらみんなそこでおしまいで、誰でも卒業できてしまうのです。これでは良いことがありません。
八田與一の次は、宮本武之輔
中野:
入学したら勉強をしなくなるという大学教育も心配ですが、日本の学校教育でいちばんの問題は何でしょうか?人間が社会でどう生きていくかは、社会を支える人について知ることも大切だと思うのですが、いかがでしょうか?
古川:
八田與一もそうでしたが、私が顕彰する会を立ち上げた宮本武之輔も、出生地の松山市興居島の出身であるにもかかわらず、松山の人は誰も知りませんでした。昭和29年に、日本技術者協会によって宮本武之輔の顕彰碑が建てられ、東京の多摩にお墓があるのですが、地元にはお墓がないので、お墓まで興居島に建ててくれ、分骨しています。その様な土木偉人でありながら、地元の学校では宮本武之輔のことをまったく教えていませんでした。
私は八田さんのこと知った時と同じようにがっかりしてしまいました。それで、高橋先生の助言もあって“宮本武之輔を偲び顕彰する会”を8人の仲間で立ち上げました。会は出来て5年たちますが、2ヶ月に1回、武之輔の日記(15歳から死ぬ13日前まで書かれていた)を愛媛大学の学生さんたちにデータ化してもらって勉強会をしていましたが、創立5周年を記念して、銅像を造ろうということになり、寄付を集めることになりました。台湾の高雄日本人学校に勤務したことが有る先輩で、彫刻家の近藤哲夫氏に聞いてみたところ、銅像は全部で350万円はかかるだろうということでした。それが目標金額です。
中野:
宮本武之輔の銅像の寄付金は集まったのですか。
古川:
いろんなゼネコンにお願いしてまわりましたが、どこも出してはくれませんでした。ただ愛媛県の建設会社と団体関係で32社、かつて宮本が構築した大河津分水の可動堰を見に行った時、大成建設がその可動堰を建設にあたっていたこともあり、最後に高橋先生のお力もあって大成建設から寄付して頂くことができました。
中野:
本に烏山頭ダムの工事にも大成建設(かつての大倉土木組)が係わっていたことが書いてありますね。
古川:
大成建設の前身は大倉土木組で、大倉喜八郎が征台の役の際に、食料、弾薬等の補給を請け負ったことで財をなし、その後も台湾で多くの事業をしていました。烏山頭ダムの隧道工事も大倉土木組がしていますので、八田技師と大倉土木組の関係は深いはずです。
「台湾を愛した日本人」が土木学会著作賞を受けた時に、大成建設の人から大倉喜八郎のことも本を書いて下さいと言われましたが、彼のことはすでに沢山の方が書かれていましたので、二番煎じになるのは嫌だったのでその時はお断りしました。
そんなことで、結局のべ33の会社と205人の個人の方から寄付があり、総額500万円が集まりました。
出身地である松山市由良町に建立された宮本武之輔の胸像
中野:
それはよかったです。銅像は完成したのですね。
古川:
平成24年11月18日の土木の日に、ホテル道後椿館で銅像の完成記念式典と高橋裕先生の記念講演を行いました。宮本武之輔の日記に記されているのですが、11月18日という日は、武之輔が一高の煙突から落ちて意識不明になり、九死に一生を得た日で、「復活の日」と武之輔が命名している日でもあったのです。銅像の完成がその日に巡り合って、丁度良かったです。
今年の1月5日、宮本の誕生日に、出身地の由良町で胸像の設置式と除幕式を行いました。地元住民や関係者約50人が集まり設置を祝いました。式典では、興居島中学の生徒が、宮本の功績や人柄を紹介する作文を発表してくれました。島の住人が「これで島に新しい宝ができた」と皆さん大変喜んで下さったので良かったです。
中野:
地元の人たちが喜ばれて良かったですね。
古川:
式典をきっかけにマスコミに働きかけて宮本武之輔の記事を書いてもらいました。今年の4月には70ページの創立5周年記念誌が出ることになっています。
寄付金が100万円ほど残りましたので、せっかくですからあと50万円あまり集めて、大河津分水の記念館に宮本武之輔の胸像をもう一つ造って寄付しようと思っています。大河津分水の設計は宮本武之輔がやりましたが、その時の工事事務所の所長は、青山士でした。
宮本武之輔は、こうして知名度が上がってきたのですが、高橋先生からは興居島までは人はなかなか見にこないだろうから、関係した土地や人の良く集まるところに第二、第三の宮本像を置けたら良いねと言われました。だから寄付金は期限なしで受け付けることにしています。出来るだけ第二、第三の銅像を造りたいと思っています。
小樽港でコンクリートのテストピースを見て感激
中野:
高橋先生も土木偉人と呼ばれる土木技術者の業績を顕彰し、教育についてもっと広めていかなければと言われましたが、古川さんはどうお考えですか。
古川:
本を書くにあたって、廣井勇のことも調べました。
3年前にヨットで日本一周をした時に北海道の小樽港に行き、彼が作成させた
コンクリート
のテストピースを見て感激しました。小樽へ行かれた時は、石原裕次郎館だけでなく小樽港の博物館でこのテストピースを見てほしいですね。(笑)
中野:
日本で、初めて防波堤にコンクリートを使った人物ですね。
テストピースは強度、耐久度を調べるのに6万個用意されたと聞きました。先駆者とはこういう仕事をしているのですね。
古川:
高知県佐川町で“廣井勇を語る”という講演会が開かれた時、高橋先生にお誘い頂き、講演を聴きにいきました。高橋先生、三上隆氏(北海道大学副学長)、栗田悟氏(北海道開発局港湾空港部長)の三名が講師をされました。三上さんが大学での廣井さんの話を、栗田さんが小樽港の
堰堤
を潜って全部調べて100年もたっているのにほとんど壊れていないという話をされていて驚きました。私はヨットで小樽港に寄った時に知ったのですが、南の堤防は、広井の後を継いだ2代目の所長、伊藤長右衛門が建てたものですが、伊藤さんは自分が死んだら南堤防に埋葬してくれと言われたそうです。そんなわけで、ダムのことも土木のことも知らなかった人間ですが、高橋先生とお話してからすっかり土木の世界に引き込まれてしまいました。
中野:
古川さんも立派な土木マニア、ダムマニアになった訳ですね。
古川:
ダムも好きです。八田與一の造った烏山頭ダムは1930年に完成するのですが、その時は世界一の貯水量を持つダムでした。1936年にフーバーダムができたので、世界一の座を譲り東洋一になりましたが、それまでの6年間は世界一だったのです。フーバーダムは岩盤も強いし、施工条件もそれほどは難しくなかった。一基で沢山貯めることができる巨大なダムです。
身を修め、智を開き、才芸を長ずるによるなり
中野:
ヨットから始まり、八田與一の本、宮本武之輔の銅像へと古川さんの情熱はどこから沸いてくるのでしょうか。
古川:
凄い事をした人は、人間としてもとても魅力的なのです。まず、その人物を知りたいというのが一つ、それからもう一つは報ずるべきことを報じないで、いらないことを広める今のマスコミのあり方への不満です。多くのマスメディアは、終戦記念日の頃になると、かつて日本は戦争で悪いことした、反省しなければならないということを報道します。
どこの国の歴史でも光と影の部分があるのですが、どうも日本のマスコミは影の部分ばかりを強調したがります。そして、戦後教育ではあまりに自虐的なことばかりを教えてきました。私はそうした教育に対する不満から、誰かが何かを残していかなければ忘れ去られてしまうと思い、宮本武之輔の像を造ろうと思ったのです。銅像なら100年たっても残りますから。背の高い銅像ではなく胸像にした理由は、子供にも触ってもらいたいと考えたからです。銘板には、小学生でも読めるように漢字にはルビをふりました。
今こそ、公に尽くす人間が尊敬される国づくり=教育が求められていると思います。親と子供が友達だと言い、生徒と先生の関係が対等という感覚ではいけないと思うのです。やはり先生が尊敬されていないような環境では、よい教育はできないと思います。
土木偉人のこと調べているうちに、明治の頃の日本の教育は凄いなと思いました。というのも端的な例ですが、学事奨励ニ関スル被仰出書(学制序文)というものがあります。これには「身を修め、智を開き、才芸を長ずるによるなり」と書いてあります。この意味は、第一に、人のために生きること、第二に、知識を得ること、第三に、技術的なことを身につけること、これが学校をつくる目的だと書いてあるのです。ところが、今の教育基本法にはこうしたことが一行も書かれていないのです。これでは、教育の目的とするところが曖昧でどうにでも受け取られてしまいます。
土木教育は国づくりの礎
中野:
土木偉人の業績を伝えていく事は大事なことですね。
古川:
今、愛媛県で山鳥坂(やまとさか)ダムの工事が進んでいますが、ダムを作るとこんなにいい点があるということを伝える工夫や、プレゼンテーションをして欲しいと思っています。もっと一般の人にもわかりやすく広報して欲しいと思います。教育現場ではなかなかできていないので、ぜひダム協会とか土木学会からも情報発信をしていって欲しいです。
中野:
そうですね。今は、ダムを見に行くツアーを旅行会社が企画する時代になりました。私たちも何か一般の人にダムの良さを知ってもらうことができるよう頑張りたいと思いますが、何かヒントはありますか?
古川:
2011年台湾政府によって八田與一記念公園が烏山頭に造られ、その竣工式が5月8日に行われました。馬総統が出席し、日本からは森喜郎元総理や国会議員二十数名が参加しました。私も嘉南農田水利会の招待で出席しましたが、その時、ユナイテッド・ツアーズ社の越智良典社長も台湾観光協会の招待で出席されていたそうです。その時、観光協会の方から「日本の修学旅行は、台北だけを見てさっさと帰国してしまう、ぜひ台南まで足をのばして烏山頭ダムを見てもらえれば、こんなにすごい日本人技師がいたということを日本の若者にわかって貰えるので、ぜひ烏山頭ダムに修学旅行生を来させて欲しい」と、頼まれたそうです。越智社長は、初めて八田與一に対する台湾人の熱き思いを知り、帰国後「台湾を愛した日本人」読んで、愛媛の我が家に突然来られました。
「八田技師のことを高校の先生を対象に講演して欲しい」と頼まれました。まず、高校の先生方に八田與一の業績を知って貰い、修学旅行先に烏山頭ダムを入れて貰うのが目的でした。東京・大阪・札幌・名古屋・福岡で講演を行い、さらに年末には高校の先生と一緒に現地に行き、私がガイドするという内容です。
その上、旅行企画を熟知しなくてはいけないと言うことで、社員の研修を現地で2回も行い、その都度、私が同行しました。
その結果、この2年間で台湾への修学旅行生は1万人を超えました。当然、烏山頭ダムを訪れて、八田技師の銅像に会って帰る高校も増えてきました。海外で日本人の銅像とその巨大なダムを見れば、多感な子供達が感激し、日本人としての誇りを感じてくれるはずです。
持てる限りの知恵を尽くして社会に貢献するということはこういうことで、それはいつまでもその恩恵を受けた人から感謝してもらえるということだと。それが土木の世界で仕事をするということのすばらしさだということが理解してもらえるはずです。
取材中に、「嘘をつかない。不正なお金は受け取らない。失敗を他人のせいにしない。卑怯なことをせず、自分のすべきことに全力を尽くす」これが「日本精神」だと台湾人から教えられました。
八田與一が抱いていた土木技師としての誇りと、公に尽くすという技師魂こそが、私が台湾の人たちに教えられた「日本精神」なのです。パブリックな仕事に就く人間が尊敬されないような国はだめだと思います。土木の厳しい仕事内容ばかりでなく、土木偉人を教育することによって、若者の中から第二、第三の八田技師が育ってくれることを、願っているのです。やはり、最後は教育だと思います。
中野:
東日本大震災に際しては、総額250億円という世界最大の義捐金を送ってくれたことなど、台湾の人たちが、日本に対して抱いている感謝の気持ちは八田與一につながっているのでしょう。
古川:
人口わずか2300万人しか居ない台湾から、総額250億円を超える世界最大の義捐金が贈られてきました。いかに台湾人が日本人に対して親日的なのかと言うことの証だと思います。このことは、戦前の日本人が台湾の近代化に尽くしたことを、台湾の人たちが今でも感謝していることではないかと思います。その代表例が、八田與一なのだと思います。
日本人は、戦前悪いことばかりをしてきたと言う自虐史観教育は、止めなくてはいけません。満州でも、朝鮮でも、台湾と同じように、優秀な技術者が多くのインフラ整備に取り組んできました。そのことを、もっと日本人は知り、誇りを持つべきです。
中野:
本日は、貴重なお話をありがとうございました。
(参考)古川勝三さん プロフィール
古川 勝三 (ふるかわ かつみ)
1944年 愛媛県宇和島市生まれ
略歴
1967年 愛媛大学卒業後、教職の道を歩む
1980年 文部省海外派遣教師として、台湾省高雄日本人学校に3年間勤務
1990年 愛媛県総合教育センター情報教育研究室勤務
1991年 「台湾を愛した日本人」で土木学会著作賞受賞
1996年 愛媛県総合教育センター科学教育部技術家庭研究室長
1998年 松山市立旭中学校校長
2000年 松山市立高浜中学校長
2004年 退職
著書
1982年 「台湾の歩んだ道」 台湾で出版
1983年 「台湾を愛した日本人」 台湾で出版
1989年 「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」 青葉図書発行
1992年 「教師のためのハイパーキューブ活用法」 電波新聞社発行
2001年 「嘉南大しゅうの父 八田與一傳」 中国語版 台湾前衛出版社発行
2009年 「台湾を愛した日本人」-土木技師八田與一の生涯- 改訂版 創風社発行
[関連ダム]
Wushantou[烏山頭ダム]
(2013年5月作成)
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