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ダムインタビュー(55)
廣瀬利雄さんに聞く
「なんとしても突破しようと強く想うことが出発点になる」
廣瀬利雄(ひろせとしお)さんは、昭和30(1955)年東京大学工学部を卒業後、旧建設省に入省、以来、数々のダム建設に携わり、
RCD工法
等の技術開発、積算や施工管理の基準策定など、河川行政の最前線で様々な課題に体当たりで取り組んで来られました。
また、ダム事業の円滑な推進に寄与するため、ダム建設功績者表彰制度創設を提唱され、ダム技術センター、ダム水源地環境整備センター、リバーフロント整備センターの創設にも尽力されました。さらに、我が国のダム技術の高度化を図るため、ダム工事総括管理技術者の資格創設を推し進められました。この他、ダムと自然環境の両立を図る観点から土木技術者と生物学者による応用生態工学会創設への道筋をつけられました。
今回は、ダム建設の現場での様々なご経験、諸制度の立ち上げ時の裏話、これからの若い土木技術者に伝えたいメッセージなどを伺って参ります。
(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)
17歳で国土の復興を議論
中野:
最初に、土木技術者を目指したきっかけからお伺いしたいと思います。いつ頃から土木技術者になろうと思われたのですか?
廣瀬:
僕は、昭和20年の終戦当時、17歳で旧制高校の1年生でした。寮にいたのですが、日本の将来について、復興をどうするかというようなことを、毎日のように仲間と殆ど徹夜で議論していました。今思い出すと、その時に得た結論は科学と教育に尽きるということでした。
中野:
終戦時は、国土がものすごく荒れていた状況でしたね。
廣瀬:
だから僕は数学者になって科学技術を興すつもりで数学科を受けたのですが失敗しました。理学部からみると工学部は格下でしたが、友達の誰が言ったのか覚えていませんが、国土復興のためには土木しかないという言葉が耳に残っていて、それで土木工学科に入ったのです。
中野:
東大で土木を勉強してみてどう思われましたか?
廣瀬:
ちょっと言葉が過ぎるかもしれないけれども、土木の授業は、数学科からみれば簡単でした。4年生になり卒業を前にして建設省に内定していたので、自分としては早く現場に出たいと思っていましたが、配属としては現場でなく、土木研究所に行けと言われました。国土復興のために土木に来たのだから早く現場に出してくれ、土木研究所に行くのなら内定を辞退すると言ったら、鉄道が専門の沼田先生が研究室へ来なさいというので、行ってみると「君、土木研究所に行きたくないというけど、どうしてだ」と質問されました。僕が黙っていると「君、土木研究所は知識を得るためと思っているのではないか」と言われました。その時、何かひらめいて「わかりました」と返事をしたのです。先生がその後、話してくれたのは、土木研究所ほどいいところはない。暇は十分あるし、好きなことをやれる、それで優秀な先輩がいっぱいいると。図書室も完備しているし、しかも給料をもらえると。
中野:
なるほど。いろいろな資料もあるし時間もある、お給料をもらいながら好きなことが勉強できるということですね。
廣瀬:
沼田先生ご自身も大学を卒業した時に、鉄道研究所に行けといわれたそうで、それでやはり嫌だと言ったら港湾の鮫島先生から研究室に来いと言われた、と。先生が僕に何を言いたかったかというと、君たちはこれから世の中に出たら、解決出来そうにない問題にも突き当たる。しかし、それを解決しなくてはならない。そのためには、どういう切り口を見つけるかが大事だと、それを土木研究所でやりなさいということで送り出されたわけです。
中野:
若いうちはいろいろ柔軟な発想が出てくるから、ということでしょうか
廣瀬:
問題解決の取っ掛かりとして、まずはどういう切り口を得られるかということが、未解決の問題については一番大切です。視野が狭ければ見つけにくいが、広く眺めることで何か見えてくるということです。
卒論のタイトルは先生がつけた
中野:
なるほど糸口を探るということを自分で考えて出来るように訓練しなさいということですね。それで土木研究所に行かれたのですが、卒論には何を書かれたのですか。
廣瀬:
卒論については、何か実験をやれと先生に言われました。ところが僕は千葉のキャンパスにいましたから、わざわざ本郷まで来て実験するのは嫌だったので、本を読んで論文書きますと。そうしたら、それもいいねということになり、ずっと寮にいて本を読みました。実は1年留年しましたので寮にはほとんど人がいなかったので、毎日本を読んでいました。
この時、指導して頂いた先生に会ったのは、先生お願いしますという最初と、卒論が出来ましたという最後の2回しかありません。僕は洪水をテーマにしたのですが、森林のことも書かないといけないから農学部の林学の教授のところへ話を聞きに行ったりして、「災害はなぜ起きたか」という題で書きました。
中野:
森林の保水力とかにも関心がおありだったのですか?
廣瀬:
関心はあっても、林学の教授と議論していた訳ですから手探りです。そこで河川の洪水と森林はどういう関係にあるかという資料を探したりして卒論を書いたのです。ところが、先生とは卒論をやっている間会っていないのですから、「君、河川の合理的設計法という名前で論文を出しておいたけど、いいかね」と言われました。題とは全然関係ない中身でしたが結果的に先生は優をくれました。
実習で初めて五十里ダムへ
中野:
実習では、五十里ダムに行かれたそうですが、ダムについて何か思われたことは?
廣瀬:
ダムについては、丸安先生という
コンクリート
の先生がおられたのですが、この先生が水ガラス工法というのを開発されました。その最初の実験現場が五十里ダムで、先生から「君、行って立ち会ってくれ」といわれ、五十里ダムへ行くことになったのです。
中野:
その時は、ダムの構造とかにはあまり興味が湧かなかった?
廣瀬:
どちらかといえば、川が荒れている感じでしたから河川全体を対象にしたかった。実際、当時の日本の山と川はものすごく荒れた状態でした。
五十里ダム (撮影:Dam master)
中野:
そのためには、やはり土木の力が必要だというように思われたのですね。
廣瀬:
そうですね。卒論にも書きましたが森林と川の関係からどうして災害が起きるか、どうすれば良いかを具体化したかった。
土木研究所で世界に類のない設計をする
中野:
建設省から土木研究所に行くことになってどんな研究をされていたのですか?
廣瀬:
土木研究所では、河川構造物研究室に配属になりました。
綾北ダム (撮影:夜雀)
中野:
河川構造物研究室というのは、その後ダム構造研究室と名前が変わっていったところですね。
廣瀬:
ダム構造研究室の前の時代です。これは僕にとって幸いしたといっていいと思うのですが、当時は建設省でダムをやった先輩が余りいませんでした。僕は大学を卒業してまだ2年目でしたがダムの設計に関わることになったのです。その頃、宮崎県が綾北ダムを造るに時に、設計を土木研究所に頼みにきて、河川構造物研究室が引き受けました。そのとき、依頼先から君たちが設計したダムをその通りに造りますと。しかし一つ条件があると…。それはどういう条件ですかといったら、世界に類のない最先端のダムを設計してくれということでした。
2つのスキージャンプで放流する洪水吐きの設計
中野:
かなり難しい宿題ですが、やり甲斐もありますね?
廣瀬:
それで、当時まだ珍しい新
アーチダム
という、ごく堤体の薄いアーチダムの形式を考えて、僕は水関係の担当だったから、2つの
洪水吐
きから出た水流がスキージャンプで飛び出して空中で当たって減勢する斬新なコンセプトで設計しました。そうしたら本当にその通りに造ってくれました。これは実に嬉しかったです。他に似たもののない、目新しいダムとはどういうものがあるかといろいろ考えつつ、ちゃんと機能的に設計するということは結構大変でした。
中野:
ダム造りに、ゆとりがある時代だったんですね。土木研究所時代はたくさんダムを見て歩いたりされたのですか。
廣瀬:
現場歩きは、2年先輩の飯田隆一さんとよく行きました。道路もまだ舗装されていない時代ですから車で行くのも大変で疲れ果て、帰りの汽車も満員なので出入り口のすぐそばの通路に座り込んで寝ていましたよ。
中野:
戦後の復興途中で、すごく大変だったと思いますが…。
廣瀬:
そうした中で、東北では鎧畑ダムとか、ダムがいっぱい出来ていましたよ。
二瀬ダムで一から現場を経験する
中野:
まさにこれからいっぱいダムが出来るという時に、土木研究所にいらした訳ですね。その後、実際にダム現場に行かれたのですか。
廣瀬:
ダム現場に行けるようになった頃には、本当はちょっと鼻が高かったのですね。ところが、ある時、専門の文献を読んで得た知識をもとに、現場の所長に「これいいですよ」と技術導入を進言すると、とたんに一喝されました。「そんなこと言ったって、君、現場はそんなもんじゃない」って。それで、本当に現場に出なくちゃいかんと思いました。
中野:
実際の現場仕事というのは、知識や理論では出来ないと…。
廣瀬:
確かに現場にはいろいろ問題があります。ただ、そういう問題があるからこそ土木研究所から人に来て欲しいという現場もある訳です。しかし、行くのはみんな設計係長という役職でした。僕は現場に出るなら第一線で働く工事第一係長でないとダメだと言って、駄々を捏ねたのです。
中野:
そうなんですか。それで二瀬ダムの工事第一係長に…。
廣瀬:
実は、工事第一係長には既に僕の同期の者が決まっていたのですが、僕が工事第一係長になったために同期は設計係長に代わってしまった。僕は後でそれを知って詫びました。なぜ工事第一係長じゃなくちゃだめかというと、課長になってからだと現場に行っても、相手のゼネコンの人が気安く教えてくれなくなるからです。
中野:
二瀬では最初から現場に張りついて、ずっと仕事されたのでしょうか。
二瀬ダム (撮影:だい)
廣瀬:
もう現場作業員と一緒に
バイブレータ
をかけるとか、デッキブラシで
コンクリート
面を清掃するとか、鉄筋の結束、電気溶接等々みんなやりました。ある時、現場でバイブレータをかけていたら胸のところまで埋まってしまい動けなくなり、引っ張り出してもらって命拾いをしました。それに落石があった時は、1メートルぐらい離れたところの大工さんに石が当たって即死。本当の現場というものを経験しました。もう今の時代では経験出来ないだろうと思います。
中野:
ダム現場にはどれぐらい行っておられたのですか。
廣瀬:
1年半です。二瀬ダムでは、技術屋は現場に出て実際に作業をやって体験しないと技術は物にならないということに気づかされました。
中野:
1年半ずっと工事第一係長でいらした?二瀬ダムというと、スキージャンプの放流がすごいので、ダムマニアさんたちが放流シーンを見るために沢山集まってきますが…。
廣瀬:
あのスキージャンプは、僕が設計しました。それまではスキージャンプは日本で余りなかったけど、先ほども話しましたが、綾北ダムでは左右2つの放水吐きから出た水流が飛び出し、空中で当たって減勢するスキージャンプを設計したわけですが、二瀬ダムもそのまま前方に放流出したら山に当っちゃうので、川なりにひねって落とすスキージャンプにしたのです。
薗原ダムで設計図書を11ケ月で作った訳
薗原ダム (撮影:KAキ)
中野:
次に行かれたのが薗原ダムですか。
廣瀬:
その時、僕は係長で近藤徹さんが係員で僕の下にいました。
中野:
薗原ダムは工事にかかるまですごく時間がかかったようですが?
廣瀬:
用地交渉がまとまらなかったのです。反対同盟が強くて大変で、最後は群馬県警の機動隊を導入して、建設用地を強制
収用
したという経緯があります。
中野:
用地が決まっていないから設計も進んでいなかったのですか?
廣瀬:
建設事務所は出来ていたので、僕はもう設計なんかできていると思ったら実は何もやっていませんでした。薗原ダムにいる人たちもダムをやるのは初めてで、僕が行って、土木研究所と二瀬ダムの経験だけで薗原ダムの全部の設計図書を11カ月で仕上げなくてはならなかった訳です。
中野:
もうほとんど徹夜状態ですか。
廣瀬:
僕自身は6時になると帰りましたが…。近藤さんたちは毎日徹夜みたいな感じでした。
中野:
ご自身では、それら2つ現場を体験されて、ダムというものをどう感じられましたか?
廣瀬:
人間が造る物としては、とにかく大きい。やはり偉大な構造物だと思いました。世のため人のためになる仕事だということも痛切に感じて仕事をしていました。
関東地建河川工事課長時代〜黒本のこと〜
中野:
薗原ダムから、次に関東地建へ行かれるのですね。
廣瀬:
そこでは、工事課で課長補佐を3年、課長を3年、合計6年いました。当時の人事のやり方でいわゆる学士でそれだけ長く同じ所にいたのは僕ぐらいで珍しかった。
中野:
当時は、ダム建設のマニュアル等もなかった時代かと思いますが。
廣瀬:
まず設計・積算の基準がありませんでした。当時は、江戸川方式、利根川方式とか言って、伝統のある河川事務所が独自の基準を持っていたのです。ただ中の数字がちょっとずつ違うので、その違いを会計検査院から突つかれて指摘されるのです。それで僕は、まだ工事課の課長だったのですが、とにかく基準を作らなければいけないということで、各事務所の工務課長を毎月一回招集し会議を開きました。
中野:
基準を統一することは大事なことですね。
廣瀬:
しかし、河川工事課長が勝手に工務課長を招集するとは何事だと、所長連中の猛反対に会いました。それで都合が悪い時は来なくていいから、その代わりに1項目ずつ、次はこれをやるからと、各事務所で過去にやった資料を持って来てもらい、1つずつ決めていって設計基準を作りました。最初は所長連中に反対されましたが、結果的に黒本という積算基準書が出来ました。ですが、今度はその黒本を利根川や江戸川とかの所長さんが、使わないと言うのです。
中野:
えっ、なぜですか。
廣瀬:
そこは、メンツがある訳です。僕はそれでも結構ですと。その代わり会計検査の責任を僕は負いません。ご自分達でやってください。でも僕が作った黒本を使った事務所の会計検査は、僕が全責任を負いますと言った。そうしたら、使わないでいた事務所はさんざん検査で引っ掛かるものだから、2年ぐらいたったら皆が使うようになってくれたのです
3つの工事基準の作成にチャレンジ
中野:
基準はどのようにして作成されたのですか。
廣瀬:
最初は、3つの基準を作ることを考えていました。今お話した積算基準、次に施工管理基準、それと設計基準です。施工管理基準というのは、例えば、ある杭の長さがありますが、これが現場に行くと設計どおりには入っていない。その時どれぐらい沈めればいいか、ちょっと誤差が出たり、引っ込んだりして、プラスマイナスがあり、壁厚もプラスマイナスがあります。でも、基準にはマイナスなどは考えられないと先輩から言われましたが、マイナスの値を1とすれば、プラスを2とする。その範囲内に入るものはいいとする。これもやはり先輩と議論しながら作りました。その後、管理しやすい構造物を造るための設計基準を作ろうとした時に、地建から本省に転勤になってしまいました。
中野:
でも基準の作成には現場経験が役に立った訳ですね。
廣瀬:
そうですね。二瀬ダムの工事第一係長や土木研究所の時代の経験も効いたのでしょうね。
RCD工法の開発に取り組む
中野:
その後、本省に戻られてから、どうして
RCD工法
の開発をしようと思われたのですか。
廣瀬:
本省に行ってから、将来ダムの予算がだんだん減るのではないかと思ったのです。もし減らされた時も対応出来るような合理化策を準備しておく必要があると思い、新しい施工法の研究を開始しました。ダム建設の工程で、掘削、
骨材
製造、打込み、締固め、
養生
など全工程別に原価計算を分析してみたら、一番大きいのが
コンクリート
運搬でした。当時は、コンクリート運搬は、ほとんどが
ケーブルクレーン
でした。だから逆発想でケーブルクレーンを使わないでコンクリートを運搬しようと考えて出来たのが、
ダンプトラック
で直送する方式でした。
中野:
ケーブルクレーンにするとケーブルクレーンの設置費用のコストがかかりますが、ダンプトラックだと費用にも柔軟性がある訳ですね。コンクリートについて以前、長瀧先生、石田先生にお話しを伺ったことがありますが、
フレッシュコンクリート
はデリケートだからと、その上をダンプトラックが乗っても大丈夫なのという議論があったとか?
廣瀬:
そうですね。ダンプトラックが上を走行しても大丈夫なコンクリートを作らなくてはと思って、いろいろ実験しました。そんな中、コンクリートに混ぜる水と圧縮強度の関係に大きな疑問でした。
RCD
は水を入れれば入れるほど圧縮強度が大きくなるコンクリートですが、我々が大学で習ったのは、水を入れれば入れるほど、コンクリートの圧縮強度が小さくなるということで、全く違っていました。おかしいと思って1年ぐらいいろいろ試験をやりました。それで解ったのが、普通のコンクリートは、水を入れれば入れるほど強度が小さくなる。ところが、RCDは普通コンクリートとは反対に、水を入れれば入れるほど圧縮強度が大きくなる。今使っているRCDは、水
セメント
の比を大きくして圧縮強度が大きくなったもの。ダンプトラックが上を走行しても品質上問題のない硬練りコンクリートとして開発されました。
新技術を試す現場がなかった
中野:
RCD
施工を考えられて、新しい技術を現場で実際にやることがすごく大事なことかと思うのですが、現場が在来工法で設計か進んでいたら、なかなか現場では試すことができないのではないですか。
廣瀬:
現場では実際にダムを造るまで、いろいろな試験を積み重ねるのですから、すんなりとはいきません。引き受けてくれるダムの所長がいなくて困りました。試験はあれこれと、やらなくてはならないし、新技術導入は大変だという訳です。結局、現場の所長に本省に来てもらってお願いしましたが、涙をこぼして「勘弁してくれ」というのです。理由を聞くと、部下に普通の
コンクリート
で設計書を1週間ぐらい徹夜させてつくらせたので、今さら新しいものを作れとは言えない、というのです。さらに、新しい工法に向けていろいろ試験するので、今までの人員で新技術をやることを部下に言えないという訳で職員を補充してくれますかということでした。
条件の悪い島地川ダムでいいコンクリートが出来た
島地川ダム (撮影:安部塁)
中野:
そのとき廣瀬さんは、建設省で人員補強を指示できるお立場でしたか?
廣瀬:
それは出来ないので、「ダム技術のため、建設省技術のためだから、頼む」といって、頭下げどおしで、中国地方建設局島地川ダムの現場でやってもらいました。
中野:
島地川ダムでの結果はどうだったのですか。
廣瀬:
島地川ダムは、一番
RCD
には適さない狭窄部でした。RCDは、広い場所で施工する工法ですから、そういう悪いところでやってもいいのかという意見もあったのですが、一番悪い条件のところで成功することが、工法を証明できるのではないかということで強行しました。
中野:
RCD
施工は逆転の発想から始まっていますが、現場では他に問題がなったのでしょうか。
廣瀬:
島地川で
RCDコンクリート
を
ボーリング
してみたら
コア
に空洞あいていて、現場でも何とかしたいと考えていました。國分先生に委員長をお願いし、現場を見てもらった時、二瀬ダムで僕の部下だった者が、島地川ダムの現場主任をやっていて、
ブルドーザ
で敷きならしてみましょうと提案されたので、やってみたら、非常にいい
コンクリート
になったのです。コンクリートを、かき混ぜるとか、その上を歩くというのは考えてもいなかったことでしたがよいコアがとれ、それで國分先生も安心されたのです。
RCD工法で施工した玉川ダム
中野:
RCDコンクリート
ができて先生に認められたわけですね。その後は順調にいったのですか。
廣瀬:
RCD
を本格的に採用したのは玉川ダムでした。玉川ダムは堤体が長く
ケーブルクレーン
を適用した場合には、ケーブル長が長くなり、
バケット
で重い
コンクリート
を運ぶからコンクリートを荷下げする時バウンドする。長ければ長いほど、反動が大きい。この
ダムサイト
はケーブルクレーン以外の施工法を考えなくてはならかった。ところが、玉川ダムでは、所長と課長連中など全員がRCDの導入に反対でした。僕が開発課から離れている時にケーブルクレーン工法になってしまい、鹿島建設でケーブルクレーン走行路として 2,000m3掘削していました。そこで会社の上層部を呼んで「2,000m3の掘削費用は一銭も払わん」といったら、「会社に帰って相談する」というから、「ダメだ、RCDになれば損はさせないから、ここで、イエスといいなさい」と。それで、玉川ダムの役職者を転勤させて、開発課から所長、課長を送り込みました。今だったらちょっとできないことでしょうね。
玉川ダム (撮影:灰エース)
ダム技術が進歩する時は
中野:
ダム技術進歩のために重要なこととはいえ、玉川ダムでの
RCD
施工は、反対の中、大変ご苦労があったのですね。
廣瀬:
RCDの他のメリットとして、労災が少なくなりました。従来の通常工法では嵐の時は大変でした。ホースを担いでブロック間を上がったり下がったりした訳で当時は工事費1億円について1人亡くなる感じでした。随分と死傷者が出ましたが、
RCD工法
にしてからは労災ほとんどなくなりました。新しいことをやるということは大変です。RCDを試験している時に測量試験費で予算3億円を使ってしまい、何回も先輩に叱られました。「君、失敗したらどうするんだ」と。「成功しようと一生懸命やっています。失敗したら建設省を辞めます」と言ったら、「君、一人辞めてもどうにもならん」と言われました。たまたま上手くRCDが成功したので良かったです。
中野:
失敗したらどうなるかなど考えないで、分らないことを解決していくことですね。
廣瀬:
そうですね。自分で考えてやってみること、教えられて考えるのではなく自分で考えること。だから、技術開発の時は、いつもうまくいくかな、どうやったらいいかなと考えながらやっていました。
中国への日本初の土木視察団、北京で
RCD
の講義をした(左端が廣瀬さん)
ダム技術会議
中野:
ダムの事業団構想について伺います。どのような経緯があったのでしょうか。
廣瀬:
僕はダム建設を円滑に進めるための組織が必要だと思い、そこでダム事業団構想を作りました。だけど、そんなの作るのはダメだと建設省の上部から反対されたので、役割を3つに分けました。一つは、権威を持たせるダム技術会議、それから技術者の研修を目的にする研修センター(全国研修センター)、もう一つは、現場の人たちが気軽に相談にいけるダムセンター(ダム技術センター)です。ダム技術会議を河川法に載せたかったので、技監を招集者にし、議長は学識経験者がいいので、岡本舜三先生(東大教授)に議長をお願いしたという訳です。
岡本先生とティートンダムを視察、日本だけが現場視察に行けた(中央:岡本先生、右隣:廣瀬さん)
ダム功績者表彰制度について
中野:
実は、同じ頃に当協会のダム建設功績者表彰制度も作られたということですが、この表彰制度はどういう意図で発案されたのですか。
廣瀬:
それは、僕が開発課長の時で、当時、高度成長期でダム事業も盛んでしたが、ダム協会はどうも世間から好意的に見られていないようでした。それで僕は田村忠義さんを呼んで、社会的に良いことをやっているのだということを形で現わしてくれと言ったのです。
中野:
光を当ててイメージアップするという案ですね。
廣瀬:
どちらかと言えば、実際に表彰される人たちに光が当たるということだけではなくて、その光の反射を社会に返したかったわけです。
表彰制度の拡張
中野:
それで、ダム功績者表彰制度ができた訳ですね。最初は、施工、環境部門でしたが、その後、専門業者や上下流関係の地域住民も表彰されることになり、多くの分野から表彰者が出て人数も増えてきました。
廣瀬:
最初はダム施工者だけでした。それで、次に用地関係者で、ダムのためにいろいろ苦労しているということで入れてもらい、これは案外簡単に理事会で承認して頂き、関係者には大変喜ばれましたが、専門技術者を対象にする時は大変でしたね。
中野:
それはなぜですか。
廣瀬:
ゼネコンの社長クラスの反対にあって難航しました。だから、僕は各個撃破で各社の社長に1対1で会って直接お願いして表彰規程に入れました。2〜3年かかりましたね。
中野:
それは、なかなか難しいことがあったのですね。その後、受章者は奥様ご同伴でということになりましたが、それも廣瀬さんの提案だったのでしょうか。
廣瀬:
それは、曽野綾子さんに記念講演会の講師をお願いした時に、ぽつりと「受賞者の奥さまはお呼びにならないのですか?」と言われたのです。それでハッと気がついてご案内することになったのです。
中野:
そういういきさつがあったのですか。おかげで記念写真が明るくなりました。今年度で35回になりますけれども、皆さん本当に受賞されることを名誉に感じられておられ、すばらしい制度を私たちもお手伝いできてよかったと思っております。
廣瀬:
最近では、上下流の地域関係の方々も表彰対象になりましたね、今後も発展していくと良いと思っています。
河川整備基金について
中野:
河川局長の時、河川整備に絡む税金というか、河川整備基金を創設されたことについて伺います。
廣瀬:
実はその前から河川局では、河川整備税という形で仕組みを作りたいと考えたのです。なぜかと言うと、その頃、減りつつあった治水に関する予算を自民党に陳情に言っていくと、要求ばかりではなくて建設省としても何か策を考えろと言うことになり、そういう案を出さざるを得なくなっていたのです。しかし、治水のための予算と言っても利水者から税を貰うというのはどうにも賛成出来なかった。また、いくら建設省が独自にやると言っても利水者が絡む農水省は何と言うかも問題でした。思ったとおり農水省でも森林整備税という案を考えて出してきました。そうなると大蔵省では建設省と農水省が互いによこせ、よこせと争っているので、どちらにもNOを言っておけば決まらないと。
僕は卒論にも、森林の問題と治水の問題は、一体で考えなければダメだと書いているので、どちらか一方ではなく、農水の側の林野庁と手を組んで共同でやった方が良いと思っていたのです。
中野:
河川と林野で重なる問題は、全国に広がっていますから、大きな対立になったのですね。
廣瀬:
僕は、当時、林野庁と建設省が手を握らなかったらこうした案は100%で実現出来ないと思っていたのですが、これには自民党自体が反対で、その頃、治水議員連盟会長をされておられた浜田幸一さんも反対を唱えていた。一方、僕は林野庁を退職した技術者の協会(日本林業技術者協会)の理事長といろいろ森林のことを教えて貰っていたので、代々親しくしていたのです。そこで協会の理事長を介して林野庁の長官と会って最終的には協力して一案にまとめて出しましょうということにしたのです。しかしその後、急速に林野庁側の動きがにぶくなってしまい、こちらが一方的に働きかけをするはめになってしまったのです。
自民党では林野庁と一体化することに反対で、建設部会で浜田幸一さんは反対の演説をぶっている。一向にらちがあかないのです。その時、僕はもう半月ぐらい、朝からほとんど夕方まで自民党本部に行っていて、朝昼の食事は党の食堂で食べていたのです。そうしたら、ある時、西村英一先生が僕を呼びとめて、「君、何か困っていることあるか」と尋ねられたので「浜田先生が治水議員連盟の会長なのに林野庁と組んで河川整備税は反対だといって困っています。明日、建設部会があるのですが…」と言ったら、「僕も出てやる」といわれました。それで部会が始まったら相変わらず浜田先生が演説をぶっている訳です。林野庁と手を握るのはおかしいとか、だめだとか。10分ぐらいやっていて、西村先生が、「ハマちゃん、もういいのではないか」と言われたのです。そうしたら浜田先生が「西村先生のおっしゃることなら」とあっさり降りてしまいました。なぜ西村先生が僕を呼びとめたのか、誰がそう仕向けたか今でもわからないのです。
中野:
ずっとその頃、自民党に通われていた訳ですね。
廣瀬:
自民党にはずっと通っていましたが、西村先生にそんなことを言える人というのは、田中先生しかいなのですが…。
中野:
そうですか。すごい大物がいっぱい出てきましたが、それで基金にはどういう経緯でなったのですか?
廣瀬:
河川整備税というのは、利水者からお金を頂くことができるが、私は毎年税金として納入させるのは好ましくないと考えていたので、一時的な拠出金として出して貰い、基金にして活用していく案も持っていました。しかし、河川整備税の方向で、話が進んでおり、最後まで通産省に関係の深い議員さんが反対でした。ところが自民党税調の山中先生が税調の委員会で基金とする。基金に反対なら自分の職権で税として正式に認めると言い出したのです。すると皆さんシーンとなって基金でお願いしますということで、税ではなく基金になった。後に、金額をどうするかというところでも桁が1つあがったりするのですが、その辺りのお話はおいておきます。
ダム総括管理技術者制度について
中野:
建設技監の時、当協会のダム総括管理技術者制度を作られた時のお話をお聞きします。
廣瀬:
これはまだ僕が課長時代に、いつかはダム工事に技術力を抜きにしてただ安いと言うことだけで外国業者が入ってくるのではないかという恐れを抱いていました。もしそうなった時には、どういう対抗措置があるのか考えたのです。
中野:
海外から安い工事費が出せる業者が入札に入ってきた時、とても国内の業者では太刀打ち出来ないということですね。
廣瀬:
何か資格制度を置いておかないと、技術レベルとは別にただ安いというだけの業者にダムが造られてしまうのではないかと危惧しました。だが建設省内で話しても、誰も賛成してくれる人はいないし業界もダメでした。実際に制度を作るためには3年なり、5年なりの準備期間が要るのですから…。そこで (財)全国研修センターに特別ダム工事幹部技術者研修という講座を作って、何年か講座を実施したら大臣認定でダム総括管理技術者にしようというのです。しかしこれに賛成してくれたのは、鹿島の副社長の前田忠次さんだけでした。結局、講座の開講式には2人だけで立ち会いました。
建設大臣に直談判する
中野:
その後はどうされたのでしょうか。
廣瀬:
4、5年実績を積んでから建設省の技術調査室に応援をお願いしましたら、反対なのです。なぜかと言うと、例えば道路でもトンネルとか長大橋とかに資格制度を作りたいし、ダムばかりに先に特別な資格者制度を認めるわけにはいかないと言われてしまいました。それでも早く作らないと、外国勢に太刀打ち出来ないので、直接、天野光晴建設大臣のところに「将来のダム工事のためになるので判を押してください」とお願いに行き、開発課所管のダム総括管理技術者制度にしたのです。
中野:
すごい行動力ですね。この資格制度は、ダム技術が継承できる他、社会基盤を守っていく上でも重要になっていくと思います。ダム総括管理技術者の方はダム現場でも企業の枠を超えて仲が良いですね。廣瀬さんはどのように感じられますか?
廣瀬:
技術者同士仲が良いというのは、他の業界では余りないことなので、皆さんが日本のダム技術の向上、発展のために議論していることは非常にうれしいことです。
応用生態工学会を立ち上げた
中野:
次に、ダム事業を進めてられるなかで、応用生態工学会を立ち上げられるというのは、どういうことがきっかけだったのでしょうか。
廣瀬:
現場にいますといろいろ問題が起きます。例えば、魚に何か問題が起きると魚の先生だけに聞きに行きますが、現実は魚ばかりの問題ではないです。いろいろなものが関係して、魚が問題になっている訳です。それで生物だから、関係者が一堂に会して議論して対応を考えなくちゃいけないということを思っていました。だから、ダム水源地センターで複数の生物部門の先生からなる委員会を作って、調査団として外国に行って、外国の事例で議論してもらいました。そうすると、植物の先生とか、鳥の先生とか、一緒に一つの事例で議論します。それを3〜4年やって、応用生態工学を立ち上げることを進めました。
中野:
ダムは環境問題がありますし、土木からの働きかけで、川のことと、魚のこととも考えながら
魚道
を作っていますね。
廣瀬:
それぞれの専門家が土木屋と一緒になって全員で問題を解決する。これが応用生態工学会の趣旨なのです。
日本のダム技術のために思うこと
中野:
今後の展望のことを伺いたいと思います。近年、ダムを造れるようなところもだんだん少なくなってきていますが、ダム技術の継承についてはどのようにお考えですか。技術を海外に輸出するとか。
廣瀬:
それも一つの方法ですが、日本でもいろいろの見方、考え方を変えれば、やはりダムの使命というのは出てくるのではないかと思っています。ダムを造る場所がないから、海外という単純なことではなく、引継いでやってくれる後輩が出てほしいと思います。僕なんかが建設省に入った時、ダムについては全然やってないのと同じぐらいでしたから。
中野:
先ほども
RCD
の開発も、周囲から反対されながら、日本のダム技術のためと、建設中の現場施工をしたお話を伺いましたが、そういったことを伝えていくことが大切ですね。
廣瀬:
そういう意識に目覚めた後輩が育ってほしいです。大きく言いますと、ダム建設の合理化施工には、設計と施工と材料という3本の柱があるのです。RCDは施工の合理化、
CSG
は材料の合理化、それからプレキャストは設計の合理化ですよ。それが大体実現してきたのです。
中野:
なるほど。すばらしいダムの技術を伝えていかなければなりませんが、若い人に向けて何かメッセージを頂けませんか?
廣瀬:
僕はちょっと一般の人と違うかもしれないですが、言葉を選ばずに言うと、これまではインフラの整備にしても運用技術にしても、官の側が余りに与え過ぎてきたのではないかと思うのです。それが長く続いたので、官側が与えることが普通で、住民の側は与えてもらうのが当たり前という構図になっているのだと思います。僕たちの時代、終戦直後、焼け野原で何もない日本の将来をどうするかということを17歳の頃に真剣に考え議論していたのを思い出すと、これから何を伝えていけば良いのかと逆に悩ましいです。
中野:
そうですね。日本は安心安全で特に若い人は、危機感が余りないのかもしれないですね。何とかなるのではないか、何とかしてくれるのではないかと。
廣瀬:
技術者となったなら、一生を終わる時に振り返ってみて、自分は人のため、社会のためにどれぐらいのことをやってきたかということが、大きな安心感に結びつくと思います。これは、何も土木の分野ばかりではなくて、いろんな部門でも。人のためになりたいという考え方、これは多分、僕らは昔の旧制高校で培われたことだろうと思います。今の若い人は、周囲の環境に恵まれているせいか、突き詰めて自分の一生をどう生きるかということを余り考えてないのではないかと思います。僕らは焼け野原を見て絶望しつつも、自分たちで何とかしなければまともに生きていけないぞと、そういう恐怖心がありましたから。
中野:
そうですね。確かにこれから日本を支えていくという志をもっていかないと。これだけ災害の多い国なので本当に真剣に考えいかなればと心配になってきます。新工法を開発していった時の志は、どのようなものだったのでしょうか。
廣瀬:
新しい技術なり、問題解決策がどれだけ必要とされているかによりますが、なんとしても突破しようと強く想うことが出発点になるでしょう。また土木に限って言えば、第一に、技術開発をする者は現場に出て発想しなくてはだめ、第二に、公共事業は官側が何らかの形で入るようにしなさい。第三に、新技術の開発には必ず反対者がいるから覚悟してやりなさいということです。
中野:
失敗を恐れずにやるということと、あとから自分で責任がとれるように。
廣瀬:
そうそう。僕は東大の第二工学部で本郷と千葉のキャンパスにいました。本郷の先生と千葉の先生は全然感じが違うのです。僕は、その両方を経験していますから言えますが、例えば、本郷の先生は何か質問すると、「それは君、こういうことだよ」と教えるのです。一方、千葉の先生は、「君の考えはこういうところが面白いから、研究してみたらどうか」と奨めてくれるのです。こういうところが社会に出ている、出ていない、つまり経験の違いです。疑問に思うこと、何か引っ掛かるものが、いつも頭の片隅にあったのではないかと思うのです。なぜだろうと考えてみるところが大事で、それが
RCD
の開発にもつながっていったと思います。
若手への技術伝承については
中野:
国土交通省の若手にダムの技術伝承を、どうやっていったらいいでしょうか。
廣瀬:
僕は、誰にも無理強いしちゃだめだと思います。付け焼き刃でダムが必要だから「君、ダムの技術伝承をやれ」と言ったって、仮に「はい」と返事をしたとしても、満足な結果は出て来ないと思います。要は、志がある者だけがやっていけばいいのではないかと、僕は今では達観しています。
中野:
そういう意識がある人をいかに見つけて、応援するかということですね。
廣瀬:
そういう人がいたら、みんなで盛り上げる。今はそれしかないのでは。
中野:
志を受け継いで欲しいというには、どう動いたらいいのでしょうか。
廣瀬:
僕の経験で言うと、土木研究所でダムの
堆砂
をやっていたら、堆砂で論文を書いた者がいないと猛反対されました。僕は、「論文を書く、書かないなんていうのは二の次で、ダムの堆砂を研究するというのは大切なことだ。土木研究所というのは、建設省の附属機関ではないのか」と言ったら、「本省に行って相談しろ」ということでした。それで本省に行って「堆砂をやらせて欲しいと訴えに行ったら、「わかった。直轄技術研究会の課題とする」と言われました。僕は、今でも覚えていますが、大学卒業してまだ2年ぐらいで九州の会場の壇上に立って、直轄技術研究会の趣旨説明をさせられました。ぼーっとして人の顔も見えないし、先輩からは答えづらい質問をされましたが、本省が「大切だから、直轄技術研究会の課題として取り上げて、君が責任者になってやれ」と、言ってくれました。やはり大きな誠意だったと思います。興味を持っている人にきちんとやらせる先輩が必要です。
中野:
やる気のスイッチを押してあげないといけないのかもしれないですね。
廣瀬:
一つ言えるのは、今はダムの必要性というのを、僕は言い過ぎているのではないかなと感じます。
ダムの広報について
中野:
協会では、一般の方にダムのことをもっと知ってほしいということでダムマイスター制度をしています。ダムのサポーターのような活動して頂いている訳ですが、ダムの広報についてはどうお考えですか。
廣瀬:
これは、前から言っているのですが、ダム百景みたいな企画をやったらどうですか。また、ダムを造る時には、下流の地域を対象に、夏期学校の併設を言いっているのです。学生が来れば、自然とダムの恩恵を受けていることがわかるでしょう。高校から大学に進むにも、今は社会科というのは、余り重要と言われていなくて、他の受験科目ばかり一生懸命やっているというところがあります。しかし、社会科にも力を入れる学校教育というものが大事だろうと思います。
中野:
最後に座右の銘をお聞かせください。
廣瀬:
土木技術に生きた大先輩である青山士技師が明治時代に新潟県の大河津分水(スエズ運河と同等の掘削土量になる)を完成させた際に残した言葉、“万象に天意を覚える者は幸せなり、国のため、人類のため”を座右の銘として仕事をしてきました。
中野:
本日は、貴重なお話を有り難うございました。
(参考)
廣瀬利雄さん プロフィール
廣瀬 利雄 (ひろせ としお)
昭和3年12月17日生まれ
昭和30年 3月
東京大学工学部土木工学科卒業
4月
建設省入省 土木研究所企画課河川構造物研究室
昭和34年 6月
建設省関東地方建設局二瀬ダム工事事務所工事第一係長
昭和35年 5月
建設省関東地方建設局薗原ダム工事事務所工務課設計係長
昭和36年11月
建設省関東地方建設局河川工事課長補佐
昭和38年11月
建設省関東地方整備局甲府工事事務所副所長
昭和40年 5月
建設省関東地方整備局河川工事課長
昭和43年4月〜昭和46年6月
建設省河川局開発課長補佐(水利)、開発課長補佐(調査計画)
昭和47年 4月
建設省関東地方整備局霞ヶ浦工事事務所長
昭和49年 7月
建設省河川局開発課建設専門官(調査、直轄)
昭和51年10月
建設省河川局開発課水源地対策室長
昭和53年 6月
(財)国土開発技術センター
昭和55年 6月
建設省河川局開発課長
昭和58年 7月
建設省北陸地方建設局長
昭和60年12月
建設省河川局長
昭和62年 1月
建設省建設技監
昭和63年 1月
建設省退官
平成元年 7月
(財)ダム水源地環境整備センター理事長
平成 6年 6月
(財)国土開発技術研究センター理事長
平成 8年 1月
(財)ダム水源地環境整備センター理事長代行(併任)
平成10年 7月
(財)国土技術研究センター副会長、首都圏建設資源高速化センター社長
平成11年 6月
(社)日本大ダム会議会長
平成12年
高知工科大学客員教授
平成13年 7月
(財)ダム水源地環境整備センター顧問
平成13年10月
応用生態工学会長 (〜平成17年10月)
学会関係
昭和56年 土木学会吉田賞
平成13年 土木学会功績賞
平成22年 ICOLD功績賞
[関連ダム]
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二瀬ダム
島地川ダム
玉川ダム
(2015年7月作成)
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