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ダムインタビュー(60)
中川博次先生に聞く
「世の中にどれだけ自分が貢献できるかという志が大事」

 中川博次(なかがわ ひろじ)先生は、昭和31(1956)年京都大学大学院を修了後、建設省へ入省。土木研究所に配属され、河川構造物研究室、ダム水理室研究室で外国の知識を吸収しながら、新技術の開発に専念され、多くのダム事業に関わって来られました。昭和39(1964)年に、建設省を退官されてからは、母校京都大学防災研究所の助教授として大学に戻られ、昭和44年(1969)から土木工学科教授として学生の指導に当たれるほか、JICAのプロジェクトでケニアのジョモ・ケニヤッタ農工大学の創設に携わられ、国内外で次世代を担う土木技術者の育成に力を注いでこられました。
 また、ダム技術に関する豊富な知識と経験から平成21(2009)年には国土交通省の有識者会議「今後の治水対策のあり方」の議長を務められ、我が国におけるダム事業の検証作業に尽力されておられます。


 今回は、それぞれの時代にどのようにダムに関わってこられたのかとか、人材育成の秘訣等を伺ってまいります。
(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)

終戦直後、混乱の時代に哲学を学ぶ

中野: まずご経歴に沿ってお話を伺ってまいりますが、先生はなぜ土木の分野に進まれたのですか?きっかけは何でしょうか。

中川: 京大で土木工学科に進む前に、ちょっと話が長くなりますが説明しますと、私は終戦時は中学2年生でした。ご承知のように、当時の日本は軍国主義一辺倒で、子供だった私も、日本は勝つものだとすっかり信じ込んでいたのです。ところが敗戦、そして終戦の日を境にしてがらりと世の中が変わってしまいました。日々食べるのもやっとの状態の中で、張り詰めていた気持ちが緩み、どこに寄りどころを求めて良いのか分からないという感じでした。その時、たまたま京都大学文学部で美学を担任されておられた井嶋勉教授と知り合うことが出来ました。1週間に一度ご自宅に伺ってカントとかヘーゲルとか、ギリシャ哲学から近代哲学まで、およそ2時間、西洋哲学の講義を一対一でして頂きました。先生は、後に文学部の学部長になられましたが、学生一人ひとりに講義をやられたことはありません。得がたい経験だったと思います。そういうこともあって、その頃の私は哲学に傾倒し、ありとあらゆる分野の本を読むようになりました。

京都の商家では、長男は洛外に出さない

中野: 多感な時期に哲学の先生との出会いが勉強するきっかけになったのですね。

中川: 当時は、物資が非常に乏しかったのでトイレ用のちり紙を毎週1束もっていくことが授業料みたいなものでした。もともと文系は得意でしたから哲学科へ進もうと思ったのです。私自身は、東大に行くつもりでしたが、実家が商売をしていた関係で長男は京都から外に出さないという父親の方針で京都に留められてしまいました。そこで井嶋先生に「尊敬する先生のもとで講義を受けたいので、京大の哲学科へ行きます」と言いましたら、先生は「終戦直後で食べるものもない時代に、哲学科に行ってどうやって生きて行くのか?」と言われました。

中野: 哲学では生活の糧にならないということですか。

中川: 先生はさらに「汝自らを知れ」と言われました。これは「自分の無知を自覚して、自分の心をより高めるように精進しなさい」ということ。それではっと気がついて、自分の無知を言われたのは、先生にはいろいろと教えて頂いたけれど、私は将来、哲学を研究していくだけの素質がないのではないかと。そう先生がおっしゃっているのだと考えました。そこで、学んだことで生きていける方向を考えなければいけないということで180度方向転換して、理系の工学部に入ることにしたのです。

中野: 工学部で土木を選ばれたのは、どういう理由ですか?

中川: 私たちの時代、京大では工学部で一括募集され、1、2年生には専門がなく、教養課程で全員、宇治にあるもと火薬庫だった校舎に通っていました。その後、専門課程の学科に希望を出して分かれて行く訳です。私は、父親が繊維問屋をやっていた関係で、スフやナイロンなどの人造繊維の発明で著名な桜田一郎先生のおられる繊維化学科を志望したのですが、友達に各学科の競争率を見に行って貰ったら4倍もあって、とても通りそうにありませんでした。

中野: 当時は、繊維関係に将来性があるということで人気だったのですね。

中川: それはすごかったので、どこか簡単に入れるところがないかと探したら、土木工学科に2名空きがあると言うので友達と私、2人は試験なしで行けました。大学に一生懸命入って来たのに、2年経ってから試験で選別されるのは、ばかばかしいと思って、それで土木に潜り込んだ訳です。実は京大工学部に土木工学科があることも知りませんでしたから、あまり褒められたことではありません。行ってみると、土木ほど易しいところはないなと感じました。なぜかというと、学問としては十分に体系化されておらず、戦前の経験的なものに基づいた講義がそのまま続けられていました。その後は、外国から新しい学問を取り入れて、工学としてきちんとした体系を創成させようという機運が高まったので、研究の目標や問題解決への興味が湧くようになり、周囲の研究者との交流を通じて大変刺激を受けました。

雨を流量に変換する流出解析を研究

中野: 土木工学科では、どのような研究テーマを選ばれましたか。

中川: 当時、土木工学科を束ねる石原藤次郎先生が多くの若い研究者を育てておられ、私はその研室に入りました。卒業研究は4年になってからですが、私の研究課題は、そのころ盛んになってきた水文学分野での流出解析法というものです。河川の治水計画や河道設計は洪水流量を基礎としていて、戦前の治水の考え方は、今まで起こった洪水を目安に行われ、それを上回る洪水が出ると計画流量を修正するという積み上げ方式が採られてきました。そのような状況下で戦後に相次いだ台風による洪水被害が、戦争で荒廃していた国土に追い打ちをかけたのです。そこで洪水を防ぐための河川整備が最重要課題になりました。長期的に考えて、どれくらいの規模の洪水を基準に河川整備をすべきかという目安を出すことが必要になって、過去のデータ、豪雨とか水位の記録を統計的に解析して、その確率分布のトレンドから洪水の大きさを推定する水文統計学の研究が盛んになったのです。

中野: 水文学の研究で、ダムについてはどうでしたか。

中川: ダム計画や河道計画では、洪水の全体量とか、時間的変化、洪水波形を知る必要がある訳です。ダムは水を溜めるのですが、溜める量を問題にするとなると、流量を測定しなければなりません。ところがこれが難しい。水位の上昇から流量が求められますが、一番整っているデータは降雨量です。ただ雨は、地域、場所ごと、あるいは時間的に違います。だから時間的、地域的な分布データを測ってそれを流量に変換するのです。流域に降った雨が複雑な経路を辿って川へ出ていく様子をどのように表現して予測につなげるか。雨を流量に変換する流出解析の研究は統計的でなく、物理的な気象データを利用して推定するという方法の開発です。

由良川の降雨と流量の関係を解析する

中野: その流出解析のためにどこで実験が行われたのでしょうか?

中川: 流域モデルは由良川にしました。京都の北側にある由良川の一番上流部の流域、およそ325平方キロを対象に25ヵ所の雨量観測点を設け、そのうちの9つの地点に雨量計を設置して計測し、その他は近隣の小学校の雨量計を子供たちに毎朝測って貰ってデータを採りました。この雨量計設置の目的は地形の低い所と高い所では雨の量がどれだけ違うのか調べるためです。高い所では標高1000mくらいの山の上になりますから、高度差がすごくあります。


雨量計(「中川博次教授退官記念誌」より)
正確なデータを採るために苦労した現地調査

中野: データを採るのが大変ですね。

中川: 毎月現地に赴いて積算雨量計により観測資料を収集しました。高度差1000mの観測点もあり、昭和28(1953)年9月の台風13号で大きな被害を受けた時には交通手段もないので、1日10時間の山歩きを5日間続け、足の裏全体が靴の底のように固まるといった苦難も味わいました。


大野ダム(「中川博次教授退官記念誌」より)

 また、何点かの雨量計は豪雨のために容器から水が溢れ出して記録が採れず、水位計も作動しなくて洪水痕跡から推測するしかなくてとても歯がゆい思いをしました。自然相手ですからこうした不測の事態はよくあることです。むしろ、こうした失敗を教訓としてより正確な記録が取れる工夫を重ねていくのが研究者としての道であると痛感し、いろいろやってみました。その一例が、ガラス瓶に希硫酸を入れてアルミの短冊を垂らしておくと、晴天時には溶かされるので、それを測って何ミリ降ったとわかる。それを雨量計のデータと対比させて、いつからいつの雨で何ミリ降りましたと計算したのです。

中野: それが大野ダムの流域だったのですか。
中川: そうですね。大野ダムの上流全部が対象地域です。観測に行くにも、あの辺りの山はマムシは出てくるしイノシシも走る。すごく大変でした。冬になると、キジが飛ぶくらいなら良いのですが、どういう訳か雪の中でも熊が出てくるのです。そうやって雨量観測を丸3年やりました。

我が国における単位図法(ユニットハイドログラフ)を修士論文に

中野: 3年かけて集めたデータをどう使われたのですか?

中川: この時のデータをもとに論文を作成し、我が国における単位図法の普及を提唱したのです。当時は、昭和6(1931)年にアメリカのShermanによって提唱されたユニットハイドログラフ、すなわち単位図法というものが世界的に普及していたのですが、これは降雨と流出との間に線形関係があり、降雨強度が2倍になると、流出曲線も2倍になるというものでした。しかし、由良川での解析結果からこの方法は我が国の河川には適合しないということが判ったのです。なぜかというと、アメリカは、川の流域がものすごく広いし、勾配が緩くて流れも穏やか。日本では川はすごく急勾配で流路も短い。地形も複雑で絡んでくる要素が多くて足し算しても単純には、いわゆるリニアな線型にならない。どちらかというとノンリニア、非線型の関係になるのです。だから流域を細かく分けて、降雨強度や河川・流域の特性によって単位図を変える方法を考えました。つまり、河川それぞれの区域ごとの単位図を求め、それらを結合した総合単位図というものを作る考え方を提案しました。こうして降雨から流量への変換過程は非線形性を有すると結論づけられ、その後非線形性を考慮した各種の流出モデルが提案されるようになっていったのです。

中野: その研究は、大学院時代の修士論文ですよね。

中川: そうです。この研究室時代には、周囲にたくさん優秀な人がいたので、とても刺激を受け、自分では人間的にも成長できたと思います。

建設省採用試験を受けた理由は

中野: この研究をされて大学院修士終了後に建設省に入られたのですね。研究の道ではなく役所に就職されたのはどうしてですか?

中川: 始めは石原先生から、おまえは実家が京都だから、このまま京大の助手に残れと言われていたので、そのつもりでいましたが、夏に国家公務員の試験があったので試しに受けてみようと思って。

中野: 石原先生には相談されたのですか?

中川: いや黙っていました。当初は行く気はなかったのですが受けてみたら2番で通ってしまって、私は生まれてこのかたよその土地で生活したこともないし、本当に東京へ行って働けるかなと思いつつ、石原先生に「実は公務員試験に通りましたので東京へ行って、建設省に入って役人になろうと思います」と話ました。すると石原先生は「わしは君を助手にしようと思ったけど、どうしてもと言うんならしょうないな」と、おっしゃった。当時、京都大学土木工学科では学生に公務員試験をどんどん受けさせて役所に入れていく方針だったのです。就職率が上がりますし。そういう訳で、私は建設省に採用になりました。

面接での論争でダム現場ではなく土木研究所へ

中野: 入省後は、土木研究所に行かれたとのことですが、現場でなく研究所への配属はどう思われましたか?

中川: これは余り人には言ったことがないのですが、総合単位図の修士論文をまとめていたのでちょっと鼻に掛けていたのでしょう。公務員試験に受かって建設省の採用面接を受けた時に、当時、治水課長だった山本三郎さんや、土木研究所長をしておられた松村孫一さんが面接官でしたが、「今、建設省で使っている単位図法は間違いで、私の研究ではこういうことになります」と話したら、論争になってしまいました。

中野: 面接官とですか。

中川: 山本さんはじめ、皆が色めき立ってそんな事はないと言ってきたのですが、私は絶対曲げなかった。そういう態度を変えないとだめだと叱られました。面接は、普通の人は5分くらいなのですが、私は30分くらいやりました。その時、土木研究所だけは嫌ですといったのですが、結局、配属されてしまいました。


河川構造物研究室で、毎日ダム技術について議論した

中野: ご自身は現場に行きたかったのに、もう少し研究をしろということだったのですね。でもその後、土木研究所には長くおられたということですが。

中川: 当時、土木研究所に新しくできたばかりの河川構造物研究室がありました。この研究室は多目的ダム事業に関わる技術開発や、全国で建設中あるいは計画中のダムの技術調査や設計指導の役割を担っていました。一人で3つくらいのダムを担当してとにかく忙しかった。同期には、飯田驤黷ウん、廣瀬利雄さん、伊集院敏さんらが同じ研究室にいました。当時は、夕方5時になって仕事が終わったら、みんなが部屋に集まって、夕飯も食べずに延々と議論するのです。堤体の構造設計や基礎処理を扱うグループと、水理設備の設計を扱うグループに分かれていましたが、私は後者に属しておりました。そこでの議論がすごく刺激的で勉強になりました。今にして思えばとても良い方たちばかりが周囲にいた。

中野: 若い技術者集団だった研究室の様子はどうでしたか。

中川: そこでわかったのは、一つのダムを設計するにも、水理だけやって他の分野の知識がなかったら出来ないということです。構造、材料、地質、水理、施工と、全ての分野が密接に関係しているので、ダムは取り巻く環境によって全部個性が違うので、合理的結論を得るということを目標にディスカッションしていました。それが、すごく刺激的で充実した毎日だったと思います。

広い視野から物を見ないと失敗する

中野: 土木研究所の研究集団には、すごい人たちがいらっしゃったのですね。廣瀬利雄さんも以前インタビューでお聞きした時、「君たちが設計したダムをその通りに造るから世界に類のない最先端のダムを設計してくれ」という依頼が来たとおっしゃっていました。

中川: 研究室では、新しいもの、独創的なものを追求していました。新進気鋭の研究員が日々外国の知識を吸収しながら、新技術を次々と開発していました。私は、とにかく広い視野から物をみないことには絶対に失敗すると思っていたので、こうして徹底的に議論するというスタイルが気に入っていました。だから、私も社会の役に立つ、崇高な仕事に誇りをもってやり抜こうという気持ちになったのです。京都しか知らない田舎者が東京でいろいろな人に出会って、それはもうびっくりという感じでした。(笑)

ダム現場で理論と実際の違いを痛感する


市房ダム(撮影:だい)

中野: 一人で3個、4個のダムを任されたということでしたが、その頃はどこの現場に行かれていたのですか?

中川: 球磨川上流の市房ダムへは、調査段階から本体打設に至るまでに設計の打ち合わせのために数回訪れました。当時は、東京から行くとなると夜行列車で九州に行き、朝になって鹿児島本線を南下して八代で乗り換え、そこからまた3時間ほど汽車に揺られて、丸々24時間かかるという旅程になり、現地に着く頃には睡眠不足で疲労困ぱいでした。到着後すぐに現場を回ってから、夜、事務所と打ち合わせをやる訳ですから、とにかく眠かった思い出がありますね。

中野: 現場でのお仕事はどんな感じでしたか?やはり研究所とは違うという感じですかね。
中川: 事務所側には、私から「ああして、こうして」とポンポン言う訳です。そうすると向こうも大学出たての若造が偉そうに、現場のことなど何も分かっていないと陰で言うのです。そういうのはこちらにも聞こえきますが、だからといってこちらの口も止まらない。それだけ仕事に対しては情熱がありました。これは私の責任なんだからという気持ちも強かった。

中野: そうですね。やはり最新の技術とか理論では譲れないところがありますよね。

中川: 私の場合、できるだけ実験で現象をみて、その現象をどのように論理化するかというところに重きを置いていました。河川構造物研究室から篠崎の大型水理試験所に行った際には、ダムの大型模型を作り、放流設備の機能を検証する水理実験に取り組み、その結果から実物に改良を加えてより的確な構造を見い出せるよう工夫すると共に、そこから共通した問題を見つけて体系化し、標準化する努力もしました。ただそうした過程から設計理論が得られたとしても、それを実際に応用するとなると、理論の延長だけでは必ずしも満足なものが得られないという事を痛感しました。

中野: ダムの大型模型でも雨量解析の実験の時と同じように行われたのですね。

中川: そういうことです。実験結果からモデルが出てくる訳です。それを納得できるというか、論理性のあるモデルにつくり上げていくのが研究であり、私が技術者として取り組んできたことです。
 しかし、これまで何度かは自分の判断の誤りに気付いた経験があり、その都度、修正を余儀なくされ、自分の至らなさを反省しながら技術者人生を歩んできました。一例が矢木沢ダムでの経験です。


矢木沢ダム
失敗例に学ぶ

中野: どのような失敗例があったのですか?

中川: 1960年代前半に矢木沢ダムの非常用洪水吐きの設計を行いました。ここでは、堤頂に設けた洪水吐きから右岸の山腹に沿った水路で導流して、下流の沢に向けてスキージャンプ式で放流するようにしました。調節ゲートには、リップ形状や水密性の自由度の高いテンターゲートを選びました。水理実験まで行い、その有効性を確認して現地説明に臨んだのですが、阪西徳太郎所長から「このような危ないゲートは使えない」と一喝されて、その場でローラーゲートに変更になりました。所長は「設計荷重が常時作用するゲートについては、脚柱の剛性いかんによっては容易に変形する可能性があるので、荷重が一点に集中するゲートは好ましくない。一方、戸溝にしっかりと支えられた複数のローラーに荷重分散される型式が望ましいのは自明の理である」とおっしゃられた。ゲートの水理機能の点での優劣に拘っていた私にとっては、「理にかなうことが技術の基本である」というその教えには、まさに目から鱗が落ちる思いでした。
 後に、由良川の和知ダムのテンターゲートの脚柱の座屈による流失事故が発生した際には、私も事故調査委員として現地に赴きましたが、あの時の阪西所長の英断を改めて肝に命じた次第です。

新しい学科の設置で再び大学へ呼び戻された

中野: その後、建設省を退官されて京都大学の防災研究所に戻られたとのことですが?

中川: 先程お話しした恩師の石原先生から京大に戻ってこないかとお誘いがあったのです。先生とは、卒業した時から、東京へ来られるたびにお目にかかっていろいろお手伝いをしていたので、声が掛かりました。
 当時、京大では、時代の要請により新しい学科の設置、例えば、衛生工学や交通土木工学科が出来る時でした。石原先生はそれで外部のめぼしい人物、まぁ私を除く優秀な人に片っ端から大学へ帰ってこいと働きかけをしておられたのです。土木研究所の河川研究室には芦田先生がいらしたが、その人も私より先に京大に戻られていました。その他、私の先輩、同級生たちも5人ほど大学へ引き戻されていました。
 私は大学の先生なんて自分には務まらないから現場に出ようと思っていましたが、最後に「京都に戻って親孝行したらどうや。親不幸ばっかりしてるやろ。どうせおまえは大学でもアウトサイダーやから、のんびりやっていたらいい」と口説かれました。それでまた大学へ帰ってきたのです。

防災研究所でドクター論文を

中野: 大学に戻られてからドクターをとられる訳ですね。

中川: 京大の防災研究所の助教授として赴任したのですが、博士論文を出すまで4年も掛かってしまいお恥ずかしい限りです。結局のところ、論文のネタが尽きていたので馴染みのある河川構造物の関連で、各種の流量配分工の機能設計でお茶を濁したのですが、この間は水理実験所で様々な仕事をしました。新設される降雨実験装置の設計では、図面は外注するにしても歩掛かりを計算したり、宇治に新設される研究所の部屋割を担当させられたり、種々雑多な仕事に携わっていたので論文に時間が割くことが出来ませんでした。そうこうするうちにその次の年は、国際水理学会が京都で開かれることになり、それも自分で計画を全部立てて、外国と交渉したりする仕事をしていたので、ろくに論文を書ける時間がなかったと言い訳をしておきます。そのうちに土木工学科の教授で来いと言われて、ポンと教授にさせられ、とてもアウトサイダーどころじゃなくなってしまいました。

中野: 着任早々、いろいろ仕事を任されて、論文提出に時間がかかってしまった訳ですね。

中川: 大学で何をやるかを悩みましたが、運よくチャンスが巡ってきて、アメリカのMITとフランスのトゥールーズ工科大学へ、それぞれ半年ずつ派遣されることになり、折しも大学紛争が激しい時期だったので、学問的な面では、海外でそれこそ真面目に課題に取り組む時間が貰えたことが良かったと思います。京都にいたら、毎日、活動家の学生を相手に研究どころではなかったでしょうから。

中野: 海外留学ではどのようなことを学ばれたのですか。

中川: MITでお世話になったIppen先生にはいろいろと大学で教えるということを学ばせて貰いました。先生は学生に対して研究室ではすごく開放的ですが、厳しいところはすごく厳しい。その頃、先生は70歳近かったのですが、夜中2時ころまで机に向かって勉強しておられる。そういう熱心なところや学生に接する姿勢が、日本の大学の先生とは全然違いました。本当に自分が苦労してこられたから、人を大事にする。その代わり研究に対しては、すごく厳しいのだと。私も大学の教官である以上、そういった姿勢でずっと臨まなければいけないのだと思いました。

河川構造物周りの水理現象の研究は人任せにはできなかった

中野: ご自身の研究テーマもそこでいろいろつかんで来られた?

中川: 防災研の時代から、河川構造物の周りの水理現象からは離れることが出来ませんでしたので、河床に関して砂の流れをみる、例えば橋脚の洗掘問題とかですね。これは本四架橋の工事に当たり、明石海峡大橋とかでやりましたが、そういう他の人がやっていないことで、それが理論的に確立されていないものを自分で見出して研究するというのが大事ではないかと。

中野: そうですね。自分で探してやるというのはなかなか難しいことですね。

中川: 分かり易い問題、そういうのは皆が飛びついてくるので、私はすぐ手を引くのです。他人に任せておけと。自分は、他の学習をしてまたその次の課題を見つけるようにしました。

ダム検証委員会の座長へ

中野: 研究テーマから話が変わりますが、国交省で行われた「ダム検証委員会」について、どういうきっかけで委員長になられたのか、その経緯をお聞きしたいのですが…。

中川: 今も続いているので詳しくは言えませんが、ご存じの通り、平成21(2009)年、民主党政権になってから、出来るだけダムに頼らない治水というものが主要な政策として挙げられ、当時の国交大臣の前原さんは、八ッ場ダムの建設中止問題とかで大きな波紋を投げかけていました。問題の1つは、ダムの建設が地元との補償交渉等で暗礁に乗り上げて、なかなか進まないこと。その間に莫大な国費が無駄になっているのではないか。だから、ダムの建設による治水効果とかよりもコストが安くて、効果の発現が早期に期待されるような対策を見つけて打ち出すという意図で、ダムの検証委員会が提唱されたのです。


 たまたま京都の政財界に顔の利く、もう60年くらいつき合っている友人が居るのですが、彼が前原国交大臣に「一遍、中川に会ってみろ」と勧めたそうです。それで前原氏も京都大学卒業ですから会うことになって話を聞きました。私は、これまでダムはいろいろと有効に利用されてきているので、一方的にダムは良くないとは言えない。予断をもってダムの是非を問うというのはおかしい。それは絶対にやったらだめだと言いました。
 有効なものは有効。無駄があるとすれば無駄を失くす努力をする。客観的に妥当かどうかを判断するならばということで、委員会の座長を引き受けることになってしまいました。実際、委員の選定も任されたのですが、その頃は、ダム推進の立場だった人、ましてや官庁出身の人は絶対にダメという風潮でした。大学の先生でもそれに振り回されてしまったので、私が座長になりましたが、メンバーをみて、新聞があんなもの全部ダム賛成派じゃないかと。私の経歴もすぐわかるから、ダムの親玉みたいな奴が委員長だと。そういう批判も受けました。

中間とりまとめまで1年かかった

中野: そんな経緯だったのですか。委員会では、平成22(2010)年には中間とりまとめが出ましたが。

中川: そこまで来るのに1年。外部の有識者ヒアリングをやりましたが、その人たちの中にはダムが要らないという人もいるけれど、そういう人も含めて全員から話を聞きました。10人の委員も一人ずつプレゼンテーションをやって各自意見を述べてもらいました。
 検証の手順は、治水対策を例にすると、まずダム案と、ダム以外の河川・流域で考えられる代替案を立案し、その実現性、安全度、コストなどの概略評価により、一次選定を行い、その選定手法を単独、あるいは組み合わせによる立案で検討し、さらに抽出した対策案をいくつかの評価軸ごとに評価して二次選定を実施。それについて総合的な評価を加えて対策案を選定するというものです。利水や不特定(流水の正常な維持流量)についても同様な手法によって対策案を選定し総合評価してダム案の採否を決定するというものです。
 これらの作業はガイドラインに沿って事業主体が行い、その判断結果を添えて報告書を提出してもらう手順です。

中野: すごく慎重に検証するのですね。

中川: さっきも言いましたように、できるだけダムに頼らない手法を探るということで最初からダムがダメということではないのですから、しっかりと検討したということでないといけない。方法論としては、ダムもあるし、河川改修もある。その流域全体の中で、それに代わる案があるどうかを提示して代替案と比較しました。何を評価基準にするかといった、評価軸が重要で、そこから検討したのです。

時間がかかるがダム検証は大事なこと

中野: 中間報告までが1年、検証はその後も続いたのですよね。

中川: 実際にダムの検証、個々のダムについてやり出したのは、平成23(2011)年3月です。それは13回目の会議ですけど、そこから始めて今まで4年半かかっています。何故それほど時間がかかるかというと、まず各ダムの事業主体からの検証検討結果報告を受けて、それについて有識者会議のメンバーの意見を聴取して、最終的には、その結果に基づいて国土交通大臣が対応方針を決定する。そういう段階的なプロセスを踏んできたからです。
 検証対象になったダムは83基ありますが、そのうち71基が終わった時点で、47のダムが事業継続と評価され、24のダムは計画中止となりました。

中野: 詳しく検証されたのですね。

中川: 治水なら治水、利水なら利水とか個々のダムについて目的別にやっていったのです。有識者会議というのは事業者からの検証報告会を経て精査していくので、内容に不明瞭な点がある事項とか、疑問点があると、差し戻してもう一度復活させて説明を聞く。そういうことを繰り返したのですけれど、今はまだやっている最中だから、個別のことについてはっきりしたことは言えません。

中野: 大変な作業ですね。取り組まれた時にはどう思われましたか?

中川: ダム事業の検証というのは、これからはどうしても必要だと思います。これをなくしてしまうと、何かタガが外れたみたいになるのではと心配です。計画する側としては、今は出来なくてもいつか出来たら良いのではという気持ちも出てくる、お役所的には、すぐに決まるものではないから、とりあえず必要性がある以上は計画を出しておくと、そんなことになるのではないかと。だから、タガを外しちゃうと、必要でない計画案までが乗っ懸る恐れがあるという訳です。実際に需要予測や事業費等をしっかり確かめ、このような曖昧さを失くすことが非常に大事だと思います。

中野: こうしてきちんと検証するのは大事ですね。今まではとにかくダムを造ろうという一面もあったのでしょうか。

中川: ダム計画が、当初の計画通りに進めば良いのですが、そうなっていないから、途中で様々な問題が起こってくるのです。治水でみるとこの先の30年くらいの整備計画内に、ダム完成の可能性があり、治水の効果が発現できるというならば、ダム案を選ぶということで洪水に対して効果があるので事業継続という判断になるのです。
 ところが、多目的ダムでは、ダムという1つの施設で、治水以外の目的、例えば発電とか利水とか維持用水とかを1つの事業計画で実現することを狙っていますから、当然のことながら他の代替案は、これを単独なり、あるいはいくつか組み合わせるにしても、それに比べると、コストも治水効果も非常にすぐれているということにならざるを得ません。

ダムの今後の技術開発は

中野: 委員にはいろんな方がおられるので様々な意見があって、座長として大変なですが、引き続き検証をしていただきたいと思うのですが、これまでのダム検証のご経験から、今後の技術開発といったことに対しては、どういうお考えをもっておられるのでしょうか。

中川: ご承知のように、ダムを新設することは今はもう難しくなっています。一つには、ダム建設に適したサイトが非常に少なくなっているということ。それから、計画した段階から完成するまでの間で、水源地周辺の住民の意識が高く、敏感になっているということでどうしても身構えてしまう。従って、巨大なダムを新しくつくるということは、ある一部の地域を除いて非常に難しいという訳です。
 水の需要がこれから非常に高まっていくような地域、例えば、寒冷地が少しずつ温暖になって、従来の農業が変化してくるようなところ、北海道とか。そういう地域を除けば、かなり難しくなるのです。そうなると既設ダムの機能の強化を図る再開発が重要になってきます。天ヶ瀬ダムも一例ですが、今後はそういうものが主体になるのではないかと思います。



中野: 先生もダム技術センターで再開発委員会に関わっておられるので、そういった方向にダムは進んでいくべきだとお考えなのですね。

中川: 平成18年に、私はダム技術センターの委員会で座長をお受けして、再開発の課題、技術的な課題と方向性をまとめさせて貰いました。同じくらいの時期に、日本大ダム会議もダムの再開発の検討をしていました。その頃から、今後のダムのあり方としては、既設のダムに新しい機能をもたせたりして改造するという計画が出てきていますが、現実にはいろいろ問題が起こって来ます。

中野: 既設ダムに新たな機能を足すにしても、直すにしてもいろいろな技術や知識も要るだろうし、とても難しいとは思います。
中川: それに懸念材料はもう1つある。既設のダムには、施設の老朽化とか、堆砂による貯水容量の減少とか、必ずしも前向きでないものも含まれているので、それをプラスになるようにして、長寿命化を図ろうというのだから、もともとのそのダムの役割からすると、マイナスになった分を補うとか、何とか軽くしようという発想になる。確かにメリットはありますが、そういう効率のいい対策をどう生み出すかという方法がとても難しい。だから、そこのところを工夫しなければ。

中野: 運用でも工夫してダム群の連携を図ったり、いろんなことを考えてやっているとは思いますが、ダムをリフレッシュするというのは大変ですね。

中川: 老朽化が進行しているダムの本体とか関連の施設、設備。そういうものの維持管理も非常に深刻な状態になっています。もう20年もしたら、設置して40年以上経つようなゲートはいっぱいありますから、今までは造ることだけで良かったけれど、これからはそうじゃなくて、どうリプレースして、長期的に使っていくかが大事。そのためには十分な保守管理の体制が非常に大きなポイントになると思いますが、どうにも手薄で。自治体なんか、ほとんどお金がない。財政的なバックアップが出来てないですよ。それも非常に大きな問題だと思いますね。

若い技術者へ伝えたいこと

中野: 橋や道路、ダムにしてもインフラ整備というのは、きちんとメンテナンスしていかなければいけないと思うのですけど、これからを担う若い技術者に伝えたいことがあればお聞きしたいのですが…。

中川: 結構いいかげんに育ってきた私ですから、人に偉そうなことは言えないけれど、気を遣うことを厭わずにというのをお願いしたい。先程も言いましたが、ダムの設計図とかは建設コンサルなんかに出します。その結果、提出された図面を見て、そのまま造られることもある訳ですが、大事なのは、その間のチェック機能だと思うのです。マニュアル的に、そのまま通していって、現場で実際に施工されると全然違うということがないようにして欲しい。それには気付くことが大事だし、それ以前に気を配っておくこと。ダムは大きいので、全体をみるのは相当に大変。設備そのものだけなら、ある程度分かっていれば良いのですが、全体にどういう影響を及ぼすかまで予見することが出来るかどうか。そういう配慮が、やっぱりデスクだけでやっている人にはみえていない。昔は、ほとんどの技術者が現場でそういうことをよく教えられて判断が出来るようになっていた。そこが非常に大事ですが、現場が少なくなった現状は、そういう育て方が出来ないところが悩みの種だと思います。そういう点では、ダム工事総括管理技術者、あのシステムというのは期待が出来る。論文だけでなく現場にも行って評価し資格を与えている。

CMEDがダム技術者の誇りになるように

中野: CMEDは試験が難しいですね。

中川: 実際の現場経験がないといけないから。1社だけでなく、会社の壁を越えて技術者同士が現場でみんなコンタクトして、お互いに困ったことを議論し合っているので、すごい大きな力になると思います。だから、ダム技術がちゃんと伝承される。個々ばらばらだったら伝承しないでしょう。土木のすばらしいところは、建築の場合と違って、完成しても1人ずつの技術者の名前は出ない。ダムに従事した人全ての力の結晶だから。それでこそパブリックなインフラだと思うのです。先程も話しましたが、設計図だけを見ていて見逃すようなミスをしてはいけません。ダムを造る人にとっては、この資格が一つの誇りになるような価値を見いだして欲しい。みんながその資格をとるために頑張るという。そこを私は誇りにしたい。誇りということで思い出したのが、初めてケニアに行ったのが昭和52(1977)年かな、そこから関わってもう40年になるのですが、JICAのプロジェクトでアフリカのケニアで大学を創設したことがあります。私が旗振り役をやりましたが、結果的に自分自身がとても達成感を味わえた体験をしました。

ケニアに大学を創設した

中野: 大学の創設とは、どういうプロジェクトですか?

アフリカの途上国はほとんどがヨーロッパの植民地でした。ケニアはイギリスの植民地。そこにはポリテクニークといって、日本だと工業専門学校に相当する技能者を養成する学校がありますが、大学は1つしかなくてナイロビ大学だけでした。生活にもイギリス流が浸透していますが、もとが階級社会なのです。大学にはケニア人の優秀な人が入ってきますが当然人数は限られています。卒業すると全員が高級公務員として政府が雇って、その下には、今言ったようなポリテクを出た技能者を使って、道路などのインフラの整備をケニアの建設省ではやっていました。

 それでいて資格社会ですから、何でも国家試験を通らないといけないのです。それに受かったら等級ごとにサラリーが決まるのです。そういう社会だから、大学やポリテクの教育は、皆が試験に受かることばっかり考えていて、日本の予備校のような感じなのです。そのような教育だと頭には何も入らないし、技術も身につかない。
 これではいけないというので、日本でいう技術大学校に相当するジョモ・ケニヤッタ農工大学というのを創立したのです。ここでは、農業の近代化や農村の生活環境の改善を指導する実践的な技術指導者を養成することが狙いですが、途上国ですからいわば職業訓練校に毛が生えた程度でスタートしました。ところが、教育を行うに当たっていろいろな障害が出てきたのです。


創立当時のジョモ・ケニヤッタ農工大学(「中川博次教授退官記念誌」より)
ケニアでは基礎から教えた

中野: 言葉の問題とかでしょうか?

中川: 教育内容の問題です。技術的なことを教えるのに、学生には理系の基礎科目である数学・物理・化学といった知識が乏しく、そこから教えなければならなかった。学生は国家試験に合格するのが最大目標ですから、基礎的な教育はシラバス(講義計画)外だというので当初は、すごく抵抗がありましたが、基礎学力があれば応用力も身につくことが学生にも理解され、しばらくするうちに他のポリテクニークよりも国家試験の合格率も向上したのでこの教育方法が定着しました。ケニアでこれがすごく評価されました。

中野: 途上国支援は、急がば回れなのですね。

中川: それからもう1つ、大学は研究するところですが、日本と同じような研究をさせたらいけないということ。これは、ダム事業をやるのと同じでその地域のニーズや資源環境に適合したものでなければいけない。そこで現地適合型の技術を唱えて、ケニアの農業やインフラ整備に必要な幾つかのテーマをJICAの少ない予算、1年間40万円位で適正技術についての研究をやらせました。

現地で役に立つ教育を

中野: 現地に根付いてくれるかどうかが大事なことなのですね。

中川: 大学教育でも、留学生を日本に受け入れるのに最初は京大に連れてきて博士号をとらせた。しかし、日本で書いた論文のテーマをそのまま持ち帰ってもケニアで現実に仕事になるかというとそれは違う。だから、ケニアにあるいろいろな資源、技術や機械、人材を使って、ケニアの社会に役立つものを生み出すためにドクターをとるように指導することも大切ではないかと考えるようになりました。
 当初は、京大と岡山大学だけでしたが今ではドクターコースにケニアからの学生を受け入れている大学は日本で15校くらいに増えています。日本の大学でドクターをとってケニアに帰ったのはもう50人以上になっています。先程話した農工技能者は私がやっていた時で1,000人くらいしかいなかったけれど、今では35,000人にも増えて非常に大きな力になっているようです。

これからの土木に必要なこととは

中野: 10年以上関わってこられたのですね。

中川: 京大の土木に木村教授という方がおられますが、彼がアフリカ中に道路を建設する方式として、昔で言う「道普請」という方法を普及させました。これはアフリカだけでなく、パプアニューギニアからフィリピン、ミャンマーなど。世界中の途上国でやるようになりました。そうすると、日本のJICAだけじゃなくて、一般の大企業とか、アジア開発銀行とか、世銀とかがお金を出すようになったそうです。ちゃんとしたものを現地の人々で造る、耐久性の試験も全部大学の先生がやるという方法で信頼を得ていったのです。
 こういうところに、これからの日本の土木系の生きる道があると思います。単に工事だけをしていたら本当の教育はできない。やはり地元の人といろいろと接触して、現地に根付く教育の機会を増やすように。そういった形で飛び込むということが必要かと思います。

中野: そういうところに日本の教育が生きてくるのは嬉しいですね。土木はインフラ整備を通して伝えていくと。

中川: 何よりも自分から生み出す楽しさを教えることが大事。学生が自分で考えてやる、そういうことじゃないと定着しないのではないかと思います。自分の頭で考えたらどんなことでも納得できるし、失敗したらそれが経験として生かされるし。何も行動しない人からは、全然何も湧いてこないと思います。やってみたら、面白いと。そういう気持ちが一番だと思いますよ。土木をやる人は、私心を捨てて世の中にどれだけ自分が貢献できるかという志が大事だと思います。

尊敬する土木人については

中野: 先生が尊敬する土木人はどなたですか?例えば、田辺朔郎さんとか、青山士さんとか。

中川: 京大の土木の講座は、私が田辺朔郎先生の4代目になります。明治30年に建った赤れんがの2階建ての校舎がありましたが、私は田辺先生がおられた部屋に退官するまでいました。もうボロボロで、天井から雨が落ちてくるし、夏になったら蚊に刺されて堪りませんでした。フロアも全部木製でドアもそうだし、歩くとギシギシ音がしました。新館が出来た時には「中川先生も新館に移られたらどうですか」と言われましたが、「いや、わしは古いところにいる」と。すると「京大には偏屈な先生がいますな」と陰口を言われましたが、離れませんでした。
 田辺先生の偉いところは、自分が大学時代に琵琶湖疎水の論文を書いてから、実際に京都へ来て、さんざん苦労して疎水の工事をした。それは京都の復興にものすごく役に立ちました。工事が始まってから100年以上経っても疎水は生きているのです。その後も、母校東京大学の教授に帰られましたが、5年度に敢然と北海道へ渡って鉄道を敷設し広められました。それは、自分のそういう能力を広く社会の発展のために使いたいという強い志で、こうと決めたら脇目も振らずやられた。人間としても本当に立派です。

中野: 本当にそうですね。行動力も、精神力も、その人の貫こうという気持ちに、人もついて行くでしょうし。中川先生も建設省から大学に戻られて良かったのでは。

中川: それはどうでしょうか。私のように成り行き任せに過ごしてきた者としては、何とも言えないです。私はたくさんの周囲の人に助けられ育てて貰って来ました。一方、学生には私のいろいろな考え方とか、人生観とか、そういうものを吸収して、第一線で活躍してくれていることほど嬉しいことはありません。
 土木偉人は、それぞれ大変な苦労をしていたのでしょうが、実は、本人は生き生きしていたのではないかと思います。天職というか。その苦労によって生かされているというか。そうした社会の役に立とうという意識に触れて人が集まってきたのかも知れません。

中野: 中川先生もたくさんの方に慕われておられるので、かつての土木偉人に肩を並べておられると思いますが…。


中川: そんなことないです。比べるべきではありません。他の先生にしても、私なんかが足元にも及ばない程立派な研究をされている訳です。そうじゃないと、普通、大学の先生は務まりません。なんとか私が京大で務まったのは、いい加減なところがあったから務まったと。(笑)

中野: いい加減では、ダム検証も出来なかったのではないですか?ちゃんとした答えをうまく引き出されたのはやはり先生のご尽力によるものだと…。

中川: ダム検証は早く続きをやって貰わないといけません。これまでのようなペースでやっていると、私が生きている間には終わらないと思いますよ。(笑)
 これだけはちゃんと言っておきたいところですが、中止になった計画案には中止になっただけの筋が通った理由がありました。どれ1つ無理に中止と判定したものはありません。向こうがきちんとした理由があって計画を進めてきたのに、こっち側が一方的にそんなもの要らんと勝手に言い出したのではないと。そんな失礼なことはしていませんということです。(笑)

中野: 本日は、長くお時間を頂いてしまい申し訳ありませんでした。貴重なお話をありがとうございました。本当に勉強になりました。



(参考)中川博次先生プロフィール

中川 博次 (なかがわ ひろじ)
昭和 6年10月30日生まれ

昭和29年3月 京都大学工学部土木工学科 卒業
31年 3月 京都大学大学院工学研究科修士課程土木工学専攻 修了
31年 4月 建設省入省 土木研究所河川構造物研究室配属
39年 2月 建設省土木研究所ダム部ダム水理研究室長
39年 4月 京都大学防災研究所助教授
44年 4月 京都大学工学部 教授
平成 3 年 4月 京都大学工学部長・工学研究科長
7 年 3月 京都大学定年退官 京都大学名誉教授
7 年 4月 立命館大学理工学部教授
14年4月 立命館大学客員教授 (〜平成25年3月)

学会・社会における活動
昭和58 年4 月 ジョモケニヤッタ農工大学プロジェクト国内委員会委員長(JICA)
(〜平成12 年3 月)
62 年4 月 ダム工事総括管理技術者認定事業審査委員(〜平成12 年3 月)
平成 5 年 6 月 社団法人土木学会副会長
9 年 4 月 国土庁水資源開発審議会会長(〜平成 13 年4月)
13 年 4 月 国土審議会委員(〜平成 16 年 2 月)
17 年 6 月 関西ティー・エル・オー株式会社 代表取締役社長(〜平成27 年7 月)
17年 8 月 「ダムの再開発検討委員会」座長、ダム技術センター(〜平成 18 年)
19年 4 月 一般社団法人 ダム・堰施設技術協会代表理事会長(現在まで)
21 年12月 国土交通省「今後の治水対策のあり方」有識者会議議長(現在まで)

表 彰
昭和 51 年5 月 土木学会論文賞
平成 1 年7 月 外務大臣表彰(国際技術協力)
10年4 月 ジョモケニヤッタ農工大学名誉博士号授賞(ケニア)
14年2 月 文部科学大臣国際交流功績者表彰
15年5 月 土木学会功績賞
22 年5月 瑞宝中授賞受賞

著書・学術論文
著書 10 冊、 学術論文 293 編(和文 168、英文 125)

(平成28年2月作成)
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