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横塚尚志(よこつかしょうし)さんは,昭和46年東京大学を卒業後,建設省へ入省。以後,長きに亘ってダムをはじめとする様々な河川行政に携わって来られました。
本省では,河川局開発課係長,河川計画課長補佐を経て,昭和61年に関東地方建設局荒川上流工事事務所所長に就かれた後,昭和63年財団法人ダム技術センターに出向,首席研究員としてダム技術の研究にあたられます。その後,平成3年から,関東地方建設局,建設省大臣官房政策企画官などを歴任。さらに,平成9年に就任した建設省河川局開発課長の時,長良川河口堰建設問題で,ネット上で公開討論した際,実務に携わられました。その後,省庁再編により国土交通省となってから,平成13年に北陸地方整備局長に就かれた後,平成14年に退官。その後,財団法人河川情報センターを経て,平成18年に財団法人日本ダム協会専務理事に就任。以降,平成26年まで当協会の顔としてご活躍されました。
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今回は,中央省庁におけるダム事業との関わりや地方における行政の中で経験した河川事業などを通じて,土木技術者の果たすべき役割,我が国のダムが抱える諸課題にどう向き合うべきかなどの問題について,ご意見を伺って参ります。 (インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)
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土木を希望ではなかった
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中野: 大学へ進学するにあたり,東大の工学部土木工学科を目指した理由はなんですか?土木を目指すことになったきっかけからお聞かせください。
横塚: 自分では土木をやるつもりは全然ありませんでした。素粒子物理か分子生物学をやりたかったのです。私は親父も学者だったし,とにかく学者になろうと思っていました。ところが東大に入って直ぐ大学紛争が勃発した。私なんかノンポリもいいところですから,しばらくは学校にも行かずにいましたが,そのうち来年の受験をやるとか,やらないとか,言い出しました。先生もどう対応していいか判らず混乱していました。あんなことは初めてでしょ,日本の歴史の中で。
中野: 東大そのものが大きな混乱の中にあった訳ですね。
横塚: それを見て大学の先生にもちょっと幻滅を感じたということもあって,先生になるのは諦めました。それで,理学部はあきらめて工学部にしようかと思い始めたのです。東大は1年半教養をやった後で専門を選ぶので,工学部はどうかと。それでも最初に考えていた方向も諦めきれずに,原子力工学科ではどうかと思ったわけです。当時,親父の東京大学時代の友達が原子力工学科の教授をやっていました。向坊隆という有名な先生で,後に東大総長にまでなった人。それである時話を聞きに連れて行ってくれたのです。そこで親父が,息子は今駒場にいるがもうすぐ本郷の方に行く。そこで原子力工学がやりたいと言っているのだが,と話すと,その向坊先生が親父に向かって,「横塚さん、それはやめておいたほうがいいですよ。うちなんか出たって、IHIにも入れない」と言うのです。
中野: IHIは人気があったのですね。
横塚: 当時,造船が一番華やかな時代でしたから,IHIや日立造船とか,そういう鉄に関わる産業が人気でした。先生が一流企業に入れないぞと言うので困りました。しかし,機械とか電気というのも自分ではちょっと気が乗らない。それで,将来何になろうかと迷ったのです。
中野: そうですよね。
横塚: 最初に思っていた学者,大学の先生になるのをやめたら,行くところがない。普通に民間企業に入る気もないとなると,先生と民間企業の間にあるのは役所だから,ならば役人になろうかと。
中野: そこで方向転換したのですね。
横塚: それで,行政官を目指そうとなるのですが,工学部で行政官といったら,土木しか行く所がないのです。そういう訳で土木工学科に入ることにしました。
中野: どちらかというと仕方なく,ですか。ちょっと意外でした。で,建設省に入られて,ダムに関わるというのはどういう経緯だったのでしょうか。
横塚: 大学の卒論は鋼構造で,スチールの座屈の研究をしていました。その頃,何をやっていたかというとひたすら鉄の柱を壊すこと。東大には3 000tプレスというのがあって,当時日本で一番大きなプレス機ですが,それを使って鉄の柱を押しつぶす試験をしていました。
中野: プレス試験ですか?
横塚: そうです。鉄の柱といっても一抱えくらいある大きな物。長さが10mくらいで,プレス機で上から押して圧力をかけ,最終的に壊れるまでに1日かかるので,その間にデータを採る。それを毎日1本ずつ。その柱,当時のお金で1本10万円したそうです。
中野: 当時としては,すごい金額なのですね。
横塚: 大卒初任給が2万円ぐらいの頃。それを毎日1本ずつ壊して,解析データを計算して結果と合っているか調べました。それが後に,鋼構造の示方書に取り入れられることになりました。当時,座屈は学問的に未熟な分野で余り規定もなかった。その研究を私の指導教官がやっていたのです。まだ大学院生だった長谷川さんという人で,後に東大の教授になるのですが,残念なことに若くして亡くなられてしまいました。そんな経緯がありましたから,建設省に入った時も河川ではなく道路がやりたかったのです。
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入省後,県へ出向する
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中野: 河川ではなかったのですね。
横塚: 道路は花形でしたから,みんな行きたがりました。当時の人事担当者に天邪鬼な人がおられて,道路と言った者は河川に,河川と言ったら道路にという具合に,本人の希望とは関係なく配属されという事情もありました。
中野: そうなんですね。特に選ばれて河川ということではなくて。
横塚: ダムに行ったのも,私の希望というわけではありませんでした。私は最初,中部地建に入って河川計画課に居ましたが,本局はちょっとだけで,実際に勤務したのは木曽川上流工事事務所でした。そこから滋賀県に出向しました。当時,新人は一度,県に出していたのです。
中野: 建設省から県庁に出向という形で行くのですね。
横塚: 昔,内務省時代には,県というのは内務省の1つの出先機関でしたが,戦後になって県が自治体として独立したため,県の土木部長とか課長に対して,国から人を送りにくくなった。とは言え各都道府県の土木部長職とか課長職のポストについてはある程度押さえておきたい。そこで,県在職の実績を作っておきたいということで,県への出向を始めたのです。組織的に送り始めたのは,私の年次辺りからだと思いますが。
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現地視察で湯川ダムへ
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中野: なるほど,それで滋賀県に。
横塚: 滋賀県に2年いて,それから本省の開発課の係長で建設省に戻りましたが,その時もいざ戻るまでは治水課になるか,開発課か,計画課か全くわかりませんでした。結果として,たまたま開発課ということになったということです。入省以来4年間,ダムには全く関わったことがありませんでしたが。
中野: 本省ではどのようなことが印象に残っておられますか。
横塚: 私は河川局開発課企画係長になってすぐに,湯川ダムに出張しました。湯川ダムは長野県が施工していたダムですが,止水対策上の問題がありました。当時土木研究所でダム構造研究室長をされておられた飯田隆一さんが現地視察に行かれるということで,佐々木才朗課長から「いい勉強だから行ってこい」と言われたのです。私は,入省してから4年間全くダムとは無縁だったので,うかつにも「飯田さんって誰ですか」と聞いてしまいました。課長からは,「ばかやろう。ダムの世界で、飯田さんを知らないで務まるのか」と言われてしまいましたが。
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湯川ダム(撮影:s_wind) |
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中野: 最初に行かれたのが湯川ダムですか。
横塚: そうですね。飯田さんのお供をして,湯川ダムをじっくり見た訳です。飯田さんにはダムはこういうふうに見るのだということを教えて頂き,得がたい経験になりました。開発課では,最初に企画係長で予算総括を担当しました。そういうと偉そうに聞こえますが,ホントは各事業係の方がずっと強いのです。各係がいろいろと苦労して獲得した予算を,ただ単純に足し算するだけの係でした。しかし,本人にとっては開発課全体のシステムが頭に入るので,とてもよい勉強になりました。
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開発課という部署は勢いがあった
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中野: 当時の開発課というのは役所の中で力のある課だったのでしょうか。
横塚: 必ずしもそうではありませんが,とても潜在力のある,活力に満ちた組織だったと思います。実際に物すごく伸び盛りの組織で,予算もどんどんつきました。私は予算総括だったのにそろばんが苦手だったものですから,先輩がそろばんを弾いていた時代に,1個2万円もする高価な電卓を買って,そろばんの代わりに使いました。
中野: 電卓というものが出始めたばかりの頃ですね。
横塚: 当時の電卓は給料の半分ぐらいもしたのに,8桁しか表示されませんでした。役所の予算というのは1 000円単位で計算しますので,1 000円単位で8桁ということは,999億9 999万9千円までは計算できるということになります。8月まではそれで間に合っていましたが,9月に補正があって当初予算の5割ぐらいの補正予算がつきました。そうしたら,とたんに8桁の電卓では役に立たなくなってしまった。
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予算総括でダム事業に関わる
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中野: ダムにとってはすごい時期ですね。
横塚: その年のダムの予算は,当初予算では1 000億円に達せず,砂防課の予算よりも少ないくらいでしたが,補正予算のほとんどが開発課に回ってきた結果,あっという間に1 500億円にもなってしまったわけです。ダムに対するニーズが如何に大きかったのかという証だと思いますが,それだけのニーズがありながら,それを満たすだけの予算がなかなか獲得できず,本当のところは諸先輩方も随分ご苦労されていたのだと思います。
中野: 予算総括をされていた時に一番伸び盛りになったということですね。
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5ヵ年計画作成に携わった調査係長時代
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横塚: 次は,調査計画係長になった時,治水事業5ヵ年計画の策定がありました。5ヵ年計画を作る時,ダムの場合には,その前提として長期水需給計画というものを作ります。何年までにこの地域で,何t水が要るということを予測して計画を立てる。例えば,この地域は5年後に20t水が要る。だけど,このダムが出来ないと10tしか出ませんといったら,普通,国民は毎年渇水になると思う。必ずそうなるかと言うとそうではないのですが,当時,全国で渇水が頻発していましたので,バケツを担いで,毎日水をくみに行くことになるのではないかと心配になるのです。
中野: そうですね。
横塚: 長期水需給計画でこの地域には10年後に何t水が要るということになると,ダムをこの時点までに造っておかないと渇水が起こる可能性があるので,待ったなしです。従って,それに基づいて具体的な事業計画を策定するということになるので,長期水需給計画は5ヵ年計画の大前提になっているということになる訳です。
中野: そういう意味ではとても重要ですね。
横塚: 作業としては,とても大変でした。パソコンがない時代に,経済成長の伸びとか,各地域の人口予測などに基づいて水の需要を予測して,その需要を満たすように,各地域,各年次毎に,事業費を見ながら,ダムを張り付けていく。1回やればそれでOKというわけにはいきませんから,何回でも,何回でも,各地域の水需給の達成度と事業費とのバランスがまあ良いかな,というところまでその作業を繰り返すわけです。まあ,予算が幾らでも使えれば比較的簡単なわけですが,当然のことながら,予算上の制約はかなりきついわけですから。
中野: ダム需要が一番旺盛な,忙しい時を過ごされていたという感じですね。
横塚: 開発課の係長を3年やってから,江戸川工事事務所の調査課長として,関東地建に出ました。そこでは,北千葉導水路事業というのが最盛期でしたから。行ってみたら北千葉は,工事はしていましたが,調査課長の仕事としては概ね済んでいることばかりでした。そこで,というわけではありませんが,それまで余り手の付けられていなかった中川の総合治水対策の立案を行ったわけです。結局ここには2年も居ませんでしたが,結果としては,余り北千葉には係わることなく終ってしまいました。それどころか,次の年の11月には大きな台風に見舞われて綾瀬川が氾濫し,激特事業を行うことになりました。まあ総合治水対策の検討の成果が直ぐ生かされることになったわけですが,これが江戸川時代の最後の仕事になりました。
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難しい水資源の予測
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横塚: その後関東地建の企画課長を経て,河川計画課の課長補佐で本省に戻りました。ここでは,水資源担当でした。私は既に開発課で長期水需給計画というものを経験していて,中身をよく分かっているだろうということで,今度は計画課の補佐の立場で,次の5ヵ年計画に向けた長期水需給計画の検討を行うことになったわけです。ところが5年経つ内にかなり状況が変わっていて,幾ら数字を積み上げても水需要がなかなか積み上がってこないのです。
水資源といっても,日本の場合には,そう単純なものではありません。外国では,特に欧米のような大陸国家の場合には,ダムにある水が水資源の全てです。ダムに1億tの水があれば,1億tの水を使える計算。しかし日本の場合,水資源の基本は川を流れている水です。まずは川を流れている水を利用して,それだけでは足りない場合に限って,その足らず前をどこからか補給して使う。昔は溜め池で,今はダムです。川を流れている水は時々刻々変化するし,年毎にその状況も違います。雨が沢山降った年は川の水も豊かですし,降らない年は乏しい。日本の農業は,そんな季節毎,年毎の変化に柔軟に対応して営まれてきました。ところが,工業用水とか上水道になるとそうは行かない。基本的に何時も一定の取水をしなければならないのです。夏になって雨が全然降らないから水を飲まないようにしましょうという訳にはいかないし,水が足らないから工場の生産を止めるということも出来ない。江戸時代までに,何もしなくても利用できる川の水は全て農業用水として利用し尽くされていましたから,戦後,特に高度経済成長期になって膨大な都市用水の需要が発生すると,ダムに頼らざるを得なくなってしまったのです。その要請に応えるために一生懸命ダムを造ってきたわけですが,その需要が余り大きくは見込めなくなった。
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中野: それでは,もう水資源開発のためのダムはいらなくなったということですか。
横塚: 必ずしもそうではありません。これから話はちょっと複雑になりますが,先ほど日本の水資源の基本は川の水で,季節毎の変動や年毎の変動が大きい,その中で何時でも一定の水利用をするためにダムからの補給が必要なのだ,という話をしました。つまり,水の供給というものはかなり偶然に支配されているということです。雨が沢山降った年はダムがなくても全然困りませんし,ダムが幾ら沢山あっても肝心の雨が降ってくれなければ水は使えません。
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日本の場合にはその年毎の差がかなり大きいので,どんな場合にも自由に水が使えるという訳にはいかないのです。そこで,10年に1回起きる程度の渇水までは,支障なく水を使えるようにしましょう,という基準で水資源の開発を行っています。そういう基準にはなっているのですが,実際にそれを厳密に守ろうとすると,大きなダムを造っても使える水は少ない。それでは逼迫している水需要に対応できない。そこで少々それを緩めて,つまり利水安全度を落として,水が沢山出るようにしていたのです。私は将来の水需要がそう大きくならないのではないかということが分かった時,まだ余力のある今こそ,その余力を使って利水安全度の向上を図るという方向に政策転換すべきだと提案しました。しかし,残念ながら,それは建設省全体の声にはなりませんでした。そういうわけで,現在でも所要の利水安全度を有している川はほとんどないというのが実態です。
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国際関係担当になる
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中野: 5ヵ年計画が終わったら今度は国際担当になられるのですが,どのような仕事をされたのですか。
横塚: 当時,ODA関連の事業で河川関係の事業のニーズ自体は相当にありましたが,実際にやっていたのはほとんど農業関係のものばかりで,主に農水省が対応していました。河川局は国内需要で手一杯で,案件が持ち込まれても,ほとんど断っていました。そうした中でもこれはやるべきだと思ったものは,課長にも局長にも相談しましたが,なかなか先には進まないのです。
中野: 何がネックになったのですか?
横塚: 海外案件だと,まずJICAに話が行く。そこでフィージビリティスタディーをやってその事業が可能だということになると,今度はOECFの方に窓口が変わって,円借款ということになります。その場合,実際にフィージビリティスタディーを行うのは民間のコンサルタントなのですが,そこはそれ国と国との交渉なのですから,全部民間人に任せてしまうという訳にはいかないのです。そこでコンサルタントを監督し,相手国との交渉を行うために,作業監理員という者を派遣します。しかし外務省は人手が少なくてとても手が回りませんし,そもそも専門の技術を持った人もいない。そこで,そういう人材の豊富な関係省庁に話が回ってきます。ところが,その作業監理員が出せない。次から次へと国内の案件が出てくるので,とても海外案件には人を回せなかったのです。まあ何とかやりくりして,海外案件の拡大には努めましたが。
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中国水利電力部長が建設大臣に直接依頼に
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中野: 需要が一杯あったから手が回らないのですね。その頃のエピソードはありますか?
横塚: たまたま課長が外出していた時,大臣室から国際協力案件で声が掛かかりました。国際協力も今では立派な室長さんがいますが,当時は課長以外で国際協力を担当していたのは私しかいなかったので止むを得ず行って見ると,大臣室に女性が一人座っていました。聞くと,中国の銭正英さんという女性大臣で,水利電力部の部長さんとのことでした。中国では,部長は大臣なのです。「観音閣ダムを建設したいので日本に協力して欲しい」と建設大臣を尋ねてこられたとのことでしたので,「何故外交ルートを通さないのですか」と聞くと,「観音閣ダムは三峡ダムの練習台のつもりなのだが、まだ三峡ダムのプライオリティーが中国内部では高くなくて、外務部の査定で落とされたので、直接お願いにきた」と言うのです。そこで,「日本には急がば回れという諺があります。日本の場合は、先に建設省が対応すると必ずこの案件はつぶされます。私がこれから外務省に行って説明してきますから、それまで待っていてください」と言って,外務省に行って「今、うちに中国の大臣が来ておられますが、霞ヶ関の坂を降りる時に右に回るはずが、運転手が間違えて左に曲がって、外務大臣のところに行くはずが建設省に来てしまいました。案件はこういうもので建設省としてはとてもいい案件なので、もし外務省のほうがよろしければ、うちは全面的に協力したいと思っています。これから大臣をそっちに行かせますから、よろしく」と伝えました。
中野: 筋を通すことが大事ですからね。
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銭部長の現場案内をすることに
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横塚: その後,銭部長をご案内して,利根川水系を見て回わりました。ご自身もダム技術者であった銭部長に,「何故アメリカのRCCではなく、日本のRCDを選択されたのですか」と聞くと,「アメリカのRCCは粗雑だから信頼できない。中国は信頼性の高い日本のRCDを学びたいのだ」と言われました。沼田まで来た時,「ここは良いダムサイトだ」と言うので,「ここにはダムの建設計画があるのだが、実際には建設が不可能な幻のダムサイトなのだ」と説明すると,「何故ダメなのですか」と聞くので,「ここにダムを造ると2万人が水没するからだ」と答えました。すると,銭部長には「えっ、そうなの。観音閣ダムでは4万人が水没する。三峡ダムでは80万人だ」と言われてしまいました。 |
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中野: なんだか桁が違いますね。
横塚: 「そんなに水没が多くて、観音閣ダムは出来るのですか」と聞くと,「水没するのは全員農民だから」と言うのです。ダムが出来ると,電力を起こすことが出来る。その電力を使って工場を作ることが出来る。水没する農民は全部そこに雇われることになって所得が倍増するので,誰も反対するものはいないのだ,ということでした。中国は,そうやって今の中国を作ってきたのかもしれません
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観音閣ダムの技術指導に尽力された飯田さん
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中野: 何回か現地に行かれましたか。
横塚: JICAに引き継ぐ前に,建設省として4回の調査団を派遣しました。当時の開発課長の豊田さんに相談して,ダム技術センターに全面的に協力していただきました。丁度飯田さんがダム技術センターの理事になっておられたので,飯田さんには中心的な役割を担っていただきました。私が行ったのは最後の4回目ですが,私の役どころは中国の外務部を説得することでした。日本のODAは要請主義なので,幾ら日本側がいいと思っても,相手国の政府から要請がないことには,どうにも動きが取れないのです。外務省とは十分に調整を取った上で,要請フォームまでこちらで用意して,中国では水利電力部と一緒に外務部まで行って,正式な要請を出すように説得したわけです。「中国政府が正式な要請を出せば、わが国としてはそれに応じる用意がある」と。そうしたら,一発でそれに応じてくれました。
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中国人は学習が早い
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中野: RCD工法の技術指導を中国でされたのですか。
横塚: 私が中国に出向いた主たる目的は外交的な折衝でしたが,そのついでに若干の講義もしました。その時の率直な感想としては,この先30年や50年で中国に追いつかれることは絶対にないと思いました。しかし中国人の学習能力はやはり高かったのですね。あっという間に技術を習得して,今では我々の強力なライバルになっています。全く余計なことをしてしまったものだと,大いに反省しています。
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ダムの絶頂期にダムセンターへ出向
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中野: それから荒川上流工事事務所長を経て,ダム技術センターに出向されたのですね。
横塚: ダム技術センターでの私の直属の上司は,企画担当理事をされておられた飯田さんでした。柴田さんや岡本さんなどもおられて,まさに百花繚乱状態,わが国のダム技術の全てがダム技術センターに結集しているという感がありました。ああいうのを本当のシンクタンクというのでしょうね。
中野: ダムセンターにはダム技術のあらゆる問題が持ち込まれていましたからね。当協会でもダム技術者研修で講師をされておられますが。
横塚: 小平の建設研修センターで行われていたダム協会主催のダム技術者研修では,私はRCD工法の講義を担当していました。何しろ当時最先端の技術ですからね,建設業界での人気も大変高くて,それこそ研修センターで一番広い階段教室に座りきれないくらいの受講者がいました。今から見ると,本当に隔世の感があります。
とにかく,ダム技術センターにも降るように仕事があった。企画部長の私の仕事は,仕事を断るのが仕事だと言われていたくらいですから。今考えてみると,あの時が,ある意味ではダム事業の絶頂期だったのかもしれません。ただ,物事は皆そうですが,絶頂期が一番危ないのです。ダム事業についても,長良川河口堰に対する批判が高まってきていて,ダム事業全体としてもとてもシビアな時代に入っていたのだと思います。
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治水の問題でダムの働きが理解されていない
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中野: 先ほどのお話の中で現役時代の最後の方はダムへの批判が高まり,ついには見直しへ繋がっていくのですが,原因は何だと思われますか。
横塚: ダム事業の絶頂期には,逼迫する水需給に対応しなければならないという差し迫った事情がありましたから,国民の皆様の支持を得ていましたが,本当の意味でダムの役割が国民の皆様に理解されていたからだったのかというと,必ずしもそうではなかったということなのではないでしょうか。
例えば,治水の問題一つとってみましても,ダムによる洪水調節が国民の皆様の十分なご理解を得ているとは思えません。何故なかなか理解されないのかと言いますと,ダムによる洪水調節の効果が直接には目に見えないからです。人々の目に触れるのは,ダムによる洪水調節が終わった後の姿だけです。ダムの効果は,それと,もしダムが無かったらどうなっていたのかという仮想現実との差ということになる訳ですが,後者は実際には起こっていない訳ですから,ダムの効果と言っても,なかなか実感として湧いてこないのです。
その上,日本のダムの場合には,往々にして,洪水調節をやっている間に放流したりします。これが,下流で洪水被害にあっている人々の誤解を増幅します。ダムが放流なんかするから,洪水が起こったのだと。実際にはダムがなければもっと被害は拡大していたのかもしれないのですが,そんなことは普通の人々には分かりません。やはり普通の人々にとって,洪水を防ぐということと,ダムから放流するということは,矛盾した出来事なのです。
確かに,大陸国家のダムの場合なんかでは,せっかくの洪水の水をダムから放流するなんていう勿体無いことはしません。しかし,日本のような地形条件,気象条件の国では,発生する洪水の規模は余りにも大きく,洪水調節に使える容量は余りにも小さい。洪水調節の間でも適切に放流していかないと,直ぐにダムは満杯になって,もっと悲惨な事態に陥る可能性があるのです。しかし,そんなことは,国民の皆様にキチンと説明していかないと,到底ご理解は得られません。我々は今まで,そういう地道な努力を怠ってきたということなのではないでしょうか。
中野: それを理解して貰うのには,どうしたらよいのでしょうか。
横塚: ダムによる洪水調節がなかなか理解されないのは,その効果が目に見えないということが大きな原因ですから,それをどうしたら目に見えるような形に出来るかということだろうと思います。今まで私たちはダムの洪水調節効果を説明するのに,ハイドログラフというものを持ち出して,ダムが無ければこのくらいの洪水になっていたのを,ダムでこれだけカットしたからこのくらいの洪水で収まったのだという説明をしてきました。学術的には正しい説明なのですが,それではこれで普通の人が納得するのかというと,それは別問題です。
まずハイドログラフなるものが何ものなのかを説明するのに一苦労する上に,そういう説明をするのは洪水が終った後です。普通の人から見たら完全に後出しじゃんけんで,言い訳としか受け取ってくれません。やはり洪水の最中に,どういう洪水が起こっていて,それに対してダムが何をやっているのか,それが妥当なものなのかを直に見て貰わなければ,本当の意味での理解は得られません。実際に洪水調節の現場では,ギリギリの状況の中で超人的な働きをしています。放流する時などは,特にそうです。そういう現場の姿を直に見て貰えれば,今の状況とは随分違ったものになるのではないでしょうか。
もう何年前になるでしょうか,嵐山が洪水に見舞われた時,ダムマニアさんがネットで実況中継をしてくれましたね。もしあれが無かったら,日吉ダムの放流が桂川氾濫の犯人にされてしまうところでした。渡月橋辺りの旅館の方は,ダムが放流したから水に浸かってしまったのだと言っていたのに,ダムマニアさんが実況中継して真相を明らかにしてくれたお陰で,旅館の方は黙ってしまった訳ですから。
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利水問題について国民の皆様の理解は得られているのか
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中野: ダムによる洪水調節を理解して貰うことが難しいことはよく分かりましたが,利水問題については国民の皆様の理解は得られているのでしょうか。
横塚: 日本の水資源というものが本質的に大変難しいものであるということは,前にお話ししました。あの難しさというのは主に自然現象から来る難しさなのですが,これにもう一つ社会的要因による難しさが付け加わるので,事態は一層複雑になります。水資源の開発を行う時には,水計算というものを致します。いつ何時,どこそこには,どのくらいの水が流れているので,どのくらいの水利用が可能だ,といった計算を,過去の流況データに基づいて行う訳です。計算そのものは加減乗除くらいしか使いませんから至って単純なのですが,実際にはとても難しい。日本の水利秩序というのは江戸時代には既に出来上がっているのですが,それが現在でも連綿と引き継がれています。本当に細かい約束事が多いのですが,それを全部組み込んだ形でないと,水計算は出来ない。
しかも,水利権というのは基本的に先者優先ですから,既得権者の了解が得られなかったら新規の分は出せないのです。既得水利権に支障を与えないように新規を出す。これがとても難しいのです。こういう水利秩序というのは,大は利根川などという大きな河川から小はその辺りの小さな川まで,それぞれ川にその川特有のものがあって,関係者以外はよく分からない,というところに大きな問題があります。渇水になって,渇水調整を行うなんて時にも,そういう関係者だけの閉鎖的なグループの中だけで物事が決まってしまう。これでは,国民の皆様にご理解を頂くなどということは,到底望めるものではありません。
水利秩序を構成している約束事の中には,今日的な目で見て合理性を欠いているものも少なくありませんから,こういうことをすると一時的には大きな混乱を招くことになるかもしれませんが,やはりこういうものを全て白日の下に晒して,水利を閉鎖的なグループから解放するということをしていかないと,国民の皆様のご理解は到底得られないのではないでしょうか。
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ダムは環境破壊か
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中野: 治水,利水とお聞きしてきましたが,ダムは環境破壊と言われることについてはどのように思われますか。
横塚: 確かに環境問題はダムの泣き所ですね。ダム反対派がダムを攻撃する時も,大抵,環境問題を持ち出します。そうすると国民の皆様も,そうだダムは悪い奴だということになりますし,ダム関係者は口を閉ざしてしまう。どうもダムの関係者は,環境問題だというと必要以上に卑屈になるところがありますね。
しかし,本当にそうなのでしょうか。世の中にラムサール条約というものがあります。水鳥の生息地として国際的に重要な湿地を保護するための条約です。自然保護の中でも重要な位置を占める国際条約ですが,この重要な湿地の一つとして渡良瀬遊水地が登録されるという事件がありました。渡良瀬遊水地は利根川の治水・利水上の要請から造られた立派な人造湖です。環境保護と人造湖,この関係を一体どう考えたら良いのでしょう。ラムサール条約は決して人造湖を否定していません。鳥の目から見たら,もともと人工の水辺と天然の水辺の区別など無いのですから。自然公園法で保護の対象となる自然の風景地としても,天然湖沼と並んで,多くの人造湖が指定されています。天然湖沼の中にも,ダムと同じような造られ方をしたものは沢山あります。堰止め湖と言われる湖沼ですが,例えば中禅寺湖などは二万年前に男体山が噴火した時,川が堰き止められて造られたものですし,芦ノ湖は3千年前に神山が崩れて造られたものです。大正池などはその名の通り,大正時代に焼岳が梓川を堰き止めて造ったものです。堰止め湖とダム湖の違いは,前者が神様によって造られたものであるのに対して,後者は人間が造ったものということだけです。果たして鳥はこの両者を区別するのでしょうか。
確かにダムを造ると,自然を大きく改変することになります。改変ということそのものは,ないに越したことはないのかもしれません。しかし,それが環境破壊かと言われると,本当にそうなのでしょうか。環境破壊とは,改変された後の姿が,元の姿に比べて著しく悪くなることを言うのではないでしょうか。ダムによる環境の改変は,元の姿より著しく悪くなるのでしょうか。確かに元の姿とは違います。しかし新しく出来た姿はラムサール条約に登録されたり,自然公園法によって保護される程のものでしょう。決して環境破壊などではないと思います。ダムの関係者も,ダムを造る時に環境保護に努めることは当然のこととして,環境問題に対してもう少し自信を持っても良いのではないでしょうか。
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マスコミへの対応について
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中野: 今までのことも含めマスコミ対応についてお聞きしたいのですが,長良川河口堰の問題で,朝日新聞とネット上で公開討論したことがありますね。
横塚: あの時,長良川河口堰におけるアユの遡上問題は,いろいろと調査した上で順調に遡上していると確信していました。しかし,通常の場合説明責任は企業者側の方にあって,それを完全には説明しきれずにいました。ああいう問題で,完全に相手を納得させるというのはなかなか難しいのです。一方,マスコミがああいう問題を取り上げる場合,何時も誰かからの伝聞という形で書くものですから,マスコミには説明責任が発生しないのです。ところがあの時,たまたま朝日新聞がミスを犯しました。「窓」という記事の中で,アユが遡上していないと,自分の意見として書いてしまった。それで,朝日新聞側にも説明責任が発生してしまったのです。
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長良川河口堰をめぐるネット論争
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中野: ネット論争はどのような経緯だったのですか。
横塚: 最初はネット論争などをやるつもりはありませんでした。しかし当時の官房長のところに決済を取りに行った時「新聞社に抗議文を送ってもどうせ社長は読まない。木で鼻をくくったような答えしか返ってこないだろう。しかし、今度は向こうに説明責任がある。何か向こうが逃げられないような形をとれないのかね」と言われるので,「ネットでも使いますか」と軽い気持ちで言ったところ,意外にも「おっ、いいね、それは」と乗ってきてしまったのです。「では、インターネットで直接流して公開でやりましょう、そうしたら向こうも逃げられません」ということになって,大臣まで了承をとったわけです。ところが,課長以上はみんな賛成でしたが,長良川で苦労した実務者連中は全員反対でした。
中野: なぜ反対だったのでしょうか。
横塚: やっても勝てる訳がないと思ったのでしょう。何しろ,それまで負け通しだった訳ですから。実際の公開討論の原稿は課長補佐が書いたのですが,1回がすごく長いので,相当勉強しなくてはいけない。そうすると体力勝負です。その時,気がついたのですが,マスコミというのは確かに一見会社組織をとっていますが,それぞれの記者は独立した個人だということです。これは良いところでもあるし,悪いところでもあるのです。新聞がダムのことを記事に書いたとして,社長がそれを止められるかというと,止めることは出来ません。しかし,こういう時にその記者が会社の組織的な支援を受けられるのかというと,それもないのです。結局は,それが勝負を決めることになりました。朝日新聞は自分の方からこの論争を打ち切って,その後二度とこの問題を取り上げることはありませんでした。国会の方でも,これ以降長良川河口堰の問題が取り上げられることはありませんでした。
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中野: 一人では情報量も少ないから,どんどん孤立していった訳ですね。
横塚: 弾が切れたら戦争はできません。あちらの方は一人ですから,やっていくうちに書くことにも疲れてきますし,ネタ切れにもなってくる。こちらも大変ですが,組織でやっているので情報も,人手も多い。それが勝負を分けたということですね。余談になりますが,当時,この論争を一番迷惑がっていたのは,他のマスコミでした。こんなことをネットでやられては,だんだん新聞やテレビを見てくれなくなるのではないか,ネットでニュースを見た方が良くなるのではないかと,本当に心配していました。
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長良川河口堰 |
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マスコミは 最初につかんだニュースを流す
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中野: 確かに今はネットニュースが盛んに流される時代になっていますね。
横塚: まあ,彼らが心配していたほどにはならなかったのですが,彼らと話しているうちにいろいろなことに気が付きました。まず,どのマスコミにも必ず確信犯的なダム反対者がいるのですが,彼らについては,こちらがどう説得してもどうにもなりません。何しろ,彼らにとってダムに反対することは宗教的理念みたいなものですから。
しかし,記者の人たちが全てそうだという訳ではありません。むしろ確信犯的なダムの反対者は少数派で,良識を持った記者が大部分なのです。こういう記者は話せば分かるのですが,一回出した記事を書き直させるのはとても大変です。マスコミの中も役所と一緒で,前例−つまり過去に書いた記事−に強く縛られているからです。ですから,最初が大切なのです。最初にこちらの思うような方向に記事を書かせてしまえば,後は簡単だということです。特に朝刊の記事に間に合わせることがとても重要です。その点,役所はやり方がとても下手です。正確な情報を出したいと考える余り,どうしても対応が遅くなってしまう。それをマスコミ側から見ると,役所は情報を隠しているということになってしまうのです。マスコミが好きなのは情報をくれる人で,嫌いなのは情報を隠す人です。この習性をうまく利用すれば,マスコミは決して敵にはならないはずです。
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「できるだけダムに頼らない治水」 について
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中野: 民主党が政権を担った時に,「できるだけダムに頼らない治水」という政策を実行したと思いますが,あれはどう考えたら良いのでしょうか。これまでの話と何か関連はありますか。
横塚: 先ほど,多分に私たちの説明不足のために,ダムの果たしている役割が国民の皆様に十分理解されず,結果としてダムから民意が離れた,という話をしました。今回の「できるだけダムに頼らない治水」という政策は,そこをうまく利用されて,ダムに反対すれば票が集まるという選挙対策用のプロパガンダとして使われたという感が否めませんが,そうは言っても,治水対策上ダムはいらないのだと正面切って言ってきたわけですから,私たちもこれを正面で受け止めて考えてみなければならないと思います。
「できるだけダムに頼らない治水」という政策を実行する過程で,ダムの代替案が沢山出されましたね。ダムが治水対策上本当にいらないのかどうかを考える場合には,それらの代替案と比べて,ダムが劣っているのかどうか,そういうことを考えていかなければならないと思います。そうなると,わが国の長い治水対策の歴史の中で,それらの代替案がどのような位置付けにあったのかを,ダムも含めて,まず検証してみなければならないでしょう。わが国の治水対策は一朝一夕に出来上がったものではなく,長い歴史的な過程の中で必然的に形作られてきた訳ですから。治水の中でダムがどんな役割を果たしているかきちんと踏まえないと議論ができないのです。
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農業国家としての治水対策
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中野: それでは,そもそも我が国の治水対策はどのように形作られてきたのでしょうか。
横塚: 一般的に江戸時代までは,洪水を河道内に完全に封じ込めるだけの力がなかったものですから,各河川とも霞堤や乗越堤などによってある程度以上の大きな洪水に対しては堤内地側での湛水を許容しつつ,稲は後背湿地に植えて,人は若干高い自然堤防の上に居住するとか,輪中堤や控堤などの工夫をすることによってできるだけ被害を軽減するという,農業国家に適合した治水形態をとっていました。
稲はもともと南洋の植物で,沼の中で育っているような植物ですから,水に浸かっただけではそんなに被害は出ないのです。フローティングライスと言って,洪水に遭うと茎が伸びて,穂先だけは水の上に出るような稲が今でも東南アジア辺りでは栽培されています。もちろん収量は大分落ちますが。ただこういう稲も土砂には弱い。洪水で土砂に埋もれてしまうと収量は零になってしまいますので,河畔林などを川沿いに植えて,洪水に遭っても土砂だけは流入してこないような工夫も凝らしていました。
中野: 先ほどの話はいわゆる氾濫原対策と呼ばれるものだと思いますが,河川側の洪水防御対策としてはどのようなものがあったのですか。
横塚: 河道の掘削や堤防の築造などのいわゆる河川改修は,それこそ古代から連綿と行われてきました。特に戦国時代から江戸時代にかけて盛んに行われるようになったのは,当時,瀬替えと呼ばれていた放水路です。関東平野の利根川東遷事業や河内平野の大和川の付け替えなどはその代表例ですが,そういう大工事を行ってもなお,江戸時代の技術水準では,河道だけでは中小洪水に対応するのが精一杯で,大洪水の時には氾濫を許容せざるを得なかった。そこで,先ほどの氾濫原対策が必要になる訳です。
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これは一種の氾濫原対策とも呼べるものですが,ある面では河川改修の一環と言っても良い工夫がもう一つありました。遊水池と呼ばれるものです。例えば,江戸時代に利根川の治水の要になっていたのは,中条堤と呼ばれる遊水池です。今の妻沼付近に横断堤防を築き,その先で利根川を絞っておいて,妻沼側の利根川を無堤状態にしておいたものですから,利根川の洪水は妻沼に貯留されることになって,下流に流れる洪水の量を大幅に削減できたのです。この中条堤を研究した学者の説によると,約50km2の地域に1億t以上の貯留が可能だったというほどの大遊水地でした。
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一方,荒川の方にも同じような工夫がありました。浅草から三ノ輪にかけて日本堤という横断堤防を築くと共に,隅田川の対岸に隅田堤を築いて千住以北を漏斗状に囲うことによって,荒川の洪水が江戸の地に及ぶのを防いでいたのです。こうすると日本堤と隅田堤の間の隙間から漏れてくるだけの洪水しかその下には流れてきませんから,200m程度の川幅しかない隅田川でも十分に洪水を防御することが可能だったわけです。
中野: 堤防を造らなかった側は大変だったのではありませんか。
横塚: その通りです。それまで妻沼の人達はずっと我慢して生活してきました。通常は田んぼをつくっているが,ちょっとした洪水でも溢れてしまう。そういう生活を何百年も繰り返してきたのです。ところが明治43年に大洪水が発生して,中条堤が破壊されてしまいます。溢れた洪水が東京にまで達するという大洪水でした。そうなるともう我慢しきれなくなって,中条堤の再建に反対する妻沼騒動というものが勃発致します。結局中条堤そのものは再建されるのですが,利根川との間には堤防が築かれ,下流側の狭窄部も開削されて,中条堤は事実上その機能を失うことになりました。これはその後の利根川治水に大きな混迷を生む元となりました。
一方荒川の方は,日本堤が大きな効果を発揮して,江戸時代を通じて江戸が洪水の被害に遭うことはありませんでした。その代わり千住以北は洪水のたびに水浸しです。ところが明治時代になると,政府自身がそういう状態に我慢できなくなるのです。
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工業国家へと発展するための工夫
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中野: 明治政府が進めていた工業国家建設のためですね。
横塚: 明治政府の基本的な方針は富国強兵でした。そのために,工業国家への脱皮は大きな目標だったのです。考えてもみて下さい,江戸のすぐ北には大田園地帯が広がっているのです。如何に江戸を守るためとはいえ,千住以北をただの遊水池にしておくのはさすがに勿体なかったのでしょう。ここを一大工業地帯にしようとします。農業は氾濫と折り合えますが,工業地帯にしようとするとそうはいきません。工場では重い機械を直接地面の上に設置いたします。そうすると,その地域には一滴も水を入れてはいけないということになる訳です。このことは,先般タイのアユタヤで発生した洪水騒動を思い起こしていただければ,お分かりになると思います。
中野: 工場をつくるとなると水浸しは困りますね。どのような工夫をしたのでしょうか。
横塚: 洪水を河道内で全て処理する連続堤防方式を河川改修の基本とするようになりました。明治政府は,全国の主要な河川に対して,この連続堤防方式による河川改修を強力に推し進めます。この施策は相当程度成功したと思いますが,困った問題も起きてきました。改修が進むにつれて,洪水流量もどんどん大きくなってきたのです。明治時代には水文学が未発達だったものですから,工事の基本となる洪水流量は既往最大洪水を基に決めてきました。洪水現象は基本的には自然現象ですが,人為的な側面も持っています。河川改修が不十分なため上流側で氾濫が生じているような場合には,下流側にはそんなに大きな洪水は流れてきません。
ところが,そこを連続堤防で防御してしまうと,今まで溢れていた水も含めて下流側に流れていってしまう訳ですから,その分だけ下流側で発生する洪水流量は増大することになります。既往洪水を工事の基本とすると,自ら行った工事が洪水流量を増大させて,より規模の大きな工事をしなければならなくなる。そういう改修工事と洪水流量の増大というイタチごっこを,太平洋戦争の終了時点までずっと繰り返す羽目になってしまったのです。当初3 750m3/秒の洪水流量を対象にして始まった利根川の改修工事は,3次に渡る大改修が行われた結果,対象となる洪水流量は10 000m3/秒にまで増大していました。
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ダムによる洪水調節の登場と総合治水対策
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中野: 河川改修が進むにつれて洪水流量が増大していくという歴史だった訳ですね。
横塚: 太平洋戦争が終った後,国土は荒廃していました。その荒廃した国土に,次々と台風が襲いかかります。太平洋戦争の終った直後の昭和22年には,カスリン台風が利根川を襲って,氾濫流が再び東京にまで達するという大災害が発生してしまいました。驚いた政府は,再び利根川の改修計画を改訂します。
その計画の策定には,既往最大洪水方式ではなく,折からの水文学の発達を背景にした計画降雨方式が採用されることになりました。既往最大洪水方式では,洪水流量が増大する度に計画を改定しなければならないという煩わしさと,各水系によって計画規模が異なるという不公平性の問題があったからです。新しい改修計画は,100年に1回発生する程度の計画降雨を対象にした結果,計画高水流量は17 000m3/秒と定められることになりました。
中野: 前の計画の1.7倍にもなった訳ですね。それだけ増えた流量をどうやって処理したのですか。
横塚: 対象となる洪水流量が1.7倍にもなった上に,長らく利根川治水の要だった中条堤まで失っていた訳ですから,それは大変でした。河道の掘削や拡幅,堤防の嵩上げや放水路,それに中条堤の代替策としての渡良瀬遊水地などの遊水池群など,あらゆる方策が総動員されました。そうやって14 000m3/秒までは何とか処理できるようになりました。
しかし残りの3 000m3/秒はどうにもなりません。その時登場したのが,ダムによる洪水調節だったのです。実は,ダムによる洪水調節は戦前にもありました。河水統制事業と呼ばれるものですが,この事業が対象にしていたのは,河川の局所的な防御でした。ダムによる洪水調節が水系全体の治水対策の一環として取り入れられたのは,これが初めてだったのです。他の河川でも,同じような事情を抱えていました。このため,このダムによる洪水調節という新技術は,たちまち全国に普及していくことになりました。このように,ダムによる洪水調節は,それ以外にはもう手段がないという時に登場した救世主的な存在で,わが国の長い治水の歴史の中でも最新の,革新的技術だったのです。
その後,経済の高度成長に伴って急激な都市化が進行した時,それに起因する洪水流量の増大を処理するために,排水機場の整備や保水,遊水機能の保全,土地利用規制やピロティ建築の推奨などさまざまな対策が取られました。いわゆる総合治水対策と呼ばれるものですが,これらは現代における氾濫原対策と言っても良いと思います。
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「できるだけダムに頼らない治水」 の評価
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中野: なるほど,よく分かりました。改めてお伺いしますが,「できるだけダムに頼らない治水」というのは,どういうものだったのでしょうか。
横塚: わが国の治水の歴史を振り返った後で,改めて,できるだけダムに頼らないための治水対策案を見ていただきますと,わが国の治水の歴史の中のどこかで1回は登場したものばかりで,特に目新しいものは何もないことに気付かれると思います。ダムをやめたからと言って,そう新しい方策が直ぐに見つかる訳ではないということだと思いますが,思い出していただきたいのは,ダムはあらゆる方策をやり尽くした後,最後に登場した切り札的存在だったということです。そんなに簡単に切り札を捨ててしまって,本当に大丈夫なのでしょうか。
中野: それは大変心配ですが,その後有識者会議では,個別ダムの検証を行って,事業を続けるか,中止するのかを決めていますね。そちらの方はどう考えたら良いのでしょうか。
横塚: 有識者会議では,それまでの検討を踏まえて,事業中のそれぞれのダム毎に,事業を続けるか,中止するかの検討を行いました。当該ダムも含めて,様々な治水対策の組み合わせの中で,所要の治水目標を達成できる最も事業費の低い組み合わせを採用する,というものでした。その中に当該ダムが含まれていれば,そのダム事業は継続されることになりますし,ダムを含まない組み合わせが選択されれば,そのダムは中止されるという訳です。その方法論自体はごく当たり前のもので,これまでもそういう方法で検討を行ってきた結果,事業が実施されてきたという経緯があります。
中野: それでは今までと全く一緒だということですか。それでは改めて検討する必要も無いのではありませんか。
横塚: ただ一つだけ違っているところがあります。所要の治水目標というのが河川整備計画だったということです。平成9年に河川法が改正された結果,それまで工事実施基本計画一本で行ってきた改修計画は,最終的目標を定めた河川整備基本方針と,20年から30年後を目指して整備すべき目標を定めた河川整備計画の二本立ての計画になることになりました。今回の検証ではその内,後者の短期的に整備すべきかどうかということを判断基準にして,当該ダムを継続するか,中止するのかということを判断することになった訳です。
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通常ダムは最後の切り札的な存在で,基本方針の対象となるような大洪水を処理するために計画されることが多い訳ですから,その存否を短期的に必要かどうかという基準だけで判断して良いのか,という根源的な疑問がまずあります。もちろん法律的に言えば,仮に整備計画では必要が無かったとしても,基本方針では必要だということは十分にあり得る訳ですから,今回の検証の中で中止と決まったとしても,それが未来永劫中止だということにはならない訳ですが,果たして一般の国民の皆様はどう思われるでしょうか。一般の国民の皆様はそう法律に詳しい訳ではないのでしょうから,今回の検証の中で中止と決まれば,未来永劫中止なのだと思う方が普通なのではないでしょうか。そういう中で,本当に基本方針レベルの整備が必要になった場合,果たして,今回の検証の中で中止となったダムをもう一回復活させることができるのでしょうか。
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地球温暖化と今後の治水対策
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中野: 長期的な対応として地球温暖化が大きな問題になってくると思いますが,今その状況はどうなっているのですか。
横塚: 温暖化と言うことが言われ始めてからもうかなり経ちますが,最近では私たちの身近なところでも温暖化の影響が実感できるようになりました。例えば,昔には考えられもしなかった時間雨量100mmなどという豪雨が,最近では当たり前のように降っています。時間雨量50mmくらいはもう日常茶飯事で,お陰でちょっと強い雨が降る度に下水から水が噴き出すようになってしまいました。巷の声を聞いてみても,「こんな雨は見たこともない」とか,「観測史上初」とか言う声が満ち溢れています。
昔は梅雨も台風も無かった北海道でも,今は立派に台風も来れば,梅雨もあります。特に昨年などは短期間に台風が三個も上陸するという,九州でも滅多に見られないような事態が発生してしまいました。その九州でも線状降水帯という最近急に見られるようになった気象現象によって,朝倉市を中心に悲惨な災害が発生しています。
数年前,中心気圧895hPaという猛烈な台風がフィリピンを襲いましたが,このまま温暖化が進行すれば,わが国にも中心気圧850hPaなどというスーパー台風が来襲するという予測を,気象研究所など多くの研究機関が発表しています。このまま手を拱いていれば豪雨による洪水被害は今世紀末には現在の3倍にも達するだろう,と予測している研究機関もあります。温暖化はもう待ったなしのところにまできていると思って間違いありません。
中野: それは大変な状況だと思いますが,その中で,今後の治水対策はどうしたらよいでしょうか。
横塚: 幾つかの論点があると思いますが,順不同に申し上げますと,まず計画上の問題があると思います。先ほどの治水の歴史の中でも触れましたが,現在の治水計画は,確率降雨量という概念を根幹に据えています。降雨量とそれが発生する確率との間に統計学的な関係があるという事実を基に,河川毎に所要の安全度を設定し,それに対応する降雨量を過去のデータから求めて,それに対処できるように治水施設を整備するという方法を取っているのです。
この方法によって,客観的で公平な安全度が確保できるようになった訳ですが,これはあくまで過去と同じ気象現象が未来も起るという前提の上に成り立っているにすぎません。温暖化によって気候構造自体が変わってしまえば,過去のデータは事実として厳然と存在したとしても,その意味するところは異なってきてしまいます。温暖化によって降雨強度が上昇していけば,安全度が目減りするという事態も考えられるのです。特に梅雨も台風も無かった北海道や東北の日本海側などでは,治水計画そのものを抜本的に見直していかなければならないのではないでしょうか。
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具体的な治水対策
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中野: 具体的には,どういう治水対策を考えたら良いのですか。
横塚: 近年とみに増えているのは集中豪雨ですね。梅雨でも一昔前のようにシトシト降るような雨はすっかり影を潜めて,降るとなるとバケツをひっくり返したような雨が降る。台風の時などは尚更です。そのような状況にどう対応していったら良いのかということだろうと思いますが,治水の方法というのは,非常に大まかに考えてみますと,流すか,貯めるかのどちらかしかありません。この両者には,自ら得手,不得手というものがあります。流すという方法は,シトシトと降るような雨には強くて,それこそ何日続いても構わないのですが,一時にザット降るような雨は苦手です。反対に貯めるという方法は,一時にザット降られても平気なのですが,時間には限りがあります。入れ物が満杯になってしまえばそれで終わりだからです。
いろいろな降り方をする豪雨の被害から国民の生命・財産を守るためには,一つの方法だけで全てを片付けるというのは無理で,有効な方法を如何に上手に組み合わせて使うのかが大切なのだと思います。近年とみに集中豪雨が増加し,温暖化の進展に伴ってその傾向がますます強まるだろうと考えられているわが国の状況に鑑みれば,貯めるということの重要性はますます高くなってくるはずで,「できるだけダムに頼らない」どころか,何としてでも,どこかに洪水を貯める場所を見つけていかなければならないのではないでしょうか。
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危機管理対策と予防治水
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中野: そうすると,まだまだダムの出番はあるということでしょうか。しかし,どのような施設を作っても,必ずそれを上回るような洪水は来るから,もう施設の整備は諦めて,危機管理で対応したら良いのではないかという意見もあります。
横塚: 治水の歴史の中でも見ていただいた通り,明治時代以降のわが国の治水対策は,河道の中に洪水を封じ込めることを基本に進められてきました。既往最大洪水に対しても安全に流下させられるように施設を整備するということは,そういうことですよね。いわゆる予防治水というものですが,そうなると,そもそも堤内地側に水が溢れてくることはない訳ですから,氾濫した後の対策はほとんど考えられてきませんでした。戦後になって治水計画の立案手法が計画降雨方式に変わった後でも,その考え方は基本的には変わっていません。計画範囲内のことは一生懸命考えるけれども,それを越えるような雨が降った場合のことは余り考えてこなかったのです。
河川法という法律にも問題があるのかもしれません。もともと治水施設を作るための法律として制定された河川法は,河川そのものに対してはオールマイティなのですが,一歩川の外,即ち堤内地側に入ると全く無力で,河川管理者は氾濫原のことについては全く手を出せないのです。そういうこともあって,氾濫した後の対策,いわゆる危機管理対策についてはほとんど何も考えられてこなかったのですが,施設整備を進める度に洪水流量が増大したり,なかなか施設整備自体が進捗しないためにしばしば災害が発生するようになると,さすがにこのままにしておく訳にもいかないということで,最近では発災後の危機管理対策も盛んに実施されるようになってきました。
これには地震対策の影響も大きかったのかもしれません。地震対策の方は,予防的に出来ることはほとんど無くて,危機管理対策がほとんどその全てですから。確かに危機管理対策は,施設整備に比べてその費用も格段に安価ですし,災害が起きた時に何か救助などをやっていれば,如何にもやっているなという感じで,政治的にも大変分かり易い。ダムによる洪水調節などは,せっかく大金をかけて作ったのに,普通の人にはとても分かり難い訳ですから。
そういうこともあって危機管理対策だけしっかりやれば,苦労して施設整備などしなくても良いのではないか,という意見が出てきているのもまた事実です。
しかし,本当にそれだけで良いのでしょうか。私自身も,河川情報センターに在籍していた折には「動く洪水ハザードマップ」という氾濫シミュレータを作成して,河川管理者ももう少し危機管理対策や氾濫原対策に目を向けるべきだという活動を展開した時期がありました。その当時,河川管理者側ではほとんど関心を示しませんでしたが。しかしそのシステムを用いて,例えば埼玉平野などでシミュレーションを繰り返してみますと,大規模に氾濫が発生した場合などには,ほとんど手の打ちようがないということも分かってきました。わが国のように土地利用が極度に高度化した国においては,一旦氾濫原に洪水を引き入れてしまうと,それを処理することはそう簡単なことではないのです。やはり水際で氾濫を防ぐということは大切なのだ,明治治水の方向は必ずしも間違ってはいなかったのだと思います。このことは,一昨年の常総市や昨年の北海道,今年の朝倉市などの悲惨な状況を見ていただければお分かりいただけると思います。
もちろん発災後の危機管理はとても重要です。しかし,だからと言って,それだけで施設整備に取って代われるというものでもありません。出来うる限り施設整備を行って,その上でなお発生する災害に対してはしっかりと危機管理対策を行う,要は,そのバランスが大切なのだと思います。
中野: 日本の治水の歴史からみてもダムの重要さがよくわりました。本日は,貴重なお話を有難うございました。
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横塚尚志(よこつかしょうし)氏プロフィール
昭和46年6月 東京大学工学部卒業 46年7月 建設省採用 58年4月 建設省河川局河川計画課長補佐 61年8月 建設省関東地方建設局 荒川上流工事事務所長 63年6月 財団法人ダム技術センター 首席研究員 平成3年4月 建設省関東地方建設局 企画部企画調査官 4年4月 建設省大臣官房政策企画官 5年4月 愛知県土木部河川課長 7年4月 建設省河川局 防災・海岸課海岸室長 8年4月 建設省中部地方建設局企画部長 9年8月 建設省河川局開発課長 13年1月 国土交通省北陸地方整備局長 14年7月 国土交通省退職 14年8月 財団法人河川情報センター 審議役 16年4月 財団法人河川情報センター理事 18年8月 財団法人日本ダム協会専務理事 26年7月 (株)安藤・間 顧問 29年3月 (株)安藤・間 退職
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[関連ダム]
湯川ダム
長良川河口堰
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(2017年12月作成)
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[テ] ダムインタビュー(49)足立紀尚先生に聞く「ダムの基礎の大規模岩盤試験を実施したのは黒部ダムが最初でした」
[テ] ダムインタビュー(50)山口温朗さんに聞く「徳山ダムの仕事はまさに地図にも、私の記憶にも残る仕事となりました」
[テ] ダムインタビュー(51)安部塁さんに聞く「新しい情報を得たらレポートにまとめてダム便覧に寄稿しています」
[テ] ダムインタビュー(52)長瀧重義先生に聞く「土木技術は地球の医学、土木技術者は地球の医者である」
[テ] ダムインタビュー(53)大田弘さんに聞く「くろよんは、誇りをもって心がひとつになって、試練を克服した」
[テ] ダムインタビュー(54)大町達夫先生に聞く「ダム技術は、国土強靱化にも大きく寄与できると思います」
[テ] ダムインタビュー(55)廣瀬利雄さんに聞く「なんとしても突破しようと強く想うことが出発点になる」
[テ] ダムインタビュー(56)近藤徹さんに聞く「受け入れる人、反対する人、あらゆる人と話し合うことでダム建設は進められる」
[テ] ダムインタビュー(57)小原好一さんに聞く「ダムから全てを学び、それを経営に活かす」
[テ] ダムインタビュー(58)坂本忠彦さんに聞く「長いダム生活一番の思い出はプレキャスト型枠を提案して標準工法になったこと」
[テ] ダムインタビュー(59)青山俊樹さんに聞く「相手を説得するのではなく、相手がどう考えているのかを聞くことに徹すれば、自然に道は開けてくる」
[テ] ダムインタビュー(60)中川博次先生に聞く「世の中にどれだけ自分が貢献できるかという志が大事」
[テ] ダムインタビュー(61)田代民治さんに聞く「考える要素がたくさんあるのがダム工事の魅力」
[テ] ダムインタビュー(62)ダムマンガ作者・井上よしひささんに聞く「ダム巡りのストーリーを現実に即して描いていきたい」
[テ] ダムインタビュー(63)太田秀樹先生に聞く「実際の現場の山や土がどう動いているのかが知りたい」
[テ] ダムインタビュー(64)工藤睦信さんに聞く「ダム現場の経験は経営にも随分と役立ったと思います」
[テ] ダムインタビュー(65)羽賀翔一さんに聞く「『ダムの日』を通じてダムに興味をもってくれる人が増えたら嬉しい」
[テ] ダムインタビュー(67)長谷川高士先生に聞く『「保全工学」で、現在あるダム工学の体系をまとめ直したいと思っています』
[テ] ダムインタビュー(66)神馬シンさんに聞く「Webサイト上ではいろんなダムを紹介する百科事典的な感じにしたい」
[テ] ダムインタビュー(68)星野夕陽さんに聞く「正しい情報を流すと、反応してくれる人がいっぱいいる」
[テ] ダムインタビュー(69)魚本健人さんに聞く「若い人に問題解決のチャンスを与えてあげることが大事」
[テ] ダムインタビュー(70)陣内孝雄さんに聞く「ダムが出来たら首都圏の奥座敷として 訪れる温泉場に再びなって欲しい」
[テ] ダムインタビュー(71)濱口達男さんに聞く「ダムにはまだ可能性があっていろんな利用ができる」
[テ] ダムインタビュー(72)長門 明さんに聞く「ダム技術の伝承は計画的に行わないと、いざ必要となった時に困る」
[テ] ダムインタビュー(74)岡本政明さんに聞く「ダムの効用を一般の人々に理解頂けるようにしたい」
[テ] ダムインタビュー(75)柴田 功さんに聞く「技術者の理想像は“Cool Head Warm Heart”であれ」
[テ] ダムインタビュー(76)山岸俊之さんに聞く「構造令は,ダム技術と法律の関係を理解するのに大いに役に立ちました」
[テ] ダムインタビュー(77)毛涯卓郎さんに聞く「ダムを造る人達はその地域を最も愛する人達」
[テ] ダムインタビュー(78)橋本コ昭氏に聞く「水は土地への従属性が非常に強い,それを利用させていただくという立場にいないと成り立たない」
[テ] ダムインタビュー(79)藤野陽三先生に聞く「無駄と余裕は紙一重,必要な無駄を持つことで,社会として余裕が生まれると思います」
[テ] ダムインタビュー(80)三本木健治さんに聞く「国土が法令を作り,法令が国土を作る −法律職としてのダムとの関わり−」
[テ] ダムインタビュー(81)堀 和夫さんに聞く「問題があれば一人でしまいこまずに,記録を共有してお互いに相談し合う社会になってほしい」
[テ] ダムインタビュー(82)佐藤信秋さんに聞く「国土を守っていくために, 良い資産,景観をしっかり残していくことが大事」
[テ] ダムインタビュー(83)岡村 甫先生に聞く「教育は,人を育てるのではなく,人が育つことを助けることである」
[テ] ダムインタビュー(84)原田讓二さんに聞く「体験して失敗を克復し, 自分の言葉で語れる技術を身につけてほしい」
[テ] ダムインタビュー(85)甲村謙友さんに聞く「技術者も法律をしっかり知らないといけない,専門分野に閉じこもってはいけない」
[テ] ダムインタビュー(86)前田又兵衞さんに聞く「M-Yミキサ開発と社会実装 〜多くの方々に支えられ発想を実現〜」
[テ] ダムインタビュー(87)足立敏之氏に聞く「土木の人間は全体のコーディネーターを目指すべき」
[テ] ダムインタビュー(88)門松 武氏に聞く「組織力を育てられる能力は個人の資質にあるから,
そこを鍛えないといけない」
[テ] ダムインタビュー(89)佐藤直良氏に聞く「失敗も多かったけどそこから学んだことも多かった」
[テ] ダムインタビュー(90)小池俊雄氏に聞く「夢のようなダム操作をずっと研究してきました」
[テ] ダムインタビュー(91)米谷 敏氏に聞く「土木の仕事の基本は 人との関係性を大事にすること」
[テ] ダムインタビュー(92)渡辺和足氏に聞く「気象の凶暴化に対応して,既設ダムの有効活用, 再開発と合わせて新規ダムの議論も恐れずに」
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