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ダムインタビュー(81)
堀 和夫さんに聞く
「問題があれば一人でしまいこまずに,記録を共有してお互いに相談し合う社会になってほしい」

 堀和夫(ほり かずお)さんは,昭和28年に東京大学工学部土木工学科を卒業され建設省に入省されます。研修後は新人ながらも藤原ダム工事の現場事務所に配属されて以来,相俣ダムをはじめ矢木沢ダム,川治ダムのダム建設に携わって来られました。昭和30年代から40年代は我が国のダム事業の最盛期とも言える時期で,幾つものダム事業が同時に行なわれ,活況を呈していると言える一方で,大きな住民の反対運動のうねりにも直面する,良くも悪くも激動の時代でした。堀さんは,そうしたダム事業の最先端で数々の現場を渡り歩いて,困難な用地交渉を乗り切りって着工に漕ぎ着ける等,様々なご苦労を重ねて来られました。その後は,一旦,建設省河川局開発課に戻られますが,国土庁水資源局へ出向,北陸地方建設局長,国土庁水資源局長を歴任され,昭和59年に退官後は,熊谷組に入られて常務取締役,専務取締役,副社長を経験された後に引退されておられます。


 今回は,ダムインタビューに登場された何人ものダム事業経験者を,直接現場で指導されたご経験をお持ちのダムの先達である堀さんに,我が国のダム事業の歩みを振り返りながら,これからのダム事業に関わる若手技術者への期待を語って頂きます。

(インタビュー:中野 朱美 文・編集:事務局 写真:廣池  透)

学生時代は戦時中

中野: 学生時代のことからお聞きしたいと思いますが,大学で土木工学科を選ばれた理由は?

堀: 私は,旧制中学2年生の時,戦争中で,勤労動員として,主に出征兵士の留守宅の農家の稲刈りを手伝いに行っていました。刈った稲を干す「はぜかけ」という仕事をやり,3年になったら今度は工場へ行きました。中学3年,4年の間はほとんど工場に行って働いていました。勉強をする時間もありませんでした。工場では工作機械の操作で,旋盤で削ったり,手作業では「きさげ」と言って,たがねとかのみで鉄材を仕上げる作業をやっていました。最終的には非常にハードな金属で仕上げ,1 000分の1ミリぐらいの精度に仕上げる仕事で機械はかなりマスターしたつもりになりました。こうした機械を使う技術の応用は,土木分野だろうと考えていました。敗戦した昭和20年に,私は中学の4年生で地方におりましたが,一面焼け野原になった日本は,本当に惨憺たる状況が各地にあり,何か我々に出来ることはないかと考えていました。その後,災害が頻発したことがあり,近所の河川はひと雨降ると大洪水で米がとれない。電気は供給が不安定で停電が頻発し,もっと電気だ,石炭だという声も強く,大変な生活をしていました。進駐軍が来てからは,各地に貨物列車でいろんな重機械を運んでいくのを見ました。ブルドーザーとかスクレーパーとかバックホウ,そういうものを運んでいました。それをどう使うか,私には全然判りませんでしたが,そういう力の差で日本は負けたのだと思ったので,これからは土木の時代が来るなということで土木を選んだような気がします。

中野: 大型の土木機械によるパワーを感じられたのですね。

堀: それに,どういう訳か判りませんが,自分としては本質的に土が好きだったのです。鉱石とか山が非常に好きで,地質に非常に興味がありました。高等学校で大学の志望も決まってない時に,地質の先生の講義が非常におもしろくて,そちらにのめり込んでいた時期がありました。地質と化学は特に一生懸命勉強していました。それでも,地質の専門になって将来,飯が食えるかというと,なかなか大変だし,土木がいいだろうと,何となく思ったのです。

中野: なるほど,地質に興味があったということですね。

コンクリートの勉強から土木へ

堀: 大学に入ってから,特に興味を持ったものは,橋梁やコンクリートでした。コンクリートについては,国分正胤先生という大先生がおられ,さらにその先生の吉田徳次郎先生が時々来られて,我々に講義というか,雑談をしてくれる時間がありました。そのお話が非常に魅力的だったのでコンクリート工学に惹かれたという訳です。

中野: 吉田徳次郎先生はとても偉い方で,インタビューでもよくお名前をお聞きします。

堀: 話が非常に面白かった。コンクリートは,セメント以外は全部自分で作って施工するものです。その当時,世の中に存在していたコンクリートは,今からみたら,よくこれで持つなぁと思うような,粗悪なコンクリートだったのです。それで,この品質をとにかく向上させなくてはいけないということで,良いコンクリート作りにのめり込みまして,当時大学は三年制ですから2年,3年と,質の良いコンクリートが作れる人間になろうと思って,コンクリートの勉強から土木の世界に入っていったのです。

中野: コンクリートと関係しているので,ダムに惹かれたのですね。

堀: とにかくコンクリートを使える分野というと,当時ダムが最大だった。それでダムの世界に入ったのです。橋の方からもお誘いを受けたのですが,最初にコンクリートに行ったので,それからずっと続いています。

建設省でダムの現場を希望する

中野: コンクリート研究室におられたのですね。一番の思い出をお聞かせください。

堀: 思い出というと実習ですね。1年の時は測量実習で港湾,海に行ったのですが,2年の時は只見川中流,柳津近くの片門発電所建設工事におよそ1ヵ月行きました。その時,コンクリートに興味があると言ったら,現場でコンクリート試験室に配属されて,コンクリートのテストをやらされました。施工設備は今みたいによくないから,当時はシュート ―― スキージャンプみたいな形 ―― で流し込むようにしていました。打込むのではなく,コンクリートを上から流し込む。そして棒で突き固める。だからジャンカだらけ,セメント分と砂利が分離して隙間が生じているのです。これでは強度も低下しますが,電力会社は金利がかかっているので工期を絶対守らなくてはいけないので休みなくどんどんコンクリートを施工しているので大変なことが起こっていました。それが当時の建設現場としては当たり前で,そういう状態を直していけるとすれば国の仕事ということで,私は役所を希望した訳です。

中野: なるほど,それで卒業後は建設省に入られる訳ですね。

堀: そういう思いで入ったのですが,治水計画の立案が最大の仕事で,洪水の規模をどう決定するという計画業務が主で,企画,計画を考える仕事が多くて,実践部隊は少なかったのです。私は田舎出身で,現場の実務へ行きたいと言いましたら,おまえは変わっていると言われました。それでも好きなようにさせてくれたので,現場は自分には向いていました。今でもコンクリートを流し込むという言葉を聞くと,ちょっとムカっとします。コンクリートは打ち込むもの,心を込めて打ち込むのがコンクリートだと。古いタイプの人間でそこから自分の仕事は始まっている訳ですね。

スタートは藤原ダムのダムサイト測量

中野: コンクリートというのは,勉強すると奥が深くて面白い分野だと思いますが。ダムの現場ではどのような経験をされたのですか。

堀: 当時,芝浦に関東地建があって,そこでダムの神様と言われる阪西徳太郎さんにお会いしました。初対面の4月1日にいきなり「若いのがいつまでも東京にいたら、ロクなことないから、早く現場へ来い」と。慌てて「引っ越し荷物が…。」と言いましたら,「何を持っている。学生の分際でそんなに荷物あるはずがない。布団なんか持って来なくたっていい。事務所にあるから」といわれ,自分が持っている知識を早く使いたかったので,ダム現場に飛び込んで行きました。


藤原ダム(撮影:夕顔)

中野: それが藤原ダムですか?

堀: そう,藤原ダムがスタートしたばかりの頃です。

中野: 現場はどのような状況だったのですか。

堀: 藤原ダムの事務所が出来たのが昭和27年。私は28年に入りましたが,人も資材も含めてベースは沼田にあって,最初は沼田にいたのです。行くなり,おまえは測量をやれということで,若いのが2人ペアになって,ダムサイトの三角測量をやらされました。そうしている途中に日光で研修があるからというので招集がかかり,その後の測量をやってくれたのが高秀秀信さんです。
中野: のちに横浜市長をされた方ですね。

堀: そうですね。4月7日ぐらいに現場に行ったのですが,その頃はまだ木の芽が出ていないので,地面が見やすい。でも,日に日に青葉が出て来るのでどんどん視界が遮られるようになるので,三角点の測角は木の葉が繁るまでに全部終わらないとだめだということで,非常に忙しい思いをしました。

中野: 新人としての最初の仕事がダムサイトの測量から始まったのですね。

堀: 測量作業員は水上から20人ぐらいトラックの荷台に乗っかって来るのです。毎朝,点呼をして朝礼の話をします。当時の役所の仕事はやっていることは民間会社と同じです。この現場の途中で研修の呼び出しが掛かり,むしろ研修に行ってほっとしたような時代でした。2ヵ月が過ぎ6月ぐらいから本当に現場の沼田の事務所に入るようになって,そこで腰を落ち着けて取り組んだのがダムの設計です。構造の単純な重力式ダムですから一人でも出来ます。地質調査の基本的な物性値を使って,地盤の強さとか剪断力とかを計算する。その頃は,この岩盤ならこの値だという安全率を考慮した数値があり,それを参照してやっていたので新人でもとにかく設計することが出来たという訳です。

中野: 設計の指導は,阪西所長がされたのですか。

堀: ダムの本体設計をやり,図面を持っていくと阪西所長が見てチェックするのです。その際はハンコをつくのではなくてサインをします。所長が自署しないと合格しません。先輩も同僚もたくさんいましたけど,一人ひとりそれぞれ専門分野とテーマを持っています。今でいうと事務所全体がコンサルタント会社みたいなものですね。一人ひとり図面を完成させて最後は所長にサインを貰う。課長,係長がおられるのですが,最終的には所長に見て貰わないといけない。完全な縦社会でしたね。

中野: そうなんですね。

コンクリートは手で確認して わかるようになる

堀: 私の専門のコンクリートは,ちょうど昭和28年の8月ぐらいから現場にコンクリート試験室を作ることになって,試験室の準備に入り,資材をどこから買ったらいいか全部自由に出来ました。

中野: 大学で学んだことがそのまま現場でできるというのは良い経験になりますね。

堀: 後からどんどん若い人が入ってきました。それで,自分でコンクリートがわかるように教育していき,知らないうちにこちらも一人前になっていきましたね。

中野: そういう現場なら,ダムが毎日出来ていく過程がわかるので勉強になりますね。


堀: そうです。町へおりるのは月に1回あるかないかでした。現場でやっていて一番面白かったのは,手作業の習熟です。コンクリートは,予め配合を決めていますが,実際に現場に来る材料はどれも理想的な材料ではないのです。砂も砂利も濡れ過ぎているので,実際に配合する時に入れる水分量を減らさなければならない。水加減が大事だということです。ご飯を炊くのも,お米の状態がどうかによって加える水も減らさなきゃいけない。そういう塩梅がいる訳です。そこで,どのくらい砂が濡れているかは毎回測る。きちんと測ると時間がかかりますので,それを手で握っただけで判るようになるまで勘を磨く。砂というのは面白いもので,湿りぐあいによって握った感じが全く違うのです。だから,コーン状に詰めてひっくり返して抜いてみる。コンクリートというより砂ですけど,そういうのが水の量によって変わる。それを握っただけでわかるようになれという訓練を若い人にやらせたら,大体半年の訓練で全員が出来るようになるので,時々チェックをして,実際に測定をして,自分の勘を直す。私はそういう癖をつけて矢木沢ダムあたりまで続けていました。

中野: 現場でそういう経験をされて,実際に判るようになるというのは嬉しいものですね。

堀: 現場を経験するということは,そういうことです。身につける技術が一番大事です。

中野: データを見比べながらやることで,勘がよりきちんとしたものになっていくということですね。現場事務所の規模はどれくらいでしたか?

堀: 最初は2,30人から始まって,最盛期には100人ぐらいが常駐していました。

中野: 藤原ダムでは,どういうふうに工事を進められたのですか?

現場は冬の間の準備が大事

堀: 藤原ダムの工事は,たしか昭和29年の12月にコンクリートの初打設をしています。これはテストですが,寒い時に無理をしてコンクリートを打った訳です。なぜ早く打ったかというと,コンクリートの製造設備というのは,原石山から石をとってきて,砂利,砂,全部選別してコンクリート工場の近くにストックしておかなければなりません。そういう一連の動きは,設備を試運転してみないと判らない。準備しておかないと,いざ本番となってもスムーズに動かない訳です。それで,29年の暮れに,20日間ぐらいしかなかったけど,基礎コンクリートを打ってテストしたわけです。本番は30年の春からでした。

 冬の間に,具合の悪い設備,調子が悪いのがあるので,それを全部直しておくのです。そのための図面を描いたり設計をしたり,あらゆる人を動員して,機械から電気,土木,の分野の人が修理に当たり,工場へ手配をして,春になったら全部組み立てられるようにして,6月からは毎日コンクリートが打設出来るように支度をした訳です。私が関係したダムはみんな冬の期間がありました。

中野: 雪が降ると工事は出来ないですからね。

堀: 大体12月末から1月,2月,3月は外で仕事ができないから,その間に設備を全部点検して,直す。手が空いている時間を有効に使って,次の仕事のための準備をしたのです。テスト掘削や岩盤を掘るのも冬にやっていた訳です。

中野: コンクリートを打つのは春になってからですね。

堀: そうですが,冬になるとちょくちょく岩盤崩壊があります。午後3時ごろになると気温が上がって,岩盤の間に入った水が,氷になっていたのが溶けてくる。そうすると,それが原因で,ガラガラと崩落します。そういうことを何回か藤原ダムで経験しました。

相俣ダムの漏水問題で 止水壁の設計をする


相俣ダム止水壁(撮影:dam master)

中野: 自然の中ではそういうことが起こるのですね。すごいお話ですね。その後,相俣に行かれたのですか?

堀: 相俣ダムは,たしか昭和31年ぐらいからです。相俣ダムというのは極めて貯水効率のいいダムで,ダム本体は10万立米ぐらいの大きさですが,左岸側に自然の土堰堤のような河川堆積物(河岸段丘)があったので貯水量が大きい。

 ダムが出来てから自然の河川堆積物による土堤がもし水を通したら大変なことになるので,昭和30年ごろからテストということで試験湛水として水を貯め始めました。当初は,群馬県による計画と施工でしたが,心配した通り,湛水途中に左岸側の天然の土堰堤から水が漏れました。
基礎辺りから漏れて,もう川のような状態になってしまいました。すぐに大がかりな対策工事が必要になったので,建設省の直轄事業に編入されたのです。

 その応援部隊として私は動員されました。土堰堤に,表面は遮水壁で,底に止水壁を施工しなくてはいけないということで,この止水壁と遮水壁の設計をやったのです。

 止水壁の設計は,当時,日本では稀だったので非常に苦労しました。ちょうど私の同級生に飯田隆一さんがいたので,彼のところに相談に行って,最上武雄さんという土質の大先生のところへ一緒にお伺いしていろいろと教えて頂きました。例えば,地盤係数という,ある力で押すと地盤がどのくらい沈むかという数値がありますが,その地盤係数が判れば私の設計も完成すると思ったので,地盤係数はどういう値をとるべきかとお尋ねすると,「条件によって変わるからそんなものはない。」という話で,現場で地盤係数の測定をやって参考にしました。それから鉄道のレールを敷くのに,道床という砂利の地盤係数を測定していましたので,鉄道からも力を借りて,地下は40メーターぐらいまでありますから,全部人力で,縦坑を掘って横にトンネルを掘って行きました。それからコンクリートを打って鉄筋を入れる設計にして成功しました。こうした設計方法は,その頃の日本では初めてのケースなので,本当にその通りにことが動いたかどうかはよく判らないまま無我夢中でやっていた時代だったと思います。昭和32年に設計をやり,7月までかかり設計を完成させました。

中野: 勉強してきたことが役に立ったのですね。

本省の仕事に専念する

堀: 現場で生かせたという,自分の自信にもなっていました。それで,昭和32年に本省に戻って来た時に,今度はさらにいろんな勉強をさせられました。日本のダム技術が進んだという意味で,小林泰さんという方がおられました。小林さんは当時の開発課長で,その下に後に政界に出られた望月邦夫さんが専門官で,この2人が,若い連中を徹底的に教育しました。とにかく,いろんな分野をやらされました。私は,直轄事業のダムの事業のまとめをやらされて,ヒアリングで各現場の人たちの説明を聞くわけです。それをまとめていくと,そこに含まれている知識が全部入ってきて,自分のブラッシュアップになる訳です。最後は水利権の審査についてもやりました。当時は黒四の関係ですね。

中野: ちょうど佐久間ダムをやっている頃ですね。

堀: 当時,電力会社は全国各所にダムを造っていましたから,その技術審査もやりました。それらも非常に勉強になりました。図面を見て,全部自分で理解していないと審査出来ません。それで,審査結果を持って小林課長のところに説明に行くのですが,そこでオーケーをもらわないといけない訳です。とても一筋縄じゃ通らないからです。その時が,一番緊張しました。

中野: ちゃんと中身を知っていないと説明が出来ないですね。

堀: だからこそ電力会社の技術陣とも親しくなることが出来ました。矢木沢ダムでも,実際に現場へ行って,冬の間,外で作業できない時期にいろんな知識を集約する時,そういう方々に連絡をとって,直接相談して参考意見を身につけました。ですから,本省にいても外部の人と交流が出来たのです。

中野: なるほど。本省に戻られてからは,現場を離れて法整備のお仕事をされていたのだと思っていました。

堀: 開発課というのは,特定ダム法の制定とか,河川法,水利権,ダム使用権の問題とか,新しいことをやるものですから,建設省とはいえいつも若い法学士が3名か4名は配属されていました。そういう方々と一緒に議論をすることで,こちらも教えられるという訳です。ですから,自分以外の専門分野の人との交流が,開発課でも自然と出来た。それでまた現場へ行って,今度は違う立場で行きますから,また違う出会いがある。

矢木沢ダムの洪水吐きの設計

中野: 開発課時代で一番印象に残ったのはどういうことですか?

堀: 昭和33年から34年にかけて,矢木沢ダムの問題が出てきた時のことでしょうね。その頃,矢木沢ダムは,東京電力と群馬県と東京都が三すくみの状態になってどうにもならない状態だったのです。三者を満足させるには,矢木沢ダムだけではどうしても容量が足りないということで,特に望月さんが専門官として,ダム探しをやっておられました。下久保,神戸といったダム計画があり,今の草木ダムはその時に浮上してきた案が実現して出来たものです。

 矢木沢ダムそのものは,大正時代から,東京電力と群馬県と東京都がしのぎを削って使用権をとろうと思ってやっていた。その間,小林泰さんあたりが調整役で矢木沢ダムをとにかく建設省の直轄でやろうということになり,矢木沢ダム開発が中心になって水資源公団が出来たという経緯があります。

中野: 矢木沢ダムはアーチダムが主ダムで,その脇の洪水吐きがある部分は重力式コンクリート脇ダムがロックフィルという3種類のダムのタイプを持っていますね。

堀: そうですね。当初は,100メーターの高さのダムだったら問題なく出来たはずなのですが,途中で堤高は130メーター必要だという話になった。洪水調節はサーチャージでいこうというになり,常時満水位の標高850メーターに足すこと4メーター,これを洪水時満水位としようということになった訳です。私が矢木沢ダムに配属されたのは昭和36年の春。その時はまだ矢木沢ダムの洪水吐きはどうするか決まっていませんでした。今でも一番印象に残っているのは,洪水吐きを今の姿に決めたことです。水資源公団のパンフレットを開いてみると一番良く判ります。ここにあるのが洪水吐き,ダム本体がこれです。東京電力の発電所がここにある。この案に決めたのは,望月さんと私と,あと藤城さんかな,その3人がいた時にこの案にしました。ここは骨材の工事をする前は,何もないただの沢でした。骨材の貯蔵所がここにあってこの沢がちょうどよい位置にあった。ただ,ここの基礎工事をどうするかが大変難しかったのを覚えています。

中野: その設計をされたのですね。

堀: 結局,洪水吐きの位置をここに決めたことによって,矢木沢ダムの答えが出た。今見ても非常にすっきりしたダムになっていると思いますね。

中野: 洪水吐きから下流までは水路が続いていて,スキージャンプ式減勢工の放流はダイナミックで沢山の人が見学にこられますね。

堀: 源流は新潟県と群馬県の県境の山ですけど。群馬県側から行くのは大変ですが,新潟県側から行けば日帰りできます。

中野: 他に矢木沢ダムについて何かお話がありますか。

堀: 矢木沢ダムのコンクリートについて一言。当時,藤原ダムで一緒にやった連中が巣立っていまして,配合設計とテストバッチについては,私が実際目で見て,自分で計画をして配合を決めていましたが,あとはもう任せていいという状態になっていましたので,そのようにして進めました。


矢木沢ダムの洪水吐(堀氏提供)
中野: 若手の人がそこまで育っていたという。矢木沢ダムではそういうお立場で仕事をされていたのですね。


左岸からの矢木沢ダム(堀氏提供)
矢木沢ダムで 3タイプの型式ができた訳は

堀: 藤原ダム,矢木沢ダムを通じて,ダム現場の設備系についてかなり勉強することができました。先程言ったようなコンクリート工場の設備,ベルトコンベヤとか,骨材を落とすタワーとか,いかに安く作れるかということで,随分と思い切った設計をやっていました。何故かというと,本体についてはそういうケチなことは出来ない。すると,設備がよく壊れるんですね。壊れる原因は何かというと耐久性不足や過積載。上物が重いと鉄骨が座屈します。圧縮力を受けて座屈するのです。そういう姿をたくさん見ていますから,冬場には足場を見回り,良くないところを直して回る訳です。

 それと,クラッシャーも基礎杭が十分でないとすごく振動します。試運転で判ると杭を1本追加してやるだけでも直ります。アンダーピニング(都市土木)というのですが,そういう技術を体験し,冬場は設備の修繕をやりました。事故が起きやすいのは,引っ張りの力がかかる基礎アンカー部と,圧縮だと座屈。これは鉄則ですね。それから仮設構造物は必ず変形しますから,変形を常に測定するということと,予め変形を勘定に入れて設計するようにやかましくいいました。変形がある限度を超えると落ちたりしますからね。


矢木沢ダム(堀氏提供)

中野: 冬,現場が動かない時にそういうメンテをしながら,いろんな知識を習得する。現場でないと出来ない経験ですね。

堀: 人間というのは,ずっと一年中同じ勉強していると飽きるので,時には休息期間をとって別の角度から勉強を見直す必要があります。

中野: 一つのことだけをずっとやっていても,ある部分が判らない時,それを判らないまま時間が過ぎてしまったとなれば見落としたということですからね。

堀: 矢木沢ダムには,いろいろ思い出がたくさんあるのですが,やはり冬をうまく使ったという思いが強いですね。それと,矢木沢ダムは最初,堤高100メーターで考えられていました。100メーターだとアーチダム部が山にスパッとかかるのです。こちら側は天然の土堰堤ですけど,ここは少し増圧処理をしてフィルダムにしている訳です。だから余計な処理もいらないし,非常に楽に出来てしまう(フィルダムの止水対策にICOS工法により止水壁を設置 相俣ダム止水壁工事の展開と合理化)。
中野: そうですね。

堀: 1メーターで500万トン換算だと,10メーターで5 000万トン。30メーターで1億5 000万トンぐらい。少なくとも30メーター上げて1億トンぐらいアップした計算になるのです。

中野: 矢木沢ダムは貯水量が結構ありますからね。

堀: 貯水量は1億8 000万トン。約2億トンですね。最終的には,堤高が131メートル。山のこっち側の方に,このアーチの力を受けるために重力ダムをつけて,そこのところに洪水吐きがついているという設計になりました。当初より高さを上げることで,あれこれ工夫した結果がこうなったのです。

川治ダムは設計も用地交渉も難しい

中野: その後,川治ダムに行かれて初代の所長になられて,ご苦労があったと思うのですが,やはり用地交渉が大変でしたか?

堀: 初めて用地交渉にあたって,地元の方との接点を持ったのは川治ダムですね。これには,実はいろいろ経緯がありました。川治ダムの計画は,川俣の工事が終わりかけた頃,昭和35,36年当たりから浮上してきました。その時,地元の人は,自分たちが水没しなければ概ね賛成だという空気だった。ところが,どうも水没は避けて通れないというようなことになって空気が一変してしまった。そこできちんと調査をしようということで調査出張所を設けて,その出張所長に昭和40年頃,近藤徹さんが着任した。


川治ダム(撮影:安河内 孝)
中野: 近藤さんのインタビューで,堀さんから,「ダムの初代所長は建設省の顔になる。おまえの骨は拾うつもりだから所長としていけ」といわれたというお話をお聞きしました。

堀: 当時,近藤さんは私と一緒に仕事をしていました。近藤さんが川治に行く時,ダムをやるかやらんかはまだ判らん,地元の反対もある,とにかく自分は余り気が進まないということを言っていました。それで,近藤さんにはやるところまでやって,もし情勢が許せば,俺が跡を継いでやるよ,と話したのです。私的な関係でそういう約束をしても,そんなことを役所は重んじるはずはないのですが,結果としてはその通りになり昭和43年に私も行くことになりました。その時の案では,川治ダムの堤高は150メーターだった。ところが150メーターだと,反対している人みんなの生活基盤の中心が水没してしまう。これではダメだと思いました。本当にそこまで水没させていいのかどうか,内心,現場にいる担当者としてもクエスチョンマークが付いていた。満水する頻度はどうなのか。200年に1回ぐらいの洪水の時だけは,水に浸かるかもしれない,という疑問は常に担当の私も思っていた。それでも150メーターのダムを造ろうということで,私自身も取り組んでいたのです。

中野: 実際に現場に行かれてみてどうでしたか?

堀: 悩んではいたのですが,実際にダムサイトの調査をしていくと,特に右岸側で,岩の割れ目等があり,突っ張ってアーチダムを受けるだけの山がないということが判ったのです。もちろん山はあるのですが,手前にゾウの鼻のような尾根が出ている。工事としては,この尾根部分を全部取らないといけないので,取ることは決意しようと考えましたが,それだけで100万立方メートルぐらいの掘削工事が増えることになる。それを取って尚且つ,あの辺りは岩が硬過ぎる。それに縦や斜めの亀裂が入っているということで滑ってくる可能性もある。その辺を考えると,座取りと言いますが,アーチダムの座取りの面も含め,いろいろと検討した結果,ちょっと無理じゃないかという意見が土研の飯田驤黷ウん,柴田功さんから出てきたのです。それで140メーターにしようと。とにかく地質上の理由が出た訳です。ところが150メーターで今まで水没だといわれていた計画が,今度は低くなったことで水没問題で大紛糾が起こるのは目に見えている。

中野: 当初案の高さのままでも,低くなっても問題は起きるのですね。

堀: いずれにしろ,私が行って最初の半年,交渉も何も出来なかった。密かに140メーターの案しかないということは判っていても,じゃあその案をいつぶつけるかという事を考えると,全く先に進まず1年半ぐらい時間がかかりました。地元の方々との接触は,最初は絶対反対。会うことすら出来ないのです。先方は,おまえらの話を聞けば,自分らは立つ瀬がないという状態がずっと続いていて,ようやく最初の会合を持った時でさえも,自分たちは子供を教育して,ここから高校へ出して,またここへ帰って来させて仕事をさせようということで育ててきた。引越しになれば生活の見通しが立たない。そう言って泣かれ,全く面会拒否の状態でした。

地元の人と話すきっかけは

中野: 地元の人と話す機会がないまま時間が過ぎる訳ですね。

堀: その間に,こちらは何をやったかというと,周辺の水源地からダムサイトは立ち入れないので,周囲を歩いてどこに移転地を見つけたら良いかということで毎日探し回っていました。しかし,どう考えても,自分自身としてもピンと来ない。昭和30年代と昭和40年代では,世の中ががらりと変わっている感じがしました。その頃,新しい人たちを受け入れるところが関東地方ではどこにも見付からない。答えが出ないので毎日悩みましたね。現場の山を知りたいために,毎日のように歩き回っていたのですが,たまたま田茂沢という沢に行った時,地元の方々が山仕事の合間に,弁当を食べているところに出会ったのです。それで,二言三言,口をきき始めて,そういうことを何回か繰り返すうちに,秋のお祭り,8月末のお祭りの時におまえらも来いと,招待が来たのです。

中野: 話が出来たのは,ちょっとしたきっかけだったのですね。

堀: それから,徐々に口が開いていきました。それから,とにかく話しましょうということで,ダムは150メーターと決まった訳じゃない,今はダムの高さを決定するための調査をやっていると説明しました。もし150になれば,皆さんが心配しているような水没地域が出ることになるが,今はそういう話はちょっと置いて,あなた方が一番に心配していることは何かと。それから,ダムを造るプロセス,補償のプロセスはどんなふうになっていくのかということを,お互いにまず話し合おうじゃないかと。

中野: 説得するというのではなく,説明することからですね。

堀: 客観的に言えば,地元の人も何も判らないから反対する訳です。自分たちの移転先が見えないから想像もつかない。自分たちの生活の先の答えが自分たちで見つけられるようになれば,考えようもあるのです。結局,水没する方々の同意がなかったら,水没の施策は進んでいかない,あなた方の計画を立てないとダム工事は出来ないのですという話をしました。そうしたら,ここのところまでは水は上がらないから,ここは水没しないようにしてくれという声が,あちら側から出てきた訳です。

中野: そうですか。話し合わないと進んでいかないのですね。

堀: そうですね。私と相手の方々が,お互いに子供からお孫さんの小学生まで,全部が知り合えるような間柄になった。この本「一滴の水」を書かれた山越幸吉氏は,地元のダム反対運動の書記をやっていた方で,こちらのこともよく知っている。お互いにとにかく本当のことを言い合おうということでやっていました。1週間に2回ぐらいは会っていた。ただ最後まで頭が痛かったのは,あなた方はこういう話をするのが仕事だろう,私らの方は生活する仕事は他にある,その時間を割いてここで話しているんだ,と言われること。そういう言葉が一番心を打ちましたね。

「一滴の水」の表紙

中野: 地元と根気よく話されたこと,堀所長のご苦労がこの本からもよくわかります。ダムで水没する人の気持ちはなかなか難しいですね。

堀: だから,相互に理解するということは大変なことですよ。

中野: 川治ダムは時間的には早く解決の方向に行けましたが八ッ場ダムはもっと時間がかかっていますね。

堀: 当然,水没の数が多ければ,そうなるのですよ。

中野: 地元だけではなくて,反対派の人っていろんなところから集まってきますから。

堀: そうですね。こじれるからそうなるのです。問題が大きくなれば人も集まるから。

中野: ほかにもご苦労されたことはありますか。
堀: こういう話を事務所で所長がやっている時,事務所の職員はそれだけではなくて他の仕事もある訳で,実際は何を仕事として与えたらいいのかということでも随分苦労しました。とにかく徹底的にやれることをやれということで,役に立ちそうなことは全部やってみました。私が本省へ移ったのは,昭和47年の6月で,川治ダムは7月に初めて用地調査が出来るようになったのです。

中野: 昭和30年代から始めて,昭和47年までかかったのですね。

ダムに関わった10年間

中野: 大学でコンクリートを学んで,そこからダムの現場に入られて,長く関わって来られた中で感じることはありますか?

堀: 一つ言えるのは,行政というのは長い目で見ていかないといけないものだということ。それはダム造りも同じです。当面のいろんな問題の解決についてはそこで考えないといけないことだけど,その先にある,起こりうる問題についても想定出来る限り長い目で見ておく。いろんなことがありましたが,自分は苦労したと思ってはいないです。むしろ育てられたと思っていました。

中野: 堀さんが一番好きなダム,苦労したダムというのはありますか。

堀: やはり用地問題では川治ダムです。それから,技術問題では矢木沢ダムで,それから,藤原ダムは自分の訓練の場所でした。そういう意味で,31年の公務員生活のうちで,どっぷりダムに関わって10年ぐらいやれたというのは非常にありがたい人生だったと思いますね。それは実際にやってきた者だけが判る,そこにしかない得がたい経験です。


柴田さんと話した事

中野: 柴田さんにインタビューしたときに,堀さんと一緒に,半世紀も経つダムは今も大丈夫かと心配されているというお話をされていました。
(参考:ダムインタビュー(75)柴田功さんに聞く

堀: 川治ダムはもともと峡谷の形が,きれいなV字形です。岩は非常に硬いのですが,靱性というか,粘りがないのが特徴です。すると,縦方向の亀裂が入りやすい。そこに必ず地殻変動で横の亀裂が入っているから,落ちる訳です。そういうことでアーチダムアバットメントの取付け部は上下流とも十分な厚さがないとだめなのです。最終的に,川治ダムを低くしたのもそういう理由からです。だから,そこは常に注意しておかなければならないと考えています。矢木沢ダムは昭和42年完成だから50年,もう半世紀経つのです。藤原ダムは60年。地質の年代からみたらほんの一瞬ですが,やはり大丈夫かという心配はあります。これからの地殻変動に対して常に気をつけなくてはいけない。地殻変動という大袈裟なものでなくても,ダムの下流側,あるいは上流側に生ずるクラックの発生については気をつけなきゃいかんよということは,いつも柴田さんと話をしていたことです。

中野: それは柴田さんにもお聞きしました。

堀: ただ兆候があるので,見ていれば対策はある訳です。これは,私の知人が2017年4月に,矢木沢ダムに行って撮ってきた写真です。

中野: とても,きれいですね。

堀: ダムのこの下の部分にヘアクラックがあるかどうか,現場ではきちんと点検されています。小さいクラックがありますが,表面だけで,中へ浸食していません。こういうのは水が漏れてくるようなところですが,石灰が流れたような跡がついていますけど,こういうところはどうなっているかとか,点検はされています。ちょうど50年経っている訳ですが,ダムのコンクリートの肌を見れば判る。全て調べれば,調子が良いかどうか判る時代になっていますので観察を怠らないようにすれば大丈夫です。

中野: 継続してダムを観察していくことが必要ですね。


堀氏の知人が撮った矢木沢ダム(2017.4撮影)
国土庁水資源局へ

中野: 本省から国土庁にいかれますが,国土庁が発足したのは昭和49年ということですが,水資源,ダムに関することをされたのですか。

堀: 水に関わる問題というのは,たくさんの関係省庁があります。直接には4つですか。それは特定多目的ダム法が出来た時からですが,ダムの基本計画をつくる段階だけで4省庁。ぱっと見て関係なさそうに見えても関係するところがあります。例えば国立公園内にダムをとなると,いろんなところが関係してくる訳です。合わせるとだいたい9省庁ぐらいあります。そういう省庁の意見を全部まとめた集約が基本計画になるのです。だから,開発課というところは各省庁との交流が日常非常に多かった。国土庁はそれを商売にしているところですから。総まとめは,昔は経済企画庁の総合開発局の水資源課でやっていました。その仕事を国土庁が担当する。そこで自分が企画立案するのではなくて,他省との調整の仕事が非常に多かったです。

中野: 縦割り行政も影響しているのですね。

堀: 国土庁が出来た時に,日本の水資源量はどのくらいあるのかを調べようということになりました。雨のデータから水資源量を算出するというか,そういうたぐいの初めての調査をやった訳です。私は,それに2年ぐらい関わりました。それから建設省に帰って,最後は局長で戻ってきました。行政としての実力を保ちながら,いかに方向を転換していくかという仕事を最後にやらせて貰いました。これも非常に辛い仕事だったのですけどね。

中野: そうですか。建設省や国土庁の組織を行ったり来たりされてますね。

堀: その後の行政改革からしたら大したことはないのですが,私のようなケースは当時としては第1号だったから,前例がないので一番面倒で苦労しました。

中野: 水資源開発基本計画とか,フルプランとか。いろいろ調整をされるのは,大変なお仕事だったのかなと思います。

堀: むしろ皆さんのお力で助けて貰ったようなことが多かったと思いますよ。


熊谷組での仕事

中野: 堀さんは,退官されてから熊谷組に入られますが,今までのダムの経験を生かして,どういうことをされたのかを伺いたいと思いますが。

堀: ダムの建設は,事業を企画する人,構造物の設計をする人,それを実際に施工する人たちが本当に一心同体にならないとうまく出来ないものです。私は今までは企画する立場が多かった。だから実際に施工する立場も経験したいと思っていました。それで,役所を卒業して民間に行くということになった時,たまたま当時の仲間がたくさんまだいましたから,そういうことで入れて貰った会社だということです。

 入ってからはそれまでと立場が逆ですから,まずは会社での仕事のやり方を理解することに一生懸命力を尽くしました。そして頼まれた仕事,自分の仕事として決めた分野については徹底的に尽くすこと。後は,余計なことはやるまい,言うまいということを肝に命じて,結果的に14年間もお世話になりました。

中野: 以前,熊谷組の方から,大滝ダムで所長をしていた時に,うまくいかなくて悩んでいて,堀副社長に相談すると,すぐに国交省に話をしてくれて大変助かったというお話をお聞きしました。困った時に聞き役に徹して,視野を大きくして解決策はこういう方向があるのではと示す。そういうカウンセラーの役目をされていたのですね。

堀: こちらは話を聞いているだけなのですが,皆さん,ずっと黙って聞いてくれて助かったというのですが,解決の糸口を見つけるサポートになれていれば良かったと思いますよ。私はダムの補償問題をやっている時に気が付いたのですが,自宅を空けて外で仕事をしていて10日に1回ぐらいしか帰らないという生活をやっていると,家族内部でもいろいろ問題が起こることがあるでしょう。そういう時に,自分で家族の問題を解決出来ない人間が,ダムの水没補償問題などは到底解決出来るはずがないということを確信したんですよ。だから自分は未熟な人間だけど,そういうことが大事だと。だから,人が外で活躍するためには家族の内部の解決策とか,そういう気を使わないとだめだということはダムの仕事から得た教訓です。ダム建設というのは,家族も,職員も,とにかく全員の力の結集がないとうまく完成しないのだと思います。逆にいうと,土木というのは,そういう性質のものじゃないかな。人の生活を支えるという意味でも。

中野: そうですね。やっぱり一番基礎というか,インフラを支えるものだし,人を支えるものだから。自らの基盤がしっかりしてないとだめですね。

ダムの広報は

中野: 今は洪水調節で,ダムが連携して頑張っていることが,SNSで発信され一般の人にも判って貰える機会が増えてきて,認識されてきた時代になりなりましたが,昔,ダムは大変な逆風の時代もありました。

堀: つい10年前までは,ダムに対しては非常に冷たい風が吹いていましたね。でも,ダムは本当に必要なもので,大事にしていかなくてはいけないと思います。海外の例ですが,私はボルダーダムに十数年前見学に行ったことがあります。あそこは本当にすばらしい,立派なコンクリートを打ってます。それを誇らしげに説明する人がいて,年齢からみたら,当時従事した人ではない,もっと若い人ですが,さも自分がそこにいたように臨場感あふれる解説をしていました。ちゃんと受け継がれているという意味では良いことだと思いました。今の方々はよく研究してやっています。ただダムのデータについては困ったら公開すべきだと考えますね。ニュージーランドにクライドダムというのがあります。インターネットのウィキペディアからとった情報ですが,私が行った時,ちょうど工事中だったのです。現場で彼らが誇らしげに言っていたのは,ここは大きな断層があるということ。日本とニュージーランドはよく似ていまして地震もよく起きるのです。



中野: ダムの下に断層があるのですね。それは大きな問題ですね。

堀: ダムサイト側に中央構造線のような断層があり,引きずられたダンスタンという断層があります。これがダムのど真ん中を横切っているのです。断層が2メーター,上下に動いた時にも大丈夫なように,ダムにスリップジョイントというのを造って工事をやっています。その資料が今,ウィキペディアで出てきましたので,情報公開が早いとびっくりしました。

中野: それを取り上げてウィキペディアに書いている人がいるんですね。

堀: ええ。こういうのが記録になっているのです。これからは,困ったことがあれば,世界中から情報を集めることが出来るという時代なのだというのがよく判りました。
それから,ここはオーストリアで一番高いダム,ケルンブラインというダムですが,これも私は現場を見て来ました。ダムのここにクラックが入っています。剪断で出来たものです。岩盤が良過ぎてクラックが入ったと私は思うのですが,岩盤拘束が強過ぎてね。それで,満水していた状態から水位を下げて,4年ぐらいかかって継ぎ足しの補助ダムを造っているのです。これもデータを見れば出て来ます。

中野: なるほど情報から学ぶことも可能な時代ですね。

堀: ティートンダムの破壊のデータもちゃんとあります。いっぱいあり過ぎて,かえって心配なくらいです。これからダムについて,いろいろな問題が起こった時には,世界でこういう例がないのかを先ず探して,それから議論するというような時代だと言えます。データは豊富に揃っています。日本でも,50年前に,和知ダムのゲートが壊れる事故がありましたが,これも京都大学防災研究所の矢野勝正先生の報告書があります。今は,もう既に当時の時代の状況が手に取るように判るような時代なのです。詳細に判りますから逆にいうと恐ろしいくらいです。ぜひ,問題があれば一人でしまいこまずに,記録を共有してお互いに相談し合う社会になってほしいと思っています。

 そういう意味では,日本ダム協会,あるいはダム技術センターの働き方は影響が大きいと思います。もちろん土木研究所もそうです。

ダムをもっと知ってほしい

中野: 日本の川は急峻なので,水を使うにはやはりダムが必要です。そのためダム技術も発達したと思うのですが,これからも長くダムを使っていくためには,どうすれば良いでしょうか。

堀: 一つは,ダムを訪れる方にもよくダムのことを知ってもらうことが大事ですね。ダムを造り,運用している人だけが頑張ってもやり甲斐がない。そのダムの恩恵を受けている沢山の人がちゃんとそのダムの有り様を知っているという状況になれば,ダムを管理運営する人もやり甲斐が出るでしょう。そのためにも,情報を共有して,ダムはこういう働きをしているのだということをもっとよく知って貰うことです。

中野: そうですね。先程,ダム反対派の人の話にもありましたが,計画された時点で,説明が遅れて反対運動が始まり説明する事を引いてしまった。SNSとかで,いろいろ情報発信して,広く一般の人に知って貰うために情報を出していくことが必要ですね。

堀: 『Waterpower & Dam Construction』という雑誌があります。もう十数年前に会員ではなくなっているのですけど,今も発行されています。あの編集の方は,ほとんど女性です。編集長のアリソンバートルさんは,まだやっておられるかな。私は1970年代ぐらいからずっと大ダム会議に出てきましたが,その時は編集長だった。そういうふうにダムにずっと関わってやっている方は世界にはたくさんいます(Tracey WilliamsonさんBritish Dam Society(BOD)初代Female Chairに就任Dam Engineer A workplace for women INTERNATIONAL WATER POWER 30/06/14より)。

中野: そういった情報発信は続けていかないとだめですね。

堀: 今はようやくダムマニアさんが認知されるようになり,これもダム協会や皆さんの力だと思うのですが,かなり広まってきたなと感じますね。

中野: 最近,ダムやダムマニアさんについてメディアからの問い合わせも増えて来ています。

堀: 何か一過性のブームに終わらせなくて,ダムを理解する人を増やすきっかけにして欲しいですね。

中野: そうですね。ダム協会も一般の方にダムのサポーターになって頂くようにダムマイスター制度を立ち上げ,ダムの広報をしています。


ダムはライフワーク

堀: ダムというと,自分のライフワークみたいに思っていますので,ダムに何かあったというと,すぐにデータを探します。この間,洪水吐きが崩れたオロビルダム,アメリカでも最も堤高の高いダムですね。一番はボルダーダムじゃないのです。これが非常用洪水吐きの写真ですが,これが崩れて流れた訳ですね。私はこの山が崩れたのじゃないかと心配していたのですが,地形的にはそういう問題はないから,洪水吐きだけの問題だったのかなと(事故後の復旧工事の速さは驚き)。

中野: そうですね。一部の施工不良が原因だったのでしょうか。

ワインと川とダムと



堀: この頃は,物事はいろいろと同じだなと思うようになりましたね。実は,77才になった時にワインの勉強を始めました。すると今度は,川に興味が出て来たのです。

中野: 川ですか?

堀: 河川。というのは,ワインの勉強はまずフランスからですが,そこに大きな水系は幾つあるか。ワインを勉強するとすぐ出て来ます。アルザス(ライン流域),ローヌ,ジロンド,ロアール…こういうのがあります。それらは皆ワインの名産地です。イタリアではポー川の支流が圧倒的に多い。日本ではどこか。富士川の上流でしょうかね。

中野: ワインの醸造所だと,甲府とか。
堀: 甲州,北海道は十勝。それから千曲川,信濃川の上流。皆,川に関係して来ますね。それから地質としては,石灰岩と関係してくる訳です。おいしいワインが生まれるところには良い川がある。だから,山というのは水の生みの親。それを受けるのが川。それで,川の周りにいろんな産物が出てくる。それが人間生活を支え,人間の文化を育むのだということを思うようになりました。それから,ワインを勉強するとすぐ覚えなくちゃならないのは,テロワール(terroir)という言葉。ご存じですか。

中野: テロワールですか?

堀: フランス語の土地を意味する言葉から派生した言葉で,日本語にはなかなかぴったりのものがない概念です。自然,地質,土壌,気候,そういうものから来る恵み。言うならば,「風土」でしょうね。それから人間の努力なんです。テロワール(風土+人間力)の良いところには良質のワインが出る。日本酒もそういうふうに分類したら良いじゃないかと言われていますが…。最近,ようやく原産地証明(AOC)地産地消なんて言い出したでしょう。

中野: なるほどね。日本酒もそういうところでは,水,川に関係あるし。

堀: そして,そこにはダムがある。ダムも皆で力を合わせて造る訳ですから。

中野: ダムは大きいので,なかなか理解しがたいところがあるのかもしれませんが,もっとダムを身近なものに感じてもらえるような広報の仕方を考えていかないと。

 本日は,本当にいろいろと内容の濃いお話を聞かせて頂きありがとうございました。

堀 和夫(ほりかずお)氏プロフィール

1930年2月19日生

1953年3月 東京大学工学部
      土木工学科卒業
   4月 建設省入省
      関東地方建設局藤原ダム工事事務所
      藤原ダム建設
      相俣ダム工事事務所
      相俣ダム建設
1957年4月 建設省河川局開発課
1961年4月 関東地方建設局
      矢木沢ダム工事事務所
      矢木沢ダム建設
1962年10月 水資源開発公団
      矢木沢ダム建設所
      矢木沢ダム建設
1965年1月 建設省河川局開発課
1968年4月 関東地方建設局
      川治ダム調査事務所
      川治ダム調査
1970年4月 同局
      川治ダム工事事務所
      川治ダム建設
1972年6月 建設省河川局開発課
1974年6月 国土庁水資源局
1977年7月 建設省河川局開発課長
1980年7月 建設省北陸地方建設局長
1983年7月 国土庁水資源局長
1984年7月 退官
1986年7月 (株)熊谷組入社
   12月 常務取締役
1989年6月 専務取締役
1994年6月 取締役副社長
2000年12月 同社退社

堀氏提供写真は矢木沢会25周年記念写真集より

[関連ダム]  藤原ダム(元)  相俣ダム  矢木沢ダム  川治ダム  Kolnbrein  Oroville
(2018年12月作成)
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