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ダムインタビュー(28)
水野光章さんに聞く
「水と安全はタダといった安易な考えではいけないと、あらためてそう思います」

水野光章さん(みずの みつあき、元水資源開発公団理事)は、昭和40年に水資源開発公団に入り、ダム一筋、「45年のダム屋人生を全うした」とご本人の弁。水資源開発公団から建設省土木研究所に出向、ダムの建設と管理技術の研究に従事し、RCD工法の開発にも参画。数多くのダム建設の技術指導にあたって来られました。

特に、ダム構造研究室長の頃には、全国のダム事業について、予備調査から建設についての総合的な技術指導にあたり、アーチ式コンクリートダム重力式コンクリートダム、さらにフィルダムと、ダムと名のつく構造物のほぼ全てにわたってその設計・施工法に精通されています。また、長良川河口堰の建設の時には、水資源開発公団の本社や中部支社で反対運動に対峙。広報・訴訟、環境分野を担当されました。

今回は、水野さんにダム事業にまつわる様々な課題について、ダム一筋に生きてこられた技術者の視点から語っていただきました。

(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)


 
 
歴史に残る土木の仕事がきっかけ

中野: まずダムに関するお仕事をされるようになったきっかけは何ですか?

水野: まだ小学校に上がる前の事ですが当時、東京都葛飾区立石にあった我が家がカスリーン台風の水害で水浸しになりました。といっても僕自身は、戦争中から静岡県裾野市に疎開していたので、昭和22年の台風時に自宅で水に浸かったというのではありませんが、床上1mくらいまで水に浸かって柱にその線がずっと残っていました。

また、当時通っていた裾野市の小学校では、江戸時代にこの地域に箱根芦ノ湖から水を引くため、まるまる山一つを手彫りで掘り抜いた水路トンネルについて教えていました。
これは地元では深良(ふから)用水と呼び、別名箱根用水とも呼ばれる潅漑用水のことです。この教育により、人間にとって水は大事なものだと思って育ちました。

中野: 小学校でそういう地域の土木遺産の話を学ぶと興味が湧きますね。

水野: 機械力のない時代によくそんな工事ができたと思います。この地の由来は古く、源頼朝、義経が初めて兄弟として面会を果たした黄瀬川が流れています。自然流下では田んぼに水を引きにくい低地が、黄瀬川左岸に広がっており、深良村もその一部です。これを当時の村の名主の大庭源之丞が何とか水を引きたいと考えて、江戸・浅草の商人、友野与右衛門という人に資金と技術協力を依頼して、小田原藩や芦ノ湖の水利権を持っていた箱根権現社の許可を受けて新田開発に乗りだしたのです。

友野が資金を出したのは、商人ですから米がとれるようになったら、後から米で返して貰えれば良いと考えたのでしょう。ところが実際は考えた以上にトンネル掘りに時間がかかってしまい、資金を回収できず用水の完成後には行方しれずになってしまったという言い伝えが残っています。こうした話を小学校で聞かされて育ちました。だから土木に進むきっかけには、そういうのもあったのではないかと思います。

土木とはどういうものかを、小学校で学ばせるべき

中野: 竹林先生、高橋先生、竹村公太郎さんなどのインタビューでも、学校教育できちんと土木を教えるべきというお話が出ていますが、やはり小学生くらいに学ぶというのが大事なんでしょうね。

水野: 今回、このインタビューのお話が来たので、裾野市の小学校に電話して今でもそういう話は教えているか尋ねてみたら、今でもちゃんと教えているそうです。5年生の授業で昔そういう偉い人たちが居て、たいへんな難工事をしてトンネルを掘ったから今でもこのあたりでは稲作ができると教えているそうです。

この手掘りのトンネルについては、土木学会が昭和20年代に調べた記録があるのですが、それによると山の両側から掘っていき、ほとんど狂いなく貫通したそうです。ただ高低差だけは1mくらいあったようですが。まったく機械力のない時代に正確にトンネルを掘る。しかも何年もかかったという途方もない苦労の末に、こうした土木事業を成し遂げたというのは本当にすごいと思います。

中野: 大学で土木工学科を選ばれたのも、そういう興味からですか?

水野: 東大は、二年までは教養課程で三年生になったら専門に分かれます。そこでなぜ土木を選んだかというと、入学した頃は、盛んに社会基盤整備事業というのが行われていました。例えばダムで言いますと黒部第四ダムの建設の真っ最中でした。当時、黒四ダムの建設は日本国民にとってものすごく明るい話題だったと思います。朝日新聞は半年に一度は黒四の工事はここまで進みましたというのを記事にしていましたから。今からはとても考えられませんけどね。(笑)

それくらい国民が黒四ダムに注目していました。それと東海道新幹線もこの頃建設中だったと思います。今でも覚えていますが、昭和39年の学園祭、五月祭というのがあるのですが、その時の土木工学科の展示が首都高速の模型の展示でした。たしか首都高一号線はもう着手していたのではないかと思います。要するに社会基盤整備、いわゆる公共事業を一生懸命にやっている時代ですから、そんな大規模プロジェクトに参画してご飯を食べられるというのは、大変魅力的でした。他の分野、例えば機械工学に行っても、どこかの工場で機械の部品を一生懸命作ったとしても、あんまり世間から見てわからない。

建設会社の広告で「地図に残る仕事」というフレーズがありますが、そういう何か直接的に社会に役立つような、目に見えるような仕事をしたいという気持ちがありました。それで土木の道に進んだような気がします。格好良く言えば、世の中に役立つ仕事をしたいと思ったということでしょうか。(笑)


土木が社会に求められていた時代

中野: 土木は、社会的な評価のある仕事だという思いだったのですね。

水野: その当時は、評価されていたと思います。すでに本四架橋の話だとか青函トンネルという大計画が実現化するという話になっていました。実は、私は、卒論では吊り橋の風洞実験というのをやっていたんです。昭和40年に卒業したものだから、まだ本四公団という組織はありませんでした。確か出来たのが昭和45年じゃなかったかと思いますが、もし出来ていたら、きっとそっちに行っていたかもしれません。

中野: 興味があったのは、川は川でもダムではなくて吊り橋の方なんですね。

水野: おそらく(笑)。とにかく大型プロジェクトに参画したいという気持ちがあったのは確かで、役所に入りたいという気持ちはあまり強くなかったと思います。僕には、大学院で修士に行くという選択肢はなく、卒業したらすぐ就職しようと思っていたこともあって、公務員試験にも受かっていたので、進路希望としてはいろんな方面に○印をつけていたのだと思います。その中で恐らくダムにも○印がついていたのでしょう。

当時出来たばかりの水資源開発公団が、大学の就職担当の先生のところに、建設省の面接試験も受けてなかったようだがウチに来る気はないかという問い合わせがあり、先生からも先輩の話くらいは聞きに行って来いと言うので、それが縁で水資源開発公団に入ったという訳です。

先日、リタイアした時の挨拶状にも書きましたが、それから45年間はダム一筋で仕事をしてきました。技術者としては一つの事に打ち込めたのですから、ある意味ではすごく幸せだったと思っています。

土木技術に無用の長物はない

中野: 土木の仕事は、国造りというか、直に社会を支える仕事ですよね。ただ、その大切さがなかなか理解されないという昨今の現実を見ると悲しい事ですが、技術者的視点から見たらどうですか?

水野: 本四架橋のような大きな橋はもう我が国では作る場所がないのですが、長大橋、大型の吊り橋を作った日本の技術というのはすごいものです。その技術をどうやって残すかというのは大きな課題だと思います。もう手遅れかもしれませんが。

今から考えると、本四架橋は日本の社会がものすごく元気な時に作っておいたのが良かった。昭和の三大バカ査定という話があって、戦艦武蔵が一つで、もう一つが青函トンネルだという説がありました。巨大戦艦については航空戦力の時代になるという歴史の流れからすると、たしかに時流にそぐわなかったかも知れませんが、青函トンネルが無用というのは違うと思います。歴史に残る土木の仕事です。



中野: 歴史に残るほどの技術があっても発揮する場所がなければ、いずれはすたれてしまいませんか?

水野: ああいう素晴らしい技術が活かせる場が日本では、どんどんなくなってきているので、本当にもったいない。長大橋や巨大海底トンネルも、世界に向かってやれる技術ですが、その技術を活かせる場所がないとなれば、何とか国家としても方向性を考えないといけないと思います。
先般、政と民によるインフラの海外に対する営業というのがありましたが、一つの方法だと思います。
経済が大きく成長する時は、水がいる時代

中野: 水資源開発公団に入られてから、いろいろなダムに携わってこられた訳ですね。

水野: 水資源開発公団は昭和37年5月に設立されました。当時のわが国は水がどんどん要る時代でしたから、水資源の開発事業がやりやすい制度設計をしようとして、まず法整備からやったのでしょう。まず昭和36年に水資源開発促進法が成立し、昭和37年に水資源開発公団がスタートしました。

この水資源開発促進法の骨子というのは、人口や資産、工業生産が集中している大河川水系においては、時代の要請に応じてバラバラに水開発をするのではなくて、長期的視点に立ち、きちんと計画的に水資源開発をやっていかないといけないということで指定水系では水の需給計画を作成することになっています。その計画を実行するための組織も必要となります。大きなプロジェクトですから費用もかかるので、資金調達の仕組みも必要です。そこで公団が資金を借りて工事費を先出ししてダムを造るという訳です。そうやって水資源の開発を行い、かかった費用は後から利水者から返して貰えば良いという仕組みになっています。

ですから、工業用水がいる、あるいは水道用水がいるとなれば、地方自治体は資金がなくてもダム事業に参画することで、ダムのメリットを享受できた。工業用水や水道が配水できるようになって末端の利用者から使用料を徴収し、ダム事業にかかった費用は長期間かけて返せばよいという仕組みです。

昭和40年代は、経済が成長期で右肩上がりですから、当然物価も上がっていく訳で、最初に借りたお金を何年にも渡って返済すると、最終的にはすごく安いものになります。二十以上かかって償還して良いとなれば、大きな社会資本整備を計画的、効率的に進める方法としては、すごく使い勝手の良いシステムだった訳です。
指定水系には、利根川水系の他、木曽川、淀川、吉野川、筑後川、あとからは荒川とか豊川とかも入りましたけど、そういうところの水資源開発は、ほとんど公団がやりました。ただ利根川水系だけはダムに関しては一部国交省がやっています。


アーチ式ダムのほとんどに関わった


青蓮寺ダム(撮影:安河内孝)

中野: これまでに携わってこられたダムはいくつくらいありますか、また、初めて携わったダムの現場はどこですか?

水野: 数えたことはありませんが、100以上のダムに関係していると思います。最初のダム現場は、青蓮寺ダムです。これは、公団が最初から手がけた事業で、そこで地質調査の段階から設計、施工をやり、最後は竣工式までダム建設の一式を体験することができました。また、この時にアーチダムの設計をやるため、建設省の土木研究所に派遣されました。 
青蓮寺ダムは、昭和40年の4月に工事事務所を作り、45年の5月には竣工式をやったのですからすごい速度です。用地交渉だとかそういう工事前の仕事をものすごく短時間に仕上げることができました。
水公団に入社して、最初、本社の今のダム事業部の設計課という部署に配属になったのですが、入ったばかりでやることがなかったので、当時の設計課長がこの青蓮寺ダムをアーチダムの設計を土木研究所に委託するので、担当者としてそちらに行くように言われ、現場から派遣された野中氏と二人で土木研究所に派遣員として勤務することになり、これがアーチダムに関係するきっかけとなりました。設計を終えて、現場勤務なり、このダムを通じていろいろな設計・施工を経験しました。

中野: 具体的には、どのように設計の事を学ばれたのでしょう。

水野: 地質調査は主に外部のコンサルに発注しますが、そのあと設計の図面を描くのは自分たちでしました。土木的な地質図に書き換えないといけない。例えば、その岩盤はどのくらいの強さかだとか。そういうのを描くために、時には断層も自分たちで測りに行きました。走行、傾斜が、地質図に描いてあるけど、本当にその通りかどうか確かめることから始まって、ダム本体の設計から附帯設備までやりました。当時は、直営設計と言いまして、コンサルの会社も十分に育っていなかったからいろんなことを全部自分たちで設計していました。その時、先行して造っていたのが高山ダム、これは青蓮寺ダムと同じ名張川水系の下流にありますが、工事が先行していたのと、同じアーチダムでしたから、しょっちゅう高山ダムに行って勉強しました。

短時間に地質調査の真似事から始まってアーチダムそのものの設計、いろんな附帯設備の設計、その工事監督と、自分の書いた設計図をもってダム出張所に上がってできる過程が勉強できました。その後、竣工式までやりましたから、およそダム工事の一式すべてを体験し、勉強できたという事です。
アーチ式ダムと重力式ダムとでは、すごく違うように思うかもしれませんが、アーチ式の難しい部分をちょっとだけ除いたら重力式になるように、実はほとんどの要素はアーチ式ダムの中にあるんです。だから、最初にそれを勉強できたということは技術者として、すごく良かったと思います。

中野: いろいろやってこられた工事の中で、とくに印象に残ったというものはありますか。

水野: 土木研究所は始め公団からの派遣員で行ったのですが、その後、研究員しい出向になり、土木研究所のダム構造研究室に行きました。そこで全国のいろんなダムを見ることができました。まだダム技術センターという組織がない時で、ほとんどの直轄のダムと、県営の中でも難しいコンクリートダムについては、このダム構造研究室で面倒をみていました。その時の室長がもう亡くなられた飯田隆一さん、主任研究員が今アイドールエンジニアリングにおられる柴田功さん、ずいぶんこのお二人にはご指導を受けました。

難しいダムというと、大渡ダム、大川ダムや長島ダムなどがあります。だんだん良いダムサイトがなくなり、岩盤が相当悪かった。


大渡ダム(撮影:安部塁)
重力式ダムというのは、高さが高い部分がいちばん力を受けますので、普通は川が削ってくれた岩盤は、下の方が良くて上が悪いという図式なのですが、四国の大渡ダムだけは逆で、そういう場所にダムをどういうふうに設計するか、現場ともいっしょになっていろんな工夫、経験をしました。そういう意味では、大渡ダムについては苦労しました。たしか「ダム日本」誌に、水野と山田が書いた論文があるはずです。

難しい地質の所のダムほど記憶に残る

中野: 造る側としては、岩盤が良くない場所のダムがいちばん印象的ということですか。

水野: あまりこういう話をすると良くないのですが、もしもダムが壊れるとするならば、岩盤から壊れます。フランスのマルパッセアーチダム(Malpasset Dam)が昭和34年に壊れましたが、それまで、ダム技術者は岩盤の方がコンクリートより強いと思っていたのがそうじゃないんだというのが解って、それから岩盤力学が大事だということになり、飯田隆一さんはその後、東京大学の土木工学科で岩盤力学という講座をおやりになりました。それまではそういう言葉すらなかったので、それからはものすごく岩盤に注意深くなりました。

中野: 一方、ダムを造る側として、面白いというか。醍醐味があるというか、そういうダムはありますか。


正善寺ダム(撮影:加藤敦)

水野: 面白いというのは、表現が果たしてどうかと思うのですが、やはり苦労して造ったところが、そういう意味で面白いということになりますか。国のダムだと大渡ダムと川治ダム、それからいちばん印象に残っているのは補助ダムの正善寺ダム、日南ダムです。地質によっては、掘削するとスレーキングという現象が起きることがあるのです。岩盤を掘り空気にふれると軟弱化するんです。だから掘削したら時間をおかずにすぐコンクリートを打たないといけない。正善寺ダムもそのような現場で、私がダム構造研究室長をやっている時、軟弱化した上にコンクリートを打っても良いだろうかという相談が来て、すぐに来てくれと言うので出かけました。その場ではもう選択肢はあまりありません。時間を置いたらすぐ崩れてしまうのですから、すぐに打てという結論しかありませんでした。当時、現場ではどうしたらいいのかわからなくて、ものすごく困っていました。それまで土木研究所に事前の相談はなかったので、状況を把握していなかったのです。

亡き山住さんと(右端が山住さん、中央が水野さん)
 

中野: 技術的に難しいというのは、どういう事でしょうか?

水野: 悪い岩盤でも試験した強度で計算はしますが、それだけでは十分ではありません。実際の現場では、もう全然ダメで、もうやめたという選択肢はめったにない訳ですから、最後の決断は、今までに経験したかしないかをよりどころにします。そしていかに良い状態でコンクリートを打ってもらうかということです。

日南ダムの場合は、ダム軸が折れ曲がっています。結局掘削後、良い岩盤を選んでコンクリートを打ったのでダム軸が曲がったのです。亡くなった山住有巧さんが本省で見ていて、私が土研に居て、二人で最終的にこれでいこうかと決めたのです。
日本のダム造りは米国から学んだ

中野: 先ほど、フランスのダムが壊れたというのがありましたが、海外のダム造りの主流というのはどういうふうになっているのですか?

水野: コンクリートダムの技術というのは、フランスとかイタリアとか初めは欧州の方が進んでいたようです。でも1900年代以降はやはりアメリカが世界をリードしていると思います。その中でも開拓局は西部の17州を相手にしているのですが、西部開拓時代から東のニューヨークやワシントンの方から見ると、西の方というのは未開発地ですから、そういう地域を開拓するためにできた組織でダムを数多く造っています。やはり水が足りない、治水もやらなければいけない、ということで、多目的なダムをたくさん建設しました。

一方、米国のダムには、工兵隊がやっているものがあり、組織としては、こちらの方が日本の国交省に似ていて、ほぼ全国規模でやっています。ただダムを造る技術はこの開拓局と工兵隊では、ちょっと違うのです。

中野: 何がどのように違うのでしょうか。

水野: 開拓局のダムの代表選手は、フーバーダムです。これは、重力アーチ式、厚い断面を持つアーチダムなんです。開拓局はこのダムを建設するため研究と実験的施工を行い、柱状工法を完成させました。日本は戦争をやっている時期に、ダム技術では世界で遅れをとっていますから、戦後になって高いコンクリートダム、佐久間ダムや小河内ダムを造るときに、技術者は開拓局に勉強に行ったのです。開拓局で柱状工法を学んで、機械力を駆使して施工する。戦後の大規模重力ダムを柱状工法で次々と建設しました。

中野: では、工兵隊のダム造りというのはどういうものですか。

水野: 工兵隊のダムというのは、上下流方向に断面が広くても、横継ぎ目だけで縦継ぎ目を入れない施工法でこれをレヤー打ちと言っています。コンクリートの温度が上がらないように骨材を冷やしたり、水を冷すプレクーリングを行いクラックの発生を防ぎます。そのやり方は今のRCD工法に似ています。日本は戦後、主に開拓局の柱状工法を学びましたがレヤー打ちのダムもいくつかあります。

設計者の名前が残る建築、残らない土木

中野: 日本のダムは、どういう方が造ったとかの記録があまり残っていませんね。

水野: 二年くらい前に建設技研の石井さんが土木学会の会長だった時、「地図には残っているけど、このダムを誰が設計したかが分からない」との問題提起がありました。建築だと誰それの設計だとよく言われます。例えば丹下健三さんが設計したと言っても、その陰には構造計算をやった人、具体の付帯設備の設計をした人、更にはその建物を作った人、関係者は大勢います。それを一人で代表するのは「設計者」だから何となく納得されているわけです。しかし、土木の方では、誰が責任を持ってやったのすらも、わからないということで、石井さんが会長の時に発案して、これからは建設するものについてはダムに限らず関係者の名前を残そうじゃないかというのを土木学会から出したので、すでにやっているところもあると思います。ダムの場合はたくさん関係者がいますので、技能労働者(土方)も孫に「ワシが造った」と言ってるはずです。

隅田川にはいくつも橋がかかっていますが、ちゃんと由来が書いてあるんですね。土木では他の分野もそうしなくていけないと思います。最低限のことはダムでも書いてあると思うけど、細かいところまでは書いてないので、国民目線で、そういうことも書いて残さないとまずいのではと思います。一度、どんなことを残せばよいかダムマニアの皆さんの意見もお聞きするといいですね。

今度、2012年に国際大ダム会議をやるので、それを機に日本のダム技術の歴史を少し書こうと思うけど、いろんな点でわからないことが多いです。ダムは世の中の人の役に立てば良いのであって、造った自分たちの名前なんて特にいらない、何百人と関係者がいる中で、たった数人の名前で代表させる話ではないという思いもあります。しかし、それはダム屋の美学のようなことを言っているようで、逆に言えば無責任じゃないかという意見があるのは分かります。設計や施工を含め、ダム事業に携わった人たちのことがうまく整理できるなら、その記録を残すのには賛成です。


日本には、もうダムは必要ないのか?

中野: 我が国ではもうダムが不要だと言われるようになってきましたが。

水野: 我々の年代は、毎年のように台風が来ると、例えば、伊勢湾台風だとか、伊豆も狩野川台風だとか、それはもう半端じゃない数の人が死んでいます。今では、そういう大災害が起こらなくなってきましたが、我々が先輩も含めて、地道にダムや河川改修をやってきて、そういう所で、社会の役に立ってきたとつくづく思います。

今は、八ツ場ダムが問題になっていますが、利根川の治水及び水開発のためには必要でしょう。しかし、あの計画は40年以上前に立てられ、40年間ダムが出来ないがゆえに、利根川の堤防が切れたとか、あるいは平成6年の大渇水の時に水道から一滴も水が出なかったかと言えば、それはない。スパンをすごく長くとって考えればダムは必要だけれど、個人の経験というのはせいぜい30年、親の代からでも60年です。洪水も経験していないし、蛇口をひねって水が出てこないのを経験していない人ばかりだから、もういらないのではということになる。必要は必要なのだが、いまそれを事業化する必然があるのかと問われると弱いですね。

中野: 必要かどうかというと必要だが、今すぐいるのかとなると、理由が弱いということですね。


水野: 最近、洪水を経験した人というのは本当に数少ないのではないかと思います。一部ではたいへんな被害が出ているかも知れませんが。一般の人からみると他人事でしかありません。水の問題にしても、発電ダムから水をもらったり、やりくりして一生懸命渇水が起こらないように努力してきたから、そうなっているのに、一般国民から見るとそういうことが見えません。

ダムのことより、まず水の大切さから教える

中野: たしかに、そういう側面はありますね、ではダムの必要性をどう訴えたら良いのでしょう。

水野: ダムがなくて何かまずいことがありましたかというと、大多数の国民はそういうひどい経験をしていませんからわからない。我々の年代は台風でたくさん人が死んだという思い出があるから、理解もまだあると思いますが、今の若い世代にはありません。そういう人たちにダムの必要性を訴えるのはすごく難しい。私もいろいろ考えているのですが、なかなか良い案が浮かびません。

中野: あまりにも安全に配慮されすぎているので、陰での努力がわからない?

水野: 先ほどお話しました箱根用水の話を小学校で教えているというのも大事なことです。あと香川県も水が少ないでしょう。瀬戸内気候で雨が少ないので、昔から溜池を数多く造っています。水道用水は吉野川の早明浦ダムに頼っていますね。四国は、隣の県とはあまり仲が良くないと言われてますが、香川県の小学校五年生は必ず早明浦ダムの話を学んで、自分たちの水道は、他県のお世話になって水が来ているということを勉強しているそうです。

中野: 虫明先生の話にもありましたが、水の話は小学校で学んでも、中高と教えられず、また受験勉強にも出てこないので、川やダムのことは記憶から飛んでしまい、大学生になったときには、もう水の大事さを知らないと…。それに、一度災害になれば人の命がかかっているのですからね。


丸山ダム(撮影:安河内孝)

水野: そうですね。僕は土木研究所のあとに、丸山ダムの再開発の所長をやりました。二代目の所長です。この丸山ダムは、いわば関西電力の社運をかけたようなダムで、もともとは昭和29年に完成したものですが、最大の特徴は2400平方キロもの流域面積があるんです。それに、最初から発電目的で造っているので、あとから治水ダムを造りたくても、もう川筋のあちこちに造ってしまったから空いていているところがない。丸山ダムに事業参加して、国交省では2000万トンだけ治水容量をもっているのですが、流域面積が2400平方キロだからとても足らない。だから再開発でもってダムを高くして、治水容量を増強しようとしているのです。
それで、私が所長になったのが昭和57年の4月で、58年9月に上流で大雨が降った時、ダムはいわゆる但し書き操作というのをやりました。洪水を調節するためダムに水を溜めていたのですが、時間の経過とともにダムが満杯になってしまって、あとは来る水をそのまま川に流す操作になったのです。ダム本来の働きが機能しない状態になりました。

この時、下流の美濃加茂市の右岸堤から水が溢れて市街地に水が流れ込み、おばあさんがお一人亡くなってしまった。これはもう大水害が起こったんです。これで今の丸山ダムでは、容量が足りないことがはっきりしたのですが、私が所長をやってた時から、もう20数年も経つのに、まだ完成していません。ちなみに地元に一切反対はありませんでした。要はどこに予算をつけるのかという問題で、こんなに緊急なところが他にはないにもかかわらず、予算がないからと言って手をつけていないのです。また同じようなことが起こり、裁判にでもなれば国は敗訴すると思います。

中野: たしかに、人の命に関わることですからね。

水野: でも、悲しいかな20数年も経つと地元の人も忘れてしまうんですよ。丸山ダムの再開発は、今のダムの見直し43事業の中に入っていますけど、私は必要な事業、しかも早く実施すべき事業と思っています。


(左から6番目が水野さん)
迷惑施設は、誰もが反対する

中野: ちょうど今出たダム事業の中止、見直しという件ですが、ダムの必要性を感じないとか危機管理とか、今の人たちはあまりにインフラが整備されているからダムがいると思わないというか、その辺りはどうお考えですか。

水野: 一般の人々にとって、洪水の危険も、必要性も、ダムのことをほとんど知らないから、何も感じないというのがベースにあるのでしょう。それから、現政権については何も言う必要ないけれど、あえて一つ言うとすれば、沖縄の普天間基地の問題で鳩山氏がお辞めになったが、基地というものも噛み砕いていくと、ダムもそうですが、地元にとっては一つの迷惑施設です。し尿処理施設だとか、基地の滑走路だとかいろんな迷惑施設がありますが、そんなもの地元ではやって欲しくないのに、一生懸命苦労して合意形成をはかっている人たちがいる訳で、普天間でも知事さんは苦渋の選択だったと思います。ここまで時間をかけてやってきたのに、鳩山政権になったとたんに沖縄にはもう作らないと言い出した。最低でも県外にとか。今までの事をすべて無視してとんでもないことをいきなり言ってしまった。そんな簡単によその自治体も認めるはずがないですよ。合意形成までにものすごい苦労をしてここまで来たという視点が、まったく抜けている訳です。

今の見直し43事業だって、苦労してここまで持ってきたはずなんですよ。ダムがまったくムダだったら、そんなものを造る必要はないのですが、そんな事はなくて、実はどれも立派に役に立つ訳です。いろいろな経緯があってここまでもってきたものを、いきなりやめろというのはとんでもない。八ツ場ダムについては、まったくその典型だと思いますね。

中野: 見直しに持って行くにも、それこそ手順とかがあるのではと。

水野: 地元だってずっと反対していたのをようやく解りましたと言ってまとまった。それを、今度はいきなり止めた。それはないでしょうという声が上がるのは当然です。前原大臣が説明に行くと言っても、またそれで空気がおかしくなったでしょう。関係知事が全部、止めるなんてとんでもないという話になった。双方の努力を無視して簡単な話で終わらせられることじゃないですよ。役に立たないというものなら別ですが、そうじゃない。ここまで一生懸命やってきた経過はどうしてくれるのか、という話になりますよ。まったく普天間と同じですよ。八ツ場ダムは地元が反対しているならば仕方がありませんが、ここまでやってきてやめるなんてどうにもなりません。


厳冬の観音閣ダムサイト(前列右から二人目が水野さん)
日本のオリジナル、RCD工法

中野: 話は変わりますが、RCD工法では観音閣のダムの方に行かれたそうですが。

水野: 従前の柱状工法は、手間が大変なんです。例えば、大きなダムを造るのに15mずつのブロックに分けて上下流方向にも適当な長さに切って、そこにコンクリートを打って、パイプクーリングをして、さらにジョイントグラチングという間隙を埋めるという難しい技術があります。そういうのはもうなかなか、技術、技能職の人を確保するのも難しいし、もっと簡単にできないかということになったのが昭和40年代の終りくらいからです。そこで出てきたのが内部をバイブレータでもって締めるのではなくて、ローラーで上から締めたらどうかということになりました。そのことについて中心になって努力されたのが広瀬利雄さんです。広瀬さんはこのたび国際大ダム会議から、表彰されましたが、RCD工法の開発など多くの業績によるものです。

中野: 簡単な施工法というと、どういうふうにやるのでしょう

水野: コンクリートダムの技術課題は、いかにクラックを入れないようにするかということです。コンクリートは、打設すると温度が上がって、それが冷える時に収縮しますから、うまくやらないとヒビが入ってしまう。それを防ぐのがブロックに分けて、柱状にコンクリートを打設する方法ですが、それは結構手間ひまかかります。そこで、コンクリートは平面状に広く打ち込み必要があれば後から継ぎ目を切ればよいのではということを原点にしています。

広瀬さんの苦労話をお聞きすると、『ローラーで締めるなんてとんでもない話だ、コンクリートを堕落させるな』と先輩から言われたそうです。大川ダムの下のマットコンクリートをRCDで実験施工して推し進めてきたのは広瀬さんです。ローラーで締めますから高低差もなく具合が良い。僕が最初にやった青蓮寺ダムは、アーチダムで反り返っており、打設現場へは型枠をよじ登っていくのですが、型枠にバケットがぶつかり、職員が一人落ちて死んでしまったんですが、私自身も現場で手を放したらお終いだと思って昇っていました。RCD工法は、そうした柱状工法でなく面状工法なので、安全面でもすぐれている訳です。島地川ダムが(昭和55年完成)最初のRCD工法のダムですが、その後の大規模重力式ダムはほとんどRCD工法でやるようになりました。また、唯一海外のRCDが観音閣ダムです。

中野: RCDは、日本オリジナルの技術ですか。

水野: 同じような時期にアメリカの工兵隊の方が、ローラーで締める工法を勉強していたんです。僕は昭和51年にアメリカのダム技術について一人で勉強に行き、二ヶ月くらいあちこちを見てきたことがあるんです。工兵隊の試験場(WES)では、RCCの研究をしていました。

日本ではRCDと言いますが、他の国ではRCCと言っています。実は、アメリカから日本もRCCという名前にしてくれと言ってきたんです。しかし、当時の河川局開発課主催の会議で断ろうという話になりました。その理由は、工兵隊のダムで最初にRCCでやったウイロークリーク(Willow Creek Dam )というダムがあるんですが、これは監査廊になる部分にコンクリートではなく、まず砂を入れておくんですよ。型枠などを設置して作るのではなく、最初に監査廊になる所にはびっしりと砂を入れておいて抜き取れば空間が残る。そういう合理化の極限みたいなやり方でこのダムをやったのですが、案の定、水を溜めたら漏れたんです。その会議で、そんなのと一緒にされたらえらい目に遭うぞということで、日本の方は安かろう悪かろうという工法じゃないということで、RCD工法という事にしました。これが今でも続いているのです。


アメリカとの技術協力 発表する水野さん
工事のスピードアップに挑戦

中野: RCDも、RCCも同じ頃に、同じような発想で双方で研究開発をしていたのですね。

水野: ほとんど似ていますが打設スピードに大きな差があります。RCCの方がはるかに早いのです。後輩の悪口を言う訳じゃないけれど、RCDはけっこうな時間がかかる。佐久間ダムは、高さ155mのダムですがすごく短時間でコンクリートを打ちました。私らが若い頃、コンクリートの打ち上がり速度は、1day・1feetじゃないといけないと教えられました。要するに1日に30cmは上げろと言われたものです。今、CMED(ダム工事総括管理技術者)の人たちがいろんな勉強をやって、RCD工法ではどのくらいの打ち上がり速度になるかというのを調べたら、1dayで1フィートなんて一つもない。せいぜい10cmちょっと、昔の1/3くらいです。佐久間ダムの時代の方が、速度が早い。

ただ現場にしてみれば、いろいろと言い訳もある。昔は、夜コンクリートを打つのは当たり前だったけれど、今は、環境問題の制約があるなど、社会情勢も大きく変わったということで、一概には論じられないところがありますが、もともとは打ち上がり速度を上げて、全体に手早くやろうよというのが、RCD工法の発想だったんです。

中野: 技術が進んだはずなのに、まだ佐久間の頃には及ばないというか。

水野: 全然足元にも及ばない。いかに先輩たちがすごいかと思いますよ。

世の中に情報を流すということは…


長良川河口堰(撮影:さんちゃん)

中野: 話は変わりますが、長良川河口堰での反対運動が起きた時、ご担当だったのですよね。その時は、どうだったのですか?

水野: 新丸山ダムの所長をやって水公団にダム事業部の調査役で戻ったのが昭和60年の4月です。昭和63年に長良川河口堰の現場で、起工式をやろうとした時に、それに合わせて反対派の人が郡上八幡からカヌーで降りてきて一斉にマスコミの前で、河口堰反対という気勢をあげたんです。また、新聞にも建設反対という意見広告が出た。それを総裁が見て、いやな予感がするから、当時のダム事業部長の毛涯さんに命じて、すぐにこれに対応できる組織を作るように指示し調査役はラインではないので、水野おまえがチーフでやれと言うことになったのです。
その後、企画調整室長だとか、中部支社副支社長とか、ポジションはいろいろ変わりましたが、最終的に平成7年に長良川河口堰のゲートを降ろす時まで携わりました。当時は、いかに工事を止めないで完成させるかというその一点でした。一度止めたら再開は相当困難と思っていたからです。日々、現地で起こることをどうやって転がしていくかという点では大変でした。ちょうどその時、竹村公太郎さんが中部地建の河川部長で、企画部長が青山俊樹さんです。松田さんが中部地方建設局長でした。現地と、霞ヶ関では微妙に違うところがあるんですが、何とか完成できました。

河口堰ではダムとは畑違いの苦労があった

中野: いろいろと苦労したとは、竹村公太郎さんもおっしゃっていましたが。

水野: 彼は最大の功労者だろうと私は思っていますよ。マスコミの書きぶりで世論は大きく影響されますからマスコミへの説明を重視しました。そういう方面に誰も知り合い、友人がいないんですよ。徹底してマスコミにたたかれているときに、事務屋の人たちは、最初のうちは技術屋の集団でも何とかなると思っていたのでしょう。ところが技術屋ばかりでは、限界があります。それで、こちら側の作戦としては、まずいろいろなところに説明に行って、多数派工作をやりました。私も国会議員の先生のところに、これは必ず水公団と河川局開発課の補佐クラス、専門官クラスとかとペアで行くんです。すごく効果があったので、国会の先生方をみんなまわりました。ついで地元でも地方建設局や県に依頼して、この議員先生は河口堰問題をちゃんと理解できているかどうかというのを調べ、名前を書いた一覧表に○や×を付けてしらみつぶしにやりました。そしたらこの○×を付けた紙がどこからか漏れ出てしまい、竹村公太郎さんがそれを指示してやらせたということになり集中砲火をあびました。しかし、近藤河川局長はおまえたちが悪いとは一言も言わなかったです。

マスコミは、あらかじめ筋書きを作ってくる

中野: たしかマスコミが最初から反対派の味方について、事ある毎に建設省が悪いという情報ばかりを流したとか。

水野: 最初は反対派のリーダーだった天野礼子さんたち、土木には素人の人たちがいろいろと説明しても反対のための反対ではどうにもならないだろうと思っていました。しかしそうもいかなくなり、彼女らと直接話し合うということになりました。竹村公太郎さんが交渉のトップになったのです。私も参加していましたが、いきなり『あの○×を付けさせた竹村公太郎』は私ですと言った。『○×の公太郎』ですと。

あの人はそういうふうに壁を作らずなんでも隠さないやり方で、あちこちの人と話をした。公太郎さんと一緒に、筑紫哲也さんとか著名なマスコミ人にも説明しました。すると、竹村さんの今のお話はすごくよくわかりました、ぜひ私の番組で話してくださいと言うんです。しかし上司の命を受けてもいないのに、わかりました、やりますとも言えないですから、それ以上はできなかった。でも、ああいうやり方で、違う分野の方とたくさん知り合いになって、情報を発信していくことができた。そういう人とのつながりという財産はすごいと思います。

中野: 八ツ場問題もそうですが、悪い情報を一方的に流す人がいますから、なかなか一般の人には本当のことを知ってもらえないということもありますね。

水野: 竹村公太郎さんのすごいところは、例えば、長良川河口堰を作ると治水に役立つという基本原則を、根気よく言い続けた事です。河口堰を作る側の技術屋の口から、いろいろ理屈を言っても、なかなか一般の人には理解できないところがあります。三段論法みたいで風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話ですから。例えば、河口堰を作らず、下流部で洪水を流すとなると、堤防を高くするとかいろんな方法があるけれど、ちょっと高くするだけでも新幹線から国道から高速道路と、いろいろなものを掛け替えなければいけない。だから、河床の方を深くしたい。すると川の断面積が広くなるから、流れる洪水の量が増やせるはずですから、その理屈は誰でも分かりますが、今度は、満潮になると海水が川を遡ってくる。だから河口堰を作って海水が入ってこないようにしてから、浚渫をして河床を掘って深くする工事をやった。結果としては、河口堰を作る前と後を比べて、状況はすごく良くなっているけれど、それを一般の人に解って貰えるのにはちょっと時間がかかるでしょう。

川を浚渫して深くするには、塩(海水)が入ってこないように一度止めて掘らないことには仕方がないのですが、一般の人から見たら、河口堰というものがそういうふうに働くというのが、まず理解できない。上から来る水を単にせき止めるものだと、頭からそう思いこんでしまう。川の水をせき止めたら治水の邪魔になるじゃないかと誰でも思いますが、実はそうじゃないという、河口堰の本質を解ってもらうのが本当に難しい。

途中で、こんな話がありました。あそこの川幅はすごく広いので、図に描いて説明するのに、我々は縦横の縮尺を変えた絵を作って説明しようとしたのですが、これがけっこう堤防が急坂に見える。すると一般の人から見れば、なぜそんなに急坂になるのかと、今度は別のことが心配になってしまうんです。それを知って、河川部長が部下に言って作らせたのが、縦横いっしょの比率で作った図です。どれだけ長くなっても良い、巻物になっても構わないからと言って作らせた。そうすると、一目見て川幅がこんなに広く、それに対する堤防の大きさがわかる。そういう情報の伝え方という面でも、竹村公太郎さんはいろいろアイデアを出して、それはすごかったです。

組織がひとつにまとまらないと対応できない

中野: 河口堰の話は、本当にいろいろありますね。

水野: 「証言。長良川河口堰」という本は読みましたか?あの本は、一つの組織がとんでもない反対運動をくらって、最初は組織も一本にまとまらない状況がよくわかる。建設省開発課業務で水資源開発への批判です。当時、隣の治水課では、最初はそんなにひどい話と思っていないから、開発課の人たちが苦労しているだけで、対岸の火事を見ているようでした。だから近藤さんが河川局長になった時に四課長、事務屋さんの課長もみな集めて、河川局としてこの問題を扱わないともたないと思うけどどうかと言って、まとまってやりましょうとなった。それまでは開発課と水公団だけでやっていたのだから、その時がいちばん私は苦しかったのです。ここでつぶされたら水資源開発公団は終りだと思っていましたから。近藤さんが河川局長になってからは全局体制になり、それで水資源開発公団はものすごく助かったと今でも思っています。

ちゃんと戦って、裁判には負けなかった

中野: 長い水との関わり合いの中で、むしろ人との間でいろんなご苦労がありましたね。

水野: その時の部下で一生懸命やってくれた人に橘君というのがいました。当時は支社の審議役でしたが、長良川河口堰が完成し、人事異動の時、岐阜の出身だから徳山ダムの現場をやるかと言ったら、ぜひやりたいと言うので、本社と掛け合って徳山ダムの所長に出した。でも途中で身体を壊して亡くなってしまったので、それだけは心が痛いです。無理をさせたのではないかと思って…。橘君は、河口堰問題では、裁判とマスコミの窓口を主にやっていました。

 当時、中部地方のTV放送で流れたものはいわば、マスコミを使った情報戦です。でも、我々と天野礼子さんたちとのいろんなやりとりについては、どちらかというと場外戦のようなものです。裁判が公式戦なんです。もしも工事差し止め訴訟で負けたら、これは河口堰事業が本当に終りだから、負けないようにしなくてはいけない。岐阜地裁の判決は、私が中部の副支社長の時でした。判決の一週間前には、NHKがローカルの時間帯に特集を組んでて毎日、反対派と公団の意見をぶつけ合いを企画しました。

橘君はその調整役で、出演者は水野です。録画番組の場合は、ビデオをたくさん録られてもTV局の筋書きに都合の良いところだけ切り取ってパッと使う。私らはさんざんそういう事をやられた経験からから、橘君は決まった時間で一切カットなしの条件を出しました。たしか40秒だったと思いますが、VTRで切った張ったが一切出来ないようにして対抗しました。裁判はこちら側の勝訴となりました。

中野: 竹村さんもそう言われました。都合の良いメッセージだけとり出されてイメージをつくられてしまうと。

水野: テレビを見ている方は、それほど真剣に見ている訳じゃないから、流れの中で河口堰はよくないというイメージが出れば良いと…。録画の場合は、全部それをやられてしまいました。

中野: 河口堰問題の対応は、本当にたいへんでしたね。

水野: もう河口堰の話は、例え一昼夜あっても話し尽くせません。だけど、すごく勉強になりました。環境問題についても、環境そのものに対して非常に勉強したし、国民がそのような意見なら、それでしょうがないと思うようになった。すなわち決めるのは我々じゃないと。しかし、作られたイメージ、いわゆる世論誘導に乗ってしまう人が多いというのは、国民の意識レベルが低ければ、実際そうなるものだとも思いました。これには、いろいろ異論もあるでしょうが…。

 我々、専門家集団の中では、こうした技術の事は、我々の方がよく知っているのだからという思いはあります。ただ単純にそう考えてしまうのも良くないと反省しました。なんでも世論に聞け、多数決で決めれば良いというような考え方がありますが、一方で、本当にそれで良いのかという思いもあります。問題を受けとめる側も、自分に関係することだけにしか興味を持たない。今はそういう環境の中で我々は仕事をしていかないといけないということを学びました。だから技術の専門家でも、専門家だけがわかるような仕事をしていてはいけない。一般の人相手にこそ、基本的には興味を持ってない人にもちゃんと説明できるだけのコミュニケーションをとる力を持たなくてはならないと思います。

公共事業の中には迷惑施設もあるが…



中野: 虫明先生も自治会で水害への備えを話してもあまり興味を持たれなかった、大学院生に話しても、関心は薄かったとおっしゃっていました。

水野: 例えば、ゴミ焼却場や火葬場を作ろうという市長さんなんかは、本当にいやになるんだろうと思います。火葬場のようの社会に必要なものなのに、どの場所へ持っていくとしても、まず近隣の反対がある。自分だって死んだら火葬にしてもらうのですが、とにかく自分が住んでいる近くには作るなという、近視眼的な反対派には、それだけしかない。

中野: いわゆる迷惑施設は、自分の近くには作らないでくれというエゴがあると…。
水野: ダムの用地交渉なんかで、ものすごく苦労しながら交渉をやっている人たちがいる。そういう仕事、一生懸命やっている人たちがいるということ自体を大多数の国民は一切知りません。土地を売り渡す相手側の事を考えて、考えて進めています。それを私は日本的民主主義とあえて言いますが、あまりにも個を大事にしすぎて、公の利益というものを低くみるシステムです。一言で言えばそういうことだと思います。

事業を行う側にとって、それはすごく厳しいですよ。ほんのごく一部、少数の人だけが反対していても、強引にはやれない。こんなふうに公的な事業を進める国は世界にはあまりないでしょう。例えば、土地収用は、反対している人を5%まで絞ってからにして下さいということがありました。人間はだいたい20人集まると、中には変な人も一人くらいはいますから、そこまで行くのにすごく時間がかかります。ダム事業は時間がかかっていることが最大の弱点です。なぜもっと早くやらないのだろうとごく普通の人でもそう思っていると思います。

中野: 八ツ場ダム問題もそうですね。父親の代は何が何でも反対だったけど、今は現実を考えるとそうでもないという声もあります。

水野: 例えば、成田空港がなぜなかなか出来ないのかと、世界の人から見ると日本というのはなんてバカな国なんだろうと思われても仕方ないでしょう。一方で、ハブ空港が必要だ、近隣の国に遅れているなんていう論調があるのは、一体どういうつもりかと聞きたい。国家戦略がありません。

ダムだって似たような議論だと思います。我が国では、大きな土木の事業を進めるにあたって、手順を尽くすという意味では、本当によくやっていると思います。ただ、僕は何も早くやるために強引に進めれば良いと言っているのではありません。社会基盤を整備していくことの重要さについて、国民みんなが本当にその意義というものをよく知らないでいるままだから問題だと思っています。今の政権には、そういう国づくりの芯というか、その意義というものをちゃんとわきまえている人は、本当に少ないのではないでしょうか、それを心配しています。なんにしても言動が軽すぎると思いませんか?

なかなか変わらない、縦割り行政

中野: 意義あるインフラ整備を一生懸命にやっている人がいる。都市で使う水のために、へんぴな山の中で黙々とダムを造っている人もいる事をぜひ知って欲しいですね。

水野: 我々技術屋だと、最後にはダムを作るという技術屋ならではの醍醐味というか、仕事の楽しみがありますので、そういうことで納得して準備作業を一生懸命に我慢してやっています。ダムの所長さんも技術屋ですから、人里離れたところで精一杯頑張ってやっています。だけど、今のダムの事業制度というのは、そんなに簡単には、建設目的を変えられないのです。例えばダム事業費というのは、目的ごとに割り振られています。八ツ場でもそうだけれど、いろんな目的があって、お金の出し方も事細かに決まっている訳です。しかし、今やあっさりとひっくり返る。次の日には、ダムはもう要らないとか簡単にそういうことを言うわけですよ。

これまではダムを作る目的をなるべく変えないという方針でやってきたのですが、今では結構柔軟に変えたりするようになってきました。ただ一般論としては変えないのが方針です。調整がいろいろ要りますからね。でも一般の人からみると40年も経つと社会も変わってきたのだから、なぜ目的や事業の中身を変えないのだろうと不思議に思うでしょうね。それは普通の感覚だと思いますよ、社会がいろいろ変わっているのだから、変わらない方がおかしいと思うのが自然です。

だけど、そこまで変わらないというのは、行政の組織がたて割になっていることも影響していて、例えば、工業用水だと経済産業省、水道だと厚生労働省、農業用水だと農林水産省、治水は国土交通省、水利権も国土交通省とかね、こうした縦割行政になっているものだから、事業の中身を変えていくというのは、ものすごく大変です。

各省が補助金を出していますが、国民の目から見れば、そんな補助金なんて、みんな税金がベースなのだから全部一緒じゃないかと思うのが自然でしょう。でも、経産省から貰っている補助金と、厚労省からもらっている補助金とは、それぞれ性格が違うので、その用途をちょっと変えようと思ったら、今まで使ったもの全部についていろいろと調整しなくちゃいけなくなる。法律に基づいた補助ですから、あれこれ思いつくままにはできないのです。何か変えようとすると遡って根拠となっている法律を変えるようなことまで考えないといけませんから、そんなに軽くないのです。

中野: なるほど、予算の目的が違うというのは、法律的な根拠が異なるということなんですね。

水野: 私は、水資源開発公団育ちだから言わせてもらいますが、ほんとに水に関する行政がいくつにも別れているが故に、ほんのちょっとした簡単なことも出来ない。だからずっと変えないでやってきている訳です。しかし、一般の人からみたらそんな事はわかるはずもないので、社会が変わって工業用水がいらなくなったら別の目的に変えれば良いじゃないかと思うでしょうが、実はそんなに簡単ではなく、用途変更は過去に例がありますが、ごく僅かなものです。

中野: なるほど、そういう難しさがあるのですか。治水面では何かご意見がありますか。

水野: 例えば、洪水調節の説明をする時に、いつもこういう一本の線が出てくるのです。横軸に時間が書いてあって、縦軸に洪水の流量が書いてあって、ダムがなければこういう線になりますが、これを上流の方のダムでこの部分を溜めるんですよと、いかにも解った風な絵になるんです。我々技術屋から見れば解りやすいが、一般の人には解らないだろうと思います。

というのは、「どうして洪水を一本の線で表現できるのだろう」と、まず一般の人々は入り口で、行き詰まってしまいますよ。しかもダムが出来て40年も50年もたってて、いろんなデータが集まっているのに例えばパンフレット一つにしてもその絵がいっこうに変わらない、そういう入り口のダメなとこから直さないとなかなか理解されません。

一般の人が解るように、どこでつまずくかと考えたらもうちょっと、パンフレットもいろんな作り方があるのではないかと思います。これから私も少し時間ができたからそれを考えようと思っています。一般の人が理解できず、つまずいてしまうところを我々専門家は疑問も持たずに入ってしまう。一般の人から見たらいろいろな雨の降り方があるのに、なぜ洪水が一本の線なのかと思ってしまいますよ。

地元の役場も知らない、ダムの但し書き操作

中野: 先日、防災の日でいろんなテレビ番組があったようですが。災害で思い出されることはありますか。

水野: 平成16年に新潟県で、かなり局地性の豪雨で被害が出ました。その時の第一報の朝日新聞の記事を持っていますが、ダムが放流したから堤防が決壊したとなっています。ダムの下流の方から見ている人たちからすると、通常でもダムが放流するときにサイレンを鳴らしますが、大雨が降っている時にサイレンを聞いたらドキっとしますよ。下流にいる人は、いまダムが放流しているんだと、ダムが放流したから堤防が切れたと、状況からもそう思ってしまった訳です。もしダムがなかったらそれまでダムが溜めていた雨水はもっと速く流れ下ってきて、ダムが放流する前から洪水になっているとは誰も思いもしない。ダムというものの働きの本質を理解していないからです。私は地元役場の職員もそう思ったところが一番の問題だと思っています。


大雨で洪水がダムに入ってきて、当然カットして放流して、それでも満杯になってしまって、そこで但し書き操作をした。でも下流から見ると、そういう状況はわからない。洪水期が近づいた時に、町の役場の職員には、ダムというのはこういう操作をしますという事前の詳しい働き方の説明が要ります。ダムが満水になって、いよいよ最悪の場合には、但し書きという操作があって、入ってくる以上に流すことはないのだけれど、入った分をそのまま流すという、そういう事の本質をきちんと説明をしておくべきだと思いました。

私は、当時、大ダム会議の副会長で広報担当だったので、治水課の補佐に来ていただいていろんな話を聞きましたが、そういう事を役場の職員に事前にしてありますか?と聞きましたら、その時の答えはNoだったのです。水資源機構では、少なくともそういうことはやっているだろうと思ったら、どうも説明してない方が多いみたいで、これは大きな問題だと思いましたね。

中野: このインタビューでも、多くの方にいろいろとダムの広報についてのヒントを伺ってきましたが、とにかく今までは、発信する情報が少なすぎると。

水野: だいたい自治体の職員に、きちんとダムの働きを説明するという、そういう地道なこともやらないでいて、新聞にそんな事を書かれてしまっては駄目です。市町村だって予算がないから、解かる人間だっていないし、専門家を雇っているわけじゃない。だから私はCMED会に話した時に、プロなんだから、市町村の危機管理アドバイザーとかをやる仕組みを考えたらと話ました。CMED会だったら、なにか崩壊などのまずい事が起こったら、すぐにこれをやるには重機を持ってきて何日間かかると言えますよ。

去年、兵庫県佐用町で集中豪雨が起きて、避難勧告が出て、避難所に行くまでに流されて亡くなった。それで町が訴えられている。しかし最近は、時間あたり何十ミリと雨が降ってしまうことがすごく多い、大河川の氾濫じゃなくて、小さい河川、名もない河川ですよ。役場の職員もこういうのは経験をしたことがないから、どれくらいの時間でどれくらい水位が上がるかというのが分からない。だからまだ大丈夫と思って避難させたらそしたら急激に水位が上がってしまった。役場の職員では分からないかも知れないけれど、霞ヶ関の本省ではそういう中小河川のデータをいっぱい集めて来て、そういう時のマニュアル、ガイドラインみたいなものは作れるはずです。利根川の治水も大事ですが、そういう小河川の危機管理も力を入れてやるべきだと思いますね。

中野: 最近のゲリラ豪雨だと川幅の狭いところはホントに危険ですね。

水野: 一般の国民の皆さんには、ダムのことをもう少し理解してもらわないといけないと思います。当然、防災担当の職員というのは地方公共団体にはいるわけだから、まず、ダムから放流して堤防が切れたという事はない、そういう解釈は違いますよと、役場の職員がちゃんと言ってくれるようじゃないといけないと思います。

ダム管理のあり方も時代に応じて変わるはず

中野: 今後は古いものをきちんと、維持・管理していくという仕事も大事だと思いますが。

水野: 神戸の水道を担っている布引五本松ダムは、1900年に完成し、役立ってきました。満百十歳になりました。兵庫県南部地震に耐えましたが、漏水が多くなり、補修、補強をしました。これからはどんどんそういう仕事をする時代になると思います。


満濃池(撮影:ふかちゃん)

中野: ダムを造りの技術も伝えていかないといけないですね。

水野: もう新しいダムをたくさん造る必要はないのかもしれないが、ダムは全く必要ないというような意見は論外です。例えば、満濃池というのがあるでしょう。あれも、解っているだけで空海が800年代に造った。我々はもう1200年間も使ってきている。いくら技術が進歩したとしても、絶対に必要なのは間違いのないことだから、大事に使っていかねばなりません。たくさんのダムが日本にあるけど、一つひとつがおかしくならないように、維持・管理しなくてはいけません。さらにダムの技術が分かっていないと適切な管理もできません。
日本は決定的に悪いことが起きたらそれを直しますが、悪いことがないと直さない癖があります。悪いことが起こらないと予算を出そうとはならない、そういう風潮の中で、現役の人たちは苦労しているんです。決定的に悪くなる前に、例えばこのゲートを取り替えましょうとか、なかなか言えない。言えたとしても、そんな予算は出せるかという話になってしまう。維持・管理の考え方に、使えなくなる前に直すという事前予防という考えがありますが、なかなかお金を出す人たちに理解されないようです。

中野: 悪くなってからだと、一気にどんと来るのではないですか?

水野: それこそ、災害に備えるためには、普段からもっと計画的に、上手に予算を出す仕組みが必要だと思います。いろんなレベルで、考え方、発想法を変えていかねばいけないと思います。


ダムマニアの人とも仲良くして理解を広める

中野: 今はネットによって、簡単に情報を発信したり、収集していくことができるので、そういうのも利用してやっていこうと。

水野: さっき言ったダム管理や、洪水調節という仕組みも、一般の人にどういうふうに解ってもらったら良いのかと、もっと考えるべきです。ダムマニアの人なんかにどこが欠けているのか是非聞きたいですね。

中野: 先日のダムマニアさんのトークイベントでは、木津川の3つのダムの連携操作で洪水を防いだというのを、「ハイドログラフで泣いてくれ」と題して発表がありました。ダム工学会のイベントにも出て貰いますが…。

水野: それは頼もしい限りです。我々もいつまでも洪水調節の働きを説明するに、一本の線だけだと芸がない。ただ一つの絵に、いくつも情報がありすぎています。そういうのをちゃんと分かるように説明していかないと。詳しいことはともかく、パッとみてわかるようでないといけないですね。

以前に「日本ダム物語り」というのを大ダム会議で作りました。水の縦割行政の中では、国交省では水道のダムの事なんて書けない訳です。だけど大ダム会議だと全部のダム関係者が参加しているため「ダムの役割」というのをまとめることができ、私は労作だと思っています。それを分かりやすく、書き直し、出版し、マスコミにも配りましたが、一般紙からは反応がありませんでした。地道に広報を続ける必要があります。水とダム一筋で45年やってきて私自身は幸せでしたが、我々のやっていることを正しく国民に理解されるよう努力する。あらためてそう思います。

中野: 本日は貴重なお話しをありがとうございました。

 


(参考)水野光章さん プロフィール


                                        
(平成22年11月作成)
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  [テ] ダムインタビュー(70)陣内孝雄さんに聞く「ダムが出来たら首都圏の奥座敷として 訪れる温泉場に再びなって欲しい」
  [テ] ダムインタビュー(71)濱口達男さんに聞く「ダムにはまだ可能性があっていろんな利用ができる」
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