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ダムインタビュー(84)
原田讓二さんに聞く
「体験して失敗を克復し, 自分の言葉で語れる技術を身につけてほしい」

 原田讓二(はらだじょうじ)さんは,昭和44年3月に九州大学大学院工学研究科土木工学専攻(修士課程)を修了された後,建設省に入省されます。土木研究所のダム部に席を置かれダムに関わる技術者人生をスタートさせます。
 関東地方整備局滝沢浦山ダム工事事務所,国土庁水資源局水資源政策課,土木研究所ダム計画官,河川局開発課,玉川ダム工事事務所長を歴任された後,(財)ダム技術センター,愛知県土木部,三重県土木部と建設省外に出られて河川に関わる土木行政を担われます。建設省には29年間在籍され,その半分近くは建設省外で勤務されました。平成10年に建設省を退官されてからは,(財)ダム水源地環境整備センターでダムに係る環境問題全般の調査,研究に携わられました。特に,国際大ダム会議の委員として数多くの会議に参加されるとともに,研究成果を論文,書籍として発表されました。


その後,矢作建設工業に奉職されても,この活動は継続されました。また,ダム工学会では評議委員,理事として活動される等,様々なお立場でダムと水資源に関わって来られました。

 昭和40年代から50年代は我が国のダム事業の最盛期とも言える時期で,幾つものダム事業が行なわれ活況を呈している一方で,大きな反対運動にも直面する時代でした。こうした中,常に最前線でダム事業や水資源開発業務に携わってこられた原田さんに,我が国のダムの歩みを振り返りながら,これからのダム事業への展望と期待を語って頂きます。

(インタビュー:中野 朱美 文・編集・写真:事務局)


転勤で九州へ

中野: はじめに,生い立ちからお聞きかせください。

原田: 父親の転勤で,3歳から24歳まで福岡市に住んでいました。“九州男児か?”と言われますが,そうではなく,九州には親戚もいません。昭和26年にお受験で福岡学芸大附属小学校に入学するのですが,大濠公園に対峙する西公園のふもとに学芸大学と附属小学校と附属中学校がありました。お金持ちの入るところだったので,おふくろは苦労しました。現在は教育大学附属ですが,ある意味,モルモット(実験)教育で,学芸大のインターンが教生先生として授業をしていました。服装は学生服で,冬も全部短パン,標準語教育でした。

中野: 標準語だったのですか。

原田: 「僕」「君」「あなた」でした。「君、何をしているんだ。悪いことをすると、先生に言うよ」と。しかし,家の周りは徳島水産の漁師町だったので,「お前、なんばしよっとか、くらっそ!」という環境でした。この経験が後になって生きて,どんな高貴な方とでも標準語で話ができるようになっていました。

中野: 通学された小学校は英才教育だったのですね。

原田: 44人,二クラスの少数でした。高校まで福岡に住んでいたので,九大に進学したのですが,大学2年の時,親が東京に転勤してしまったので,大学を受け直すわけにもいかなので,近くに下宿を探して5年間お世話になりました。この下宿は,元西日本新聞幹部の方の旧家でしたね。

中野: 逆になってしまったのですね。

原田: 普通は,田舎から出てきて東京や大阪に行って,一人になって羽を伸すのに,全員監視の中での下宿生活でしたから親に連絡がすぐいってしまうという最悪のパターンでした。しかし,食事を近くの住友建設(父の勤務先)の寮母さんが作って下さいました。江上トミさんに個人指導を受けた方で,現在まで食べた料理の中で一番美味しかった。

父の影響で土木の道へ

中野: 大学に入られて土木に進まれますが,どういうきっかけだったのですか。

原田: 父は,夜学に通って苦学して,一級建築士を取って「勝呂組」に入社しました。勝呂組は静岡の県内大手で,昭和37年に別子建設と合併し,住友建設になったのです。その時の父が,「あーあ、役所みたいな会社になってしまった。」と言ったのをよく覚えています。父はたたき上げの建設マンで,昭和23年に福岡に転勤,九州支店長まで務めて,合併後の住友建設でも支店長をし,東京に転勤後に理事で退職しました。父の死後,遺品の中から“井川ダム(昭和32年完成)の工事誌が見つかりました。関連工事を請け負っていたようです。

中野: なるほど。お父様の影響もあったのですね。

原田: 父があちこち連れて行ってくれたので,その影響なのか建設の仕事をするのは自然の成り行きだったと思います。父とは数か所の現場を見学にいきました。丹下健三氏が設計した山梨文化会館に連れていってくれた時のことですが,山梨文化会館は5m径の柱がいっぱい建っていて,そこに3次放物線で壁を擦り付けるわけです。施工屋泣かせですね。せっかく打った壁をチッピングしてぎざぎざにするのです。子供には危ない壁ですよ。建築のデザイナーは信用できない。そんなこともあって建築ではなくて規模が大きい土木を目指したと思います。

中野: 確かにそうですね。ところで最近,土木構造物にも建築と同じように,担当者の名前を付けるという議論がありますが,どう思われますか。

原田: 曾野綾子さんは『無名碑』で土木構造物には個人の名前が出ないと書いていますが,建築物の場合は(例えば,日生劇場は村野藤吾が設計した)設計者の名前が出る。ダム(土木構造物)は一人でやるものではないので,誰が設計したかわからないのです。用地交渉という最大の難関が終わると,後は大勢の人が関与しますから,誰がこのダムを作ったかは分からないわけです。

中野: そうですね。

大学は橋梁から振動の研究室に

中野: 大学時代に興味のあった土木分野は?橋やダム,どういうものを造りたいと思っておれましたか?

原田: 大学に入って興味をもったものは橋梁でしたが,最終的には,小坪教授の「振動」研究室に入りました。小坪教授は,学生時代結核で長期入院して,教授になられたのが遅かった方ですが,後に名著「振動学」を著わすなど,現在ふり返ってみても一番の知識,直観力を兼ね備えた学者でした。研究室は少人数で,工学部本館の最上階の大講義室の隣の小さな部屋でした。

中野: 現場へ実習に行かれたのですか。

原田: 大学3年の夏休みに,当時,工事が始まった“天草架橋;道路公団”で40日間,実習させてもらいました。5つの橋(連続トラスの1号橋,ランガートラスの2号橋,ディビダークの3,4号橋,パイプアーチの5号橋)全てが規模において当時,東洋一という華々しい現場でした。京大,熊本大の仲間と3人で,完成したてのRC施設(後の,1号橋の管理所)に寝泊まりし,学生実習をさせてもらいました。現場には,道路公団の国広さん,住友建設の今井さんという,コンクリート橋の最新技術にかけては日本一という両先輩がおられ,お話を聞かせて頂きました。私は,学生という事で,1号橋の分厚い設計書(横川橋梁作成)の全てのチェックを命ぜられました。

中野: 4年生で,卒業論文の研究室も小坪教授の指導でしたか。

架設開始
(天草一号橋(天門橋))

アバットのピン挿入
(天草一号橋(天門橋))
原田: そうですね。卒業論文は,新たに架設された名護屋大橋(天草を超え東洋一の規模)の振動特性についてでした。各部材の接点で,3方向の変位と回転を合わせるという解析法を編み出し,結果を後日行った起振機による振動固有周期と比較したところ,奇跡的に一致して,小坪先生からは「原田君だから出来たんだよ」と言われ,ホントに嬉しかった。その後,大学院修士論文では,長大橋の橋台,橋脚にかかる地震波には位相のずれが生じると仮定した解析を行いました。実験は,金のかからない手作りの加振実験装置を研究室の城戸氏と一緒に作りました。実験と解析結果で修士論文を完成させ,就職後,土木学会論文集に掲載されました(各支点で異なる地震波を受ける橋梁の応答解析;小坪清真,原田讓二Vol. 175,1970)


大学修士論文のための加振実験装置
建設省で現場を希望

中野: すごいですね。修士論文が掲載されたのですね。建設省に入ろうと思われたのは,どういう理由からですか?

原田: 教授には,大学に残るよう言われましたが,公務員試験に受かっていたこともあり,現場で体験も積みたいので,全国的に活動できると思って建設省を選びました。面接時に,技術調査室におられた田原先輩から「行政職の希望が多いのに、研究所を希望する奴はおかしい。君はなぜ研究所の志望なんだ?」と聞かれましたが,こちらとしては実習経験,大学院での研究内容から,長大橋の振動問題を扱いたかったので,そう回答しました。いざ配属になってみるとダム水理研究室で,希望と異なっていたので,不満を漏らしていたら,半年後に「構造系をやらせる」ということになりダム構造研究室に配置転換されました。それがその後の運命を決定することになりました。

土研赤羽支所で遭遇した方々が すごかった

中野: 建設省に入省されて,土木研究所企画室にいかれるのですね。

原田: 最初は企画室に入って,それからダム水理で下筌・松原ダムの副所長をやっていた花籠室長に仕えました。室長は,実用化に足るクリーガー曲線の研究をしておられました。クリーガー曲線というのは,比流量と流域面積の関係を地域係数をパラメタとして求めるものです(ほぼ200年に1回発生する流量確率になります)。

中野: すごい方がおられたのですね。下筌・松原ダムといえば,ダムの用地問題(反対運動)が,最も激しかったところですが。

原田: 日本のダム建設史上,最も有名で,用地補償制度を一変させたのが“蜂の巣城闘争”でした。下筌・松原ダムの初代野島虎治所長,二代目の副島健所長とも,後に土木研究所ダム部長となられ,私は,ダム構造研究室研究員として仕えました。野島さんは土研のダム部長から,昭和47年に返還された沖縄の総理府沖縄総合事務局の土木の初代次長になられましたが,土木屋の視点で数多くのアドバイスをしておられ,沖縄では今でもすごく尊敬されている方です。“蜂の巣城闘争”については,「攻防蜂の巣城 −巨大公共事業との闘い−(2000.12 RKB)、松下竜一著 砦に拠る(1989 筑摩書房)」をご参照ください。いずれも,かなり忠実に描写されていると副島先輩から伺いました。

中野: 他にエピソードがあればお聞かせ下さい。

原田: 社会人となって最初の恩師ともいえる飯田驤黷ウんには3回(土研赤羽,土研筑波,ダム技術センター)部下として仕えました。昭和40年台前半,土木研究所室長連中の間で,何故か,パイプ煙草が流行っていて,飯田さんは,終業間近になると回転椅子を回し,手前の机の上でアルミの灰皿にパイプをたたきつけて掃除を始め,周囲を見回すのが常でした。この音がすると,研究室の皆は下を向いて,さも仕事に忙しいふりをし,ひたすら終業の5時を待っているのですが,飯田さんと目があったら最後,「○○君」と机の前に呼ばれる。捕まった者は,一人飯田さんと話をさせられることになるのです。これを称して【当番兵】というのですが,飯田さんは,土木研究所一筋の方で根っからの理論派でした。方程式をちゃんと立てて解析で解けという主義ですから,部下はたまったものじゃないです。飯田さんから,「君、このディスロケーションプロブレムは、倉西正嗣さんの『弾性学』の○○ページに書いてあるよ!」「このショックウエーブ問題は、Lambの『Hydrodynamics』の○○ページに書いてある!」と矢のような指摘が飛んでくる。図書室通いの毎日でした。

中野: 難しいですね。調べないととても答えられないですね。ダム構造研究室の4年間ですっかり橋からダムになったのですね。

滝沢ダムでは用地交渉に

中野: 次に,滝沢浦山ダムにいかれるのですが,ダム現場でいちばん大変だと思った事は何ですか?

原田: 滝沢ダムでは2代目の調査設計課長でした。用地問題が片づかないので,暇だから横坑ばっかり掘っているといわれましたが,用地交渉が大変でした。上流側の貯水池予定地の地権者が大反対しているのです。ダムサイトの地主は,家は水没しないのに,上流側の水没者に気を使って賛成とはいえないわけです。反対の姿勢をみせなくてはということで建設省をいじめる。こちらはたまったものじゃない。局の中澤河川部長が現地に来られた際,ダムサイトの山を案内していたら,右岸側の大地主氏が草刈りの大鎌を振りかぶってきたので,一瞬たじろぎました。気にくわないことがあったらしくて「おまえは」と,怒っていたのです。


会議風景(滝沢ダム時代)

中野: ダムと言えば,反対されて怖いですね。

原田: 後で,河川部長から「君は大変なことやっているんだね」と言われましたが,それが日常でした。ダムは山奥の過疎の地域を水没させるため,地域住民から移転反対の声が上がるのは当然で,大規模ダムの工期は,私が携わるようになった頃から用地解決に時間を要し,大変長くなりました。一つのダムで,20年〜30年は当たり前で,現在工事の最終段階を迎えている八ッ場ダムは計画段階から既に66年経過しています。仲間の殆どが,この用地交渉段階のみに従事し,華々しい工事段階には従事できていないのが残念です。滝沢ダムには2年ほどいましたが,用地交渉と調査ばかりでした。
水の週間実行委員会を立ち上げる

中野: その後,関東地方建設局企画部,国土庁水資源局と河川行政官の生活が始まるわけですね。

原田: 国土庁は,昭和49年に,総理府の外局として正式に発足した若い官庁で,経済企画庁を核とし,建設省を始めとした省庁の寄り合い所帯でした。私が,昭和52年8月1日,国土庁水資源局水資源政策課に課長補佐として赴任した時には直前の5月に“水の日水の週間”が閣議了解され,その第一回当日でした。

中野: 8月1日が「水の日」でこの日を初日する一週間が水の週間で,今年で42回目ですね。

原田: 第一回水の週間では,ポスター制作・配布と,国土庁の会議室パネル展示のみが行われました。3代目の北野水資源局長が赴任され,第2回以降は実行委員会を作って盛大にやれという命を受けました。

中野: どのような計画をされたのでしょうか。

原田: 予算がいるという事で,まずは,内閣広報室に予算化してもらうよう働きかけましたた。さまざまな努力をした結果,101億の予算のうち3億をつけてもらうことに成功しましたが,ほとんど広告費にとられてしまいました。実行委員会の予算は,寄付を募るという事になり,局長から,国土開発技術研究センター創立時の寄付金集めのノウハウを理事長に伺って来いといわれ,当時の渡邉理事長に,経団連の花村方式という寄付金集めのルールを2時間にわたり教えて頂きました。その後,水資源開発公団の片桐広報課長と二人三脚で各種団体に寄付の依頼をしに出向きました。鉄連,電事連,全銀協,自動車工業会等…と30団体ぐらいを回ったのを覚えています。ダム関連という事で,土工協からもお願いすることになりました。

中野: 当初,実行委員会の寄付集めは大変だったのですね。

原田: そうですね。イベントの中心は,53年7月30日の銀座のパレードで,桜内国土庁長官(建設大臣兼務)と鈴木都知事(ミス東京3人娘帯同)を先頭に東京駅から銀座8丁目までパレードすることになりましたが,銀座本通りは歩行者天国という事で許可が下りず,空いているという事で電通通りに回されましたが,当日は盛況でしたね。ポスターも作ることになり,第1回はラクダという事で,2回目も動物シリーズ3案を作りました。芸術に造詣が深いという事で,下河辺事務次官に伺ったところ,大変辛口のご批評を頂きました。

土研ダム計画官として全国ダム指導

中野: 水の週間には,当協会も協力している大事な行事です。次に土木研究所のダム計画官をされるのですね。

原田: 国土庁水資源政策課にいた時,筑波移転後の土木研究所のダム計画官を命じられ,中村靖治氏,竹林征三氏,竹村公太郎氏の後任で4代目のダム計画官に着任しました。企画部所属という事で,岡本地質監の横に立派な個室を頂き,上司は飯田企画部長の命で,糸林芳彦ダム部長という事になりました。

ダム計画官時の現地調査と記録整理方法(カード方式)

中野: どのような職務だったのかお聞かせ下さい。

原田: 基本は,県のダムを一人前にしていいかどうかを判定する係で,補助ダムの現地調査を行い,予備調から実調(実施計画調査,国費が計上される)に上げて良いか,実調から建設に上げて良いかどうかという判定書を書くわけです。月曜日は在庁日と決められていたので,日曜中に筑波の宿舎に入り,月曜夜に自宅に帰り,翌火曜から土曜まで全国各地のダムを調査して回りました。

 計画官の業務は,その他,各研究室と調整を行い,技術基準をアップデートすること,ダムの事故例等各種の調査をすること等もありました。

中野: ダムの調査は一人で行かれたのですか。

原田: 県はなけなしの予算でボーリング1本を行うのがやっとという箇所が多いので,ダム調査は地質状況を判断するため,地質研究室長を始め,地質屋さんとペアで行くことが多かったですね。地質踏査図の検証,ボーリング,横坑調査等,日本中の大地の薄皮を調査でき,各地質年代の特徴等を見ることが出来たことは幸せでした。日本の地質構造は複雑で,各現場それぞれ異なった顔を持っていました。特に,グリーンタフ(新生代第三期の緑色凝灰岩)が難物でしたね。脆弱層が多いのです。それをボーリング1本で判断するのでたいへんでした。

中野: 大変ですね。全国どれぐらい廻られたのですか。

原田: 建設中とか管理ダムも含めば,200くらい行ってますね。例えば,佐賀県の西部ダム事務所は調査から建設まで全国一のダム数を抱えている組織ですが,そこでは,1日に3ダムまとめて調査をする。ボーリング見て,横坑に入って,地質踏査をして,それで夕方に一挙に3ダムの判定会をするわけです。今なら,絶対できませんね。ダム計画官の仕事は大変でしたが,おもしろかったですね。

中野: 全国のダムを見て廻ることができたことは,貴重な経験になりますね。次に本省の河川局開発課へ行かれますが。ダムの最盛期でどのような状況でしたか。

開発課はタコ部屋と

原田: 当時,開発課は“タコ部屋”と呼ばれていました。課長が頭,管理職の水源地室長と開発調整官が両目,建設専門官が口,課長補佐が8人(総務,用地,調査,直轄,補助,企画調整,管理,水利権)がタコの足ということです。

中野: 開発課でも補助事業担当だったのでしょうか。

原田: それが,タコ部屋の中でもポストにより当たりはずれがあって,土研でダム計画官を経験したことから,課長に挨拶をし,「当然、補助担当ですよね?」と聞いたら,「いや、君は直轄を予定している。山住君に確認を取っておくよ」と言われ,目の前が真っ暗になりました。当時,技官のポストは「殿様直轄」「お呼ばれ補助」「いい加減調査」「しょぼくれ企画」「格調の管理」「花の水利権」と称され,“殿様”どころか,直轄担当は3人きりで,ぼろ雑巾のように働かされるポストでした。

中野: どのような仕事をされたのでしょうか。

原田: “1に国会,2に議員,3に大蔵,4に各省,5で自分の仕事”という優先順位でした。当時の開発課では,国会質問は直轄技術,管理担当に集中していて,現在のようにITが発達していない時代でしたから,答弁は,大きな文字の清書スタイルで手書きで作成したので深夜までかかることも多かったのです。殆ど毎日の答弁作成作業がよい訓練になりましたね。

中野: ダムについて国会ではどのような質問があったのですか。

原田: 多様な質問がありました。一つ例を挙げると,昭和57年の会期中の4月20日に,大渡ダムの試験湛水位がサーチャージ水位に達した時,貯水池周辺で多くの地滑りが発生しました。GWにかけて多くの議員が視察に行き,国会は様々な委員会で質問の嵐でした。この会期で,第6次治水事業5ヵ年計画が承認されましたが,関連の質問が少なく通ったので,岸田河川計画課長には感謝されました。すぐに復旧予算を工面する必要があったので,急遽,予算流用計画を作りました。予算流用は,宮ヶ瀬ダム(28億),弥栄ダム(20億),玉川ダム(16億),渡良瀬遊水池(6.6億)が主な原資でした。連帯責任という事で,歴代開発課補佐経験者が所長をしているところを重点的に減額補正したのです。特定多目的ダムは,個別に予算書が設定されているので各関係省庁と整合をとり,大蔵省に説明をすることが必要だったので大変でした。

中野: ダム予算は調整が難しいですね。開発課から玉川ダムの現場へ行かれるのですね。

玉川ダムでRCD工法の試験施工

原田: 昭和58年4月,東北地建玉川ダム工事事務所に4代目の所長として赴任しました。玉川ダムの本体は掘削中でしたが,直轄事業で一番の貯水池容量のダムということもあって,付替道路の規模が大きく,橋梁も多数に及びました。その橋梁も橋脚だけ立っていて,桁をなかなか渡せない状況でした。田沢湖町議会の全員協議会では「減額とはとんでもない」と叱られました。

中野: 減額補正をされたのは,原田さんだったのでは?

原田: そう,因果応報ですね。町議会では,「本体施工中のダムを減額するとは、霞が関は恐ろしいことをするところだ」と,人のせいにしておきましたが…(笑)

中野: ダム本体はどうだったのでしょうか。現場の状況をお聞かせください

原田: ダム本体は,従来の柱状打設工法で28tの固定ケーブルクレーン2基による打設計画で,既に左岸側のアンカーブロックが完成していましたが,RCD工法に変更することになり,現場で様々な試験施工がされていました。RCD工法の歩掛が確立されていなかったので,施工をしながら歩掛を確定していこうと提案したら,山住開発調整官に「そんな馬鹿なことはダメだ、すぐに変更しろ」と,えらく叱られてしまいました。スタッフ不足という事で,急遽,本省の足立係長に工務課長として赴任してもらい,若手の努力もあって,無事,設計および契約変更を行うことが出来ました。

中野: 玉川ダムは,RCD工法を大規模ダムに適用した第一号のダムということを廣瀬さんのインタビューでもお聞きしました。


玉川ダムコンクリート運搬設備(インクライン

玉川ダム定礎式(1984.6)

原田: RCD工法は,従来のダムコンクリートの品質を落さず,当時,盛んに行われていたフィルダムの施工法を取り入れ,コンクリート打設のスピードを上げることを目標としていましたので,同時期に始まっていた同じ平面施工の米国のRCCダムのザザ漏れの現状を見て,同じ轍を踏まないようにしようという事で,粗骨材のGmaxを150mmとし,リフト厚を,従来の平面施工より大きい75cm以上とすることが求められました。この条件は,従来の施工法に比べ数段難しいものとなってしまいました。RCDは,スランプなしのコンクリートを振動ローラーで転圧して締め固めるという工法なので,従来の内部振動機で有スランプコンクリートを締め固める方法に比べ,均一なコンクリートに仕上げるのが難しいのです。
中野: 現場での試験施工となると,いろんな問題が出てくるのですね。

原田: そうですね。玉川ダムのように,冬季の5ヵ月間は打設ができないという気象上のハンデを抱えたダムでは,通年施工ができるダムに比べ数倍難しいのです。詳細を「玉川ダムのRCD工法;5分冊」にまとめました。後輩の打設経験のない所長から,試験施工から本体打設までの詳細を教えて欲しいという依頼があったので,その間の職員を招集し,田沢湖高原で2回ミニ合宿をしました。JVの方々にも参加してもらいました。会議冒頭「私は、2年しかいなかったのですが、その間も、私の知らないところで皆さんは勝手にいろいろなことをやっていたに違いない、ぜひとも、失敗したところを中心に洗いざらい披露して頂きたい」と,最初の挨拶をして,議論が始まり,失敗例を含めて取りまとめたものがこの5分冊です。後に,宮ヶ瀬ダムの所長になった宇塚氏が「この手の報告はめったにお目にかかれない、大変参考になった」と感謝されました。歴代ダム事務所の職員でもダム本体施工を経験できる者はほんの一握りで,タッチできない人ばかりです。その人たちのためにも事業の集大成を行い,残しておくことが重要なのです。

玉川ダムへの視察 岡本舜三先生(1983.10)

玉川ダムへの視察 阪西徳太郎氏(1983.6)
玉川ダムへ海外から視察が

中野: 玉川ダムではRCD工法の技術を視察にこられる方が多いとお聞きしましたがどのような対応をされたのでしょうか。


海外からの視察 ICOLD東京例会後のポストツアー(1984.6)

原田: 所長の時,1984年,日本で開催されたICOLD(国際大ダム会議)東京例会のポストツアーの一行が来所することになりました。東北では,浅瀬石川,玉川,寒河江,七ヶ宿と4ダムの本体施工が同時に行われていたので,このツアーは人気が高くて約90名の参加がありました。一番困ったのはトイレで,田沢湖町の公共施設で洋式トイレは,水特法で建設された町民会館の身障者用トイレだけでした。「まあ“郷に入っては郷に従え”だから和式でやってもらおう」と言っていたら,RCD工法検討委員会の國分委員長から,「欧米の奥さん連中から“日本はなんと劣った国だ”と言われかねない。洋式を用意したまえ」とアドバイスされました。困っていたら,なんと移動式の簡易トイレがあることが分かったので,4ダムで契約し持ち回りすることにして,現地に設置しました。

中野: 海外の方の視察には気をつかいますね。他の国の方もいらしたのですか。

原田: 中国から北京の外司司長一行が,RCD工法の技術を視察に来ました。現場を全て見せてほしいということで,骨材プラントにも案内しました。その後,遼寧省から技術者5名が技術習得のため現場に長期滞在することになりました。彼らは滞在費を切り詰めるということで,秋田工事事務所の分室であった駒ヶ岳の共済施設を利用してもらいました。技術者の派遣が後に,観音閣ダムの技術協力に繋がることとなりました。


中国水利水電部(1984.6)
観音閣ダムへの技術協力

中野: 玉川ダムからダム技術センターへ行かれるのですが,ダム技術センターは海外のダムの技術協力をしたとお聞きしたことがありますが。

原田: そうですね。当時,ダム技術センターでは,台湾国総統府経済部と台湾省のダムについて技術協力をしていましたが,そこに観音閣ダムの技術協力が舞い込んできました。中国初の円借款ダム事業の“遼寧省・観音閣ダム”をRCD工法で施工することになり,私は,第3次(豊田団長)と第4次(伊集院団長)の調査に玉川ダムでの経験があるので参加させて頂きました。観音閣ダムは,遼寧省の省都・瀋陽の東部,太子河の本渓市(半開放都市)の上流約40kmの小市・観音閣に建設される重力式コンクリートダムで,冬は,−40℃まで気温が下がるという過酷な条件が特徴で,12月に訪問した時は,ダムサイトの川は3mほどの厚さの氷で覆われ,通常の防寒ズボン,手袋では役に立たないほどでした。3次調査団は,現地から北京まで列車で移動し,駅から郊外の宿泊所までマイクロバス2台で移動することになっていて,乗車したバスが事故を起こしてしまいました。団員は,幸いに重い症状のものはいなかったのですが,この事故は,すぐに日本に伝えられ担当の河川計画課長補佐に“観音閣調査団全滅”との一報が入ったので大慌てしたとのことでした。第4次調査団の時にもいろいろ事件がありましたが,何とか調査を終えて,観音閣ダムは日本工営とダム技術センターがスーパーバイズすることになりました。日本工営には玉川ダムの工事課長として一緒に働いた岡田さん(8つぐらいダムをやっている大ベテラン)が再就職されていたので彼氏,ダム技術センターからは水公団から出向してもらった村田さん,両名に現地に常駐してもらいました。中国は,ダム建設の経験は豊富ですが,平面施工をやったことがないので,岡田さんは,河原でブルドーザーを現地の人に運転させて全部手取り足取りやってできるように指導するところから始めたそうです。観音閣ダムは岡田さんがいたから完成したと言っても過言ではないと思います。

中野: 日本の技術指導は丁寧ですが,−40℃まで気温が下がるという過酷な環境条件は日本の数倍シビアですね。

原田: 川は全部凍っていて下のほうで水が流れている。寒いところのダムは技術的に大変で,まずコンクリートが固まらないのです。そこで,ガーネット(石榴石)のようなものを表層に吹きつけて養生し,コンクリートを打つときにはぐんです。外側に服を着せるのが中国流です。それだけお金がかかるのですが,環境条件を考えるとそうなりますね。

中野: 玉川ダムのRCD工法が観音閣ダムでも採用され,中国の国家プロジェクトとして取り組んだ事業に協力されたことはすごいことですね。それから地方行政に行かれるのですが,どのくらい期間でしょうか。

地方行政の経験

原田: 昭和62年に,ダム技術センターの飯田理事から「愛知県河川課長に転出してくれと建設省から言って来ている」と,申し渡されました。人事担当者からすると便利に使っているとも思えますが,こちらは何も知らないところに一人で飛び降ろされるわけです。愛知県に赴任した時点では,土地も知らない,人も知らない,ましてや県の河川の事は何も知らないという悲惨な状態でした。

中野: どう対応されたのかお聞きかせください。

原田: 第一の方法は現場を見るということです。まず,土木事務所の管内図を糊で張り一冊の本を作る。そこに県議会議員の家をプロットし,近年に彼が発言した内容を箇条書きします(現在のGIS(地理情報システム)のアナログ版といったところ)。単身赴任の気楽さもあって,この冊子を頼りに,土曜の午後と日曜を利用して,車で県河川及び海岸の管理区間を見に行きました。国のそれと違って県の管理区間には管理用道路といったものは殆ど有りません。そこでなるべく河川に近い道路をジグザグに通って橋の上から川を眺めるのですが,この方法によると道路を同時に覚えることが出来るというメリットがおまけとして付いてくるのが分かりました。皆さんにも是非お薦めしたい。

 管轄の河川を見に行ったことは,どうもだいぶ知られていたようです。(掛け値なしに嬉しかったことですが)県を去る時,刈谷市の建設部の若い衆から“たくさん現場を見て頂いて有難うございました”と頭を下げられましたし,後日,三重県の県会議員から“君はずいぶん現場を見て歩くようだね”と言われたりもしました。

中野: 初めての地方行政は勉強することが多かったのですね。三重県はどうでしたか。



原田: 愛知県河川課長で4年近くいて,建設省河川局防災課に戻りましたが,1年で今度は三重県の土木部長を命ぜられました。当時,長良川河口堰の反対運動が強まっていました。河口堰は岐阜県にあると思っている方が多いのですが,河口堰本体は三重県の桑名市と長島町にまたがっていているのです。湛水区域の大半が岐阜県(愛知県は木曽川との間の背割堤に絡む2町のみ)です。なぜ岐阜県がクロースアップされるかというと,アユの遡上に影響が大きいという事で,郡上八幡の漁協を筆頭とする2万人を超す反対運動があったこと,昭和51年の大災害で長良川右岸が決壊したので,これを契機に岐阜県は機動隊を導入してまで県議会で河口堰の実施方針を議決したという歴史がありました。三重県にとっては,鮎に関心はなく,河口域のハマグリ,シジミ漁が大きな問題でした。
 こういう状況の中,赴任したのですが,挨拶回りの際,いきなり県警本部長(警察庁組)から「あなたは、河口堰をでかすために来たそうですね」と言われ,そんな認識が蔓延しているのか,前途多難だなとがっくりしました。様々なことがありましたが,ここでは省きましょう。長良川河口堰は土木部の本来業務ではなかったのですが,結局,平成6年,野坂建設大臣のゴーサインにより,堰が閉鎖され運用が開始されました。

中野: なるほど。

原田: 土木部長は,建設大臣と運輸大臣を兼ねているわけですから。港湾も住宅もやっているわけです。一言でいうと,直轄とか公団というのは点と線の行政で,間口が狭い。県は面で,市町村はもっと面です。細かい問題だらけですね。私は,愛知県勤務が長かったので三重県のことも分かっているつもりでしたが,なにひとつ考えていた通りではなかった。組織というものは入ってみて初めて分かるということですね。

退官後,ダム水源地環境整備センターでの仕事

中野: 建設省を退官されてからダム水源地センターに着任されますがどのような仕事をされたのかお聞かせください。

原田: WECは,昭和63年に設立された若い組織で,私がダム技術センターに在籍していた時,河川局開発課の監督下でセンター内に準備室がつくられました。組織改革後は河川環境課所管となります。ダム技術センターがやらない“水質,堆砂,水源地対策,自然環境問題,管理等”というダムの業務を請け負う組織です。ダムセンターは表の舞台で,ダムについては設計,調査をやりますが,WECは,ダムは悪いというのをどうやって払拭するかという作業をするのです。マイナス面を全部請け負うのです。

中野: 実際にはどのようなことでしょうか。

原田: 例えば,猛禽類の問題がありました。猛禽類がいるとダム現場が止まるわけです。クマタカは林の中にいてなかなか見つからない。イヌワシは300kmも飛ぶので生息地がわからない。猛禽類が住んでいるとわかるとどうやって飛んだか全部調査して飛翔図を描き,対策を練るのです。

中野: 猛禽類はどうやってみつけるのですか。

原田: ある時,研究でお世話になっている生態学の先生たちの前で「猛禽類をみつけるためにはダムを計画すれば良いのです。どこでも発見されますから」と冗談を言ったことがあります。それほど頻繁に見つかる。徳山ダムは典型的な例で,クマタカが12つがいいるわけです。528所帯の人が住んでいた時は,猛禽類は周辺の山にしかいなかったのですが,全村移転して,道だけが残って宅地だったところに草が生え,そこにネズミが繁殖する。クマタカは草地だけではなく道があるからネズミをみつけることができる。だから,12つがいが寄ってきて住んだのです。


中野: えさがあるからですね。

原田: 徳山ダムはそれで苦労したわけですよ。自然保護派の人が主張する自然を保全するという事は,現状ではなく,人が住んでいたころの自然が原点だと思うのですが。

中野: そうですね。

原田: 堆砂や水質問題も古くて新しい問題で,最近では,ダム反対運動の論拠にもされてきています。自然環境問題は比較的新しい問題で,生物多様性が尊ばれ,ダム建設はそれに悪影響を及ぼすという議論が展開されています。ダムに係る事項では水源地対策が最も重要ですが,生態系問題は,なかなか正解を見出すのが困難なため,WECでは,環境問題を扱うスタッフ,組織を整え,生物学者を始めとした多くの自然環境に携わる人々と接触し,議論を戦わせ,解決方策を見出すことを目指しています。WECでは,生物の先生とたくさん知り合えたので,業務を通じていろいろ詳しくなりました。

ICOLD(国際大ダム会議)で環境委員会委員に

中野: ダム水源環境整備センターの理事と同時期にICOLDで環境委員になられますが,どのようなことからだったのですか。

原田: JCOLD(日本大ダム会議)の馬場専務理事から,WECの荒井理事の後任でICOLDの環境委員を引き受けるよう要請が来ました。それまでICOLDには,玉川ダム等で論文を提出した経験はありましたが,出席したことはなったのです。環境委員は,平成10年のニューデリー例会から,15年のモントリオール大会・例会まで,6年間務めました。環境委員会は,自然環境のほか人間,社会環境全般という大変幅広いテーマを扱う委員会でした。委員会は,G. Guertin委員長でもっていました。カナダ・Hydro-Quebec社の魚のbiologistで,当然,ICOLDの公用語である英,仏語はもとより,他国語に堪能で,委員会では,英語に翻訳して我々に伝えてくれました。

中野: WECで活動されていることが役に立つ訳ですね。国際的な仕事で苦労されたこと大変だったことはありましたか。

韓国大ダム会議関係者へ基調講演を依頼される

原田: 1999年次例会の際,韓国大ダム会議のYoon Yong Nam氏から11月に開催するシンポジウへの参加と内容についての要望がありました。竹村河川局長が訪韓した際,南漢江で建設が行き詰まっているヨンウォルダムの現状を打開するため,反対派を交えたシンポジウムを企画したので,環境問題を中心に日本は難題をどう克服したか教えて欲しい,日本の専門家に基調講演で日本の経験を披露してもらいたいという相談を受けて,竹村氏が,“原田氏を派遣する”と確約してきたというのです。

中野: 確約されてしまったのですね。講演はどうでしたか。

原田: 勝手に決められた講演でしたが,環境問題を中心に,水源地対策の歴史,最近の事例を盛り込んだ論文(英文)を,久しぶりに何日間か徹夜して作成し,本番のためソウルに出向きました。出迎えた韓国の事務局長が,「明日のシンポジウムは、ホテルまで抑え、プログラムも配布しましたが、急遽中止になりました。翌春に国会議員選挙があるため、マイナス要因は全て排除とのことでした。それで推進側の関係者を集合させ、講演をして貰うことになりました」というのです。講演は水原の水資源公社の施設で行われ,土研でドクターを取った建設技術研究院のSamhee Lee氏が韓国語で逐次通訳してくれたので,参加者には良く伝わっていたようでした。この論文を読んだ旧知のA. Biswas氏(第三世界水資源管理センター所長)から彼の主宰するジャーナルに投稿してくれという要請があり,都合,3論文を投稿することになりました。

韓国大ダム会議での講演(1999.11)

ICOLD環境委員会(2001 Dresden)
右端がG.Guertin委員長
日本人初のGeneral Reporterを

中野: いろいろあったのですが,英国で出版されてよかったです。2012年の大会・例会は28年ぶりに日本で開催されることとなった京都大会でしたが,General Reporterをされたとのこと,どのような役割だったのですか。

原田: JCOLDの坂本会長,藤原専務理事の要請を二つ返事で引き受けましたが,これが間違いの始まりでした,General Reporterの仕事は,課題に対し提出された論文をまとめて英仏両文のレポートを作成すること,但し,概要を列挙するのでなく,ジャンルごとに整理し,最新の知見も加筆しなければならない。さらに,これが大変なのですが,大会論文とは異なる内容の論文を募り,1日のセッション案を立案することが加わる。即ち,議長等は当日だけ仕事をすれば良いのですが,General Reporterの仕事は半年以上を要することになる。これを日本人として初めてやれというのです。公用語が英仏なので,当然仏語の論文も提出される。仏語論文とジェネラルレポートの仏訳は,京大の角教授の知人である,カイロ大のS. Kantoush氏にお願いすることでなんとか解決できました。

中野: 大役ばかりですごいですね。話足らないことはありますか。

原田: 結論というか,最初に話したように,ダムについて重要なことは,

1. Suitability of the project concept

計画が目的にかなっていること

2. Relocating and rehabilitating residents of areas to be submerged

水没者の適切な移転と生活再建

3. Development in reservoir watershed

水源地域の発展

4. Conservation and improvement of natural environment

自然環境の保全と増進

この4つだと私は認識しています。先輩の方々の多くは用地だけで苦労して,自分で工事を経験することは出来なかった。ダムは用地が片づけば8割終わり。あとはつけ足しです。公共事業全般がそうですがね。

中野: そうですね。若い人に伝えたいことをお聞かせください。

原田: 今の若い人達はいい時代にいます。作成過程を含めて,作成した資料は保存ができ後で見返すことが出来るからです。若い人は,一通り体験して失敗を経験し,それをどう生かすかを考えてみてほしい。先ほども話しましたが,玉川ダムのRCD工法・5分冊はアナログだけど,一つ一つ記録を残していった。引っ張り出してくれば,現場の光景がまざまざとわかります。理屈ではなくて自分の口で話ができるように。皆さんも必ず経験していることと思いますが,よかれと思ってやったのに失敗したことが沢山あるはずです。この経験を残しておいて伝えないと,後輩は,同じ失敗を繰り返すかもしれない。だから,先輩の失敗をみていれば,そこからスタートできるのです。


玉川ダムのRCD工法・5冊分(失敗例を含む記録集)
中野: 失敗学から学ぶことは大事なんですね。

原田: 成功談は多くありますが,そうではなく失敗が大事。

中野: 確かに次につながっていくということですね。本日は貴重なお話を有難うございました。

原田 讓二 氏 プロフィール

昭和20年2月27日生まれ(群馬県南甘楽郡)

昭和44年3月 九州大学大学院工学研究科
       土木工学専攻修了(修士課程)
    4月 建設省採用,土木研究所企画室,赤羽支所ダム水理研究室を経て,ダム構造研究室
昭和48年6月 関東地方建設局滝沢浦山ダム工事事務所調査設計第一課長
昭和50年10月 同企画部建設専門官
       (地方計画担当)
昭和52年8月 国土庁水資源局水資源政策課
       課長補佐(企画担当)
昭和54年11月 建設省土木研究所企画部
       ダム計画官
昭和56年4月 同河川局開発課課長補佐
       (直轄事業担当)
昭和58年4月 同東北地方建設局玉川ダム工事
       事務所事務所長
昭和60年4月 (財)ダム技術センター首席研究員
昭和62年8月 愛知県土木部河川課長
平成3年4月 建設省河川局防災課
       災害対策調査室長
平成4年4月 三重県土木部長
平成7年5月 水資源開発公団企画部長
平成9年4月 建設省国土地理院参事官
平成10年4月 建設省退官
       (財)ダム水源地環境整備
       センター技術参与,理事
平成15年6月 同センター退職
    7月 矢作建設工業株式会社入社,
       技術顧問,代表取締役副社長,
       執行役員,安全環境本部長,
       特別顧問(東京駐在)
平成24年6月 同社退社。
平成10年〜15年;国際大ダム会議環境委員会委員(日本代表)
        社団法人日本大ダム会議 各種分科会委員
(国際,広報,環境調査,WCD対応小委員会等)
平成10年〜16年;財団法人水利科学研究所 理事
平成11年〜  ;社団法人日本大ダム会議
        技術委員会委員
        同国際分科会論文査読
        ワーキンググループ委員長
平成13年〜15年;ダム工学会 評議員,理事
平成15年〜22年;ダム工学会 学会賞選考委員
平成11年〜21年;三重県観光大使
        (知事の委嘱により2回)

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(2019年9月作成)
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