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ダムインタビュー(58)
坂本忠彦さんに聞く
「長いダム生活一番の思い出はプレキャスト型枠を提案して標準工法になったこと」

 坂本忠彦(さかもとただひこ)さんは、京都大学大学院を土木工学を専攻して修了後、昭和42年に旧建設省に入省、その後三国川ダム工事事務所長、(財)国土開発技術研究センター、建設省河川局開発課調整官、国土庁水資源部水資源計画課長、建設省河川局開発課長、東北地方建設局長等を歴任されました。平成12年には、当時大きな話題になった行政改革によって発足した独立行政法人土木研究所で初代の理事長に就任され、最新のダム技術に関する研究開発に尽力されました。理事長を退かれてからは、JCOLD日本大ダム会議会長に就かれ、併せてICOLD国際大ダム会議副総裁に就任。平成24年、日本で初めて行われた国際大ダム会議「京都大会」の委員長を務められたことは、記憶に新しいことです。この大会でプレゼンテーションされた日本の優れたダム技術は世界から注目されました。ダム技術の国際交流への貢献、活動業績について高く評価され、平成25年に土木学会から「功績賞」「国際貢献賞」をダブル受賞されました。


 今回は、国際大ダム会議「京都大会」のエピソードを交え、日本と世界のダム事業の現状と今後の日本のダム技術の海外進出等についてお話を伺います。
(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)

就職を考え、京大工学部に

中野: どうして土木に進まれたのか、そのきっかけからお話いただきたいと思います。

坂本: 私は、郷里の山口県で山口高等学校というところを出ました。大学進学に当たっては内心、文学部の歴史学科のようなのがいいなと思っていました。しかし父親に話したら将来、就職が難しくて生活が苦しいぞ、というので、ならば一番現実的な学問が良いと思い、工学部を選びました。山口県からは東京より京都の方が近いので京大を受けました。土木を選んだのは、工学部の中で最初に出来た学科だったからで、たまたま土木になったのです。

中野: もともと土木に興味があったのではなく、歴史学科から進路変更されたのですね。

坂本: 理数系はもとから得意だったのですが、歴史が好きだったのでもっと勉強したいと思っていたのです。というのも、ちょうど今、NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が放送されていますが、そこに出てくる萩の藩校の名前が明倫館と言います。実は、私が通っていた小学校が明倫小学校で、まさにその藩校にちなんだ小学校です。各地にあった藩校は、江戸から明治になった際に地域の高等学校になっていることが多いのですが、私の出身の萩では、小学校になったのです。

中野: 歴史好きなのは土地柄もあるのですね。その後、大学を卒業されてから建設省に入られた訳ですが、最初から土木研究所に行かれたのですか。

坂本: 建設省に採用が決まった後、どこに勤務したいかという調書が回ってきて、私は関東地建等、各地建の名前を書き、最後に土木研究所と書いたはずですが、どうした訳か土木研究所に配属されました。同期生は、旧帝大からの出身者ばかりで土木から7人と機械から1人で合計8人でした。

河川系の研究所で、なぜか海岸研究に

中野: 土木研究所でもいろんな研究部門があると思いますが、どこに配属されたのですか。

坂本: 土研でも私の希望でなく、研究所側の事情で、河川系の研究所だった赤羽支所の海岸研究室の配属になり、日々打ち寄せてくる波や台風の高波からどうやって海岸線を守るかという研究を4年行いました。

中野: 土木研究所の赤羽支所で波の研究を4年ですか。

坂本: 当時は、研究所でだいたい4年経ったら海外に出て勉強するというキャリアパス的な留学制度が確立していたので、3年目くらいに日米英会話学院というところに行って英語の勉強をして、人事院の試験を受けるというのが慣例になっていました。すでに先輩も何人が行かれていて、来年はおまえが英会話学院に行く番だから、今から英語を勉強しておけと言われていたのですが、いざ4年目になったら本省に転任となりました。


海岸研究では第一人者になったが…

中野: 期待していた海外留学ではなく、今度は本省に呼ばれたのですか?

坂本: ええ、本省に行き、河川局海岸課係長になりました。赤羽支所の海岸研究室に4年いて、その後海岸課係長を2年務めましたので、うぬぼれですが、当時は建設省では海岸のことがわかる技術者というのは私以上の人は少ないと思っていましたので、いつかは、海岸研究室長として土木研究所に行くのだ、という期待と予想がありました。が、結局は若い時代には土木研究所には戻らず、その後はダムオンリーの仕事になってしまいました。

中野: 土木を選んでからは、大きな流れに身を任せて来られたのですね。それまでダムとは無縁で来られたのですか?

坂本: 土木研究所の赤羽支所の中には、海岸だけでなくダム、下水、砂防などの研究室がありましたが、地方から海岸のことを相談しに来た人に研究所の中を案内するのに、他の研究室の説明も出来ないといけないのでダムの研究室を解説するくらいの知識は持っていました。

聖徳太子の時代からある堰を調査

中野: 本省の次に行かれた近畿地方整備局では主にどんなお仕事をされたのですか。


加古川大堰(撮影:安部塁)

坂本: 近畿では、淀川ダム統合管理事務所というところに半年間ぐらいいて、その後、姫路工事事務所の調査課に行きました。これがダムとの最初の出会いです。姫路工事事務所では、加古川大堰というプロジェクトの予備調査をやっていました。ここは、かつて聖徳太子の御領地の田畑に水を引くための堰というのがあり、それが現代では五ヶ井堰と上部井堰というコンクリートで固めた固定堰となっているのですが、加古川の治水の安全度を高めるためには河床掘削が必要なのですが、この古い堰が大きな支障になっていた訳です。さらに、東播用水という農林省の事業があって上流に呑吐ダムというダムを造ろうとしていました。加古川市は非常に水に困っていましたので、それらの事業を全部解決するために、加古川大堰を造ることなり、その調査を担当したのです。
 加古川大堰は、河川のいくつかの問題を一挙に解決するための一大プロジェクトだったのす。加古川大堰は堰ですが多目的であったため特定多目的ダム法によりダム事業として建設されました。私は、計画のとりまとめが終わったと同時に、近畿地方整備局の河川部河川計画課というところに、今度はダム担当として呼ばれて行ったのですが、これがダム事業との本格的な関わりになります。

真名川と大滝、2つのダムに関わる

中野: 近畿地方整備局の河川部でようやくダム事業に関わられたのですね。

坂本: そこでは真名川ダム、大滝ダムという2つのダム事業を実施していましたから、それらも含めてダム担当になりました。河川計画課では、1年間課長補佐をして、その後1年は企画課長、それから河川計画課長になりましたので、近畿地方整備局には計5年いたのですが、河川、それもダムに関わる仕事をずっとやっていました。

真名川ダム(撮影:安部塁)

大滝ダム(撮影:Dam master)
本省で、ダム事業を事業化する仕事を

中野: それから本省に戻られて、河川局の開発課長補佐をされたのですね。この辺りの思い出としては何かありますか?

坂本: 私の仕事は調査計画担当で、各地方整備局とか県がダムの計画を構想し調査し、計画をまとめて、これらの計画を大蔵省に説明して予算をとって国の仕事、県の仕事としてやろうという意思決定をする担当の補佐でした。また、第2次オイルショックがあり国産エネルギーとして水力発電が注目されました。そこで従来経済性が無いとして発電が参加していないダムについて自家発電設備として水力発電所を建設し、余剰電力は電力会社に売電するダム管理用発電制度を考え、実施に移しました。現在の固定価格買取り制度のさきがけとなった事業です。

中野: そこで計画されたダムというのは。

坂本: 一番規模が大きかったのは、摺上川ダムです。他には、津軽ダム、五ヶ山ダムも私が当時の大蔵省と折衝して決まったダムです。実際に工事が進捗するまでには随分時間がかかります。直轄のダムについては、毎年3、4個を同時に計画していました。その他には補助のダムが10ヵ所程度ありました。

中野: その頃は、ダム事業の最盛期だったということですね。どういう状況でしょうか?

坂本: 私が本省に行ったのが昭和53年、ちょうど福岡県が大渇水の時でした。それで急遽、福岡県がとりまとめて本省に持って上がったのが五ヶ山ダムです。その五ヶ山ダムの計画を半年ぐらいで検討し、各所と相談してとりまとめて、実施計画調査として採択してもらった。それがようやく今頃工事が進み、まもなく完成ということになります。

ダム事業の事務方から再び現場へ

中野: 本当にダム建設は時間がかかりますね、近畿地方整備局の次は北陸地方整備局に行かれたのですね。ここでは、どのようなダムを担当されたのですか。



坂本: 開発課というところに行きましたが、ダム担当の課です。旧建設省の場合は、まず係員で入っていろいろ勉強し、係長になって現場に出て、補佐で戻って、また現場の所長に出て、それから専門官になって…と、ダム現場と本省を行ったり来たりする人が非常に多いというのが通例でした。でも私が開発課では多分、最初の人事になるかと思いますが、ダム現場を経験したことがない者が、いきなり調査・計画の補佐になり、ロックフィルダムの三国川ダム現場の所長になってしまいました。正直な話、ダム技術については全く分からない状態のまま着任し、現場の皆さんに教えてもらって、ダムのイロハをそこで勉強したという訳です。
 ちなみに、三国川というのは、漢字で三つの国の川と書くのですが、普通に読めば「ミクニガワ」ですね。これを「サグリガワ」と読める人は、地元の人かダム関係者以外にはまずいないですね。
三国と書いて、サグリと読む

中野: 確かに、漢字を見るとそうは読めないです。方言でしょうか。

坂本: 同じ書き方でも、関東から新潟に越えていく峠は、三国「ミクニ」峠と言います。「サグリ」というのはローカルな発音で、新潟県は上越、越後の方と、武蔵の国の方、東北地方は山形県の方の境界、この三つの国の境界が集まった地域のところから流れてくる川ということで、地元の人がなまって、三つの国、「サグリガワ」と呼んでいる訳です。
 ここは非常に自然豊かなところで、信濃川の支流にはいかにも魚が多そうな魚野川がありアユとイワナが有名です。その支川の三国川にダムをつくります。ダムサイトの地区の名前が、わらび野と言うのですが、丈が30cmとか50cmもあるような、わらびが春になると出て来ます。地元の人に教えてもらって、私はそこで山菜をとることを覚えました。季節に応じてわらび、ゼンマイ、ウド、それからキノコをとることも地元の人に教えてもらって、ここに居た当時は、自然を非常に楽しんでいました。

堤体は大きいが、溜まる水は少ないダム

中野: 三国川ダムはすごく大きい印象のダムですが、実際はどうですか?

坂本: ここは、規模としては堤高が119.5m、ロックフィルダムで堤体積が600万m3ぐらいあるのですが、貯水池の容量が3,000万m3に満たないぐらいのダムで、堤体積の5倍ぐらいしか貯水ができないのです。つまり堤体が大きい割に貯水池は小型なので、どちらかというとダム造りの勉強のためのようなダムでした。

中野: 建設に当たっては、工事は難しくなかったのですか。

坂本: このダムの特徴は雪国にあるので、ダムサイトには、冬は5mとか6mの雪が積もるので、12月から4月まではダムの工事が出来ないことです。つまり、夏場だけしか工事が出来ないので、早くダムを造るにはどうすれば良いかを計画して実施しなければならないのです。実はこれはダム技術としては大きな課題です。
 また、原石が斑糲岩という日本では非常に珍しい重たくて硬い岩石です。これはダム造りには非常に良い材質で、内部摩擦角が設計値で43度という、日本で一番大きな数字になっているので、ロックフィルダムとしては、上下流面の傾斜が日本一急なダムになっています。これも大きな特徴でしょう。


三国川ダム(撮影:s_wind)
ダム直下に無料の露天風呂

中野: 三国川ダムは洪水調節で頑張っている、あるいは、雪景色が似合うダムということで、ダムマニアさんにも非常に人気があるダムですが、造った側としてはどう思いますか?


以前あった露天風呂(撮影:琉)

坂本: そういう見方もありますが、このダムをある意味で有名にしたのは、露天風呂でしょう。
 計画当初は、設置目的に発電が入っていませんでしたが、途中からダム管理用の発電と東北電力という2つの発電目的を加えました。ダム管理用の発電は1,300kwでしたが、ダムの自家用発電としては非常に大きな規模なので、事務所で使う分を差し引いた余剰電力は東北電力に売電するのですが、その余剰電力の一部を利用して大きな電熱器みたいな機器でお湯を沸かして、キャンプ場の利用者向けに無料の露天風呂を提供していたのです。

中野: それが、ダム直下にある露天風呂ということで有名になったのですね。
坂本: 残念ながら、今では無料のお風呂がなくなってしまいました。ダムの特別会計の検査で、無駄遣いをしているという指摘が出たからです。インターネット上には、ぜひ露天風呂を再開してくれという要望がたくさん書き込まれているそうです。発電した電気でお湯を沸かさず、ストレートに東北電力へ売電すれば、より多くお金が入ってくる訳ですから、お風呂で使っていること、そのものが無駄使いだと指摘されたということです。

ダムを観光資源として地域が取り組む

中野: 単純に無駄というのではなく、地元への還元という大義があったのではないですか?

坂本: 確かに。地元への還元という意味では、地元の六日町では、三国川ダムを利用して地域の振興を図ろうということで、「しゃくなげ湖畔開発公社」という組織を立ち上げ、キャンプ場や売店を経営し、地域振興の仕組みづくりをしていました。その一環として、この無料のお風呂もあったのですが、今では目玉になるものがなくなってとても残念です。

中野: 「しゃくなげ湖畔開発公社」は、平成13年に当協会でダム等の周辺環境の整備保全に功績のあった団体として表彰させて頂きました。

坂本: ダム湖の名前を「しゃくなげ湖」と言います。標高がだいたい400mぐらいで、ダムサイト辺りにはシャクナゲがたくさん自生していましたから、今も管理事務所に行くと、玄関の左右に立派なシャクナゲの大木が植えてあって、季節には大変きれいな花が咲きます。

中野: 三国川ダムは、本当に評判が良くて、景色もダムのデザインも、それに野外ステージなども整備されているようですが、工事としては大変だったのでしょうか?

坂本: 原石山の掘削で長大な斜面があり、その対策が難しい問題でした。また、最大粒径80mmの骨材を使用してコンクリートポンプで非常用洪水吐の建設をするという技術的課題にとりくみました。野外ステージは、下流の法面を使って円形舞台にしてあって、座席はロックフィルの岩を利用しているので、斜面が全部座席になっていて格好が良いのです。本当にいろいろなアイデアを凝らしています。私がいた時は、原石山の用地問題が長引いていました。水没地の用地補償は割合に早く解決したのですが、原石山の用地補償はなかなか解決せず、私のいた時代にようやく用地補償の問題が解決しました。この交渉は、なかなか大変でした。地元の人はどうせ原石山は売らなきゃいけないことは判っていますが、交渉そのものを楽しんでいるという感じがあって長引いてしまいました。

地元の人とは、しっかりとコミュニケーションをした

中野: 交渉そのものを楽しんでいるとは、どういうことですか?

坂本: 対象の用地は、下流6地区の200人くらいの共有地だったので地域全体の同意が必要でした。
 水没地もそうですが、個人の所有地はほとんどなくて共同のものでしたから、夕方出かけていって、用地交渉をするたびに、だいたい30分ぐらい交渉したら、地元の世話役が、そろそろ話も佳境になったから今日はこの辺でと言って解散させるのですが、実は、話が終わった後は、必ず交渉相手の皆さんと飲み会をするという流れになるのです。(笑)

中野: 地元の方との懇親会ですか。


坂本: そういう会をだいたい1ヵ月に一度はやらないと、次へとなかなか話が進んでいかないのです。私も徹底的に飲まされました。地元のおかみさんだとか、娘さんたちが出てきて、所長さん、所長さんと言いながら帰してくれない。そのたびに飲み過ぎて記憶を失って事務所に帰っていました。(笑)

中野: 交渉もコミュニケーションの1つなので、飲みにケーションになってしまうのですね。そういう意味では地元の方と気心が知れるようになり、後々、皆さんがダムで地域振興を図ろうということにもつながっていくことになれば、それも役に立っているのですね

坂本: 三国川ダムの地元関係者との交流は今も続いており、1年に1度は三国川ダムに行っています。

国際入札のためにはCMEDのような技術者資格が必要

中野: 坂本さんは、認定事業審査委員もされておられましたが、CMEDの資格ということで、関連があるダムはどこでしょうか?

坂本: 最初に話題となったのは、摺上川ダムです。ダム工事が、国際入札になった時の参加資格にCMEDを持っている技術者がいるという条件をつけました。私は開発課長をした後、その後、東北地建に行きましたが、行ってすぐに摺上川ダムの入札がありました。摺上川ダムは、当時、米国から建設業の門戸開放という話があって、国際入札にするので入札要件を定める必要がありました。その時に技術的な要件として、堤高90m以上のロックフィルダムをつくった経験のある業者ということの他に、CMEDの技術者を所長、副所長として配属する条件をつけました。国際入札ですから、当然、外国の人もCMEDに対応するような公的な資格を持っていることが必要で、アメリカの場合はPE(プロフェッショナルエンジニヤーリング)というものがあるので、そういう資格を想定していました。すると、日本の業者とベクテル社が組んだ国際チームが1チーム。それ以外に国内チームが何チームか参加して入札となりました。この時、ベクテル社が困ったのは、一定規模以上のダムをつくった経験を証明する資料として契約書の写しを出すようにと求めていたのですが、外国流にいうと、契約書の写しを他の人に見せるということは不可能なことで、日本側としては、それが参加資格ですから、何か出さないとベクテル社は参加出来なくなるので一生懸命そういうものが出せる案件を探してきたのです。


摺上川ダム(撮影:Dam master)
フランス語の書類を受け付ける

中野: なるほど、契約書を交わすということは、互いに守秘義務が発生するということでしょうか。国際基準ではそういうことが常識なのですね。

坂本: 現状として、ダムの仕事をやっていれば、発注者とは顔も話もつながっているので、今回こういう事情で日本側に書類を出さなければいけないから、証明するような書類を何とかしてくださいと頼めるのですが、たまたまその時にはダムの仕事をしていなかった。従って、昔の資料をやっと出してきたのです。出してきたのがカナダのダムでしたから、フランス語で出してきた。我々も英語だとなんとか内容が判るが、フランス語の書類だと厳しい。私も読んでみたがさっぱりで、文句を言おうと思ったのですが、資料は日本語に翻訳したものを出せとは書いてなかったのです。だから文句は言えなかった。当時の向井河川部長はフランス語が出来たので一生懸命に訳して、資格があるというのを認定しました。
 もう1つ問題があったのは、ベクテル社が日本に送り込もうとした人は、確かに資格は持っていましたが、会費を払っていなかったので失格になっていたと聞きました。これは後から聞いた話ですが、その資格を回復するのに大変だったそうです。結果として、日本の業者とベクテル社の国際チームは入札価格で折り合わず、他の業者がとりましたが、ベクテル社は次のダム以外の案件で大きい仕事をとったということを聞きました。摺上川ダムで日本の入札制度の勉強をしたのでしょう。

中野: 東北地方整備局の局長になられた時のことですね。

坂本: そうですね。だから、国際入札にするという時代になったら技術的に品質を確保するためCMEDのような資格が要るというふうにしたのです。それを最初に摺上川ダムでやった訳です。

ダムの用地問題は寒い地域ほど解決し易い

中野: 資格制度を持つというのは、国際基準となるということですね。東北でのお仕事については、何か特徴的なこともありましたか?

坂本: 東北は田瀬ダムを始め大きなダムがいくつもあります。ダムには、用地問題がつきまといますが、東北地方では比較的容易に用地問題が解決していたような気がします。というのも、積雪地帯は、土地柄として、地域でまとまって生活しているので、地域の多数決の原理みたいなものが働くのです。厳しい冬を一人で孤立していては生活できない訳です。西日本以南の地域では、割と温暖で雪がないものだから、一人で生活しようと思っても何とか生活出来るということがあるので、個人の意見が強く出せるのではないかと思います。比較的に水没面積の大きいダムでも、東北は地域の多数決に従って、用地交渉がある程度進みやすいのではないかというのが、私が東北勤務で得た持論です。

河口堰反対派の活動で洪水の危険が

中野: そう言えば三国川ダムも。東北とは違いますが雪が深いところだから、同じような気質があるのかも知れませんね。現場でのご苦労は大変でしたでしょうが、本省の開発課長でも相当に大変なお仕事をされたそうですが、長良川河口堰ではどのような対応をされたのでしょうか。

坂本: 確かに、開発課長時代で一番苦労したのは、長良川河口堰の対応でした。あの問題は、建設事業がどんどん進んで行って、すでに河口堰の完成間近で試験湛水を始めた時でした。天野礼子さんという方が反対運動の中心人物でした。その運動の支持者が試験湛水を始めた際に、現場周辺にはフェンスが設置されていましたが、それを乗り越えてボートを入れてしまい、ゲートの堰柱という柱にくくりつけて、ゲート操作を出来ないようにして試験湛水を妨害しようとしたのですが、その時、たまたま洪水が来て、どうしても堰を操作しないと危ないという時に、ゲートに支障になるような形でボートがつながれていて大変な事が起きたことがありました。テレビでもいろいろ報道されましたし、私も取材陣にさんざん追いかけられましたし、国会にも何回も呼ばれました。国会答弁責任者は、大臣で事務方としては豊田河川局長が直接的な担当者でしたが、私も課長だったので、国会の会期中は夜の12時前には帰れなかった思い出があります。国会での質問対応に、ありとあらゆる情報をペーパーにまとめなければいけないのです。


長良川河口堰(撮影:小倉佑一)

中野: 長良川河口堰の問題というのは、本当にたくさんの人を巻き込んだ反対運動でした。そこからダムについても、様々な問題が出てきてしまうという、きっかけにもなったような感がありますね。

坂本: 当時、関係者はみんな大変な苦労をしました。すでに20年が経ち、現在は、河口堰が出来たことによって川底の浚渫をしましたから、長良川の洪水危険度は低下し、治水の安全度が大いに上がっています。そういう意味においては地域では非常に高く評価されています。当時は、サツキマスが遡上出来なくなって長良川からいなくなるというようなことで随分と揉めたのですが、今もってサツキマスはいなくなってないし、鮎もいます。
ダムの新しい技術を発展させるために

中野: その後ダム技術センターに行かれて、技術論文を書かれたとのことですが、どういう研究をされたのでしょうか?

坂本: プレキャスト工法でダムの監査廊の型枠をつくるという研究です。コンクリートダムの合理的な施工法を追求しているRCD工法は、監査廊という部分になると、ダムの堤体の中に空洞を作るので、型枠を組み立ててコンクリート打設します。当然、施工スピードが落ちてしまう。人間の手で型枠を作っていくのですから、手間暇が相当かかるし、経費も増すということで、工程の中では大きなネックになっていました。この部分をコンクリートの型枠にすれば良いというアイデアは以前からあったのですが、いろいろな理由でなかなか実現しませんでした。その1つは何かというと、監査廊は、ダムの堤体を貫いている空洞で、コンクリートの継ぎ目だとか、継ぎ目の中間のひび割れを点検する施設でもある訳です。漏水だとかひび割れとかが直に見える。それを、コンクリートの型枠で作ってしまうと、そういうものが見えなくなってしまう。つまり、監査廊の壁や天井に硬いのを作ってしまうと、堤体の状態が分らなくなってしまう。それでは良くないということで、土木研究所だとか、宇奈月ダムで実験をして、上流側でひびが入ると内側にコンクリートの型枠があってもこちら側も割れるという実証実験をしました。そういうことをやって技術面の制約は1つずつなくなっていったのです。

中野: 新しい技術を普及させるためには、実証実験は重要ですね。他には何かポイントはありますか?

坂本: もう1つ、コンクリートで型枠をつくるためには、型枠を組み立てるための鉄の型枠がいるのですが、この経費が高くてそれを使うと建設費が割高になってしまうということで大型のダム以外では採用にならないということでした。宇奈月ダムで前田建設と佐藤工業と北陸地方建設局がアイデアを出し合って1つの型枠を作り実際に採用し特許を取りました。その型枠をダム技術センターが買い取って、全国のダム現場に貸し出すことで、型枠を転用しようという話にしたのです。これまで一つのダムごとに型枠を生産してきたのですが、幾つかのダムでそれを共用することによって単価を下げて提供しようというアイデアです。以前、建設省がケーブルクレーンとか濁水処理設備だとか、大掛かりなものは官持ちで施工業者に貸与するようなシステムがあったのですが、業界の方も実力が上がってきて、彼らが自分なりにそういう施設を持つようになると、官がそういうものを貸与するというのがなくなっていました。
 ですから、私は以前の制度をもう一回採用して技術の普及を図ろうということを提案した訳です。

中野: 反対はなったのですか。

坂本: 当時の開発課では、型枠貸し業者になるのかという反対論が出て、ダム技術センターも型枠リース業になるのかと言われましたが、私から新しい技術を普及する、コンクリート型枠でダムをつくるという新しい技術を発展させるために、そういう仕組みにするということを説明し、前田・佐藤も当然、他会社の使用を許可し、特許料は貰うとして開発課も了解してくれました。土木・建設業界では、ある業者が開発した技術を他の業者が採用するというのは、基本的にはノーという業界的な共通認識では技術は普及しないと思います。

日本の技術が世界で標準的な工法として使われるように

中野: そうですね。技術も停滞してしまいますね。今はプレキャストの型枠は普通に使われていますね。

坂本: 土木研究所も技術的に安全だというお墨付きを出すため研究を進め話がまとまりました。監査廊というのは幅も高さもみんな、ダムごとに一つずつ手造りだったから、それぞれ形が違っていましたが、今ではコンクリート型枠は1つのケースしかないから、監査廊の形は全部一緒になってしまった。それから、スロープのところの階段も今は一定の角度しかないです。上がって行く傾斜は水平方向の長さで調節するようになっています。ダム現場ではなく、他の場所のプレハブ工場で作ったものを運んで行き、順次置いていくだけですから、監査廊部分の施工スピードが非常に上がっています。長いダム生活で一番の思い出は、プレキャスト型枠を提案して標準工法になったことと思っています。


プレキャスト型枠を使用して製作したプレキャスト部材(当別ダム、提供:北海道札幌建設管理部)
中野: プレキャスト型枠が普及したのは、そういうきっかけだったのですか。

坂本: 今では、ダム技術センターの1つの収入源にもなっています。日本発の技術として、コンクリートダムにおける標準的な工法として世界でもかなり使われるようになってきています。

研究機関も効率化を追求する時代に

中野: 次に、土木研究所の理事長になられますが、国土技術政策総合研究所と土木研究所の2つに分かれたのはどういう背景があったのですか?

坂本: 官庁の再編成があり、多くの国立の研究所は独立行政法人ということで政府機関から切り離された訳です。研究所には、2通りあって、各省にある「政策研究所」と名がついた組織は、これは国に残りました。研究や技術開発の研究所は独立行政法人に移行です。ですが、当時の建設省は政策技術研究所というのはなくて、土木研究所があって、建設省の言い分は、これは政策研究所の役割をもっているから、国へ残るべきだといったのですが、民営化を主張する人たちは、そうではない、これは独立行政法人になるべきだといわれて、妥協の産物として国土技術政策総合研究所という組織と、独立行政法人になる土木研究所に分かれた訳です。大体半々にされました。
 私はかつての土木研究所の所長をして、ダム技術センターに行って、独立行政法人の土木研究所から呼ばれて、もう一度理事長に指名されたわけです。だから、ある意味私は同じポストに2回勤めました。旧土木研究所と独立行政法人土木研究所という、2つの土木研究所の長をやりました。

中野: 長いですね。平成13年から22年まで。

坂本: そうですね。平成13年1月に省庁の再編成があって、確か4月に独立行政法人制度が出来ました。土木研究所の理事長にという内示があった時、私の場合は任期が4年でした。運輸省系の港湾空港技術研究所の理事長の任期は2年でした。国土交通省になりましたが研究所の理事長の任期が4年と2年では、運輸と建設が統合されてないままだと思ったのが、その時の印象でした。
 当時の国土交通省には、7つの研究所があり、建設省系では建築研究所、土木研究所と、それから運輸省に5つの研究所があったと思います。完全に民間から登用された人は1人、運輸省系の研究所におられました。私は建設省を退任して民間人になってから呼び戻されたケースで、後の人は、所長が退職して引続いで理事長、そういう感じです。研究所の中の組織の順番でいうと土木研究所が一番です。一応私は民間人ですから、民間人でOBということで説明しやすい、また、ダムに関するドクター論文も書いていたので、選任されたのだと思いました。

実務の傍らで、博士号の取得に挑戦

中野: 博士号は、平成10年にロックフィルダムの論文でとられているのですね。



坂本: 三国川ダムはロックフィルダムで、現場で勉強したと言えるのは、ロックフィルしかないので、ダムに関して論文を書こうと思うとそれしか書けないなということです。河川系中心の勉強をしていたので、ロックフィルダムの漏水問題というものが一番自分に研究テーマとして似合うなと思ってダム技術センターで実務を行いながら論文を書いたのです。

中野: 次に、国際大ダム会議について伺います、なぜ世界の国々でダムの国際組織があるのですか?

坂本: 国際大ダム会議というのは、1928年に創立された民間国際団体(本部:パリ、加盟国99ヵ国)です。ダムというのは国にとっては非常に重要な構造物ですから、技術的な安全性、技術基準をしっかり決めておかなくてはいけないということで、各国の知見を持ちよりそれを統合して、より確かな基準にして、ダムの安全性を高めようというのが、発足の趣旨です。日本は発足後3年してから加盟して、古株の加盟国の1つです。
歴史ある国際大ダム会議の大会を京都で開催

中野: 2012年に第80回の国際大ダム会議の例会、24回の大会が京都で開催された時、私もダム協会からお手伝いに行きましたが、坂本さんは大会の組織委員長でいらしたのですね。京都例会が第80回と聞いて随分古くからある団体だと思っていました。国際大会で準備も大変でしたね。


京都大会開会式で(中央が坂本さん)

坂本: 京都大会には70ヵ国から1,367名が参加しました。世界的にみても、ダムの構造基準は法律に書くのは非常に大変で、どこの国も大抵は国際大ダム会議の技術基準に従って造りなさいという法令のところが多いのです。日本は河川法によってダム造りの基準が定められていますが、その河川法も国際大ダム会議の基準を日本流に書き直したもので、基本的には国際大ダム会議の基準と同じような内容です。そういう意味では、国際的なダムの基準をつくる組織として現在も動いていて、3年に1回、大会を開催しており、1年に1回、例会というのを開催しています。これは世界各地を持ち回りで行います。日本も過去に2回、1960年と1984年に例会を開催しているのですが、大会を開催したことはありませんでした。
 この例会ないし大会には、日本からはいつも数十人規模、50人から80人ぐらいの間で毎年参加していて、国際大ダム会議からみれば非常に積極的に参加している協力国の1つになっています。そうした中で、RCD工法のように日本独自で開発した技術基準も出てきたので、一度大会を開いてくれないか、という声はずっとあったのですが、国際的な調整もあって、なかなか開くタイミングがありませんでした。
 今回の京都大会の直接の契機は、2012年の6年前の2006年にスペインのバルセロナで大会が開かれ、今度は日本で大会を開催して欲しいという話が浮上したので、それを受けて、日本大ダム会議の中で検討を始めました。当初、横浜で開催したらどうかという案が有力で、次の年次例会がロシアのペテルスブルクで他の加盟国に聞いてみたら京都でやって欲しい。京都なら行くという話が圧倒的に多くて、計画を練り直して、次のブルガリアのソフィアで例会があったときに、京都で提案をしました。その時、同時に提案したのが、中国(成都)及び、エジプト(カイロ)で、3ヵ国の提案がありました。そして2009年のブラジルの大会で決選投票をするということになったのです。
 そうしている間に2008年に成都で大地震があって、中国では成都開催は出来ないということで辞退したため、京都とカイロの決選になって、日本は36票、エジプト27票で、日本開催が決まりました。その後、カイロで治安情勢が悪くなって、カイロでやっていたら大変だったと言っているうちに、今度は2011年に日本で東日本大震災が起きたのです。今度は、日本が真っ青になってしまいました。

震災後1年の大会は、天の時、地の利、人の和で成功した

中野: 2012年の開催ですから、震災の1年後になりますね。

坂本: 結果として大会は成功したのですが、私は、この大会については、天の時、地の利、人の和で開催して成功した大会だったと、心の底から思いました。天の時というのは、大震災がもしも2012年に起きていたら開催出来なかったでしょう。また我々は、京都国際会館で国際会議を開催しましたが、2011年度は、京都国際会館で予定されていた全ての国際会議がキャンセルになったそうです。

中野: そうですか。震災後は、福島の件もあって海外からの訪日者が激減しましたね。

坂本: 関東ならともかく京都もそうでした。そういう意味では震災が起きたのが2011年の3月だったということも、我々にとっては不幸中の幸いでした。大会の準備は、2010年の後半から募金活動を始めており、国内の各会社に大会のための寄附の協力をお願いしていたのです。各社3月が決算期なので、その前にお金を払い込んでくれていた会社が多かったのです。

中野: そうだったのですか。もしも震災が起きたのが早かったら、とてもそんな余裕はなかったのでは?

坂本: 震災で景気が悪くなりましたので、募金活動がうまくいかないと大変なことになるところでした。もう一つ、地の利として、日本の伝統文化の中心ということで、京都開催だから皆さんたくさん集まってくれました。横浜や東京よりも福島から離れていて、そういう点でも説明がつきやすかった。多くの場合大型ホテルや展示場で開催されるのですが、京都国際会館という本格的な国際会議場で開催も好評でした。また日本に行くことで復興の度合いも知ることが出来るということ。そういう事が重なりあっての開催でした。
 天の時、地の利に恵まれましたが、最後は、人の和に恵まれたということです。震災後ということで、ダムに関わる業界というのはまだ非常に不況で、不安定な時期で、お金はなかなか集まらなかったのですが、経費を節減するために、業者への委託をできるだけ減らし、なるべく自分たちの手でやろうと、あらゆる計画をいろんな担当に分けてやりました。震災を契機に人の絆が深まっていて、ボランティア活動で行われました。国際会議をするとなると、大手の旅行会社とかイベント屋さんのようなコンサルに任せるのが多いのですが、そういうところに丸投げしたら費用が大変ですから、それを建設業界、ダムの業界の方に手分けして分担してもらいました。彼らは、普段から下請けに対して見積もりをとって査定をしてやるのが得意なので、いろんな業務を任せたら、さっと最適解を見つけて手配してくれました。そうやって、いろいろな方の協力をいただいて、ほとんど外注をせずに経費を節減して出来た大会でした。


京都大会展示開会式で(中央が坂本さん)
国際会議ではいろいろな事が起きる

中野: 京都大会は、日本大ダム会議(JCOLD)としての評価も上がったのでしょうね。

坂本: 非常に評価が高かったです。国際大ダム会議の中で、京都大会は資金的にも本部に貢献してくれたいい大会であると言われています。世界大会の場合は、参加者の数に応じて本部に納付金を1人当たり100ドルだったか200ドルだったか集めて出さないといけないのですが、我々は参加者1,395人分振込みましたが、他の国での開催だと、大抵はアバウトです。今回、例会がノルウェーでありましたが、参加者は約1,000人だと言われています。正確な数字を誰も言わないのです。かつて、ブラジルの大会ではインフルエンザの新型が流行ったのもあり、参加者が少なかったし、後進国で財政が苦しいから納付金を負けろと交渉をして余り納付金を出さなかった。そういう意味でも京都大会は優等生でした。
 また、ポストツアーも宿の決定から食事まで全部委員が実際に泊まって、その値段に見合う料理かをチェックしました。車で本当に行程通りに回れるかもチェックしたので全くトラブルはありませんでした。ブラジルでは、同伴者ツアーで、博物館に行ってみたら閉館していたということがあり、閉館日だったからツアー代金を返せと文句言っても返さないとか、そういったトラブルは結構あるのですが、京都では非常に丁寧な運営、対応をして、おもてなしが上手に出来たと思います。

日本ならではの意識が評価される

中野: 国際会議で日本のダム技術、RCD工法などはどういう評価だったんでしょうか。

坂本: 一番注目を浴びたのは、東日本大震災でほとんどのダムが大丈夫だったということです。ただ1ヵ所、藤沼ダムは破壊されました。詳しい数字は忘れましたが、震災1週間後ぐらいに被災地域にある三百数十のダムについて、国交省が全部調査して異常なしという報告し、それを国際大ダム会議に送ったのです。世界が大惨事だと言っている時に、これだけの数のダムの安全点検がどうしてそんなにスムーズに出来るのか。そこがまず世界から評価を受けました。「大震災にあってもダムが安全だということがすぐわかるニュースを出してくれてありがとう」というのが国際的に受けた最初の評価でした。

中野: いろんな意味で成功した、いい大会だったのですね。開催期間が長いのに天候にも恵まれ、本当に良かったですね。

坂本: 先ほども話しましたが、天の時ですね。ウエルカムパーティーを京都国際会館の日本庭園で行いましたが、非常に天候がよくて花火も楽しめました。我々は、花火というのはずっと遠くで上がる花火を見る場合が多いのですが、直下でみると、花火の迫力ってすごい。京都会館のすぐ近くで花火を上げてくれたのですが、特に大きい玉を上げたのではないのですが、すごく近いから立派に見えました。出したお金に比べて。(笑)

中野: ウエルカムパーティーの花火を私も見ましたが、すごく迫力がありました。

坂本: 仕掛け花火のナイアガラの滝というのがありましたが「WELCOME ICOLD 2012 KYOTO」と文字が読めました。皆さん大変ご満足いただいて。京都会館の閉館の時間になってもいつまでも残ってワイワイやってなかなか帰ってくれず困りました。それはフェアウエルパーティーもそうで、とっくに終わっているのになかなか帰ってくれなくて、皆さんにご満足いただきました。


ウエルカムパーティーでの花火
日本の強みを活かして海外へ

中野: 今伺った国際大ダム会議のこともありますが、坂本さんは、現在、日本工営にいらっしゃいますが、海外進出のコンサルタントとして、これからの若手の技術者に紹介頂けることをお聞きしたいのですが。

坂本: 日本工営という会社は、創設者の久保田豊さんという方が戦前、今でいう中国と北朝鮮との間に流れている鴨緑江という大きな川に、水豊ダムというダムを建設するという水力発電事業をやっていた会社が前身になっています。水豊ダムというのは、当時で世界一の水力発電所と言われていた施設ですが、戦後、そこにいた技術者が日本に引き揚げてきて、進んだ技術力を使って、日本の戦後復興に寄与しようということで、昭和21年に新興電業株式会社というのを立ち上げ、昭和22年に日本工営株式会社に名前を変えたのです。もともとは、海外で水力発電事業をしていた人たちの集団ですから、海外志向が非常に強くて、日本が復興を遂げた段階で、今度は海外の仕事をとるのに貢献しようということで、ラオス、インドネシアというようなところで仕事を始めて、特にOECDの事業が盛んに行われていた時代には、海外でダム事業などのお手伝いに活躍した会社です。
 今は、ダム事業だけではなくて、道路だとか港湾、都市交通あるいは農業部門だとか、総合コンサルタントとして、日本国内の他、海外にも多くの支店を持ち、また海外籍の会社も立ち上げています。

中野: 我が国で今後のダム技術の展開、海外事業というのはどういう展望なのですか?

坂本: 海外のダム事業は、やはり技術的な安全性は、第一に確保しなければいけませんが、日本人好みの、何でもかんでも最高というような高度な仕様では困る訳で、海外の事情に応じたダム事業を展開しないとその国に受け入られないので、コスト意識に見合うインフラになるように、地域に密着したダム事業をやらなくてはいけないと思います。

若手のダム技術者には前を見ろ、挑戦しろと…

中野: まずは工夫していくということですね。若手技術者に向けてメッセージを頂けますか?

坂本: 自分が思ったことにトライしてみる、自分の考えをまず主張してみるということが大切ではないかと思います。主張してみて、その主張に対して、いろいろな批判を受けても、一度その批判を取り入れてみるだけの強いメンタルを持つことと、より良いものにしていく創意工夫をすること。常に提案、主張をしていく努力がないと、やはり技術の進歩や自分の技術力の進歩というものは得られないのではないかと思います。
 ただ目につくアイデアを拝借して組み合わせてみたり、他人のものを模倣するだけではダメで、自分なりの考えを構築して提案するということが非常に大切だと考えます。

中野: 若手技術者には、自分なりの主張が大事だということですが、今のダムの状況をみて、坂本さんの提案がございましたら伺えますか?


坂本: 今は、新しいダムを造るということは非常に難しくなっています。それは、技術的に良いダムサイトが少なくなっていることと社会的な環境で水没地域が出ることが難しくなっていること、あるいは環境問題で、自然環境を変えるということが非常に難しくなっているというようなことがありますから、どうしても既存のダムの再開発ということがこれから日本のダム事業の主流になっていくと考えています。
 ただ再開発のやり方もいろいろありますから、これは知恵ですね。どういう形で既存の財産を使っていくのかということに皆さんいろいろアイデアを出して、知恵を出していただければと思います。いろいろと技術的には難しいこともあると思いますけど、例えば堤体に大きな穴を開けるとか、ダムに新しい機能を付与するとか、そういうことを提案して考えてみないことには、解決策も浮かばない訳ですから。再開発というテーマを皆さんもう一度、あらゆるダムについて考えてみたらいいんじゃないかと思います。

インフラはいつの時代になっても役立つように

中野: ダムは堆砂の問題がありますが、どのようにメンテしていけば良いでしょうか?

坂本: ダムの反対運動の1つの理由として、ダムは堆砂で埋まるから、そのうちに役に立たなくなるという話があります。そういう意見に対して、私はよく言うのですが、それは道路についても、もとは東海道から始まり、国道一号線があり、東名があり、第二東名があり、古くから幾つもの道路が出来てきているのですから、時間が経つと何もかも、全部が役に立たなくなるというのではなくて役割が変化していくのだと。ダムだけじゃなく、ありとあらゆる公共施設というのは、みんなそういう性質を持っています。その中でも、ダムに砂が溜まると埋まってしまうように見えるので、反対の根拠としては非常にわかりやすい話として、ダムは役に立たないと言われる。でも、堆砂があってもちゃんと水も溜めているのです。しかし、ダムの堆砂問題というものは早々になんらかの解決の方向性を見出さなければなりません。今までにも、いろいろ提案がなされて来ましたが、もう一つこれというものが出てきていない。、これを何とか解決していただくと、ダムに対する反対運動も、反対のしようがなくなると思います。大阪府の狭山池というのは、8世紀頃に出来たアースダムです。大規模な改修だけでもこれまでに十数回ぐらい重ねて現在に至っていて、いまだに人の役に立っています。香川県の満濃池も、弘法大師が改修したというダムで、まだまだ現役で役立っている訳ですから。人の手で造ったダムも長い年月を経て、自然の一部になっていくという、それ位に遠い将来を見つめて、技術を開発していくというのが大事になってくると思います。

中野: そうですね。ダムの再開発をするためにも技術をちゃんと伝えていかないと、改修しようがないので、施工業者とコンサルと頑張ってダムのことをやっていかなくてはいけないなと思います。本日は、貴重なお話をありがとうございました。



(参考)坂本 忠彦さんプロフィール

坂本 忠彦 (さかもと ただひこ)
昭和17年8月5日生まれ

昭和42年 京都大学大学院 修士
平成10年 京都大学 博士(工学)
ロックフィルダムの力学挙動と安全性評価に関する研究」

昭和42年 4月 建設省入省
昭和51年 4月 建設省近畿地方建設局企画部企画課長
昭和52年 7月 建設省近畿地方建設局河川部河川計画課長
昭和53年11月 建設省河川局開発課長補佐
昭和56年11月 建設省北陸地方建設局三国川ダム工事事務所長
昭和59年 4月 建設省関東地方建設局甲府工事事務所長
昭和61年 4月 (財)国土開発技術センター
昭和63年 3月 建設省河川局開発課開発調整官
平成 元年 2月 国土庁長官官房水資源部水資源計画課長
平成 3年 7月 建設省中部地方建設局企画部長
平成 5年 1月 建設省河川局開発課長
平成 6年 7月 建設省東北地方建設局長
平成 7年11月 建設省土木研究所長
〜 8年11月 
平成 9年 2月 (財)ダム技術センター理事
平成12年 4月 (財)ダム技術センター理事長
〜13年3月
平成13年 4月 独立行政法人土木研究所理事長
〜22年7月
平成22年 6月〜26年 1月 日本大ダム会議会長
平成22年 8月〜 日本工営褐レ問
平成23年 6月〜26年6月 国際大ダム会議副総裁

受賞歴
平成25年 土木学会「功績賞」「国際貢献賞」
平成27年 ダム工学会 「特別功績賞」

[関連ダム]  三国川ダム
(平成27年12月作成)
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