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ダムインタビュー(41)
糸林芳彦さんに聞く
「今は新規のダム計画がなくとも、ダム技術は常に磨いておくべき。いずれ時代の要請に応える日が来るから。」

 糸林芳彦(いとばやし よしひこ)さんは、昭和31年に建設省に入省後、数々のダム建設に従事されてこられました。特に、我が国における戦前からのダム技術を継承された阪西徳太郎さんの門下として、いわゆる阪西学校で実践的ダム技術を学び、あらゆるダム技術に精通された熟練の技術者です。調査課長として現場事務所に赴任された早明浦ダムの工事現場では、本邦初の岩盤のせん断試験方法を確立されるなど、ダム技術の進歩発展に大いに貢献されました。建設省から土木研究所のダム部長を経て、水資源開発公団に入られた後、大きな反対運動に直面した長良川河口堰の建設にも携わり、冷静沈着な技術者としての誇りに満ちた行動で数々の難局を乗り切ってこられました。

 今回は、ご体調の関係で、直接お話を伺うことができませんでしたが、メールのやりとりを通じて、紙上インタビューの形でお話をまとめさせていただくことができました。何度もメールしてお手を煩わせましたことにこの場をお借りしてお詫びするとともに、膨大な下書き原稿をお送りいただいたことに厚く御礼申し上げます。

(編集・文:中野)



創設されたばかりの警察予備隊に入る

中野: 糸林さんは、旧制高校から一度社会に出られた後、再度大学に入られたそうですが、どのようなご事情だったのでしょうか?

糸林: 私が高等学校を卒業した昭和25年当時は、戦後の混沌時期のさなかでした。我が国は、依然としてマッカーサーを司令官とする連合軍の支配下です。相変わらずモノ不足ではありましたが市場のヤミ米でも十分に食べられる程、食糧事情は良くなり、国民が飢える心配はなくなっていました。この時代には、社会的に目立った事柄と言えば、労働組合が各所に結成され、工場などでストライキが頻発しており、いわゆる「レッドパージ」による首切りが行われるなど、多くの国民は先の見えない生活を送っておりました。そんな時、朝鮮戦争が勃発し駐留していた連合軍の大半が朝鮮半島に出征してしまいました。そこで連合軍に代わって日本の治安を守るために、警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されました。当時は住宅事情が悪かったので、簡単には自宅を離れて就職することもできず、といっても自宅から通勤できる範囲には適当な仕事もなく、どうしようかと悩んでいた時に、警察予備隊員の募集を知って応募したのです。

 入隊後は、訓練をしつつ西日本各地の駐屯地に転任し、最後は兵庫県の伊丹市で施設大隊(engineering battalion )に所属していました。創設されたばかりの警察予備隊の幹部の大半は、旧軍人と元警察官でした。私が入隊2年目の昭和27年には、久留米に士官を養成する学校(今でいう防衛大学校)が創設されました。これに受かった私は「自分の一生は決まった」と未来の将軍を夢見て入学の日を待っておりました。
ところが、入学の日が迫っていたある日、突然腹部に激痛が走り、伊丹の病院に急送されました。十二指腸潰瘍が穿孔して放っておけば腹膜炎で危ないということで、直ちに手術し一命を取り留めました。しかし、久留米の士官学校の入学日までに退院することが出来ず、2年間の契約期間の期限も迫り、このまま一兵卒として予備隊に残るか、退職金の6万円(当時の上級職国家公務員の月給が8千円程の時代)を貰って故郷に帰るか迷いましたが、結局、後者を選んだのです。

中野: なるほど、急病でやむを得ない事情だったのですね。それから改めて大学に?

糸林: 故郷の徳島県阿南市に帰ってはみたものの、今後の身の振り方に悩みながら日々を送っておりました。その時、徳島大学の工学部土木工学科で2次編入試験があるのを知って受験したのです。
 従って、なぜ土木工学を選んだかと理由を問われても、2次編入が許されたこと、大学近くの親戚の家に下宿できたこと、それに予備隊の退職金で生活出来たことによる、というのが私の答えです。警察予備隊の仕事は治安を守ることで社会に貢献しているという自己満足は得られますが、仕事としての足跡は残りません。ですが土木の仕事は、自分の存在を形あるものとして残すことが出来ます。私は、後者を選んだことで、ダム技術者として幾多のダム事業に参画し社会に貢献できたことに喜びを感じます。

民間よりも役所を選んだ理由

中野: 建設省を選んだのは、インフラなどやはり形あるものを造ることで社会に貢献出来るとのお考えですか?

糸林: 卒業した昭和31年当時は、大変な就職難でした。私は回り道をしていたので同年次の人より3〜4年、歳をとっておりました。そのため、民間の建設会社や電力会社に就職を希望しても厳しそうだったので、上級職公務員試験を受験したのです。その時、人事院から送られてきた合格通知書に建設省の面接試験を受けるようにとの指示があったので、それに従った結果、建設省に採用された次第です。従って、なぜ建設省を選んだのかとの問いに対しては、自分の意志以外の諸条件によるものが少なからずあったと、答えておきましょう。

【現場なら、寮で飯が食える】

中野: 最初に手がけられた仕事は、どういうものですか?

糸林: 入省して最初に配属されたのは、関東建設局の橋梁設計室の設計係でした。ここで簡単な合成桁などを3橋ほど設計しました。当時、東京での生活はなかなか厳しいものでした。独身寮に入れなかったので民家に下宿していましたが、給料前には食費にも事欠く状況でした。そこで建設現場に出れば、寮が完備されており、食費も安く、通勤の苦労もないので何とか現場に出る方法はないものか、とチャンスを伺っておりました。すると突然、課長に呼びだされ「君は藤原ダムに行くことになった」との内示を受けました。ようやく慣れてきた橋梁設計室の仕事から離れる寂しさと共に、ダム建設という初めての仕事に自分が適しているだろうかという不安もありましたが、何よりも現場事務所に転勤すれば、寮で飯が食えるという期待がありました。

中野: では、藤原ダムが最初のダム現場ということになったのですね。

糸林: このような経緯から、昭和32月に群馬県沼田市にある藤原ダム工事事務所に転任して、そこで阪西徳太郎さんの部下になったのです。

初めてのダム現場と、阪西さんの思い出

中野: 阪西徳太郎さんとは、どういう方なのですか?

糸林: 阪西さんは、現在の北朝鮮国と中国との国境付近を流れる鴨緑江に、昭和14年に建設を開始し、終戦の1年前の昭和19年に竣工した堤体積311万m³の水豊ダムの建設に参加して帰国したダム技術者です。当時、建設省にはダム工事を経験した技術者が少なく、ダム技術者を求めておりました。そこで、阪西さんは請われて建設省に入省したと聞いております。最初の数年間は、東北地建の猿が石ダム工事事務所に勤務した後、藤原ダムに現場所長として転任して来られました。

中野: つまりダム技術者の草分け的存在ということでしょうか?

糸林: 阪西さんは、西郷隆盛を彷彿とさせる風貌から独特のオーラを発散させておりました。一見豪放な性格の持ち主に見えますが、本当は細かい所にまで気の付くデリカシーな心の持ち主で、礼儀正しい方でした。技術者としては生粋の現場マンで、普段は殆んど所長室におらず、工事課か藤原ダム出張所か、当時群馬県から委託されて工事をしていた相俣ダムの現場で、工事の失敗例を解説しつつ職員と談笑するのが日課になっておりました。

 この様に、阪西さんは日頃から若い現場職員に技術を伝授していました。私は初対面以来、何故か気にいられ、一緒に麻雀卓を囲んだり、寮の部屋を訪れて雑談したりしておりました。当時、阪西さんは起床が早く、朝一番から強い語学力を生かして内外の専門書に目を通しておられた事をよく覚えております。

中野: 他に阪西さんを語るうえではずせないのは、どういう部分でしょうか?

糸林: 当時、事務所の課長の一人が「偉大なる怪物」というタイトルで地建の広報誌に阪西さんについて寄稿していますが、「阪西さんは、いわゆるレッドテープ(形式主義のお役所式)が大嫌いで、やる気のある者には優しいが、やる気が無いと見れば相手にしないという厳しさがある。しかし事務所は明るい雰囲気に包まれ、活気に満ちている」といった記事を載せておりました。
 当時、藤原ダムの事務所には、後に公団の総裁や局長に昇進するような錚々たるメンバーが勤務しておりましたが、阪西さんはいつも課長席に陣取って、自分が体験した事例や外国のダム事情などについて語りながら技術指導をしていました。後にそれを『阪西学校』と言っていますが、私がダム技術に関する参考書がまだ少なかった時代に得たダム知識の大部分は、阪西さんからの耳学問によるものです。

中野: 自分の経験を後輩にいろいろ話して聞かせていたということですね。糸林さんが学ばれた中で今も覚えていることは?

糸林: その後、私は調査課に配属され、薗原ダムの予備調査を担当しました。ダム予定地の1/500の地形図を作るのに必要な三角測量の内業をしていた時、突然、阪西さんが庶務課長に「御母衣ダムより大発破の見学会の招待状が来た。糸林を連れていくので準備しておくように」と言っているのを耳にしました。何故、私が選ばれたのか判りませんが、とにかく随行しました。往きは、岐阜県の郡上八幡、帰りは名古屋経由と二泊三日の余裕のある楽しい旅行でした。この間、阪西さんが語った話は今でも覚えておりますが、技術的な事よりもむしろ人に話せないようなくだけたものが多いかも知れません。(笑)

御母衣ダム工事現場の大発破

中野: 大掛かりな発破は、なんのために行うのでしょうか?

糸林: 原石山を崩すためです。御母衣ダムは高さ131m、堤体積795万m³のロックフィルダムですから、原石山を効率よく崩す必要があります。工期短縮のため、抗道爆破という方法を採用したと聞きました。招待者全員が見守る中、ズシンと鈍い揺れを感じた直後、大音響とともに原石山全体が沈下し崩れていきました。同時に「バンザーイ」の声が谷間に響きわたり、大発破は成功裏に終わりました。その後に展開されたパワーショベルブルドーザー、ダンプトラックなどの大型重機を組合せてロックを積み上げてゆくダイナミックな光景に初めて接した私は「これぞ男の仕事」だと感動しました。そして、この日からダム技術者になるのも悪くないと思うようになりました。

中野: その後、取り組まれた中で、どういう仕事が一番記憶に残っていますか?

糸林: 大発破から帰って、地質調査、河床砂利の粒度調査といった、ダム工事計画の基礎となる調査を直営で実施していた時、部下を呼びつけて仕事を命ずるのが嫌いな阪西所長が、私の所にやってきて、昭和33年度の予算要求書にのせるため薗原ダムの実施計画調査費要求書を作るようにいわれました。ダムの事務所に来てまだ1年足らずの私には、荷の重い仕事だとは思いましたが、前例を参考にすれば何とかなるだろうと、とりあえず仕事に取り掛かりました。ところが、ピークカットをする洪水調節計画を満足するような越流部の標準断面図がうまく描けず、毎晩夜遅くまで事務所に残って考えておりました。


薗原ダム(撮影:だい)
 すると、それまで麻雀を楽しんでいた阪西さんがひょいと顔を出して「どうだ、できるか」と聞かれたので、越流部の標準断面図に悩んでいると伝えたところ、どれどれと製図版に向かって、しばらく計算尺で何か計算しながら、自分で図面を書き始めました。鼻歌まじりで楽しそうに書いておりましたが、洪水調節は3門のコンジットゲートを操作し、異常洪水はゲート室の上部からスキージャンプさせて下流に放水する珍しい型をした越流部が、描かれておりました。

施工する人のことを考えて、図面を描け

中野: すでにご自分の頭の中に素案をお持ちだったのでしょうか?

糸林: 図面を描いていたのは、2時間余りであったと思います。その図面をもとに、コンクリート量と掘削量、グラウチングの延長を算定すればよい、単価は藤原ダムの予算要求書を参考にして作ればよい。用地及び補償費は用地課の仕事だ、との言葉を残して寮に帰りました。越流部のカーブをコンパスで製図するときに阪西さんが「糸林よ、コンパスを使って製図するときには、型枠大工の苦労を思い浮かべながらやるように」とつぶやいたのを今でも鮮明に記憶しております。

中野: その後、現場から内勤に移動されていますね。

糸林: 昭和34年4月に薗原ダムの9tケーブルクレーンのトレッスルを設計していた時に、今度も突然ですが、河川局開発課への転任を命じられました。この開発課での最初の2年間は、補助ダム係におりました。その間に、治水の妥当投資額の算定方法を改正して、想定被害額を発生確率によって算定する手法を確立する作業に従事しました。これまでは、過去10年間に発生した災害実績より妥当投資額を算定しておりましたが、流域開発が進み、情勢変化に対応するために行われた改定でした。
 また、米国開拓局発行の「Small Dam」の翻訳グループに加わり、ダム工事の調査の章を担当しました。翻訳しながら、微に入り細にわたって記述した内容に、驚きました。スモールダムとはいってもアメリカでの話ですから、高さ100m級のダムにも十分通用する内容でした。成果物はその後市販されましたが、半世紀を経た今は絶版になっているでしょう。

先輩技術者が作成した書類を審査

中野: 建設省でのお仕事はその後どういうことをされたのですか?

糸林: あとの2年間は、水利権担当の係長として勤務しましたが、この頃は、黒四ダム、奥只見川ダム、一ツ瀬川ダムなどダム建設の最盛期で、新長期経済計画も2年目に入り、日本中が明るい未来を信じて活気に満ちておりました。
 電力会社が河川にダムを築造して河川水を利用するには、河川法により河川管理者の許可や認可を必要とします。その許認可の申請書を審査するのが私の仕事でした。係長とはいえ、ダム工事の経験の少ない私には、水豊ダムで阪西さんと一緒に仕事して、帰国後は各地の電力会社に就職してダム工事に従事している技術者の方など、経験豊富な先輩方と、そうした申請書の内容について議論するまでの技術力はありませんでした。このため、審査とはいっても、申請してきたダムごとに、設計に用いた諸係数の決定方法やダムの安定計算の手法、基礎処理方法などダム技術全般についての説明を聞きながら、理解できないところを教えて貰って審査が終わる場合が多かったと思います。そして、この2年間で得たダム技術に関する知識と共に、申請ダムの説明資料として頂いたダムの竣工図集や工事報告書などの貴重な資料は、早明浦ダムをはじめその後に参加したダム工事に非常に役に立ちました。

積算作業から現場をみる


早明浦ダム(撮影:さんちゃん)

中野: 四国の早明浦ダムについても携わられたのですね?

糸林: 早明浦ダムを含む「吉野川総合開発計画」は、昭和25年に策定作業が始まりましたが、関係する省庁と四国四県および電力会社の間で、水配分について意見が割れて調整がつかず、しばし作業は棚上げにされておりました。でも、この間に日本の経済は大きく発展したので、やがて吉野川総合開発を促進しようという気運が起こってきました。そして昭和38年に「早明浦ダム実施計画調査費」が認められ、高知県の本山町に調査事務所が設けられて、私の直接上司である相原さんが所長に任命されました。その3か月後に、私は調査課長として現地に赴任しました。その後、早明浦ダムに6年間勤務することになりますが、その間に調査、設計、積算とダムの入札に至るまでに必要な一連の作業に係わりました。
中野: 当時は、どのようにしてダム建設を進めていたのですか?

糸林: この時代は、まだコンサルタントの揺籃期で、特にダム建設を得意とするコンサルタントは少なく、地形測量や地形図の作成についてはコンサルタントに委託しましたが、殆どすべての工種は、直営で行っておりました。その際、水利権の審査を担当していた時代に得た知識と資料が役立ちました。調査事務所には、ダムの経験者がいなかったので、相原所長さんは、事務所設立後の数か月の間、時間を割いてダムに関する話をして若い技術職員を教育しておりました。これを相原学校と呼ぶ人もおります。

叩き込まれた、ダム技術者としての心得は

中野: ダム建設を知っている技術者が少ない中、現場でどのように学ばれたのですか?やはり阪西学校、相原学校のように先輩技術者が若手を教えていたのですか?

糸林: ダム技術に関する文献の少なかった当時のことを振り返って、自分がどのようにしてダム技術者として成長できたかを考えてみると。
1:常に自分の能力を超えるようなハードルの高い仕事を命じられてきたこと。
2:水利権の許認可申請書を審査する部署にいた2年間に、ダム技術に関する知識を、電力会社の中堅技術者から直に吸収できたこと。
3:ダムの工事費を積算するには、爆薬、爆破、骨材製造に関する知識が必要で、どうしても勉強しなければならない立場に置かれていたこと。
4:米国開拓局のダム仕様書(いわゆるspec)を参考にして、早明浦ダム工事仕様書を作成したときに、施工の知識を得たこと。(この仕様書は、詳細すぎるということで採用されなかった。)
5:セメント・混和剤・水門・穿孔機・骨材プラント等のメーカーの技術者が営業に事務所にきた機会をとらえて、新しい情報を入手するように努めたこと。
6:阪西学校、相原学校の生徒になったこと。言葉を変えれば、上司に恵まれたこと。

 このような条件が重なって、人から見たら勉強したように見えたかもしれませんが、勉強したというより、経験を積んだと答えるのが正しいでしょう。

中野: 早明浦ダムでいちばんメインのお仕事はどういうことをされたのですか?

糸林: 早明浦ダムに限らず、どのダムでもそうですが、設計ができれば本体工事を発注して施工します。その時いちばん重要なのはどれだけの予定価格で発注するかということです。その中核をなす予定価格を決めるための積算については、作業が終わってしまえば、何故こんなことに苦労したのかと言えますが、今振りかえってみると、当時ではまだ経験のない新しい手法を思いついて、よくも大胆に実行したものだと思います。

ダム工事の真髄は、積算資料

中野: 設計図に基づいて仕様を決め、それを施工するのにどれだけの資材、人員が必要で…と数えていくのですか?

糸林: ダムの積算指針などなかった当時は、他のダムの積算書を見ても、なかなかうまく説明のつかない単価表を作って、それを基に積算を進めていく手法をとっておりました。説得力のあるダム工事の積算システムを構築するには、当時、実態と大きく乖離していた積算用の地建統一労務賃金を、実態に合わす必要がありました。実態に合った賃金を決定するまでには、他のダムや道路など、との調整を必要とし、そのことに苦労いたしました。
 この問題が解決したあとは、実態に合うように、システマティックに積算してゆけば、予定価格に到達いたします。ここでいうシステマティックとは、「繰り返しが可能で、誰がやっても同じ結果が出る手法」をいいます。ダムの安定計算に用いる物理乗数が決まり、ダムの設計を開始したのは、昭和41年6月でした。当時、翌年の4月に事業は、水資源開発公団に移管されると決っておりました。

中野: 相当に細かい計算の積み重ねが必要なのですね?

糸林: 早明浦ダムの契約額は、当時の建設省では過去最大の金額になることが予想されたことから、ダムの入札は、建設省時代に行われるのか、水公団移管後になるのか、建設業界で話題になっていました。この問題のキーとなるのがおよそ10か月という短期間に、ダム本体の安定計算から、湛水開始までの全工種について設計し、数量計算を行い、積算して、予定価格を決めて入札するまでの一連の作業を終える能力が、ダムの事務所にあるのか、という点にあると誰もが思っておりました。そして建設本省からは、建設省時代に契約を終えるようにと、強く要請がありましたが、所長以下職員が一丸となって努力した結果、予定通り建設省時代に入札し、落札業者と契約することが出来ました。このような経過を経て、昭和42年4月1日に早明浦ダムは水資源開発公団に移管されました。この時の職員は、各人の希望に従って建設省に帰るもの、この機会に退職して公団に移職するもの、建設省からの出向職員の形で残留するものに分かれて、それぞれ自分の前途を決めました。私は出向者として残留いたしました。

中野: 引き続き早明浦に残ってお仕事をされたのですね。

糸林: 無事に水資源開発公団への移行が終わり、ホッとした矢先に、入札に疑惑が残ると国会で問題にする議員が現れ、ダムの現地査察を行う先生もおりました。そして、会計検査院の特別検査を受けることになりました。
 水資源開発公団は、建設省のすべての債権債務を引き継いているとはいうものの、契約の経緯と内容、特に積算の内容について、説明できるのは私しかいないと、自他共に思っていたので、公団幹部職員の心配そうな視線を背中に感じながら、一人で積算の内容について説明しました。先ほど言ったように、積算についてはあとで説明できるように編み出した独自の手法によっていたので、問題なく説明できたと思います。検査は2日間行われました。検査の最後に、幹部職員の前で行う講評は、最も緊張する瞬間でしたが、「他ダムの実積を参考にして積算されており、問題はないと思います」との言葉を頂き、私は面目を保つことが出来ました。

本邦初、ブロックせん断試験を実地で試す

中野: 早明浦ダムの工事では、技術的に難しかったことなどありますか?

糸林: 早明浦ダムのダムサイトは特徴的で、片理面に沿って石英を内蔵する黒色片岩より構成されております。そして、その片理面は小さく褶曲しており、柾目・板目と方向によって強度の異なる材木のような性質をもっております。
 このような岩盤のせん断抵抗値を決めるために、実地試験を行いましたが、コンサルタントの協力を得て、前例のない「ブロックせん断方式」を採用しました。この時に用いた試料のコンクリートブロックの大きさや形状、油圧ポンプによる荷重の掛け方、試験結果の整理方法などは、現在、地盤工学会の「ブロックせん断試験」の試験方法として採用されています。

ダム工事報告書は、貴重な資料

中野: その時開発した試験方法が標準になったということですね。早明浦の次は、どこのダムに行かれたのでしょうか?


石手川ダム(撮影:安河内孝)

糸林: 昭和44年4月に、石手川ダム工事事務所に転勤いたしました。ここのダムサイトは、松山市内を流れる石手川上流の奥道後の景勝地にあり、赴任したのは、入札が終わり、仮設備工事が始まったばかりの時期でした。
 赴任後まもなく、左岸を掘削中に下流上がりの低角度断層が見つかり、断層面のせん断破壊に対する安全性を確保する工法の検討が始まりました。検討するには、岩盤と断層内に発生する応力を算定する必要がありました。具体的な検討は、土木研究所の指導の下に行われ、基礎岩盤の内部応力の算定は、当時、開発されたばかりの「有限要素法」によりました。結局、断層内のどこをとっても、点安全率が1.2以上になるまで、断層面より上部の岩盤を除去してコンクリートに置換え、更に、断層に乗るブロックにフィレットを付ける工法を採用して、ダムの安全を確保しました。
 この石手川ダムでは、工事中に発生したトラブルや失敗した点、改良を必要とする施工方法などを細かく記録したユニークな工事報告書があります。この報告書は、次のダムに従事するときに役立てるように書かれたもので、内部資料となっておりますが、今となっては、いつまでも残しておきたい貴重な資料になっております。

ダムの上下流地域の交流をはかる

中野: 四国でのお仕事が続いたようですが、その後はどちらに行かれたのでしょうか?

糸林: 昭和50年3月から51年6月まで川治ダムで勤務いたしました。ダムサイトは、栃木県の川治温泉から見えるほどの位置にあり、石手川ダムと同じく入札が終わり、仮設備工事が始まったばかりの時期に赴任しました。現地、栗山村には73戸の水没対象家屋があり、そのうちの30戸については、5メートルほど地上げ(じあげ)して造成した敷地に移転する方式により行われましたが、これが成功して水没者も移転後の生活に満足しておりました。こうした地上げ方式は、盛り土の不等沈下や、地滑りの発生により、移転後にトラブルが生じた事例を知っていたので少し心配しましたが、川治ダムの場合、幸運にも本川の砂防ダムに貯まっていた河川砂利を盛り土材料に使えたので、その心配を消すことができました。その後、造成地に上下水道を整備し、街灯、TV共同アンテナ等を設置し、地上げした農地に肥沃土を補給したりして生活再建も軌道に乗って来ました。


川治ダム
 ダムを作ろうとすると、水没地域には一般に強烈な反対者が現れます。一方、下流の受益地域の住民は、ダム建設の促進を願ってはいても行動しようとしないのが普通です。ところが、川治ダムの場合は違いました。下流でダムの恩恵を受ける千葉県と、上流県で水没者を抱えてはいるが、治水・利水面で恩恵を受ける栃木県とが、一緒になって「川治ダム建設促進同盟会」を設立して、工事を円滑に進めるための行事や、ダム水源地域整備法によって作られた温泉設備まである公民館に千葉県民を迎えて、ダム工事の見学会を計画するなど、上下流の交流が盛んに行われました。中でも圧巻は、毎年銚子港に水揚げされたばかりの新鮮なサンマを車で運び、水没者の各家庭に配って、感謝の言葉を述べる行事でした。

中野: そうやって、ダムの上下流の地域が交流することで理解が進み、単なる反対運動一辺倒ではなくなったのでしょうね。

糸林: ただ川治ダムでは、アーチダムの頂部を一般交通が利用できるように車道と歩道を設けたので、それではダム管理に支障をもたらすと、非難する者もおりましたが、現在、堤頂部が、川治温泉を訪れる観光客の、人気スポットになっていることを思うと、後悔はしておりません。むしろ良い事例として知っていただければと思います。

アメリカから環境アセスメントを導入

中野: 次に、ダム建設における環境アセスメントを行うという方式が導入されることについて、米国まで調査に行かれたと伺っています。その件についてお聞きします。

糸林: 実は、国土開発技術研究センターに出向していた昭和48年に、およそ4年前にアメリカで成立した国家環境政策法、略してNEPA(National Environmental Policy Act、1969年成立)が、公共事業に与えた影響についての調査を命じられました。そこで、アメリカに留学の経験のある松野さんと一緒に行きました。最初に訪れたのは、オハイオ州のコロンバス市にあるバテル研究所でした。そこで、現在アメリカが直面している環境問題の課題とNEPAが制定されるまでの経緯についての話を伺いました。

中野: 今は当たり前のようになっている環境アセスメントですがアメリカで最初に法律になったのですね。内容はどのようなものでしょうか?

糸林: NEPAの内容は、ダム工事に専念していた私にとって「目から鱗が落ちる」くらいの衝撃的なものでした。
その時に伺った話の要旨は、
1:人間は地球のほんの一皮の上にしか生きる場所はない。地球が誕生して46億年、海に単細胞生物が出現して約40億年経過しているが、その間に滅亡した種もあるが、生き残った種が進化して多様化し、緩やかに変化しながらも、安定したエコシステムが出来上がっている。人類も含め地球上の全生物は、そのエコシステムのなかでしか生きられない。著しい進歩を遂げた科学技術を駆使して達成した近代文明は、大量のエネルギーと資源を消費して成り立っている。NEPAは地球が持つエコシステムの重要性を国民に訴えており、アメリカでは、人間が何かしら環境にインパクトを与える行動を起こすときには、「環境影響評価書」というものを作成して、関係機関にレビューすると共に、公聴会を開いて意見を求める所謂、環境アセスメントを行っている。
2:現在、合衆国国民は、豊かな文明生活を享受しているが、この文明を維持していくのに必要な資源やエネルギーは、人口の増加や後進国の発展に伴い、消費が増えて枯渇してしまう恐れがある。
3:これまで、人類は、地球上の限られた土地にしか生きる場所はないという考えを必要とするような、グローバルな環境問題に直面したことがなかった。
4:ところが、最近になって石炭火力発電所による大気汚染や、大型タンカーの事故による、海洋汚染などが相次いで発生し、環境問題に寄せる人々の関心が高まってきた。
5:環境問題は、狭い分野を深く研究している学者を集めてきても解決しないだろう。というのは、環境問題は、縦割りに進化してきた学問の各分野を横断する問題として捉える必要があるからだ。従って、環境影響評価書は学際的(inter-disciplinary)なアプローチをとり、正しく評価するには、誰が行っても同じ結果となるような、シスマティックな手法を開発する必要がある。
6:評価書には良いインパクトと共に、必ず悪いインパクトをも記述しておかなければならない。さらに、法律や規則制定等によって解決されると思われるソフトな代替案をも含めた、考えられるすべての代替案について記述しておかねばならない、とNEPAで規定されている。
7:土地利用の面から考えると、「何もしない」ということは、怠けているということではなくて、利用を次の世代の人に譲ると考えるべきである。
8:評価には、高い知性と、倫理観が必要である。
といった内容のものでした。

中野: アメリカで、その他どういうことを調べてこられたのですか?

糸林: ワシントンでは、国内務省開拓局・工兵隊・住宅局・地質調査所・環境庁を訪れました。何れの省庁でも、丁寧に説明して頂き、多くの資料を入手することが出来ました。帰国後、「環境アセスメントについて」というタイトルで報告書をまとめ、建設省に提出しましたが、高い評価を受け、これを教材にして、環境問題の勉強会や建設大学校の講師になって、「アメリカにおける環境アセスメントの現状」について報告し、日本での取り組み方について論じる機会が多くなりました。

土木研究所で、ダム工事を円滑に進めるための研究を

中野: 以後は、ダム現場を離れて土木研究所にいかれたのですか?

糸林: 昭和54年4月に土木研究所に赴任しました。「筑波学園都市」が完成した直後で、新装したばかりのダム部長室から筑波山の全景を展望できる快適な環境のなかで勤務しました。
 土木研究所は、大学のように、土木工学を学問として取り扱うのではなくて、ダムの工事現場で解決が急がれている諸問題を優先して取り上げて研究し、ダム工事を円滑に進める手助けをするのが重要であると考えました。この方針のもとに、海外でグラウチングに関する文献を収集して翻訳したり、ダムの細部設計の標準図を作成したりしました。また国際協力事業団(JAICA)に研究員を派遣して、海外のダム事業に積極的に参加するようにいたしました。土木研究所という思いもよらない所に転任を命じられ、最初の間は戸惑しましたが、上司や4名の室長に助けられて、2年間を楽しく過ごすことができました。

難しい水利権の調整

中野: 土研時代は割と短かったのですね。その後どちらに行かれたのでしょうか?

糸林: 昭和56年から1年間、中国地方建設局で勤務しました。広島県と山口県との境界を流れる小瀬川に建設中の弥栄ダムが、工事の最盛期を迎えている時に赴任いたしました。この弥栄ダムでは、広島県と山口県が新規に開発された取水量の配分について、争っておりました。この争いには、小瀬川に古くからある慣行水利権や、取水の優先順序、新規に造られる取水塔の位置、河川維持流量の決定、等が複雑に絡み、その内容を理解するのが非常に困難で、そこにある両県の誤解が原因の争いでもありました。
 そこで、小瀬川の水利権に関する「一問一答型式」のパンフレットを作成して、関係者に配布し、水利権の現状を関係者が理解しやすいようにしました。この手法は、両県の水利調整に役立ったと思います。

中野: この他には、どういうお仕事が記憶に残っていますか?

糸林: 計画中の温井ダムをアーチ型コンクリ−トダムに変更して、建設業界に波紋を投じたのもこの頃です。また、苫田ダムに実施計画調査の予算が認められ、局長に同行して町長に挨拶に出かけたとき、大勢のダム反対者に囲まれて、水を浴びせられたりして役場に入ることが出来ず、引き返す事件もありました。この事件は、地元のテレビで放映され、その影響の大きさに驚きました。

建設省から水資源開発公団へ

中野: 建設省をお辞めになったのはいつですか?

糸林: 結局、昭和57年7月に建設省を退職して水資源開発公団に就職しました。在職中に、マレーシア全国水資源開発計画に参画して、昭和60年4月に公団を退職するまで、7回マレーシアに出張して、現地調査を行いました。その後、新しく就職したコンサルタント会社ではダム部門を担当しましたが、役所と違って、自由度の高い生活を楽しみました。

中野: 再び水資源開発公団に戻られていますが、それはどういうことですか?

糸林: コンサルタントに就職して3年近く経ったある日、後に横浜市長になられた高秀総裁が、社長室に現れ、糸林を公団に復帰させて常務参与に任命したい、との申し出がありました。
高秀さんとは、高秀さんが建設省の技術調査室長時代に、アメリカにおける環境アセスメントの現状について、報告して以来、OB会などのパーティーでお会いして談笑するような間柄でした。私を常務参与に選んだのは、前任者が急に他界したのが、直接の動機だったと思います。約半年後に理事に就任いたしましたが、この時に長良川河口堰の建設反対運動が起こりました。

長良川河口堰問題から、河川法の改正へ

中野: この時の反対運動に関しては、以前、竹村公太郎さんのインタビューでお聞きしましたが、どういう理由で反対運動が起きたのでしょうか?

糸林: まず河口堰ができると、アユ・サツキマス・シジミなどの漁獲量が減少する。水需要は国がいうほど逼迫していない。堰で流水を遮断すると水質が悪化するなどと、考えられるあらゆる項目が反対要因として取り上げられました。これを受けて建設省は、個々の項目について理論的に説得のある反論をしました。マスコミは、どちらかというと反対の立場で報道しておりました。そのうち反対運動は次第に激化して、反対派、推進派、共にエキサイトして、相手の主張を聞く耳を持たず、堰の利害、得失を判断する冷静さを失っていたように思われます。

中野: 竹村さんはマスコミの取材に対して、繰り返し河口堰の目的を説き、こういうメリットがあると飽きるほど説明したと言われています。また、現場も霞ヶ関も一体になって対処することができたそうです。

糸林: もともと河川管理の権限は、建設大臣にあるため、堰の設置に伴って発生する諸問題を取り扱うのは建設省であり、水資源開発公団は工事中に発生する環境問題に対処しながら、建設省の行う調査に協力する立場で、諸問題に対応しました。
アメリカにおけるダム周辺の環境整備の状況の視察から帰って日も浅かった私は、堰の上流にできる淡水湖を利用してカヌーやボートレース、ヨットなどのレクレーションに利用できるようにする施設を作れないかや、階段式魚道にアユやサツキマスの遡上が観察できる覗き窓を作って、堰を訪れる人々に開放できないかと考えていました。当時は、実現困難と思いましたが、その後、時代の変化に伴い、河川に対する国民のニーズも変わったので両者共に実現しております。
 この時の反対運動から得た教訓として、堰を建設すれば、好ましい効果が期待されると同時に、安定した生態系に与える影響など、好ましくない影響も考えられます。事業者は、悪い影響を可能な限り少なくする対策をとって、反対者を説得しなければならないが、その際、検討した資料は出来るだけ詳細に公開する。そして堰の完成後に出現する新しい環境のメリットとデメリットについて、冷静に説明することが大切であることを学びました。
 長良川河口堰問題の発生を契機に、次第に公共事業を行う際には、環境アセスメントを実施せよとの声が高まり、昭和59年に「環境影響評価の実施について」が閣議決定されました。次いで平成9年に河川法が改正され、河川環境の整備と保全が、法の目的に加えられたのです。

中野: 環境アセスメントを取り入れていくにあたり、どのように現場の理解を得られたのでしょうか?

糸林: 建設所長会議では、環境問題に対して公団はどのような姿勢で臨めばよいのか、という質問に答えて『環境保全事業やレクレーション設備の工事などを、公団にとって余分な仕事だと思ってはいけない、時代は変わった。建設省では河川の整備を、河川管理者本来の仕事に取り込もうとしている。公団は、今後、積極的に国民の要請を受け入れて、よりよい河川環境の創造に励んで貰いたい』と述べました。
 更に、ダム建設反対の声に対して公団は何をすればよいのか, という質問がありましたが『先ず、ダムを建設しようとする河川の歴史を勉強しなさい。次いで、水系の治水計画と水資源開発計画、いわゆるフルプランについて勉強して、水系の中で、自分のダムがどの様に位置付けられているかを十分に理解してください。次いで、ダム建設の必要性について、関係住民が、判りやすい方法でPRして、関係住民の協力が得られるように努力しなければなりません』と、述べたのを思い出します。

ダム不要論をどう考える?

中野: 脱ダム宣言以降、ダム不要論が広がり、なかなかダムの存在価値を認識してもらえない状況です。一方、ダムが有益だとする方も有効な説明ができずにいるように思えますが?

糸林: 今もなお、ダム不要用論者と有要論者との果てしない論争が続いておりますが、両者共にダムのメリットとデメリット部分をより強調して、自分の主張を通そうとしているように見えます。

 ただし、どんな事業にも「良い面」と「好ましくない面」とがある筈です。ダム不要論者は「好ましくない」面を強調しながら、堤防の嵩上げなど、ダムの代替施設を提示して、ダムの無い治水計画の立案を迫っております。さらに、不要論者は、「コンクリートから人へ」といったスローガンを掲げて公共事業費の削減を図る政府の方針に勇気を得て、ダムは「ムダ」だと叫び続けております。
 一方、必要論者は、不用論者の主張に一つずつ反論しながら、ダムの必要性を、粘り強く訴えております。ですが一つがおさまるとまた次が始まるようにモグラ叩きのようです。
 こうした両者の主張の違いをきちんと整理し、調整して、妥協を図ることなく工事に取り掛かると、ダム不用論者は反対側の住民を動員して、激しい反対運動によって工事中止を訴えてきます。長良川河口堰が、この例です。


長良川河口堰(撮影:ToNo)
環境アセスメント法の成立

中野: 反対のための反対で来られるとどうしてもこじれてしまいますね。河川をめぐっての法律はどのように整備されてきたのでしょうか?

糸林: 平成9年に、河川法が改正され、河川環境の整備を積極的に進めると共に、河川の生態系や植生の保護・育成が、河川管理の目的に加えられました。その結果、河川そのものの価値を増大させ、いわば付加価値としてレジャーの一環として利用する傾向が広まってきました。
 同じ年に、通称、環境アセスメント法といっている環境影響評価法が施行されました。この法律によって、湛水面積が100ha以上のダムを建設しようとする場合には、事業者は、事業が環境に及ぼす影響について自ら調査、予測、評価を行わなければならなくなったのです。事業者は、その結果を公表して国民から意見を聴き、事業計画をより望ましいものにするために、住民の意見を聞く手続きが必要になりました。また、公正に評価するために、事業者は評価書作成の過程で環境大臣に意見を求めることになっております。
こうしてダムを建設しようとする事業者は、環境アセスメント法による手続きを、終えなければ、工事に着手できなくなっておりますが、この手続きの中で、ダム不要論者と必要論者との主張の違いを調整することが出来れば、今までとは違って工事は順調に進むと思います。
 ただし、公正を期して行われる環境大臣の評価に、国民の同意が得られるかという点に問題を残しております。その問題を解決するためには、現行の評価システムを再検討する必要があるとの声もきかれます。

中野: 環境アセスメント法にも課題があるのですね。

糸林: 国民の価値観も、時代の移り変わりと共に変化しております。東日本大震災によって被災した人々の助けになろうと、多数の人々がボランティア活動に参加しましたが、この活動を通じて人と人とのつながりが生まれ、日本人同士が、助け合い、支えあうことの大切さを国民は再認識したと思います。
 ダムについても今は反対一辺倒の対立路線から、地元の振興政策を重視した協調路線へと変わってきていると思います。工事着工までに避けることの出来ない環境アセスメント法による一連の手続きを、事業者は、工事の推進にあたっての余分な仕事と思わずに、真摯な態度で臨むことが事業の円滑な推進に繋がっていることを知る必要があります。

ダム技術をどう継承していくか?

中野: 新設のダム事業はすべて凍結か中止で、これからの現場がない状況になると、若い技術者が育たなくなるのではないかと心配されています。技術の継承についてはどのように思われますか?

糸林: 日本では、ダムのニーズがまったく消えてしまうことはないと思いますが、成熟社会へ移行するにつれて、新規に建設されるダムの数は少なくなり、建設の時代から管理の時代へと移っているのも否定できないでしよう。このような時代の流れの中で、世界に誇れる水準を保持している日本のダム技術を継承していくには、工事の最終報告書が重要な役割を果たします。
 特に、新工法によって施工したダム工事の最終報告書は、新技術を継承していくのに欠くことの出来ない資料となります。また、数少ない建設中のダムを活用してダム技術者の保存と育成に努める必要があると思います。

中野: 良いダム技術者に求められる要件はどういうものですか?

糸林: ダム技術者には、広い分野の工学的な基礎知識が求められます。工事現場では、基礎岩盤を掘削中に予期しない断層を発見したり、コンクリート打設中のブロックをオーバーする洪水によって、まだ固まっていないコンクリートが、重大な損害を被るような事態に遭遇することがあります。こうした時、対策方法についての文献や前例がないとかなり苦慮します。といっても有効な解決策を考え出し、施工法を決めていかなければ、工事は前に進みません。
 この時、細分化して発達してきた工学的知識を総合して、最も合理的だと思われる工法を迅速に考えだす能力が、ダム技術者には要求されます。このような能力は、ダムの工事現場で、困難ではあるが解決しなければならない諸問題に直面して、次々に対策を決断しなければならない体験を積みながら身につくものです。従って、ダム技術者を育成し、確保するには、常に工事中のダムが必要なのです。そして、そのダムの工事現場を体験させることにより、ダム技術者を確保し、育成するのが良い方法だと思います。ただし、これを実行するには、適切な人事管理が求められます。
 また国内の現場が少ない場合は、海外のダム事業にも積極的に参画して、ダム技術者の活躍する場を作り出すのも良い方法だと思います。過去の苦い経験から、海外工事の受注に慎重なゼネコンもあるようですが、優れたダム技術者を保存する意味でも、過去の経験を活かして、受注に向けて努力して貰いたいと思います。

日本の水資源の将来は?

中野: 原発問題以降、電力の話題になっても水力発電には光が当たらず、ダムも忘れられているようです。こうした中、日本の水資源のあり方については、再認識をしてもらいたいものですが、いかがでしょうか?

糸林: 多くの日本人は、水道の蛇口をひねれば、水は出てくるものと思っております、平成6年に西日本を襲った大渇水で、高松市を始め香川県内の多く市町村が、時間給水を強いられましたが、その後も、しばしば取水制限をしなければならないほどの渇水が、起っており、水不足に対する県民の関心が高まっております。しかし、全国的には、節水器具の普及や給水管の漏水防止技術の向上等により、水の使用量が減少したことから、ここ十数年、水道の蛇口から水が出なくなる程の大渇水は起こっておりません。水開発が進み、河川の流況が改善されてきたことも影響しているでしょう。また、工業用水については、廃水の再利用技術の進歩や、経済成長の鈍化により新しい水需要は当分起らないでしょう。農業用水も土地改良事業が進み、慣行水利権の問題はあるが、新しい水資源開発施設を必要とするまでには至らないでしょう。このように、時代は変わり、水資源開発を促進せよとの声は鳴りを潜めているのが現状です。

中野: 人口が減少傾向にあるというのも水需要が伸びないことの理由です。そうかといって、ダムや上下水道のほか、農工業用水路網など、水を活用する技術への投資を止めてしまうことは有り得ないと思いますが…。

糸林: 実は、水は利用しても枯渇することのない資源ということにもっと着目すべきです。例えば、生活用水に使用するということは水を汚濁することですが、水が消えてなくなる訳ではありません。だから再利用して使えるようにすれば繰り返し使用可能です。
また水力発電は、水の持つポテンシャルエネルギーを電気エネルギーに変えて利用するだけで、水の循環システムを破壊することはありません。したがって、中小水力発電や揚水発電にもっと関心を持つべきだと思います。
 このように水はその循環サイクルの中でどんな形で利用しても枯渇することのない資源です。今は目前に差し迫った水需要の要請はないにしても、環境が変化していく将来に備えて水資源を大切に守っていくという意識を持つことが大切です。漫然と水を大事にしようとお題目を唱えていても、守れるものではありませんから。

維持・管理の技術を磨く

中野: 意識して水を守ろうという姿勢が大切なのですね。ダムなど、我が国のインフラ整備は、もう十分整備されたという意見もありますが、より長く使い続けることを考えると、維持管理、つまりメンテナンスの大事さがわかりますね。我が国のダム事業は、今後どうあるべきか、その方向性のヒントがあればお願いします。

糸林: 戦後、我が国では、治水、利水、発電を目的として数多くのダムが建設されました。大きく経済成長を遂げた日本は、今や成長の時代から安定した成熟社会に向かっております。ダムも建設から管理の時代に移行しております。平成21年時点で、直轄ダムと水資源開発公団ダムを合わせて47ダムが建設中で、9ダムが実施計画中です。この他に、86ダムが府県の補助ダムとして、建設または実施計画中です。新規着工のダムは、ここ数年来、激減しています。現在、我が国には、既設のダムがおよそ2700基ありますが、この管理ダムの数は増えこそすれ、減ることはありません。
 一方、時代の流れと共に、河川行政に対する国民の視点が変化し、河川の中でダムをどのように位置付けるかの議論も始まりました。結果、全国で約360のダム建設計画が中止になりました。理由は、水需要の減少によるもの、地質上で問題のあるもの、あるいは環境問題によるもの、脱ダム宣言によるものなどがあげられます。
今、ダム事業は、このような環境の中で行われているということを、私たちは、冷静に受け止めなければなりません。これからのダム技術者は、より経済的にダムを施工するための技術の研究・開発を続けるとともに、完成ダムを維持・管理するための技術の向上を図ることが求められています。
 維持・管理といっても、設備機器のメンテナンスから、ダム本体の調査・修繕・改修、大規模なリニューアルなどなど、考え出せばキリがありません。これらをうまく経済的にコントロールし、コストパフォーマンスの良い解決策を見出していくことが重要です。

中野: 先日、お話を伺った京都大学の角先生が、『千年ダム』を唱えておられます。およそ1400年前に築造されたダム式ため池の「狭山池」が、今もなお活用されているというように、既存ダムをできるだけ長く利用していくための技術が必要なのですね。

糸林: 既設ダムが増えるに従い、建設中には把握・解明されていなかった環境変化による問題が顕在化してきました。これは時間が経過し始めて解ってきたことが多いのです。
例えば、ダム湖の水質や水温の問題・ダムの堆砂問題などですが、今はそれらに関する研究が進んでおります。そして、選択取水設備の設置や貯水池内に貯まった土砂の浚渫工事、更に、排砂バイパストンネルにより、河川の連続性を保つ手法等の研究も進んでおります。ダム湖の出現という新しい環境が、周辺の生物体系に与える影響についても、実態を把握して、悪いと思われる面があれば、それを緩和する手法の研究も必要です。

ダムを長く使うための知恵

中野: ダム建設というハード面だけでなく、運用していく中での知恵というか、ソフト面の充実も大切だということですね。

糸林: 私たちは、東日本大震災により、多くの教訓を学びましたが、その一つに計画を超える地震や津波などの外力に対する実現可能な対応策には、防波堤のようなハード面だけではなくて、非難訓練の実施など、ソフトな方法をも組み入れる必要があることを学びました。
 ダムの場合、ゲートを全開しても、なお貯水池への流入が増加してくるような、異常洪水が発生した場合の対応方法について、より具体的な対処法を検討しておく必要があります。また予備電源が故障して使用出来なくなるなどの緊急事態が発生した場合の対応方法や、貯水池を活用して洪水調節効果を高める手法なども開発されておりますが、これらは適当なダムを選定し、実際に適用して効果を確認しておく必要があると思います。

中野: 備えるということの大切さは解りますが、ダムについてはなかなか議論に上りません。

糸林: 今の日本の現状では、主要河川に大洪水が発生して大都市が被害を蒙るような事態が生じ、治水計画の見直しが必要になり、新たに策定された新治水計画にダムが組み入れられるとか、あるいは地域振興のために観光やレクレーション用のダムのニーズが発生するとか、さらには生物の多様性確保のために河川維持用水を流す必要が生じるとかなど、社会情勢の変化によってダム建設の要請があるまで、ダム技術を温存しておく必要があります。今は中止されているダムにも情勢の変化で浮かび上がってくる可能性は残っております。
 最近は「インフラ輸出」と称し、個々の優れた技術をパッケージにして、官民共同で諸外国に売り込む活動も始まりました。ここにダム工事を織り込むことが出来れば、海外のダム工事にも参加しやすくなると思います。ダム事業を推進するという議論はそう進まない状況が続くでしょうが、技術を磨いておくことが大切なのは言うまでもありません。

中野: 食料自給率は問題になりますが、エネルギーの自給率はどうかという議論は少ないように思えますが…。

糸林: 福島原子力発電所の事故が引き金となり、「原発はいらない」のスローガンを掲げてデモ行進をする団体が増えてきました。原発の安全神話が崩れてしまった今日、修理、点検中の原子力発電所を稼働するにも、国民の同意を得るのが困難になっております。
おそらく、この夏には電力不足が顕在化するでしょう。このような状況のもとで、原子力発電を除くと、わずか4%にすぎない日本のエネルギー自給率を上げるため、太陽光、風力、水力、地熱、バイオマス等を普及・拡大する政策がとられております。即ち電気事業者に、再生可能エネルギーで作られた電力を買い取る義務を課する「固定価格買い取り制度」です。ここで水力発電が浮上してきます。
 大型ダム、大規模発電所を建設するには、国民の同意を得るのが困難と思いますが、河川や用水路など、環境に配慮しながら小水力発電所を建設して電力を生み出す事業は、同意が得られると思われます。天候に左右されず、常時発電可能な小水力発電の普及は、日本のダム事業に携わる人々にとって小さな希望の光にはなりますが、ダム建設に繋がるまでにはまだ時間を要すると思います。

ダム技術を残すということ

中野: 最後になりますが、これからの技術者に何か声をかけるとしたら?

糸林: 今、ダム事業は建設から管理の時代への転換点に立っています。ここしばらくは、新しくダムを建設したいという要請は出てこないでしょう。とはいえ、未来の開けないと嘆くことはありません。希望はダム管理技術です。管理するダムが増えるに伴って、老朽化ダムの再生技術、補修技術、ダム群の統合管理技術、貯水池の水質を改善する技術、土砂に埋まった貯水池を再生する技術などなど、どちらかというとこれまで光の当たっていなかった技術に注目が集まっています。ダム技術者にとって、今は厳しい冬の時代ですが、春の来ない冬はありません。時代の要請に応えられるよう、常に備えておくことが何より大切だと思います。


中野: 興味深いお話、貴重なご意見をありがとうございました。



(参考)糸林芳彦さん プロフィール

糸林 芳彦(いとばやし よしひこ)
昭和 3年 6月13日生まれ

昭和31年 3月 徳島大学 工学部卒業
31年 4月 建設省入省 関東地方建設局企画部調査課
32年 7月 関東地方整備局藤原ダム工事事務所
33年 6月 〃 薗原ダム調査事務所計画係長
34年 4月 建設省 河川局開発課係長
38年 7月 建設省 四国地方建設局早明浦ダム調査事務所調査課長
42年 4月 水資源開発公団早明浦ダム建設所副所長
44年 4月 建設省 四国地方建設局石手川ダム工事事務所長
46年 6月 建設省 河川局開発課課長補佐
50年 3月 〃 関東地方建設局川治ダム工事事務所長
51年 6月 建設省 河川局開発課専門官
53年 6月 建設省 河川局河川計画課水源地対策室長
54年 4月 建設省 土木研究所ダム部長
56年 6月 〃 中国地方建設局河川部長
57年 8月 水資源開発公団企画部長
59年 5月 〃 第一工務部長
60年 6月 褐嚼ン技術研究所取締役
63年 2月 水資源開発公団常務参与
63年10月 〃 理事
平成 2年12月 〃 辞職
3年 6月 日特建設椛纒\取締役副社長
9年 4月 〃 特別顧問
12年 9月 〃   辞職

(平成24年8月作成)
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