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ダムインタビュー(31)
宮村 忠先生に聞く
「これからは‘線’ではなく‘点’で勝負すべきだ」


 宮村 忠(みやむらただし)先生は、日本の主要河川のほとんどを巡っている河川分野の代表的研究者で、特に利根川の研究は有名です。世界各地でも大河川を多数踏査し、それぞれの川の性質と地域性を追い求める「川博士」として知られています。これまで数多くの学会や国や自治体の河川行政についての委員会にも関わってこられました。
昨年開かれた、ダム工学会20周年一般公開シンポジウム第四夜(2010年10月30日)では「点(ダム)と線(堤防)」というテーマで講演されました。

 今回は、首都圏における重要河川である利根川について、その歴史や人々の暮らしとの係わり、また今注目されている八ツ場ダムの建設問題など、さらには、河川についての知識の啓蒙に独自に取り組んでおられる「宮村河川塾」での活動など、河川に関する様々な問題について幅広い視点からお話を頂きました。

(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)


河川研究は、人を飲み込む

中野: まず宮村先生はどういうきっかけで河川研究の道に入られたのでしょうか。川については、何か特別に思い入れがおありになったのでしょうか。

宮村: 川を見る視点というのは、土木工学的、農学的、地学的、社会・経済学など多様です。あるいは文学的に見たり、ダムマニアの人たちのような取り組み方もあります。川には、川を研究対象にする人、熱心に研究する人ほど、のめり込むと抜けられなくなるという魅力、魔物的なところがあります。だから、早く抜けた方がいいよと言うのです。とくに研究者なんかは論文が書けなくなってしまいます。僕自身は随分とのめり込んでしまっているので、河川研究のきっかけが何だったかわからないです。

中野: 高橋研究室でどんな研究生活をされたのですか。

宮村: 高橋研究室は、実験室のほか、研究室が2つあり、虫明先生、大熊先生と私の3人が同じ部屋でした。冬はストーブにかけたやかんに日本酒が入っていたり、夏はエアコンなどありませんでしたからバケツに水を入れて足を突っ込んでいたりで、勉強はあまり真面目にはやっていなくて、それぞれ自分がやった問題を持ち寄って年中議論ばかりしていました。川については、だいたい共通の認識があったので、いろんな人が交じるというのではなく、よく3人で討論していました。

 その頃出入りしていた資源調査会には小出博先生、栗原東洋先生がいらしたのですが、どちらも古い研究者タイプの先生で、「教わるものではない、自分で考えなさい」と、なかなか教えてくれない厳しい人たちでした。今考えるととてもいい雰囲気でした。小出先生は、40代までは出版本を書いてもダメ、今評価される論文などはたかがしれたもの。10年後、20年後にもっと評価される論文のほうがいいとおっしゃっていました。今の評価というのは所詮、今の評価だということで、とくに流行のものを研究するというのはすごく嫌がりました。じっくりと煮詰める、本質を考えるようなことを教えられたところがあります。主流ではなかった、少し変わった人がコーチしてくれて、常に問題を投げかけてくれました。

利根川を語った最終講義

中野: 先日の高橋裕先生のインタビューで、宮村先生が関東学院大学で最終講義(平成22年3月6日)をされた時、来賓として招かれたということを伺いましたが、最終講義はどういうテーマでお話になったのですか?

宮村: 最終講義というのは、講座制の大学で後任、跡取りがいる時にするものですが、関東学院大学は学科制ですから、研究者はみんな独立型で本来は最終講義はないのですが、卒業生たちが計画してぜひやってくれということでした。それで高橋裕先生にご挨拶をして頂きました。

テーマは「日本の川・今を語る」というもので、僕が今まで見てきた川、利根川のこともお話しました。最終講義といっても大学関係の人のほか、大変多かったのは国交省関係の方たちでした。案内文書も出さずにインターネット上だけの募集のようでしたが、雨模様にもかかわらず大勢の人に来ていただくことが出来ました。



 最終講義というものは、論文集とかを記念に出すのですが、堅くて読みにくいので、僕は自費出版を2冊出しました。一つは、中公新書から出ていて絶版になっていた「水害」、これは当時、数万部売れたのですが、土木の人にはあまり評判が良くなかった本です。三刷りした頃に中央公論社がつぶれて、著作権が読売新聞社に移るというのですが、版元を選べないのがいやで25年ほど位前に絶版にしてしまいました。ところが昭和55年頃から少しずつ要望が出てきて、しかたないのでCDRを造ってみたりしていましたが、手元からなくなってしまいました。大学を辞めるに当たって助成をしてくれるという丁度良い機会だったので、少し改訂して、大学の出版会から出しました。もう一つは、私の助手をしていた喜田愛子さんが、日刊建設工業新聞に3〜4ヶ月連載をしていた版画「水のある風景」です。彼女の文章に私がコメント付け加えて出版しました。その2冊が、最終講義記念出版物として参加者にお渡しした記念品です。この本代と懇親会費も含めて赤字にならないように、実行委員の皆さんが頑張ってくれました。
中野: 絶版の本が復刻されたのは、良かったですね。川の版画集も記念にもなりますし。

宮村: こういった版画の本はなかなか出ませんから評判は良かった。読売新聞社の方がいらしていて、出版してから3ケ月以内でないと書評は書けないから残念だ。なんでもっと早く知らせてくれなかったと言われました。その時は6ケ月たっていましたから。特に営業努力はしませんでしたが、「地図中心」とういう雑誌で(社)日本河川協会副会長の松田芳夫さんが書評で絶賛してくれました。他にも、この本には二ヶ領用水が載っているのですが、この用水が出来たことで川崎市の辺りが発展するきっかけになったので、竣工400年を記念した企画をしたいということで川崎市の人が訪ねてこられ、市長さんからもこの本を紹介したいというお手紙を頂きました。

研究は楽しんでやる

中野: 版画ですからとても暖かい感じがしますね。喜田さんも含め若い技術者や学生に対して何か応援の言葉を贈るとしたら、どんなふうに声を掛けられますか?

宮村: 楽しんでやりなさいというのがいちばんです。学生とは、卒業式の前に修学旅行をやってきました。中国の河川を巡りました。まだ工事が始まる前から、三峡ダムのあたりを一週間くらいかけての旅行もしました。三峡ダムが出来たらまた行こうと、千円、二千円の積み立てを続けてきて、もう貯金を十年くらいやっています。自由な研究室の雰囲気でやってきたので、卒業生がそれを続けているのです。学生とは、話す時は朝から晩まで徹底的に付き合いました。

中野: そういった雰囲気は、高橋ゼミの頃からでしょうか。

宮村: 研究室の行事では、12月は餅つきをやったり、鍋をつついたりします。全国の川を学生と見て回りますが、今は実際に稲を知らない学生なんかもいますので、現地に行くというのは大切です。そうやって川に行っているといろんなところから名物を送ってもらうので、それを持ち寄ってみんなでコンパをやるんですよ、例えば、伊豆半島の人からは、常食にしているイルカの肉とか。


地のものを食べる、イルカも

中野: イルカですか?海外から反対派が来て問題視されているのではないでしょうか。

宮村: あれは日本各地で昔から食べています。11月〜12月にかけて旬なんです。近海漁をやっている地域では、イルカに魚をみんな食べられてしまいますので追込み漁というのをやります。追込み漁でイルカを捕るので、それを食べます。宮ヶ瀬ダムの人はいのししの肉を送ってくれますのでシシ鍋にします。鍋も臼も大きなのが用意してあり、毎年多くの卒業生が集まってきます。

中野: 随分とOBの方と交流があるのですね。

宮村: 卒業旅行や年末の餅つきの他には毎年、梅雨入りの前に、隅田川の縁でバーベキューをします。これは僕が住んでいるのが隅田川の近くなので、都会の真ん中でやるバーベキューです。20年くらい前から恒例で、国交省の京浜河川事務所や荒川下流河川事務所、あるいは本省の人、また東京都の人、それに近くの大学や学生がたくさん来てくれます。コンクリートの上だって遊べるよって、200人くらい集まってやってきました。


卒業旅行で訪れた中国の都江堰(とこうえん)は、約2500年前の大地震で崩壊した山中を活用して建設され、2008年の大地震にも耐えて、すでに2000年以上も成都平原の中枢の水利施設として活躍中
利根川の特徴-平野部が多い、難しい川

中野: そういう楽しいお話をずっとしていたいのですが、川について伺います。
先生は、学生時代から利根川一帯のフィールドワークをたくさんおやりになったそうですが、利根川は、大雑把にいってどういう川の性質をもっているのでしょうか。

宮村: 利根川研修をやっているときに、いつも皆さんにいうのですが「利根川というのは特別だ」ということ。地学的にいうと、流域面積が広いことは当然ですが、利根川の最大の特徴は、平野を流れる部分が山よりも広いのです。日本の川というのは、山の部分が圧倒的で平野のところは少ないのです。ところが珍しいことに、利根川は水を集める山の部分の面積が狭くて、水を必要とする平野の方が広いのですから、もともと水資源として利用するには合わない川で、山地の面積が4、平野部の面積が6の割合という特異な川です。

坂東太郎は、利根川の呼び名ではない

中野: 利根川は特別な川なんですね。

宮村: そうです。それから、冬になると日本海側から雪雲がきても2000メートル級の関東山地の北側の新潟県、長野県で積もってしまう。そんな山並みを超えて入り込んだ雪は、平野部の頭のことろに東西に並んでいる赤城、榛名、妙義という1,500メートル級の山で降ってしまう。冬に関東の下流部に流れてくるのは乾燥した空っ風になります。これが夏になると逆で、海から山に向かって風が吹き、3つの山にぶつかってこれが上昇気流になり、それが積乱雲に発達すると雷雨になる。先ごろよく言われるゲリラ豪雨と同じようなものです。ですから関東平野には相当量の雨が降る。逆にそれがないと関東平野の水資源が成り立たないのです。

 関東平野の山の麓の地域には、「雷電神社」というのが数多くあります。これは「雷除け」ではなく、いわば「雷待ち」の神社で、雨待ちの神社なんです。豪雨が降ると下流ではたびたび洪水になるので、雷雨は下流地域からは恐れられました。

 江戸の人たちはそれを「太郎」と呼びました。つまり「坂東」のゲリラ豪雨を起こす「太郎」が怖いと言ったのです。だから、利根川のことを「坂東太郎」と呼ぶというのは間違いで、ゲリラ豪雨のことが「太郎」なんです。その呼び方は全国各地にあります。例えば、京都の桂川、淀川圏でいえば丹波篠山、九州の英彦山、神奈川県の大山もそうです。それぞれ夏の上昇気流を受ける山の雷雨を「太郎」と呼んだのです。

 つまり「太郎」とは、川に付けられた俗称ではなく、本来は気象方言なのです。「坂東太郎」は江戸の方言です。


中野: 「坂東太郎」とは、てっきり利根川のことだと思っていました。

宮村: そうじゃないのです。いつ頃からか「坂東太郎」に「筑紫次郎」、「四国三郎」とか、誰かがそういう言葉を作ってしまって、それがパンフレットなどに書いてあるのですが、どうもそういうこと自体が川の議論が衰退しているということの、一つの表現になってしまっています。

利根川の治水手法は他の川と違う

宮村: 利根川は、そういうふうに関東平野にとって特徴ある風土を作り上げています。人々はそれに合わせた生活、文化を作り上げてきました。日本の川の中では他に見られない変わった川ですから、他の川で使われる治水の手法を利根川に適用しようとしてもダメだということです。僕が問題だと思うのは、そういうことを無視して、どの川でも同じような手法にしてしまうことです。



中野: それに利根川の平野部にはすごく人口が集積しているがゆえに治水手法も難しいのですね。

宮村: 難しくしているのは、山より平野部が広いこと。八ツ場ダムがなぜ必要かという事にも関係しますが、短時間にたくさん雨が降った場合、平野部で溜めることが出来ないので、山で溜めないとダメだということです。雷雨性のものすごく集中的に降って、平野部に流れだしてしまうととてもやっかいです。利根川は、古くからある川だから万葉集に歌が載っています。「利根川の川瀬も知らず直渡り波にあふのす逢へる君かも」僕が解釈するのも何ですが、利根川の川瀬だというのもわからず、ただまっすぐに歩いて渡ろうとしたら流れが急で波をかぶってしまったけれど、そうまでしてでも逢いたいお人である、というようなことでしょうか。川をみるものの眼からは、雷雨のあとの利根川は急速に流れが強くなるというようなことが表現されているような気がします。
家康の利根川東遷事業は、フィクション?

中野: 利根川について、とても特徴的な川だ、だから治水手法も違ったものが必要というお話を伺いましたが、歴史的に見ると徳川家康による東遷事業や、中条堤など、他にも興味深いことがたくさんあります。そうしたことも解説していただけますか。

宮村: 川の話については、ここ30年程前からようやく河川行政に携わるような人も河川史をやり始めました。しかし、日が浅くて自分たちがどうやって歴史をひもとけばよいかという手法がまだよく解っていないので、だいたいの事は歴史家の人から孫引きしてくることになります。

今、話に出た利根川の東遷事業ですが、これは川の人が言ったことではありません。歴史家が明治になってから言った単なる物語です。どんな話かというと、家康が江戸に入ってきて60年くらいかけて東京湾に流れ込んでいた利根川の流れを銚子の方へ付け替えてしまったというもので、「東遷物語」と言います。利根川の洪水流量を考えたら、400年も前の家康の時代にコントロール出来る訳がないのです。

中野: 利根川東遷は家康が行った事業ではないのですか?

宮村: 「東遷物語」の主意は、家康が江戸を守るためにやったというものです。また伊達に備えるためだと言われています。「東遷物語」には、そうした素人の軍略家が語ったみたいな話が書いてありますが、実は、みんな物語で、すなわちフィクションです。

中野: でも、いろんなものに書いてありますが。

宮村: 確かに書いてあります。でも、書いている誰もが、何が元なのかは書いていない。古文書がある訳でもない。だから、これはフィクションです。誰もフィクションだとは言わないうちにどんどんみんなが広めてしまっているから、家康の利根川東遷事業ということになってしまっている。

 どうも旧建設省が作った「利根川百年史」というものにも書いてあるから、間違いないということになってしまっているようです。元は明治の頃の、吉田東悟さんという人の歴史書でフィクションです。どうしてこういうことが起きたかというと、今もそうですが、政権交代するようなことがあると、すぐ近い時代のことならわかりますが古いことはわからないので、前の政権のせいにしてしまって、次の政権が言い逃れをしてしまうことがあります。例えば、明治の頃だと前の幕府のせいにしないと新しい政府が出来ないし、少ない予算では難しい治水事業も出来ないので、どうやら家康が利根川を曲げてしまったという話にして工事から逃げていたのではないかと。逆に言えば、利根川ほど難しい川はないからではないかと思います。

 こういったことは全国の河川史には多いのですが、西の方はそんなに間違った河川史にはなっていないようです。北の方は大河川が多く、利根川にしろ、信濃川、北上川など平野の面積が広いところは非常に難しいところが多い。川をコントロールするには土地に勾配がないと難しくて、近年の技術にならないと出来ないです。それが大昔の技術では、果たしてちゃんと出来るかと言えば疑わしい。ダムに関連した話で言えば、固い地盤のところのダムは楽でしょう。それに比べ軟弱地盤では非常に難しいのです。だから、土木で軟弱地盤のところでいろいろ造れるようになったというのは技術が進歩した結果でしょう。

中野: 東遷事業は、家康時代の壮大なプロジェクトだと思っていたのですが。平地の川の治水だから難しさがあるのですね。

宮村: 利根川は難しいですね。私の住んでいる江東区は軟弱地盤で、昔は地下鉄が作れなかった。最初の地下鉄、軟弱地盤の地下鉄は東西線ですが、東西線が走っているのは、造りながら軟弱地盤の技術を発展させていった。やりながら技術を発展させていく、土木はそういうところがあるのです。だから今ではそういった軟弱地盤のところでも人間が住むことが出来るようになった。地下街が発展したのもそうですが、それが逆に心配になったりもします。江東区のこの地域では、安政の大地震も含めて400年から500年の間、だいたい70年から100年ごとに地震とか水害とかにやられて大被害を受け、そのたびにやり直しをしている。前の記録を残しながら、新しいものに挑戦してやってきたのですが、ただ地下街を造るのは軟弱地盤では心配です。水が出たらもうアウトですから。

荒川放水路は、利根川のために造られた

中野: そういう話の流れで伺いますと、明治43年の大洪水では荒川の堤防が壊れて大問題となったので、荒川放水路が計画されたということですが。

宮村: 江戸から明治になってからかなり経ってもなかなか首都防災という発想にはならなかったようですが、明治43年の大洪水でやっと帝都東京をどうするかという話になりました。

 それまでは東京よりも、周りの地域の方が洪水被害がひどかったので、そういう話にならなかったのです。だから東京が都市化して、被害額が大きくなったのはそんなに古い事ではないのです。明治29年の大洪水の時に、いよいよ大変だということになり、さらに43年の洪水で、東京の被害額が全国筆頭になってしまった。


 今から100年くらい時代を溯ると、日本は近代化のピークでした。そういう時に東京を囲むような川を創ったのが荒川放水水路です。放水路は川のバイパスです。川というのは勾配がきつい方に流れるから、放水路を掘る時は、前の川より勾配がきつく、短くないといけない。しかし、荒川は本川より放水路のほうが長い、これはおかしなルートです。放水路で東京をぐるっと囲っています。その理由は、荒川の水を放水路で流すということも一理ありますが、実は利根川からの氾濫水の流れをとめるという目的をもった川なのです。

 こういう話は世界では当たり前にあり、洪水氾濫のよくある沖積平野ではよくみられるものです。北京でも60年くらい前に天安門広場が水没した水害がありました。そこでやったのが同じような考え方の永定河で、北京側(左岸側)だけに堤防を創った。それが盧溝橋の下流です。土地の名は、日支事変で有名になったところですが、これは北京を囲うようになっていて、街を守る要になっていたのです。北京市民にとっては今も大変重要視されていますが、それと同じように帝都防衛のために造ったのが荒川放水路なのです。

明治43年大洪水から100年

中野: 荒川放水路にも、そういう理由があったのですか。その明治43年の大洪水から今年は100年目ということで記念事業があるようですが。

宮村: 平成23年4月以降に、荒川下流事務所100年という記念事業があります。きっとその時には、この話題も出ると思います。実は、平成22年開催されたプレイベントのシンポジウム(防災リテラシー)でもそのようなことを話しました。荒川放水路は、荒川のためだけではなく、利根川のために掘ったものだということを初めて言ってしまったので、これから、あちらこちらから反応があると思っています。

水防の人が頑張っている

中野: 東京の水害に関して言えば、キャサリン台風をはじめ以前は大水害がありましたが、最近は水害のことがあまり報道されないように思います。

宮村: 堤防が壊れれば、もちろんニュースになりますが、普段から壊れないように一生懸命に水防の人が頑張っているから、ニュースにはならないのです。水防活動というのは、自分たちの土地を守っているので、自分が守ったとは声高に言わないものです。水防の人はシャイな人なんです。しかし、消防は元は火消しですから、いの一番に火事場に駆けつけて屋根に登り、纏(まとい)を持って写真も撮るんです。それが水防と消防の違いです。

 今も水防団はありますが、組織が弱体化していますし、都市化したところではもう地元ではなく行政任せになってきているのも問題です。そういうことも含めて、次の世代にうまく引き継いでいかなければと思っています。

今後の治水のあり方−八ツ場ダムについて

中野: 国の施策として「今後の治水のあり方に関する有識者会議」が招集され、宮村先生は、第3回の委員以外からのヒアリングで、利根川流域の洪水の歴史や水防への取り組みについて意見を述べられましたが、それについてはいかがでしょうか?また、八ツ場ダムについて群馬県議会で話されたとも伺っていますが。

宮村: ダムの話をする時、「脱ダム宣言」とか「コンクリートから人へ」とダム反対の人はすぐこう言いますが、ダムが良いか悪いかなどは、そう簡単に言うべきではありません。今までこんなにたくさんのダムを作ってきて良かったのかというような反省は必要です。必ずしも効率の良くないダムを数多く造ってきてしまったという反省はあるにしても大事なところのダムでまだ残っているものがあります。その代表が八ッ場ダムです。

 ダム事業では多くの交渉事があります。それには時間もかかることもあります。水問題というのもそういう交渉事の積み重ねです。水源となる群馬県の意向もあるでしょうし、様々な意見調整が必要だったので長年出来なかった。

中野: 八ツ場ダムは地元との話し合いで長引いたということですか。

宮村: 八ツ場ダムについて群馬県議会で話したことですが、利根川は、とにかく支川が大きく、それも広い関東平野の真ん中で合流していること。その支川が、吾妻川、片品川、烏・神通川、渡良瀬川、鬼怒川、小貝川で、いずれも西日本にあったらどれも大河川というようなもので、それらの支川が、平地で合流するから治水がすごく難しい。平地で合流すると洪水を押し込めにくいというのが解るでしょう。川をコントロールしようと思っても有力な支川の力が強いから難しいのです。

 だから利根川の場合は、どうしても大支川の吾妻川にダムが欲しい。ダムがないと利根川をコントロールすることが出来ないからです。今、八ツ場ダムでもめているのは、流量計算についてですが、本当はそういうのは枝葉末節のことで、とにかく吾妻川にダムがないと洪水をコントロール出来ないのです。

 全国にみても、ダムは地域的に恵まれない場所、発展しにくいようなところにあることが多いですが、そこにはたいてい風土的な宿願のようなことがある。地元にとってダムというものは、いろいろな意味合いがあり、ダムを担保にして解決するような、ダムで町起こしをするみたいなところがあるのです。


ダムが地域の問題を解決することもある

中野: 逆に言えば、地元の人では解決出来ない大きな問題でも、ダムを造っていく中で解消されることにもなるということですか。

宮村: 八ツ場ダムは上下流域が逆転しているようなところがあります。吾妻川は、上流は鳥居川といい、鳥居峠を経て信州上田につながります。一方、下流は吾妻川で前橋につながっています。それで上流の人が、下流の吾妻渓谷に行くことを「奥に入る」といいました。それは上流と下流が全くつながっていない証拠なんです。吾妻川の上流はむしろ信州につながっているのです。経済圏でいうと高崎の経済圏。下流は、前橋の経済圏。それで高崎、前橋というのはあまり仲がよろしくない。新聞の折込みチラシの範囲も違いますから。高崎の経済圏はどちらかというと信州につながるから、吾妻川上流の子は信州の高校へ進学することが多い。上流、下流が別の経済圏、文化圏になっているのです。

 その接点にあたる場所がちょうど八ツ場ダムの建設地で吾妻渓谷なんです。昔から難所で道路を造ろうとしてもなかなか出来ない。道を広げようにもなかなか出来ない。吾妻渓谷を通って草津温泉、軽井沢、浅間にいくのも大変でした。鉄道も赤字で廃線すれすれで、ようやく吾妻川の上下流が繋がるかもしれないというのが、八ツ場ダムへの期待で、これがあるから条件闘争も成立していたのです。よく聞く言葉で「何もないけど今のままで良い」なんて絶対に地元の人は思っていません。なんとかしたいけどどうしようもなかったというのが本当のところで、早くやって欲しいのです。そういう風土的宿願が達成される唯一のチャンスだったのです。最近は、川の上・下流をつなげる、流域圏の成立を目指すということがいわれますが、そういうことなんです。背景にこういう問題を抱えている川は、全国では他にもいくつかあります。

東西に流れる川は、問題を起こしやすい

中野: 川の形状、性質によって、いろんな問題が起こってくるんですね。

宮村: 例えば、四国の吉野川も上下流は一つじゃない、だから第十堰の問題があります。地学的に言えば、東西方向に流れている川はいろいろ問題を起こす。南北方向の河川は交易圏を作り、上下流の交易があります。日本ですと、国土が小さいので顕著ではないのですが、これが世界の川になると、この傾向はもっとはっきりとしてきます。南米大陸で同じ水源から東西に流れるアマゾン川には文化や経済力がないけれど、南北に流れるラプラタ川には経済力があります。ヨーロッパのライン川は南北方向に流れていて発展していますが、ドナウ川は東西方向なので、戦争状態が続いて未だに舟が通らないし、国際紛争が絶えません。ウイーンはドナウ川にありますが、わざわざライン川への運河を建設しました。

中野: 流域の経済圏が問題の背景にあるというのは初めて知りました。川が人の生活に結びついていて本当に奥が深いのですね。

宮村: 大都市・東京にとっては利根川をコントロールしなくてはならないので、大きな支川でコントロールのチェックが効かないところがあるのは非常に困る訳ですから、八ツ場ダムの建設が必要でした。しかし、なかなか出来なかった。そのもう一つの大きな理由が、川が強酸性で手が出せなかったことです。だが、今では品木ダムが出来て、水が中和されてやっとコンクリートが使えるようになった。それなのに、なぜ八ツ場ダム事業の推進スピードを緩めたのかがわかりません。

中野: 何が原因だったのでしょうか。

宮村: 誰か、解説してほしいですね。とっくに出来ていたはずなのに。いつでも着工出来ると思ったから開発のスピードを緩めてしまったのでしょうか。

中野: 八ツ場ダムの予定地の方は、長い時間がかかってお気の毒です。

宮村: 今、僕が話したのは利根川の地形の特徴とか、川の性質から話したのですが、もう一つ、川にとって、大事なことがあります。

線から点へ

中野: 群馬県議会でお話しされた堤防との関係ですか。

宮村: 八ツ場ダムのことで議会に出たら群馬県の人が「丈夫な堤防をつくればいいのではないか?」とおっしゃるので、その質問に答えました。

 堤防をつくれば良いという意見は、河川史をちゃんと学んでいないから言えることなのです。実は堤防というものは人間が仕方なく作ってきたものです。なぜかというと、壊れたら危ないからです。想像力をちょっと豊かにして考えてください。自分が川の側に住んでいて、たいした技術も材料もないのに堤防を造りますか? ちょっと大雨になると崩れる、そんなもの、江戸時代には危なくて、人々は作りたくなかったのです。堤防を造るから、そこにとどめている水のエネルギーが強くなり、壊れた時のリスクを考えるととても出来なかった。堤防を造ると同時に水防活動もやらなくてはならず、自衛手段として水屋というものもつくってきたのです。

 利根川は、明治43年の洪水から以降、この100年間にとても高い堤防を作ってしまいました。高さ13m位のものが実に450q以上も続いています。この高さ、あと2m足すと法律の区分的にはダムです。ダムが450km以上も並んでるなんて、どう考えても変でしょう。群馬県議会では、これまでもなんとかしようと思ってきたが、堤防に変わる手法、技術がなかったから、しかたなく、努力を傾けて堤防をずっと造ってきた。利根川はこんなに危ないのだという話をしました。

中野: そうですか。確かにダムと呼ぶのは堤体の高さが15m以上からですが。

宮村: ここにきて軟弱地盤のケースと同じようにダムの技術も急速に発達した。これからの河川のあり方を、今まで仕方なく造ってきてしまった堤防から解放してくれるチャンスだったんです。その意味は、「洪水は山の中でとどめろ」ということです。よくダムは環境破壊だと言われますが、ホントは堤防が一番の環境破壊なんです。河川史を通して言うと、堤防の造成は人間が仕方なくやってきた。僕はこれを「線」と表現した訳です。議会でもこれからは「線」ではなく「点」で勝負すべきだと話しました。

中野: 「点」がダムですね。では、高い堤防の例でいうと他にありますか?

宮村: 僕の家のところ、江東区で言うと、昭和34年に伊勢湾台風があってから急に高潮防波堤が出来ました。これも利根川の堤防と同じくらい高くて、はしごをかけたって昇れない。そんなものいきなり町の真ん中に作られて、それで守ってやるぞと言われると腹がたちますよ。そんなもの作るよりも、高潮ならば海の入り口で止める河口堰をつくればいい。軟弱地盤だったから昔は出来なかったけれど、今なら出来るはずです。東京でいえば、河口堰を作って防潮堤を取り払うことです。大規模災害への対応として有効なので、すぐには出来ないかもしれないが、これを目標にすべきです。

 利根川についていえば、なんとかしてダムを作って堤防の高さを下げたい。これからの河川の治水のあり方ということで、「線から点」へという話をしました。ダムは環境に悪いといっても「点」の環境でしょう。しかし、堤防の「線」による環境の悪さといったらすごいでものす。利根川の堤防の上に立ってご覧なさい。あそこの風の強さはすごいですよ。強い空っ風で砂が舞う。関東で有名な深谷ねぎというのがありますが、砂が根元にたまっていくから、茎の部分が白いのが出来るのです。

実は、堤防も環境破壊

中野: 「線」の堤防は良くないところがあるのですね。

宮村: 実は、こういうことを知っている人は少ないのですが、堤防も環境破壊の元凶なんです。大きなものだと敷き幅でいうと500mくらいあるので、周辺の土地を一気に取り上げてしまいます。ダムの場合は、川の上下の流域を一つの経済圏、生活圏にしたいとか、いろいろと風土的な宿願を達成するというメリットがありますが、堤防にはそういうものはありません。実際には、近辺に住む人の土地をいわば強引に取り上げてしまうので、地域の人からはものすごく反発されます。よく堤防は人のためにやさしいと言われますが、本当は地域の人のためにとってはひどいことをしなくては、実現出来ないものなんです。



中野: 「線」の堤防は良くないところがあるのですね。

宮村: 実は、こういうことを知っている人は少ないのですが、堤防も環境破壊の元凶なんです。大きなものだと敷き幅でいうと500mくらいあるので、周辺の土地を一気に取り上げてしまいます。ダムの場合は、川の上下の流域を一つの経済圏、生活圏にしたいとか、いろいろと風土的な宿願を達成するというメリットがありますが、堤防にはそういうものはありません。実際には、近辺に住む人の土地をいわば強引に取り上げてしまうので、地域の人からはものすごく反発されます。よく堤防は人のためにやさしいと言われますが、本当は地域の人のためにとってはひどいことをしなくては、実現出来ないものなんです。

中野: でも、ダムは作るまでにすごく長いと言われ、地域の人から批判されますけどね。
宮村: いくらダム工事が長くかかるといっても、100年はかからないでしょう。今ある利根川の堤防なんて出来るまでに100年もかかっているんですから。都市の再開発の計画では30年、50年なんていうのもあり得る話です。ただ堤防の場合は、全部つながらないと役に立たないから、いつまで造り続けるのかと逆に群馬県の人たちに聞きました。県議さんたちの思惑とは別かも知れませんが、堤防造りは環境破壊だと言わなくてはいけないと思いました。堤防を丈夫にしろというのではなく、むしろ堤防を低くして安全にするというのが群馬県にとっては良い方法ではないかと話したのです。

川学びの宮村塾

中野: そういうお話だったのですか、堤防が環境破壊になるとは思ってもみませんでした。人工物を自然の中に造るということの中で、あれは良いけどこれは悪いと、簡単には割り切れないということでしょうか。
話は変わりますが、先生は個人的に「宮村塾」という川の勉強会を一般の人向けにおやりになっているということですが、それについてお話ください。

宮村: 20年以上になります。最初は横浜で始めました。「横浜の川を考える会」というのがあり、活動の1つとしてはじめました。

 有名な川を一本ずつとりあげ、北海道から順番に話してきました。それで16年ほどかかりましたが、100何本かの川が終わりました。国の直轄河川だけでなく県単位の川もとりあげました。その会の最終講義も利根川にしました。

 それが僕の地元、江東区深川の人にも伝わり、今度は地元でやってくれという話になって、再びやるようになりました。今度は各県の川、県別にやっていき、これも6年ほどやって終りましたが、これからの河川行政がうまくいかないという危惧があるし、河の研究者もあまり対象にしなくなっている。なんとかしたいと思うようになっていたことがあります。



河川塾のチラシ

河川塾で講義中の宮村先生
これからのテーマは、川と都市

中野: それは、どういうことですか。

宮村: それは「都市」の中の川についてです。今までの河川行政といえば、主に農山村を対象にものを考えてきたところがあります。でも東京は東京都、横浜は横浜市と神奈川県というように都市のことは自治体がやっている。それで「川と都市」を考えると、堤防を造るといってもいちばんお金がかかるのが都市部です。堤防用地を取得するだけでもたいへんです。だけど、これまで都市部については河川行政の範ちゅうからやや外れたようなところがあった。もちろん助成金もありますし、都市河川敷などというものも、ようやく近年になって出来てきたけれども、それにしたって都市河川に眼を向けたものではないのです。むしろ役所の縄張り争いの中で、河川局vs都市局のように、道路など他の専門分野の人の力が強くなったから出てきたアイデアみたいなものです。

 よくよく考えると地域の計画と川が一体になるのは都市部しかないのですから、もっと都市の川というものを、環境やデザインといった視点からではなく、川を中心とした眼で見ておきたい、考えたいと思って、その後は、県庁所在地を事例に「都市の川」ということで、河川塾の対象にしてみました。やってみると、いちばん川の顔がわかりにくいのが都市の川なんです。みんな同じように見えますが、やはり個性があって大事なんです。今やっているのでは、あいうえお順に県庁所在地を取り上げて川の話しをするようにしています。それで明日は、新潟市に行きます。

中野: 実際に現地に行かれるのですか?

宮村: そうです。今まで話してきたものは、昔調査に行ったことを覚えていて話が出来ましたが、都市の川は2、3年行かなかったら、すっかり変わってしまうので、今まで何回も行った場所でももう一度、しゃべる前に自分の目で見てきて、写真を撮ってきて話をするようにと、自分自身に課すように決めました。

中野: 手弁当でおやりになっているのですか?

宮村: そう自前です。だから札幌だろうが那覇だろうが全部日帰りです。

中野: 講義される場所は、どういうところですか?

宮村: 横浜でやっていた時は関内の近くの体育館の会議室を借りてやっていました。その後、地元でやるようになってからは近所の文化センターで、最近は江戸東京資料館でやっていましたが、どうも会議室の使い勝手がよろしくないので、今は芭蕉記念館というところをお借りして毎月第四水曜日にやっています。

中野: 参加資格はあるのですか?

宮村: 特になく自由です。参加費は千円いただいていますね。会場費や撮ってきた写真を配ったりする資料代などにあてています。運営については実行委員会形式です。講義が終わった後に、3、4千円程度で懇親会をやっています。(笑)だいたい3、40人くらい集まりますね。

中野: その他に何か活動されていることは?

宮村: 前の仕事場が横浜だったこともあり、市役所と昔から付き合いがあって、そちらでお手伝いをしています。横浜市はけっこう都市計画に熱心なこともあり、港湾審議会とか都市局の審議会の委員をやっていたこともあって、今、市が推進している「歴史を活かした街づくり」というプロジェクトに関わっています。一般法人ですが、「横浜歴史資産調査会」(俗称「横浜ヘリテージ」)というのが出来まして、その会の代表として活動を始めたところです。市内にある文化財を保存、利用しながら都市計画に役立てていきます。委員で集まっているのはだいたいが建築の方でして、土木分野では僕一人。建築の人同士というのはおよそ仲がよろしくない。そもそも人と違う意見を言うのが旨とされているというようなところがありますから、土木の僕が間に入らないと、だいたい会議がまとまらない。今は週に一回くらい集まって会議をしています。これは文化庁からも助成してもらっています。

総合治水の考えは当たり前

中野: これからの時代、今まで以上に水の大切さに焦点が当たるとすれば、やはり総合的な治水、利水の基本方針を打ち出していくべきではないかと思いますが、宮村先生はどのようにお考えでしょうか。

宮村: 一つは、川の問題。もう一つは、今僕が住んでいる地域の問題ですが、まず地域の問題で言えば、百年に一回くらいは全滅に近いような災害にあってきた場所で、これからはもっと条件が悪くなります。地盤沈下で4m以上下がってしまいましたからすごく危ないです。海からは高潮ですし、ゲリラ豪雨、利根川の堤防が切れるかも知れないし、荒川が溢れるかもしれない。それに地震が来るかもしれない。それでどうしようかと言っても守りようがない、防ぎようがないのです。地震対策といってもキリがないし。もう防げないならあきらめちゃおう、別の視点でみてみようと。

中野: え、防災をあきらめるのですか?

宮村: ただ投げ出そうというのではありません。災害は防げないのならば、復旧だけは早めようという考えにシフトすることです。具体的には、今の状態は例えば内閣府の大規模災害のマニュアルだとインフラの復旧は最低5週間かかることになっていますが、5週間だと僕らはもたない、暮らしていけません。これを1週間とかに早めたい。そのために、どうするかというのを今やろうとしています。

 それには、復旧の拠点地を作っておく。仮にこれを防災ステーションとしましょう。それに今問題になっているスーパー堤防なんかも、そういうふうに呼ばないで防災ステーションの一部とするというようなアイデアをいくつか考えています。水害ならばここに重機を置いておいて、そこから復旧に行けるようにする。道路は使えないから川を使わないとしょうがない。ちょうど隅田川、荒川放水路の間、いろいろあるから船を使おうと。そのためには、災害の時だけだという発想では船が集まらないからだめなのです。ちょうど今はスカイツリーなんていうのがブームになっているからそれも利用して、普段から運河という運河に船を停めておき、いざという時に使う。そういうアイデアをようやく行政に働きかけるところまで来ました。

 しかし、船はどこにでもすぐに停められるかというと全然だめで、桟橋はたくさんあるのですが、国交省のものは国交省だけ、東京都は都だけ、区は区、港湾局は港湾局だけです。遊びに行く船も、許可とったものも、いろいろあります。だから桟橋を造ったら、誰でも使えるようにしたらどうかと思います。大きな重機も運べる台船とかもね。でも大規模地震が起こったら橋が落ちているかも知れません。そういう時は、落ちた橋を壊しながらいく重機も用意しなければいけないとか、いろいろ考えています。これが地元の話です。

中野: 防災といってもいろいろなアプローチがあるのですね。

宮村: もう一つ、河川行政についてのことですが、国でやろうと言っている「次の世代のための良い川づくり」などということではなく、もっとドラスティックにチェンジするために何をするかというと「堤防をなくす」ということなんです。


利根川下流河川事務所前の堤防(4.23撮影)
2011.3.11東日本大震災に出来た利根川堤防の亀裂。今回の震災で、利根川の各所で同様の亀裂が見られる。利根川の堤防は守るのが大変なことがわかる。
大洪水の危険を避けるには、堤防をなくすこと

中野: 堤防をなくす運動ですか。

宮村: 奈良県とか東海豪雨で被害にあった愛知県とかでは、洪水被害が恐いから、今、堤防を切っています。それで、代案として何をするかというと「地面を上げる」のです。こういうのを土木用語で「掘込河道」と言います。堤防がなくて、平らな所に低くなった川床があるというイメージで、天井川と正反対のものという感じですね。

中野: なるほど、平たい土地に凹んで川が流れているという。

宮村: だいたい川というのは地面の低いところへ流れます。だから、周りの土地を上げるのです。海抜ゼロメートル地域ではそういうことしか根本解決策はありません。すぐに出来るものではありませんから、防災ステーション造りを進めながら、いざという大災害があった時に瓦礫でもって造ると良いと思っています。

中野: 瓦礫で埋め立てるのですか?

宮村: 知っていますか、横浜の山下公園というのは関東大震災の瓦礫で出来ているのですよ。今は花見の名所になっている隅田川の側にある公園もみんな瓦礫で出来ているのです。これが出来なかったら、都市の復旧は出来ないです。川の側から土地を上げていって、結果的に堤防がなくなれば良いというのが僕の願いです。堤防はだめなんです。


パリ市のセーヌ川に堤防はない

中野: そうなんですか。どこかお手本になる場所はありますか?

宮村: パリの街は、千年かかって街を上げていった。だから堤防がないのです。そういう目標に向かって河川行政をやっていくのが良いと思っています。スーパー堤防だなんて、あんなバブルの頃の名前を使うから良くないんです。スーパーという言葉の持つ強さ、勢いみたいなものでスーパー農道、スーパー林道、スーパー堤防と。なんでもスーパーと言えば良いというものじゃない。

 この発想のもとは、中国の黄河です。あそこは堤防を4、5kmも幅を広げているのです。それが高規格、高度な堤防ですが、日本は勘違いして、高規格を高さだと思うところがありました。スーパー堤防の本質は周辺の嵩上げをすることだということなんです。その拠点のことを最初に防災ステーションと呼んで、ゆくゆくはつなげるのだけれど、どうしても重要な場所からやるだけの話です。計算出来ないからこういうものをB/Cで検討しようなんていうのは馬鹿げていると思います。だけど、今度はそういう委員会が出来るというので僕も呼ばれていますが。

中野: 造るとしたら高さではなく、スーパーに広い堤防なのですね。

宮村: スーパー堤防が良いか悪いかという話ではなくて、超幅の広い高規格堤防をどう造るかです。これは世界の常識なんです。日本の中でも街が大事なところでは、それをやろうとしています。例えば、奈良。世界遺産になろうとしているあの街に堤防を造ったら台無しですよ。それに伊勢神宮。伊勢湾台風で大きな被害を受けた場所なのですが、堤防を造ろうという話にはならなかった。東京は高い堤防を造ってしまいましたが、あの名前のついた伊勢湾台風の翌年から伊勢の人が造ったのは高潮よけの河口堰です。低内地を大事にしようというところは堤防を造りません。「線から点」なのです。川のねらいは、堤防をなくすこと。川を深く掘ったらよいのです。

中野: なるほど、そういう考え方があったのですか。

宮村: 出来るだけ僕は「線から点」へというのを、川の次のステップにしたいと思います。今までは技術がないから仕方なく堤防を造ってきたのです。これからはそうじゃないというのが、河川行政のこれからの大事なことだと考えています。だいたい総合治水なんていうのも、言葉が良くない。治水なんていうのは、総合に決まっているじゃないですか。細かく分けたって仕方がない。川は、地面の低いところへ流れるものです。人間の都合でもって流すものではありません。だから堤防を高くするのではなく、周りの土地を高くして川床を低くしてあげるのが良いのです。

中野: 眼から鱗とは、このことでしょうか。利根川や八ツ場ダムのことなどを伺い、あらためて日本人と川について、人間の生活と川というものを考えさせられました。
本日は、たいへん貴重なお話をありがとうございました。



(参考) 宮村 忠先生 プロフィール

1939年 東京都生まれ
関東学院大学工学部名誉教授、工学博士

専攻:河川工学
学術団体 日本河川開発調査会 代表
一般社団法人 横浜歴史資産調査会 代表 
NPO法人 本所深川 代表
宮村河川塾を主宰

主な著書
『水害?治水と水防の知恵』(中公新書 1985年)
『東京湾をあるこう』(筑摩書房 1987年)
『くらしに生きる川』(農山漁村文化協会 1989年)』
『相模川物語』(神奈川新聞社 1990年』
『改訂 水害』(関東学院大学出版社 2010年)
『水のある風景』(日刊建設工業新聞社 2010年)

主な編著
『荒川下流流域』
『アーカイブス利根川』
『相模川流域誌』
『隅田川の歴史』

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(2011年4月作成)
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