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近藤 徹(こんどう とおる)さんは、東京大学工学部土木工学科を卒業後、昭和34(1959)年に建設省に入省、その後関東地方建設局薗原ダム工事事務所を皮切りにいくつもの建設省直轄ダム事業に携わられ、特に河川局長、技監として長良川河口堰問題に対応されました。
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また、退官後は財団法人ダム水源地環境整備センター理事長、水資源開発公団総裁、社団法人河川協会会長等の要職を歴任され、平成21(2009)年、第97代土木学会会長に就任された他、応用生態工学会会長も務められる等、ダムと深く関わり合いながら、ダム事業の最前線で様々な困難に立ち向かい数々の難題を克服されて来られたご経験をお持ちです。
近藤さんは、数々の現場で逆境を乗り越えて来られましたが、担当者が人の生命・財産を守るダム事業に何で反対するのだという姿勢をとっているうちは解決できない。むしろ、なぜ反対運動が起きるのか、何を不安とし、不満に考えているか等に着目し、マスコミや反対派を前に己の足らざるところを顧みてほしいと言われます。今回は若い技術者のヒントとなるエピソードをご自身のダムヒストリーの中から伺って参ります。 (インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)
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父親の仕事から土木へ
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中野: まず始めに、土木の世界を目指されたきっかけを伺いたいと思いますが…。
近藤: 親父が土木屋で、県庁に勤めていましたが、将来性に賭けようと思ったようで満州へ渡り、満州帝国政府の今で言う国土交通省のような役所に相当する交通部の出先の所長をやっていました。ですから、子供心に何となく土木には親近感を持っていて自然に土木屋を目指したのだと思います。それに僕はもともと右目が弱視で左目しか効かなかった。近眼も進んでいましたから、余り精密な図面は描けない。それで親父が土木だったら年をとってまで図面を描くことはないというので、土木を志望したという簡単な理由です。
中野: 学生時代は橋梁をやりたかったということもお聞きしましたが。
近藤: もともと理系志望なので物理や数学は得意でしたから、その延長で勉強したかったのです。河川だと余り数学は必要なさそうだし、土質、測量に至っては中学ぐらいの数学で出来る訳です。そうすると、一番土木でしっかりした計算が出来るのは橋梁だと思ったのです。ただ担当教官が教育熱心でなく、多くの授業は休講が多く、直接指導を受けたことは余りないのです。博士課程の大学院生で伊藤学さんが代わりに指導されるような形で、大学の教育には余り親近感をもっていませでした。僕が卒業した翌年に、その伊藤さんが助教授になって、最後には橋梁の国際学会長までされ、その道のエースになりました。
中野: 大学を出てすぐ建設省に入られたのですね。
近藤: 県庁よりスケールの大きな仕事をやっているし、当時も建設省から天下ってきた課長や部長さんが颯爽とやっていて、親父からみると土木ではヒーローだったのでしょう。建設省に入ってくれたらという期待も感じていたので、自然に公務員試験を受けました。
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再びダムの時代
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中野: 建設省に入り、最初からダム現場に出られたとお聞きしましたが、どこのダムでしたか?
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近藤: 利根川水系片品川の薗原ダムです。僕が建設省に入った年に薗原ダムが調査事務所から工事事務所になった。同時に、まだ何の調査もしてなかった矢木沢ダムにも工事事務所が出来ました。後で背景を聞くと、当時は水利権は認可権を全部県が持っていましたから、利根川の開発計画書を群馬県知事が策定していたのです。また、東京都は小河内ダムだけではどうにも水が足りないから、利根川に水源を求めて調査していた。それと東京電力が大規模発電を利根川でやりたいので、矢木沢ダムの調査をやっていた。そこへ建設省のかなり腕力のある開発課長さんが割って入って、治水も含めた特定多目的ダムでやるぞということで、治水を入れて矢木沢ダム、利水で足りないところは下久保ダムも入れて、東京都の水道開発、東京電力の大規模発電、治水もやるという計画を本省ベースで組み立てたのです。
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薗原ダム(撮影:だい) |
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常識的には予備調査の事前調査があり、次に現場事務所を立ち上げて実施計画に入るという段階を経るのですが、矢木沢ダムはいきなり何もないところから工事事務所を作ったという非常に珍しいダムです。それと薗原ダムが調査事務所だったのが工事事務所になり、一挙に関東地方建設局が担当する2つの直轄ダムが立ち上がったのです。
中野: その頃は、ダム建設が盛んな時だったのですね。
近藤: そうですね。矢木沢ダムの貯水量は1億8000万トン、当時我が国最大級のダムです。本省の課長の号令が相当に強かったのでしょう。僕は矢木沢ダムの工事史を読んだことはないのですが、果たしてどんなことが書いてあるのか。計画屋としては、気になります。他の事業者がやるものを建設省が割って入って、しかも形としては円満に主導権を握っている。
中野: 先に調査をかけていたところに建設省が後から割って入って進めたと…。
近藤: ええ。これは正直言って先方の現場技術者は怒り心頭だったと思いますよ。ただ結果としては、組織の長が納得していたから揉めずに出来た。僕らの一昔前が、本当にダムの勃興期で、昭和20年代後半の学士さんは皆、大学で何を研究したかは関係なくダム現場に配属されました。資料もないのでアメリカ内務省開拓局の英文の示方書を日本語に翻訳しながらダムの設計をやりました。一通り学士さんがダム現場に行き渡り、昭和31年からは道路特定財源に基づく道路特会が始まり、道路に予算がつく時代になってようやく道路の方に人材もお金も行き始めたのです。だから、その流れに乗れば、僕も同期入省の山住君も当然道路に行くのだと思っていました。結果的に山住君は3年半ぐらい矢木沢ダム、僕は薗原ダムに4年半いました。
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ダムの神様との出会い
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中野: 薗原ダムでは、いろんな経験があると思うのですが、所長さんがダムの世界では有名な方だったとお聞きしましたが。
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矢木沢ダム(撮影:安河内 孝) |
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近藤: 矢木沢ダム所長は、阪西徳太郎さんで、私が行く前に薗原ダムの調査事務所長をされていたのですが、1億8000万トンの矢木沢ダムが調査もせずにスタートすることになり、急遽、矢木沢ダムの所長になったのです。急に出来た事務所なので庁舎も寮もないので、薗原ダムの調査事務所の部屋を2つに割って、矢木沢ダム事務所の看板も並べてかけて、所長室も事務室も半分に割って、こっちに薗原、こっちに矢木沢という具合に非常に狭いところにいました。
阪西さんは、後に事務次官になる山本三郎さんの大学の同級生でした。ダム屋になったが最後、出世してもダムでは事務所長どまりで、片方はどんどん偉くなる。つくづくダム屋というのは損だなと思ったことがありました。 |
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しかし、阪西さんは後で聞くと戦前に水豊ダム(現在の北朝鮮にあるダム)の設計の責任者を30歳そこそこでやって、帰国して、東北の猿ヶ石ダム、田瀬ダム、藤原ダム、相俣ダム等をやられた「ダムの神様」みたいな人で、後に水資源開発公団の理事になりました。
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阪西さんから現場を教えて貰った
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中野: どんな方でしたか。
近藤: 印象は、田舎のオヤジですよ。ゴジラ、ゴジラと僕らは陰で呼んでいました。毎晩のように皆とマージャンもやっていましたし、相当やんちゃな人でした。阪西さんとの最初の出会いは、僕は大学を卒業したての生意気盛りで、こんな田舎臭いオヤジに負けてたまるかと思っていました。薗原ダム現場に入って半月くらいたった時、ダイバージョントンネル(仮排水路)を設計していました。それで呑み口の水位に応じてトンネルの中に、どれだけの水が流れ込むかという計算をしていたのですが、最初はトンネルの口いっぱいには水は流れません、普通の川と同じ流れ方をする訳です。これがトンネルの呑み口いっぱいにまでなると圧力がかかった流れになる。こうなると水理学では計算する公式が違ってくるのです。僕は大学で習った水理公式に基づいて水位流量曲線を描きました。パイプいっぱいになる前の川としての流れとトンネルの中を圧力がかかっての流れと流量公式が違いますから、そこでグラフが不連続になります。要するに2つの別な式をグラフの中に描いた。そうしたら、阪西さんが来て、不連続点をうまくつないで描けと言ったんです。そこで、学問的には僕の図が正しいのではないですかと言っちゃった。そうしたら、部屋中に聞こえるような怒鳴り声で「バカヤロウ」と一喝されました。
中野: それは厳しいですね。
近藤: 課長の川本正知さんが「君は何を言ったんだ」と飛んできましたが、僕は大学で教わった通りにやっているから何を怒られているのか全くわかりませんでした。でも後で考えたら、公式には適応範囲があって、常に公式どおりに水は流れるわけではない、そこは僕の大きな間違いで、それを阪西さんは言おうとしたのかもしれない。「バカヤロウ」だけでしたから、なぜ怒られたか判るまでには相当時間を食いました。目の前の現象が、公式の当てはまる範囲か、当てはまらないか、大学ではそこまで丁寧に教えていないのです。教科書はどのような条件の時に使うべきなのか丁寧には教えていない。真実は現場にあると後に悟りました。 阪西さんは隣の矢木沢ダムの事務所でしたが、自由にこちらに来て、親しみがありました。直属の課長さんには厳しかったようですけが、僕ら係員には非常に優しい人でした。骨身を惜しまず沢山のことを教えてくれました。話し始めたらそのことだけで終わってしまうくらい。僕のダムの基礎知識はこの阪西学校で覚えたとも言えます。
中野: 大切なのは現場の経験則なんですね。
近藤: 単に経験が大事という言い方ではなく、貴重なのはその経験をきちんと積み重ねるということでしょう。例えば本省で指導する立場になっても、ただマニュアルに従って物を考えている人物は信用しないのです。というのも、マニュアルには穴があるということを判っていなくてはいけない。僕が局長になってからもいろいろありましたが、現場から教訓を得ることは大事です。今の時代は正直言って、コンサルに頼ってしまい、自分で物を考えなくなっているのではないかというのも教訓の一つです。
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廣瀬さんから情報共有を学ぶ
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中野: 薗原ダムでは、廣瀬利雄さんが上司でいらしたとお聞きしましたが。
近藤: 11ヶ月間という短い期間でしたが、廣瀬さんは、非常に丁寧な教え方をする方で、土木研究所に配属されてから、二瀬ダムで現場の工事係長、コンクリート打設の責任者をやってから薗原ダムの設計係長でこられました。阪西さんとは全く違うタイプで、今の段階でどういう仕事をしなくてはならないか、このダムはどういう形で出来ているかという説明資料を一週間に2枚ぐらいペーパーを作って皆に配るのです。次に何をすべきかというのがよく判り、全係員が同じ資料を見ながら仕事を進めていった。後に請負業者が決まれば、業者の担当にもそれを渡して、一緒に工事がしやすいかどうかを議論して、皆が同じ方向へ向かえるように、異論があればまたそこは修正するという形をとっていました。
中野: 情報共有ですね。そうしたメモをもとに皆で議論することが重要なんですね。
近藤: 当時、コンサル会社はほぼゼロでした。僕がやった仕事の中でコンサルを使った経験は、重力ダムでコンクリートブロックが並んでいるという前提で、一つひとつのブロックが壊れないという安定計算をやるのですが、それが一体となったらどういうふうに力が及ぶのかという三次元の応力解析をやった、その一回だけです。後はありませんでした。
中野: 仕事の進め方という意味では大きな収穫ですね。
近藤: 情報共有はその後の僕の人生にも関係してきていますね。ダムは大きいので、自分が思っているだけでは全くダメですから、一緒に仕事をする仲間には下手なポンチ絵でも何でも、まず図を描いて、こういうことをやりたいと、周りの人に伝えるのが僕の習慣になりました。
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開発課係長で各省庁との折衝
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中野: なるほど、その後、現場から本省の開発課の係長になられますが、その時には現場経験が役に立ったということはありますか。
近藤: それはありますね。当時、開発課では直轄、補助、調査、水利権と四つの係長がありましたが、僕、そのうち補助を除き全部の係長をやりました。入省してすぐ現場からのスタートでしたから、概算要求とか、特別会計とか、実施計画とか、本省という大組織での仕事のやり方は何も知らなかった。
中野: 現場と本省は全く違うのですね。
近藤: 全くその通りです。現場では設計して物を造ることがメインでしたが、本省ではどうやって大蔵省に説明して予算を取ってくるかがメインでしたから、ダム計画について各省と折衝するということは、開発課では良い実務教育をして貰ったと思っています。当初、開発課に転勤した時には、何で俺はこんなことをやっているのだろうと思いました。治水課だったら市町村長が陳情に来て、事情をよく聞いて、また予算つけますで終わりみたいなものですが、開発課の係長はそうじゃなくて、とにかく相手と話をつけて、事業計画の判子を貰って来なくてはいけないという訳ですから。 しかし、その後、こうした経験がすごく役に立ちました。鶴見川、これはダムとは無縁の現場ですけど、地域住民と折衝したり、関係市町村と話をつけたりする時も、水資源開発公団の総裁をやっている時も地元の知事とか市町村長さんに話しに行くにも、その時の経験があるから、そう抵抗はありませんでした。どんなに難しい事柄でもやっぱり責任者が行って必死に話をすることは大事なことで、それは開発課の係長として最初に教育を受けたのが役に立ったと思います。
中野: 折衝は順調だったのでしょうか
近藤: 失敗も多かったですね。今も思い出されるのは、あるダムのアロケーションで、自治省が反対していて当時の課長補佐が「おまえじゃだめだ、課長を呼んで来い」と言うのです。腹が立ちましたが帰って、「自治省の課長補佐に言われましたから、すみませんが課長お願いします」と報告したら、すぐに課長が自治省へ行ってくれました。そうしたら、相手は一言「ようござんす」というのです。こちらとしては、「なんだ、この野郎」です。ここが判らないので責任者の課長に説明して貰いたいと言うのなら理解できますが、まず「おまえじゃだめだ」と言う訳ですから。彼は、その後、選挙に出て参議院議員になり、後に県知事選にも出ましたが、案の定世間の評判は良くなかったようです。やっぱりダメな人はダメ。僕にとっては反面教師ですね。
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口が滑った後始末で補強工事
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中野: その後、直轄技術係長をされるのですが、予算はうまく貰えたのですか。
近藤: あるダムで、地質が悪くて河床に田んぼみたいなところがあったのです。断層処理が大変でそのままじゃコンクリートを打てないということで、ビニールシートを張ってコンクリートを打ったというのです。僕は、そのダム現場へ出張し、酒の席でそういう話を聞いたものですから、出張から帰って「薗原ダムはシートを張っていないから安心しました。もし壊れるとしたら○○ダムですね」と課長に言ったものだから、ひどく怒られました。何事だとなって補強対策の検討となって、いきなり大会議になって、ダム事務所の所長も、地建の河川部長も呼びつけて、対策を検討しました。それで直轄技術係長の僕が、田んぼみたいな断層を全部取り払って、主要部をコンクリートブロック構造に置き換えてダムの圧力を堅岩に伝えるような補強工事を設計しました。自分で応力計算もやり、必要な事業費も計算して大蔵省へ説明に行って、当時ナポレオンというあだ名のすごい主査がいたのですが、ああだこうだと言われながらも事業費増額要求をして予算を確保して補強工事をしました。その時、土木研究所ダム構造研究室長をされていた飯田隆一さんに「あなたの設計は見事です」と褒められました。本省の係長になってもダム工学の分野でちゃんと役立ったことがありますね。
中野: 次に、川治ダムに行かれるわけですが。
近藤: 川治ダムの構想は、鬼怒川の上流に良いダムサイトがあるので、川俣ダムが終わったら次は川治ダムだというのは、地元では暗黙の了解だったようです。ところが、川俣ダムの終わりの時期に労務問題をはじめ、いろいろ問題が噴出して事務所内部が荒れ、川治ダムの計画は具体的に詰められていませんでした。川治ダム出張所は地方建設局直轄で、他に例がなかったのですが、とにかく僕に所長で行けということになりました。関東地建から話を聞いても、現地調査もしていませんから、必要性についての説明は全くないのです。 一方で、当時早明浦ダムという四国最大のダムの本体工事がいよいよ始まるというので、当時の所長の相原さんが僕にぜひ工事課長で来いよという話があったのです。廣瀬さんが二瀬ダムで工事係長をやった話を聞いていましたから、工事課長は自分の判断で今日コンクリートを打つかどうかを決めて、号令を出すのですよ。まだ弱い岩盤が取り切れていないからダメだとか、打設開始とか言って、全軍を率いる司令官みたいで、一生に一度やってみたい仕事だなと思いました。命令一下「打て〜」と言ってダムコンクリートの打設を開始する。百何十万立米のダムの工事課長というのは男の勲章だと思っていたのです。
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早明浦ダムに行くはずが川治ダムへ
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中野: ご自身は、早明浦ダムに行きたいと…。
近藤: 早明浦ダムに行きたいなと思っていたら、いきなり開発課長から川治ダムへ行けという話が出て、実際に行ってみたら計画は全くまとまっていない。その前任である川俣ダムでは労使の紛争があって職場が荒れている。何でそんなところへ僕が行かされるのかと、大変むくれました。が、その時に堀和夫さんが直属上司の補佐で、その前に補佐をやっていた宮内章さんという方も僕を可愛がってくれていて、おまえの骨は拾ってやるから、とにかく行けと言うのです。 そこで昭和41年10月に川治に行って42年の6月の概算要求には間に合うように、治水計画も利水計画もまとめて一気に原案をつくり上げ、予算要求書も作った。当時、河川部長が西川喬さん、地建局長が坂野重信さんで後に参議院議員になられた方がおられた。計画書を持って行ったら、二人とも良しと言うのです。次は局長、部長が栃木県知事のところへ行って、これで大蔵省に予算要求をしますと言ったら県知事もオーケーになった。関東地建の事務局が意見を言う前に、僕は部長と局長に了解を貰ってダム計画を通してしまったのです。
中野: 計画書を作ったのは着任してからどのくらいの期間ですか。
近藤: 9か月で原案を作りました。計画案についても関東地建は毎年5,000万円くらいかけて利根川本流でタマネギ手法というやり方で河川流出解析をやっている時に、僕は全く別なアプローチをしてモンテカルロ法というシミュレーション法で当時最新の「FORTRAN」というプログラミング言語でソフトを組んで作っちゃった。関東地建にしてみれば文句の言いようがないのです。自分たちはお金をかけてまで進めようとしているのに、僕の方はさっさと計算して案をまとめてしまった。
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設計のはずが水没者交渉
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中野: 川治ダムの計画は順調だったのですか
近藤: 前に川俣ダムの人がここでは水没はゼロですと地元に言っていた後に、僕が行って水没戸数の出るダム計画書を作った。かなりの家が水没することになってしまったので、住民が僕のところへ苦情を言いにというか、説明を聞きに来ました。当時の開発課は、松原、下筌ダムで相当痛い目に合い、かなり勉強をしていたはずです。今は絶版になっていますが、『公共事業と基本的人権』という本に、ダム事業をいかに住民の理解を得ながらやっていくかということについて、いろいろ有益なヒントが載っていました。僕としては、もっとその後のダム造りへの教訓として活かすべきだったのに、今思うとまだ足りていなかったのではと考えます。
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川治ダム(撮影:安部 塁) |
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中野: その時は、どう対応されたのですか?
近藤: 普通は役人の言葉として、「ダムを造るかどうかはまだ決まっていません」と言ってしまえば彼らも黙って帰らざるを得ないのでしょうが、そうは言えませんでした。結果、このダムを造ることによって下流にどれだけの利益が上がるか、それなりの投資効果があるかというのを計算するためにこのダム出張所に来ています。下流の人たちがここの水でどれだけ役立つとか、洪水の被害を防げるのかという計算をした上でダムの規模が決まるので、水没者がゼロとは限らない。ただ調査に来ているだけではなく、計画に必要なボリュームを算定していることや、補償問題の手続きについても丁寧に説明しました。もともと純朴な人たちですから、机をたたいて文句を言う訳でもなく、ただ困ったなと言いながら皆さん穏やかに帰って行かれました。開発課を出る時には、単にダムの計画書を作るだけだから、とにかく行ってこいという説明だけでした。今思えば実際に水没者折衝はこうするという基本的なことは事前に教えておいて欲しかったですね。
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中野: 大きなトラブルにならず良かったですね。
近藤: 実はその頃、関東地建に結構優秀な夜間大学卒業の方がいて、その方を川治ダムの出張所長に予定していたという噂を聞いていたので、後になってなぜ僕が早明浦の工事課長ではなくて川治ダムの所長になったのかと聞いたら、堀さんが思い出話として、ダムの初代所長は水没者にとっては建設省の顔になる者だ、と。だから将来は直轄ダムの顔になるような人を送らなきゃだめだ。偉くなったとしても管理所長止まりかという人を送ると、地元の受け止め方がそこで決まってしまう。だからおまえを出した。どんな失敗をやっても、おまえの骨は拾うつもりだったと言われて、後から納得出来ました。僕の後に堀さんが調査事務所長になり格上になった訳ですが、僕はそこでようやくお役御免になったのです。
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ダム事業では人がすべて
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中野: ダム計画を作りに行けと言われただけなのに、うまく水没者交渉まで出来たというのは、近藤さんだったからというところもあるのですね。
近藤: 僕は、堀さんのおかげで大火傷もしなかったし、結果として建設省も火傷しなかった。僕は川治ダムに昭和41年に行ったのですが、翌42年には全く同じような体制で八ッ場ダムがスタートしているのです。八ッ場ダムは後で水資源開発公団に移行する予定でしたから、所長を公団から派遣していたのですが、地元折衝の段階でこじれてしまった。ダムの建設技術はプロかもしれないが、ダム事業のプロではなかったと。地域との対話、どういうふうにすれば地元の納得を得られるのか、それは自分で水没者との折衝の体験を持っていないと現実の問題に対するノウハウがないからなかなか進まないし、だんだんこじれてしまう。地元の人は、最初は物すごく純朴な人たちですが、期待を裏切られるたびに徹底的な反対派になっていく訳です。受け入れる人、反対する人、あらゆる人と話し合うことでダム建設は進められるのです。
中野: そうですね。きちんとした説明がないと納得出来ないだろうし、信用を失えば話し合いも出来ないと…。
近藤: 開発課長や開発課の主要なポストで用地交渉をやった人はそう多くない、堀さんはやりました。それから、関東地建の局長をやった宮内さんは、僕が開発課に行った時の直属の上司でしたけど、この人もやっています。苦労されているだけあって用地問題に対してもきちんとした仕事がやれる。だからこそこの方々は僕を早く引き揚げるという戦略も考えておられた。
中野: 近藤さんは、周りに恵まれていたということでしょうか。
近藤: 自分では、ダム屋としては技術も大事だが、地域との対話の中でどうやって事業を推進していくかという、プロジェクトマネージメントの点について、余り戦略を持っていなかったという思いがあります。事実、僕は、例えば地建の局長になった時の苫田ダムもこじれにこじれていて、大分手間を食いました。そこで良い人材を送れば良くなるだろうという考え方もあるけど、良い人材にどういう教育をして送り出すのか。今までの失敗例、教訓をどう教えていくかということがちょっと足りなかったと感じていました。やはり信頼出来る部下を育てて任せるようにしていかないと…。それには、常に育てる意識を持っていないと、進んでダムをやりますと言う人が出て来ないのではないかと思うのです。
中野: 用地交渉は、十分な経験がないと、ちょっとしたことで先方から誤解を受け、こじれることもあると。
近藤: 最初は、ダムについて賛成でも反対でもない地元の人でも、こちらが何の気なしに言ったことが相手にすればカチンと来ることもある。一度期待を裏切ったら、戻すのには何十倍も時間がかかります。水資源開発公団総裁になった時、これはこういうところで失敗しているなというのが判りました。またこういう人材でこういう対応をしていれば必ずこじれるなというのも判るようになった。そうなると、トップが行って説得しなればならない。幾ら説明しても聞かないということになれば、もうだめですね。だからこそ地元の人との対話は大事だと思います。
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マスコミ対応が問題化
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中野: 長良川河口堰問題については、どのようにお感じになられましたか。
近藤: まずあれほど大火事になったのは僕が局長になってからで不徳のいたすところです。ただその前に、やはりマスコミ対応の下手さ加減というのが、僕以外にもあったのではないかと。当時、他に選択肢は2つあったと思います。まずは、中部地建が管理している河川区間で起きている問題だから、中部地建がしっかり対応しろということ。後は、水資源公団が自分の所でやっている事業なのだから、水資源公団がしっかり説明しろということ。しかし、僕はどちらでもない河川局自らが全面に出るという第三の道を選んでしまった。役人としては失敗かも知れません。いずれかの組織の責任にしておけば済んだかも知れない。ところが、中部地建には非常に反体制派的な考えの人たちが入ってしまっていて、あそこは信用出来ないという話も耳に入っていました。水資源開発公団は先輩が総裁をやっているので、僕から指示する訳にもいかない。それに、僕を始め本省河川局が一生懸命やれば、関係者が身を引いてしまって、結局僕を始め河川局が一身に火の粉を背負った格好になったのです。
中野: たった一人で対応されたのですか?
近藤: 開発課長、治水課長、河川計画課長が全員僕を支えてくれました。それでも、どんどん大火事になっていった。一例を言うと、NHK名古屋から討論会を番組にしたいと言ってきた。僕は受けると言ったのですが、担当者が長良川河口堰の説明は非常に難しいから、80何枚かの図面を放送で全部見せないとダメだ言って断ったと…。当人から僕は何も聞いていません。ただNHKの関係者を通じて討論会の話を断っているのですかと質問があった。僕の方は断っていないと説明しました。でも当時担当者はマスコミと喧嘩しても良いと思っていた節があったのだから、どうしようもない。マスコミに叩かれたきっかけはうちにもあったと思うのです。結局時間がかかりましたが、討論会はやりました。 要は修羅場でどうするかです。僕がすごいなと思っているのは、地下鉄日比谷線で事故が起きた時、事故が起きたのが9時頃ですが、営団総裁が午後1時には記者会見をしていました。普通の人には出来っこないですよ。今は調査中の説明で良いのですよ。それをやらずに引きずって1ヵ月後にもなると、徹底的に聞かれて、わからないというたびに、馬鹿だ馬鹿だと言われる。だから、あの時の総裁は偉いなと思いました。上の人の覚悟ですね。僕自身は必ずしもマスコミ対応が上手いとは思っていませんが、ちゃんとした責任がある人が出ていって説明したら、それで大火事にならずに済むのです。
中野: でも長良川河口堰の時は、開発課と治水課とも皆さん一緒になって対応出来たというのは良かったと。
近藤: まあ大火事にしちゃったのですけど、NHK名古屋とはかなりこじれた。ただ向こうもかなり無理な番組を作ってしまったと僕は思っています。我々は、それ以上にあの時は勉強したと思っています。当時、一番の反対派は、生物学界でした。生き物に関する質問が出ると、我々に都合の良いことだけを言ってくる生物学者がいるのです。その人の言に従っていると、しっぺ返しを食う。僕は、これでは大戦争になると思ったので、網羅的に生物の調査をやることにしました。生物学と言っても、単に鮎やサツキマスだけを調査して研究するのでなく、河川に関わる生物として広い分野で調査してみようと。そこで僕が思いついたのは、河川に関する生物を魚から、鳥類から、植物から、プランクトンから、陸上動植物も含めすべてを定期的に調査するということでした。
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長良川河口堰 |
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川の生き物を全部調査する
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中野: 川の自然全部を定期的に調査するということですね。
近藤: 「水辺の国勢調査」という形式で川の生き物を全部対象にして、5年に一回ずつ調査しては発表していく。今年は魚、来年はプランクトン、さらに陸上動植物とかというふうに5年に一遍ずつ回しながらやると、最初は出来が悪くても、5年、10年、15年とデータが集まると、決して無視出来ない資料になると思ったのです。それを始めると同時に、いろいろな生物学者とお付合いが出来て、情報も多く耳に入って来るし、重鎮の人とやっていかないと話が進まないということが判りました。それで、河川局の課長補佐に土木工学はプロかも知れないが、生物学についてはそうでないから、鳥類だとかそれぞれ専門の学者と昵懇になって、弟子入りする覚悟で勉強しろと言ったのです。
中野: 実践された方はいらしたのですか。
近藤: 後に河川部長までやった小川鶴蔵さん。彼は鳥類学者のところへ飛び込んでいって、それがたまたま山岸哲さんという山科鳥類研究所の所長までやられた方に教えて貰えた。この人も学会では異例ですが、信州大学卒業で始めは中学校の理科の先生をやっていて、最後は京都大学の教授にまでなった人です。だから人間学も相当優れている方で鳥類の研究も昔から自分で丹念に調査しておられた。子供の頃から鳥類を一心に勉強してきて、自分の世界を広げていった人でしたから、話が非常に判りやすいし、とてもざっくばらんな方でした。
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反対意見を検証した
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中野: その後どうなりましたか?
近藤: 当時、反対派が祭り上げている京大の先生がいて、雑誌「BE-PAL」で対談記事を出していた。こちらとしては、徹底的にこの記事を読み込みました。あらを探して攻撃しようというのでなく、彼らは何が言いたいのかを分析した。すると、生物学というのはあなた方が簡単に方向性を決められるようなものじゃないと。丹念に時間をかけて勉強しなくてはいかんと言っていた。ならば、我々もそのためには徹底的に調査費を突っ込んでやっていこうと考えたのです。
中野: ダムを造るには、やっぱり自然のことも考えなければということですか。
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近藤: こういう考え方をしたベースには、理学と工学の違いがありました。僕自身は、大学で理一というところにいた。理学と工学の違いというのは、理学は真理の探究で、自然界にある真理を発見する。工学部は、真理の探究とは違い、とにかく人の世に役に立つものを創る。 僕は工学部ということにすごく自信を持っていました。理学部にいる奴は何か訳の分らないことばかりやっていて世の中の役に立っていないと、むしろ馬鹿にしていたようなところがありましたが、ある時、河川工学の吉川秀夫先生に、我々工学部は世の為、人の為に仕事をしているのだが、理学部は役に立っていないと言ったら、それは違うぞと。「理学の支援のない工学は滅びる」と言われたのです。だから長良川河口堰のような反対運動に遭遇することになるのではないかと思い始めたのです。謙虚に受け止めて我々土木工学は理学の支援を受けなくちゃいけないではないかと思ったのです。そういう目でみると、反対を言っている人たちは生物のことで真理の探求をしている人たちで、馬鹿にしてはいけないと思ったのです。
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ダム反対派との話し合い
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中野: ダム反対を唱える人の一番の理由を理解していくことから対話の糸口をみつけるということでしょうか?
近藤: マスコミもだんだん判ってきた。反対を煽って戦争しかけていても、僕らをさんざんこき下ろして馬鹿にしてみても物事は進んでいく。反対派の中でも一番の敵中の敵みたいだった自然保護協会というのがありますが、環境派の記者が局長室へ取材に来た時、彼らが一生懸命、自然保護をやっているのも理由があるからで、彼らの気持ちも聞いてやってくれと言うから、いいですよといって、自然保護協会のリーダーたちと話をするようになりました。彼らは会うたびに猛禽類の話をする。猛禽類には何が大事かと聞ききますと、巣のある場所だと。特に猛禽類の巣があるところを水没させなければ良いと。それを承知すると、今度は餌を捕る場所が大事だと言うのです。特に冬は雪で埋もれて餌になる動物は巣穴に入ったりして捕まらない。時々、間違えてウサギだとか小鳥が飛び出してくるのをパクっと捕まえて食っている。だから雄と雌のつがいが一羽のひなを育てるのに足る餌を獲れるだけの場所があればいいのだと。それが一冬過ごしてひなを育てられれば猛禽類は無事に生き残れるとみなすことができる。
中野: ダムが自然と共生していくにはどうすれば良いかを見つけるということでしょうか?
近藤: ダムが出来ても、猛禽類が生き残れるようにすれば、自然は破壊されていないということになる。そういうふうに出来れば、僕らはダムを造っても良いと思うと。それで、営巣地というのですが、巣のある場所には手をつけませんと。餌の獲れる場所も、針葉樹林と広葉樹林があるとすれば、広葉樹林は木に実が成ったりするから小動物も居て、比較的餌が獲れる。でも針葉樹林で、林野庁が人工林にしたところは実が成らないし餌動物もいない。我々がダム工事でそういうところを広葉樹林に切り替えていけば良いかと言ったら、それなら自然保護協会もお手伝いできると言う。それで今度は猛禽類の専門家といろいろ話をしているうちに、自然というものは一木一草、手をつけちゃいかんと彼らは言うけれど、食物連鎖の最上位にいる猛禽類が生き残れば、その場所の自然は損なわれなかったとみることは出来るのではないかと提案したのです。
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猛禽類が営巣地を移転する
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中野: 猛禽類にも営巣地が水没する時には移動してもらい、ダムが完成したらまた住めるように戻していけば理解してもらえるという感じですよね。
近藤: そこが大作戦だったのですよ。戸倉ダムは尾瀬のすぐ下ですから、冬になれば全部雪で埋まってしまうところですね。そこでダム事業の計画を練っていたら、ある日突然ダムサイトのすぐ横に猛禽類が巣を作り出したのです。この野郎、意地悪の最たるもの(笑い)。人間なら腹が立つところだけど、猛禽類には文句は言えないのでどうするか。そこでこのダムは諦めたという訳にいかないので、一生懸命考えました。専門家は一つがいたりとも損なったらダメだと言うのです。 それで僕らは、流域個体群という発想で、ダムの流域の中にいるつがいを全部調べましょうと。七つがいの群が居るなら、ダムサイトの側の一つがいは犠牲になっても、六つがいが生き残れば良いと言ってくれないかと話したが、それは許せないと。ところが、結果的に運が良かったのは、徳山ダムと滝沢ダムではそういう猛禽類の調査を、ダム工事をやりながら実施しましたが、ダムサイトの近くには居なかったのです。それで工事を進められた。うまく滝沢ダムの工事が完了したら、ダムサイトに居なかったはずの猛禽類が戻って来た。それで流域個体群という我々の発想は当たっていたと…。ダム工事の期間だけは別の場所に彼らも避難して、ダムが出来たらまた戻って来るということが実際にあり得るというのが証明されたことになる。
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応用生態工学会の創設について
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中野: すごく広い視野でいろんなことを考えないと、自然のことですからね。
近藤: やり始めたからには、そう簡単にダムを諦める訳にいかない。それで、応用生態工学会を立ち上げて、初代の会長には僕の不倶戴天の敵とまでは言わないが、反対派の一番の論客であった川那辺先生を担ぎ出した。会長になって頂けませんかと聞いた時、我々が調査した結果、どうしてもこのダムはやめろと言ったら、やめる覚悟はあるかと言うので、僕は即座にその覚悟はあると言って、会長を引き受けて貰った。これは相手もかなり覚悟の要る話です。大きな約束を取りつけたから会長を引き受けたということだろうと思います。どんなダムでもいざとなれば最後に撤退する覚悟をしたということで、今日のダムは土木工学と生物学とが一体としてやれることになったし、土木屋も黙って生物学者の言いなりではなく、細部はいろいろ違うところはあるかもしれないが、生態系を大掴みに把握して保全する手法を検討したいと言った訳です。その後、僕は水資源開発公団の総裁もやるから、ダムがこれから自然破壊と言われないために猛禽類の生き残り作戦をダム現場で研究した訳で、猛禽類の生態を徹底的に勉強して、水資源開発機構におけるダム事業については、どこも問題がないように仕上げていきました。その後をみるとダムのいろんな計画審査に当たる人の中にも生態学の専門家が大分入っておられますから、そっちの面では大変土木に明るい人が増えたと思うが、肝心の土木の人材が生物学を勉強し後に続いてもらいたいと願っています。
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次代の土木を担う若手に
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中野: 土木を目指す若手技術者に伝えたいことをお聞かせください。
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近藤: 僕は、学生時代は橋梁志望で就職したら道路に行くと思っていたが、なぜかダム屋をやらされた。だから出身地はダムだと思っています。それで本籍は、治水課長をやったから治水だと思われているかもしれないが、実は都市河川です。ただ今はもう都市河川というのは、どこにあるか判らない存在になりました。今の河川局の中に担当はあるのか、組織名もほとんど聞こえてこない。だけど、都市河川というのはある日突然、大災害を起こすことがある。例えば、横浜の戸塚駅は、柏尾川の上にあって、駅舎は川の上をまたいでいる。すぐ横に住宅公団の団地があって、当時は雨が降るたびに団地の1階が水に浸かっていた。すると皆、逃げ出して1階は幽霊屋敷のようになってしまった。昔は、そういう例がいっぱいあった。それこそホテルニューオータニの1階が水に浸かったとか。都市水害が至るところで起きていた時代で、しゃにむに浸水対策をやっていました。
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僕が取り組んだのは鶴見川でした。当時は、手引書もありません。それでも何か対応しなければというので現場に飛び込んでいったという経験があり、その時は最初のダム現場の経験が役に立ったと思います。
中野: 若い時は自分で何になると決めつけずに何事にも取り組めば、現場でいろいろ身につくということですか?
近藤: 目の前にある問題に立ち向かうには、俺は○○屋だと決めていたのでは成り立たないのです。ところが今は何でも細分化していて、鉄道屋、道路屋とか。建設省の中でも河川だ、道路だ、砂防等は試験まで分けている程。でも、最後には皆同じで日本の国土というものを扱う。国土と言ってもメインは土ではなく、住んでいる人間、つまり人を扱うのです。広く自然をみて、そこに居る人を見ていかないといけないのではと思う。東日本大震災の津波については、およそ1,200年前に貞観津波が起きているという。だったら何でそれを対象に設計していなかったと言われるが、そこまで判っていなかった。が、実はもしもがあると思って設計していた人はいます。東北電力の女川原発は海抜15mの高さに発電所を設けていた。東電の失敗ばかりが表に出てくるが、やるべき人はやっていた。これからの人は、ぜひ俺は○○屋だと決めないで、いろんなことに目の届く、総合的な目が持てるように柔軟でいて欲しい。
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新人時代の失敗作を語る
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中野: なるほど土木をやるなら、広く自然から人を見ろということですか。
近藤: 土木学会の会長になった時、学会誌に会長メッセージというのがあって、「新人時代の失敗」というのを書きました。ダイバージョントンネルの水位流量曲線を描いた時に阪西さんにバカヤロウと怒鳴られ、当時は意味が判らなかったと。大学で教えていることが真の学問であって、現場で教えるものは二流かと思っていたが、その違い、ありがたみが判るまでにはかなり時間を食ったという失敗。 もう一つの失敗は、昔プレストレストコンクリートの橋が非常に盛んな時がありました。コンクリートは引っ張り力に弱いというのを補うために、予めピアノ線で引っ張って、最初に圧縮力にしておくと、それに引っ張り力が働いてもゼロにならなければ橋は持つ訳でね。そういうプレストレストコンクリートの技術があるならば、せっかくだから鉄でもやれば、もっと経済的な橋が架かるのではと思って、鋼鉄製の橋でプレストレストというのを考えた。それを僕はあるダムの付け替え道路で、設計した。当時の所長が、ダムでは道楽は許さないが、付け替え道路の橋ぐらいだったら道楽は許してやるといってくれて、その橋が出来た。その後すぐに僕は本省へ転勤しました。
中野: その橋が失敗作なのですか?
近藤: 橋は、後に県に引き継がれたのですが、最近になって聞いたら、その橋は県に引き継いでから、1年後には廃止になったそうです。今ならすぐに判ります。コンクリートの理論を鉄に応用したのが大間違い。若い時、僕は知識が足りずにそういう弱い橋を架けてしまった。実は仮組みの時に座屈を起こしそうになり、橋梁メーカーがサービスで補強してくれて、その橋は一応使えるようになった。が、架けてみたら1年後にはなくなった。大学では、橋はコンクリートも鉄もそれぞれ教えてくれるけど、どっちが有利だとか、どちらにどういう問題があるという教育がされていない。橋梁の先生たちにはもっと総合的な土木として橋のあり方を教えて欲しいという願いがあります。
中野: 実際のところ、その橋はどうなったのですか?
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近藤: 場所をばらすと、去年、薗原ダム完成50周年式典に行きました。集まった20人くらいで飲んでいたら現場監督をやっていた人が、あの橋は完成後、土石流で流れたと教えてくれた。それを聞いて僕はほっとしたというのが本当のところです。僕の橋梁理論の弱いところを突かれ、僕に辱めを与えないうちに誰かが架け替えてくれたのかと思っていたら、そうでなかった。自然が橋もろとも流してしまった。 僕は若い人には失敗を恐れるなと言いたい。失敗は成功の元というのは真理です。そして、逆に成功は失敗の元でもあり、両方ある。少し地位が高くなってきた人には、成功は失敗の元というのも考えに入れておかねばと思います。
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中野: 失敗から学ぶということはすごく大事なことで、逆に成功事例を聞いてもちっとも頭に入って来ないというのは。
近藤: 成功は失敗の元というのは、上になって功成り名遂げた人が部下に押し売りする傾向があります。日本は、日露戦争で戦って成功したということが昭和の戦争の大失敗につながっているのです。高度成長期の経済の大成功が、最近の失われた20年にもなっている訳ですよ。自分の成功には若干の隠れた成功要因があるということに気づかないと。これ、僕は両方とも真理だと思っています。
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土木学会名誉会員に曽野綾子さんを推挙
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中野: 最後に、曽野綾子さんが土木学会の名誉会員になられたのは近藤さんが推挙されたのですか。女性では初めてですよね。
近藤: そうですね。僕が昭和62年に中国地建の局長で行って、63年に瀬戸大橋が架かった。ちょうど高度成長経済の爛熟期で、人の足で瀬戸内海を渡るという夢物語の実現です。これまでは土木学会では研究者が集まって論文を発表し合って議論する場でしたが、もっと市民に開かれた場として土木学会にいろんな人に来て貰うべきではないかというので、その中の一つの案が、世の中のお母さんたちに土木を語って貰いたいということでした。 当時の土工協にお願いしてみたら、作家の曽野綾子さんに非常に安い講演料で来て頂けると。彼女もキャスターバッグを引きながら、一人で空港に降りてきた。僕は、その時が初対面でした。そして講演して貰ったら、土木は神の愛だというのです。聖書に書いてあるアガペーというのは神の愛、無償の愛で一方的に注ぐ愛であり、お母さんが赤ちゃんを可愛がるというのも同じだと。成人した男性と女性が愛し合う恋愛の愛とは、質的に違うということで、土木というものは神の愛だと説いた。 空港へお迎えに行った時、僕らの仕事は後輩に土木のありがたさがなかなか伝わらないと言いました。建築だと丹下健三とか黒川紀章という人がいてヒーローが出てくる。だから建築を志向する人は多いが、土木には目が向かない。古市公威とか青山士なんて我々が一生懸命、英雄視して語るが、自分もそうなってみたいというふうにはならない。とにかく志望者が少ないと言いましたら、彼女は、「そこが私は大好きなのよ」と。誰にも顧みられることがなくとも世の為、人の為に黙々とやるのに私は尊敬すると言われました。
中野: それが最初の出会いだったのですね。その後もいろいろと出会う機会があって…。
近藤: 彼女はその時、『無名碑』と『湖水誕生』という土木関係の小説を書いています。前田建設とかも関係していました。それもあって他の機会にも来てくれました。それから長良川河口堰でさんざん河川行政が叩かれている時も彼女に訴えたら、健筆を振るってくれました。近藤さんが言うから書く訳じゃない。データを持って来てくれれば、データに基づいて私が判断して書くべきものは書くと言っておられた。その後も、土木学会の全国大会にも来られました。こちらが治水五ヵ年の話を説明に行こうとしたら、一人で聞くよりも二人で聞いたほうがいいわねなんて言って、仲が良かった上坂冬子さんと一緒に話を聞いてくれました。僕が土木学会会長になってから、名誉会員の資格にその他土木の発展に功績のあった方と書いてあるけど、これは誰がいるのと聞いたら一人もいないというのですよ。だったら、曽野綾子さんはどうかと言ったら、大いに結構ですねとなった。そこで僕が曽野綾子さんにお願いしたと…。
中野: そういうご縁があったのですね。
近藤: その後、「京都インクライン物語」の田村喜子さんにもお願いしたが、すぐに亡くなられてしまい非常に残念です。後は誰も追加していない。それは怠慢だと思っています。実は、タレントのタモリ氏でも頼んでみたらどうだと言いたい。彼には土木の才能があると思いますよ。段差のある地形の等高線を面白がってみたり、坂道や石垣も好きで歴史から土木を見ているような人です。こうした土木の応援団になってくれる人を10人、20人と集めれば良いのではと思うのです。土木に人を引きつけ、発展させていくには、もっとこちら側から発信していく力を高めないといけないと思っています。
中野: なるほど。本日は、とても貴重なお話を聞かせて頂き、ありがとうございました。
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(参考)近藤 徹(こんどう とおる)さん プロフィール
昭和11年1月4日生まれ
昭和34年 3月 東京大学工学部土木工学科卒業 昭和34年 4月 建設省入省 昭和34年 6月 建設省関東地方建設局薗原ダム工事事務所(設計係〜係長 (設計→工事) 昭和39年 2月〜昭和41年9月 建設省河川局開発課係長(直轄・調査・水利係) 長良川河口堰 川辺川ダム調査 昭和41年10月〜昭和43年5月 関東地方建設局 川治ダム調査出張所所長(予備〜実施計画調査) 昭和43年6月〜昭和60年10月 関東地方建設局、建設省河川局、東北地方建設局 昭和62年 8月〜平成元年6月 中国地方建設局長(灰塚ダム負担金、高梁川堰問題、中海淡水化) 平成元年 6月〜平成4年7月 (河川局長、建設技監) 長良川河口堰対応 平成 6年 5月〜平成7年末 (財)ダム水源地環境整備センター理事長 平成 8年1月〜平成15年10月 水資源開発公団総裁 平成15年10月〜平成16年3月 独立行政法人水資源機構理事長 平成16年 5月〜平成22年9月 東北電力(株)常任顧問 平成16年 6月〜平成22年3月 (財)水資源協会理事長 平成18年 5月〜平成20年5月 (社)河川協会会長
学会関係 平成21年 5月〜 平成22年 5月 第97代 土木学会会長 平成21年10月〜平成25年10月 応用生態工学会会長
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[関連ダム]
薗原ダム
矢木沢ダム
川治ダム
長良川河口堰
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(2015年8月作成)
ご意見、ご感想、情報提供などがございましたら、
までお願いします。
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