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ダムインタビュー(77)
毛涯卓郎さんに聞く
「ダムを造る人達はその地域を最も愛する人達」

 毛涯卓郎(けがい たくろう)さんは,昭和35(1960)年東京教育大学農学部を卒業後,建設省に入省。中部地方建設局に配属され,新人研修を受けながら土木界でのお仕事をスタートされます。順調な滑り出しかと思いきや昭和36(1961)年6月,伊那谷地方を襲った36.6災害に見舞われ,実家も土石流に押し流されてしまいます。静岡県沼津で行われていた研修に参加している最中に実家の被害を知って現地に向かい,その後一ヵ月に渡って地元での被害調査と復旧作業に取り組まれたことは,土木人としての土台造りとしては大いに役立ったとのことです。その後,企画室企画係長として長良川河口堰を担当,八ッ場ダム工事事務所長などを歴任され,ダムをはじめ数多くの河川事業に従事されますが,一貫して人々の生活に密着した水資源開発事業を担って来られました。


 今回は,大きな災害との遭遇から始まった毛涯さんの土木技術者としての足跡を振り返りつつ,水害に見舞われやすい我が国のインフラ開発,土木事業のあり方についてのご意見を伺うとともに,若手技術者に有益な指針とエールを贈って頂きたいと思います。
(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)

学生時代は教師を目指していた

中野: 学生時代は工学部とかではなく,教育大学の農学部ということで,どうして土木の世界に進まれたのか不思議な気がしましたが,どういった経緯だったのでしょうか。

毛涯: 僕自身も父親が教師で,最初は土木をやるなんて思っていませんでした。それと親戚に毛涯修さんという方がいらしたのですが,この方は一橋大学を出て長野県庁に入られ副知事を務めていました。時々,囲碁の手ほどきを受けていたのですが,その方の影響で僕は一橋大学に行って将来は外交官になると言っていたらしいです。しかし希望が叶わず浪人してしまったので,国立一期校の一番通りやすいところを探したら,東京教育大学農学部で,滑り止めに信州大学教育学部を受けましたが,東京教育大学へ行きました。その頃はもう教師になる方向で進んでいたと思いますが,自分では数学が得意だったので,数学の教員免許を取ろうと思って理学部数学科の授業を受けました。当時はまだ就職難の時代で,数学の教員免許を持っているのも就職に良いというので懸命に勉強してどうにかこうにか単位を取得することはできましたが,さすが理学部の連中の優秀さには驚かされました。

中野: 初めは先生を目指そうとしていたが,結果的に土木の方に進んで来られたのですね。

毛涯: そうですね。当時は就職難で,なんとかしなくてはと思っていたところ,ご指導を受けた藤井真一教授から国家公務員試験に合格すれば上手くすれば建設省に,悪くても県庁には入れるからと,受験を薦めて頂きました。幸いに建設省に入省できました。

入省して中部地建へ

中野: 就職難の時代に苦労して建設省に入られたのですね。どのような業務をされたのでしょうか。


小渋ダム(撮影:Dammaster)

毛涯: 昭和35年4月に入省して,中部地建には,事務1人,技術5人(道路1人,海岸1人,河川3人)が配属になりました。僕は,中部地建の河川計画課に配属され,7月には天竜川上流工事事務所に転勤になりましたが,おかげで故郷に凱旋したような形になって自分では意気揚々としていました。主な業務は流量改訂,河川横断測量,流量観測でしたが,重点業務は流量改訂業務でした。事務所内には小渋ダム出張所(まだ初期段階)がありましたが,声がかかりませんでした。

中野: 建設省に入って間もなく伊那谷の三六災害に遭われたというお話ですがその辺はどうですか。
実家が三六災害に遭遇

毛涯: 三六災害は入省2年目の昭和36年6月災害(36災害)は,伊那谷地方では梅雨前線豪雨で6月23日から雨が降り始め,6月30日までの8日間に総雨量537mmの大雨で,死者・行方不明者136名,浸水家屋18 488戸の大被害をもたらしました。当時,公務員試験で通った人は全員,沼津で機械化研修というのを受けることになっていました。その機械化研修が終わり,駒ヶ根の事務所に帰ろうと思っていたら,飯田線が不通になってしまいなかなか動かない。1日待って翌日の昼過ぎにようやく駒ヶ根の事務所にたどり着くことが出来たのですが,実家が災害に遭っているからすぐ帰宅しなさいと言われ,我が家がなぜ災害に…と思いながら家に到着。惨状を見て唖然としました。実家はその頃,母屋で下宿屋をしていて法務局に務める佐藤さんという下宿人の方がちょうど家にいて,夜7時頃だったそうですが,ゴォーというものすごい音とともに濁流が押し寄せたので,とっさに母親を連れて2階に上がってくれて助かったそうです。天竜川左支川市ノ沢川に流木がつまり,90度近く流路を変えて我が家を直撃したようです。現場に行ってびっくりしました。1階には大きな石が突っ込んでいて,よく2階に逃げられたなと思いましたね。

大西山の大崩壊へ被害調査に行く

中野: 大西山の大崩壊は昭和36(1961)年6月29日ですね。

毛涯: 僕が帰った翌々日,大崩壊の知らせがありました。それで実家の片付けは親戚の人にお任せして,自衛隊と一緒に山を越えて被害に遭った大鹿村まで歩いて行きました。

中野: それで被害調査に行かれたのですか。

毛涯: 初めは実家が被害にあったから帰れと言われて,その後,行方不明者を探したりしているうちに建設省職員だという立場をすっかり忘れたように無我夢中で動いているうちに無断欠勤状態になっていたかも知れません。後に上司の計らいで,大西山の大崩壊の測量調査をするようにとの指示が出ました。大西山の崩壊は,高さ450mから落下した厚さ15m,巾500mの岩塊で400万m<上付>3の土砂崩れという測量結果を出せたところで我に返ったような気がします。

中野: すごい雨が降った時,木が倒れて沢を塞いで大きな土石流が発生するという被害は,この間もありましたけど,日本の場合そういう災害が多いですね。

毛涯: 大西山は小渋川の左岸にあり,花崗岩で堅固な岩盤と誰もが思っていた場所なのです。よもや崩落するとはまさに想定外。災害というのはそういう場所で,まさかと思う時に起きるものだというのが事実でしょう。

中野: 人的被害も大きかったのですか?

毛涯: ええ,建設省の出張所もやられましたし,死者・行方不明者は136名に上ります。僕自身も,連日人探しに明け暮れていたのです。

中野: 出張所にいて行方不明になった方は見付かったのですか?

毛涯: 前日崩落箇所の対岸(右岸側)の斜面(人家多数)が,地辷りを起こすかもしれないからと,集落の全員が学校の体育館に避難していたのですが,一夜を明かし何もなかったなといって,一旦はそれぞれ家に帰り,朝帰宅し朝食をすませて出勤しました。29日8時30分頃,大西山がぱらぱらと小崩落があったので,出張所の若手職員が河川の見廻りに行き,その直後の9時30分頃大崩落が起きて帰らぬ人となってしまいました。

小渋川の流れが変わってしまった

36災害での大西山崩落時(昭和36年)と平成15年の比較(写真:「語りつぐ36災害」天竜川工事事務所)
現場はすざましい光景だった

中野: この崩落のすごさは種々語り継がれていますね。

毛涯: 出張所が崩落の直撃を受けて,出張所のダンプトラックが50m吹っ飛んだとか,運動神経の良かった事務係長が一番最初に出張所から飛び出し,爆風で壁にぶち当てられて亡くなっています。あと事務の女性が3人いたのですが,皆で手をつないで畦道を歩いて逃げたのですが結局は濁流に飲まれてしまい,1人は手を離したので流されて溺れてしまった。残る2人はダムアップされた流れに乗り,気づいたら岸にいたという,まさに奇跡的に生き残った。

(写真:「語りつぐ36災害」天竜川工事事務所)
中野: すさまじい光景ですね。

毛涯: 本当にすさまじい。全く安全だと思われていた高さ450mの花崗岩の岩盤がパカンと2つに割れ,それがバサッと落ちてきたというのです。それで一瞬で小渋川が埋まってしまい,一時ダムアップしたような形になったのです。

中野: 大西山の崩壊で集落が飲み込まれ小渋川の流れが大きく変わってしまったのですね。

毛涯: もう少しつけ加えると,女性2人はダムアップされた流れに乗り,気づいたら岸についていたとか,右岸側の住宅に病気で寝ていた人が家ごと対岸まで押し流されて助かったという事もあります。ですから,つくづく人生というのは不思議なものだと思いましたね。

中野: 本当ですね。逃げようと思った人が爆風で飛ばされたり…。

毛涯: これ程大きな災害の爪痕は,見たこともありませんでした。大鹿村で2週間,行方不明となっている知人探しに没頭しました。悲喜こもごもです。人の情報を頼りに,あちこち見に行きましたが,顔が変色して良く判らないが違う,これの繰り返しでした。7月14日捜索打ち切りという最後の日に,3人で手をつないで逃げ,手が離れた1人が出張所の書類に埋もれた中から帰らぬ人として見つかりました。大変安らかな顔をしていました。ご冥福を祈りたいと思います。

中野: ちょうど今年は,こうした土砂災害が多い。そういう体験をされて来られて,今のこうした現状に対ししてどういうふうに思われますか。

毛涯: 実際に実家がやられたのは流木のせいです。台風の時のダムを見れば分かると思いますが,ダム本来の目的ではありませんが,ものすごい量の流木を溜め込んでいます。これが下流河川に流出すると大きな災害につながると思います。

中野: そうですね。

危険の度合いを周知しておく ということが肝心

毛涯: 大河川には観測機器が多数備え付けられ,観測体制もよくなっている。それにコンピュータも進歩して気象予報の精度も上がり管理体制も整っているので,下流住民へ周知連絡ができるようになってはいますが,最近の災害をみると,ダムのない中小河川(情報が少ない),急傾斜地等危険予測が難しいところではないでしょうか。それに山の管理というのは,常時歩いて見ていないと出来ないものです。間伐材も切ったら放ったらかしにせず,すぐ整理するとか。手間が掛かるけど,そうしたやり方を充実させるしかないのです。あと行政でできることといったら,人が住んでいる地域が,それぞれどういう地域であるかということを,いろいろなデータでもって把握しておき,危険の度合いを役場職員及び住民に知らせておくことが肝要ではないでしょうか。

中野: そうですね。災害が起こりそうと,もしもこういう気象条件になったら避難するようにとか,そういう告知ができるように常に備えておかないと。

毛涯: 本当にそうです。三六災害でも,前日には右岸側の人たちが学校に避難していたのは,ある程度地すべりの危険がある,危ないということは自覚していた訳です。実際に災害が発生したのは,反対側になりましたが…。

初めてのダムの仕事は予備調査から

中野: 毛涯さんが,初めてダムに係わられたのは,いつでしたか。

毛涯: 昭和38年8月,中部地建の企画室の係長の時でした。昭和39年河川法の改正により,水系一貫管理の方針が出されました。この方針に基づいて,中部地建では河川管理者が率先してダム計画構想の検討を始めました。これは広域利水調査の始まりで,木曽三川について本川,支流を全部調べて回りました。特に木曽三川は,徳山ダムは電発,岩屋ダムは中電,阿木川ダムは農地防災ダムとして,利水者が先行していましたが,治水上必要と位置づけ参加しました。本川に治水効果のある流域面積を想定してダムサイトを1/50 000地形図におとし踏査しました。他河川については,庄内川は小里川ダム,大井川は長島ダム,櫛田川は蓮ダムと櫛田川ダムです。それを全部踏査しました。それがダムとの関わりの最初です。


小里川ダム(写真:ダム日本2003.8)
長良川河口堰の調査で鮎の人工養殖に成功


長良川河口堰の魚道(撮影:ToNo)

中野: それが係長の時で,この時に長良川河口堰も担当されたのですか?

毛涯: そうそう。昭和38年から昭和42年磐田工事事務所(現浜松河川国道事務所)に出るまで4年間関わりました。長良河口堰では,利水計算,各関係機関との協議(三川協議会)により開発水量22m<上付>3/sの各県配分を確定しました。昭和38年末に当時上司だった今永専門官が「長良川は鵜飼があるから、金銭補償でなく物で補償しなければならない」と主張され,木曽川三川河口資源調査団(団長 小泉清明信州大繊維学部長)を団員約20名で発足させました。団員は最終的には50余名になりました。
当初予算は380万円で魚道の研究から始めましたが,三重大の伊藤隆先生の鮎の人工養殖が大きな成果でした。

長谷川重善さんとの出会い

中野: 長良川河口堰担当から次に磐田工事事務所に行かれるのですが,どのような事務所でしたか。

毛涯: 僕は42年に,磐田工事事務所(現浜松河川国道事務所)に工務第一課長としていきました。当時40億円の予算がついていて,30億円が道路予算で10億円が河川・海岸という配分でした。それでも河川には,天竜川,菊川,大井川と3つ河川と,浜松海岸と大井川海岸の2つの海岸を担当しました。



組織的には4出張所もあり,予算は少ないけど工事箇所が多いという状況でしたね。それで所長,副所長が道路出身者,素人課長が河川海岸の組織を束ねることに苦労しました。そういうこともあって,局の河川計画課長の長谷川重善さんは,ものすごく応援して面倒をみてくれました。
中野: そうでしたか。その後,八ッ場ダムで再びお会いした方?

毛涯: そうですね。それが長谷川重善さんとの出会いの第一幕です。次ぎに出会ったのは八ッ場ダムの工事事務所長になった時ということになります。
八ッ場ダムの所長に抜擢される
中野: その前に,関東地方建設局の鬼怒川ダム統合管理所へ所長として赴任され,5ヵ月で下館工事事務所に転勤されるのですが,その時印象に残っていることをお聞かせください。

毛涯: 鬼怒川ダム統合管理所は,関東地方建設局も初めて,所長も初めての仕事で,当たり前のことですが電気事業者から毎年ダム使用計画を提出させ議論したり,川治ダムで実施していたダムの予備調査を所長にお願いして実施させてもらうなど管理所の活性化を図るための策を考えていましたが,仕事も道半ばで下館工事事務所に転勤になりました。当時242名で職員数からみると大事務所でした。組合問題もありましたが,地域の首長からも大事にされ楽しく過ごした事務所でした。その頃,長谷川重善さんは関東地方建設局河川調査官でおられました。八ッ場ダムの所長に僕を当てるという人事については誰もが予期せぬ事で,驚いた人の方が多かっただろうと思います。何より受けた本人が一番びっくりしました。だから,わざわざ辞令が出る前に,長谷川重善さんが事務所の幹部を集めておくよう指示があり,何を話に来られるのか分かりませんでしたが,八ッ場ダムの話をされたのでした。

長谷川さんが幹部に説明に来られた

中野: そういう人事について説明することはよくある話ですか?

毛涯: そんなことはないです。外堀を埋めて,どうして僕に白羽の矢を立てたのか,これは後から長谷川重善さんが教えてくれたのですが,「群馬県はエリート意識の強いところだから、こちらとしては、形はエリートだが余り偉くしなくてよい人、それでいて頑張り屋で明るい人、そういうことでおまえは選ばれたんだ」と。だから先に下館工事事務所に情報が変なふうに入っちゃいかんと思ってわざわざ根回しに来られたのかも知れません。結果として,僕が八ッ場ダムに行くことに決まりました。この件を最初に聞いていたら,故郷の中部地建に行かせてくれと言っていたかもしれません(笑)。

中野: なかなか策士ですね。長谷川さんは,関東地建の河川調査官として早くから毛涯さんを推しておられたのですね。人の縁というのは,本当にいろいろなところでつながっているなと思いますが。

毛涯: そうですね。八ッ場ダムでは,長谷川さんが一番苦労されたのかもしれません。初代の西所長と二代目の長谷川所長の苦労では,質が全く違うと思います。長谷川所長は,当時,地元で最有力であったダム賛成派の人,萩原好夫さんの影響が強過ぎてある意味,言いなりになっていたので,それではダメだという意識で行政主導になるように方向を変えて行ったのです。萩原さんの抵抗も相当激しかったと聞いております(萩原さんの生い立ちを知ればわかりますが)。しかし,萩原好夫さんも水没者の一人ですから,どう対応するかが今後の課題だったと思います。

陣内所長から引き継いだ八ッ場ダム

中野: 前に三代目の陣内所長※にお話をお聞きしたのですが,八ッ場ダムがなかなか進まなかったのは県の意見が強くて,間に挟まってしまったと。建設省の方はやれと言うし,県は反対派の人と対峙して話を聞く。地元であっても上下流では,それぞれ思いが違う。下流は洪水防止のために,八ッ場ダムを造らなければいけないと,しかし,上流はそう思わない訳ですね。結局,折り合いを付けて,ダムを造れるようにしたいのが建設省の立場で,そういったところで陣内さんが清水知事と折り合いをつけて,利根川,荒川の基金を整備して,県に企画部が設置された話をお聞きしました。それを毛涯さんはどのように思われましたか,当時の状況をお聞かせください。
※陣内孝雄さん(参考:ダムインタビュー(70)陣内孝雄さんに聞く

毛涯: 陣内所長は長谷川所長から引き継がれて,いろいろと手を打って行かれた。僕は当時から物腰は柔らかいが,きちっと手順を踏んで物事をまとめていくすばらしい人だと思っています。

中野: 本当にいろんなことをされましたね。

毛涯: そうですね。ダムの所長というのは,陣内さんにとっては初めての経験だと思います。これもやっぱり長谷川さんが人選したのではないですか。陣内所長が偉いのは,八ッ場ダムの問題は本質的に何かというのを,ある程度長谷川さんと話しているうちに,解決しなければならない点を整理されていて,基本課題を手順よくやったということに尽きると思います。1つは,水特法の制定。2つ目には,基金制度。この基金と水特法については,水没者並びにこの地域のために策定されたものであることを解りやすく説明するために生活再建(案)を策定し,地元議会に説明したと聞いております。もう1つはフルプランに編入しました。それからダム指定。この5つで問題点を全部整理されました。本当によくやってくれたなと思っています。引き継いだ四代目の僕は何をやったらいいのかと考えました。ダム指定のしこりも残り,企画部系の県,町長の建設省に対する不信感は完全には拭い去れていない状況でした。

八ッ場ダム建設事務所職員(前列右から7番目毛涯所長)
昭和52年12月撮影(写真:「八ッ場ダム10年のあゆみ」)
町長と話せるようになり信頼関係ができた

中野: ダム指定は,県も町も何度も説明したりして,議会も皆さん物すごく大変だったけれど,最後までどうしても反対だったのですね。

毛涯: しかしこのダム指定がないと全部の策がつながらないのです。僕が行った時は,樋田町長はそれまで反対し続けてきたダム指定を認めてしまった後で,役場の課長,助役,議長までは話はできましたが,樋田町長には話ができる状況ではありませんでした。前所長時代,町,議会等への積極的アプローチにより,激しい場面を繰り返しながら,ようやく地域のためになる国がやるべき法整備(地元はそう思っていない)が一段落した後であり,次の動きを見守っていたのかもしれません。そんな状況のなかで,草津営林署の署長が交代して歓送迎会があったのですが,五ヵ町村が合同で主催し,長野原町が当番幹事で,官公庁の招待者は指定席,一般関係者は一般席となっていたので,当然,指定席だと思って探したのですが自分の名前がありませんでした。役場の担当者に聞いてみると「八ッ場ダム工事事務所は認めておりませんので一般席へどうぞ」と言われました。

中野: 長野原町の八ッ場ダム工事事務所に対する認識を知った時は大変ショックを受けられたと思いますが。

毛涯: そう,こちらにしてみれば,中央官庁の人ならば当然上座にいられると思っていますからね。

中野: そんな状況のなかで,毛涯さんがされた引き継がれた生活再建案についてお聞かせください。

生活再建案の提示

毛涯: 建設省に対する不信感は完全には拭い去れていない状況で,私のやることは県,町長の対応,及び知事が白紙の立場で生活再建(案)を作って判断するという生活再建(案)の裏方作業でした。生活再建案策定は,樋田町長の主張する(絶対的条件)集落別再編が柱になっていて,特に困難を極めたのは,川原湯温泉街の造成と,林地区の農地造成でした。川原湯地区は急傾斜地区で土地造成ができるかどうか,林地区の農地造成は高盛土であり,必要性に疑問を持ちながらの作業でした。この再建案は調査立入前でしたが,モデル家屋を示し,また借地人に対して各々金額を提示しました。調査立入前に提示することは八ッ場ダムは特例といっても他ダムに影響があります。そこで全国ダム所長会議を開いていただき説明し了承を求めました。この生活再建案を提示するために,向坂水資源課長が日夜を問わず,樋田町長,山崎議長と接触し,議論し,その結果を我が事務所に報告するという毎日でした。特に補償金の目安については課長から強い要望がありました。提示できたということは,これから始まるということですが,各々の立場の人達の意思疎通ができた証だと思います。昭和55年11月27日,県は,長野原町及び議会に「生活再建案」及び「生活再建案の手引」を提示することができました。


中野: 少しずつ事が動き出したのですね。

毛涯: そうですね。当時,僕は単身赴任でなく家族一緒に行っていたのですが,子供が中学校で野球をやっていたので,その指導のお手伝いをするなどしているうちにPTAの副会長に推薦されました。普通は,よそ者ですから,行ってすぐになれるはずがないでしょう?

中野: ある程度信頼されてないと難しいですね。

毛涯: 副会長は次に会長になるポストで,やりたい人がおられるのに僕を推薦した人がいるのもちょっと不思議でした。
学校で先生の歓送迎会があった時に歌を歌ったりしている朗らかな奥さんがいたのですが,周りから「あの人は山の方の温泉宿の人だから紹介しますよ」といって紹介してもらいました。その時は,八ッ場とも川原湯温泉とも言わなかったのですが,実は町長の義理の妹さんだったのです。

中野: そうなんですか。

毛涯: よく聞けば私の宿舎の2軒隣で,ご主人は群馬銀行に勤めておられる。お隣さんだったのです。いつの間にか,彼女がダムの所長はこちらに家族で来ているとか,子供の野球を指導している。そういう情報が全部町長に伝わっていて,ある時,町長から「単身赴任ではなかったのですね」という一言から,町長と話せるようになりました。人間,ちょっとしたところから信頼感を得ることが出来ることを実感しました。

中野: 最初は話もできず,シャットアウトだったのに少し道が開けましたね。

毛涯: 地元では事務所の存在すら認めて貰ってなかったことが早い時期にわかったので,まずは家族連れで地元にいるという事から知ってもらって良かったと思います。

中野: 八ッ場ダムの膠着状態は陣内さんからもお聞きしていたのですが,水特法を制定しても,なかなか動いてくれなかった時期がというのがあったのですね。

毛涯: 町との関係については,その一件から町長と話すことが出来るようになったし,向こうからも,いろいろ言うことが出来るような関係になれました。

中野: やっと普通にコミュニケーションがとれるようになったということですね。

毛涯: それで全部オーケーというレベルではなくほんの取っ掛かりです。

中野: そうですね。

最初の接点は護岸工事

毛涯: その先もまだまだ話はあります。例えば,ダム費の問題。前所長時代の護岸の一期工事は,所長が大変苦労されて,利根川上流工事の維持費や,群馬県砂防課の砂防費を使い,ダム費は使用しない工事でした。二期工事はこちらが仕掛けた工事です。実は当時,町が求めている事業の中で擁壁を造る工事があったのですが,19mを超える結構大きなもので,これを造るにはダム費しかないよということを町役場の建設課長と助役,町議会議長に告げ,町長を連れ陳情に来てほしいと依頼し,町長に来てもらいました。その時,町長は初めて所長室に足を踏み入れたそうです。そこで,「町長がわざわざ来所されたので要望通り(19.50mもたれ擁壁)実施します。但し、事務所にはダム費しかないのでダム費で実施します。」と話しました。町長は「ダム費ならだめだ。」というので「それならばやめましょう。」と言って帰ってもらいました。町長にどう説明したか解りませんが,数時間後,建設課長と助役と町議会議長3人で来られ要望通りやることにしました。小さなことですが,一歩一歩前進する礎です。

中野: 地元の人にしてみれば,造って欲しかった工事ですからね。

毛涯: だけど,町長は欲しいとは絶対言わないから,3人が相当説得したのでしょう。こちらとしては,陳情に来てくれたので,では造りましょうとなるのですが,陣内さんの時は苦心して砂防事業と一緒にやったりして,ダム費を使わないようにしていたくらいですから。で,その時はもう予算がないのでダム費を使いますよと言いました。そうしたら,町長が「いや、それじゃあもういいです」となって帰ってしまった。でも,その日のうちに,今度は3人が戻ってきて,持ち帰って相談したらぜひお願いしますとなったと…。結局は町長の了解してないことも,了解しましたからぜひやってくださいと言われて工事をやることになったのです。

中野: ダム費を使って工事をすること自体に反対という,意地でも認めたくない…。

毛涯: そうそう,そんな感じですね。

八ッ場で人生を学んだ

中野: 毛涯さんは,そういう環境で八ッ場ダムに5年間関わって来られて,どのような感想をお持ちですか。

毛涯: それは,とても一言では言い表せませんが,「人生そのものを学んだ」と。確か,昭和52年1月のある日,河川部長の藤城武司さんのところへ,うちの課長を数人連れて新年の挨拶に行ったことがあります。その時,京浜工事事務所所長の近藤徹さんと一緒になりました。挨拶がすんだので帰ろうと思ったら,「近藤と毛涯は残れ」と言われ,会議中の札をドアに掛けて「一杯飲もう」と言われました。いろいろ話しているうちに,「おまえらは今年大いに走れ。失敗を恐れるな」と檄を飛ばされ,近藤さんに対しては「おまえの都市河川は、走るだけ得点が上がるから、例え片足になっても走りまくれ」と。「毛涯のところは幾ら走っても得点になりそうにないが、それでも走れ。建設省は悪い役所だが毛涯個人はなかなかいい人物だという評価を地元の人から得られるだけでも良いじゃないか。生き甲斐というものはそういうものだ」と助言してくれました。その言葉を,僕は今でもハッキリと覚えています。常々与えられた場所で全力を尽くすことを生き甲斐にしていましたので,今にしてみれば,全くその通りの言葉だと思っています。

群馬県の態度は

中野: 本当に見抜いておられたのですね。町との関係はよく分かりましたが,群馬県の方はどうでしたか。

毛涯: 県については,昭和51年8月,神田知事の後を受けて,八ッ場ダム推進を是とする清水一郎知事が誕生しましたが,建設省(八ッ場ダム)に対しては,県庁上層は当然のことですが,横田副知事を長とする企画部系と,福田企業管理者を長とする土木部系とは肌合いが違っていて,建設省との関係にも温度差がありました。土木系の人たちは我々を物すごく応援してくれましたが,企画部の系統はどうも建設省に対して何かと反発的でよそよそしいのです。当時,僕は県庁に行くとまず河川課長のところに行き,次に土木部長に挨拶してから,企画部の方に行っていました。

そうしたらある時,堀口水資源課長から「いつも毛涯所長は先に土木部に行ってから、水資源課に来るが、八ッ場ダムの窓口は企画部だから、先に挨拶に来るべきではないのか」と言われたのです。それでハッと気付いて,挨拶回りの順番を変えて1週間に一遍は必ず企画部から挨拶に行くようにして,それから少しずつ関係が出来るようになったと思います。

中野: 清水さんが知事になってから,少しは良くなったのですか。

毛涯: そうですね。それまでは膠着状態で話もままならなかった。県庁の土木部の金子さんにも随分助けられました。金子さんは,河川課長,土木部長,後に企業管理者になった方ですが,「いつもダム現場にいたら気休めに飲んだりも出来ないだろうからたまには前橋まで下りて来い。その日は酔っ払っても次の日の朝からまた頑張ったらいい」と言って,県の土木部や高崎国道の所長,利根川ダム統管所長と懇親会を定期的にセットしてくれました。心から感謝しております。


八ッ場ダム10年のあゆみの表紙(昭和53年5月)
八ッ場を振り返って思うことは

中野: 藤城さんのお話にもありましたけど,1つの得点にもならないけど,走り続けろというのもね,すごい言葉だなと思います。

毛涯: 本当に,その言葉はずっと頭にありましたね。


空撮 下流側からの八ッ場ダム(2017.10.1撮影)(写真提供:国土交通省八ッ場ダム工事事務所)

中野: 陣内さんの後も考えておられて,順番に引き継いでくれる方を考えておられたのでしょうね。先見の明があるというか。代々の所長がそうやって走り続けていたら,いつかは得点が入る。それまで頑張れということでしょうね。

毛涯: そうですね。僕より後の所長,柳川所長以降ようやく現実に動いた。八ッ場ダムには立派な人が来てくれていますね。

中野: ダム工事ではなく,交渉の八ッ場ダムという感じですね。しかし,長いこと翻弄され続けた地元の人がかわいそうですね。
毛涯: 本当にそうです。所長になってみると皆,大体同じようなことを考えるのです。僕は用地係に地元住民470戸分のボタンを押したら,赤とか青とか色でパッと見て賛成反対が分かるような資料を作るようにと言ったら,それはもうとっくに出来ていますと。新しい発想だと思っていましたが既に前の人がちゃんとやっておられる。これだけやっていると,この家がどうだというのも全部見えてしまう。失礼だが,あそこの家は娘さんを成田闘争に行かしたりしているとか,個々人のイデオロギーどころかもう身内の話まで全部聞こえてくる。これはいかんなと思いながらもそういうことも全部ひっくるめて対策を考えていました。

中野: 長い間揉め事ばかりだと,そういうところまで見えてきてしまうのですね。

毛涯: 八ッ場ダムを振り返って思うことは,土木技術屋で良かったということです。「当時最盛期だった宮ヶ瀬ダムは、施工経験のある優秀な所長をはじめとする技術集団だから、宮ヶ瀬は技術で造る。八ッ場は人で造る。」と大言壮語しておりましたが,恥ずかしい限りです。柳川所長に「私だって施工経験ありますよ。」と注意を受けました。八ッ場ダムでは人間力学を学んできましたが,ダムは人が造るものであり,ダムを造る人達はその地域を最も愛する人達で,地域始め,国を治めることのできるのは土木技術屋だと思います。

建設省と水資源公団では

中野: 八ッ場ダムは県も建設省も町も,人といろんなものが絡み合って,なかなかほどけなかったという状況でしょうか。あっちを説得すれば,こっちが立たない。陣内さんも話されましたが,当時は本当に苦労されていたのですね。今この時期にいろいろな方からお話を伺うことが出来て,八ッ場ダムのことがよく理解出来るようになりました。次に水資源公団の話をお聞きしてよろしいですか。毛涯さんは,直轄と水機構でダムを経験されてみて何か違う点はありますか?

毛涯: これは,僕の思い込みかもしれませんが,建設省は地域を治め,国を守るという河川管理者意識が末端まで浸透しています。


公団は個人を重視する。要するに優秀な技術屋集団ですね。昭和37年に公団が出来た時に,技術者を集めたのですが,電力関係の人とか県のダムをやっているような人たちが,ダムのスペシャリストとして入ってきているのです。その人たちが部下に何を教えたかといったらまずは人のことは考えずに技術を磨けと。他の事はあまり考えなくていいという教え方でした。昭和46年卒業者位までその影響を受けていたので,長良川河口堰等の危機管理の対応が一体にならなかったように思います。

2度目の長良川河口堰で

中野: なるほど。2度目になりますが,長良川河口堰へいかれましたが,どのような状況でしたか?

毛涯: 水資源公団の第一工務部長に着任してまもなく,長良川河口堰の起工式が挙行されました。まさか反対運動が起こるとは想像もしていませんでした。天野礼子女史の「天然河川長良川を守る」の旗印に反対運動が始まったのです。建設反対派が一斉に出てきて,それにマスコミが飛びついて一気に問題化しました。その対応としては,公団は主に広報をやっていたのですが後手に回ってうまくいきませんでした。そうかといって主務大臣が出て行く訳にもいかず,近藤徹さんが河川局長の時に,長良川河口堰の問題については河川局が一丸となってやっていくという方針を打ち出したのです。最初はいろいろ小さい事があったのですが,毎日新聞が社説で反対意見を出してきました。

中野: 朝日新聞ではなく。

毛涯: 最初は毎日新聞で,それから朝日新聞が出て来て,最後に中立で意見をいう日経新聞までも反対という社説を書いた。それで,これはいかんというので,白パンと称した説明資料を作って記者クラブに持ち込んで説明したり,中部地建と水機構が手分けして県全部に説明資料を配布していった。それから河川局全員で国会議員に説明して回り,水公団は反対の人たちへ全部回った。人を中心にとにかく説明して回るのがメインでした。国会議員から県議会,市議会,いろんなところで先生一人につき一人ずつ担当を割り振ってヒアリングしました。この問題は,平成7年5月23日野坂建設大臣(社会党)が運用開始を宣言するまで続きました。その後,水資源協会では,運用開始後反対してきた人達にインタビューして,「公共事業とコミュニケーション」(中央大学増島先生指導)としてまとめました。



中野: そうですね。マスコミ側とすれば,ニュースになればという感じで,深く掘り下げずに第一報を出してしまいますからボタンを掛け違えると,どんどんずれて行きますからね。

毛涯: 河口堰問題では,公共事業と環境保護がクローズアップされてダム問題も含めて非常に大きな問題になりましたから,あれからマスコミ対応に対しては,資料を隠すのではなくて,きちんとしたものを全て出していく。積極的にマスコミ対応をやるようになりました。新聞で反対のところがあれば,すぐそれに対する意見を出し,また新聞にこっち側から資料を出すとか,建設省のマスコミ対応もものすごく変わりましたね。
若手技術者へ向けて

中野: 毛涯さんのお話をお聞きしていると,建設省に入られてすぐに水害に遭うところから始まった土木の世界でのお仕事ですが,今,若い技術者への応援メッセージがあればお聞かせください。

毛涯: 僕から若い人たちに何か言える程の力もありませんが,役所には大卒も高専も高卒も優秀な人が来ますが,僕の建設省時代からの経験を通じて言えば,他の官庁に比べて若い人の言うことをものすごく大事に聞いてくれるし,やらせてくれるところです。だから,自分で計画した物が,国民のために良いものを提供するという点では,どんどん考えて提案して欲しいと思います。土木というのは,未来のために計画して造り,それが地域のため,国民のためになっているかどうか,一連の流れを見ることが出来る,そういう夢のある仕事なので,精一杯頑張って欲しい。今は得点にならないかも知れないけれどもいつか,それが得点になるのだと。先輩から受け継いだことをまた受け継いでくださいと。

中野: 若い人にもダムの事を理解してぜひ来てほしいですね。

毛涯: 特にダムについては,常時,計画中も施工中も,また運用してからも末永く関われることができるので,これは本当に地域を,国を治めているという実感が湧きます。ぜひ来て欲しいですね。

女子大のゼミに八ッ場ダムが取り上げられた

中野: 最後に,東京女子大のゼミのお話をお聞かせください。八ッ場ダムについてまとめられた冊子「共に生きる ダムに沈む街 川原湯温泉」に毛涯さんがどのように関わっておられたのですか?

毛涯: これは,東京女子大学の現代文化学部コミュニケーション学科の日吉昭彦先生が指導するゼミの学生13名が公共事業とコミュニケーションをテーマに八ッ場ダムを取り上げ,当時,水資源協会とTCIで行なっていた反対派の人たちにインタビューするプロジェクトを手伝ってくれたものです。TCIの笠原さんという女性が東京女子大学の先輩で,彼女に日吉先生を紹介され,八ッ場ダム関係の資料をお貸ししたことから先生と接触することになりました。当時の澁谷所長,高橋副所長にも指導いただきダムには縁遠い全く素人の女子学生がこうして地元の人たちをインタビューしてまとめたことを評価したいと思います。

中野: そうですね。山木館に泊まり込んで,すごく頑張っているなと思います。

毛涯: これは平成19(2007)年にまとめられた冊子です。今は平成29(2017)年だからちょうど10年前ですね。出来れば山木館にもう一回来ていただいて,ダムの竣工前にもう一度皆さんで集まりませんかと声を掛けてみたいですね。その時はぜひご参加ください。

中野: はい,ありがとうございます。ぜひ参加させて頂きたいと思います。八ッ場ダムにはこれまで2度行きましたが温泉も良いところですからね。


東京女子大学ゼミナールでまとめた冊子表紙(現代文化部コミュニケーション学科 日吉昭彦ゼミナール
毛涯: 私の一番の思い出は八ッ場ダムです。

中野: 確かに大変なご苦労があったので大事ですね。人とのつながりで,毛涯さんはまさに人間力学でダムをやって来られたということですね。本日は,貴重なお話をたくさん伺えて良かったです。ありがとうございました。

(参考)毛涯卓郎さんプロフィール

昭和35年4月 建設省入省 中部地方建設局
       河川計画課配属
    7月 天竜川上流工事事務所調査課
  37年8月 狩野川砂防工事事務所
       調査係長
  38年8月 本局 企画室 企画係長
       長良川河口堰担当
  42年6月 磐田工事事務所工務第一課長
  46年4月 経済企画庁総合開発局
       水資源課 主査(出向)
  49年2月 関東地方建設局 鬼怒川ダム統合管理事務所長
  49年7月 〃 下館工事事務所長
  51年10月 〃 八ッ場ダム工事事務所長
       八ッ場ダム担当
  56年6月 〃 河川調査官
  57年9月 本省 開発課
       水源地域対策室長
  59年5月 水資源開発公団 霞ヶ浦開発建設部長(出向)
  63年6月 本社 第一工務部長
       長良川河口堰担当
平成3年4月 〃  常務参与
       長良川河口堰支援
  5年9月 (財)水資源協会 専務理事
  14年6月 (株)アクアテルス 社長
       特別顧問

[関連ダム]  小渋ダム  岩屋ダム  徳山ダム  阿木川ダム  小里川ダム  長島ダム  蓮ダム  長良川河口堰  八ッ場ダム  川治ダム
(2018年10月作成)
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