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ダムインタビュー(40)
唐澤一寛さんに聞く
「人にものを頼もうとする時は、こちらも誠意をもって付き合わなければいけない」
唐澤一寛(からさわ かずひろ)さんは、長野県木祖村の副村長をされておられます。木祖村は、中部地方随一の大河川・木曽川の源流の里を標榜する人口およそ3200人の小さな村。長野県の西南部に位置し、周囲を2000m級の山々に囲まれた山村です。少ない人口の割に面積は1689平方キロメートルと非常に大きく、四国の香川県に匹敵する広さです。また、戦国時代から中山道の峠越えの要所として栄えた村として、長い歴史があります。
今回は、唐澤さんにこの村にある味噌川ダムをめぐってのさまざまな取り組み、例えば、村民が自ら議論して策定していった「
水源地域ビジョン
」が、どのようにダムの上下流の人々を結びつけているのか、下流の人がダムのことを意識するようになるきっかけは何かなどをお聞きしてみたいと思います。
(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)
木曽の祖という意味で、木祖村
中野:
役場勤めが長いとお聞きしましたが、唐澤さんはどのような経緯で役場に入られたのでしょうか?
唐澤:
私はもともと測量設計コンサルタントの会社に勤めていました。ちょうど日本列島改造論が盛り上がっていた頃でしたが、昭和52年に味噌川ダムの建設推進を公約として日野文平さんが村長に当選し、過疎化が進む村を立て直したいということで、インフラ整備に明るい技術屋を求めていました。その時村長から要請されて役場に入りました。その後もずっと村役場で仕事をしてきて、現在は副村長をしております。
中野:
今で言うヘッドハンティングされた感じだったのですね。それでは、木祖村という所が、どのような村か、基本的な情報を伺いたいと思います。
唐澤:
木祖村は、木曽川の最上流にある村ということで「木曽川源流の里」と称しています。地理的には、長野県の西南端にあり、周囲を2000m級の山々に囲まれた典型的な山村です。村の東側にある鳥居峠は、太平洋側に注ぐ木曽川と日本海側に注ぐ信濃川の分水嶺になっています。木曽川は鉢盛山を源として伊勢湾までおよそ229km流れていきます。山深い土地ですが、昔からの街道沿いにあり、村の真ん中を国道19号線が走り、鉄道も中央本線が走っています。
2011年の国勢調査で人口は3,215人、そのうち高齢者数は1,132人で、過疎化と高齢化が同時進行しています。
中野:
主な産業、地域の特産品などについてはいかがでしょうか。
「お六櫛」
唐澤:
産業としては農林畜産業が盛んで、地域ブランドとしては「御嶽白菜」や「木曽牛」、それと江戸時代からある「お六櫛」という櫛細工が有名です。木製の櫛では、つげの櫛が有名ですが、村ではミネバリ(カバノキ科の落葉高木)という木で作っています。これは大変に堅い木で、別名、斧折れカンバと呼ばれています。昔、妻籠宿のお六という娘が持病の頭痛に悩み御嶽山に治癒を祈ったところ、御嶽権現からミネバリで櫛を作り、それで髪をとかせば良いというお告げを受け、その通りにしたところ頭痛が治ったという伝説があります。江戸時代から明治中頃にかけて、盛んにこの櫛が生産、販売されてきました。主に行商人の背中に担がれ、中山道を通って江戸に運ばれていました。昔から、木祖村の中心部になっている薮原宿辺りでは、田んぼが余り無くても、木櫛を売って食べてこれたのです。今は、後継者不足で厳しい状況ですが、次世代の担い手を育てていこうと頑張っています。
関が原の戦いの後、家康の領地になる
中野:
昔は平家の落人のような人たちも住んでいたという言い伝えもあるそうですが、村の歴史はどのようなものでしょうか?
唐澤:
木曽の一帯は、信濃の国と美濃の国の境で、古くは平安末期まで遡ることができ、治めていた武将には、武田信玄などよく知られた名前があります。木祖村には、藪原宿がありますが、これは木曽11宿と呼ばれる宿場町の一つで、中山道六十九次の宿場として栄えていました。木曽路の最大の難所といわれたのが鳥居峠で、その手前に薮原宿があり、旅人は泊まってから峠越えをしました。反対側の奈良井宿とは鳥居峠を境に共に栄えたそうです。鳥居峠と呼ぶようになったのは、戦国時代に木曽の領主である木曽義元が松本の小笠原氏と戦ったとき、御嶽権現に戦勝祈願をして、勝利をおさめることができたので、そのお礼としてここに鳥居を建てたことから鳥居峠と呼ぶようになったといわれています。
中野:
江戸時代には、長らく尾張藩の直轄地だったとも聞きますが。
唐澤:
慶長5(1600)年、関が原の戦いの後に、徳川家康がこの辺り一帯を領地にしたことで、後に尾張藩の直轄地にされました。当時は、山の木を勝手に伐採しないように厳しく管理されていたということです。その代償として木曽には年に一万石が与えられており、山の資源を守るために保護されていたという側面もあります。
80年の歴史、やぶはら高原スキー場
中野:
大変、歴史がある村ですね。今は観光や農林業で地域振興を図っているとの事ですが、観光資源としてはどういったものがあるのでしょうか?
唐澤:
村の観光資源の一つに「やぶはら高原スキー場」があります。ここは長野県のスキー場でも古く、およそ80年の歴史があります。道路のアクセスが良くなったことで集客数を伸ばしています。例えば、このスキー場は国道からわずか15分です。山道をたくさん走らなくても来られるし、除雪対策もしっかりやっているので、極端なことを言えばノーマルタイヤのままでも来ることができるほどです。だから、里のスキー場というキャッチフレーズで宣伝したのが良かったと思います。スキーが最盛期だった昭和の時代は20万人のお客さんが来ましたが、バブル崩壊後は1/3にまで減り、今期は6万7千人程度です。それでも昨年より4%増えました。
やぶはら高原スキー場
中野:
スキー場に力を入れたのは何かきっかけがあったのですか?
唐澤:
大合併が話題になった平成16年、木祖村は市町村合併をせず、自立していく道を選びました。その頃までスキー場は村営
リフト
と民間2社のリフトで運営していたのですが、自立経営をめざすということで、新しく作る一つの会社に絞り、体制を入れ替えて平成17年から新たにスタートしました。村営から民営化して、いろんなアイデアが出てきましたし、伊那谷にトンネルが出来て松本や塩尻方面からのお客が増えたことなどもあり、自立したタイミングとインフラ整備の力が大きかったと思います。
夏に人気の施設、「こだまの森」
中野:
スキー場は冬の施設です、他の季節はどうなのでしょうか?
唐澤:
かつて村にはこのスキー場くらいしか観光の目玉になるものがなかったのですが、味噌川ダムを造るにあたり、ダム対策振興事業ということで、オールシーズン型の観光事業ができるように計画を立てることができました。今の時代だったら、自然環境を守れとか言って反対されるかも知れませんが、ダム工事の際に出てきた残土で谷を埋め、平らにして、サッカーグラウンドとかキャンプ場を造成しました。それで夏にもお客さんが来てくれるようになり、昨年実績で7万人くらいの来場がありました。大半は名古屋など都会からのお客さんで、避暑地として来てくれます。
この時造った施設の名が「こだまの森」と言います。やぶはら高原スキー場と同じ会社が管理をしています。
やぶはら高原こだまの森
会社としては夏も冬も営業ができるので地域の雇用対策にもなります。付近の民宿もGWや週末は、満室になる割合が高く、大きな芝生のグラウンドが二面あり、主にサッカーやラグビーなどの練習場所として、春、夏、秋と合宿場所になっています。施設内には、50mの大滑り台など子供向けの遊具を取り揃えたちびっこ広場があり、コテージ、キャンプ場、周辺の民宿があります。「こだまの森」そのものは、入場無料なので、近辺の保育園や幼稚園の子供たちがバスでやってきて一日遊んで帰ることもできます。
水木沢天然林の湧水が水百選に
中野:
村には相当な数の観光客が訪れるようですが、他に何か特徴的なものはありますか?
唐澤:
村の特産品としては、江戸時代から守られてきた森の木があります。尾張藩は、乱獲で山が荒れるのを防ぐため、ヒノキなど数種類の木種の伐採を禁じ、厳重に管理して森を守りました。特に面白いのはキハダで、この木の皮は漢方薬の胃薬の材料として売れるのです。
もう一つ「水木沢」という天然林があります。ここは国有林ですが樹齢およそ300から400年の木々が繁っており、広さが80ヘクタールほどあります。かつて国の財政難から林野庁が切ると言い出したことがありましたが、子孫に残したい森だとお願いし、平成3年に長野営林署と保存協定を結んで、郷土の森の指定を受けました。観光客にも見てもらうようにし、平成4年からは、村の予算で、
管理棟
を建て遊歩道やトイレも整備して一般開放しました。
水木沢天然林
平成20年の洞爺湖サミット開催にちなみ、環境省が平成の水百選を発表した時、この「水木沢の水」も選ばれ、水木沢の水の知名度が上がり、自然がそのまま残っていることから癒しの森の水といって人気が出ました。サワラ、ヒノキ、ブナなど、広葉樹も針葉樹もある混交林なので切らずに残して本当によかったと思います。
中野:
村は、ダムによる交付金や補助金をただ貰うだけでなく、ちゃんと自らが生き残れるように事業計画を立てて、地元で活用する知恵を出したということでしょうか。
唐澤:
一応、村として自立しようと決意して、みんなが結束できたのが良かったと思います。
観光客を集める、村独自のイベント
中野:
そうした観光資源の他、木祖村三大イベントというのがあるそうですが?
唐澤:
三大イベントは、「いわな釣り大会」「ハーフマラソン大会」「日曜画家展」で、どの事業もかなり長く続いています。「いわな釣り大会」は、川にたくさんのスタッフを配置して予算がかかる割に、お客さんが泊まってくれないなど、売り上げになりにくいので正直辛いところです。かつては木曽川周辺のあちこちの村で、釣り大会をやっていましたが、今はみなやめてしまい、続けているのは木祖村くらいです。うちは源流の村というポジションなので続けています。今年も6月の始めにやります。(平成24年6月2~3日)釣りたい人は、こちらに来て入漁権を買ってもらえれば村のどこの沢でも釣れます。毎年、大勢の太公望が来てくれます。
中野:
マラソン大会も人気で、走る人が年々増えているそうですが。
唐澤:
ハーフマラソン大会は26回目になります。実施は7月。真夏にマラソン大会なんてどこもやりませんが、木祖村は涼しいから大丈夫です。ただアップダウンがすごくきついコースです。一度走った人はもうやりたくないと言いつつも、けっこう繰り返し来ます。応募は増えていますが、走るのは2000人が限界だということで、先着順で締切っています。ランナーには、応援する人も一緒に来ますので全体としてはこの3倍の人数、およそ6000人が村に来てくれます。地元の民宿、近辺のラーメン屋さんやスーパーにとっても大きな経済効果になる重要なイベントです。マラソンコースとしては、ダム湖に沿ってこだまの森を経て奧木曽湖を回ってくるので、味噌川ダムなしでは出来ません。このイベントは村じゅう総出で裏方をやります。
中野:
日曜画家展というのは、どういうものですか?
唐澤:
これは、アマチュアの絵描きさんを対象にしたものです。村の特産が木工製品ということで、従来から額縁とかキャンバスの枠とか、イーゼルといった製品の生産が全国でもランク入りしているほどでした。この催しは、昭和56年に村を「日曜画家の村」として宣伝しようと日野文平村長が名付けたのです。人気のイベントになったのは、武重善博村長が一宮市の市長室に伺ったとき、当時の市長のお父さんが絵画教室をやっておられるということ聞き、村長が、「ぜひ、木祖村に絵を描きに来てください」と頼んだら、バスで絵画教室の生徒さんを連れてきてくれた。それから、一宮市からたくさんの応募があり、アマチュアの絵画イベントとして定着したのです。毎回キャンバスや絵画道具の即売会をやったりして賑わいます。これも上流の村と下流の町の人の良い交流の場になり、現在につながっているのだと思います。
味噌川は、未曽川
味噌川ダム(撮影:Dam master)
中野:
味噌川ダムの名前には由来があるそうですが、どのようなものでしょうか?
唐澤:
ダムというか味噌川そのものの名前ですね。今はダムから伊勢湾まで一本通して木曽川と呼ばれていますが、鉢盛山から流れ出た小さな川が木祖村の小木曽というところで笹川と合流します。それが味噌川です。古くは木曽川を「曽川」と言ったことから、源流地域では「未だ曽川でない」という言い方があり、それで「未曽川」と言っていたらしいのですが、いつの間にか「味噌」の字になっていったという説があります。一方で、川の水が「味噌のように濁るから味噌川」だという説もありますが、昔は尾張藩が厳重に監視して大事にしていた山ですから、そういう濁りの言い伝えは疑問に思われます。
中野:
味噌川ダムは、日本一標高の高いところにある、木曽川最上流のダムということですが、いくつもの町の水源になっていると聞きました。
唐澤:
味噌川ダムは昭和46年に予備調査が始まり、昭和57年に着工しましたが完成は平成8年で、およそ24年の歳月がかかっています。完成当時は、標高日本一でしたが、今は山梨県の琴川ダムに抜かれて二位です。琴川ダムは標高1,464mで味噌川ダムは1,130mです。
総貯水容量
は、およそ6100万tということで、諏訪湖とだいたい同じです。それでも徳山ダムの1/10程度です。
この水が、どこの水源になっているかというと、愛知県と岐阜県、それと名古屋市が水道用水の
水利権
を持っており、さらに愛知県は工業用水も取っています。水道用水としては、愛知県内では9市2町(名古屋市、瀬戸市、春日井市、刈谷市、東海市、大府市、高浜市、尾張旭市、長久手市、日進町、東郷町)岐阜県内では5市(中津川市、恵那市、瑞浪市、土岐市、多治見市)が水道に利用していて、毎日およそ385万人に水道を供給していることになります。
中野:
ダム周辺の自然環境についてはどうでしょうか?クマタカの営巣地などもあるということですが、ダムが出来てからも自然は守られていますか。
唐澤:
味噌川ダム周辺は、木曽の山々に囲まれた豊かな自然がいっぱいで、クマタカなど稀少種といわれるさまざまな動植物が生息しています。味噌川ダム管理所では、クマタカの行動を観察し、経年的な繁殖の有無などを把握することを目的として、クマタカ調査を行っています。クマタカは経年で確認されていて、今は2ペアの繁殖が確認されています。
猛禽類
にとって良好な森林環境が維持されています。
中野:
ダム湖に流入する川には、
貯砂ダム
が設けられているそうですが、他に特徴のある施設ありますか。
唐澤:
貯砂ダムは、流入河川によって運ばれる土砂がダム湖へ流入する前に貯留させる施設です。貯砂ダムには
魚道
が設置され、ヤマトイワナ、アマゴ等の渓流魚が自由に移動できるようにしています。また、貯水池にある
取水塔
は表面取水方式を採用していて、表面の暖かく澄んだ水を取水して下流に流すようにしています。
ダムの水は、多くの人の水道に
中野:
以前、牧尾ダムが
渇水
になった時に、味噌川ダムから放流して助けたことがあったと聞きますが、どういうことですか?
唐澤:
それは、まだ味噌川ダムが完成する前だったと思います。水が溜まる前に放流したので、確か一年ほど竣工が遅れました。味噌川ダムが出来てからは、名古屋市は渇水で水道に困るということは全くないと言っても過言ではないと思います。下流域では何年かに一回は渇水を起こして苦労してくれた方が上流の有り難味がわかるのではないかと思ってもみますが。ダムがなかった頃は水の心配をするが、ダムが出来てからは、いつでも水が出てくるのが当たり前になってしまい、水の有り難さを感じることがなくなってしまうので、いろんな地域の人と交流することで、木祖村はこういう村なのだということを知ってもらい、毎日自分たちが飲んでいる水が木祖村から来ているということを解ってもらうのが大事だと思っています。
商工会の付き合いから自治体の提携へ
中野:
交流ということで、日進町(現在は日進市)との事が知られていますが、それはどういうきっかけからでしょうか?
唐澤:
まだ日進町ですから昭和50年代のことです。日進町は名古屋市のすぐ隣でベットタウンとして発展しており、どんどん大型店が入ってきたので、町ではどういう街づくりをしていくか商工会の青年部の人たちは悩んでいました。
一方木祖村の青年部もなかなか村の地域再生のきっかけがつかめなくて悩んでいました。それが、たまたま商工会の付き合いを通じて会ったということで、同じような悩みを持つもの同士が意気投合して、付き合いが深まったと聞いています。それで、商工会同士で平成元年に提携して、民間同士が仲良くなっていきました。当時の青年部にいた者が、なかなかのやり手で、彼に引っ張られるようにして、村も日進町に行くようになり、平成4年には自治体同士が友好提携を結んだのです。
下流の町の名前で、森を作る
中野:
始めは、商工会の青年部との付き合いからだったのですね。「平成日進の森」ができたのも、その活動の延長ですか?
唐澤:
ダムができるにあたり、周りの国有林は営林署が木を切ったのですが、その後はとくに植林も計画されていませんでした。そうした中、友好提携の話が具体化するうちに、当時の中村村長が、下流域にあたる日進町の山田町長に、木曽川上流域の自治体として森林保全が大切なのだが予算もないので、下流域にあたる日進町の皆さんに、自分たちのところに来る水道のもとになる森の木を守ってくれないかと頼んだのです。そうしたら山田町長さんは上流域の森林の大切さを解ってくれ、議会も全会一致で応援しようという話になり、平成5年4月に、長野営林局とも協議して分収造林事業の契約に調印することができました。この計画で、日進町では7400万円ほどの基金を作ってくれました。それで「平成日進の森」と命名し、平成10年までの間に32ヘクタールの土地にヒノキ8万本を植える活動をしました。それから、今年でちょうど20周年なりますので、市民がたくさん来て村民と一緒になって山の手入れをしてくれています。毎年、日進市のお金で、下草刈りだとか、枝打ち、間伐だとかの作業を村の森林組合に委託して山の手入れをしています。
中野:
「自分たちの水源は自分たちで守る」というダムの上下流が連携した森林保護、水源地涵養といった水源地保全への取り組みが評価され、ダム協会のダム建設功績者表彰でも受章されましたが、日進市の人にとっても自分たちの水道の源の森をPRしてもらえれば、水の無駄遣いも減るというものでしょうね。
唐澤:
日進市のど真ん中を流れているのが愛知用水で、昭和36年に牧尾ダムができたときに木曽川の水を引きました。日進市民にとっては大事な水です。さらに上流に味噌川ダムができて、自分たちの飲んでいる水が、木曽川の源流の木祖村から来ているということを商工会の青年部の人もわかってくれたのです。毎日飲んでいる水が、いつまでも安全安心なものであるためには、源流の森が大切で山造りをしていかないといけないと、市長さんや議長さんにも説明して、みんなに理解してもらったということです。
木祖村に来てもらうには?
中野:
日進市とは、そういう意味で上下流での交流事業を通じて、いろいろ理解を深めているようですが、他にはどうですか。
唐澤:
名古屋市とは、ダムの計画時から建設中もずっと交流をしていましたし、担当部署の人とも時々一杯飲んだりしていましたから、お互いに分かり合っていたのですが、問題は、一般の人にとってはダムが出来たので断水の心配もなくなり、便利な暮らしになって、蛇口をひねれば水が出るのは当たり前ということになった結果源流の木祖村のことを忘れてしまうということです。それでは困るのでいろいろ相談をしました。
中野:
具体的にはどういう話になっていったのでしょうか?
唐澤:
全国的に6月の第一週は水道週間でいろんな事業が催されます。名古屋市には浄水場が何箇所もありますが、そこで6月の最初の日曜日に名古屋市の浄水場を一般開放して、物産展や郷土芸能などをやって人を集めるイベントを企画します。
そこに上流域からも参加をすればモノも売れるし、木祖村を知ってもらえ、いろんなPRができます。今では、毎年恒例となり期間中は1万人くらいの人が来てくれるようになりました。
次に「木曽川さんありがとう」というイベントをやるようになり、毎年、名古屋市から親子で50組、100人の皆さんに村に来てもらい、山の手入れやどんぐりの苗木を植えてもらい森の大切さを体験して貰っています。また名古屋市上下水道局に入って2年目の若い職員と新任課長になった人100人くらいが一泊二日で木祖村に職員研修に来てくれ、源流の山の手入れをして山仕事の大変さを実感してもらっています。
人が人を呼ぶ、絆のあるお付き合い
中野:
お話を伺っていると、それぞれキーパーソンのような方がいらっしゃるのですね。やはり人との付き合いから村と町の交流も始まるのでしょうか。
唐澤:
私からは相手の心に届くように一生懸命説明しますが、もう一つのコツは、応えてくれる人がいる時に仕掛けないといけないということです。説明を聞き流したり、上辺を繕うような人では相手にならない。例えば、今はもう退職されていますが、名古屋の副市長の山田さんという方は、平成17年に村立スキー場を民営化しようという時に、出資金集めの相談に行ったところ、自分は公務員だからあまり出せないけれどと、他の人に声をかけくれて出資金を集め、その他に出資してくれそうな人を紹介すると言って、名古屋市の上下水道局の指定工事店組合に連れていってくれました。そこで理事をされていた設備会社の社長の鷲見さんにお会いして、スキー場を村営ではなく民営化させようと思っていますので、出資をお願いしますと直接相談しました。そうしたら300万円の出資をしてくれました。鷲見さんは、木祖村が出張所を名古屋に出すことになった時も、自分の会社の一部を事務所に貸してくれ、アンテナショップの店舗も係わっていただきました。そういう方々がおられたから、いろんな事を進めてこれたと思っています。
中野:
木曽川の源流の村という事で、やはり水道の業界にご縁があるのですね。桜山マーケットというのはどういう事例ですか?
唐澤:
木祖村のアンテナショップです。これは、名古屋の桜山にある商店街がシャッター商店街になりつつあって、空店舗をなんとか利活用しようとしていたのですが、たまたまそこの商店街の店のトイレを直すことになって、さっき言いました鷲見さんの会社に修理を頼んだのです。それを担当した常務さんが、ここの商店街の理事さんとたまたま友達で、木祖村の話をしたら一度会わせてくれということになり、話がとんとん拍子に進んで、商店街で空いている店舗を借りて、アンテナショップにしたということです。
女子学生のアイデアで村の特産品開発
中野:
アンテナショップでは、どんなものを売っているのですか?
唐澤:
主には村の特産品や農産物ですが、このアンテナショップの近くに椙山女子学園というのがあり、そこの女子大生がいろいろ商品開発に知恵を出してくれています。その一つが商店街の名前をとって付けられた「桜サイダー」。サイダーにする水は、味噌川ダムの湧水を持っていきます。他にも、牛スジカレー、とうもろこしスープ、山菜コロッケとか考えてくれて、商店街で売れるようにしてくれました。それと、ただ野菜を売るだけではなく、5円、10円で売るような駄菓子も扱うようにしたので、子供たちにも人気になっています。こうした例が出てくると、それを新聞やテレビが取り上げてくれて、PRしてくれます。要はアイデア次第でいろんな事ができるということです。
村民が議論して決めた、水源地ビジョン
中野:
ダムを巡っては、村では水源地ビジョンという自前の構想も掲げていらっしゃいますが、それはどういう内容でしょうか?
唐澤:
水源地ビジョンは、ダムが造られるのに合わせて、村をどうしようかという構想で平成12年に手がけました。企画するのに、国から500万円の予算をつけてもらい自分たちで中身を議論して決めました。ちょうど市町村合併の話が出てきた頃でしたが、結果として我々としては合併せず、村として自立して生きていこうということになりました。ダムが出来たといっても、いつまでも水資源機構が村にお金を出してくれるものではないので、村民自身が汗も知恵も出してやっていこうと地域の住民の意見がまとまったのです。
ダムは観光資源にはならないもの?
中野:
ダムが出来ることで村の活性化に役立てようと、観光資源にと考えられたのでしょうか?
唐澤:
味噌川ダムというのは、行き止まりにあるので、わざわざ人は来ないですね。単純に何か出来たら人が来るだろうというのは間違いです。もっと深いところから自分たちの将来を見据えて考えていかないといけない。
実は、ダム事業は地元にとっては、過疎に拍車をかけるものだということも痛感しました。工事中はたくさん人が来て賑わい、また地元の雇用にも役立ちます。当時も、現場事務所で村の娘さんたちが働かせてもらいましたが、事務所の人と結婚して村から20人ほど出て行ってしまいました。これも
補償
費に組み込んでおけば良かったとあとで思いましたが。
ダムが完成すると、水が引くように人が減り、村は静かになりました。仕事も少なくなり、さてどうするかと。まさに岐路に立ったという感じでした。当時の村長は、武重さんでしたが、これからが本当の村のダムづくりだというのを基本方針にして、本格的な水と緑をベースにした上下流の交流事業の柱を作って、地域の活性化をはかっていこうという意識になったのです。
中野:
ダムが出来た後も、村として自立して生き続けたいという気持ちになったのが良かったのでしょうか?
唐澤:
それまで、行政が主導するようにして、交流事業などを進めてきていたのですが、どうしても何か足りない、壁を越えられないような部分があると、私自身も感じていました。それは、どういうことかというと、つまり自分が将来、本当にこの村に住み続けたいかどうか。そこが本当でないと、交流事業といっても、下流の人も村がすてきな場所だと思ってくれないだろうということに、村のみんなが気づいたのです。だから、まず自分たちの村の事を知って、地域のことに誇りを持とうということになり、そこから始めて行ったのが、この水源地ビジョンでした。
中野:
つまり、村の良いところを見つけていって、計画を作ったのですね?
唐澤:
地域の問題を掘り起こしていく中で、他地域との交流をどのように広げようかと自分たちで考えました。こういう計画づくりを安易にコンサルタントに頼んだりすると、村の者でない第三者が、どこかの企画をタタキ台にしたような案を持ってきて提案してくれますが、それは、どうしても絵に描いた餅になるだろうから、村民が自分たちで集まって議論し、そこで話したことを文字にする。すると、自分が言ったことが具体的なると、することに責任を持つようになります。
中野:
具体的には、どういうことをおやりになったのですか?
唐澤:
議論を進める中で、仲間づくりや情報収集しようということで、木曽川源流の里ビジョンを策定しました。その一つが、まず村をきれいにして、外から村に来てくれた人が、ここはすごくきれいな村だなと思ってくれるようにするという意味で「四季の彩プロジェクト」というものです。景観だとか、環境について、計画、検討をするプロジェクトで、河川清掃、草刈り作業、川の駅整備を実施。ふるさと案内人養成講座、水の始発駅フォーラム等の企画の「遊牧民プロジェクト」。それに、他地域から村に来てもらい、いろんなことを体験してもらう「体験・学びのプロジェクト」(カヌー体験、鉢盛登山、星空観察会、糸鋸おもちゃフェスティバル)。おいしいものや村の特産を商品開発する「食の塩梅プロジェクト」(日進市産業祭り出店、水の始発駅フォーラム試食会、源流夏まつり試食会、サマーキャンプでの郷土料理)というのを策定し、これら全体を木曽川源流の里ビジョンとしてまとめ、順次実施してきました。
今は、構想から13年ほど経ちますが、事業主体となるNPO法人を立ちあげて取り組んできて、ほぼ事業的には成功していると思います。
村同士が集まって広域連合を
中野:
それだけではなく、他の地域も巻き込んだ広域連合というものにも取り組まれているとか?
唐澤:
これは、市町村合併が出てくる前の話になりますが、ごみ処理や、し尿だとか、介護保険だとか消防とかいう、共通の行政事務を個別地域でやっていたのでは、お金を使うばかりで将来の財政負担が大きくなる。そこで、木曽郡11町村が集まり平成11年に共同でもう一つ別に役場を作るという考え方で、地方自治法の中にある広域連合というのを立ち上げました。でも、広域連合は金を使うだけなので、逆にお金を生み出すようなこともやってみようということになり、木祖村で取り組んでいる上下流の交流事業を広げて、木曽全体でやってみたらと提案したら、どの首長さんからも賛成を頂きました。
従来は、木祖村だけで名古屋や一の宮に行ったりしていましが、それを広域連合全体でやろうということです。日進市、長久手市、豊明市、三好市、東郷町の4市1町の構成からなる愛知中部水道企業団に、木曽川の水源の森を整備するにもお金がいるので、水道使用者の人からなんとかお金を負担して貰えないだろうかと話してみたのです。1トンにつき1円を、水道代に上乗せして木曽の森づくりのために送ってくれないかという提案です。それが広域連合でお金を生み出すことの一つです。
水道を通じて、下流と交流を結ぶ
中野:
上流でも他地域を巻き込み、下流でも複数の団体を集めているのですね。
唐澤:
これがまとまりまして、木曽広域連合と愛知中部水道企業団における「木曽川水源の森整備協定」として、平成15年に締結することができました。今では、年間で2200〜2400万円の基金が木曽の森づくりのために集まります。
水を飲む人たちが、安心安全な水を送ってくれという思いでお金を出してくれています。そのお金で山の保全をやっているのです。これは、木曽川の上下流の絆というか、お互いの信頼関係で結ばれていないとできないので、将来はこの方式を名古屋市にも広げていければと思っています。
だいたい水の問題というのは、人口の増減、経済の活性化、産業や農業の振興という人の営みと大きく関わりますから、今はもう十分というのではなく、将来どうしていきたいかを考えて、50年、100年先を見てやっていくべきだと思います。それと、これからは少子高齢化の時代だからもう水はいらない、という考えで思考停止してはいけないと感じます。何かこうありたいということを願わないと…。逆に、願わなければ何も叶いませんし。
中野:
東日本大震災を経て、地域の人のつながり、絆というものが地域社会の活性化、発展には欠かせないものとして、あらためてクローズアップされました。木祖村では、日頃の上下流域の交流を行うことでこうした絆づくりを実践されてこられたと思いますが、どういう点が良かった、こんな成果があったと感じていらっしゃいますか?
唐澤:
愛知県の南端に南知多町という町があります。木曽川は、愛知県西部で伊勢湾に流れていますが、まっすぐに流れると南知多町に届きます。この町には6つの漁協があります。以前、町長と漁協の組合長が揃って木祖村に来てくれました。おいしい魚や貝、のりが取れるのは木曽川がミネラルたっぷりの美味しい水を伊勢湾に運んでくれるからだといって、これらの漁協の方が山の整備を手伝ってくれるというのです。昔は、木曽の山奥ではとても考えられなかったが、今は川や環境のことの知識が広まったので、海の人もそうして山に来てくれるようになりました。
村のPRにふるさと大使を任命
中野:
上下流域交流事業は、ダムのある村づくりには、とても有効だと思いますが、今後については、どういう新しいアイデアをお持ちでしょうか?
唐澤:
何かことを行うにはすべて人間だからということから出発すれば良いと思います。何か考えたら、それに応えてくれるのはまず人間だから。今、村では、木祖村大好き人間を増やし、ファンを探そうと思って「木祖村ふるさと大使」というのを始めました。手弁当でも木祖村のために汗をかいてくれる人に、ふるさと大使になってもらいたいと思って、今は2人の方にお願いしています。
お一人は、上野和彦さん。この人は売れっ子の美容師さんで日進市に住んでおられますが、木祖村と友好自治体提携を結んでいることから、木祖村のお六櫛を使ってみたらと日進市長に紹介されて、2010年に開催された上海万博のヘアショーでモデルさんの髪をセットするのに、木祖村のお六櫛を使ってくれました。それで、櫛のことが新聞に大きく載り、お六櫛を広めていただいたので、村長がお礼を言いに行きました。そこから話が広まり、結果的に「ふるさと大使」に任命しました。
上野さんは、相撲界、角界の方とも親しく、横綱から大関などみんなにPRしてくれたのです。それに芸能業界にも親交があって名古屋で坂本冬美さんのショーがあったので、村長も呼んでもらい木祖村の事をPRすることができました。そうしているうちに、頭の髪だけじゃなくて、眉毛、髭用とか、いろんな部位の手入れをする櫛を村の業者に依頼された結果、15万円ほどの売上金の一部を持ってきてくれました。
あと一宮市に、岩田さんという方がいらして、手弁当で村のことをPRしてくださっています。
人にものを頼もうとする時は、こちらも誠意をもって付き合わなければいけないと常に思っています。
全国から源流の里を集めて、水源地サミット
中野:
水にまつわるいろんなアイデアが湧いてくるようですが、他にもまだありますか?
唐澤:
それ以外には、全国源流の郷協議会というのがあり、これが全国の14の地域が集まっています。事務局が多摩川の源流の小菅村という所がやっています。
多摩川の源流は小菅村、木曽川の源流は木祖村、長野県の千曲川の源流の川上村だとか、相模川、ここは横浜の水がめですが、源流は山梨県の道志村です。源流の村は同じような悩みを抱えています。源流といえば聞こえはいいけど、山奥で、過疎地で、だけど、みんなどう生きていくかを精一杯考えています。そういう人たちが互いに情報を共有して、例えば国交省とか、農水省とか国などの機関にいろいろものを言っていこうとういうことです。
平成20年に、木祖村で第9回源流シンポジウムを開催しました。すべて村民の手作りのシンポジウムで、歓迎パーティの食事も地元の奥様方の手作り郷土食でおもてなしをし、びっくりする程多くの人が参加してくれ、遠くより訪れたお客様は満足して帰られました。木祖村の底力を知りました。
小菅村には「源流大学」というのがあります。ここの中村さんという人は、多摩川の源流について、大学生などを集めていろいろ勉強会をやっています。これからは、そういうのも参考に、木曽川の源流で、元気で、活気のある村づくりを考えていこうと思っています。
中野:
本日は、貴重なお話をありがとうございました。
(参考)唐澤一寛さん プロフィール
唐澤 一寛 (からさわ かずひろ)
長野県木曽郡木祖村 副村長
昭和42年 岐阜市大日コンサルタント鞄社
昭和47年 活タ藤測量設計事務所入社
昭和53年 木祖村役場勤務
平成 1 年 木祖村役場建設課長
平成13年 木祖村収入役
平成 15年 木祖村助役
平成19 年 木祖村副村長
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(2012年8月作成)
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