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ダムインタビュー(54)
大町達夫先生に聞く
「ダム技術は、国土強靱化にも大きく寄与できると思います」

 大町達夫(おおまち たつお)先生は、東京大学工学部を卒業後、大学院に進学され、博士課程を修了された昭和49年に電源開発株式会社に入社されました。そこで、ダムの設計や建設現場を経験された後、昭和54年に東京工業大学助教授に就任されました。専門分野は地震工学で、主にダム等における土木施設の耐震性調査や直下地震による地震動の影響や津波の高精度予測、また地震防災教育等を研究されてきました。
 大町先生は、大規模な直下地震は土木施設に対する破壊力が極めて強く、非常に危険性が高いのに、日本のような地震国であっても観測記録が少ないために十分に理解されていなかったことから、地道な現地調査を重ね、観測データを基に直下地震工学という新分野の研究に取り組み、日本自然災害学会会長、日本地震工学会会長やダム工学会会長を歴任、常に土木分野の耐震技術に関わる人たちを牽引して来られました。


 平成7年(1995)の阪神淡路大震災では、橋梁や港湾施設等とは対照的に大きなダムは被災を免れましたが、平成16年の新潟県中越地震や平成23年東日本大震災ではいくつかのダムにおいて被害が発生しました。今回は、大町先生の土木技術に対する思いや、ダムの耐震対策に取り組まれた経緯などについてお伺いします。
(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)



広島にて原爆投下3日前に生まれる

中野: インタビューに先立ち東京工業大学での最終講義のレポートを拝見しました。その中で、先生は生い立ちについて奇跡的とも言えるご経験をなされたとお書きになっておられますので、少々立ち入った質問で申し訳ありませんがお伺いしようと思いました。広島では生後3日後に被爆されておられるのですか?

大町: 私が生まれた時のことについてまるで母親のお腹から覗いているかのような書き方になり、人からは「自分でどこまで判っているのか」と言われたこともありますが、一度どこかで書いておきたいと思って、機会があったので書かせて貰ったのです。私は昭和20年8月3日に広島で生まれました。原爆投下の3日前です。場所は、昨年大きな水害があった広島市安佐南区、昔は広島県安佐郡緑井町という地区でした。家族がその辺りに疎開していたようです。
 広島平和記念資料館に行くと、いろいろ資料がありますが、その中に爆心から数kmまでは壊滅的な被害だったが、その外側になるとだんだん被害が少なくなるというような図があって、私がいた場所は5km程離れていたのだと思います。生まれた日は金曜日で、生まれてすぐに風邪を引いたように高熱が出ましたが、田舎の小さな産院では手に負えないので、6日の月曜日になったら、市内の大きな病院へ行くことになっていたらしいのですが、当日の朝はもう熱が下がっていたので、少し様子をみるかということになりました。母と私がいた病室は2階だったのですが、ガラス窓と障子戸を開けて掃除をして、母が窓の外を見ていたらB29が高い空を飛んで来てグルっと回って落下傘を投下し飛び去ったと言います。しばらくすると市の中心部でピカッと光って続いてドーンという爆音とともに強烈な風が押し寄せて来たので、思わず母は私の上に覆いかぶさったと聞きました。

中野: まさに間一髪というか、6日の朝、市内の大きな病院に出掛けておられたら、爆発に巻き込まれていたということですね。

大町: 爆発したのが朝の8時15分ですから、恐らくは市内の病院に向かう路上にいて助からなかったと思います。その後、私が小学校4年生、10歳まで広島で暮らし、その後は家族で東京に引っ越しました。広島の親戚には原爆で亡くなった人や生き残っても急速に白血球が少なくなる原爆症で苦しんだ人もいました。私が生きていられたのは全く幸運だったのだと思います。なので、大人になって酒の席になると「私は生まれて3日後から余生を送っている」という冗談を言って来ました。

中野: すごく幸運だったのですね。小学校のお友達の中には原爆症で辛い思いをされた方もいるのではないですか?

大町: だいたい学校に来られる人は元気でしたから、そんなに沢山の生徒が苦しんでいる様子はありませんでした。が、中には比治山のABCC(米国の原爆障害調査委員会)から月に1度くらい車が迎えに来て授業を中座して検査に行くという人もいましたね。

東大で土木技術に目覚める

中野: その後、広島から東京に引っ越され、やがて土木やダム技術に携わるようになったきっかけは、どういうことからでしょうか?

大町: 自分の中では、どうしてそうなったか明確ではないのですが、東大の理科一類に入ると2年の半ばで学科を選びます。恐らくその時に学科案内で聞いた「土木技術者は地球の彫刻家である」という言葉が気に入ったのだと思います。高校時代から化学は得意学科でしたが、どうも部屋の中であの薬品臭い匂いを嗅ぎながら実験を続けるのは嫌だなぁ、もっと戸外の開けた所で伸び伸びと仕事するほうが向いているなと思ったのだと思います。また4年生で研究室に分かれるとき、最上武雄先生の授業が面白かったので土質を希望したのですが、他にもたくさんやりたい人がいました。ジャンケンで決めることになり、私はジャンケンが弱いので、他を選ばざるを得ない状況になりました。最上先生と一緒に研究をやっておられ、当時、東工大に土木工学科が出来た時に移られた、渡辺隆先生が講師でアスファルトの研究をされていました。アスファルトも土も似たようなものと考え、それで卒業論文、修士論文ではアスファルト混合物について研究したのです。

 大学院の授業では、岡本舜三先生の耐震工学に興味を覚えました。岡本先生はご定年でしたので、博士課程では後を継がれた田村重四郎先生の研究室へ入りました。岡本・田村両先生は、非常に実証的な研究をされており地震観測とか、模型実験とか学生としては、興味を惹かれるものがありました。またダムのいろんな実験をされて、アーチダムの石膏模型やダム模型を揺すった電磁式加振器、小型振動台などがいっぱいありました。当時、研究室では山王海ダム(H=37m,フィルダム)で長年、地震観測をやっていて、その記録の回収に同行させて頂きました。また、千葉の生産技術研究所で当時、日本で一番大きな振動台を使ってロックフィルダム模型の振動破壊実験をしていたのですが、その手伝いもさせて貰いました。自分自身はテーマも決まらず、ただ面白そうだからということで飛びついていましたが、実際にダムに行ったりする中で、自然にダムの耐震問題に取り組むようになったのだ、と思っています。


山王海ダム
中野: その頃行かれた山王海ダムが初めて見たダムでしょうか。

大町: 岡本先生、田村先生のところには、電力会社やダムの関係者の方がたくさん相談に来られていて、先生方が出張される時にはよく一緒に連れて行って貰いました。だから自然とダム分野に入って行ったのだと思っていたのですが、高校の同級生に「大町は高校時代からダムを造りたいと言っていた」という旧友もいて、もしかするとその頃ダムに関する映画とかの影響もあったのかも知れません。当時は、切手を集めるのが好きで、佐久間ダムや小河内ダムの記念切手や「黒部の太陽」の映画も上映されていましたので、そういうことも影響しているのではないかと思います。ちょうどダム建設も上向きの時でしたから。

中野: そういう意味ではダムに関連することをおやりになる研究室では違和感がなかったのでしょうね。

大町: ダムの現場に出て行って観測をしたりするのは楽しかったですね。

現物を知らないダムの工学博士ではいられない

中野: その後、電源開発(株)への就職については、どんなところに魅力を感じられたのですか。やはりダムの仕事に興味があったのですか。        

大町: 先程も話しましたが、四国の魚梁瀬ダムとか電源開発のダムに連れていって貰ったという記憶はあります。ダムが満々と水を貯めているのを見て、このような大きなダムを造る人たちはどういった人生観や価値判断の基準を持っているのだろうかということにも興味を持ちました。それから、ロックフィルダム模型の破壊実験や数値解析で工学博士の学位をもらいましたが、実際のダム造りの現場を知らないというのでは、生涯居心地が悪いので、ダム造りの基本程度は知りたいと思ったのと、ダム屋という人たちはどういう存在なのかというのにも興味がありました。また、佐久間ダムやOTM(奥只見、田子倉、御母衣)など、大規模かつ困難な地点を開発した電源開発(株)という会社そのものにも魅かれました。

初仕事は有限要素法での解析

中野: 就職後の配属された部署はどこですか?また、初めて現場に出られたのは、どこのダムですか?


手取川ダム

大町: 昭和49年の4月に入社して、本店の水力建設部設計室に配属されました。電源開発ではそれまでドクターで入社してくる人はいなかったので最初は扱いに困ったと思います。それで、とりあえず設計室に行ったのでしょう。当時、電源開発では、手取川ダムの設計をやっているところでした。ダムサイトの底近くに30〜40mもの厚みの断層があるのが解っており、その上に150m級のロックフィルダムを造るというものです。よくダムと基礎の境目にコンクリート監査廊を造りますが、ダムを造ることによって断層周辺の地盤がどうなるかを予測しなければならず、私にその仕事が回ってきました。計算してみるとダムを造ると断層の表面が40cmほど沈下するという計算結果で、もしそこにコンクリートの監査廊を造ったら折れてしまう。どうしたらいいかと問われましたが、私には解りませんでした。
 その後、実際にダムを造った時にどのくらい沈下するのか測定したところ、解析結果が正しかったと言われ、やりがいを感じました。自分のしたことが現実に役立ったということがとても嬉しく、良い仕事をやらせて頂いたことに大変感謝しています。その時は、大学院で学んだ有限要素法が役立ち本当に良かったと思いました。

中野: その後は、ダム現場には沢山行かれたのでしょうか。

大町: 入社時から、ぜひダム現場に行きたいと言っていたので、解析をやった手取川ダムに行けると思っていたのですが、新潟県の奥清津建設所に配属になりました。そこでも素晴らしいダム屋さんに恵まれ、施工管理、工務、積算等を教えて頂きました。現場は標高1300mのところにあるので、真夏でも寒いくらいでしたが、夜遅くまでダムサイトに立って監督したりして、いい勉強をさせて頂きました。

起振器でダムを揺する実験

中野: 元電源開発の藤野さんにインタビューさせて頂いた時、奥清津は地域に開かれたダムを目指し、完成と同時にオッキーという展示館をオープンさせたと伺いました。こうした初の試みは他にありますか?

大町: カッサダムは高さ90mのロックフィルダムですが、ここで思い出すのは、工事が進んで盛立て完了後に、電力中央研究所から起振器を借りてきて、ダムの真ん中に置いて揺する実験を提案して実施しました。それも記憶に残っています。

中野: 実験には反対はなかったのですか?また費用もかなりかっかたのでしょうね。

大町: 揺するには基礎を造らなくてはならないし、費用はそれなりにかかりますからね。現場の技術者としては自分たちが苦労して造っているダムを揺するのは不安になりますし、こちらが「ダンプトラックが走るくらいです」と言ってみても心配だったでしょう。私としてはぜひ自分が関わったダムを揺すってみたかった。ダム全体を揺するのは無理なのでピンポイントで揺すりましたが、結果はきれいに出ました。発電所が出来てから20年くらいして改めて記念式典があったのですが、その翌日カッサダムを見て来ました。その時一緒に仕事をしていたゼネコンの人から、あの起振実験のお金をまだ貰っていないよと言われました。ドクターで入社したので新人としては奥手でしたから、真に受けて困っていましたら、冗談だよと言って下さったので、安心しました…。


カッサダム(撮影:Dam master)
冬工事が出来ない期間に海外へ

中野: 奥清津は、冬季は建設できないと聞いていましたが、その期間はどうされていたのですか。

大町: 冬は部屋の中で設計変更や詳細設計の図面を書いたり計算をしたりしていました。それに運動不足解消のため昼休みが2時間になるので、天気のいい日はみんなで隣のスキー場に行ったりしていました。そうした中、冬季建設休止期間中の昭和51年2月に国際協力事業団(JICA)へ派遣され政府調査団員(耐震専門)として3週間ほど南米チリ・パタゴニアの水力開発計画の現地調査に行きました。チリには、雄大な氷河があるので、そこから溶けだした水を使って水力発電をする計画があったのですが、チリは地震国なのでダムの耐震の専門家として派遣して頂きました。現地の電力会社の方と日本側10名程のパーティを組んで現地調査をしました。氷河の上を軽飛行機で飛んだり、ランドクルーザーで走ったり、ゴムボートで川を上ったり、初めての海外で自然環境もすばらしかったので忘れられない経験になりました。帰国後は報告書を書いて、GWの連休明けになると除雪をしてダム現場が始まるので、また現場仕事をしました。

中野: 耐震調査で海外に行かれたのはチリだけでしたか。

大町: 昭和52年1月には、岡本先生と田村先生が世界地震工学会議(WCEE)に提出された論文の最後に私の名前も登録しておられたので、会議に出て発表してこいと言われて、インドのニューデリーに行って大型振動台実験の発表をしました。その時、オプションでダム現場にバスで行くツアーがあって参加したいと思いましたが、実際には私一人しか申し込んだ者がいなかったので、バスをやめてタクシーに変更してくれました。インドは階級社会なので、タクシーの後部座席に黙って座っていると、運転手がどういう客が乗って来たかと探りを入れて、いろんな話をしかけてくるのです。ツアー先のダムの工事現場で先方の主任技術者と私が対等に話すのを見て、だんだんわかってきたのかそのうちに扱いが変わってきました。途中で、余りに道が悪くて車がパンクしてしまい、修理してくるまでここで待ってて欲しいと言われたのが、トラの放し飼いで有名な国立公園で、運転手が戻ってくるまで、象に乗って散歩したことがあります。国立公園内にあるホテルが宿泊場所だったのですが、ツアーについての連絡が良くなくて、実際に宿泊したのが私一人だったのでがっかりされました。

中野: チリのパタゴニアでの雄大な氷河に魅了されたとのことですが、後に再訪されたのですか。

大町: 最初に行ったのが昭和51年で、再度訪れたのは、阪神淡路大震災の翌年、平成8年、20年後のことでした。耐震分野の共同研究プロジェクトに関わり、憧れのパタゴニアに足を延ばした時、あの雄大だった氷河が本当にやせ細ってしまっていて、20年という月日の流れと氷河の減退という現実に地球温暖化を実感しました。


ダム屋から教員への転身

中野: 話は戻りますが、その後、ダム現場でお仕事をされたのでしょうか。

大町: 念願のダム建設現場での仕事はおよそ2年間で終わり、再び本社勤務になり、今度は火力発電所の環境影響調査や土木全般の研究開発をやり、電源開発にはトータルで5年3ヶ月間いました。それでダム造りが解った訳ではないのですが、きちんと設計して現場管理をしながら仕事を積み重ねれば、ダムは造れるものだと。土木の仕事の大まかな流れについては理解することが出来ました。

中野: その後、電源開発から東工大に転職された理由はなんでしょうか?

大町: ちょうどその頃、東工大に大学院大学が出来て、そこで土木と建築の教官のコンビで地震工学講座を開講するために助教授を探していることを聞きました。土木で地震工学分野の博士号を持っている人はその頃余りいませんでしたし、大学に行って若い人を教育するのも大事だなと思うようになった時でしたので、試しに応募したら採用になりました。

中野: それもタイミングでしょうか?生後3日後から余生という人生の一つの巡り合わせなんですね。

大町: そうかも知れませんね。上司の小林啓美教授は地震工学の地盤震動分野では真の第一人者でした。新しい職場は日本初の学部を持たない学際的大学院で、全国から学生を集めました。その中に数式もコンピュータもいやだという学生がいて、相談した結果、「子供のための防災教育」をテーマにすることになりました。昭和60年9月のメキシコ地震(M8)で大きな被害が出たのですが、この時のニュースや報道番組を全部録画して編集し、10分間のビデオにまとめて感動的な映像教材を作成し、それを小学校で見せてアンケート調査し修士論文にまとめました。その学生が見つけてきて、ご指導・ご協力を仰いだのが文部省統計数理研究所の社会心理学者・水野欽司教授だったのです。

中野: すると水野教授と共同で学生を指導し、教材用のビデオの編集をされたのですね。

大町: ある時、水野教授が「弟はダム屋なんだ」と話されました。その方が大学の先輩でもある水野光章氏だったのです。同氏には今でもダム技術のご指導を頂いており、不思議なご縁です。

地震とともに過ごした大学教員生活

中野: その時「子供のための防災教育」をやらなければそのようなご縁はなかったのですね。東工大には約32年間おられたようですが、大学教員生活はどうでしたか。

大町: 昭和54年7月から平成23年3月までの約32年間のちょうど半分位の、平成7年に阪神淡路大震災が起きました。それを境に前半と後半に区分してお話しします。

 昭和59年に、長野県西部地震(M6.8)が牧尾ダム(H=105m)の近くで発生しました。牧尾ダムには地震計がありましたが、重力の0.2倍の加速度0.2G(Gは重力加速度)で振り切れていました。ダムそのものは軽微な変状を示しただけで、よく地震に耐えましたが、地震計が振り切れてしまったので、震源近くでは実際にどのくらいの地震動の強さだったのかが解らなかったのです。一方、山の尾根の辺りには地表に埋もれた石や倒木が飛んだ痕跡が多数ありました。現地調査をされた専門家が、直径1mもある大きな石がおよそ3mも飛んだ状況(図参照)からみて、地震動の速度は秒速5m程度、加速度は5〜10Gと推定され、その後、加速度推定値は20Gまであり得ると言われました。当時はダムの耐震設計はせいぜい0.2Gくらいの想定ですからそんな大きな加速度では、まったく地上に構造物が造れなくなってしまい困るだろうと思いましたが、自分ではどう反論してよいか解りませんでした。


直下地震を想定して実験に取り組む

中野: 確かに推定値だけでみると怖いですね。何も造ることができないのですから。

大町: 昭和46年にロサンゼルス近郊でサンフェルナンド地震がありました。その時、史上初めて1Gを超える地震動の記録が採れたのですが、一般に地震動加速度は最大でも2Gぐらいだろう、先述の推計値10Gとか20Gなんていう数値は現実にはあり得ないものと考えていました。しかし一方、過去の地震で寺の鐘楼や山門、墓石や燈籠、鳥居、住宅、納屋等が飛んだケースがいくつもありました。そこで直下地震だと非常に強い地震動が発生し、大きな被害も出るので、その最大強さの地震動を知ることが重要と考え直下地震による強震動の研究を開始しました。直下に震源があって真上に振動が伝わってきて物が飛ぶと、重力の加速度に逆らって物が飛ぶのですから、1G以上の上下動加速度があるに違いないし、さらに、もしかすると10Gくらいあるかも知れないと、地震学の専門家が言われるのですから、なんとか反論したかったのですが、その時は出来ませんでした。

 そうするうちにアメリカのNewmark先生の「地震応答加速度が1Gを上回れば物体が飛ぶので、入力地震動としてはもっと小さくていい」という論文を見つけたので、さっそく実験室に行き、いろんな材料をかき集めて実際に試してみました。

中野: 実験結果はどうでしたか?

大町: 波型スポンジの窪みにパチンコ玉を置いて水平振動台で揺すると、上下動が1G以下でもポンと空中へ飛びだすのが解かりました。弱い振動では、スポンジの窪みにはまったパチンコ玉は窪みと一緒に動きますが、振動が強くなれば、両者の位相がずれてスポンジの壁面でポンと弾かれるようにして飛ぶのです。また明治42年の姉川地震では鐘楼が飛んだらしいので、鐘楼を水平動だけで飛ばしたいと言うと、学生たちが模型実験を始めました。鐘楼模型の振動実験では、水平振動台に鐘楼模型を載せ急加振すると屋根が重いので後ろにのけぞり、柱と梁がパンタグラフのように変形して、4本足の動物が後ろ足で飛ぶように跳躍(写真参照)するのが確認できました。つまり水平方向にしか揺れない振動台で揺すって、入力地震動が1G以上の上下動加速度がなくても物体が飛ぶという証明が出来たのです。


地震によるダムの被害を研究

中野: こうした実験からダムの耐震というテーマをおやりになることになったのですか、契機になったのはやはり阪神淡路大震災でしょうか?

大町: 平成7年1月17日に起きた阪神淡路大震災は、直下地震によるものでした。この時、木造住宅をはじめ鉄筋コンクリートのマンションやビル、あるいは高速道路、橋梁、鉄道といったインフラが壊滅的な被害を受け、未曾有の都市震災となったため、土木学会では、耐震基準をすぐに変えてレベル2地震動(現在から将来にかけて、その地点で起こりうる最大級の強さの地震動)というのを耐震設計へ入れなさいという提言をしました。橋梁とか港湾施設はそうなったのですが、ダムは被害が余り出なかったので従来通りでも良いのではないかとの声もあり、直ぐにそうはならなかった。ただ阪神淡路大震災後は、ちょくちょく強い地震動が観測されるようになったのでやはり対応が求められるようになりました。ちょうど直下地震のことを研究していたのと、以前にダムをやっていたので、私はダムの耐震研究に復帰することになったのです。

中野: 実際、中越地震ではJRの新山本調整池等が被害を受けましたね。

大町: そうですね。平成16年の新潟県中越地震(M6.8)では、JR東日本の山本、新山本、浅河原という3つの調整池のフィルダムに地震被害がありました。いずれも地震記録がとれなかったので実際にはどのくらい揺れたのか正確には解りませんが、相当に強い揺れでダムに損傷がありました。

ダムに求められる耐震性能とは

中野: この時の被害調査にも先生が携わっておられたのですか?

大町: 委員長として、呼んで頂いたのです。その仕事を引き受けるにあたり、後で報告書をきちんと作成するという約束で、このような立派な報告書ができたのです。
 出来上がった報告書をダム関係者に配ったり、また土木学会の論文集に発表して頂いたら、今度は、岩手宮城内陸地震だとか、東日本大震災とかが相次いで起こり、ダムが被害を受けました。それでこうしたダムの地震被害の調査や復旧工事に際して、この報告書が非常に役立ったということもありました。

中野: 報告書のポイントは何でしょうか?

大町: 一つには、ダムの耐震性について何を基本とするかということが解ったことです。簡単に言えば、地震でダムの堤体にひびが入る等、少しくらいの損傷を受けても水を湛えていれば良いのだと。こういう言い方は乱暴かも知れませんが、決壊して洪水を起こさなければという最低限の要求性能が理解できたことです。貯水能力があれば良いということは、要するに制御できない放流をしないということです。それがダムに要求される耐震性能だということを確認出来たのです。
 東日本大震災では、藤沼ダムが決壊してしまいましたが、中越地震でのJRの3つのダムは相当にやられたけれど貯水能力を維持しているということで、あまりうろたえないで、調査して復旧工事ができたのです。


ダムの社会はムラ社会という指摘

中野: 平成23年に東工大を定年退職されダム技術センターでお仕事をされるようになりましたが、ダム技術センターでおよそ4年が経ちました。外からみたダムの社会についてはどのようにお考えでしょうか?

大町: ダムや土木の技術者に多いのは寡黙でコツコツやるというスタイルが多いことでしょうか。まず電源開発から東工大に移った時は、全く分野の違う友人から「土木屋は内向的だ」ということを指摘されました。つまり、大義名分のような理屈をつけてやっているが、評価は仲間うちのお手盛りだし、外の世界に向かってきちんと説明することが下手だ、というのです。大学からダム技術センターへ移る時には、土木の友人から「ダム屋はムラ社会なので気をつけるように」と言われました。東日本大震災の時に言われた原子力村のように、ある分野の人が集まっていて一般とは余り交わっていないから、何をするにも偏狭な考え方に固まりがちだと。ダム屋の社会も似ていると指摘されてしまいました。この「ダム社会はムラ社会」は、土木の友人の指摘だけに、ズッシリと心に残っていますね。

中野: 土木技術者には、かなりシャイなところもありますしね。ダムの仕事に携わる人は、すばらしい仕事をしているはずなのに情報発信が控え目なこともあるのでしょうか。例えば、大河津分水の工事に携わった青山士さんの言葉が記念碑になっていますが、土木の理念を表している言葉ですね。「民衆のために生きた土木技術者」だったのですが、後世になってしか評価されないというか…?

大町: 確かに、こうした体質があるとすれば改善しなければと思いますが、自ら体質改善をはかるには、先ずは謙虚に反省し自覚する必要があります。例えば東日本大震災による藤沼ダムの決壊については、国内外のダム技術者はもとより一般市民もが強い関心を持ち、調査報告を待っていました。しかしながら、私自身は退職、転職の時期で身辺が忙しかったこともあり、まして農業用のダムでしたから、農業土木の専門家に任せたいという自制的な気持ちも働き、積極的に関与しませんでした。しかし、こういうことが仲間うちの考え方だと指摘を受けるのだと思います。一般市民の感覚からすれば、ダムはダムであって、それが農業用だろうが、電力用、治水用だろうが区別はありませんから、ダムに関わる技術者が一丸一体となって全力を挙げて調査するのはあたり前のことなのです。だから、あれは農業用ダムだから、あるいは、縦割り行政の弊害だと言うのは簡単ですが、自分自身で垣根を造り閉鎖的社会を造ってきたのではないか、友人の指摘は当を得ているなと思う次第です。


ダムに関わる若手技術者を増やすには

中野: 次に、これからの時代に対して、若手技術者の育成という面で、どういう事をしていくべきなのか。何かアドバイスされることはありますか?

大町: 私は、平成25年度ダム工学会会長あいさつで「日本ではダム技術者は絶滅危惧種だ」との警句を引用して、学会のsustainability、持続可能性の向上が喫緊の課題と表明しました。
 ダム工学会の正会員数は、平成12年度くらいまでは、2,000名を超えていましたが、それ以降は減少続きで、今では800人ほどになってしまいました。しかも会員の年齢が上がってしまい、若い人が少ないのです。数年前には、学生会員がいなくなったことがありました。それではいけないということで学生会員の会費をゼロにしたり、若手の会の活動で頑張って貰う等もあって、現在は学生会員が約50名にまで増加しましたが、依然として若手会員は増えてこない。どうしてかと改めて考えてみると、学生を指導する大学や高専の先生が会員になっていないという問題があります。



中野: 学生にとっては、就職して職場に行っても先輩にダムの人がいないということもあるので、なかなか学会活動を続けらない原因にもなっていますし、大学でダムを教える先生が少ないというのも大きな課題ではないでしょうか。

大町: やはりダムの世界は狭いので、外から入って来づらいのかも知れません。敷居が高いというかガードが堅くて…。私は、大学に長年いたので各方面の先生方にも知り合いがたくさんいますので、今後はそういうところを繋いでいく役割を果たさなくてはいけないと思っているのです。しかし、なんと言ってもダムをやっている先生が少ない。それにシャイな人が多いので、それやこれやで学生がダムに興味を持つはずがないのです。
 ダム屋の方でももっと積極的に大学に働きかけるような事があっても良いと思います。例えば、こういう研究テーマがありますよ、こんな観測データがありますよというようなことを発信すべきです。ダムの良いところは、長年にわたって詳細な観測データを持っていることです。これは、大学の研究室にいては到底実現出来ないようなことですから、研究者にとっては継続したデータがあるということは非常に大事なことで、とても良い研究材料になると思います。

ダム技術の継承でなく、もっと進化させる

中野: 日本では、もうほとんどの川にダムを造ってきて、これ以上はダムサイトに適している場所がないほど。今後、新規のダム事業が少なくなる中、ダム技術はどうやって継承していけば良いのでしょうか?

大町: ダム技術の継承というと、何かすでに出来上がったもののような印象があり、保守的なイメージがあります。しかし、ダム技術は今も発展途上にあるので、継承というのではなく、むしろ時代に合わせて進化させるというふうに捉えた方が良いのではないでしょうか。現状では、調査、設計、施工等の各場面でダム技術は日進月歩しています。総合技術の強みを活かして、活動範囲を周辺の技術領域へと積極的に拡大しダム技術の進化、高度化をはかるのが良いと思います。例えば、台形CSGダム技術が海岸堤防に応用されているように、農業用の溜池、河川堤防、道路盛り土、宅地造成という分野にも、ダム技術を応用すれば設計施工の合理化、安全性の向上、ひいては国土強靱化にも大きく寄与することが可能になると思います。

中野: なるほど、総合技術という点の強みを生かすということですね。

大町: ダムは総合技術という場合の総合というのは要素技術をたくさん寄せ集めたという意味ではないと思います。総合技術と要素技術というのは、もともとベースにある価値観が違う。土やコンクリート、トンネル、橋梁など個別の技術を、簡単に要素技術と呼ぶと、ダム技術は多数の要素技術で構成される総合技術ですが、単なる寄せ合わせとも違うのです。先程出てきましたが、土木偉人の青山士さんの言葉に「万象に天意を覚る者は幸いなり、人類の為、国の為」とありますが、そういうようにダム技術は、人のために尽くす技術だと思うのです。
 要素技術は、機械でも電気でも、いわゆる製品を世の中に売って、技術の利便性によって利潤を得るための手段になるものですが、ダムのような総合技術というのは、自然と対峙し、まさに天意を推し量って、人のため国のために造るというようなものだという気がします。そういうことからすると、ダム屋を育てるには、「将に将たる人を創る、育てる」ということを考えないといけないと思います。
 これまで、ダムは長い間さんざん叩かれてきたのでダムを計画したり造ったりする人が萎縮してきたような、そういう感じです。今は再生可能エネルギーに焦点が当たるようになってきたのでもっとダムにも光が当たっても良いような気がしますが、そういう中でダムには優位性があると思うので、こちら側から言い出してみても良いと思います。一昔前は、どうも一般の人にはダムは悪いものというイメージが強かったように思いますが、ここ最近になって、何かが変わってきたような気がします。

ダム技術者はもっと意識を高めて

中野: やはり情報発信というのが大事だと…?

大町: ダム技術センターの理事長をやって数多くのダムの竣工式とかに呼ばれていきましたが、中には出来栄えがパッとしないダムもありました。たくさんの予算と時間、労力をかけて造るダムですから、やはり人が見てキレイだ、立派だと感動するものを造って貰いたい。これからは機能的で洗練された、キレイなダム造りを目指すと、ダム屋はそういうことも考えて仕事をすべきだと思います。これは何も新規のダムだけということではなく、ダムの再開発、維持管理でも心がけて欲しいですね。

中野: ダムに関わる人は、もっと意識を高めていかないといけないのですね。

大町: 日本には3000くらいの数のダムがあるのですから、それらを維持管理する中で必ず補修の仕事もあるし、考えればいろんなことが出来ると思いますが、カビの生えたダムとか草木がボウボウのダムとか、あれではよくない。キレイで力強い、そういうダムを造って、後世に残してほしいと思います。

中野: 本日は貴重なお話を聞かせて頂きましてありがとうございました。



(参考)大町 達夫(おおまちたつお)先生 プロフィール

昭和44年5月  東京大学工学部土木工学科卒業
昭和46年3月  東京大学大学院工学研究科土木工専攻修士課程修了
昭和49年3月  同上 大学院博士課程修了(工学博士)
昭和49年4月  電源開発株式会社入社(水力建設部設計室)
昭和50年3月  奥清津建設所カッサ工区へ転勤
昭和51年1月  JICAへ派遣、チリ国・パタゴニア電力開発計画調査に従事
昭和52年1月  6WCEE(インド・ニューデリー)出席
昭和52年4月  本店土木設計部へ転勤
昭和54年7月  東京工業大学総合理工学研究科 助教授に着任
昭和62年7月  同上 教授
平成23年3月  東京工業大学 定年退職
平成23年4月  同上 名誉教授、(財)ダム技術センター理事長(常勤)着任
     
(学会関係等)
日本自然災害学会会長(平成14年〜平成17年)
日本地震工学会会長(平成18年〜平成19年)
ダム技術センター理事(平成7年4月〜平成22年6月)
  同     理事長(平成22年7月〜平成26年6月)
  同     顧問(平成26年6月〜 現在)
ダム工学会会長(平成25年5月〜平成26年5月)

[主な著書]
地震・津波ハザードの評価(分担):都市地震工学シリーズ2、朝倉書店(2010)
都市震災マネジメント(分担):都市地震工学シリーズ8、朝倉書店(2008)
地震の事典(初版、第2版)(分担):朝倉書店(1987、2001)
地震防災の事典(編著):朝倉書店(2000)
ジオテクノートH 地震動(共著):地盤工学会(1999)
動的解析と耐震設計(編著):技報堂出版(1989)
Metro Manila - In Search of a Sustainable Future - (編著):フィリピン大学出版会(2002)
など。

[受賞歴]
2002年、2007年、2009年 ダム工学会論文賞
2003年 土木学会論文賞
2006年 文部科学大臣表彰 科学技術賞(研究部門)
2011年 地震工学会功労賞、国土交通大臣表彰 建設事業関係功労
2012年 日本機械学会賞(論文)

(平成27年6月作成)
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【 関連する 「このごろ」「テーマページ」】

 (ダムインタビュー)
  [テ] ダムインタビュー(1)萩原雅紀さんに聞く「宮ヶ瀬ダムのインパクトがすべての始まり」
  [テ] ダムインタビュー(2)宮島咲さんに聞く「ダム好き仲間とOFF会に行くのが楽しい」
  [テ] ダムインタビュー(3)灰エースさんに聞く「ダムだから悪いという書き方はおかしい」
  [テ] ダムインタビュー(4)川崎秀明さんに聞く「ダムファンがいるからプロもやる気になる」
  [テ] ダムインタビュー(5)高田悦久さんに聞く「ダム現場では行動することが一番大事だ」
  [テ] ダムインタビュー(7)takaneさんに聞く「ダムの管理をしている人がブログを立ち上げてくれたら、僕読みますよ」
  [テ] ダムインタビュー(6)さんちゃんに聞く「ベストショットは川口ダムの夜景です」
  [テ] ダムインタビュー(8)土木写真家・西山芳一さんに聞く「いい写真は努力や熱意が伝わってくる」
  [テ] ダムインタビュー(9)Dam masterさんに聞く「機能と造形と自然の組み合わせが面白い」
  [テ] ダムインタビュー(10)水資源機構・金山明広さんに聞く「地元、ダムマニア、ダム管理事務所がコラボレーションできれば」
  [テ] ダムインタビュー(11)古賀河川図書館館長・古賀邦雄さんに聞く「将来は1万冊を目標にしようという気持ちでいます」
  [テ] ダムインタビュー(12)中村靖治さんに聞く「ダムづくりの基本は、""使いやすいダム""を設計するということです」
  [テ] ダムインタビュー(13)江守敦史さんに聞く「ダムについて何時間も語れる萩原さん。彼と本質を突き詰めたからこそ、面白い本になりました」
  [テ] ダムインタビュー(14)藤野浩一さんに聞く「欧米では水力を含む再生可能エネルギーの開発に重点を置いています」
  [テ] ダムインタビュー(15)安河内孝さんに聞く「”碎啄同時(そったくどうじ)”という言葉があります。モノづくりの技術の継承は、教える側と教わる側の力が寄り添ってこなければ、うまくいかない」
  [テ] ダムインタビュー(16)石川順さんに聞く「ふと閃いたのがダムだったんです。」
  [テ] ダムインタビュー(17)杉野健一さんに聞く「経験を重ねるというのはダム技術者にとって大事な財産」
  [テ] ダムインタビュー(18)だいさんに聞く「ダムを見るいちばんのポイントは機能美だと思っています」
  [テ] ダムインタビュー(19)琉さんに聞く「時々 ""ダム王子"" とか呼ばれちゃってますけど」
  [テ] ダムインタビュー(20)西田博さんに聞く「一部分の経験しかない人が増えることで、ダム技術の継承が心配される」
  [テ] ダムインタビュー(21)緒方英樹さんに聞く「“土木リテラシー”の必要性を強く感じています」
  [テ] ダムインタビュー(22)吉越洋さんに聞く「電力のベストミックスといって、火力、水力、原子力などの最適な組み合わせを考えて、計画をたてています」
  [テ] ダムインタビュー(23)竹林征三さんに聞く「ダムによらない治水と言うが、堤防を強化して首都圏の大都市を守れるのか」
  [テ] ダムインタビュー(24)高橋裕先生に聞く「公共事業を軽んずる国の将来が危ない」
  [テ] ダムインタビュー(25)竹林征三さんに聞く(その2)「風土との調和・美の法則を追求して構築したのが『風土工学理論』です」
  [テ] ダムインタビュー(26)竹村公太郎さんに聞く「未来を見通したインフラ整備が大事で、ダムの役目はまだまだ大きいですよ」
  [テ] ダムインタビュー(27)虫明功臣先生に聞く「八ッ場ダムは利根川の治水・利水上必要不可欠」
  [テ] ダムインタビュー(28)水野光章さんに聞く「水と安全はタダといった安易な考えではいけないと、あらためてそう思います」
  [テ] ダムインタビュー(29)萃香さんに聞く「ダムの魅力を引き出せるような写真を撮って公開していきたい」
  [テ] ダムインタビュー(30)樋口明彦先生に聞く「ひっそりと自然の中に佇むようなダムが美しい、とスペインの名もないダムを見て気づいた」
  [テ] ダムインタビュー(31)宮村 忠先生に聞く「これからは‘線’ではなく‘点’で勝負すべきだ」
  [テ] ダムインタビュー(32)土屋信行さんに聞く「きちんとやるべきことと、そうでないことの本当の仕分けが今こそ必要ではないか」
  [テ] ダムインタビュー(33)沖大幹先生に聞く「ダムは造りすぎではなく最低限の備えが出来た段階だ」
  [テ] ダムインタビュー(34)阪田憲次先生に聞く「技術者には""想定外を想定する想像力""が求められている」
  [テ] ダムインタビュー(35)谷茂さんに聞く「これからは少しゆっくりと環境に負荷を与えないかたちでダムを造る方法もあるのではないか」
  [テ] ダムインタビュー(36)大藪勝美さんに聞く「インフラの重要性をもっと多くの人に知ってもらいたい」
  [テ] ダムインタビュー(37)武田元秀さんに聞く「四十年来の思いが叶い、『ダムと鉄道』にまつわる話を出版することができました」
  [テ] ダムインタビュー(38)山内 彪さんに聞く「若い人は、ダムを糧として立派な総合技術者として育っていって欲しい」
  [テ] ダムインタビュー(39)角哲也先生に聞く「ダムのアセットマネジメントの話をするときに何か目標がいる、千年ではどうかと」
  [テ] ダムインタビュー(40)唐澤一寛さんに聞く「人にものを頼もうとする時は、こちらも誠意をもって付き合わなければいけない」
  [テ] ダムインタビュー(41)糸林芳彦さんに聞く「今は新規のダム計画がなくとも、ダム技術は常に磨いておくべき。いずれ時代の要請に応える日が来るから。」
  [テ] ダムインタビュー(42)今村瑞穂さんに聞く「ダム操作の定式化と現場適用性の向上は車の両輪」
  [テ] ダムインタビュー(43)本庄正史さんに聞く「ダムの海外展開は、現地社会に貢献するという、貢献がキーワードだと思います」
  [テ] ダムインタビュー(44)石田哲也先生に聞く「何か起きたときのリスクのあるシナリオをきちんと一般の人に伝えていかないと」
  [テ] ダムインタビュー(45)古川勝三さんに聞く「今こそ、公に尽くす人間が尊敬される国づくり=教育が求められている」
  [テ] ダムインタビュー(46)入江洋樹さんに聞く「水を大切にするという日本人の心の原点を守り、継承していけば1000年先もダムは残っていく」
  [テ] ダムインタビュー(47)島谷幸宏先生に聞く「設計をする時に環境設計と治水設計を一体的にすることが一番重要なのです」
  [テ] ダムインタビュー(48)吉津洋一さんに聞く「先人から受け継いだ素晴らしい‘くろよん’をしっかり守り、引き継いでいきたい」
  [テ] ダムインタビュー(49)足立紀尚先生に聞く「ダムの基礎の大規模岩盤試験を実施したのは黒部ダムが最初でした」
  [テ] ダムインタビュー(50)山口温朗さんに聞く「徳山ダムの仕事はまさに地図にも、私の記憶にも残る仕事となりました」
  [テ] ダムインタビュー(51)安部塁さんに聞く「新しい情報を得たらレポートにまとめてダム便覧に寄稿しています」
  [テ] ダムインタビュー(52)長瀧重義先生に聞く「土木技術は地球の医学、土木技術者は地球の医者である」
  [テ] ダムインタビュー(53)大田弘さんに聞く「くろよんは、誇りをもって心がひとつになって、試練を克服した」
  [テ] ダムインタビュー(55)廣瀬利雄さんに聞く「なんとしても突破しようと強く想うことが出発点になる」
  [テ] ダムインタビュー(56)近藤徹さんに聞く「受け入れる人、反対する人、あらゆる人と話し合うことでダム建設は進められる」
  [テ] ダムインタビュー(57)小原好一さんに聞く「ダムから全てを学び、それを経営に活かす」
  [テ] ダムインタビュー(58)坂本忠彦さんに聞く「長いダム生活一番の思い出はプレキャスト型枠を提案して標準工法になったこと」
  [テ] ダムインタビュー(59)青山俊樹さんに聞く「相手を説得するのではなく、相手がどう考えているのかを聞くことに徹すれば、自然に道は開けてくる」
  [テ] ダムインタビュー(60)中川博次先生に聞く「世の中にどれだけ自分が貢献できるかという志が大事」
  [テ] ダムインタビュー(61)田代民治さんに聞く「考える要素がたくさんあるのがダム工事の魅力」
  [テ] ダムインタビュー(62)ダムマンガ作者・井上よしひささんに聞く「ダム巡りのストーリーを現実に即して描いていきたい」
  [テ] ダムインタビュー(63)太田秀樹先生に聞く「実際の現場の山や土がどう動いているのかが知りたい」
  [テ] ダムインタビュー(64)工藤睦信さんに聞く「ダム現場の経験は経営にも随分と役立ったと思います」
  [テ] ダムインタビュー(65)羽賀翔一さんに聞く「『ダムの日』を通じてダムに興味をもってくれる人が増えたら嬉しい」
  [テ] ダムインタビュー(67)長谷川高士先生に聞く『「保全工学」で、現在あるダム工学の体系をまとめ直したいと思っています』
  [テ] ダムインタビュー(66)神馬シンさんに聞く「Webサイト上ではいろんなダムを紹介する百科事典的な感じにしたい」
  [テ] ダムインタビュー(68)星野夕陽さんに聞く「正しい情報を流すと、反応してくれる人がいっぱいいる」
  [テ] ダムインタビュー(69)魚本健人さんに聞く「若い人に問題解決のチャンスを与えてあげることが大事」
  [テ] ダムインタビュー(70)陣内孝雄さんに聞く「ダムが出来たら首都圏の奥座敷として 訪れる温泉場に再びなって欲しい」
  [テ] ダムインタビュー(71)濱口達男さんに聞く「ダムにはまだ可能性があっていろんな利用ができる」
  [テ] ダムインタビュー(72)長門 明さんに聞く「ダム技術の伝承は計画的に行わないと、いざ必要となった時に困る」
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