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ダムインタビュー(70)
陣内孝雄さんに聞く
「ダムが出来たら首都圏の奥座敷として 訪れる温泉場に再びなって欲しい」

 陣内孝雄(じんのうち たかを)さんは、昭和33(1958)年京都大学大学院工学研究科修了後、建設省へ入省。順調にキャリアを積みながら昭和46(1971)年に建設省関東地方建設局荒川上流工事事務所長に就かれますが、程なく、当時反対運動のうねりに直面していた八ッ場ダム工事事務所に昭和48(1973)年4月に第三代目の所長として赴任されました。はからずもその前月には、八ッ場ダムのために講じられたとも言われる「水源地域対策特別措置法」(水特法)が閣議決定されたばかりのタイミングでした。その後、昭和51年10月に建設省河川局開発課専門官に戻られるまで、暗礁に乗り上げたまま動かない八ッ場ダム事業をなんとか進められるように「水特法のダム指定」「第三次利根川フルプランへの八ッ場ダム計上」「利根川・荒川水源地域対策基金の設立」に努力されると同時に水没地域住民のための生活再建案、地域開発案の具体化に尽力されました。


 我が国のダム事業において地元の反対運動を受けて長期間に渡って計画が進捗しなかったダムとしては「東の八ッ場、西の大滝」と言われる程であり、さらにようやく膠着状態を脱して地元が生活再建案を受け入れ、本体工事に着手出来るタイミングとなったにも関わらず、平成21(2009)年に民主党政権が誕生すると同時に工事中止の決定がなされたことで、地元住民から大きな落胆の声が上がったことは記憶に新しいことです。
 今回は、当時の工事事務所長として、また後に参議院議員となられた後にもより良い水源地対策の拠り所となるよう、水特法の改正を推進された陣内さんに、八ッ場ダム工事の裏表やこれからのダム事業のあり方等についてお話を伺って参ります。

土木技術者への志は 関門トンネルだった

中野: 陣内さんは京都大学で土木を学ばれたのですが、将来、土木技術者になろうと思われたのはいつ頃でしょうか。影響を受けた方はおられますか?

陣内: 確か小学3年生が終わった春休みだったと思いますが、開通したばかりの関門トンネルを通って、汽車で本州まで行ったことがありました。昭和18年3月でしたから太平洋戦争の最中、皆さんは殆どご存じないような頃の話です。海底トンネルを汽車で走るという体験が、恐らくは土木技術というものを意識した最初だったろうと思います。
 それ以前は、九州から本州に行くには関門連絡船の時代でした。長崎本線から山陽本線に乗り換えるには、海を連絡船で渡らなければならなかった。それが、海底トンネルを通って一気に本州まで行けることになって驚きました。海の底にまでトンネルを掘れる技術に興味をもったのが土木に携わるようになったそもそもの始まりです。

中野: 海底トンネルがすごく刺激になったと。いったいどうやって造るのかという興味が湧いたわけですね。

陣内: 福岡県の土木技師だった叔父に、自分で設計、監督した橋梁やトンネルなどの竣工記念写真を見せてもらう機会があったため、自然に土木というものに興味を覚えていったと思います。しかし、海底トンネルを通った時は、ただただ感心し興奮するばかりで、土木はどんな夢でも見事に形にしてくれる魔法のように子供心には思えました。これが土木の世界へと誘い込まれた運命的瞬間だったと思っています。

中野: 大きな土木構造物だということも魅力だったのでしょうね。

陣内: 長く続く海底トンネルに興奮していましたが、どんどん進んでいく内に、もし海水が押し寄せてきたらと余計な心配をしていましたら、父からこのトンネルは北九州工業地帯と本州を結んで戦争に勝つために大事なものだと教えられました。これを聞いて自分もお国のお役に立つ、大きなものが造れる人になれたらいいなあと、土木への興味が一段とわきました。

嘉瀬川ダム(撮影:だい)

中野: 大学に進むに当たって地元九州ではなく、京都大学を選ばれたのは何か理由があるのですか。

陣内: 少年時代を過ごしたのは、佐賀平野の東部よりの現在建設中の城原川ダムがある神崎市です。この地域では佐賀導水事業として嘉瀬川ダムの受益も治水・利水面で享受しています。高校三年になり、ホームルームの先生に進路相談をしたところ、佐賀鍋島藩の「治水の神様」と言われている成富兵庫公のように、世の中に役立つ仕事がしたいのなら、自分の母校の京都大学の土木を目指してみたらどうかとご指導頂きました。

中野: 「治水の神様」と言われている成富兵庫公とはどのような人物だったのでしょうか。
陣内: 佐賀平野は、有明海に漂うガタ土で形成された低平地帯で、地勢、気候など自然条件に恵まれず、河川は天井川や緩流河川となっていて水害が多く、平地の広さに比べて山が浅く、絶えず渇水の不安にさらされ干満差が6mになる有明海の高潮災害の脅威となっていました。成富兵庫公は佐賀鍋島藩士として1600年代の半ば、佐賀平野で数々の治水・利水事業を行って低平地平野を河川水害から守り、溜池や分水などで水田に水の補給をして農業生産力を高め、藩財を豊かにし、民生を安定させ「治水の神様」と言われていました。その頃築造された嘉瀬川の「石井樋」などの治水遺産が現在も立派に役だっていて、公園としても親しまれています。

中野: なるほど。佐賀平野のために尽力された方ですね。陣内さんの世の中に役立つ仕事と結びついたということですね。

陣内: 成富兵庫公の「水の心を読んだ」思想と技術に学び、戦後の相次ぐ水害で荒廃していく佐賀平野の水と土地を早急に直したいと考えていたのです。それで、先生の薦めもあって京都大学へ進学することになりました。

中野: ご自身が水害に遭われたのはいつ頃ですか?

陣内: 忘れられないのが、昭和24年9月の大雨。佐賀平野が大々的に水没し、私の家も床上まで浸水しました。その四年前の終戦直後の昭和20年9月には、鹿児島県の枕崎に907ミリバール(現在はヘクトパスカル)の超弩級の台風が上陸し九州各地に大変な被害をもたらしました。この枕崎台風の災害で、およそ9 000名の人が亡くなりました。佐賀県内でも多大な風水害を蒙りました。枕崎台風は奇しくもマッカーサー進駐軍司令官が東京に降り立った日に、鹿児島を直撃しての大水害を与えたことから、九州の戦後は、この枕崎台風の上陸から始まったという観がありました。その後も九州は台風銀座という呼び名のとおり、毎年のように大きな台風に見舞われ、加えて梅雨前線豪雨にもしばしば痛めつけられ悲惨な時期が続きました。


憧れの村山先生の研究室へ

中野: それで京大に行かれて、最初から治水をやりたかったのでしょうか?

陣内: 教養課程の二年間は相次ぐ災害情報に胸を痛めるばかりでした。昭和28年6月には西日本梅雨前線豪雨で九州一の大河川筑後川をはじめ北部九州各県の河川で大氾濫が起こり、行方不明者が1 028名にも達する水害に見舞われました。あの関門トンネル鉄道が氾濫で一部水浸しとなったため二回生の夏休みの帰省は、関門連絡船を利用し非常に不便しました。同年の7月には、南紀豪雨で和歌山県の有田川・日高川等が氾濫し死者・不明者1 015名が、9月の南山城水害では淀川水系木津川などが氾濫し、死者・不明者492名が犠牲になるなど痛ましい大水害が続発しました。この木津川災害の現地調査会が土木工学教室によって行われ、私達も参加させて頂き、河川工学の権威の石原藤次郎教授から治水事業の重要さや課題などのお話を直接聞くことができました。
 三回生からは土木工学科の専門課程が始まり、河川工学など待望の講義が行われました。
 土質力学の村山朔郎教授の講義で、先生が鉄道省技師の頃、難工事となる関門鉄道トンネルの施工に万全の調査や対策をし、我が国で最初のシールド工法を導入し見事に完成させたことを教えて頂き感動しました。四回生になって卒業論文を書くに当たって治水に役立ちそうなテーマを土質工学の面から考察してみたいと、村山研究室で堤防について論文指導頂けることになりました。郊外の中書島の防災研究所で、大型の模型砂質堤体の浸透破壊メカニズムを定常水頭の下で実験的に考察しました。

中野: 大学院に進まれた理由は何ですか?

陣内: 修士論文で、外水位が現実の洪水のように非定常に変動する条件下で、堤体の浸透破壊メカニズムを研究したかったこと、土木工学の各論、とりわけ村山教授に土質工学特論を教えて頂き応用能力も高められればと思ったからです。

中野: もともと京都大学に進まれたのも、村山先生のもとで学びたいというのがあったのですね。

陣内: 結果的にはその望みがかないました。

建設省へ入省

中野: 最終的にはゼネコンではなく建設省に就職されるのですが、役所に入ってダムに携わるようになったのは、どういう経緯でしょうか?また、入省されて最初に配属になったのはどういう部署だったのでしょうか。

陣内: 最初に配属されたのは、関東地方建設局の企画部調査課でしたが、すぐに甲府工事事務所に配置換えになりました。ここで3年近く勤務しましたが、2年目には台風15号と伊勢湾台風が来て富士川が大洪水になりました。私は調査を担当していたので、流量、観測の現場で命がけの仕事をしました。

中野: 甲府事務所ではかなり危険な現場体験をされたのですね。

陣内: そんな目に遭いましたが、他方では総合事務所でしたから道路舗装の配合設計・砂防の流出土砂量調査など幅広く取り組ませてもらうことができました。伊勢湾台風洪水を機に富士川中流部を新たに直轄区域に編入することが決まり、この区間の流量配分計画案の策定、最後には国道20号線・笛吹〜氷川間の道路改良工事の現場主任をさせて頂き、これは良い経験となりました。

利根川河口堰事業に係わる

中野: なるほど、その後が利根川下流工事事務所ですか?

陣内: 昭和35年4月です。ここでは、銚子河口から20q遡った所で利根川へ合流する霞ヶ浦の常陸川があり、この合流点に逆水門を造って、霞ヶ浦の塩害を防ぐ対策工事が始まっていました。利根川は超緩流の大河ですから、満潮のときには潮が上流40q付近まで遡上しますし、霞ヶ浦に遡上すると農業用水や生活用水に支障をきたします。そこで利根川との合流点を水門で閉じる必要があったのです。今では霞ヶ浦の総合開発の一環に組み込まれているのですが、その頃は常陸川単体の計画で常陸水門の工事は想像以上の難工事で現場は非常に苦労されていました。この付近は、太古は古東京湾でしたから超軟弱地盤の上の水門建設工事になっていました。設計上は安定するはずの仮締め切りが傾くし、ケーソンもエアブローダだけでは傾斜修正が難しかったり、予期せぬ事態が起こりました。河川を締め切ってドライにした後での水叩工等の施工でも軟弱地盤の扱いに苦労されておられました。私は、河川の一般調査計画もさることながら常陸川水門の施工現場に足を運んで土質工学の理論と実際の間で得がたい知見を得ることができました。

中野: 現場では軟弱地盤についての研究が役にたったのでしょうか。

陣内: 私は調査係長として河川調査全般を担当していましたが、常陸川水防工事の現場には、何か事あるごとに呼んで頂き水門の計画・施工の勘どころを学ぶことができました。
 そこでの貴重な水門建設技術を実験的に身につけたことで、昭和37年11月に利根川河口堰調査を担当する新設の利水調査課長に昇任した際、実調レベルに踏み込んだ具体的な調査を済ませることができ、昭和39年12月に水資源開発公団に事業を継承することができました。利根川下流工事事務所を卒業してから、関東地方建設局企画室長になり、河川関係の企画全般を担当する一環として利根川水資源開発調査で沼田ダム予定地の現場にも出向きました。

長谷川重善さんとの出会い

中野: 企画室から再度利根川下流工事事務所に戻られたのはどういった経緯があったのでしょうか。

陣内: 利根川河口堰事業は独特の水門操作方式によって漁業への影響を緩和する計画になっており、両岸の各一門をダブルゲートにして逆流に乗せてシラスウナギを堰上流側へ遡上させ、稀水域化してヤマトシジミの生棲環境を整え、順流時には堰上流の塩水楔をダブルゲートで選択的に放流し河口堰の水質を的確に保持していくことにしてあります。公団が漁業補償交渉を進めるにあたって、利根川下流事務所として技術上のバックアップが必要だったため2回勤務することになったのではと思います。この時期、公団本社に出向して河口堰事業の担当をされていた長谷川重善参事が、後に、八ッ場ダム二代目所長として事務引継ぎをされる方になりました。

中野: 人との縁というのは不思議なものですね。

陣内: 驚くことに、長谷川重善さんとの出会いは、昭和29年7月にもあったのです。長谷川さんが新入職員として4月から北海道開発局の桂沢ダムに赴任されておられた所へ私達三人の京大生が測量実習に行き、8月末に帰京するまで生活面の面倒を見て下さったのです。よく東京から都落ちしてここまで来たと夜な夜なそういう話も聞かされたのを覚えています。

中野: すごいご縁があったのですね。


桂沢ダム(写真提供:ふかちゃん)
陣内: 最初が北海道のダムで出会い、そして利根川河口堰で2度目の出会いがあって、3度目が八ッ場ダムの事務所です。ずっと先輩、後輩として同じ仕事に関わることが出来ました。八ッ場ダムで三代目の所長として長谷川さんから事務引継ぎを受けた後も本省の開発課専門官、関東地方建設局河川調査官として励まし力添え下さいました。51年2月に急逝されたのは、八ッ場ダムのフルプラン計上や水源地対策基金づくりを推進しようと群馬県へ協議に来て頂く途上での無念の出来事でした。

八ッ場ダムに出張所を開設

中野: そうでしたか。所長になられる以前の八ッ場ダムについてお聞かせ下さい。

陣内: 八ッ場ダムは、昭和22年9月のキャサリン台風に伴う利根川の大出水を機に、治水計画が改訂され、吾妻川に八ッ場ダムを建設する必要が出てきて、昭和27年5月八ッ場ダム出張所を設け予備調査に入りました。その頃は、戦後になって旅客運送用に転換された国鉄長野原線の運行で川原湯温泉の人気が高まりかけていました。さらに昭和26年の温泉街の大火から立派に立ち直った矢先でもあったので、ここをダム湖に水没させられてまで水源地域の下流受益者のために、一方的に犠牲を受忍するわけにはいかないという新しい権利義務意識が芽生え始めていたと思います。皆が反対意見を持っていたので、水源地域と受益地域の共存共栄の想いをうまく醸し出しながらの周到な公権力の行使が大事でした。

ダムの反対派は温泉を 水没させたくなかった

中野: 温泉場の環境を壊してもらいたくないという思いがすごくあったのでしょうね。

陣内: 川原湯温泉は、古くは源頼朝が狩りに来ては、そこで疲れを癒したという話もある大変由緒あるお湯で、若山牧水はじめ多数の文人墨客も吾妻渓谷の美しさに魅せられて訪れています。歴史と風情豊かな川原湯温泉をダムの補償でもって再建できる訳がなく、ダムで吾妻渓谷が変貌するようであれば観光地として成り立たなくなると悲壮な危機感が、とりわけ川原湯の皆さんに強くありました。

中野: 昭和27年頃、地元は揃ってダム反対ということだったのですね。

陣内: 川原湯温泉のある大字川原湯のみなさんを始め水没見込みの大字5集落の皆さんは勿論、長野原町長、議会もこぞってダム反対だったようです。そんな地元情勢の中で、昭和27年5月八ッ場ダム出張所の開設のために、水没見込地内の自分の持ち家をお貸しいただける地元の有力者、豊田雷五郎氏がおられたり、食事を提供してくれる柏屋旅館もあって、予備調査は粛々と進められました。ダム反対の申し入れはもっぱら建設省本省、国会、県に対して行われていました。


吾妻渓谷(撮影:田中 薫)
川原湯神社

笹竜胆家紋の王湯
1年で出張所を閉じた理由

中野: そんな状況で八ッ場ダム出張所が開設されて、予備調査、地質調査をされるわけですね。

陣内: ダムサイトの有力候補地点には、藤原ダム工事事務所の阪西徳太郎所長によって吾妻渓谷のど真ん中が選定され、急峻な渓谷の地形調査が大変だったと言われています。地質調査は河床のボーリング左岸沿いに走る国道の側壁岩体の試掘横坑で実施し、地質上はダム建設が可能なダムサイトであると判定されました。しかし、水質調査でコンクリートモルタル、鉄釘の各供試体を吾妻川の河川に浸漬して総合的に調査を実施した結果、強酸性の吾妻川にダムを建設するには問題があると判明したため八ッ場ダム出張所による予備調査はわずか1年間で現地から引き上げることになったのです。
 しかし昭和32年から群馬県の企業局がなんとか死の川を甦らせようということで、長野原の奥の吾妻川支川に品木ダムを計画して、そこに酸性水を中和する工場を建設し稼働し始めました。それが功を奏して、昭和39年には、実際に川が甦ってきたのです。ちょうどその頃、東京オリンピックがあり、その直前には首都圏は渇水で、東京砂漠と言われ、とにかく首都圏の水源を何とかしなくてはというムードが高まって、八ッ場ダムの建設をもう一度考えようということになりました。

浮上した八ッ場ダム建設計画

中野: 品木ダムが実現したおかげで、八ッ場ダムを造るということになって、一度は鎮静化していた地元反対派の活動もまた動き始めたということですね。

陣内: 昭和42年に改めて「八ッ場ダム建設の基本方針」が建設省関東地方建設局から群馬県知事・県議会に伝えられ、これが2回目の水没宣言となりましたが、昭和27年の第1回目とは違って、八ッ場ダムへの地元の意識も多様化していました。大蔵省の主計局長だった福田赳夫先生が国会議員になっておられ、この先を考えるとやはりダムは必要だという考えでしたし、その福田先生の選挙責任者の一人であった桜井武さんが先生の薫陶を受けて町長になり、やはり八ッ場ダムは必要じゃないかと言い出したのです。
 反対運動のリーダーだった萩原好夫さんも、沼田ダムのように建設反対を押し通すだけの県を上げてのパワーのない八ッ場ダムはいずれ造らざるを得ないのではないかというふうに状況は変化していったように見えたのです。ただ、川原湯温泉のダム反対派は樋田富治郎会長(後の長野原町長)を中心に中央の政治力にも頼りながら、これまでになく団結を強めていきました。


品木ダム(写真提供:池ちゃん)
品木ダム上州湯の湖

品木ダム浚渫船(写真提供:安河内孝)
八ッ場ダム調査事務所の開設

中野: 反対派の住民との話合いも進まないなか、調査事務所開設は大変だったのでしょうね。

陣内: 昭和42年度に入り、八ッ場ダムの実施計画調査が始まったため、現地調査に当たる「八ッ場ダム調査事務所」を年度内に設置することとなりました。ダム賛成、反対、中立などに分かれて町議会や地元関係者が運動を強める中、建設省は9月に「吾妻川総合開発調査所」を開いて準備作業に入り、11月に後の工事事務所の前身となる「八ッ場ダム調査出張所」の開設にこぎ着け、昭和43年3月に「八ッ場ダム調査事務所」を出張所の昇格によって開設させました。こうして少しずつではありますが前進していったのは、実施計画調査を進める中で、地元への理解と協力を求めていきたいという関東地方建設局の総力を挙げた匍匐前進の如き営みだったのです。

中野: 少しずつ進んで行ったのに、結果的には賛成とならなかったのでしょうか。

陣内: ダム賛成や容認する水没関係者が次第に増えていましたが、他方でダム反対派の表立った組織的な行動も続いていたので、ことさら地元を混乱させたり、反対派の反発を激化させないように、慎重に手順を踏んでいったものでした。
 その頃九州・筑後川では下筌・松原ダム事業が進められていて、ダム反対のリーダー・室原知幸氏は「法には法、暴には暴」のスローガンを掲げてダムサイトに蜂の巣城と呼ばれる砦を築いて激しく反対斗争を続け、41年3月に完全に落城した後も私権と公権に関わる法廷斗争を次々と続けておられました。八ッ場ダムの地元は重大な関心をもって、成り行きを見守っていたのです。
 同じ頃、中立派リーダー・萩原さんの理論武装の師であった東京大学法学部の華山謙先生は新たな概念のダム補償論を展開されていました。先生は憲法29条に定める「私有財産は正当な補償の下に公共のために用いることができる」とされているので、ダム事業においては“正当な補償”として、必要な生活再建対策とそれを支える十分な水源地域整備を行なうことであり、それによって水源地域と受益地域間の“公平な負担の原則”が担保されると中立派のみなさんに説いておられました。萩原さんは、必要な財源は下流の開発利益より生み出し、計画は地元が主体となって推めるとされていて、反対派、賛成派からは警戒視される向きもありました。
 いずれにしてもダム情勢の先き行きが見通しにくい中での組織整備でした。

中野: 全くの反対一辺倒ではなく、それまでの概念、下流の大きな受益の為に上流では負担を我慢しろというのではなく、下流の大きな受益に見合う、十分な補償のもとにダムを造ろうという発想が出て来たのですね。

陣内: そういう概念の補償論が様々に組み立てられました。中立派のリーダーの萩原好夫氏は、正しい補償の決定権は、その補償を受忍する立場の自らにあり、国が決めるではない。地元の住民に利益をもたらす生活再建対策、地域振興策を地元に作らせてくれるならば、中立派は賛成に回ることが出来るという立場でした。建設省はそうした中立派の戦術を承知の上で全面的な協力を得ることが出来、調査事務所を格上げすることにしたのです。
 長野原町の桜井町長は地域振興策をダム関連事業として進める考え方でした。群馬県の神田知事は、水源地域開発法を新たに制定してこれまでの一般補償の理論では不十分だった水源地振興策や、過疎化を食い止める施策を行う必要があるとして、下流の受益地域の大きな公の利益の一部を水源地域に還元し、ダムが出来る水源地域の小さな犠牲は、全て改善されるべきとの考え方を示されました。全国知事会でも特別委員会の委員長として神田知事は水源地域開発法を作るべく、政府・国会に働きかけておられました。中立派は正当な補償のもとに、自分たちで地域振興策を作って頑張るという意思を示し、それをサポートする県議会の有志の皆さんと協議の上、調査事務所が行う、第1回目の住民説明会を支援したのです。それにより町役場前の雲林寺において、昭和43年4月に歴史的な実施調査の一頁が開かれたのです。

中野: そこまでが大変なご苦労だったのですね。

陣内: 地元の大半が絶対反対する中で、ダム計画を一歩前へ進めるためには、少しでもダムに対する理解があり、行動力のある人の力を借りないと一歩も進められないとする判断から、中立派の協力のもとでの取組みが、始まっているのです。それが初代の西所長さんの最大の役目だったのです。

生活再建相談所をつくる案

中野: 県や県議会による支援などはなかったのでしょうか?

陣内: 昭和44年3月、長野原と川原湯温泉の反対期成同盟会の役員が、自民党県連幹事長の仲裁に乗って、ダム反対・賛成・中立の意見をまとめた対策委員会を立ち上げて地元の一本化を促進するなど、3項目の対策案を受け入れることにしたのです。それには、生活再建相談所を作ることをやめることが前提条件だったのです。県も、せっかく反対派が土俵に乗ってきそうだから、生活再建相談所の建設はやめてくれと建設省に申し出てきました。しかし、建設省は中立派との約束だから譲れない。どちらをとるかということになったわけです。それで建設省は、中立派の言い分をとって、生活再建相談所を作り、県はそこで立場がなくなった訳で、県の協力がなければ何事も進まなくなったのです。


中野: いい案が出てこなくて、県側としては反対して、犠牲にならなければいけないという考えですね。

陣内: それで結局、西所長が昭和45年5月に交代されることになって、長谷川重義さんが第2代の事務所長として6月に着任されました。昭和45年の8月、私が人事院上級職試験専門委員の立場で草津へ行く途中、長野原線の沿線に、ダム反対という大きな字が屋根に書いてあったり、線路際にずらりとのぼり旗が立っているのを見て、大変な事がここでは行われていると驚きました。まさに長谷川さんの着任直後の地元情勢の一コマを見ていたのでした。

中野: その時、初めて八ッ場ダムでは大変なことが起こっているなという印象だったのですね。

陣内: まさかその後に私自身がその仕事に関わることになるとは夢にも思っていませんでした。

中野: 当時は、反対運動真っ盛りみたいな感じでしたね。

陣内: そうですね。しかし、所長が代わったので、小康状態ではあったと思います。初代の西所長は中立派とともに歩んで、生活相談所を作り、地域の皆で相談して生活再建対策を作ろうとされましたが、実際に作るのは萩原好夫さんと東京から招いた学者・先生たちでしたから、集まった中立派の地元の人たちはどこへ無理矢理引っぱっていかれるかわからないという不安があって、しまいにはこのやり方はデッドロックに乗り上げてしまいました。
 そこで、長谷川さんが着任されてからは、地域に信頼される形でないと、大勢の人が信頼して付いて来ないし、先へ進めない。そこで、県や町と一緒に行政主導で進めたい。中立派などの組織とともに歩くだけでは限界があるとの考えで、戦術転換をされた訳です。

中野: それはどんな転機になったのでしょうか。

陣内: 中立派リーダーの萩原さんとの間に大きな軋轢が生じてしまいました。長谷川さんは県が以前に地域対策を検討していた資料に基づいて、長谷川さん自身の生活再建対策を練られていて、長野原町議会に働きかけて行政主導で進めましょうというタタキ台を出されました。それが好意的に受け止められたのです。しかし、地域住民主導から行政主導の進め方に変わってしまっては、中立派のリーダーの立場がなくなってしまうので、結局大きな巻き返しを食らう事態が起こってしまいました。そして行政主導方式も行き詰まってしまい、八方塞がりになった処に、私が赴任することになりました。あちらも、こちらも同時に立てなければいけない、という立場に立たされたのです。

3代目として赴任することに

中野: 長谷川さんとの関わりで陣内さんに来てくれという話になったのでしょうか。

陣内: 実際どうだったのかは、人事のことだから判りません。長谷川さんとはご縁があった。それに八ッ場ダムの事業推進をはかるためとも言われた待望の水源地域対策特別措置法案が国会で審議中だったので、長谷川さんと気脈の通じ易い人が良かろうということで、私にお鉢が回ってきたのではないかという気がします。



中野: 大変な状況での赴任だったのですね。

陣内: 着任早々の初仕事は、長谷川前所長が始められた長野原地域の吾妻川河岸の崖崩れ調査の結果を長野原町議会に報告し、先輩の思惑通りに八ッ場ダム事業の先取りとして護岸工事に着手するということでした。町議会は河岸が危険だと判った以上は、ダム費以外で直ちに工事に取り掛かるように求め、私もここで町議会からの信頼を勝ち取ろうと思い、何とか予算を工面して防災対策に取り掛かることを約束し、その後、実行することにしました。どちらかというと予期せぬ船出となったのです。
中野: 何一つなかなか前に進まないような問題ばかりですね。

陣内: ダムは一般の公共事業と違い、事業地域に直に効用をもたらすことの少ない、いわば迷惑施設の最たる物として受け止められていて、地元の皆さんの理解と協力なしには進められないので、時間が掛かるのはやむを得ないと思います。ただ、ひたすら誠意を熱意で地元関係者の皆さんにダムアレルギーをなくしてもらう努力をしなければならない。それはもう、拒まれても拒まれても、やり続けることが大事で、何としてでも県と町に協力して頂けるような環境整備に取り組んでいきました。
 すべての立場の関係者一同が円卓会議に着く代わりに、私が関係者の間をぐるぐる回って、あたかも螺旋階段を昇っていくように、事態を打開していきたいと考え、少しずつ実行していったのです。それは天空から見ると、堂々巡りをしているかのようであるけれど、でも、着実に目的地にたどり着ける、ただ1つの道だと信じてのことでした。

解決の糸口としての 水源地域対策特別措置法

中野: いろいろな問題がさらに出てくる感じがしますね。

陣内: 昭和48年の2月に、水源地域対策特別措置法案が閣議決定され48年の9月の成立直前に、当時地元から出ておられた社会党の山口先生が、文化庁長官に八ッ場渓谷を保全しろという趣旨の質問をされ、安達文化庁長官が吾妻渓谷の本質を阻害しないようなところにダムを造って欲しいと建設省に申し入れているという答弁がありました。
 山口先生は自然環境保全の旗を立て、何としてもダム建設を阻止するんだという川原湯の皆さんの陳情を受け、その水源地域対策特別措置法を審議する建設委員会で質問をされたと言われています。吾妻渓谷の真ん中あたりにダムをつくる計画になっていましたので、このままではダムが造れなくなってしまった訳です。群馬県はダム推進に協力してくれと言われても、国の考え方が2つに分かれていては協力のしようがない。まず国の考え方を1つにまとめた上で県にお願いに来なさいという立場でした。そこで群馬県に協力を頂いて、水源地域対策特別措置法に基づくダム指定を早急に行う法手続きが必要ということで、ダムサイトを吾妻渓谷の本質を阻害しないように上流側へ移す計画変更を急遽行なう事態となりました。

中野: 私も以前、八ッ場ダムに行ったときに、ダムサイトが吾妻線のところに線が引いてあって、ここにダムができるのかと思いました。しかし計画変更されてダムサイトを上に上げるのは、基本的に地盤は大丈夫だったのでしょうか。

陣内: 以前の地質調査で上流側では地質が悪いから、下流に移して渓谷のど真ん中に決めたといういきさつがありました。しかし、前へ進むには、とにかくダムサイトを上流へ移さざるを得ないということで、急いで報告書をまとめ、文化庁と折衝をして承認を得ることができました。以前の地質調査では、河床から25m付近に熱水で変成した部分があり、右岸側には暮坂の溶岩層があって、漏水しやすい状況を呈しているとされていましたので、そこの対処策が重要でした。
 しかし、八ッ場ダムの経済効果、投資効果の大きさと、最近の進歩したダム技術で安全なダム建設ができることを確約して、文化庁の同意を得ることができ、これまでの計画地点より600m上流にダムサイトを変更させることで吾妻渓谷の本質を守ることが可能だと認めてもらいました。


八ッ場ダムのフルプラン

中野: あれもこれも反対というところだったから、解決の糸口はそこしかなかったということですね。

陣内: 群馬県知事が八ッ場ダムに協力するのに慎重だった理由は他にもありました。
 一つは、酸性水は品木からだけではなくて、もっと上流の遅沢からも出てくるという問題が残っているのではないかということでした。それについては、耐候性の鋼材を使えば腐食を防げるという調査をして県にご理解いただきました。
 最後の1つを解決するのが、フルプランに、八ッ場ダムを水資源開発施設として計上し、下流受益による基金の設立根拠を作って、水特法に不満の知事の期待に応えていくことでした。というのは待望の水特法が成立できたので、直ちに群馬県知事に八ッ場ダムの「ダム指定」手続きに積極的に協力頂けるものと期待していたところ、水特法の整備事業では知事が提案してきた「水源地域開発法構想」のようには行えないことを気にされてか、まずは知事としては事業主体の建設省が水特法の必要性を地元に理解してもらう必要があるとのスタンスでした。「ダム指定」手続きが難渋していたところ、利根川の総合開発計画の第2次プランが昭和50年で切れるので、昭和60年に向けて、次の10年の第3次フルプランをつくらなければいけないタイムリミットがやってきました。

上州湯の湖へ流れ込む川

 そこで八ッ場の「ダム指定」のための手続き対策を後に回わして、八ッ場ダムをフルプラン上の水資源開発施設に計上する対策に乗り出しました。水特法の整備事業で目いっぱいに水源地域対策を実施し、それでも万全とならないところは、下流受益県の開発利益を基金という形で水源地域を支援し、補償事業・整備事業並びに基金事業の三位一体で万全の措置ができる制度を整えるために、八ッ場ダムのフルプラン計上が重要でした。

中野: 基金と一緒にならないと進んでいかないということですね。

陣内: そうです。前もって「地域間協力のあり方」というパンフレットを作成して、町や議会、地元関係者に下流受益県の基金によって水源地域にダムができて良かったと思えるダムづくりが可能になることを広く説明に廻って歩きました。いよいよ実現できる時がやってきたとの思いでいっぱいでした。
下流都県の基金設立に全力を注いだ

中野: 下流が基金を出す根拠もそこでできたということで、上下流の共存共栄、協力のあり方をつくる時代に向かったわけですね。

陣内: ところが、フルプランに八ッ場ダムを水資源施設として組み入れることについて神田知事は慎重な立場を貫かれたのです。地元がまだ組み入れに賛成していない、時期尚早ということで、所管の国土庁に出向き、口頭で「八ッ場ダムの計上をちょっと待ってくれ」といわれました。しかし、国土庁が「これ以上は待てない」ということで手続きが進められ、他のダムよりも遅れて八ッ場ダムが特別に追加される形で閣議決定にこぎつけられたのです。福田・中曽根先生それぞれの意向に配慮しながら、計上してもらえたのは画期的でした。念願だった「上下流間の協力のあり方」とか、基金設置に対する下流へのお願いが進んで、51年の10月に私は本省開発課に転勤し、11月に基金設立の協議会ができ、間もなく利根川・荒川水源対策基金が設立されました。

議員への転身

中野: 八ッ場ダムは3年でご卒業されて、建設省退官後は佐賀県に行かれたのですね。地元に戻られてからどういうことをおやりになったのですか?

陣内: 私も水特法フルプラン、上下流関係の基金作りなどに関わってきて政治の問題解決力というか、そういう働きの重要さというものを身にしみて感じていました。佐賀は治水、利水対策がまだまだ必要なところでしたから、政治の場からそれを応援していきたいという気持ちもありました。私の先任の参議院議員の三池先生や地元の首長さん達から、随分と熱心にお誘いを頂き、ふるさとの治水、利水事業の推進とダムづくりの手本となる魅力的な嘉瀬川ダムづくりにお役に立ちたくなり、全国の治水事業の推進に貢献できればとの想いも募り、政治の世界への出馬を決心したわけです。

八ッ場ダムでの経験が 地元への還元になった

中野: そうですね。八ッ場ダムのお話を聞いていると、初代、2代、3代目の所長さんは、糸口も何も見えない状況にありながら、どうにか地元の方の気持ちを解きほぐしていこうと努力されてきたのですね。以前にダムの補償問題を伺った際に、「勘定と感情が釣り合うか」という言葉があったのですが、やはり地元も県もいろいろな意味で、やはり得をするものが見えてこないと動かないというのがありますね。

陣内: それはそうです。県知事が退任される時、インタビューで答えておられますが、河川法改正で、従来は知事権限で河川管理をやっていたものが建設大臣に移ってしまい権限を取り上げられたので八ッ場ダムで一生懸命頑張ってやろうと思っていたが折れてしまったようでした。でも、知事さんは地元の気持ちに寄り添って、懸命にやってくださったと感謝しておられました。

八ッ場ダム定礎式写真(矢崎八ッ場ダム工事事務所所長とともに)(写真提供:陣内氏)
八ッ場ダムへの思い

中野: キャサリン台風以降、同じコースに台風が来ないのが幸いですが、八ッ場ダムは建設だ、中止だと揺れに揺れました。陣内さんは、土木技術者時代、議員時代を通して、八ッ場ダムについてどういうふうに思われておられますか?

陣内: 一つは、今年で八ッ場ダム調査出張所が出来てから50年になります。その間、地元も世代が全く代わり、もうこれ以上長引かせてはいけないという思いがあります。昭和39年当時の大渇水で、東京砂漠という声が出た頃に八ッ場ダム計画の再開が決まったので、今度の東京オリンピックまでにはぜひとも間に合わせたいと思っています。
 基金も創設し下流側も一生懸命協力している訳ですから、次の災害が来る前にきちんとダムの効用が発揮出来るよう、準備を終えないと申し訳ないと思います。そういう意味では、直近で5年間も工事を休んだということは大変残念ですし、地元にも下流の受益県にも申し訳ないという気持ちになります。

ダム建設に振り回された地元住民


建設中の八ッ場ダム

中野: 以前、私が八ッ場ダムに見学に行った時は計画が止まった時でした。ここまで皆が苦労して、最終的に造ってくれると思ったら、政権が変わったら中止にされてしまった。今、八ッ場ダムはようやく本体工事が進み、見どころを迎えているところなのですが、陣内先生が一番強く感じておられることはどういうことでしょうか?

陣内: 地元の人にすれば、ダムというものは全くの迷惑施設なのです。今はダム賛成という方であっても、本当はダムなんて造ってもらわなくても良かった。自分の一生がダム建設に振り回されたと悔しがっておられる方もいると思います。先日(3月4日)八ッ場ダム定礎式に参加させて頂きましたが、長い年月の流れに感無量でした。一日も早いダム事業の完了とダム湖のある魅力溢れる長野原の発展を心から願いました。
ダムの役割を理解してもらうには

中野: そうですね。誰かが我慢して、誰かが得をするのではなく、みんなで考え、それぞれが許容出来る方向に持っていく。勘定と感情が釣り合うようにするのが、ダム開発の大きなポイントだと伺っています。治水、利水、いずれにせよダムの役割は非常に重要だと思うのですが、ダムの役割をどのように伝えていけば良いのかというところで、何かお考えがあればお聞きしたいと思います。

陣内: どのダムでも水源地域対策特別措置法が適用される訳ではなく、また下流からの基金を期待出来る訳でもないのです。ダムによって受益の程度、負担のありようが違ってくるから、問題解決もダムごとに考えていくしかないと思います。どのダムでも水源地域が自力で再生できるものではないので、将来ダムが出来て良かったと思える所までちゃんと対策をやる覚悟がなければ取り組めないと考えるべきでしょう。
 一昨年の鬼怒川の大氾濫などで、ダムの果たした治水効果の大きかったことや昨年の利根川渇水でダムがなければ国民生活に多大な支障を与えたであろうことはあまり報道されなかったと思います。ダム協会などの広報で周知してもらうことが効果的であると思います。

八ッ場ダムは地域に開かれた ダムになってほしい

中野: そうですね。宮ヶ瀬ダムは地元と連携して、いろいろな施設を計画し、そこに人が集まるようなダムにしていったわけですが、八ッ場ダムも最初にいろいろ工夫があれば進んだのかも知れませんね。

陣内: 最初にボタンを掛け違えてから、長い年月が過ぎてしまいましたから、経済も社会情勢も激変してしまいました。川原湯温泉を甦らせるのは非常に難しい面があります。ダム湖が満々と水を湛えるようになり、湖の周辺に1万本の桜が咲くようになって、ダム下流の吾妻渓谷にダムの観光エレベーターで楽々行き来して渓谷をゆっくり散策できるようになった時には川原湯温泉が甦るものと期待しております。

中野: そうですね。最近、山木館に泊まらせて頂いたのですが、今はダム反対の立場ではなかったと思いますが。

陣内: 私が赴任していた頃の川原湯温泉には16軒の旅館があり、代表的なのが山木館でした。新しい川原湯温泉の旅館は4〜5軒位に減少していると聞いていますが、川原湯温泉の「湯かけ祭り」といった伝統行事や源頼朝以来の由緒ある歴史を引き継いで発展して欲しいと思います。そして先代の樋田富治郎さんが美しい湖の町づくりに町長とし貢献された功績を誇りに、いつまでも水源地域と受益地域が交流していく拠点として賦ってもらいたいと願っております。平成22年に樋田さんの町葬にお参りさせて頂いて、所長時代の思い出を懐かしく偲ばせて頂き、ご功績を讃えさせて頂きました。
 悔やまれるのはもっと以前の段階で水源地域づくりが提案できていたなら、樋田さんにも喜んで頂けただろうと思っております。川原湯温泉は、その草津温泉の上がり湯として、もう1晩泊まっていく土地柄、そうやって昔から親しまれてきた時代がありましたので、再び脚光が当たれば良いと思います。泉質は良いし、歴史もあるのだから、昔も今もその良さは変わらないと思います。

中野: これだけ注目されたのだから、ダムが出来たらそれを見に行く人も増えるのではと思いますが。

陣内: ぜひそうなって欲しい、ダムが出来たら首都圏の奥座敷として訪れる温泉場に再びなって欲しいところです。

ダム検証について

中野: 下流域の江戸川区や江東区のように、八ッ場ダムがもし出来なかったら地域の防災が大変だという場所があります。この地域の方が八ッ場ダムの工事現場を見に行くツアーに私も参加しましたが、ダムの必要性を理解されている方は、ダムの出来る地元の方とは逆にどうして長い間かかって出来ずにいたのかが判らないとおっしゃっていたのが印象的です。いまあるダム事業の計画は現在、事業検証がなされていてもう少しで作業が終わるようですが、これについてはどう思われますか?

陣内: 民主党政権の時代に83ダム事業が見直しの検討対象となって、現在、4つを残すところまで検証作業が進んでいます。すでに79事業の検証が済み、中止になったのは25事業、54事業が工事再開の判断となりました。

中野: そうですね。それらの見通しはどうでしょうか?

陣内: 今後は、再開となった54ダム事業も含めて、精力的に事業を進めてもらいたいですが、平成10年を境に、治水予算、公共事業予算の全体に言えることですがほぼ半減してしまっています。特に民主党政権時代の5ヵ年間、ダムがほぼ休止していたこともあって、ダム事業は財源的に非常に厳しい状況になっているようです。そうした環境のもとで、54ダムの事業再開ということですから、当分の間は厳しさが続くかもしれません。ただ最近の気象現象が極端化してきている状況が心配されます。
 地球温暖化に伴う気候変動に伴って雪国の雪が減ることで、自然のダムがなくなっていくのですから、水資源開発の必要性も続くはずです。温暖化の緩和策として水力発電が重要になるでしょう。ダム再開発に新しいダム技術が求められてくると思います。

ダムを理解してもらうために

中野: そうですね。水道は当たり前のように出ていて特に誰も何も思いませんが、一度渇水になったりすると大騒ぎになったりします。

陣内: 昨年の鬼怒川の水害でも、上流の川治ダムなど合計4つのダムで、全体の3分の2ぐらいの洪水量を溜めて氾濫水を軽減できています。それにより被害戸数も半分ぐらいにおさまっています。そういう情報も市民に判り易く届けばダムへの親しみがもっと増すと思います。
 平成25年、京都嵐山の渡月橋のたもとで川の左岸が氾濫して、お店が水に浸かっていたショッキングな映像が何度も報道で使用されましたが、あの時、上流の日吉ダムでピーク時の流入水の全量をカットしています。また、その下流の淀川との合流点では、破堤寸前まで越水していたのです。水防で乗り切ることが出来ていましたが、ダム群の調節効果が無ければ洪水位は0.5m高くなり破堤していただろうと言われています。もしあそこで破堤していたら、1万3 000戸ぐらいの家屋が水浸しになった。結果として、それが防げたというので、ダムが1兆2 000億円程の被害軽減効果をもたらしてくれたと言えます。

中野: 残念なことに、被害が出た時には報道されますが、被害を未然に防いだというのはなかなか報道されることがありません。ダムの関係者ももう少しそうした点を踏まえて広報に積極的になっても良いのではと思いますが、いかがでしょうか?

陣内: そうですね。異常な出水でダムが満杯になって放流すると、ダムが役に立たなかったとか、放流で洪水規模が大きくなったと取り上げられ、間違ってダムへの悪いイメージが伝えられかねません。最近は、ダム協会でもいろいろな取り組みを行って頂いているようですがダムへもっと足を運んでもらいダムの役割を伝えることが大事だと痛感しています。

ダムの将来について

中野: 気象変動が極端化しているということで、日本は今、多分ダムがなければ大変な状況になっているのではと思います。そういう意味では事業再開となったダム計画だけでなく、古くなったダムの再開発にも取り組み、維持管理の為の技術も含めて、技術継承をはかるべきだと思います。現在は、国交省の方でも河川情報、水防の情報をwebやSNSでリアルタイムに出すようにしているので、徐々にダムについての理解も深まるのではと期待しますが、ご意見がございましたらお聞かせ下さい。

陣内: 今、解禁になったダム事業を再開してどんどん進めていくということと、再開発も進めていかねばならないと思います。今あるダムをもっと計画水位を見直して効率よく運用するとか、あるいは嵩上げするとか、排砂のやり方を工夫するとか、そういう維持管理の為の新しい技術開発が必要でしょう。また管理の仕方も、気象予報も精度が良くなっていますから、そういう意味では気象データをさらに活用し、ダムの連携効果も高めていけば、ダムの重要性についての世論の理解も深まることと思います。
 ただ心配なのは、技術者が減ってきていることです。また資機材の供給システムも変わってきています。そういう状況で、突発的に大災害が起こって、さあ予算をつけたから仕事をしてくれと言っても、まず人材がいないし、資機材が高騰するということで、現場を回せなくなるだろうと思います。ダムもそうだと思います。土木技術者、特にダム技術者というのは、T.O.J.が大事。現場で、見せて教えて覚えさせる。そういう形で先輩から後輩につながっていかなければ技術の継承は難しい。とても伝わりません。それが今のこの業界のあり方、あるいは発注体制のもとでは難しくなってきています。

若い人に向けて

中野: 確かに時代が変わり、土木構造物をみて感激して学ぼうという学生も減っていると思いますし、現場で見て覚える状況というのも少なくなっていると思います。できるだけ多くの学生をダム現場に連れて行って、見て貰えたら良いと思います。現場力というか、それだけの魅力があると思いますから。学生にそうした機会を与えるには、どうしたら良いでしょうか?

陣内: なかなか難しいところですね。土木技術者のモノづくりの技術というのは、やはり現場で先輩からいろいろ細かい所を教えられて、だんだん習得して、次世代へつなげていくというものだと思いますが、今ではそうやって教える立場の人が現場で不足している。コスト削減のあおりで、現場には監督と下請けさんだけとか。現場で仕事をしながら伝えていくというのがなかなか出来なくなっていますから。それをどこかで補うような研修をしなければいけない。或いは、自分で公的資格をとる勉強もして貰うとかも必要でしょう。
 これは企業としてちゃんと対応するべきですが、一方では発注者側もしっかりとしたダムを、どんな形であれ、次々につくり続けていく努力をする必要がある。新たに造るにしても、再開発をするにしても、かなりコスト高にはなるかもしれないけれども、そういう若い技術者を次々に養っていく現場を発生させていかないといけない。やはり未来への投資として、研修とかいろいろな形でやっていくようにして、本人にもモノづくりに対する誇りというか、そういう喜びというのを感じるように、みんなで地位を上げて頂くということが大切だと思います。それには協会の役目も重要だと思いますね。

中野: 本日は貴重なお話をありがとうございました。

※このインタビューは2017.2.7に行いました。



(参考)陣内孝雄氏 プロフィール

陣内孝雄(じんのうちたかを)
工学博士

昭和8年8月24日生

(経歴)
昭和24年3月 旧制佐賀県立佐賀中学校卒業
  27年3月 佐賀県立佐賀高等学校卒業
  31年3月 京都大学工学部土木工学科卒業
  33年3月 京都大学大学院(修士)
       工学研究科 修了
  33年4月 建設省 入省
  48年5月 建設省関東地方建設局
       八ッ場ダム工事事務所長
  51年10月 建設省河川局開発課建設専門官
  55年4月 建設省河川局都市河川課長
  56年6月 建設省
       近畿地方建設局河川部長
  57年10月 建設省近畿地方建設局
       企画部長
  58年11月 建設省河川局河川計画課長
  60年1月 建設省九州地方建設局長
  62年1月 建設省河川局長
  63年4月 参議院議員
       佐賀県選挙区補欠選挙 当選(1回)
平成元年7月 参議院議員
       佐賀県選挙区選挙 当選(2回)
  3年11月 農林水産政務次官
  6年9月 参議院災害対策特別委員長
  7年7月 参議院議員
       佐賀県選挙区選挙 当選(3回)
  10年8月 参議院国土・環境委員長
  11年3月 法務大臣
  11年10月 参議院
       中小企業対策特別委員長
  12年3月 参議院
       行財政改革・税制に関する特別委員長
  13年2月 裁判官弾劾裁判所裁判長
  13年7月 参議院議員
       佐賀県選挙区選挙 当選(4回)
  14年10月 参議院予算委員長
  17年7月 参議院郵政民営化特別委員長

(現在の主な役職)
全国水防管理団体連合会 会長
全国治水期成同盟会連合会 会長
(一社)水底質浄化技術協会 会長
(公社)全国防災協会 名誉会長
(一社)日本基礎建設協会 特別顧問
(一社)建設電気技術協会 名誉顧問

[関連ダム]  品木ダム  嘉瀬川ダム  桂沢ダム(元)  八ッ場ダム
(平成29年5月作成)
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