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ダムインタビュー(37)
武田元秀さんに聞く
「四十年来の思いが叶い、『ダムと鉄道』にまつわる話を出版することができました」

 武田元秀さんは、平成23年12月15日に出版された『ダムと鉄道』(交通新聞社新書)の著者。小学生の頃からのダム好きが高じて、大学卒業後、文系でもゼネコンに入ればダム現場の事務係くらいにはなれるかもという志望動機で五洋建設へ入社。ダムではないもののいくつかの大きな工事現場を経験したのち、新聞記者に転職。事件記者として県警回りから始めて、ダムと同じく趣味の対象となっていた鉄道にも目を向ける。やがて新聞社を辞めて、ライターとして活動する中、長年温めてきたアイデアが実り、ようやく『ダムと鉄道』を上梓することができたとのこと。
 これまでお話を伺ってきたダムマニアさんたちが、巨大なダム本体に魅せられてダムを巡って来たのとは少し様相が異なり、山奥に大きなダムを造るために敷かれた鉄道を巡るという、まったく新たな視点からとらえたダム物語について、その魅力を伺いたいと思います。


(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)

小学一年生で読んだダムの本

中野: ご著書の前書きに、小学校の頃に見たダム本がきっかけとありましたがどんな本ですか?

武田: 私の生まれは福島県の郡山市です。父が地元で建設会社を営んでおり、父の大学時代の専攻は土木工学でした。本棚には建設分野の専門書が並んでおり、中に『只見川』という本がありました。これは地元の新聞、福島民報社の連載記事がまとめられたもので、奥只見、田子倉以下、阿賀野川水系にある全ダムと水力発電の様子が紹介されていました。読むと、福島県には日本有数の巨大ダムが2つもあり、子供ながらにちょっと誇らしいというか、郷土愛のようなものを感じたのでしょう。ダムに目が向いたきっかけは、おそらくこの本だと思います。

中野: その頃、実際にダムに行かれたことはありますか?

武田: 郡山は、只見川から100km以上離れているのでダムとはあまり縁がありませんでした。むしろ、父や鳶職人だった祖父に、しょっちゅう建設現場に連れて行かれたので、そちらの思い出の方が多いと思います。


『只見川』
中野: 小学1年生では難しい漢字や専門用語も出てくるので読むのも大変だったのではないですか?

武田: 建設現場が遊び場のようなもので、資材や工法などの専門用語に耳学問で馴染んでいたせいか、とくに難しいというイメージはありませんでした。ダムに関する図表や写真も多く、ただ眺めるだけでも楽しかったのだろうと思います。また少年向けの漫画雑誌にも、今でいうノンフィクション的な記事が結構多く、そこから学んだことも少なくないと思います。

中野: 他には、記憶に残る本はありますか?

武田: 当時、鹿島出版会が子ども向けに出していた建設本のシリーズをたまたま市内の本屋で見つけ、母にねだって買ってもらいました。『アルプスにダムができる』『超高層ビルのあけぼの』の2冊です。また、より印象深かったのは小学校3年生の時に見た映画『黒部の太陽』です。これは40年以上経った今でも、いくつかのシーンが目に浮かぶほどの衝撃で、その時はもう「自分でダムを造るしかない」と思ったほどです。(笑)


『アルプスにダムができる』
国鉄の機関区で見た蒸気機関車に魅かれて

中野: 鉄道はどうですか?やはり著書の前書きに「鉄道の街・郡山で育つと鉄道好きになるのは当たり前」とあります。郡山にはSLや電気機関車がたくさん走っていたのですか?

武田: 自宅は、郡山駅から歩いて3分ほど。国鉄の機関区も近く、小学校の図工といえばそこでの写生が定番でした。2年生の時には、真っ黒な鉄の塊のD60という磐越東線用の蒸気機関車が主役でしたが、3年生の時には無煙化され、朱色のDD51というディーゼル機関車が登場したことを覚えています。学区内には国鉄の官舎も多く、鉄道好きの同級生もたくさんいました。高学年になってからは、会津線、いまの会津鉄道や只見線などで使われていた会津若松機関区のC11、新津から来た磐越西線用のC57などのSLを目当てに、友達と一緒に日帰りで会津通いを続けていました。

中野: 小学生で列車に乗りに行ったりする、鉄っちゃんになったのですか?

武田: 鉄道が好きな友達に誘われたことと、オリンパスペンという小型カメラを買ってもらったことが大きかったと思います。今は大川ダムの若郷湖(わかさとこ)に沈んでしまいましたが、旧会津線の舟子・桑原駅近くの鉄橋は絶好の撮影ポイントでした。ただ同じ県内でも田子倉ダムは遠すぎて、まして小出経由でしか入れない奥只見ダムなど小学生では訪れようもなく。『アルプスにダムができる』で知った奈川渡はもちろん、黒部や御母衣ダムを見に行くというのは夢のまた夢の世界でした。

家業の建設会社は弟が

中野: 自分でダムを造ろうと思われたのに、法学部に進まれたのですね?

武田: 小学校のころはダム技師になりたいと思ったのですが、中学から理数系の成績が落ち始め、高校では「理系どころか、受験に理数科目があった国立文系も無理」というありさまでした。一方、2歳下の弟が親分肌の土建屋タイプで、理数系もよくでき、「田舎の土建屋は、技術屋でなければ務まらない」という父の意向もあって早い時期から「我が社の跡継ぎは次男」めいた雰囲気になっていました。その上「文系なら法学部へ行き弁護士になって会社を支えろ」と、無理難題を押し付けられ、法学部以外の受験は許されない環境になっていたのです。(笑)

中野: それで法学部に進学されたのですね。

武田: 就職はバブル景気の直前で、証券会社に進んだ人間が「最初の夏のボーナスがウン百万。新車買いました」と自慢げに話すのを聞きましたが、中小企業経営者の家に育った者にとって金融関係、特に銀行員の「裏と表」については、経理をやっていた母から聞かされていたので選択肢になく、モノづくり系の会社なら、どこでも文系の事務屋の立場は変わらないと考え、なじみのある建設業界に絞ろうと思ったのです。


ダムをやるはずがなぜか海洋土木の会社に

中野: その後、入社されたのが五洋建設でダムとは縁がなかったのではありませんか?

武田: 海洋土木に強い会社だとは知っていました。ただ、どこか会社訪問に行かなくてはと地図を眺めていたら、飯田橋界隈には名前を聞いたことのある建設会社が並んでいるので、効率よく回れるかと考えました。最初に行った会社は、対応があまり良い感じがせず、世間知らずな学生としてはへこみました。次に行ったのが五洋さんで、逆にすごく対応が良くてとんとん拍子に話が進み、結局他に会社訪問をすることもなく、就職させてもらいました。

作業服の仕事姿があこがれだったから

中野: 入社後はどういう仕事を期待しましたか?

武田: まず現場で働きたいと思いました。作業服姿は、昔からのあこがれでしたから。(笑)大きな建物や土木構造物を造る、モノづくりがしたかった。巨大な構造物ができた時、「これは俺が造った」とまでは言えなくとも、後世に残るような仕事に携わってみたいと思っていました。

最初の仕事は工事現場のクレーム処理

中野: 具体的には、どういうお仕事から始められたのですか?

武田: 最初の配属は本社人事部採用担当、次に横浜支店事務部経理課で、その次は横須賀総轄事務所の所属で現場回りという順番でした。
 いちばん大規模な現場は、米軍基地内でのドッグ改修だったのですが、チェックが厳しく中に入るためのパスがすぐに発行されず審査を待つのに数カ月かかるという状況で、その間、逗子市内の高級マンションの造成から建築に至る、大きな現場の庶務係がメーンでした。

中野: 現場で、念願の作業服でのお仕事ですね。



武田: 実際は、複数の現場のクレーム対応など人間相手の仕事で、近隣から「工事が始まってからテレビの映りが悪くなった」とか、「ダンプがスピードを出し過ぎる」とか、さまざまな問題が持ち込まれました。とは言え、「ダムの用地担当の諸先輩方の御苦労に比べれば、何のこれしき」と、昔読んだ本のエピソードなど思い出しつつ、ネクタイに作業服で走り回っていました。

中野: モノづくりに携わるという感じは、あまりしなかったのですね。

武田: 別の意味で人の暮らしに役立つ、やりがいを感じる仕事でしたね。特に印象に残っているのが、台風などの時の現場見回りです。プレハブの事務所に泊まり込んで待機しているのは元請・五洋の社員だけ。台風が近づくと、所長代理に「行くぞ」と言われて連れ出され、土砂降りの中、雨合羽を被って指示されるままにあっちのロープを締め直したり、そっちの資材を片付けたりしていました。それは快適な暮らしのためには「必要不可欠」なものということだと思います

中野: その当時、ご自分で携わってみたいと思っていた現場は、どういうものでしたか?橋とか高層ビルとか?やはりダムだったのでしょうか?

武田: できればダムでしたが、残念ながら五洋建設時代はその機会には恵まれませんでした。実際に携わった現場で言えば、建築より土木の現場のほうが面白かったような気がします。自分としては、逗子の高級マンションのモデルルームに運び込まれる北欧からの輸入家具なんかより、横浜横須賀道路のインターチェンジ造成用に積み上げられたセメント袋のほうに、愛着を感じました。(笑)

ゼネコン社員から、突然、新聞記者に

中野: そうした中、突然の転職だと思いますが、それはどういうきっかけでしたか?また、どうして新聞記者という仕事を目指そうと思われたのでしょうか?

武田: ゼネコンに入ったのがたまたまならば、これも偶然に近く、横須賀のアパートで購読していた朝日新聞に載った「記者募集」の社告を目にしたことです。年齢制限が28歳で、当時の自分が最上限だと知り、「まだ、間に合うのか」と思ったのを覚えています。言葉足らずになるとかえって誤解を招きそうなのですが、新聞記者を含めたマスコミ関連の仕事というのは、文系人間にとって数少ない「技術屋的職業」だと、当時は考えたのかもしれません。五洋建設での仕事には何の不満もなかったのですが、モノは試しと受けてみました。大学時代に朝日新聞で単発の世論調査のアルバイトをしていたのが唯一の接点で、内定をもらってみて「さてどうしたものか」というのが本音でした。

最初の記事は鉄道事故

中野: 新聞記者として最初に紙面に登場した記事はどういうものでしたか?また、その時の手ごたえは、前の仕事と比べてどんなふうに違いを感じられましたか?

武田: 新聞記者というのは、基本的に1年目はサツ回り(警察担当)から始まります。事件・事故について、いつ、どこで、どんなことが起きたかを簡潔に伝えるのが基礎だからです。1990年に、私が最初に赴任したのは、滋賀県・大津支局。2年目で県教委担当への持ち場替えがあった直後の翌91年5月、信楽高原鉄道の正面衝突事故があり、多くの犠牲者が出ました。私が鉄道に詳しいというのが上司に知られていたこともあり、以後、大津を離れる92年3月まで、ずっとこの事故を追い掛けることになってしまいました。

中野: お好きな鉄道の取材でも、大事故からとは大変でしたね。


朝日新聞に入社した1990年。大津市の皇子山球場で、夏の高校野球滋賀大会を取材。大津支局の同僚と(左から2人目が武田さん)
武田: 大津支局では、ダム関連の取材というのはほとんどなく、それこそ今につながる大戸川ダムや高時川(現・丹生)ダムの計画が動いていたはずですが、こうした方面は、基本的に県政担当のベテラン記者の受け持ちでしたので。大先輩が県庁での会見を元に書く記事を見ているだけでした。
 自分では、大津から信楽の事故現場へ向かう県道が大戸川沿いを通っていたので、行き来する途中に流れを見ながら「このあたりが予定地か。ダムの立地点としては"平たく"ないか?」と思った程度です。

新聞記者の目から見たダム問題

中野: 記者としてダムに関わられた経験はないのですか?



武田: 1997年末に赴任した新潟支局時代に奥只見・大鳥発電所の増設工事に絡んで、「イヌワシ保護問題」に携わりました。奥只見ダムサイト近くに天然記念物のイヌワシの営巣地が見つかったことで反対運動が起きていたのです。ダム管理者の電源開発側、また反対派側、ともに新潟県庁で記者会見を開いていました。私は、県庁に詰める県政担当ではなく、遊軍、つまり特に担当を持たず、企画ものなどをカバーするポジションだったのですが、「自分はダムに詳しい。奥只見も何度も行っている」と手を挙げて、なし崩し的に「奥只見・大鳥担当」に収まりました。そこで、以前このインタビューにも登場された藤野浩一さん、当時頂いたお名刺を見直すと、電発本社の「調達部長」というお立場でしたが、藤野さんとは取材でいろいろお話しました。現地の所長でいらした堀正幸さん、事務方としてお世話になった、いまは電発内でそれぞれ重職を務めておられる石渡康夫さん、笹木俊一さんらのお名前も、すぐに浮かぶほどです。
ダムを巡る、人との付き合い

中野: 藤野さんには、以前に水力発電のことをインタビューで伺いましたが、現地に行かれてご苦労されたのですね。

武田: 大変だったと思います。ただ、当時の電源開発の対応が立派だと思った点は、「手持ちのデータはすべて公表・提供する。現場は可能な限り公開する」という姿勢を貫いておられたことです。当初は「増設工事の振動で巣が落ちた」とか、「騒音が繁殖活動に悪影響を与えている」という、反対派のキャンペーンが「優勢」な印象でしたが、環境への影響を少なくするためダムに貯水したまま水抜き穴を開ける新工法を開発したのに対して、「ダムに穴を開けたら決壊の恐れがある」などと、反対のための反対のような主張には、さすがにこちらもあきれてしまい、そんなアピールを記事にしたことはありませんでした。
 でも、電発側はそうした反対意見に対しても、巣の監視カメラの映像を提供したり、マスコミはもちろん、市民グループの人たちにも現場を公開したり、きめ細かな対応をむしろ積極的に行っていました。実際、奥只見シルバーラインが閉鎖されていた冬季に現場を取材したことがあったのですが、うっすらと雪に覆われ、誰もいないダムサイトは静寂そのものでした。地下の掘削現場に入ってみれば重機が動き回り、相当な騒音があったにもかかわらずです。できる工夫を一生懸命されていたことが、よく分かりました。

情報が出てくることで、反対という声は静まる

中野: 人々の暮らしに必要な工事だから、環境にも配慮して行うという時代になっていたのですね。

武田: 次第に「増設工事がイヌワシに悪影響を与えている」というトーンは、新潟県内の各新聞・テレビ局ともに薄れていきました。他の地域でも同様の問題は生じていますし、いろいろ事業者側と自然保護派との「対立」めいた話を聞いていますが、そうした時には、おおむね後者の言い分が強調された報道が優勢になる印象を、読者の方も持っていると思います。「奥只見・大鳥増設」は、例外中の例外でしょう。

中野: 朝日新聞は、八ッ場ダムでも長良川河口堰問題などでも、おおむね批判的なスタンスで記事を書かれることが多いと感じていましたが、編集会議で、そういう方向で行こうというような話があるのでしょうか?ご存知の範囲内で教えていただければと思いますが。

武田: 朝日新聞の夕刊で、国の原子力政策に対する「社論の形成」についての検証記事が連載されていましたが、そういったレベルから見れば、長良川河口堰も八ッ場ダムも、少し誤解を招く言い方になるかも知れませんが、あくまで「個別の事例」に過ぎません。

いつもダム反対ではなく、是々非々で

中野: 個別の事例と言いますと?

武田: 「社論として、建設反対の論調を張る」と意志決定するほど、大きな問題ととらえるのではなく、基本的にはあくまでも個別の事案で、是々非々の立場で取材し記事にするというスタンスです。実際に取材をした記者がそれぞれ書いた記事が「正しい」という判断で執筆し、出稿され、紙面化されているのだと思います。

中野: あくまで取材した記者が見たまま、感じたまま、事実を積んで記事になるということですね。

武田: どうしても公共事業などについては、事業者側よりも「反対派」の動きの方が目につき、ある意味、彼らの「マスコミへの取り上げられ方が上手」「絵になるシーンを演出している」というのは感じています。
 ちょうど長良川河口堰が運用を開始した頃、私は大津から名古屋本社の整理部に異動し、内勤になりました。

中野: 整理部というのは、具体的にどういうお仕事になりますか?

武田: 整理部というのは、社会部や経済部、政治部といった出稿部から出てくる記事を、ニュートラルな立場から「紙面のアタマ(トップ)だ、カタ(一般的には2番手)だ」と、判断するポジションです。現場の記者はどうしても「取材した側に肩入れしてしまう」傾向にありますから、当時はかなり「そっち寄り」に思える原稿が出てきたのを目にしました。外の印象からは意外かも知れませんが、社内では整理部の側から、「これはちょっと”市民グループ”に偏りすぎじゃないの」といったアピールを、社会部のデスクに申し入れて表現を抑えてもらう、場合によっては「ボツにする」ということも多々あるのです。

考古学好きのせいでダムに批判的

中野: 取材するときは肩入れしてしまうこともあるんですね。

武田: 自省も込めての話ですが、新潟支局時代に、奥只見・大鳥と並行して、県営奥三面ダムの問題がありました。水没地にあった縄文時代の遺跡が、相当なものだと判ったのです。支局は10人ほどの組織ですから一人何役も掛け持ちです。私は奥三面については「考古学担当」の立場で取材に当たりました。関係者の方にはたいへん申し訳ない話ですが、当時の私の印象の中では「これだけの遺跡を、この程度の規模の県営ダムに沈めてしまうのは、もったいないんじゃないか」という思いが勝っていました。だから我ながら何となく、記事のトーンが「そっち寄り」になっていた印象はあります。
 奥三面ダムでは、集落の村上市への集団移転も済み、「遺跡保存のために湛水を中止せよ」という市民グループ代表と称する投書の主が、新潟市内在住の「イヌワシ保護派」と同一人物のおばちゃんだったことも含め、現実的な話ではありませんでした。それでも、同じ記者=自分自身=が書いた原稿ながら、何となく奥只見・大鳥は事業者寄り、奥三面は反事業者寄りに感じられたということは、当時の同僚からも揶揄されたことです。逆に申し上げれば、「統一された社論」でなく記者の判断による「是々非々」で、記事が掲載されていることの証明になるのでは?という言い訳です。(笑)

電力不足の助っ人に、なぜ水力が出て来ないか?

中野: 原発事故以降の電力不足の対処法について、テレビ、新聞などマスコミの論調では、水力発電もCO2を出さない、クリーンな再生可能エネルギーですが、あまり水力発電をとりあげないのですが。

武田: 原発事故以降のマスコミの対応については、当事者ではないので何とも申し上げられませんが。以前の同僚や他社の記者などと話したことなども踏まえた私見として、特にダムによる水力発電というのは、「すでに出来上がっているシステムで、これ以上、増やせる余地のあるエネルギー源ではない」というイメージが強いのだと思います。太陽光や風力が既存の水力、火力、原子力に「プラスされる新たなもの」というイメージであるのに対して、アピール度が弱いと判断された結果ではないでしょうか。小水力発電については、案外取り上げられている気がしますが。


中野: そう言われれば、水力は新しいイメージではありませんね。それにつけても、脱ダムとか悪いイメージが先立つような…。

武田: ダムにせよ揚水発電にせよ、東京電力をはじめとする事業者側が、イコール原子力の事業者であることも、水力発電の良き持ち味がアピールされない理由のひとつだと思います。「水力でカバーできるなら、原発はいらないじゃないか」と言われれば、事業者側からすれば、やぶへびですからね。だから、今回相当に水力が「頑張っていた」のに、それを積極的に事業者側がアピールしてこなかったという側面があるので、広報・提供されない情報をマスコミが積極的に取り上げるというのは難しい。水力発電の重要性について取り上げた記事も決してなかったわけではないとは思いますが、マスコミの側に「水力発電の専門記者」など存在し得ないし、結果「掘り下げは浅い」でしょう。

ダムと鉄道を結びつけたもの

中野: 今回、執筆テーマとして、ダムと鉄道を思いついたのはいつ頃ですか?また、きっかけとなった事はありますか?

武田: 以前から、「ダムにまつわる鉄道ばなし」が「本のネタ」になるのではないかとは感じていました。朝日新聞から鉄道と旅行関係に強い編集プロダクションに移り、そこで学習研究社発行の『週刊にっぽん川紀行』(全30巻)というパートワーク(週刊百科)の編集に携わったことも、下地となっています。途中の巻からですが、当時、関東学院大学の教授でいらした宮村忠先生にコラム記事の執筆をお願いしたうえに、他のページについても、さまざまご教示頂いたことも役立っています。

中野: 宮村先生も以前にインタビューで、利根川のことなどを詳しく話していただきました。川をめぐっていろんなご縁があるのですね。

武田: 宮村先生には「河川の基礎知識」というコラムをお願いしただけでなく、「シリーズ監修者」と掲げるべきだったと反省するほどのご指導を頂きました。いまも勝手に「師」と仰いでいます。
 ダムと鉄道を具体的に「本にできるかな」と思ったのは、昨年の春、関西電力黒部専用軌道と、立山砂防建設工事用軌道に乗ることができた時です。一般の人たちがなかなか乗れない「専用鉄道」を実体験できたことで、これは資料をあたって文章にまとめるだけではなく、「ルポ」の要素も加えられると考えたのです。


週刊百科『にっぽん川紀行』(学習研究社刊)の編集者として2004年、厳冬期の黒部ダムを取材。関西電力のヘルメットとジャンパー姿で、キャットウオークを歩く。

旅と鉄道に思いを寄せた、ダムと鉄道

中野: 資料としてこういう鉄道があったというより、それに乗ってダムを見てきたという方が臨場感がありますね。

武田: それで朝日新聞時代からお付き合いがあり、いま『旅と鉄道』(発売・朝日新聞出版)という雑誌の編集長を務めておられる編集プロダクション・天夢人の芦原伸社長に相談すると、「それは、交通新聞社新書向きじゃないか」とアドバイスを受け、同社の若い編集者に企画書の作成や折衝、編集実務を手助けして頂くことで実現したという次第です。この『ダムと鉄道』というタイトルには、一度休刊して最近、復刊した雑誌『旅と鉄道』へのオマージュが含まれています。

中野: 具体的な取材対象は、 どう選ばれたのでしょう?

武田: まず田子倉ダムと只見線は40年来のテーマでしたのですんなり決まり。長島・井川ダムと大井川鉄道井川線も、何度も訪れたところで問題はない。佐久間ダムと飯田線も、外せないところだろうと。そして黒部と立山。自分としては『ダムと鉄道〜黒部・只見・大井川・佐久間・立山砂防』の5カ所で構成するイメージでした。ただ、交通新聞社の編集者さんから、「なるべく項目を増やしたい」「八ッ場ダムと吾妻線は取り上げてほしい」という意向が示され、「八ッ場」と「消えたダムと鉄道」の章立てが加わったのです。


『ダムと鉄道』
再訪して、自分の目で見てきた



中野: 今回、現地はあらためて取材に行かれたのでしょうか?

武田: ダムも路線も、今までに幾度も訪れたところばかりですが、すべて鉄道とバスという公共交通機関だけで再度訪れてみようと計画して、6月ごろから只見、大井川、佐久間と、「消えた」小河内、小牧にも出掛けてきました。ただ糠平、大夕張については、昨年訪れたばかりでアクセス可能な公共交通機関も失われている。経費やスケジュールの都合もあって取材し直せなかったのですが、それ以外の場所は全部再訪しました。

中野: 現地の古老や管理事務所の方など、多くの人の声を聞いておられますが、どこで誰に聞けば良いとか、そういう取材カンというか、取材の能力はやはり記者時代に鍛えられたものでしょうか?
武田: 初任地の大津の支局長、デスクからは「とにかく現場を踏め」「記者なんて100聞いたうち1でも紙面化されれば御の字だ」と叩き込まれていました。今回は、それが役に立ったのかなとは思っています。とにかく「人が居れば話を聞く」「関連資料が見つかれば入手して当たる」ということを心掛けました。特に土木学会図書館は、資料の宝庫でしたね。いまでも「ひたすら籠って、読みふけっていたい」場所です。

過疎化しているダムの町

中野: 原稿にする中でご苦労されたのはどの事例ですか?

武田: ダムの近くに行っても「人がいない」ことがいちばん困りました。黒部や立山の見学会では、引率役の方が付いて下さるおかげで疑問点はいくらでも質問できて解消しましたが。たとえば只見町の中心街を出れば田子倉ダムまで、誰ともすれ違わないから尋ねようもない。中部天竜駅から佐久間ダムも同じです。唯一期待していた「さくま郷土遺産保存館」も、旧・佐久間町の浜松市への合併で昨年3月に閉館していました。集落内でたまたま歩いておられたお年寄りに出会えたというのは、本当にラッキーなことです。井川本村集落でも、話せたのは、缶コーヒーを買いに立ち寄った酒屋のおばあちゃん一人。井川湖の市営渡船も往復貸し切り状態です。
 それと、只見線に乗って田子倉に出掛けた直後、豪雨で只見線は会津川口以遠、田子倉発電所建設線として造られた区間が、いくつもの鉄橋が落ち、惨憺たるありさまになりました。その現状を書くか、そのために再々訪するべきかと編集者ともずいぶん詰めたのですが…。結局、のちのち「資料」として読んで頂くことも考えると、訪れた時点、只見線が不通になる前の様子を記してほしいと…。あれだけの水害を、「なかったこと」にすることは、忸怩たるものがありましたが、「以前の姿がよみがえってくれるだろう」ことも期待し、その意向を受け入れました。

昔から重力式ダムが好き

中野: ご自分ではこのダム、この路線が好きだというのはありますか?

武田: 好きなダムの筆頭は、奥只見です。昔から横長の重力式ダムが好きでしたので、田子倉も同じです。佐久間は、やや高さに対して堤頂長が短い気がするのが、順位を下げる理由です。この3つの飾り気のなさも好きです。最近の重力式ダムで堤体にいろいろごてごてくっついている感じは、設計者には申し訳ないですがあまり…。「別に堤頂下にアーチ橋のイメージなど、いらんわ」と。あとは「薄っぺらなアーチダム」、鳴子とか、行ったことはないのですが、上椎葉とか一ッ瀬とかに引かれます。黒部は、両ウイングの武骨な張り出しが美しくない。(笑)
 路線としては、黒部峡谷よりも井川線のほうが「観光路線のくせに、案外媚びてない」印象が強くて、好みです。飯田線も、付け替え区間の北側、平岡・泰阜ダム湖のあたりの、左岸にへばりつくような様子は、「よくぞこんなところに線路を敷いたものだ」と驚くほどのものです。昭和初期にここを測量したアイヌ民族出身の川村カ子トさんは、すごい技術者だったのだなと、改めて感じ入りました。


奥只見ダム(撮影:安河内孝)
ダムのある暮らし、その未来をどう考えるか

中野: 武田さんご自身は、ダム巡りをされることがあるのでしょうか?

武田: もちろんあります。自分でダム巡りをするようになったのは、自家用車を持って「サツ回り」から解放された、名古屋時代以降です。暇ができると東名高速で佐久間、中央道で丸山、牧尾など木曽川水系のダムを攻めて、遠くは奈川渡界隈、七倉あたりへも足を延ばし、北は御母衣、九頭竜、鷲ダムなど。一人でずいぶん巡ってきました。
 それと、いま中学1年の下の娘がダム好きに育ってくれたおかげで、二人で結構「ダム巡り」に出掛けています。きっかけは3年前、高校生だった上の娘も一緒に山形県の上山市でサクランボ狩りをして、鶴岡市の加茂水族館に回ろうとした時のことです。私はすでにダムカードを集め始めていたので、「しめしめ、寒河江と月山でゲットできる」と考え、まず寒河江ダムで売店やら大噴水やらには目もくれずに管理事務所に向かい、「ダムカードお願いします」と…。続いて月山ダムでも同じように。月山ダムは監査廊などが公開されていますから、娘らはわずか2カ所目のダム体験で堤体内まで入り込めたわけです。相当なインパクトがあったようです。

堤体内見学で圧倒され、ダム好きに

中野: いきなりダムの堤体内見学だと、お嬢様たちも相当に驚かれたでしょうね。

武田: その後すぐ7月の3連休に、勝手知ったる大津へ連れて行った折。最後の一日は、米原でレンタカーを返すまで、特に行きたい場所も見当たらないということなので、「実は、滋賀県内にはダムカードの配布場所が6カ所ある。いちばん南の青土ダムは無理だが、残り5つはゲットできそうだ」と持ちかけたら、2人とも「行く行く、行きたい」というのです。
 最初の日野川ダムの係員の方が、高校生と小学生の女の子2人が「東京からダムカードをもらいに来た」と言ったら、とても喜んで、わざわざ事務所に戻って資料をたくさん持ってきて下さって、その親切ぶりに娘らも感激して、すっかりダム巡りに、はまってしまったようです。上の娘は看護学校に進学したので土日も勉強が忙しく、このごろは一緒に出掛けられないのですが、下の娘は比較的余裕があるので現在もよく行きます。
 最近は「この間行けなかった青土ダムの、ダム穴が見てみたい」だの、「豊稔池は芸術作品だ」などと言っています。彼女のダムカードコレクションをチェックしたら、寒河江、月山、日野川、蔵王、永源寺、宇曽川、姉川、青土、宇奈月、利根川河口堰、池田、早明浦、菅沢、竜門、下筌、松原、苫田、鳴鹿大堰、三国川、矢木沢、奈良俣、新宮の22枚になっていました。

中野: 立派なコレクションになっていますね。ダム関連の本などはご覧になりますか?

武田: 萩原雅紀さんの『ダム』『ダム2』、宮島咲さんの『ダムマニア』のご著作も、私が読むより先に持って行かれました。(笑)実は、『ダムと鉄道』の取材で、佐久間と奥只見を再訪した際には、彼女も同行しています。

ダムカードをきっかけに

中野: ダムがもっと一般の人にも見てもらえるようにするには、どういうことが大事だと思われますか?

武田: ダムカードの存在は大きいと思います。しかし、あえて名前を挙げますが。矢木沢と奈良俣での対応にはやや疑問が残りました。どちらもダムサイトに立派な「展示・資料室」的な施設を持ちながら、「ダムカードあります」の表記が、どこを探しても見当たらなかったからです。各地の訪問経験があって、さまざまなホームページなどを見ている私たち父子だから、矢木沢なら管理事務所のインターホンを押し、門の仕切りさえ閉ざされていた奈良俣なら売店で事務所の電話番号を教えて頂いて事務所に電話して、「開けて入ってきてください」との返答を得て入手できましたが。
 「展示室」には、多くの家族連れが来ていました。けれどその人たちはダムカードの存在をたぶん知らない。そういう人たちにこそ配布して、広報に努めるべき「媒体資料」なのではないでしょうか。現場が「土休日まで面倒くさい、それでも欲しいと言ってくる『マニア』がいたら、しょうがないから渡しましょう」って程度の発想・対応しかできないなら、いっそ止めてしまえばと。どちらも人気のダムだけに、がっかりしたことでした。


八ッ場ダムは、気がかり

中野: もうひと工夫欲しいところですね。今回のご著書で書き足らなかった、あるいはもっとここを表現してみたいというのはありますか?

武田: 八ッ場ダムに関しては、原稿の最終締め切りが11月の半ばでしたから、書けたもの、書けなかったものがあります。当初から、本体着工については、本の発刊直後には「中止の中止」と表明されるであろうことを前提に書き進めていたのですが。編集者サイドからは「万が一もあるので、前原元国交相による"中止"発言以降の動きについては触れない」という方針が示され、読者の方には申し訳ないのですが、自分としても中途半端な表現、内容になったのでは?と感じています。ただ、八ッ場ダムについては、反対派、推進派を含めて多くの方々がそれぞれの立場で、現地に根を下ろした取材や研究に基づいた著作を出されているので、私が改めて書き起こすべきことはないと思っています。
 「消えた」の章の中ではページ数の都合もあり、湯田ダム、村山・山口貯水池を割愛したことが残念でした。湯田ダムでは、付け替え線の建設に当たって建設省と国鉄との間に、費用負担などを巡る相当な「見解の相違」があったようです。建設省側のいわば正史である『工事誌』にさえ、かなりきつい調子で「国鉄の悪口」が書かれていたりして面白かった。これは単体で扱える話ではないので、この機会にぜひ紹介してみたかったというのが、著者としては心残りです。

ダムと人にまつわる話を

中野: 次の執筆計画は、どういうテーマをお考えですか?新たな取材ダム、鉄道は?

武田: いまは具体的な計画はありません。いずれダムとその周辺を、とにかく歩いて、特に現場の人たちの話を聞いてみたいと…。その中で何か書きたいものが見つかるのではという段階です。先日の「ダム工学会・語りべの会」には残念ながら出席できませんでしたが、台風や大雨に際しての「放流と洪水」を巡る論議は、気になっているところです。
 あと、大夕張・夕張シューパロダムは雪が溶けたらすぐにでも出掛けてみたいです。親戚が北海道に多く、夕張市内だけでも清水沢、真谷地に在るなど、慕わしい場所でしたので、今回「消えた」の中の短い1項目として扱うにはもったいないと思っていたものですから。そこから派生してですが、石淵・胆沢など、「ダムに沈むダム」についても気になります。

水力専門のエネルギー会社を

中野: 建設中のダムも検証が行われたりしていますし、今後新たなダム計画はすぐには出て来にくいように思います。そうした中、脱原発論も強まっていますが、我が国のエネルギー政策を巡ってダムの将来についてはどう思われますか?

武田: 確かに、八ッ場を除けば、今後10年スパンで新たな大規模ダムが着工される、できる場所は、まずないだろうと思います。ただ可能性としては、前述した「ダムに沈むダム」のリニューアル法のように、新たな水没家屋などを極力生じさせることなく、再生できるダムがあるかもしれないという期待は残っています。
 それと、北は北海道電力から南は九州電力まで。ここに沖縄を含むのはちょっと難しいと思いますが、全国の大規模水力発電所をすべて1社の一括管理に移管させるというのはどうだろうという考えがあります。これは単なる思い付き・夢物語のレベルですが、「クリーンエネルギー・水力発電供給会社」として、中央構造線周辺のダム近辺に周波数変換所を数多く増設して、東と西の状況を見極めたうえで、自由自在とまではいかないまでも、50ヘルツ〜60ヘルツ間で、ある程度の融通を利かせられるようにする。大規模水力の電気の融通機構のようなものが出来ないか?というアイデアです。
 我が国に世界一と言われるほど安全・安心で快適な生活があるというのも、ダムと鉄道が成し得た成果の一つだと思いますので、今は消えてしまった線路、あるいはダム湖に沈んだ集落の思い出の上に私たちの暮らしがあるということをわかってもらえればと思います。

中野: 本日は、貴重なお話をありがとうございました。

 
 
(参考) 武田元秀さん プロフィール

武田 元秀 (たけだ・もとひで)

経歴
1960(昭和35)年8月福島県郡山市で建設業者の長男に生まれる
1986(昭和61)年3月早稲田大学法学部卒業
1986(昭和61)年4月五洋建設株式会社入社(事務職)
本社人事部人事課新入社員採用担当
1988(昭和63)年1月横浜支店事務部経理課
1988(昭和63)年6月横須賀総轄事務所
「横浜横須賀道路佐原工区」「コスモ逗子造成・建築」「鎌倉津多屋ビル建築」「米軍横須賀基地ドッグ改修」など、工事現場の事務担当
1990(平成2)年1月株式会社朝日新聞社入社(記者職)
大津支局県警担当として「信楽高原鉄道列車衝突事故」など取材
1992(平成4)年4月名古屋本社整理部
1995(平成7)年8月東京本社整理部
1997(平成9)年12月新潟支局
「奥只見・大鳥発電所増設工事」のイヌワシ保護問題、県営ダム建設で水没する「奥三面遺跡発掘調査」、原発問題に揺れた「巻町長選」など取材
2000(平成12)年2月東京本社整理部
2001(平成13)年9月株式会社朝日マリオン21出向、整理部長
2003(平成15)年8月株式会社グループ・ルパン(編集プロダクション)入社
週刊百科『にっぽん川紀行』(学習研究社刊、全30巻)編集デスクなど担当
2006(平成17)年4月フリー
2011(平成23)年12月『ダムと鉄道』(交通新聞社新書)発刊

(平成24年3月作成)
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