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ダムインタビュー(91)
米谷 敏氏に聞く
「土木の仕事の基本は 人との関係性を大事にすること」

 米谷 敏(よねたに さとし)さんは,昭和39年に岐阜大学工学部土木工学科を卒業後,前田建設工業鰍ノ入社。ゼネコンの土木技術者としてのエンジニア人生をスタートさせます。その後はトンネル,道路,ダムといった大きな現場を次々と経験。土木の最前線に立たれます。そして,5つのダム現場において,現場代理人,主任技術者,監理技術者としては通算14年11ヵ月,ダム工事技術者としての通算現場従事期間は20年8ヵ月というご経験を積み重ねて来られました。
 今回のインタビューは,米谷さんにダム現場20年に渡るエンジニア人生を振り返って頂き,ダムとの関わりについて,或いは土木の魅力,土木の良さについて語って頂きます。5つのダム工事についてはそれぞれの特徴,工事の難しさ,苦労したポイントを。ダムに関わってみて分かった土木の仕事の面白さ,奥深さについて等々,これからの土木を担う若手技術者の糧となる言葉を頂きたいと思います。


(インタビュー:中野、写真・文・編集:事務局)

中野: まずは学生時代から就職するまでのお話からお聞きしたいと思います。進学するに当たり,土木工学科を目指したのはなぜですか?

米谷: 夢は船乗りだったのです。だから東京商船大学(現東京海洋大学)に入り,世界を回ってみたいと思っていました。この大学には,機関科と航海科があるのですが,機関科は大丈夫でしたが,視力が落ちてきたので航海科には入れませんでした。なので,国内でも海外でもいろんな所に行きたいという思いがあったので商船大学は諦めて,土木屋も陸の船乗りと言われているので,土木関連の仕事に就けば,全国の現場に行くことが出来るし,ダムやトンネルの施工に携わってみたくて土木工学科に進みました。

中野: なるほど,土木屋は陸の船乗りなんですね。大学の実習では現場には行かれましたか。

米谷: 実習は発注者に行く人,業者に行く人それぞれで,場所も遊びがてらに北海道や九州に行ったりする人もいましたが,私は前田建設工業の新幹線の現場を選択。ちょうど開通間際の静岡県の吉原工区に行くことにしました。その現場は非常に家族的で,所長さん以下職員のみなさんがとても暖かかった。実習が終わって帰る時,所長さんが実習代とは別に「頑張ってくれたから小遣いにこれを持って行きなさい」といって,ポケットマネーから金一封の封筒を頂きました。そういうこともあって前田建設工業が気に入ってしまいました(笑)。実習中も飲みに連れて行ってくれたり,本当に整理整頓も行き届いていて綺麗でとにかく楽しい現場でしたね。


大学時代(富山県・黒部ダムにて)昭和37年


中野: 就職は土木ということですね。

米谷: 学生時代に柔道部で主将をしていて,顧問の先生が繊維工学部の教授で,その先生の同級生が清水建設の専務をされておられたので清水建設を紹介しようかとの話もありました。また家庭教師のアルバイト先の社長がフジタ工業の社長をよく知っているからフジタはどうかという話もありましたが,両社とも建築が主体の会社だったので,実習に行ったときの雰囲気が良くて,土木が主体の前田建設工業に入社することにしました。当時の就職状況は全くの売り手市場でしたね。

中野: 実習でインスピレーションを感じたということですね。

米谷: 同級生の一人は鹿島建設に入社しましたが,昭和39年の新潟地震の時に信濃川の萬代橋で測量をやっていた時に,運悪く復旧作業車にはねられて亡くなってしまいました。せっかく希望した会社に入れたのに早世してしまい非常に残念に思いましたね。
新人時代の土木技術者としての仕事

中野: 入社早々お気の毒ですね。米谷さんが前田建設工業に入られた新人時代のことをお聞きしていきたいと思います。

米谷: 昭和39年4月1日に飯田橋の本社で入社式をしてから2日間の新人教育を受け,3日目には同時入社の5人と一緒に,上野から富山に向かいました。まず信越線で直江津に行き,さらに北陸本線に乗り換えて,富山に着くのに6時間位かかりました。北陸本線から見た鉛色の寒々とした日本海の景色は今でも覚えています。富山の寮で一泊して翌日に車で北陸支店に挨拶をして現場入りです。新入社員5人はこの支店で別々になりました。

中野: 最初の現場はどうでしたか?

米谷: 最初の現場は,北陸支店の猪谷隧道工事。ここは北陸地方建設局の発注で国道41号線の改良工事で支店から車で一時間位の所にある猪谷作業所という現場事務所でした。そこは,トンネルの新設工事以外にも明かり工事と橋梁の工事も抱えていた規模の大きな事務所で職員の数も30人から40人位いたと思います。

中野: 現場で印象に残っていることはありますか。

米谷: 毎日が測量づけでした。トンネルのセンター(天ダボ出し,基準測量),道路の擁壁の丁張り掛け,橋梁のピアーの芯出しという具合に結構測量作業を絞られました。ここでは,一年先輩に測量技術を徹底的に叩き込まれました。まずは器械(トランシット,レベル)の取り扱い方(当時の測量器具は今と違って使う前に毎回調整をする必要があった)をはじめ,丁張りの掛け方,図面の見方等,全て指導してもらいました。学生時代は遊び半分で測量をやっていたので,会社に入ってから本格的に測量をやらされました。先輩が非常に優秀な方で測量のイロハから教わりました。入社が一年しか違わないのに,これだけ出来るということに結構ショックを受けましたね。


中野: その現場はどのくらいおられたのですか?

米谷: だいたい3ヵ月くらいですね。そのあとは,新潟の松之山で地滑り対策工事の応援に行ったところで地震が起きました。昭和39年の新潟地震でした。ものすごく揺れて,たくさんの家屋が壊れました。松之山は新潟市内から距離的には200kmもないし結構近かったので,現場で測量をやっていた時に地震が起きたので驚きましたね。

中野: 大きな地震でしたね。この現場に1年9ヵ月おられたということで,次ぎに赴任した立山トンネル工事ですが,どのような現場でしたか。

米谷: この工事は「立山黒部アルペンルート」です。3 000m級の峰々が連なる北アルプスを貫き,長野県と富山県を結ぶ有名な山岳観光ルートの工事で,室堂(標高2 450m)から大観峰(標高2 300m)に向かう約4 000mのトンネルです。富山県側の2 000mを前田建設が担当し,長野県寄りはハザマさんが施工でした。

中野: 標高が高いので工事するには豪雪地帯ですから大変なところですね。夏は涼しくていいですけど,室堂手前の雪の大谷は多い年は20mの雪の壁が出来て,それ自体が観光名所になっていますね。

米谷: 冬は工事が出来ないので,3月から11月上旬までがその年の工事期間でした。春先の3月上旬に弥陀ヶ原から道路の除雪を始めて4月末の連休前に室堂宿舎までの除雪をします。最初の年は積雪が5mから20mもある所なので図面をたよりに道路測量をしてオペレーターの除雪の道案内をしました。翌年からは初年度の経験からオペレーターが目印を見つけておき,それをたよりに除雪をしていましたが,道路のヘアーピンカーブも多く,たまたま除雪した所に道路がないこともあって,1日分の除雪作業が無駄になったこともありましたね。

中野: 除雪作業だけでも大変なんですね。

米谷: とても寒くて,目出し帽,プロレスラーが頭から被っていたような格好をして除雪作業をしていました。酷い時には雪がブルドーザーの上に落ちてきてオペレーターが夕方まで帰ってこなかったこともありました。私も測量に行って死にそうになりました。この時の苦労話は,トンネル掘削工事に尽きます。何回も破砕帯にぶつかりながら迂回路を堀りつつ貫通させることが出来ました。現場は湧水量も多く,測量するにも苦労の連続でした。また気圧も低いため高山病になる者もいました。

 春先の3月からコンクリート打設するために下山前の秋口に一部完成したトンネル内に移動式バッチャープラントを据え,骨材セメントもストックして,また水もトンネル内に水槽を造り11月中旬に下山しました。以上の準備のお陰で翌年の3月からコンクリートを打ち始めることができました。室堂まで車が行けるようになるのは除雪が済んでアルペンルートが開通する5月の初めでした。

中野: 厳しい状況での工事だったんですね。

米谷: ここも上司が測量好きだったので,しっかり絞られて測量を仕込まれました。測量といっても,当時は角度を読むのにヘアピンの線を自分で調整してアイピース(虫眼鏡)で読んでいました。立山はすごく湧水の多いところで,4度ぐらいの水がどんどん出てく中での測量は大変でした。測量の一番の基本はトンネルの測量をやることです。貫通しなきゃいけないので精度の高い測量をしていたわけです。測量をやるのに,五寸釘の頭をグラインダーで削ってつるつるにして,やすりで十字を刻み入れて,鉛筆の先をとがらせて立てる。トンネルは暗くてみえないので後ろに白いノートを開いて立て,照明の光を映しながらやっていました。

 実際にトンネルが貫通した時は本当に嬉しかったですね。ほとんど寸法は違っていませんでした。

中野: 新入社員時代から約6年は,隧道工事,地すべり防止工事,トンネル建設工事と現場の実務のお仕事だったのですね。

ダム現場の始まりは

中野: 次は笹ヶ峰ダムに行かれますが,初めてのダム現場ということで思い出に残ることをお聞かせ下さい。

米谷: 笹ヶ峰ダムは,私が29歳の平社員で行って所長になるまでの8年間いました。赴任した時,現場で私の直接の上司は真野達直所長でした。真野所長は根っからのダム屋で,新入社員時代は有峰ダムの施工,関西電力の出し平ダムや富山県の熊野川ダムの所長も経験していました。

中野: 私もお会いしたことがありますが,気配りのできるダム技術者という感じを受けました。


笹ヶ峰ダム(後方の山は火打山と焼山)
米谷: 真野さんは頭も非常にキレて,細やかな付き合いの出来る人でしたが,部下には厳しい人でしたね。私も本音で面と向かって意見を言って,よく喧嘩をしましたが,ズケズケと意見を言う人間を嫌うどころか逆に好感を持ったようで,自分の後任の所長に私を推薦してくれたようです。眞野所長のマネージメント能力はたいした物で,発注者,地元,その他警察,監督署等の対応は完璧でしたね。私自身,所長になってみて全ての現場で真野流を真似てやってきました。


笹ヶ峰ダム委員会懇親会 昭和54年
(前列左から2番目 沢田先生 浅井先生, 長谷川先生,後方の一番左は米谷)
フィルダムの全ての工事をやった現場

中野: なるほど,笹ヶ峰の現場はどうでしたか。


笹ヶ峰ダム定礎式(昭和47年10月9日)

米谷: 笹ヶ峰ダムは,妙高山(標高2 445m),焼山(標高2 400m)に源を発する関川上流の笹ヶ峰地内にある堤高48.6mのロックフィルダムで,妙高高原から3kmぐらい山奥に上がった標高1 200mぐらいのところにあって,付近には京大のヒュッテや牧場がありました。

中野: 灌漑用のダムとしては日本一高い標高ですね。

米谷: そうです。農水省のダムでは一番高い標高1 220mで有数の豪雪地帯なので実質の施工期間は5月から11月末まで,現場の事務所は12月半ばで閉じて下山して,妙高の杉野沢の冬期事務所で翌年の4月までを過ごしました。近所に戸建の社宅を借りてもらって,その屋根雪の除雪を現場の職員6,7人で1日1軒分ずつやっていく。まるで家族のような生活でしたね。現場への輸送道路である併用林道(現在は県道)が麓のスキー場の中心部を通っていたため,スキー場が営業している4月上旬までは,併用林道の除雪は出来ないので,道路の除雪が終わって,高田城跡公園で花見をしてからみんなで山を上がる。それがちょうど4月の下旬ぐらいです。
中野: 現場で苦労されたことはありますか。

米谷: 山岳地帯のため雨量も多く,降雨量によりダム築堤日数が制限を受け,確かコアの盛立可能日数は年に75日位でした。地質が悪いところで,新第三紀中新世難波山層で砂岩と頁岩の互層ですべり面が多くて,地下水も高いため左右岸とも崩落を起こしアンカーや深礎工法で改良しました。フィルダム洪水吐き呑口部に5mぐらいの深礎でゲートの基礎をつくり,法面も地質が悪いので,法面対策工事としてPCアンカーと排水ボーリングで処理をしました。建設省の岩盤検査のとき検査官が「農水の人はすごく度胸がありますね。よくこんな場所にダムを造りますね」と言われました。

 ダム委員会では,沢田先生が委員長で大根先生や長谷川先生もメンバーになっておられ大変ご苦労されたダムで,沢田先生は「自分の集大成だ。委員会でここをうまくまとめられたのは僕の宝物になる」と言われていました。

中野: 長谷川先生のインタビューでもお聞きしました。施工者の方も大変なご苦労をされたダムだったのですね。

米谷: 農林省のダムは仮排水トンネルを最初から一括発注するので,トンネルの施工にも携わり,当然,測量もやり,ケーブルクレーンも架けたし,盛土もコンクリート打設も,フィルダムに関することは笹ヶ峰ダムで全部やりました。社内的立場も,笹ヶ峰ダムで平社員から所長になりましたし。ダム工事は昭和44年6月の輸送道路から始まり,昭和46年7月の堤体掘削,昭和47年7月の盛立開始,同年10月9日には定礎式を行い,昭和51年10月5日に盛立完了,そして昭和54年10月12日には竣工式を行いました。結局冬期間施行不可能のため堤高48.6m,堤体積568千m3の小規模ダムでしたが10年掛りになりました。

中野: 1から10まで。全部手掛けられたということですね。

米谷: コンクリートに関しても,冬の時期は打設出来ないので,いち早くコンクリートの試験施工をしました。試験練りしたコンクリートのテストピースの1週強度を出すのに一種の蒸気養生ですが,100℃に近い温度でほぼ一昼夜煮沸をしました。積算温度というのですが,普通は7日の強度を出すには,15℃の温水に7日間浸して養生をします。そうすると15℃×7日=105℃・日となり,それが積算温度となり,その時の強度が1週強度になります。

 ですから100℃でほぼ1昼夜(1.05日)煮沸すれば100℃×1.05日=105℃・日で同じになると言う理屈です。それは成熟度理論というのですが,変な例えですが100℃のサウナに10分入ると,100℃×10分で1 000℃・分の積算温度になりますね。温めの80度のサウナに12.5分入ると同じ積算温度になります。

中野: そういう計算をするのですね。

米谷: 積算温度は温度と時間を掛けたものがイコールになればいいのです。人間もそうですが,物すごく優秀な人は早死にする。ということは,自分のやるべきことを短期間にやってしまっている。ある某大学の先生にいわせれば,それは人間がもって生まれた負荷だと。

 例えば,これもまた変な理屈かも知れませんがAの人は500の負荷をもって生まれたとします。1年に10ずつ使ったら,50年で500の負荷になります。1年に8ずつ使ったら62.5年で500の負荷になります。そういう計算が出来るというわけです。負荷が100もって生まれた人もいるし,1 000もって生まれた人もいるし,それは個人個人で違うけれども,同じ負荷をもって生まれた人が短期間でやることをたくさんやっちゃったら,寿命は短いというわけです。これはある程度間違いないと私は思っています。

中野: 確かにそうですね。ゆっくりやればいいんですね。

米谷: そう。それが成熟度理論。長生きするためにはゆっくりやる。

中野: わかりました。次ぎの現場はダムではないのですね。

河川法に準じたダムではない 貯泥ダム工事



岩手県
旧松尾鉱山鉱害防止貯泥ダム建設工事

堤高×堤長は南側44m×47m,北側30m× 360m,堤頂幅は南北共に8m,法勾配は南北 共に前面1:3.3,背面1:2.5で堤体積は南 堤が950 000m3,北堤が414 000m3
米谷: 昭和54年6月に岩手県の旧松尾鉱山鉱害防止貯泥ダム建設工事にいきました。全体写真をもってきたので,ぜひ載せて下さい。

中野: ここはどんな現場でしたか。

米谷: 岩手県の岩手山のふもとの八幡平。標高1 000mぐらいのところに松尾鉱山がありました。昭和35,36年まで国策で硫黄を採っていて最盛期には年間100万tに及ぶ硫黄が生産されていて,およそ1万5千人が鉱山周辺で生活をしていたようです。

 今は廃坑になっていますが,大きな町で,昔は学習院の林間学校があって皇室の方も来ておられていた避暑地ですね。八幡平のアスピーテラインを越えていくと田沢湖のほうに出ます。八幡平はふもとの登り口だから観光地ですよ。

中野: 軽井沢のような感じですか。

米谷: そこまでは開けていませんでした。この現場では,通産省関係の商工労働部の人が監督でした。岩手県の土木部の人が商工労働部へ転籍をして,所長以下係長さん,発注者も,そういう人が来て監督してくれていたのです。

中野: どんな工事をされたのですか。

米谷: 鉱山から強酸性水が赤川に流出して北上川を汚染していたので,この現場は汚染水を炭酸カルシュウムで中和することにより発生した澱物を堆積するために,ダムサイトの東西は地山を利用して空いている南北を盛立で締め切り,貯泥池を建設する工事でした。山は当然悪いので,貯泥池をつくるところがなくて,昔,生活用水を貯めていた日影沼という沼に貯めるしかなかったのです。へドロがいっぱいで掘削するのが大変で,32tのダンプは一度に大体12m3から13m3近く積めるのですが2m3か3m3くらいしか積めない,泥だから。坂道で急勾配を上がると,全部流れ出して道路を汚しながら走っていました。

 このへドロの掘削,運搬には非常に苦労しましたね。東側の地山の薄い部分はアスファルトフェーシングで止水工事をしました。河川法に準じたダムではなったのですが,一応堤体形式は南北ともに遮水ゾーン,フィルタゾーンを伴ったゾーンタイプ(傾斜コア)のダムで一般河川と同様な施工管理をしました。問題は,天端標高が910mで冬は雪も多く,施工不可能で麓まで下がって冬期事務所での内業でした。

中野: そこも施工時期がある難しい工事だったのですね。

雪国のダムから亜熱帯のダムへ


底原ダム

所在地●沖縄県
発注者●沖縄開発庁
工期●1983〜1990
型式ロックフィルダム
堤体積●3 144 000m3
堤頂長●1 331.0m
堤高●29.5m
総貯水容量●13 000 000m3
中野: ここまでずっと雪国のダムを経験されてきたのですが,その後,石垣島の底原ダムへ行かれます。体調はどうでしたか。

米谷: 立山トンネルは標高2 400mでしたから入社以来20年目でやっと雪のない現場に来た訳です。石垣島の底原ダムに昭和58年1月に赴任した時,事務所ではストーブをつけて,職員は現場へ出るのに防寒服を着ていました。私は熱くて仕方がありませんでした。寒い現場の経験が長かったので毛穴が閉じており,石垣島の職員は逆に毛穴が開いていた。それで寒暖の感じ方が違うようでした。でも石垣島で一年を過ぎた頃には同じ様な感覚になっていました。

中野: 底原ダムはロックフィルダムですが,現場で印象に残っていることはありますか。

米谷: 堤高が29mと低く堤頂長が1 331mと農業用ダムでは日本一長いので,施工中はまるで飛行場の滑走路を造っているような感覚でしたね(笑)。

中野: 確かに滑走路をみたいですね。地質も随分違うと思いますが,施工の苦労はありましたか。

米谷: 基礎地盤は礫混じり粘土で,非常に強度が低いので堤体面積が広くなってしまい,収縮クラックもすぐ入るので,こまめに仕上げ掘削をして,その日のうちに養生をしながらコンタクトクレイの施工をしなければなりませんでした。北国とは違って雪こそ降らないのですが11月末から翌年の3月末までは雨期のため,特に盛立工事の施工は休止,仮設備の建物等も台風の影響を考えて全て平屋造りにし,屋根押さえのロープを張り,窓や出入り口には暴風雨対策として雨戸を取り付けた構造にしました。

中野: 仮設備は,雪国とかわりませんね。雨期の対策はどうされておられたのですか。

米谷: 亜熱帯地方特有の気候,高温多湿にも悩まされました。事務所や宿舎の全ての部屋には冷房用の空調設備がありましたが湿度が高いため衣類にも直ぐにカビがはえる状態で,冷房用よりも除湿用を多く使っていました。周囲は海で,雨にも結構塩分が含まれているので塩害の被害が多く,重機をはじめ一般車両の錆も酷く耐用年数が非常に短かかったですね。

 現場でもコンクリート用の鋼製型枠に錆が付き易くて,暑い時期には熱くて手作業ではやりづらいので全て木製の型枠を使用していました。

中野: なるほど,環境が変わってもそれぞれ苦労がありますね。

米谷: 炊事婦さんも現地の人を雇ったら,何でもかんでも油を入れて弁当を作るわけですよ。弁当のふたを開けると,おかずの中に油が浮いているんです。さすがにこれは堪らんと思い,九州の現場から炊事婦さんを呼んできて,現地の炊事婦さんに内地の食事の作り方を教えてもらいました。

中野: まるで海外に赴任しているみたいですね。

米谷: そう,海外と同じですよ。

底原ダムで3つの賞を授与した

中野: 仕事面での思いではいかがでしたか。

米谷: 仕事そのものでは関係者(発注者,JVの職員,地元の諸官庁等)の協力のもと170万時間全工期無災害で労働大臣賞,優良工事として農林大臣賞,その他火薬の取り扱いにおいては全国火薬類保安協会から優秀賞も授与していて,3つの賞を授与された現場でした。担当したダム現場では忘れられない現場の一つになっています。

中野: それだけ賞を頂けて,本当に素晴らしい現場ですね。

米谷: 底原ダムは竣工後27年になりますが,毎年旧暦5月4日のハーリーの日には当時の工事関係者の底原会という集まりを行って地元の人たちとも旧交を暖めています。

中野: ハーリーというのは,地元のお祭りなんですか。

米谷: 沖縄では毎年旧暦の5月4日はハーリーといって,元来航海の安全や豊漁を祈願しサバニと呼ばれる伝統的な漁船で漕ぎ競うお祭があります。今年は6月6日に開催されるので私も行く予定です。

中野: 石垣島は観光地としてもいい所ですね。

一番印象に残っているダム現場

米谷: 仕事の苦労はともかくとして,この島はコバルトブルーの海に囲まれ,年中真っ赤なハイビスカスの花やデイゴの花が咲き乱れている美しい珊瑚の島でスキューバーダイビングや釣り等の自然にも親しむことが出来た現場でした。

中野: 底原会というのは,当時工事に関わった方々の集まりですか?

米谷: そうです。今でも毎年のように集まってやっているのです。

中野: 27年経っても続いているのですか。

米谷: 関係者にぜったいに来いよと半強制的に誘ったのは,初めた時の4回くらいで,毎年ではなくて,だいたい3年か4年に1回ぐらいは,オフィシャルとしてみんな参加する方式でやっていますが,あとはプライベートな形にして案内は出すけど,参加は強制的ではないということにしています。


底原会(平成9年6月7日)
中野: 工期が10年もあったダムですからね。皆さん苦労されたのですね。

米谷: 苦労はしましたが,私の仕事としては一番印象の残っている現場でしょうか。生涯忘れ得ない素晴らしい現場とも言えますね。10年の間,台風銀座と呼ばれる石垣島であっても一度も台風の直撃を受けませんでした。島の側を通り過ぎたことは何度もありましたが,大きな被害はありませんでした。ただ飛行機が福岡空港や熊本空港に避難するので,機体繰りの都合で台風一過といっても翌日から飛んできてはくれないので不便でした。

 その後,昭和63年10月になって,底原ダムと兼務ですが天神ダムに移動して,この素晴らしい石垣島と離れることになってしまいました。

中野: 石垣島での生活は苦あり楽ありでそれなりに充実した現場でしたね。天神ダムそのものの在籍はあまり長くなかったようですが,如何でしたか?

米谷: このダムは,九州農政局発注のダムで,国営大淀川右岸農業利水事業の一環として宮崎市,清武町,田野町にまたがるおよそ2 000haの農地に水を供給するものです。大きさは,堤高62m,堤体積が231万m3という宮崎県で唯一のロックフィルダムになります。

 ダムを造る側から説明する特徴としては,基礎部における降下軽石層のパイピング防止策として右岸の上下流に連壁を施工したこと。それと監査廊を河床部の劣化帯を避けるために下流部に迂回して配置しました。この現場に関わったのは仮排水路の施工から連壁の施工途中までで余り長く居なかったのでこれといった印象は残ってないのです。ただ基礎地盤が悪かったのでグラウト工事には苦労するだろうと思ったことを覚えています。この現場を離れたのは平成2年だと思いますが,その後1年程,宇奈月ダムの法面工事の応援に行きました。

中野: 宇奈月ダムは本当に大変だったようですね。私も皆様方からよく伺っています。

米谷: 宇奈月ダムは左岸の法面に崩落の兆しが出て来て大きな問題になったからです。私は少しだけその対策工事の応援に行っただけです。その後,長島ダムには平成3年10月に行きました。ここは中部地方建設局発注のダムで,静岡県の大井川河口からおよそ80km地点の中流部にある多目的重力式コンクリートダムです。珍しいのは,その工法で,昔はよく施工されていたのですが最近は全然見かけなくなった柱状ブロック工法になります。

初めてのグラビティダムで 経験したこと

長島ダム

バンカー線の自動運転システム(平成6年9月)


中野: 長島ダムで初めてのグラビティダムの経験とのことですが如何でしたか?

米谷: 私のダム経歴の中で唯一の重力式コンクリートダムです。最近は面状工法が主体になっている中で重力式ダムのもっとも基本である柱状ブロック工法の経験が出来た事は非常に幸いでした。珍しいのはダム本体の構造物の構成です。長島ダムにはメインの放流設備であるコンジットゲートが6門,加えて非常用放流設備のクレストゲートが2門。その他にも水位維持管理用の放流設備が1門,低水位放流設備が1門と,全部で10門の内部構造物がある構成になっています。また施工現場としてもいろいろと工夫をしました。その一つとしてコンクリートの運搬設備としてリフトダンプ式トランスファーカー方式でバンカー線の自動運転システムで無人化を図ったことです。その関係で,ダム日本の座談会に出ました。

中野: そうですか。いつ頃ですか。


下流減勢工より上流を望む(平成6年7月)

米谷: たぶん平成6年。確か「21世紀のダム建設を考える」というテーマだったと思います。この頃,建設業界は,3K(きつい,きたない,きけん)職場と言われて,若い人が寄りつかない業種と忌み嫌われていたのです。そういう背景のもと,ダムの建設現場でどのような改善が出来るか。自然環境の保全をはかりつつ,地元地域の活性化を促し,さらに現場では設計施工の品質向上,経済性の追求,効率化をめざすという方向で色々な工夫をダム工事現場の第一線で活躍されている方々の課題を討論しました。私は長島ダムの所長として参加し,景観面での対策としてダム下流の法面に7.5mおきにスリットの化粧目地を入れたり,天端の立ち上がり部分は桜御影石で化粧をしたりしたこと。その他,作業員の福利厚生面でも宿舎はエアコン付きの個室にし,バーカウンターや娯楽室も設け,風呂場にもサウナを備えたことなどを話しました。

中野: どのような方が出席されたのでしょうか。

米谷: 出席者は官側として藤本 保氏(開発課開発調整官),足立敏之氏(宮ヶ瀬ダム工事事務所長),川上俊器氏(温井ダム工事事務所長),加藤剛四郎氏(水資源開発公団宮郷ダム建設所長),施工業者として岡田充弘氏(浦山ダム共同企業体作業所長),米谷 敏(長島ダム共同企業体作業所長),藤井守浩氏(大滝ダム共同企業体作業所長),司会者としては高樋堅太郎氏(水資源開発公団第一工務部長)でした。

( )は当時の役職


座談会「21世紀のダム建設を考える」メンバー
(ダム日本592 平成6年2月号)
中野: 工事面でのご苦労はありましたか?

米谷: 一番大変だったのは平成3年の台風の大雨で仮締切堤が決壊し流されたことです。その時の復旧工事で仮締め切り堤をCSG工法で施工しました。これは我が国のダム界では初です。

 当時,土木研究所におられた藤澤侃彦さんの指導を受けました。CSG工法はダム本体に使われる標準施工に移行しつつあり,8 000 000m3のボリュームのある成瀬ダムの施工も始まります。長島ダムの仮締切が平成4年ですから27年経てからの施工になる訳ですね。


長島ダム
本体で初めてのCSG 工法仮締切(平成4年7月)
最後の現場は桝谷ダム


桝谷ダム

所在地●福井県
発注者●北陸農政局
工期●1993〜2005
型式ロックフィルダム
堤体積●3 400 000m3
堤頂長●345.9m
堤高●100.4m
総貯水容量●25 000 000m3
中野: その後は桝谷ダムに移られたのですね。

米谷: 長島ダムでの定礎式を平成5年6月3日に終わらせて,ある程度軌道に乗った翌年,12月に桝谷ダムに転勤しました。私としては最後のダム現場になります。

中野: 桝谷ダムは,農水省直轄のダムの施工現場ですが,このダムも裏日本の雪国での施工のようですね。どんな現場でしたか。

米谷: ここは,北陸農政局発注の多目的ダムで,国営日野川農業水利事業の一環として,福井県中央部を流れる九頭竜川水系日野川にロックフィルダムを造りました。武生市,鯖江市,福井市,南条町,今立町,清水町といった地域の5 880haの農地を潤します。ロックフィルダムとしては堤高が100.4m,総貯水量が2 500万m3と結構大きなダムでしたね。

建設業のイメージアップの 最集成を目指す

中野: とくに問題なく,ロックフィルダムの工事は進みましたか。

米谷: 最大の課題は,冬季は積雪が2〜3mある地域なので施工不能だったこと。また地質的にあまり良くない地盤だったので,堤体や原石山など,あちこちで何度か切り直しが必要となって,掘削量が当初予定の2倍位に増えたこと。その廃棄土砂の捨て場に苦労したことです。

 現場では,先程言いました3K職場からの脱却を目指した改革を進めたので,現場事務所そのものはとても快適になり,また現場見学者の方に向けては屋根付きの展望台,インフォメーションハウスを設け,ダムの模型やジオラマで現地のダムのある地域を表現したり,事務所玄関には来客対応のためにアーケードを出してバスも入れるように工夫し,花壇を設けたり大きな案内看板も設置しています。外部だけでなく内部にもいろいろと気を遣いながら工事をした時代でした。

桝谷ダム現場事務所

2004東アジア地域ソウル金浦ダム会議
左から米谷氏・藤澤氏・若松氏
中野: 現場事務所としては随分と豪華な仕様になっていると思いますが,表だった批判は出ませんでしたか。

米谷: 本店,支店とも現場から遠い主管部の人間からは相当批判的な意見もあったとは思いますが,発注者を含め,福井県の地元の方々には非常に好評で,結果的には座談会で話したようにダムの建設現場そのもののイメージアップに役立ったと自負しています。

中野: ここもかなり長く工事をしていたダムですが,印象に残っていることはありますか。

米谷: 仮排水路の掘削工事に取り掛かってから,竣工式までおよそ12年かかっています。平成7年には阪神淡路大震災があり,現場もかなりの揺れを感じたことも覚えています。この現場は平成10年に離れて本店に移動したので,私自身がいたのは3年7ヵ月くらいでしょうか。

 桝谷ダムの現場を最後に外を歩き回る生活から,毎日会議の連続のような世界に転じたのですが,まったく気が抜けてしまったような感じでしたね。

中野: それは多くのダム技術者が感じられることだと思いますが。

米谷: どこのゼネコンの人も現場から本社に移動になると同じような感覚を持つようです。

現場支援を第一に考える

中野: 長い現場勤めから,主官部に上がられてどのようなマネージメントをされましたか?

米谷: 現場支援を第一に考え,発注者やコンサルの対応業務はもちろん,技術開発など現場に近い視点で出来る仕事に集中しました。一時期は,海外事業のベトナムのダーミーダムや国内では宮ノ川ダムへの現場支援として関わりました。

中野: その後は,前田建設から離れてミヤマ工業の社長になられたのですね。

米谷: 平成15年4月から平成20年6月までです。その頃は,まだ前田建設工業の顧問もしていました。

 また大ダム会議にも10回程関わり,海外のダム視察なども10数回と,数多くの関係を持ちました。平成20年7月からは日本コンクリート技術株式会社の顧問を務めている他,前田建設工業は顧問から社友になり,また貴協会のダム工事総括管理技術者認定委員としても活動させて頂いています。

ダム総括管理技術者認定委員として



中野: 認定委員として12年間もお世話になっており,ありがとうございます。現在も協会から認定委員をお願いしておりますが,新設のダム現場が少なくなる中,毎年の受験者も減りつつありますが委員としてはどのように思われますか?

米谷: この認定制度は,第1期が昭和57年に始まり昭和61年の5期までは,ダム工事幹部技術者特別研修と称していて,ダム現場の作業所長,またそれに準じる者で,年齢が38歳から53歳,土木現場は15年以上,ダム現場は10年以上の経験が必要,一級土木施工管理技士の資格を持っていないと受けられないのです。
 資格認定のやり方も,各社から30名程が応募し,書類審査で15名程に絞られ,現場研修に参加することが出来,モデル現場の資料をもとに施工計画を作成し,現地研修を経て,宿題として研究課題について論文を作成するようになっていました。その後,昭和62年からは建設大臣推薦の認定事業となり,1次選抜が4択30問の試験,2問の小論文の筆記試験という方法に変りました。1次選抜の方法は今も続いており,二次審査は平成12年の19期までは資料持ち帰りで施工計画の作成を行なってきましたが,平成13年の20期からは直接試験会場で書き込む,大変ハードなものになっています。

中野: けっこう難しい試験ですね。

米谷: 昔は1社1人位しか受けられませんでしたから,会社を背負っており,相当なプレッシャーがかかる中,とても大変でした。今もそれは同じでしょうが,私も1期から受験資格はあったのですが,小論文の筆記試験が始まった7期での受験になり,しかも1次試験は合格しても2次試験の論文作成については発展的研究テーマの絞り込みが甘くて,書き直しを指示され,ある認定委員の先生とは喧嘩をしたような状態になってしまい,貴協会の故小林常務から「単なる研修じゃなくて、試験だからもっと真摯に対応しなさい」と大目玉を喰らいました。

中野: そうでしたか。昨年で37期,平成30年度で811名の合格者がおられますね。

米谷: それでも10年前は1次試験の受験者が59名だったのに対して,昨年は30名と半減していて,合格者も7名と激減しています。やはりダム建設の現場が減っているので技術者の経験年数が足りなくなっているのが大きな原因でしょう。受験者の個人的な努力だけでは足りず会社が全面的にバックアップしていかないことには,いけないでしょう。

土木の仕事を通して得られたものは

中野: ダム現場が減っていることは,とても大きな問題ですよね。ただ我が国の中ではこれ以上ダムを造れる場所がないとも聞きます。海外事業も含めて新たな展開が求められていると言えますね。これまで長くダムに関わって来られて,土木技術者として仕事をするうえで,大事にされてきたこと,心掛けてきたことはありますか?

米谷: 心掛けることは,若い頃と,ある程度責任のある立場になってから,また所長になって現場の全責任を負うようになってからは,普段から心掛けることはおのずと違ってくると思っています。


 例えば,若い頃,新入社員として入ってから数年間は,まずは基本をきちんと習得することを心掛ける必要があります。測量の数値や図面の読み方に間違いはないかなど。自分は特にトンネルの測量(坑内の基準点,ダボ出し)には気を遣いました。そして,ある程度経験を積み,主任や課長になって責任を持つようになると,様々な立場の人との打合せ内容と現場の実施状態がズレていないかということに気を遣いました。計画と実際の仕事の仕上がりが合っているかを逐一確認すること。安全と品質の確保については確認の励行以外に近道はないのです。

 そして,所長(現場代理人)になったら,朝一番の現場パトロールの実施です。毎日毎日,現場がどう変化していくのか,自分の目で見て確認することと,人とのコミュニケーションです。諸官庁及び社外関係者,JV関係者とは密にコミュニケーションをとり,安全に関する項目は少しも疎かにせず,現場の整理整頓についても重点的に確認をします。

中野: なるほど,やはり人とのつながりを大事にして,コミュニケーションをよくすることは基本ですね。技術者として5つのダム(実際は松尾のダムを入れれば6つのダム)に関わり,通算現場従事期間が22年(松尾のダムを加えれば25年)以上とお聞きしましたが,今振り返ってみて,一言で云えばどういう言葉が浮かびますか?

米谷: 土木の仕事の基本は,人との関係性を大事にするということでしょう。とても1人では相手に出来ない自然の力と向かい合って仕事をしていく訳ですから,会社の上下関係はもちろん,発注者,地元の方,どんな立場の方であれ,出会いを大切にして,嘘をつかないように正直に本音で話をすることだと思います。

 自分が好きな言葉に「甲乙お互いに信義を重んじて対等に協議、履行する」というのがあります。これは請負契約書のかがみに記されている言葉です。

ダム,土木について

中野: 土木の仕事の魅力についてはいかがでしょうか。


1991.5.25 水口ダム視察時
左から米谷氏・村木氏・小林氏・山田氏・山村氏・田口氏

米谷: ダムなど大きな構造物を地球の上に残せること。何年もの時間をかけて日々出来上がっていく構造物を見ることの楽しさは,モノ造りの最大の魅力でしょう。とくにダムは旅行に出た時,飛行機の窓から見えるととても感激します。

中野: 日本のダム造り,これから大事にしなければいけないことはなんでしょうか。

米谷: 通り一遍の答えになるかも知れませんが,安全第一に品質の良いダム造りを行なうことでしょう。将来に渡り,エイジングに耐え得る丈夫で長持ちするダムを目指して,様々な角度から考察して技術を磨いていくことだと思います。
 これからの世の中,マンパワーの不足(人口減,働き手の不足)が大きな障害になると思うので,作業の機械化,無人化,省力化を極めるということはとても重要です。今,注目されている取組みの1つに革新的建設・インフラ維持管理技術の確立という目標があげられています。これは内閣府が立ち上げた官民研究開発投資拡大プログラム(PRISM)運営委員会での取組みになります。ターゲットとされる3つの領域が,「革新的サイバー空間基盤技術」「革新的フィジカル空間基盤技術」「革新的建設・インフラ維持管理技術/革新的防災・減災技術」です。

 建設に絡む部分については,鹿島建設の田代副社長が音頭をとっておられ,生産性の向上,働き方改革,安全性の向上に寄与する建設現場のICT化を積極的に進めて,「施工現場を他産業の製造工場に近づける」という課題に取り組んでいます。

中野: ダムに関してはドローンの活用などで今までに見たことのない映像でダムの魅力を紹介できたりする機会も生まれて活性化しています。これからも期待して良いでしょうか?

米谷: 今進められているダム現場においては,今紹介したようなICT化で,他産業の製造工場に近づけていくことは可能だし,そこに新たな魅力も生まれていることは確かです。

 ただやはり土木は人なり,です。今は,現場で不足している多能工(型枠大工,鉄筋工,鳶工,溶接工といった職人)の確保,補充と新人の養成に力を注ぐべきではないでしょうか。若い職工ほど,IOTを活用したICT施工にのみ目が向いてしまい,多能工としての技能習得に後ろ向きになってしまう恐れもあるからです。

 ベテランの職人が第一線から居なくならないうちに早く若手を養成していかねばなりません。人の繋がりを途切れさせないように考えることが大事でしょう。

若い人へのメッセージ

中野: 長く現場を経験されたからこそ土木への思いもあるのですね。土木の世界に入ろうとする若手技術者に向けて何か言葉を掛けるとしたら,どのような事を大切にと言われますか?

米谷: まずは現場第一主義を貫いて欲しい。現場を歩き,足で踏んで感触を覚える。表面だけでなく掘ってみて土や岩盤の特徴を見て覚える。丁張り掛けを習得し,頭の中に図面が浮かぶように,読めるようにする。

 今は,ドローンを使い,3次元レーザースキャナーなどで高精度な測量が可能になっており,どんどんと進歩している状況ですが,アナログではあるが現場第一の基礎技術を疎かにしないで欲しい。

 ダムを目指す人はダムサイトの地形,地質の把握が重要なので地質学の勉強をしてほしい。また今の土木では機械工学や電気電子工学の分野の知識も大事です。資格はできるだけ若いうちに挑戦するように,語学は英語は出来るようにしてください。会社での仕事をちゃんとするには,原価意識を持つことと常に問題意識を持って対処することです。仕事の出面取り(でづらとり)をして歩掛かりを掴んでおくことも必要ですね。

中野: 土木の仕事,ダムの仕事は大変なこともあるでしょうが,それだけやり甲斐もあって魅力的だということでしょうか。今日はお時間を割いて頂き,ありがとうございました。

米谷 敏氏 プロフィール
昭和39年3月 岐阜大学工学部土木工学科卒業
4月 前田建設工業株式会社入社
 北陸地方建設局
 猪谷隧道工事係員
7月 新潟県 松之山地すべり防止工事係員
昭和41年4月 立山黒部貫光株式会社 立山トンネル建設工事係員
昭和45年7月 北陸農政局 笹ヶ峰ダム建設工事係長
昭和52年4月 北陸農政局
 笹ヶ峰ダム建設工事
 現場代理人 所長
昭和54年6月 岩手県
 旧松尾鉱山鉱害防止貯泥ダム建設工事
 現場代理人 所長
昭和58年2月 沖縄総合事務局
 底原ダム建設工事
 現場代理人 所長
昭和63年10月 九州農政局 天神ダム建設工事 現場代理人 所長
平成2年5月 本店 技術部土木部次長
平成3年10月 中部地方建設局
 長島ダム建設工事
 現場代理人 所長
平成6年12月 北陸農政局 桝谷ダム建設工事 現場代理人 所長
平成10年7月 本店 技術本部 取締役技術本部副本部長
平成15年4月 株式会社ミヤマ工業 代表取締役社長
平成20年7月 日本コンクリート技術株式会社 技術顧問 兼 前田建設工業株式会社 社友

[関連ダム]  笹ヶ峰ダム  底原ダム  長島ダム  桝谷ダム
(2023年5月作成)
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