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ダムインタビュー(12)
中村靖治さんに聞く
「ダムづくりの基本は、"使いやすいダム"を設計するということです」

今回は、昭和37年からほぼ半世紀にわたり、調査・設計・建設から用地交渉、移転補償等幅広くダム事業に携わり、現場の経験が豊富で、技術的提案も数多くされているダムの専門家として、中村靖治(なかむら せいじ)さんにお話を伺いました。

中村さんはまた、ダムづくりの専門家としてのお仕事の傍らで、一般の人が見ても理解しやすい技術解説書「絵で見る ダムのできるまで」シリーズの著者としても広く知られています。折しも、インタビューの少し前、中村さんは、平成20年秋の叙勲で瑞宝小綬章を受けられたところでもあり、ちょうどいい機会でした。

インタビューをさせて頂いて、長い経験をもとに、ダム造りに傾けた情熱を熱心に語る姿が印象的でした。また、新設ダム計画の減少で将来の若手のダム技術者の育成までもが心配される中、蓄積されたダム技術の継承や若手の育成などについても、示唆に富むお話を頂きました。

(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)


卒論がきっかけでダム屋に

中野: まずは、この度の叙勲おめでとうございます。長らくダム事業に携わってこられたわけですが、そもそもダムと関わることになったきっかけについて、伺いたいと思います。

中村: 高校生の頃に佐久間ダムの記録映画を見て、ダムを造るという仕事もいいなとは思ったんですけど、それがきっかけではありません。僕自身は、日本史が好きでしてね、戦争中は国史といって天皇家の歴史みたいだったんですね。戦後になってマルクス主義の歴史家たちが、小説を書くように日本史を作りだした。読んだら面白くて、僕もその小説を書いてやろうと思って、歴史家になろうと思ったんです。それで高校時代から歴史学学会なんかに入って、「律令体制下の農民の逃散について」という論文を書いたりしてました。

高校は転校で三つ行ってるんですけどね。横浜と静岡と、北海道の旭川と、三ヶ所。言ってみれば都落ちという訳ですから、北海道に行ったら、もう勉強が楽で楽でしょうがない。受験勉強せずに歴史の勉強ばかりしてたんです。そのうち、技術史が面白くて勉強しだしたんですけど、技術の内容がわからないんですよ。だから大学では技術を学ぼうと思って工学部に入ったんです。でもアルバイトばかりしてて、全然学校には行きませんでした。

卒論はたいていは実験を伴うものが多いのですが、実験だと学校に行かなきゃいけないから、わざと実験のない科目を選んで「洪水流出解析」にしました。これは、実験のしようがないので、計算だけしてればいいやということで、アルバイトの暇なときに一生懸命計算すれば済みますから。実はそれがダム屋になったきっかけというか、とにかく、そういう卒論をやり、さぁ就職となった時、大学で公務員試験を受けないかと言われました。当時は公務員の給料が安かったので正直あまりなりたくはなかったのですが受かってしまい、面接に行ったんですよ、建設省に。そしたら10人くらいずらっと並んでていろんな事を聞くんです。その時僕はジャンパーを着て行きました。なんでそんな服で来たのかと聞かれましたから、持っている服の中で一番きれいなのを着てきたというような返事をして、内心落としてくれればと思ってたんですね、だから好き勝手なことを言ってたら、君は孤児だからかと言われて…。

中野: え、それは、どういうことですか?

中村: あ、僕が大学に入る前に家族全員亡くなってましてね、火事で。それで一人で暮らしてたものですから。それでも、孤児にしちゃ、おまえはずいぶん明るいからこれから頑張ってくれと言われてね、内定通知みたいになって困ったなと思ったんですが、それで建設省に入っちゃったわけです。

中野: そこから、ダムに関わるということですね。



中村: ええ、建設省に入って、はじめは小平、それから沼津で一ヶ月半、研修をやったんです。それを終わったら、配属先に行くんですが、僕は北海道開発局に行けと言われました。開発局に行くと、卒論は何をやったかというから、「洪水解析、只見川の洪水解析をやりました」と言ったんですが、あたりをよく見ると、そこにずらっと只見川のダムの資料が並んでいるんですよ。金山ダムに行けと言われましたが、当時金山ダムは本体発注直前で、只見川のダムを勉強していたところだったのでしょう。それで、ちょうど良いから行けと。それが、まさにダム屋の始まりでして。自分からダム屋になりたいと言ったわけじゃないのですが、巡り合わせなのかタイミングというか、それがダムとの関わりの始まりです。
金山ダムでは始めから終わりまで経験

中野: 始めてのダムづくりは、具体的にどういうお仕事をされたのですか?

中村: 金山ダムでは、設計書を作ってる段階から、本体打設がほぼ終わりかける間を過ごしました。まずいくらの予算でダムが造れるかという計算ですね。当時はタイガー計算機、機械式手回しでした。次にオルガンみたいなリレー式電気計算機という、そんなレトロなものを使いながらやりました。コンサルタントとかもあったんですけどまだ力もそれほどなくてね。ほとんどの仕事を直営でやってました。例えば、測量なんかも簡単なものは自分でやりました。まず積算をやり、それで発注して、現場へ行って監督して設備を作り…ダムづくりの始めから終わりまでほとんどやりました。北海道なんか半年しか工事できないのに、早かったんですね。4年間で建設できた。

中野: 金山ダムが最初なんですね。

中村: そうですね。金山ダムは50mクラスの中空重力式なんですけど、今見ると小さいですが当時としては大きい方で、今は施工もほとんどゼネコンの責任施工でやってますけど、当時はね、コンクリートというと必ず監督官が立ってて、始めから終わりまで監督するわけですね。だから夜中打つといったら夜中じゅう現場に居なきゃいけないし。それと現場作業はだいたい班単位で仕事をしているんですけど、その班長さんというのも、昔はなかなかやくざっぽい人が多かったですけどね。そういう人たちにも結構可愛がられて、悪い意味ではなくてね、ほんとに可愛がってくれて。だから、現場では職人並みにいろんな仕事を覚えたんですね。ボーリンググラウチングなんか。(笑)


金山ダム(撮影:ふかちゃん)
現実に作りやすいものを設計しなくちゃいけない

中野: 最初から最後まで、ダムのできるまでですね。

中村: そうですね。やはり初めてのダムですし。ある日現場に行ったら、大工さんがね、へんな設計しやがって困るとブーブー文句言っているんですよ。何かと思って聞いたら、中空部のオーバーハングしている型枠ですから、ただでさえやりにくいのに、一回一回ねじってバラ型枠を入れなければならないというのです。設計で曲線なんか入れた覚えはないので、そんなことはないだろうといって、確かめてみたら、その通りなのです。力学的な設計は全部断面でやるので、曲面に気づかないで設計していたんですね。上流側の遮水部分である8角形のダイヤモンドヘッドと呼ばれる部分が、水圧の小さくなる上部に向かって、だんだん小さくなるようになっており、しかもそれを支える壁もだんだん薄くなるようになっていますから、大きい断面から小さい断面へ移行するしわ寄せは全部このオーバーハング型枠に来ることになるのです。現在ではこんな七面倒なことはできませんから、このタイプはこれが最後だろうと思っていたら、山形県の人が蔵王ダムをこのタイプでやりたいといって、勉強に来ました。安くなるとは思えないし、止めたほうがいいと助言したのですが、計算上安いということになったのでしょう。このタイプで建設されました。

中野: 設計図と実際とは違うということですか?

中村: いや、そういうことではなく、まず設計するときは、「作りやすく設計しないといけない」と、よく研修でも言ってます。素人が設計をすると実際には型枠が入らない絵を描いてきたりね、とんでもない設計図が出来るんですよ。だから、まずは現実に作りやすいものを設計しなくちゃいけないと思います。
それから、もう一つは「使いやすい」、つまり管理しやすい設計にしないといけません。設計も、計画もそうだけど、最初にそれを学んだのが金山ダムだったんですね。

映画をみたら非常に懐かしかった

中野: 金山ダムでは他に印象に残ったことがありますか?

中村: 金山ダムというのは、ちょうど、根室本線を跨いで造るようなところだから、まず鉄道のつけ替えをやったんですけどね。その付替えをやった、貯水池末端にある駅が、映画「ポッポ屋」の舞台になったところだったんですよ。で、映画をみたら非常に懐かしくてね。

映画の話はもう一つありましてね。十勝ダムです。金山ダムの後に、豊平峡ダム調査事務所、局の河川計画課を経て、十勝ダムの調査事務所長になったんですが、狩勝峠をはさんで、太平洋側に十勝ダムがあって、日本海側に金山ダムがあるんです。ちょうど裏表に両方やったことになるんですね。狩勝峠を降りてくると、新得町があって、そこに十勝ダムを造ったんですけど、その時、僕が31歳だったんですが、日本一若いダム所長だと言われてました。


十勝ダム(撮影:ふかちゃん)

国の出先の所長なものですから、付き合う人というのが、警察署長、町長、町議会議長、消防署長、営林署長とかで。相手はもう自分の親父みたいな人ばっかりでした。そこでけっこう可愛がってもらってました。営林署とダムというのは、あまり仲が良くないんですけど、君の机を営林署の中に用意してやるくらいのことを言われたりしたものです。営林署から一度も怒られたことがないですね。ほんとに仲良くやってましたね。新得警察署長とも仲よかったんですが、その警察署がなんと「幸せの黄色いハンカチ」に出てきたんですよ。映画では渥美清が署長をやったんですね。まったく同じの木造のオンボロの警察署だったんですけど、それも、懐かしいなと。
局で北海道の建設系ダムはすべて見ていた

北川: 北海道開発局の河川計画課の時はどうでしたか。



中村: 河川計画課にはダムを担当する計画第2係長として行ったのですが、時期は未定であるものの、上司である課長補佐が転任することに決まっていて、その引継ぎがスムーズに行えるようにするのがおまえの役目だということになっていました。言い方を変えれば、課長補佐として仕事をやっていれば良いわけで、若くて鼻息の荒いときですから、さぞかし生意気な若造だったろうと思います。

ここでの仕事は全道のダムの予算を取り仕切ることはもちろんですが、予算執行の計画面にも口を出すので、開発局の建設系のダムはすべて見ていたことになります。
このとき建設中のダムが岩尾内ダム、大雪ダム。大雪は建設省直轄ダムとしては初めてのセンターコア型のフィルダムということで、現場事務所ともどもずいぶん勉強しました。

当時、専門の組織がないために、ほとんど本局が中心となって実施したのがいわゆる予備調査です。この時代に初めて補助ダム制度ができ、北海道では有明ダムが採択されました。これは道庁の仕事ではあるわけですが、北海道開発庁との関係もあり、開発局としても、いろいろと協力しました。

もともと北海道は組織の縦割りをあまり意識せず、同じ開発局に属する農林系はもちろんですが、内地ではしばしば敵対する電力会社とも仲良く協力していましたし、後に組織横断の「広域利水調査会」などというものも組織され、可能ダムサイト悉皆調査などもやっていました。その後計画されたダムはほとんどこの調査に含まれています。

こうやって振り返って見ますと、ダムを造るのと逆順に、建設中ダム、実施計画調査中ダム、予備調査とやってきたことになり、これはダムの勉強のためには非常によかったと思っています。次の段階でどういうことをやるのかが分かっているわけですから、効率よく、的を射たことがやれるということです。

こうして一通り勉強は終わって、あとやっていないのは所長だけだからとお願いして十勝ダム事務の調査事務所長になったんです。

寒いところ、暖かいところ

中野: 北海道では寒くてダムづくりは大変でしたか?

中村: ダムのコンクリートを打ったりするのは、ある気候の範囲内でしかやらないから関係ないんですね。うんと寒くなったら、コンクリートの質が悪くなるから、そういう時は休みにしますから。仕事をするのは5月から11月いっぱいくらいなんですよ。寒いときにするのは水止めのグラウチング、雪の中でもできるから。施工の邪魔にならなくて済むから、冬にやっていたんですね。ちょっと大変なんだけども、雪が多いと雪の中にもぐってやるようになるから、あんまり寒くはないんですね。北海道だから大変だというのはないですね。

中野: 地域によって暖かいところ、寒いところで、違いというのはあるのですか?

中村: もちろん、違いはあるのですが、寒いところはむしろ対処しやすいのですよ。逆に暑いところでは、暑中コンクリート対策をしなくちゃいけないんですよ。暑中コンクリートで、クーリングをやるんですよ。材料を冷やしてね。これは、意外に大変なんですよ。しょうがないから夜間だけ、夏場は夜だけコンクリートを打つなんていう工程にする。だから、暖める方が割とラクなんですね。お湯沸かせばいいんだから。

土研でダム屋として集大成ができた

北川: 昭和51年には北海道での勤務を終え、東京に移られましたが、そのころはどうでしたか。

中村: 土木研究所のダム計画官になりました。この時代、ダム現場の数が増えて、土木研究所は現場技術指導と、新規開発個所の是非の判定のための調査に追われていました。難しい地質の所も多いので、ダム屋と地質屋の協力が必要です。その調整を取り、現場、土研と本省との連絡窓口にもなり、現場の技術指導も行うポストとして、ダム計画官が新設され、私が初代になったんです。

地質には岡本隆一、ダム構造には柴田功などといううるさ型の室長が居り、それをまとめるのが飯田隆一ダム部長というのですから、おとなしい人間では勤まらないと考えられたのでしょう。北海道でダム屋が一人遊んでいるというので、引っ張り出されました。

私自身は北海道に骨を埋めようと考えていたので、2年の約束で、ストーブなど冬の装備は友人に預けて東京に出てきました。

ここで、年間100日以上も全国の現場を駆け巡り、土研の諸先輩に親しく教えを受けて、ダム屋として集大成ができたと思っています。愛する壱岐の麦焼酎「山乃守」に出会ったのもこの時代です。


本省で補助ダム担当の補佐、当時補助ダム数が200ヶ所

北川: 結局、北海道に戻ることはなかったようですね。

中村: そうです。土研で1年2ヶ月、今度は本省に来いという話です。まあどうせなら本省の空気も吸っておこうということで、翌年の予算要求のヒアリングの真っ最中に転勤しました。河川局の開発課補佐です。

補助ダム担当の補佐ということで赴任しましたが、このときの補助ダムの数が200ヶ所。県等からの要求のヒアリングに5週間かかります。ダム計画官としてヒアリングに出てもおかしくはないので、内示があってからは極力ヒアリングに立会うようにしました。新任とはいえ、半分以上のダムはダム計画官として知っているので、さほど状況把握が難しいということはありませんでした。

ただ200ヶ所のダムの位置をたちどころに示すためには、全国の河川図に200ヶ所のダムを記入するという作業を3枚分やって覚えました。大蔵省に対する説明では、要求のときはぜひとも予算をつけてもらわなくてはなりませんから、相手が聞いてくれる限りはしっかりと話をしますが、予算をつけた後の実施計画の説明では相手もあまり興味を示さないので、200ダムを25分で説明しきったという新記録を作りました。嫌味を言われるかと思ったら、簡単明瞭でいいというお褒めのことばを貰いました。

補助ダムの次に直轄ダムの担当になりました。補助は基本的に補佐が仕切っていましたが、直轄ともなると、課長も専門官も口を出しますし、現場の所長もなかなかほいほい言うことを聞いてはくれません。

この時代、石油ショックの影響で、事業費が3倍にもなる所が多く、その説明には苦労しました。物価スライドだけで説明できるものは楽なのですが、多くは計画変更を伴い、特に道路費が膨らみがちでした。

補償交渉の大詰めの時期の宮ケ瀬ダム工事事務所長

中野: その後、宮ケ瀬ダム工事事務所長になられていますが。

中村: 宮ヶ瀬ダムに赴任したときは、補償交渉の大詰めの時期でした。



このダムには3町村が関係していましたが、水没地の主体は清川村の宮ヶ瀬地区、ここに約250所帯いました。ダム敷きが愛川町で、川に沿って6軒の料理屋旅館がありました。津久井町は山林のみの水没でした。

愛川町はダム直下に約700所帯の集落があり、ここは戦後繊維産業で栄えた所です。ダム敷きの6軒を除いて、この町は補償の対象にはならず、集落直上流に高さ155mの巨大構造物ができることになるのですから、何のメリットもないどころか、不安材料のみを抱えることになるということで、町を挙げて絶対反対で、話し合いに応じていませんでした。用地課長が手土産を持って尋ねても、手土産を投げつけられて追い出されるという状況でした。
まずは水没者の生活再建を優先するということで、ダム敷きの6軒と清川村の2つの水没者団体と条件のすり合わせをしていました。津久井町は清川村の意向に従うということで、協力的でした。
いつ補償基準を提示するかというのが赴任当時の課題でしたが、そこまで話が進んでしまうと、愛川町も取り残されてしまうのではないかと心配になってきました。所長の考えを聞かせてくれと絶対反対をしている協議会が話しに来ましたが、絶対反対ではダムができないのだから、話などしてもしようがないと追い返しました。条件付賛成というのなら、そちらは条件がかなえられないから反対するといってもいいのだから、内容的には同じでしょう、そうしてくれたら条件についての話をしましょうといったら、絶対反対は取り下げるといいます。ダムサイトの反対の看板も下ろしてくれといったら、急峻な崖の上に設置しているから下ろすのにも金がかかる、勝手に下ろしてくれといいます。商人的感覚を持った人が多いので、それからは話はスムーズに進みました。

補償基準は年末ぎりぎりに提示しました。通常テクニックとして、基準を突き返すということをするのですが、この基準はぎりぎりのところで作っているのだから、突き返した場合、次のを提示するのは世の中の情勢が変わったときということになるので、交渉は中断ということになるといって、一番大きな水没者団体には突き返すのを止めさせました。もう一つの団体は突き返してきましたが、あずかり置くという形にして、再提示はしませんでした。結局すべての団体とこのときの基準をもとに交渉することになりました。

昭和46年に調査事務所を開設してちょうど10周年を迎えていたのですが、補償基準が妥結するまでは記念行事をしないと宣言していました。幸い10周年も祝うことができました。


宮ヶ瀬ダム(撮影:安河内孝)
公団では、変な計画はきちっと直すよう心がける

北川: 昭和57年からは水資源開発公団の第一工務部設計課長を勤められましたが、公団はどうでしたか。

中村: 水資源開発公団は、指示されたとおりにダムを造ればよい、だから計画論などさっと勉強すればよいと考える風潮が強く、建設省の方もそのような態度でした。しかし、直轄ダムの場合、実施計画調査に入るまでのダム計画はごく概念的なもので、計画そのものも河川計画課で机上で作ったといってもよいものなので、実施に移すまでにブレークダウンし、計画も修正すべき所は修正しています。公団に移管された場合、その作業が抜けがちなので、おかしな計画がまかり通ってしまうことがありました。

工事をするための仮排水路流量が550トンで、洪水調節の計画流量が350トンなどという妙な計画がまかり通ってしまうのです。ですから、計画論をよく勉強し、地建にうるさがられても、変な所は直していかなければならないという指導を、公団全体に対してしました。たとえば、日吉ダムの貯水池内にある既存の世木ダムを全面撤去する計画から、頂部を一部削るだけとし、発電の機能を残すようにしましたが、これなどは非常に大きな変更でした。

「水省」を作るべきだったのではないか

北川: 公団に3年ほどおられ、昭和60年には本省に復帰しましたね。

中村: 河川計画課の水理調査官になりました。このとき一番力を入れたのは地下水ですが、結局ものになりませんでした。日本には地下水法制がなく、それが必要であることはみなが認識しているのですが、各省庁の権限争いでどうしても実現しません。本来は地表水、地下水を包含した水法が必要なのですが、ビル法や地盤沈下対策要綱などでお茶を濁しているのが現状です。

省庁再編のとき、河川局は農水省の構造改善局と一緒になるのを嫌って、従来どおり道路局と一緒にいるという道を選びましたが、農業用水、水道用水、工業用水などと地下水も取り込んで、水省を作るべきだったのではないかと、今でも思っています。

昔のダム造りはずいぶん今とは違う

中野: 昔の、そう昭和30〜40年代頃のダムづくりは、今と比べてどうですか?

中村: それはもう、ずいぶん今とは違います。30年代頃は、戦後のね、電源開発でダムを造ったブームの終わりかけた頃なんですね。今よりずっと人をたくさん使うから、現場には一つの町が出来てて、ダムの町なんていう雰囲気がまだまだ残ってました。

その頃は、材料の方が高かったんです、セメントとかね。相対的に人件費の方が安いから、手間暇かけるのをいとわずに、むしろ材料を減らす工夫をしました。中空重力式なんていうのは、だいたい重力式の7割くらいのコンクリート量で済むので、手間はかかるんですけど、材料の節約で安く出来るのでやっていました。今は逆ですね。材料は少々増えてもいいやと。その代わり手間が少ない方が良いと、そういう設計をしてますからね。その頃はまだセメント高かったので、セメントを減らすことに意義があったわけですが、そのセメントを特注していました。スラグ55%のスラグセメントですが、石こうを何パーセントにしましょうとかね。それをセメント会社に特注で作らせるんですね。で、専用のサイロに入れて、他の現場に持っていかれないように封印をしてというようなことまでやったんです。(笑)

今世界的にはCFRD

中野: 今の時代、主流になっている工法というのはどんなものですか?

中村: 重力ダムがまず基準ということになりますが、世界的に見ればCFRDという、コンクリート表面遮水壁型ロックフィルダムですね。それが一般的にはいちばん経済的で世界で今、主流の工法です。日本ではちょっと違いますが。なぜかというと、日本では設計基準を改正していないのでうまく出来てませんね。
ロックフィルダムは、普通は2割なんぼというゆるい勾配で造るんですが、CFRDというのは世界的には1割3分くらい。かなり立ったダムというか、だから材料が少なくなる分、非常にメリットが出るんですよ。

中野: CFRDは、そんなに材料が少なくて済みますか?

中村: ロック材の量は半分くらいで済む。材料が少なくて良いというのは、環境にも良いということでね。日本でももっと、CFRDをやるようにと、「絵で見る ダムのできるまで」にも書いてあるけど現実はなかなか進まないんですよ。

中野: なぜ日本では普及しないのですか?

中村: 設計基準というか強度のとり方が古いままなんですよ。それを直そうとだいぶ前から言っているんですけど、かなり反対論もあって、基準がまだ直っていない。外国へ技術指導に行くと非常に困るんです。日本はどうして直さないのか?なんてね。


中野: 海外のダムと、日本のダムづくりではかなり違いますか?

中村: ダム事情としては、今はね、技術はすぐに伝わるから、そんなには変わりないですね。ただ、日本では考え方が、このところ少しおかしくてね。どうも安物をつくりたがる。なんでも安く安くってね、結局はボロいものを造っているんですよ。昔はね、逆で、RCDをやるときも、日本は非常に丁寧にやってて。施工法が違うけれども、従来型のコンクリートダムができるようにというのが、RCDという技術だったのですよ。ダムの内部コンクリートは、あまり気候の作用を受けないから、ボロでいいんだという考え方でいるんだけど、それは僕は違うんじゃないかと思う。張りぼてと無垢を比べてみれば、張りぼてでも機能するけど、無垢の方が長持ちするし、いいんじゃないかというのが僕の考えですね。ダムは消耗品じゃなくて、これから何百年も使うんだからちょっとばかり節約したって長い年月で薄まってしまうし、消耗品なら使い捨てでもいいんだけど、それで良いのか?と。疑問を感じています。

簡単に盗めるような技術はたいしたものではありません

北川: 日本の建設会社やコンサルタントが海外でダム事業に参加する場合のアドバイスをお願いします。

中村: 日本の常識は世界の非常識という言葉がありますが、相手の国の文化をよく知ることがもっとも重要でしょう。

技術を盗まれるという心配をする人がいますが、簡単に盗めるような技術はたいしたものではありません。学べば学ぶほど、もっと教えてもらわなければ本当のところが分からないというのが本物の技術でしょう。どんどん教えてあげて、さらに教えを請わせるようになれば、初めて技術移転がうまくいったということになるのではないかと思います。

「絵でみるダムのできるまで」を書いたのは一般の人にも理解できる本がなかったから

中野: それでは後、著書の「絵でみるダムのできるまで」に関して具体的にお伺いします。
絵で見るの言葉通り、イラストを使った解説書を企画されたきっかけは?

中村: 専門家向けのダムの教科書というものは、いろいろあって、すばらしいものがあるんですが、北海道の石狩川開発建設部にいた時、洪水で破堤したことがあるんです。その時、新聞社等と対応していたのですが、記者というのは忙しいから結論だけ聞きたがるんですね。当然、相手も聞いたものをすぐ記事にしなくちゃならないし、勉強する暇がないから、間違ったことを書かれてしまったり、いろんなことがあってね。その洪水の後で、新聞、テレビ、ラジオの記者の人たちを集めて毎月1回勉強会をやったんですよ。これが意外に好評で、間違ったことを書かなくなった。相手もこちらの言うことがわかるようになったんですね。記事がない時なんかこういう勉強会やりましたっていうことも記事にしてくれたんですよ。広告を出すより安くつきます。


中野: 土木学科に入った学生が、ます最初に読んでもいいように詳しく説明がされていて、絵で見るので、よりわかりやすくなっていますが、これは始めからシリーズ化の予定でしたか?

中村: まあ、タイトルから言っても「できるまで」を書こうと思いました。続けて管理の話も第6巻で書いてくれと言われましたが、「できるまで」だから「できてからは」書かないっていってね。(笑)まあ、5巻の最後のところに「試験湛水」として少しだけ書いてありますが。

それと、宮ケ瀬ダムで用地交渉をやった時に水没者団体と話すのに、ダムはどういう手順で造っていくかを説明しなくてはならない。どういう段階でどういう調査が必要かという説明と、補償はどういった考え方でやっているのかということを素人にも全部わかるように説明しなくてはならないのですが、そんな参考書はありません。それで、一般の人にも理解しやすいようにと、自分でこの本を書いてしまったということですね。
俺の17年間の人生を沈める

中野: 前回インタビューした古賀さんも用地に関わるお仕事をされていて、まずは誠意をもって話し合うことの大切さを強調されてました。「感情と勘定の釣り合い」と言葉もありました。今でも心にひっかかるような体験とか失敗談とかはありますか?

中村: 失敗や成功というのはありませんが、初めて水没者の方とお話した十勝ダムの時のことが心に残っています。まずはこういう目的でこのようなダムを造るつもりなので、誠に申し訳ないが、移転していただかなくてはならないということを説明に行ったのですが、水没者の一人に、「ちょっとまて」と言われて、大学ノート3冊に克明につづられた記録を聞かされました。


十勝ダム(撮影:だい)

それは、昭和28年からの入植以来の開発局職員とのやりとりの記録でした。要はいい加減な約束をして、場合によっては土地を騙し取られたというようなことで、おまえたちは信用できないというのです。その人は、何もない原野を17年かけてようやく立派に一本立ちできる牧場に仕上げた。そこをダムに沈めるから出て行けという。代わりの土地は提供すると言うが、では俺のこの17年間はなんだったのか。おまえは俺の土地を沈めるのではなく、俺の17年間の人生を沈めることになる。自分の人生の証が消えてしまうんだぞと、言われ、これには本当に参りました。
ただひたすらお願いするしかありませんでした。結局、最後にはこの人が全水没者のとりまとめをしてくれましたが。竣工式に来てくれて、今は移転代替地で前より立派にやっていると言ってくれた時は本当に嬉しかったです。

もう一つは、予備調査の立ち入りの了解を得るために、ダム軸予定地の地主のお爺さんとお話をしたときも困りました。お爺さんといっても、今となっては私と同じくらいの歳でしょうか、お国のためだからあえて反対はしないが、もう後何年も生きていないだろうから、死ぬまでまってくれ。移転地を与えられても、そこで新しい人生など始めることなどできない、だからといって、補償金を貰って仕事もしないで生きていくこともできないから、と言われ、説得のしようがありませんでした。結果、孫を助けると思って勘弁して下さいって泣き落とすしかありませんでした。

要するに、ダムは建設地点の人たちにとっては迷惑施設そのもの。メリットがあるのはたいていは、はるか下流の人たちで、建設地点に直接メリットをもたらすことが少ない。計画する時もそういう施設だということをまずは念頭において、地元にどのようなメリットをもたらすことができるかを真剣に考える必要があるでしょう。サイトを選ぶにもそのような観点を持つことが必要ですね。

大切なことは、相手の心の痛みを分かること

中野: 用地交渉では、大変なご苦労があったんですね。

中村: 実はそう大変とは思いませんでした。宮ヶ瀬ダムに赴任したとき、水没者のところに挨拶に行って、皆はすぐ犠牲者というけれども、私に対してはその言葉は使わないで貰いたいと。犠牲者を作るつもりはないからと言いました。とにかくどうやったら生活再建できるか、良くなれるかということを一緒に考えていきたいから、一人も犠牲者をつくる気はないから、皆さんと一緒にやっていきましょうと挨拶しました。それは概ねうまくいったようで、補償基準が妥結した時、犠牲者の声を求めて番組づくりをしようとしていたテレビが、番組を作れませんでしたから。

大切なことは、相手の心の痛みを分かること、自分の痛みとして受け止めて、それに対して何をしてあげれるかを一緒に考えていくということで、信頼を得ることでしょう。信頼関係ができればそれで成功ですね。

中野: 成功例としての「宮ケ瀬ダム」は有名ですね。都市圏からも近く観光施設も整っていて、地域と一体化している感じがします。


宮ヶ瀬ダム(撮影:山口勲)
中村: あれだけの規模の施設は、今ではできないんじゃないかと言われてますが、僕はかけるべきお金はかけろと言っているんですよ。かかったお金は、ダムが役に立てばそれは何百年分の1に過ぎないんだから。つまらないところでケチってはいけないですね。

「中村学校」流若手育成術

中野: そうですね。丁寧にきちんとしたものを造っていけば、後世に残していけるんですね。私は、現在ダム工学会で、若手技術者の育成を目的として活動している「若手の会」をお手伝いさせていただいております。それに何かヒントをいただければと思いますが、中村さんご自身は、どういうふうに若い技術者を指導されてこられましたか?

中村: 部下の育て方は、少し背伸びをするくらいの責任と権限を与えて、仕事を任せることです。それは、自分がそうやって育ってきたから、そうするのが一番良いと思ってます。責任を取らなければならないから、嫌でも勉強をせざるを得ません。上の者としては出来るだけ口を挟むのを我慢し、後始末だけしてやる。そうすると人は育つんですよ。

あちこちで「中村学校」と言われて育った人もいますが、相談に来る時「どうしたら良いですか?」という質問には答えない。「こうしたいがどうですか」と聞けと常々言っています。取り返しのつくものであれば、例え失敗が目に見えるようでも敢えてやらせみます。ただし、謙虚さを失ってはいけません。分からないことは、分からないと言えるよう、きちんと認識してコミュニケーションできるようにしなければなりません。

設計の基本は使いやすいダム、そして造りやすいダム

中野: 「絵でみる ダムができるまで」第二巻では、設計を進めるうえでの考え方を中心に解説されており、そこには、設計には思想が伴うと記されていますが、ご自分ではどういうものを基本にされていますか?

中村: 私のダムづくりの基本は、「使いやすいダム」を設計するということです。つまり管理のしやすいダム。操作しやすいという意味もありますが、操作にあたって迷いの生じないようなダムにすること。これは設計だけで考えてもダメで、計画論にさかのぼって考える必要がありましてね。



特に流域の小さいダムについては、雨が降ったらすぐに水が出てきてしまって、ゲート操作する暇なんかないんですよね。それでゲートのないダムを考えて、穴あき坊主ダムなどというものを造りました。いってみれば、河に狭窄部を作っているんですよ。川に狭窄部を作ると大水が出なくなるんでね。いろいろ言われますが、何も操作しなくてもいいから使いやすいのです。

次に「作りやすいダム」を設計することですね。施設を考えて場所を決めると、工事用道路が後から役に立つようにできるとか、地域に還元できるようになるんです。いろんなことを考えて設定しなくてはなりません。道路を含め、仮設備の配置しやすい座取りや形式を考えることが大切ですね。
ダム好きさんは、よき批判者でもある

中野: ダム技術者とは、ちょっと筋が違いますが、ダム好きさん、いわゆるダムマニアの方々も、ダムについてはすごい知識というか、技術面についてもかなりお詳しいです。最近では、ネットを通じて、多くの技術者もこうした方々との交流も生まれていますが、ダム好きさんたちのことをどう思いますか?また、今後、彼らとの交流をどう進めていけば良いと思われますか?

中村: それはもう嬉しいですよ。自分の子供を愛してくれるようなもんですよ。ダムを愛してくれる人がいるということは、ダムを造ったものにとってはとてもうれしいことです。

それと、ダムを造っている人たちは独り善がりになっていることがきっとあると思いますから、そういうところをどしどし批判してもらえると有難いと思います。今後は、彼らの望むことを実現させてあげる努力をし、イベントなどでは協力も要請してはどうでしょう。

中野: ダム好きさんたちは、ダム巡りをされておられますが、技術者として、ご自身でダムを見に行かれることはありますか?

中村: もちろん見たいと思いますよ。海外旅行に行ったときなんか、ダムばかり見に行きますよ。オーストラリアのタスマニアという島は、人口が50万人しかないのに、ダムが50もあって、電力はほとんどすべて、水力でまかなっています。私は地球上で最後まで生き残れるのはこの島ではないかと思うのですが、残念なことに南極のオゾンホールの影響をもっとも受けやすい場所でもありますので、これからどういうことになるのでしょうか心配ですね。

いいダムは金を払ってでも見に行く

北川: ダムマニアの方たちのようにダムを好意的に見てくれる人もいますが、一方ではダム批判論も根強くあるように思います。なぜ、「ダム」が国民から遠い存在になってしまったのでしょうか。その隔たりを埋める手だてはあるのでしょうか。

中村: 洪水や渇水が起こらないようにダムが機能を十分に果たせば果たすほど、ダムの「お陰」が目に付かなくなるのは仕方のないことです。いわば空気のような存在になってしまうのですから、もって瞑すべしということでしょう。

装置としてのダムは魅力的にすることは可能ですし、いいダムは金を払ってでも見に行きます。その意味でも、少しばかりお金をかけてでも、魅力的なダムを造るべきでしょう。これはへんてこな装飾をするという意味ではありません。たとえば、ダムそのものが力強く美しく見える視点場を造成するなどの方法が考えられます。

見方を変えれば、ダムの適地はまだまだいくらもある

中野: そうですね。21世紀は、水の時代。環境の時代とも言われますが、ダムの今後についてはいかがでしょうか。これからのダムづくりの方向性、あるいは、ダムのリフォームの問題などについてお考えのことがあれば、教えて頂ければと思います。

中村: ダムは水を貯める装置ですが、見方を変えると太陽熱を凝縮して貯めている装置とも言えます。我々が使うエネルギーは、もとはと言えば太陽熱ということになりますが、太陽熱は面積あたりとすると非常に希薄なので、直接使おうとするといろいろな仕掛けが必要になります。大洋からの蒸発とそれを雨として降らせるという循環に注目すると、太陽熱の貯留施設としては、ダムは相当に効率のよいものです。しかもクリーンです。単に真水を得る装置と考えて、脱塩装置などと比較するのは大間違いです。水力発電と火力・原子力発電との単価を比較するのも、環境面を考慮に入れていないという点では中途半端な考え方でしょう。単価の見方を変えれば、ダムの適地は日本はもちろん世界中にまだまだいくらもあります。

日本の場合は、大きなダムを造ってても川が急だから効率が悪いとか言われてますが、よく考えるてみると効率が悪いから付け替え道路が少なくてすむんです。結局効率のいいダムは他の所にお金がかかる。小さなダムの方がいいのではないかと、環境に負荷も少ないからそう思います。

ダムという総合技術を生かせる仕事はいくらでもある

中野: 我が国では、現在新設のダム計画は少ないという状況でしょうが、こうした環境のもとではダム技術を学ぼうという若手技術者がいなくなってしまうのも大きな問題だと思いますが、いかが思われますか?

中村: ダムを新設するサイトが減ってきていることは事実ですが、ダムそのものは厳然として存在しているのですから、ダム技術が不要になるということではありません。ダムは総合技術だとよく言われますが、コンクリートを打ち込んだり、ロックやコアを盛り立てたりすることはそのうちのほんの一部の技術でしかありません。だから、現在のダム屋は新設ダムのサイトが減ったからといって悲観する必要は全くありません。総合技術を生かせる仕事はいくらでもあるはずです。ダムを造る技術があればなんでもできます。

機会が減って後進が育たなくなるのは問題ですが、それはもうとっくに始まっていて、既にいろいろ困った現象が生じています。プロの技術者というものは意識して育てないと、自然に育つものではありません。40年近く前にそのような警告を発していたのですが、耳を貸す人がいなかった結果が今の状態だと思います。

中野: 本日は、とても有意義なお話し有難うございました。
これからも若手のためにいろいろご指導をお願いいたします。



(参考)中村靖治さんプロフィール

中村靖治(なかむら せいじ)
株式会社アイ・エヌ・エー顧問

[職歴]
昭和37年:東北大学工学部土木工学部卒業、建設省入省
北海道開発局出向、石狩川治水事務所、金山ダム建設事務所勤務。
昭和41年:北海道開発局出向、石狩川開発建設部、豊平峡ダム調査事務所計画係長
昭和42年:北海道開発局、建設部河川計画課計画第二係長
昭和45年:北海道開発局、帯広開発建設部、十勝ダム調査事務所長
昭和48年:北海道開発局、建設部河川計画課開発専門官
昭和50年:北海道開発局、石狩川開発建設部 工務第一課長
昭和51年:建設省、土木研究所企画部ダム計画官
昭和52年:建設省、河川局開発課長補佐
昭和54年:建設省、関東地方建設局宮ケ瀬ダム工事事務所長
昭和57年:水資源開発公団、第一工務部設計課長
昭和60年:建設省、河川局河川計画課水理調査官
昭和62年:静岡県、土木部技監兼河川課長
昭和64年:水資源開発公団、第一工務部次長
平成3年 :水資源開発公団、第一工務部長
平成4年 :株式会社アイ・エヌ・エー取締役技師長
平成5年 :株式会社アイ・エヌ・エー常務取締役、専務取締役を歴任
平成16年:取締役副会長を経て同社退職後、顧問として現在に至る

[著書]
昭和63年「絵で見る ダムのできるまで」の第一巻(用地 調査 計画編)が発行される。
その後、平成2年に第二巻(設計編・フィルダムコンクリートダム)、平成4年に第三巻(施工計画編・フィルダム、コンクリートダム)、平成6年に第四巻(施工編・コンクリートダム)、平成7年に第五巻(施工編・フィルダム)が刊行される。

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(平成21年1月作成)
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 (中村 靖治)
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