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ダムインタビュー(59)
青山俊樹さんに聞く
「相手を説得するのではなく、相手がどう考えているのかを聞くことに徹すれば、自然に道は開けてくる」

 青山俊樹(あおやまとしき)さんは、京都大学大学院土木工学科を卒業後、昭和44年に旧建設省に入省。近畿地方建設局を皮切りに中部地方建設局、本省河川局、大臣官房技術調査室、中部地方建設局、本省河川局開発課長、 東北地方建設局局長を経験された後、また本省に戻られ、河川局長、建設技監、事務次官を歴任。平成14年に退官されるまで35年間に渡ってダムや河川行政で数多くの難題に取り組まれ、大きな成果を残して来られました。
 かつて東北地方建設局局長をご経験されたことから、東日本大震災によって大きく傷ついてしまった美しい東北の自然と、失われた人々の生活基盤に対しては言い知れぬ喪失感を今も感じておられ、現在想定されている東海、東南海地震や首都直下型地震への備えや危機管理についての取り組みについては、従来の組織の壁を越えた対応が必要だと提唱されておられます。退官後は、水資源機構の理事長の他、河川協会理事、国土技術センター顧問等の要職に就かれ、現在は建設業技術者センターの理事長として、尚一層土木技術の発展に尽くされています。


 今回は、長く土木に関わる行政のトップとして人々の暮らしを支える公共事業の最前線に立って来られたご経験をもとに、これからの国づくりのあるべき姿と若手技術者への期待を語っていただきます。
(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)

土木の世界に入るきっかけは黒部ダム

中野: 青山さんは京大のご出身ですが、お生まれも京都ですか?

青山: そうです。京都で生まれ育ったので他所の土地の大学に行くことは頭にありませんでした。私は父がいないものですから、出来るだけ母親の側に居てやろうと思っていたということもあります。

中野: なるほど、ではなぜ土木に進まれたのですか?

青山: 結果として京都大学の土木学科に行くというのは、私の意志を通させて貰ったのです。当時の高校の担任は英語の先生で、有名な小泉八雲…あのラフカディオ・ハーンの子孫にあたる方で英語の得意なすばらしい先生で、私に「君は外務省に行って大使になれ」と強く勧めてくれていました。そのためには、まず法学部に行って法律をやれ。それには東大の法学部に行けということでした。

中野: 相当に成績も良くて、英語がお上手だったのですか?

青山: それはどうでしょう。ただ強くそう言われていました。一方、国語の木村先生に進路の相談した所、「君は理科系の頭だ。国語の答案用紙をみると理科系の文章だ。だから、やはり進路は理科系でいいのじゃないか」と言っていただきました。確かに、自分の文章を読んでみると味もそっけもない理科系の感じです。私自身京大の土木を受けようという意思はすでに固まっていたのです。

中野: それは、なぜでしょうか?

青山: 恐らく高校1年か2年の時に黒部第四ダムの建設工事を記録した映画を観たのがきっかけではないかと。それは、関西電力が記録用に撮ったフィルムを、関電管内の高等学校を順に回って上映してくれたのだと思います。それに感動したのを覚えています。

中野: なるほど、高校に入って間もなく、土木技術に刺激を受けたのですね。

青山: 特に感動したのはフィルムの冒頭。雪を頂いた黒部の山を、大きな荷物を担いだ人たちが黙々と歩いていくのです。滑り落ちたりしたら命がないような危険な斜面をただ黙々と歩いて行くシーンが続きました。そのようにして非常に厳しい自然条件と戦いながら、途中で雪崩とかに遭って、作業が全部途絶える等様々な困難に直面しながら、本当に苦労しながらダムを建設していく過程が淡々と映し出されている映画です。

中野: 記録映画だから過剰な演技も演出もない、技術者を追う映像…。


黒部ダム(撮影:安部塁)
青山: 心が動かされました。とっさにこれぞ男の仕事だと。土木こそ、私が一生を掛けるべき仕事だというメッセージを感じたのです。

現場はとても務まらないと、大学院へ

中野: でも青山さんはとても穏やかで優しい感じですが、そんな荒くれた仕事は向いていないと言われたりしませんでしたか?

青山: 実は大学院を受ける前に私は現場へ行きたかったから、ダムの現場をやっているようなゼネコンに入りたくてそのつもりでいました。でも石原藤次郎先生という、当時から有力な先生が「君みたいな優しい顔していたらだめだ。現場じゃ無理だ。役所に行くならいいけど、ゼネコンの現場はとても務まらないじゃないか」と。もう少し勉強して、大学院を受けろと言われたのです。

中野: それで大学院に行かれたのですね。

青山: それが、大学院に入るのが大変でした。私は、大学の授業では好きな先生の授業は物すごく真面目に聞いていたのですが、嫌だなと思った先生の授業は全部ボイコットだったのです。教え方に情熱がある先生かどうかとかいうのがありましたから。それで、4年生の5月頃、教室の主任の先生に呼ばれまして、「青山君、ちょっと話があるのだけど、君は大学院に行くんか」と。「どうしようか迷ってます」と答えたら「君の試験の成績は、物すごくいい。平均にしたらね。ところが、たくさん単位を落としている。単位を落としている科目を60点として考えたら大学院の推薦には入らない。どうする?」といわれましてね。

中野: その後の勉強が結構大変だったのですか。

青山: 大変でした。やはりみんな大学院へ行こうという雰囲気ありましたから。大学院の入学試験勉強でドイツ語の復習とか、英語とか、全部やらなきゃいけないのです。一方、公務員の試験も強制的に受けさせられたので、結果的に公務員と大学院の試験に両方受かったような形になったのです。

建設省は地方建設局から

中野: すると大学院に行けたから、公務員試験も受かったという感じですね。大学院に苦労されて入られて、その後建設省に入られるのですが、最初の配属はやはり地方ですか?

青山: そうです。私は、本省勤務になるのがものすごく遅くて、本省で係長は経験していません。これは余談ですが、私が河川局長になったときの道路局長が、井上啓一君です。彼は東大ですが、道路局に入った時は専門官でした。新人研修の時、河川局長と道路局長が挨拶するのですが、その時に、私は「皆さんがどこに行きたいかという志望先をみたら、本省、本省、といっぱい書いてある。ところが、本省に早く来たところで、必ず良いかどうかはわからない。建設省という役所は、むしろ現場ばかり回って、いろいろなところでもちゃんと仕事ができる人間かどうかを見ている、だから引き上げるときは引き上げてくれるのだ」という話をしたことを覚えています。現に、私と井上君はふたりとも本省勤務になるのがすごく遅かった共通点がありました。


 
電算機を使った計算で徹夜する

中野: 最初に配属になったのは、どこでしたか。

青山: 近畿地方建設局の河川計画課です。淀川の流量改定を担当しました。そこでの計算作業がかなり大変でした。ちょうど淀川ダムの統合管理事務所に電算機、富士通の23025が入った頃です。今ならパソコンに入るような容量なのですが、当時はそれが最新鋭機でして、作成したデータを紙パンチしてもらって、電子計算機で計算して貰うという訳です。ところが初めて導入した頃ですから、システムエンジニアがいう通りに機嫌よく動いてくれる時と、機嫌悪くてコントロールカードを幾ら一生懸命入れても動いてくれない時など、いろいろと問題がありました。結局、電算機を使った計算は、人間が徹夜することになり、私の淀川ダム統合管理事務所時代は、月に200時間を超す残業が丸1年続きました。土曜日徹夜して、日曜日の夜10時に家に帰るみたいな生活していました。

中野: そんな激務の近畿地方建設局にはどのくらいおられたのでしょか。

青山: 近畿地方建設局に2年いて、その後、滋賀県に行けという話になりました。当時、県庁に行く人事は、課長クラスになってからでした。それが私のちょっと前に係員の段階から、県庁へ行くということに変わりまして、私はその2期生ぐらいですね。昭和43年頃から始まったと思います。

現場で鍛えたれた仕事とは

中野: それで滋賀県に行かれたのですか。

青山: 滋賀県庁の人にしてみたら、直轄から普通の係員が来るということなので、どんなやつだろうという好奇の目でみられたと思います。

中野: 滋賀県ではどのようなお仕事をされたのですか。

青山: 滋賀県ではすごく仕事をした気がします。担当部署には、図司さんという私より1つ下の方と、係長で私より一回り以上も年上の岩田さんという方がおられたのですが、2人とも本当にお酒が強いのです。5時過ぎになり、残業するという時は、いつも机の上にウイスキーのボトル、サントリーホワイトの瓶がのっているみたいな感じでした。仕事もよくやりましたが、酒もマージャンも滋賀県で仕込まれたと思います。

中野: 大阪では最初、徹夜で鍛えられたから、次は滋賀県で修行したということですか。

青山: まだ若かったのでしょうね。ただ、私の場合は、24歳で結婚していましたし、就職した翌年にはもう長男が生まれていましたから、仕事が忙しいといっても家にも帰らなくてはいけませんでした。子供は近畿地方建設局の時に生まれて、滋賀県にいる間に3人目が産まれたので3人兄弟ということになります。

中野: それは大変でしたね。

青山: 仕事をして、その後飲んで12時過ぎに帰って、さあ寝ようかと思ったら、子供が寝てくれないのですよ。長男が。仕方なく乳母車に乗せて、家の近所をよく行ったり来たりしました。ただ、乳母車に乗っている間は気持ちよく寝ているのですが、布団に寝かせようと抱き上げた途端にまたうわっと泣き出したりするのには困りましたね。

中野: 3人、年の近いお子さんだったから大変でしたね。

青山: そうですね。朝、役所へ行ったら「青ちゃん、おまえきのう飲んだ後、また家の前で乳母車を押していたな…」と冷やかされました。

新幹線の車掌のようなスケジュール

中野: 仕事も家庭もすごく大変な時期を過ごされた滋賀県から、次は、中部地方建設局に行かれたのでしょうか?

青山: 中部地方建設局には、局の係長で行ったのですが、上司に調査担当の課長補佐で中原さんという方がみえて、その方がすばらしい人でした。仕事の虫というかとにかく仕事が大好きで、相当鍛えられました。

中野: そうなんですか。中部地方建設局で関わったのはどういうお仕事ですか?

青山: 最初は河川計画課の調査係長だったのです。この時は、新幹線の車掌みたいでしたね。朝、静岡の河川事務所に行き、昼まで打ち合わせして、後はその事務所で部屋を借りて、大井川の土砂をどうしていくかという議論を事務所の人と一緒に徹夜で議論して、翌日の朝8時ごろに、新幹線に乗って名古屋へ帰るというようなことをよくやっていました。

中野: 寝ている時間がなかったような感じですね。

青山: その頃は、よく働きました。

本省勤務になって仕事のやり方がわからなかった

中野: そうやって地方勤務を長く務められたのですね。大変だったのは、どこでしょうか?

青山: 初めて仕事が大変だと思ったのは、一度本省勤務になって、河川計画課の筆頭補佐になってからでしょうか。ここでは予算を配分したりしましたが、地方では現場仕事ばかりですので、本省での仕事のやり方というのがわからないのです。人間関係でも揉まれました。部署で一番若いのが私で周囲は皆先輩で、5年上の日野さん、4年上の荒井さんと大先輩が居て、尾田さんなんかがまだ中堅クラスで、さらに上の方もゴロゴロしていた訳です。そこで「補佐会をやります」と招集を私がしなければならなかった。

中野: その補佐会というのは、どういう会議ですか。

青山: 当時、専門官会議というのがありましたが、ならば補佐会議もやろうということで始めたのです。

中野: なるほど。以前に近藤さんにお話を伺った時にも聞きました。

青山: ところが、会議をするにも昼休みを充ててやるので、なかなか人が集まらない。「補佐会議始めますから集まってください」と言いに行っても、すぐ来てくれる人は2人ぐらいです。メンバーが十数人いるので2回ぐらい言って回ってやっと始まるという感じでしたね。


3年間の大半が労使交渉

中野: この時本省にはどのくらいいらしたのですか。ご苦労された場所は他にもありますか?

青山: その時の本省勤務は3年くらいになりますが、大変だったなと思うのは、この後、所長で行った姫路工事事務所では労務関係の対応がとてもしんどかったと記憶しています。

中野: それはどんなことで。

青山: 昭和57年、当時の鈴木善幸首相による人事院勧告の凍結に端を発した組合闘争が全国に広がりを見せていたのですが、私は現場事務所長としてその労使交渉に直面したのです。姫路でのおよそ3年の勤務の大半は、この交渉に充てられていたとも言える程でした。

中野: いったいどんな状況だったのでしょうか。

青山: 部下といえば係長1人、係員1人の本省の課長補佐から、総勢176人の姫路工事事務所の所長として赴任したのですから、職場の環境が全く違います。まず人の顔と名前が一致するようにしなければなりませんでした。そこでは、当然ながら管理者として査定や人事も行わなければいけませんから、それぞれの人がどんな仕事をどれだけやっているかやその成果もみていかなければいけません。その上で、当時かなりもめていた労使交渉に出て、組合から出される要求書に記されている事柄に一つずつ回答しなければならないのです。しかし、何か引っ掛かる文言があれば所長室に多数の組合員がなだれ込み大声で追及されるという状況の中で、公平かつ丁寧に聞くことを求められる日々が続きました。おそらく全国にある国の出先機関ではこの頃よく見られた光景だと思います。

中野: そうなると技術者本来の仕事とはかけ離れた状況ですね。

青山: ちょうど昭和57、58年頃はそういう時代でした。今にして思えば、健全な労使関係があって初めて、国土保全や国民生活の基礎を支えるインフラ整備といった事業がきちんと行われるのだということについては、皆さんにもよくご理解頂きたいところです。

何度も長良川河口堰問題にかかわった

中野: ダムに限らず何かと公共事業が悪者にされた時代ということも影響しているのでしょうか。その後に就かれた本省河川局の局長時代にも長良川河口堰でも大変ご苦労があったそうですが、その辺りのお話を伺ってもよろしいですか?

青山: いいですよ。長良川の河口堰問題は、中部地方建設局時代から何度か体験しているので、ずっと私のテーマになりましたね。まず昭和48年に私が中部地方建設局の係長になったときに、長良川の河口堰についてマンモス訴訟が起こりました。物すごい数の原告団で裁判になり、私はえらいことになったなと思ったことを覚えています。長良川の自然を守れ、魚やシジミを殺すなという環境保護を訴える裁判について、マスコミは皆原告団の味方になってしまい彼らの代弁者のようなスタンスをとっていました。そうした中、昭和51年に長良川の大水害が起きてしまいました。私は木曽川上流事務所の洪水予報担当課長をやった直後でした。この時は、かつて経験したことがない程、雨が降りやまなかった。最近起きた鬼怒川の洪水もそうですが、雨雲レーダーをみますと、同じ所に南から北に雨雲がかかり、どんどんと縦方向に動いている。普通、木曽三川では「四トキトキ十二トキ」といって、西から順番に雲が東の方に進んで行き、東に抜けたらもうその流域は雨雲からさよならできるわけです。ところが南北に雲が流れると、いつまでも同じ所に雨雲がいるのです。

中野: 鬼怒川の洪水も同じような降り方でしたね。

青山: ああいう雨の降り方されると怖いです。長良川で水防している人は、皆胸まで泥水に浸かり作業することになります。堤防が泥の壁になるんです。水を吸うと固い土ではなくて、水なのか土なのかわからないぐらいの泥塊になってしまうのです。

中野: 歩くと抜け出せないような感じになるのですか?

青山: 足元が溶けてしまうような感じでね。私は、岐阜の忠節橋のすぐ前の木曽川上流工事事務所の周辺だけしか見てないのですが、実際に歩いてみたら、忠節の堤防、ここら辺は一番しっかりした堤防ですが、くるぶしぐらいまで土の中に入るのですね。これはすごいなと思っているうちに堤防が切れたと知らせが入り、それこそ天地が引っくり返るような騒ぎになるのです。

中野: 木曽川の上流の方でそうした大雨があると洪水になるということは、わかっていらっしゃったのですか?

青山: ああいう状況になるとは、わかりませんでした。昭和51年の9月の大雨は、木曽三川としては経験したことないような雨の降り方をしましたから。確率的には1万分の1とか、それぐらいのオーダーの雨だと思いますね。

濃尾平野を洪水から守るために計画された

中野: そうした洪水の危険があるから、長良川河口堰というのは計画されたはずじゃないですか。

青山: そうですね。


長良川河口堰(撮影:池ちゃん)

中野: だけど反対派は危険性を直視することなく、とにかく自然破壊だと感情に訴えるような運動を起こし、マスコミがそうしたメッセージを増幅してしまったのですね。

青山: ことはそう単純ではなく、いろいろ紆余曲折ありましたが、とにかく大雨で長良川が破堤して被害が出てしまいました。この時、ホンマにしまったなぁという気持ちが強かった。もっと早く長良川の堤防補強なり、浚渫をやっておれば、この洪水で切れることはなかっと思いました。その辺のことは上松陽助岐阜県知事も理解してくれました。岐阜県としても長良川の浚渫をやってもらわなければいけないと。そのためには、河口堰も要るではないかという流れになっていった。県庁がその気になってくれたから、マンモス訴訟でにっちもさっちもいかなかった状態のところで、少しコトが動いたのです。
 実際には、県が原告側への説得、切り崩しも含めてかなりのことをしてくれたので、事態は好転したわけです。すると今度は、建設予定地である三重県は水害に遭わずに済んだので逆にお金の問題だとか、地元の漁業者の声などで反対だとなったのです。国としては、基本的には一貫して推進の立場でしたが、行政については、岐阜県側がはっきり推進派に変わってくれたものですから、後に三重県もおつき合いしましょうかという感じになったのだと思います。

中野: その頃、青山さんは本省で担当課長でしたか?中部地方建設局には2度勤務されたのですね。

青山: いろいろお話した中で時系列的に飛んでしまったようですね。先ほどもお話ししましたが中部地方建設局の事務所の担当課長をした後、昭和51年から53年ごろまで企画課長、河川計画課長をやっていました。それから本省の課長補佐に替わって3年近くいました。それから姫路工事事務所の所長に行って、それから後、再び中部地方建設局の河川調査官に戻って、そこで担当したのが、三重県の水利権の問題でした。ここでは、愛知県が河口堰で発生する水利権の一部を引き受けましょうということで、水のやりとりの話が片づいて、三重県も県としては賛成に回り、行政関係はみんなやろうということになった途端に、あの天野礼子さんが出てきたわけです。

反対派からのキャッチフレーズにマスコミが飛びついた

中野: そうですね。これまで何度かお名前は伺いました。環境問題専門のような方ですか。



青山: 環境問題が専門じゃなかったですね。主張することはそうですが。彼女のすごいところは、環境問題として何々を守れと言うだけじゃなく、天然の川、長良川を守れという、川全体をクローズアップして反対の真ん中に置いた。

中野: キャッチフレーズとしてそういうメッセージにしたという?

青山: 中部地方建設局や建設省、いわゆる国対自然という構図でとらえて、長良川を死なすな、守れというキャッチフレーズを出したんですね。それにマスコミ陣は飛びついた。このことは、当時の中日新聞社の論説委員長にハッキリと言われました。「青山さんね、天野礼子さんは竹槍をもって、中部地方建設局とか建設省という戦車に立ち向かったジャンヌ・ダルクなんですよ。マスコミはどっち応援しますか。戦車を応援する訳ないじゃないですか」と。
中野: 長良川のことを、ダムがない日本唯一の川みたいなことをおっしゃっている人の言葉を鵜呑みにしてすり替えているようなところはよくないですね。

青山: それはもう、嘘です。支川にもダムはあるのですがイメージ作りでしょう。でも、それがパ〜ッと世間に浸透しちゃったら、もうこちらが何を言っても遅いというような格好になってしまうのですね。あれは不思議なものです。

初動のマスコミ対応が悪かった

中野: こちらが説明する前にいろいろなことを言われてしまって、打つ手がなくなってしまったというか、行政側の発信が上手くなかったのですか。

青山: やはりマスコミ対応が悪かったのだと思います。かなり後になって、マスコミの中で親しくなった何人かに聞きましたが「青山さんね、最初の中部地方建設局の態度は何だったんですか」と、皆そう口を揃えて言いました。長良川河口堰の説明をしたいといって、新聞記者を集めておきながら、資料を配ってハイ説明は終わりますと。記者の方がまだ質問があると言っても帰ってしまう。中部地方建設局も、水資源公団の職員も全部帰ってしまった。あんな態度をしたら、誰もが反対するじゃないですか。この野郎と思いますよ。とりあえず話を聞いてやろうと思ってわざわざ記者会見に出て来ているのに、数人が通り一遍の説明をして「ハイ、おしまいです」と打ち切るのはないだろうと。その辺は、反省しなきゃいかんですね。

中野: 対マスコミでは、行政官として、どういうようにお感じになりましたか。

青山: 私が一つ発見したのは、マスコミが流れを作ったら、これはもう物すごいエネルギーをかけても、なかなか流れは変わらないということ。その前に丁寧に説明して、理解者をいかに増やせるかが勝負です。大体これは問題になりそうなプロジェクトだと、事前にわかるわけですよ。やはり初動の判断が大事です。

本格運用を建設大臣に決断いただく担当課長として

中野: その点、反対派の天野さんなんかは、マスコミをうまく使ったというようなに感じます。
逆に、行政側は、マスコミをうまく使い切れなかった、情報発信することが下手だったので、逆に問題が大きくなってしまったというか。

青山: 実際に彼女は話の持って行き方がうまいですよ。どんどん話が転がっていく。当時、河口堰工事のゴーサインは、野坂浩賢建設大臣に出してもらったのですが、大臣になられた時に長良川河口堰のことで悩んでおられるというのはよくわかりました。ちょうど私が開発課長の時で、ダム事業全般を担当する課長でしたが、いわば河口堰担当課長でしたね。毎朝9時前に建設省に行くのですが、即大臣室に直行する訳です。「大臣、今朝の新聞にはこんな記事がありました」と、全部説明していくのですが、秘書官も私の場合は最優先で大臣室に通してくれました。大臣は、それをじっと聞いておられて、「そうか」と。人間味ある方で、野坂さんはその頃、奥さんを亡くされたばかりで建設大臣になられたので、小指に奥さんのしておられた結婚指輪がはまっているわけですよ。大臣就任の挨拶も、最後退任して出ていかれるときの挨拶も、河口堰の話ばかりでしたね。それだけ大臣は河口堰で悩んでおられた、自分自身でも反対の署名しておられた訳ですから。支持する自治労も反対だし、自身も基本的には反対だし。付け加えるなら、竹村君が偉かったですね。

中野: 竹村公太郎さんですね。以前、インタビューさせて頂きました。

青山: 彼は、みんなデータをオープンにすると言うのです。マスコミに対しては、徹底的にオープンにデータを何でも出すと。建設省にとっては、どうにも都合の悪いというデータも全部出すというところまで踏み込んでやってくれましたから。そういう対応をするようになってから後は、マスコミの人もこちらのいうことを信用してくれたのですね。始めからきちんと話せば、多分突つかれなかったと思いますね。

中野: 洪水から地域を守るという目的が、違う方向に流れていってしまったという思いがします。騒動が終わってからみるとよく分かるのですが、当時は何が問題の本質なのか見えない、そのように感じられますね。その長良川河口堰の問題が、脱ダムにつながり、ダム検証の方に進んで行く訳ですが、青山さんは河口堰から離れて次に東北に行かれたのですか?

青山: そうです。河口堰問題は、平成7年7月に、野坂大臣がゲートを下ろしていいよと言って頂き決着し、その年の11月1日に東北地方建設局の局長になりました。

美しい国づくりへの想いは東北から

中野: ちょうど本格的な運用が始まって、東北に行かれたということですね。その時は、どのような感想をお持ちですか?東北地方建設局の局長をされて、東北はダム王国と評されるようにたくさんダムがありますが、印象深いダムとか、思い出になったダムとかはありますか?

青山: やはり月山ダムですね。月山というのは、地元の人にとっては聖なる山で、秋になると紅葉がすごくきれいな訳です。大蔵村という山形県の村に行く途中に峠がありますが、その両岸の景色が物すごい。一面の錦ですね。それで真ん中に、雪を頂いた月山があるんですね。それは神々しい風景でした。あれは強烈な印象です。

中野: 青山さんは、お生まれが京都なので、紅葉の美しさはよくご存じだと思いますが。

青山: 京都の紅葉もきれいですが、スケールが違うんです。東北の山また山の紅葉というのは、言葉で言い表すのが難しい程です。


月山ダム(撮影:萃香)
中野: なるほど。大きさが全然違うということですか。各地を見て回られましたか?

青山: 八幡平の紅葉、飯豊山系も。やはり東北は美しいというイメージがすごくあります。それと皆さんの心映えが美しいですね。各市町村長さんだとか、とても仲よくしてくれまして、今でもまだ年賀状のやりとりをしています。

中野: それまでと違い、東北の局長時代というのは、すごくいい思い出がいっぱいあったと。

青山: いい思い出ばっかりですね。

水資源機構では河口堰の経験が役に立った

中野: そんな思い出のある東北から、また本省に戻られるのですね。事務次官になられてからは、どんなご苦労がありましたか?またその後、組織改革といえば、水資源開発公団から水資源機構になった訳ですが初代理事長は近藤さんでしたが、青山さんは2代目の理事長になられて、いろいろな改革に取り組まれたとか。

青山: 事務次官としてはとくに大変なことはありませんでしたし、水資源機構も近藤さんにレールを敷いて頂きましたから、私はスムーズに引き継げたと思います。ただ独立行政法人というのは大変ですね。例えば建設省なら、組織そのものがなくなるということはまずあり得ないことでしょう。ところが、独立行政法人では組織自体がなくなることが、あり得るのです。それだけに、予算にしてもきちんとした裏付けを持ち、仕事の成果は着実に出していかないと生き残っていけないと。何かあると大変な事になりますから。当時は、特に徳山ダムがいろいろ新聞などを賑わしていました。私も徳山ダムには、長く関わって来ているものですから、気にしていました。水没者の方たちもあの頃はもう補償問題に対してだいぶ詳しくなられていて、どうすれば水資源機構が困るだろうというのをよく知っておられる訳です。

ダムの用地問題は時間がかかる

中野: 以前に、山口さんにお話を聞いた時もそうでしたね。地権者一人ずつに、一つの印鑑を貰いに行くのに大変な思いをしたと。

青山: ダムに関しては、やはり用地は大きな問題です。最終的には地権者の方が土地を売ろうと思ってくれないことには、こちらも買えない訳ですから。それと山林の場合、共有地が多いというのもあります。土地境界がハッキリしていない、所有者がわからないというところも少なくありませんから、何にせよ時間はかかりますね。うまく交渉に入れたとしても時間はどんどん経ちますし。お金はどんどん膨らむ訳です。徳山ダムの全体の事業費は3,000億円ぐらいですが、そのうち本体工事費は 500億とかのオーダーです。残り2,500億程は、ほぼ用地買収関係になります。


徳山ダム(提供:水資源機構)
中野: 時間により事業費が膨れ上がることに対してどのように対処されたのでしょう。秘策はありますか?

青山: これはもう誠実にやるしかないですね。水資源機構の用地担当職員は、私は物すごく優秀だと思っています。直轄のダム関係の人は、一度ダムで用地買収をやったら、今度は河川改修をやったり、道路やったりと、いろいろ仕事の中身が変わりますけれど、水資源機構職員の場合は、もうダムだけですからそれは大変です。楽なところに変わる道はないのです。ほぼ一生ダムの用地の担当でいくということになりますが、本当によくやってくれていると思います。

中野: そうした業務面でもいろいろ改革され、その他予算関係でも工夫されたのですね。

青山: 予算的な工夫は、越智君が企画課長で、いろいろアイデア出してやってくれました。彼は見かけによらずアイデアマンで、それに理事の福田君がいろいろやってくれたので、彼にも助けられましたね。

上司にも部下にも友人にも恵まれていた

中野: 青山さんは、周りに恵まれていたという。

青山: 私としては、今おっしゃったように、上司に恵まれ、部下に恵まれ、友人に恵まれていたのだと思います。自分自身は大した能力はないので何もやっていないのですよ。



中野: でもそれはご謙遜で、やはりお人柄だと思いますけど。

青山: 私は、自分で何かアイデアを出すというのは、ほとんどないのですよ。ただ人がいいことを言っているなというのは、よくわかる方です。そういった意味では、人間関係にはとても恵まれましたね。

中野: 多分、人の話をよくお聞きになるのが良いのではないかと。

青山: どちらかというと、自分から考えを話すよりも人の意見を聞くほうが好きです。私自身が何か判断して本当に決めなきゃいけない話など、1年に1つあるかないかなのです。だから、後はもう基本的に人がいろいろ考えてやってくれた方向でいいじゃないかというつもりでいました。周りが皆一生懸命やってくれますからね。
東日本大震災から学ぶこと

中野: 東日本大震災がありましたが、良い思い出が多かった東北がすごくダメージを受けたことについて心を痛められたのではないかというように思いますが。

青山: 確かに今でも心が痛いですね。あの美しい自然が傷つきましたし、5年が経とうとしていますが、未だに復興したと言えないところが辛いです。私自身、3.11の地震そのものは、東京で体験しました。水機構の理事長を退任する前の春のことです。その日は、早稲田大学に行く用事があり出掛けていましたが、そこですごく揺れたのです。すぐに帰ろうとしたのですが、都内から水機構のある大宮に行き着くまで一晩かかりました。

中野: 具体的にはどういう手段でお帰りになったのですか。

青山: 車に乗っていたのですが道路が混んでいて全く動かないのです。地震があったのが3時前です。それから翌朝の8時半まで運転手さんと一緒でした。とにかく道路に車が詰まってしまいどうにも動きませんでした。途中トイレに行きたくなって困りましたね。

中野: あれだけの被害があったので、なかなか復興も難しいというのは分かりますがなんとかならないかという思いもあります。その辺り、どのようにお考えでしょうか?

青山: 東北は、地建の局長時代にあちこちに行ったし、各県の知事さん、各市町村長さんにも仲よくして貰っていて、本当に気持ち良く過ごせたのですが、その間は、あの津波が来ることを私はイメージ出来なかった。もう少し何か、危険性というものが分かっていれば、知事さん、市長さんに、住民の避難経路の確保だけはちゃんとしてください、とアドバイスも出来たのではないかと。日頃、彼らが見ているのは、国の直轄の海岸や堤防でなく、県管理の海岸でしたから、その辺、管轄が違うということにも問題があったのかもしれませんが、何か防災上のアドバイスが出来なかったかと思いますね。

組織の壁を越えて発言できるようにしていこう

中野: 分かっていることは、やはり情報発信しないといけないというお考えですか?

青山: そう思います。何にせよ、防災のような部分では自己規制したらだめですね。縦割りの区分というのは、結果的に人様の領域には自分の足を踏み入れちゃだめ、というように自己規制してしまうのですね。しかし、そこに誰の責任も及ばないエアポケットが出来る訳です。私は、3.11以降はもう、そういう自己規制に引っ掛からないようにと考えました。関連する部署に何か提言して、もしOBが口出しすべきじゃないと言われたなら、そこで引っ込めばいいので、そう言われるまでは気がついたことはどんどん言って行こうと考え直したのです。

首都直下・東海・東南海地震への危機管理

中野: 今回、鬼怒川の氾濫で被害が出た場所の水はなかなか引きませんでした。東京の直下型地震の場合も、もし破堤してゼロメートル地帯に水が入ったら、ポンプが機能しなければいつまでも水が引かないままになってしまうような状況ですよね。

青山: 日頃は、ポンプアップして荒川なりに排水しているのを、都民の皆さんは現場を見ている訳じゃありません。実際、目の前の川は水面が低いから、いつもはこんなものだろうと思っておられるのですね。実はそうではないのです。あの川の水位の状態は、本当は2メートルぐらい高いところにあるのです。だから、ちゃんと実はこうですよと伝える必要がある。今は地下鉄の入り口に、標高何メートルですという標示を東京メトロで出してくれていますが…。ああいう標示の意味も理解して頂きたい。

中野: 最近、見かけるようになりましたね。

青山: ところが、本日の満潮位はココです、というところまで出してくれると、本当はこんな高いのかと、皆さん驚かれると思います。


中野: 海抜ゼロメートル地帯というのは、実は海面よりも低い土地なので、一度水が入るとずっと引かないという状況を考えると、どう対処すべきかと考えてしまいます。

青山: かつてのニューオリンズの洪水もそうですけれども、地球をそれだけ傷つけ、沈めている訳ですから、かつて経済優先で地下水を取り過ぎて地盤沈下させたというのは、後世に対する罪だと思いますね。なんとか回復させることが出来るようこれからも工夫していければと思います。

中野: そうですね。首都圏の水害はすごく危ないし、もちろん地方も、名古屋や大阪もそうですから、人口が集まっている大都市はどこも危ないのですね。

青山: そういう場所が重なって水害に遭うと、日本経済は完全に麻痺します。だから、もしも国として滅びるとすれば、私は、東海、東南海、南海地震のように南海トラフで地震が起こって、各地の大都市のゼロメートル地帯に海水がどっと入ってという、災害の構造になった時かなと思いますね。これはもう東北の比じゃないダメージを受けるでしょうね。

日本の国土を守るのに必要なインフラについて

中野: それは背筋が寒くなるようなお話ですが、それも踏まえて、日本の国土を守る大事なインフラということについて、どうお考えでしょうか。

青山: 私は、まず危機に際して縦割り行政の壁をどう緩和するかが問題だと思います。河川局でいえば、ダム屋さんがあり、河川改修屋さんがあり、防災課がありというように砂防部、下水道部各課があり、さらに省としては道路局があり、同じように組織が重なっています。平常時はそれで良いかも知れませんが、非常事態にはそれらを一本にまとめて、より大きい目標に向かって一体となって動けるようにすることが出来ないかと思います。それには何が問題かというと、自分が開発課であれば、ダムを造ることと、ダムを管理するというのが開発課の目的だというふうになってしまうのです。それではだめです。国土を災害から守るとか、国民生活を渇水から守るとかというレベルにまで目標を持たないと、ダムをちゃんと動かすとか、構造物の周りに目がいってしまって、そこでとまってしまうからだめなのです。
 地震の時なんかでも、私は、避難訓練については大体皆さん車で逃げるので、そうであれば、道路を一斉に規制して、どの道でも車を同じ方向に走らせるという訓練をすべきだと思うのです。

中野: 皆がバラバラに車を走らせるから渋滞するわけで、渋滞を緩和するにはどこも一方通行にするということですか。


青山: 避難場所に向かっての一方通行ですね。例えば、山側に向かってしか車を動かしてはいけないと規制する。海側に向かった場合は逮捕するというぐらいの訓練をしないといけない。逮捕は言い過ぎかもしれませんけれど、一方通行で山側にしか行っちゃだめだというような訓練を月に一度ぐらい、サイレン鳴らした後の1時間はそれで車は全部従えと。逆方向に走っていたら皆Uターンして、山側に向かえというようにするのです。

中野: それが命を守ることになるなら価値はありますよね。命があれば、また地域も国もちゃんと復興出来るから。人がたくさん死んでしまっては、復興も何もないから。
青山: 本当にそうです。太平洋戦争での日本の一番大きい損失は、300万もの人が死んだということですよ。だから、あれは物すごく国家として損失が大きかったと思いますね。

中野: 人口が大きく減ってからの復興になると、人手も足らないし。

青山: それとやはり、機械は時間をかければ新しい機械に置き換えることも出来ますが、人間は死んでしまったら、すぐに新しい人間にという訳にいきませんからね。災害で人が亡くなるということは、私ら土木屋にとって一番あってはならないことだと思いますね。

若い人たちへのメメッセージは

中野: これからの土木の世界を担う若い人たちに対するメッセージとしては、どのようにお考えですか。日本がこんなに危ないからというから、ちょっと心配になってしまうんですけど。災害の多い日本の国土を守り、人々の生活を守るにはどういう心構えが必要でしょうか?

青山: 若い人には、いろいろな人がいてもお互いに仲良くして生きてほしいですね。考え方の違いや意見の違い、様々な差異でもって壁を作る、縄張りを作るというようなことに大きな力を割いて生きていくよりも、何が違うのか、違いをどう乗り越えられるかという方に考えていって欲しいです。
 話は、私が40歳の頃の経験に飛びますが、姫路の所長の時、毎日のように労務問題で事務所が荒れていまして、とても辛かったことがあります。そうした中、ある日、家の座敷に、ぽろっと祈りの言葉を書いた紙が落ちていたのです。当時、我が家では家内がクリスチャンだったので、そこに偶然落ちていたのか、または気を遣って置いてくれたのかは分かりませんが、アッシジのフランシスコという人の祈りの言葉が書いてありました。細かくは覚えていませんが、要は、「神様、愛されるよりも、愛することを、理解されるよりも、理解することを、私に求めさせてください」という言葉です。
 それを見た時、なぜか私は涙がぽろぽろ出まして、そうかと思いました。自分には、人からいい所長だと思われたいという気持ちがあるから、局長の命令と部下への思いとで、股裂きになって苦しんでいた訳です。毎日、組合の要求書を持って部屋に来る部下の本当の気持ち、考えを理解しようと出来るかと。愛されたいと願うよりも、愛していたいと思えば良いのだと。結局人間は、そういうものだなと思った途端に、何か心がすごく楽になった気がしたのです。だから、今、若い人に何か伝えてと言われると、人に愛されようと思っているだけじゃいずれ辛くなる、自分が愛していこう、相手を理解しようと思っていくと良くなると言いたい。そうすれば困難な人間関係にぶつかっても、あるいは逆境に嵌まり込んでも、自分の心が折れそうに辛くなることはないと言えます。こじれた問題は相手を説得するのではなく、相手がどう考えているのかを聞くことに徹すれば、自然に道は開けてくるものです。

中野: 一生懸命、自分を作らなくても良いならば、その方が辛くならないでしょうね。

青山: ですから、省内でも国会議員の○○先生が怒っているとか、誰それがこの件で激怒しているとなっても、局長とか次官とかいうポストは、ある種、怒られに行くことが仕事ですから、この先生に良く思われようとか思わないでおこうと。自分が、この先生のことを理解しようという心でいこうと思っていると、何となく関係がうまく回転していくようになるのですね。

ダムを理解してもらうためには

中野: そうやって大変厳しい労務関係を乗り越えて来られたのでしょうね。最後にダムをもっとPRしていくには、もう少しちゃんと理解してもらうためには、どのような工夫が必要でしょうか?何かヒントを頂けますか?

青山: 私は、やはりダムの運営管理を通じて、ダムの役割というのを下流域の人々に理解して頂くのが一番の近道だと思います。例えば、豪雨に見舞われた際に活躍した、名張の3ダム連携の話とかを詳しく解説記事にして新聞に書いて貰うとか。先日、京都の嵐山一帯が水に浸かった時の日吉ダムの運営管理の状況とかを一つひとつ丁寧に説明していけば、ダムはこれだけ頑張っていたのですと、話せばわかりやすいと思うのです。そういう情報をどう発信していけば良いかに工夫が必要なのでしょう。自分から、こうやった、どうだったと大きな顔をして言うようなことでは伝わらないと思いますので事実中心に客観的に語られるようなことでしょうか。

青蓮寺ダム(撮影:さんちゃん)

室生ダム(撮影:安部塁)

比奈知ダム(撮影:Dam master)
中野: ダムの操作や管理法については、なかなか解説できる方も少ないですしね。

青山: 水資源機構の理事長をしていた時のことですが、同じダムの所長でも、建設の所長と管理の所長のポストがある場合、どうしても皆さん建設の所長をやりたがるのです。そこで私は、部下とお酒飲んだ際によく言いました。君たちは、戦艦大和の艦長か、船の造船所の所長か、どっちがやりたいんだと。すると誰もがそれは戦艦大和の艦長でしょうと言うのです。ということは、よりユーザーに近い、より本来の目的に近いところの責任者になるが、ではダムの場合はどうだと?ダムの場合は、管理の所長の方が余程ユーザーに近いじゃないかという話をしていたのです。
 私自身は、黒四ダムの建設記録の映画を見て、土木の世界を志したぐらいだから、そういうのが大好きです。しかし、本当に世の中から理解して貰おうと思えば、管理する立場でダムが果たした役割を広めていくということが大事ではないかと思っています。

中野: そうですね。ダム協会では、ダム知識の豊富なダムマニアさんなどを、ダムマイスターに任命する制度をやっていますが、有名なダムマイスターの夜雀さんという方は、台風時のハイドログラフをどう読み解くかみたいな切り口で、イベントの際にダム管理の解説をして広めてくださっているのですが、そういったサポーターみたいな人がいると、力になりますね。

青山: すばらしいなと思いますね。そういう方の活動は大変ありがたいですね。出来れば、そういうお話がイベントだけでなく、マスメディアにも載せて貰えると有難いのですが。

中野: ダムマニアさんが行っているイベントでは、毎年ダムアワードというのを出していて、その年に活躍したダムを表彰するということもやっています。前回は、日吉ダムにトロフィーを持って行ったりして、水資源機構のダムも表彰されています。

青山: 職員もそうやって表彰して貰えると、自信を持つようになりますよ。ぜひこれからも続けてください

中野: 本日はお時間を割いて頂きありがとうございました。いろいろと貴重なお話が伺え、御礼申し上げます。



(参考)青山俊樹さんプロフィール

青山 俊樹 (あおやま としき)
昭和19年9月18日生まれ

昭和44年 3月 京都大学大学院工学研究科土木工学専攻修了
昭和44年 4月 建設省入省
昭和44年 4月 建設省近畿地方建設局河川計画課
昭和46年 4月 滋賀県出向
昭和48年 4月 建設省中部地方建設局
昭和52年 9月 建設省中部地方建設局企画部企画課長
昭和54年 8月 建設省河川局課長補佐
昭和57年 6月 建設省近畿地方建設局姫路工事事務所長
昭和60年 7月 建設省河川局建設専門官
平成 2年10月 建設省大臣官房技術調査室長
平成 5年 1月 建設省中部地方建設局企画部長
平成 6年 7月 建設省河川局開発課長
平成 7年11月 建設省東北地方建設局長
平成10年 6月 建設省河川局長
平成11年 7月 建設技監
平成14年 7月 国土交通事務次官
平成15年 7月 国土交通省顧問
平成15年11月 財団法人国土技術研究センター顧問
平成16年 4月 独立行政法人水資源機構理事長
  〜23年9月
平成16年 5月 社団法人日本河川協会理事
平成24年 4月 公益社団法人日本河川協会理事
平成26年 6月 一般財団法人建設業技術者センター理事長
現在に至る

他の職歴
一般社団法人 建設広報協会 副会長
特定非営利活動法人 日本水フォーラム 評議委員
一般財団法人 砂防フロンティア整備推進機構 評議員
公益財団法人 リバーフロント研究所評議員

(平成28年1月作成)
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