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ダムインタビュー(57)
小原好一さんに聞く
「ダムから全てを学び、それを経営に活かす」

 小原好一(おばら こういち)さんは、昭和47年(1972年)大学を卒業後、前田建設工業株式会社に入社。国内外のダム建設工事に従事され、本店経営企画部長、調達本部長、経営管理本部長を歴任し、平成21(2009)年、代表取締役社長に就任されました。

 ダム建設については、日本国内のみならず海外でのダム建設にも従事され、マレーシアのバタンアイダム建設工事を担当されました。このバダンアイダムは、ジャングルの中に水力発電所を造るプロジェクトです。希望すればどんな山奥にも宅配便が届く、便利な日本の現場とは全く異なる状況でのダム造りに取り組んだ貴重な経験を持っておられます。

 今回は、小原さんの豊富なダム建設工事の現場での様々なご経験を通して培われた人間力と、企業のトップとして、そして土木技術者として、若手技術者に伝えたい想いを伺って参ります。
(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)



高度成長期の熱気の中で

中野: 就職の経緯についてお伺いします。もともと学生時代はどのような進路をお考えでしたか?また、どのようなきっかけで建設会社を選ばれたのですか?

小原: 私が大学へ進学する際、当時の日本は高度成長期であり、新幹線、青函トンネル、本四連絡橋など国家プロジェクトが目白押しで、日本の将来が形作っていかれる熱気の中にありました。これらの大事業に携わることで、社会に貢献していきたいという思いが強かったこと、また私自身、事務所の中で机に向かって仕事をするより、外で体を動かす仕事をしたかったことなどの理由から、大学は土木系の学科を選択しました。
 当時、建設会社は海外への展開を始めた頃であり、大きな舞台で働きたいとの思いから、就職の時も公務員を選ばず、民間の建設会社を選びました。

中野: 大学に入学されてからの生活はいかがでしたか?

小原: 入学した昭和43(1968年)年は、第二次安保闘争の最中で、まだ学生運動が激しい時でした。1年生の時は大学構内にバリケードが築かれており、ほとんどと言って良い程、授業を受けた記憶がありません。2年生からぼちぼち講義が始まったのかなという感じでした。私はいわゆるノンポリとして、冷ややかな目で学生運動を見ていました。
 その結果、入学時40人だった同級生で、私と同じ年に卒業したのは27人、13人は学生運動他で留年したと記憶しています。

中野: 就職はどのような経緯で決められたのですか?

小原: 当時は、まだ高度成長期でありながら大学が混乱していたこともあり、就職はかなり
の売り手市場でした。前田建設に入ったのは、ゼミの先生のご紹介です。先生から、「前田建設という非常に良い会社がある。推薦状を書くから行かないか」とのご助言に、「判りました、行きます」と二つ返事で答え、前田建設へ入社した訳です。先程も言いましたが、もともと公務員になるつもりはなく、大きな舞台、現場で働きたいという理由から、ゼネコンを志望していました。

中野: 希望されていた土木の現場というのは、どのような状況だったのでしょうか?

小原: 当時の前田建設は、売り上げ比率で、土木が70%近くを占めていて、建築が30%くらいだったと思います。今は、逆転していて土木が35%、建築が65%くらいです。主にトンネルとかダムに強い会社でしたから、面接の時どういう現場へ行きたいか、どういう仕事をやりたいかと質問され、太陽の下で仕事をしたいと思っていましたので、ダム現場で働くことを希望しました。


ものづくりの前線にこだわった研修からダム現場へ

中野: 当時の入社人数はどのくらいおられたのですか?

小原: 我々の時代は、日本の高度成長期と戦後ベビーブームの人間の就職時期が重なったためなのか、同期の入社人数はかなり多かったと記憶しています。私は、昭和47年入社ですが、私の同期は土木、建築、事務を合わせておよそ200名くらいでした。翌昭和48年は250名、昭和49年は300名程採用したと聞いています。

中野: 多くの同期がいる中で、希望する現場に赴任したのは優秀だったからですか?

小原: そうではないと思います。たまたまダムへ行きたいという新入社員が少なかったからではないでしょうか。私はダム現場勤務の辞令をいただきました。

中野: 初めて現場に出られたのは高瀬ダムなのですね。

小原: そうです。高瀬ダムの盛立量は約1,200万立米、当時は東洋一のロックフィルダムと言われており、前田建設としては一番大きい現場だったのではないでしょうか。丁度、私が入社した年は、建設会社も機械部門を保有したほうが良いのではないかという経営方針から、社員も機械を扱えられるよう、新入社員の希望者に機械の研修がありました。私もその研修への参加を希望し、最初の年は機械の研修を受けることになりました。希望者は確か31名だったと思います。研修内容は、まず、篠ノ井にある関連会社の研修所で、最初の2ヵ月間で車の大型免許、大型特殊免許、クレーン免許をとり、ブルドーザー他の重機の解体・組立の実施訓練をうけました。その後、高瀬ダムの現場に入り、およそ3ヵ月間大型ダンプ(35t)、ブルドーザー、パワーショベルを現場で運転し、実際、重機作業員として働きました。今から考えると、少々無謀だったかも知れませんが、私にとっては非常に良い経験となりました。


新入社員の頃、上高地にて
中野: 建設機械の研修をされたので、すぐに現場に慣れましたか。

小原: 現場では建設機械の研修を3ヵ月くらいやった後、高瀬ダムでの品質管理部署に配属になりました。即ち、盛立材料の品質管理を行う部署です。その後、3年目から品質管理の責任者になるよう指示されました。入社3年目の社員にそのような重要な仕事を任されることに、非常に強いプレッシャーを感じたことが思い出されます。

現場での技術者としての成長

中野: 会社も若手に任せるというのが、すごいですね。

小原: 品質管理の部署に配属になってから、土質の勉強に必死で取り組みました。

中野: 現場はどのような雰囲気でしたか?


高瀬ダム

小原: 私が高瀬ダムの現場に赴任したのが22歳の時でした。その時点で、現場の平均年齢は、28歳〜30歳くらいだったと思います。そして、私が最後に所長させていただいたのは南相木ダムでしたが、その現場の平均年齢は42〜43歳だったと思います。当時は本当に若いスタッフで良く仕事ができたと、今更ながら感心しています。当時は毎日が無我夢中で、仕事が面白いのかどうなのか考える暇もなく過ごしていたような気がします。しかし、今振り返ってみると、高瀬ダムの6年間というのは、私のその後の仕事の全ての基盤をかたち作ってくれた、とても大切な忘れられない時間だと言えます。

中野: 卒業してすぐ現場に出られて、大学で学んだことは役に立ちましたか?
小原: 先ほどお話ししたように、最初に品質管理部門に配属になったので、基本的な土質試験のやり方は役にたったと言えます。しかしやはり、現場で求められたのは、ダム全体の設計の考え方から各盛立材料の在り方など、本質的かつ俯瞰的な技術でした。その技術の習得には本当に真剣に取り組みました。また、1976年にアメリカのティートンダムが決壊するという事故があり、高瀬ダムは本当に安全かということで、その評価・検証の資料作りに没頭したことを今でも覚えています。事故は不幸な出来事ですが、自分が携わるダムという構造物が社会に与える影響の大きさ、品質と安全への徹底的な拘り、事故を無駄にせず技術の発展に繋げることなどを学びました。

曽野綾子先生の土木への愛情

中野: 曽野綾子さんの「湖水誕生」にまつわるお話を少しお聞きしたいのですが、あの小説は高瀬ダムの現場が作品の舞台になっていますが、読まれましたか。

小原: 読みました。曽野綾子さんは、小説を執筆されるにあたってかなり頻繁に現場に来られていました。現場では、自ら大型ダンプあるいはブルドーザーに乗られて、又、オペレーターの方々にもインタビューをされていた様子でした。我々若い職員も曽野先生を囲んでいろいろなお話しをさせていただきました。曽野先生は若手職員の話をいろいろメモにとられていましたが、我々の仲間の一人がこの小説のモデルになっていると思っています。
 曽野先生は、土木に対していろいろと造詣が深く理解があり、土木が好きだとおっしゃっています。それは何故かというと、土木屋の仕事というのはアガペーそのものだとおっしゃるのです。アガペーすなわち、神の無償の愛、理性の愛とでもいいましょうか、自分が表に出ないで、他人のために尽くす行為をしているということだそうです。土木屋の仕事というのは、人の目にはなかなか見えず評価もされにくいのですが、その仕事こそが社会を支えていること、そして土木屋はそれら全てを受け入れて真剣に仕事に取り組んでいること、これが素晴らしいと先生は考えて頂いているのだと思っています。


中野: 先日、インタビューで廣瀬利雄さんにお話を伺ったのですが、曽野綾子さんがダム建設功績者表彰の時に、受賞者の方の奥さまも呼んで、一緒に功績を称えた方が良いのではという意見を出されたそうです。こういう暖かい視点からの言葉というか、情報発信をされるので、土木のことをすごくよく見ておられると思いますね。

小原: それはあると思います。土木に対するというより、「土木屋」という人というか職業に対する理解と愛情のこもった、女性ならでは視点だと思いますね。

地図と歴史に刻むダムという仕事

中野: 多くの事を一度に経験されたと思いますが、そうした中でダムづくりの魅力というのはどういうところにあると感じられましたか?

小原: ダムは、現代土木で最も存在感ある構造物の一つだと思います。実際に、建設後何年か経ってもダムに行けば、そこに圧倒的な姿が直視できる。そして何歳の頃ここに居て、こういう仕事(生活も含めて)をしていたという思い出が鮮やかに甦って来る。すなわち社会の地図に残ると共に、自分の人生の歴史にも実体として刻まれる、これが一番のダム造りの魅力だと思います。もう一つ、やはりダムの持つ社会性ですね。ダム建設には、そこに掛ける費用、時間、苦労を超える大きな社会的目的がある。自分たちの手でダムを建設する、それによって、社会に貢献しているという仕事の達成感と満足感を味わえる、そこが素晴らしいですね。

中野: そうですね。発電にしろ、洪水調整にしろ。目的がありますから。

小原: ダムには大きな社会性があるということを常に意識しなくてはいけないと思います。やはりダム建設は公共事業であり、ダムは社会に価値を生み出す公益財だという思いがあります。私は例年2時間ぐらい、新入社員教育の時に話をさせていただいていますが、建設会社の人間として施工に携わった者は、建築もそうですが、特に土木屋は、絶対に仕事では失敗するなと。人生での失敗、例えば恋愛に失敗してもいいよと。ただし仕事での失敗は絶対にいけない。我々がダムを造って、もしそのダムが決壊でもしたら、下流の人に被害が出る、下流の人々の命を奪いかねない。だから、仕事をやるときには必ず自分で真剣に勉強し、本当に納得して仕事をやろうよ、という話をしています。

中野: 一つずつ確認をして積み上げていくということを自分でやる、そこが大事なことなのですね。

小原: 土木というのはもちろん安全第一。それと並行して品質第一だと思っています。品質にこだわるというのは、土木の仕事の戦略なのです。では、どのように品質を確保するかという点で重要なのは、仕事の流れを細分化すること。どんなに大きな構造物であっても、一つひとつのパーツに分けて考えていくということです。多くの仕事の過程がありますが、それを構成しているパーツ、パーツに分けて、そのパーツの中でどういうことをやったら一番いい仕事ができるのか、細かく分けながら突き詰めて考えていく。自分なりに、今までそのようにやってきましたので、最小限のパーツの中の品質第一を考えていくことで、全体的にみても優れた品質のものが出来るということだと思います。

ダム技術者として世界へ

中野: 最初にダムの現場に出て、ご自身ではこれからダム技術者でやっていこうと思われたのですか。

小原: 仕事は自分では選べません。高瀬ダムの次に、群馬県の玉原ダムをハザマさんとのJVで受注し、会社からこの「玉原ダムへ行け」と命じられました。続けて二つの巨大ダム現場に携わることになったこの時に、これで私はダム屋になるんだ、という思いが胸に刻まれました。

中野: 玉原ダムのことをお聞きしたいのですが、ここには何年くらい?

小原: 4年間です。ここで担当した仕事の内容は、主に、盛立、採石場の総合管理です。品質管理に関しては、私が指導しながら後輩が担当していました。そして、玉原ダムの現場に在籍していた時に、私が見積もりを担当したマレーシアのバタンアイダムが受注でき、そのままバタンアイダム勤務を命じられました。


玉原ダム
中野: その後、海外に行かれたということですね。海外では日本のダム事情とはまたすごく違ってとても苦労されたということはありますか。

小原: もう苦労しっ放しです。この話をするとおそらく丸一日話しても終わらない(笑)。


バタンアイダムの現場で

中野: バタンアイダムは単独の工事ですか? 又、位置的にはどのあたりですか?

小原: この時は、奥村組さんとのJVで、現地では、MOJVという名称でした。場所は、ボルネオ島。ボルネオ島にはマレーシア領、インドネシア領があって、マレーシア領ではサラワク州とサバ州があり、我々の現場はサラワク州の州都でクチンという街から車で約5〜6時間ぐらい走ったところのインドネシアとの国境近く、ルボックアントゥという村でした。そこはイバン族の村で、男性は全身に入れ墨をしていて、特に喉のところにしている人は勇者の印ということでした。又、女性は、耳たぶの大きいほど美人と言われ、女の子が生まれるとすぐに重りを耳たぶにつけるのです。そうすると、成長するにつれ耳たぶが大きくなるそうです。この様に全くの異文化社会の中で、プロジェクトを遂行することになりました。
中野: どの程度の規模のダムですか?

小原: このダム(発電所)からクチンに電力を送電します。もちろん発電所がメインですが、発電所の他にダムとしては、4つのダムを建設しました。メインダムが一つでサドルダムが三つです。施工範囲が広いため、メインダムを建設しますと、周辺の沢から水がオーバーフローする箇所があり、そこにサドルダムを建設します。ダムの形式はメインダムと一つのサドルダムがコンクリートフェーシングで、他の二つのサドルダムは中央遮水型です。メインダムの堤体積は390万立米、堤高85m、フェイススラブ面積61,600平米です。又、発電量は約10万KWでした。私は、一つのサドルダムの責任者として仕事をしました。そのサドルダムは、リマサドルダムといって、堤体積は、確か、60万立米程度、フェイススラブ面積13,000平米程度だったと記憶しています。現地のエンジニアを三人つけていただいて、一人はマレー大学を卒業したエンジニアでかなり優秀でした。

中野: 現地のエンジニアを使ってやるというのも日本とは仕事のやり方が違って大変そうですね。

小原: いきなり責任者をやらされて大変でしたが、反面、非常に勉強になりました。日本と異なるのは、とにかく物資がない。そこをなんとか工夫をしながら、仕事を進めていかなければなりませんでした。例えば、平板載荷試験をやるといっても、ダイヤルゲージはあるけれど平板がないので、現場内のモータープールで重機の整備工の方に鉄板を丸く切り抜いてもらって、それを持ってきて平板載荷試験を行いました。あるいは、工具類のメンテナンスなんかもやりました。削孔ドリルのビットなども使っているうちに摩耗してしまうので、我々が研磨する。研磨してまた取り付けて、自分たちで削孔する。又、職員も半年に一度、日本に帰国できますので、帰国後、現場に帰ってくる時に必要な機械の部品なども持ってきてもらいました。

海外ではエンジニアの地位が高い

中野: すごく器用ですね。物が手に入らない何でもやらないと仕事が進まないと。

小原: とにかく手近に物がないから、そうせざるを得なかった。日本で仕事をしていると、協力会社の方あるいはメーカーの方にお願いすれば、必要な物資は手に入ります。特に、私がバタンアイダムで仕事をしたのは今から30数年前であり、又、施工場所がジャングルの中、今考えてもそう簡単には物資が手に入るとは想像できませんね。しかし、7〜8年前だったと思いますが、一度、その現場であった場所を訪れてみましたが、様子が一変していました。当時は、ロングハウス等があり道路は砂利道でしたが、私が訪れた時は道路も舗装されていて、欧米の方々のリゾート地になっていました。


バタンアイダム
中野: 日本では何か遠慮ぎみにしていますが、海外ではエンジニアの地位が高いのですか。

小原: 日本では、あまりエンジニアという立場を意識したことはありませんでしたが、バタンアイでは、コンサルタントがオーストラリアのスノーウイマウンテンという会社で、その会社のインスペクターと会話しますと、彼らは尊敬の念を持って話しかけていただきました。又、コンサル、発注者とも対等の位置づけで仕事を遂行したと思います。しかし、日本においても、例えばダム現場でゼネコンのエンジニアの地位が低いとは考えていません。日本でも海外でも、発注者やコンサルタントとプロジェクトの意義と目標を共有し、協同で成果を目指すことに変わりはありません。

中野: それでもやはり現地の方との仕事は大変でしたか?

小原: そうですね。しかし、イバン族というのは英語が話せるので、なんとか通じました。マレーシアはイスラム教徒が多い国ですが、ダム現場は全くのジャングルの中で、今から30数年前のことですから、その地域までは、マレーシア国の教育がいき届いていなかったようです。従って、その地域は、イギリスの宣教師が来て教育しているという話を聞きました。彼らは、普段はイバン語で話しますが、英語も話せるのです。ですから、現場での会話は英語で成立しました。そういう点では随分助かりました。私はおよそ3年いましたが、マレー語は全然覚えていません。

建設技術は時代の波の影響を受ける

中野: 海外でダムを造ることで勉強になったことはありますか?

小原: 技術的には、我が国では稀なコンクリートフェーシングの技術を修得できたことです。私はダム屋として6つのダムを造りましたが、そのうち4つはセンターコアで、もう1つはアスファルトフェーシング、それとコンクリートフェーシングと様々なタイプを造らせていただいて、非常に勉強になりました。日本ではコンクリートフェーシングは戦後間もない頃はいくつか建設したようですが、その後は造られなくなりました。しかし最近では再評価されて来ているようです。



中野: そうなのですか。これから見込みはあるのですか?

小原: それはまだ判りません。ダム技術には流行があると思います。例えばロックフィルにしても、一番初めは満濃池のようにアースダムから始まり、次はセンターコア、あるいは傾斜型のコアなど、時代によって新たな技術のダム形式が主流となるといった流れ、歴史があると思います。私がバタンアイダムで仕事をしたのは、昭和57(1982)年ですが、当時は東南アジアや南米を中心にして、コンクリートフェーシングがかなり施工されていたと思います。しかし、どこかでアスファルトフェーシングが施工されて技術が広まると、今度はアスファルトフェーシングの施工例が多くなる。コンクリートダムにも当てはまります。グラビティダムが多く施工されていた時期から、もちろん地質の影響を受けるのですが、次のある一時はアーチダムが主流となる。ダム技術にも時代の波や要請にあわせた流行というか、波があると思いますね。
中野: 時代の要請によって、例えば、狭いところに造らなきゃいけないとかで適した造りのダムを研究するとか。

小原: そういう要求を満たそうとして、新しい技術が生まれてくる。また、人間はそういう工夫が出来るということは大したものだと思います。土木技術は、困難な要請や課題を克服するために成長してきた、という歴史があると思います。

ダム屋としての集大成

中野: 海外から日本に戻ってこられから、別のダムに行かれたのですか?

小原: その通りです。バタンアイダム建設から帰国後は、蛇尾川発電所工事の八汐ダムに土木課長で行きました。次の葛野川発電所工事では上日川ダムの所長代理で、最後、神流川発電工事の南相木ダムで所長をやらせていただきました。現場ごとに仕事の技術的内容は異なりますし、主任、課長、所長代理、所長という役職ごとに仕事の責任範囲や内容は全部違います。

景観構造物としての南相木ダム

中野: たくさんのダムに関わって来られて、最初の高瀬ダムはもちろん印象深いと思いますが、他に印象深かった、記憶に残っているダムはありますか。

小原: 印象深いのは、バタンアイダムもそうですが、最後の現場となった南相木ダムです。ちょうど御巣鷹山の真下に地下発電所を設けて、上ダムが長野県の神流川の南相木ダム、下ダムが上野村です。それで揚水発電を行うのです。我々は上ダムのロックフィルタイプダムを建設しました。白くて非常に美しいダムです。

中野: 私も行きましたが堤体が真っ白なイメージです。


南相木ダム

小原: リップラップの岩質が石灰岩ですので白くなります。施工にあたって、我々は石灰岩の賦存量がかなり心配でした。石灰岩が足りなくなり、白と黒のブチになってしまったらどうなるのか、外見上、非常に印象が悪くなるかとかなり心配しましたが、何とか工夫して最後まで石灰岩を確保することができました。またリップラップは、複数のオペレーターで施工しますと、オペレーターの癖がでて波打った面になってしまう場合があります。品質と美観とにこだわり、最初から最後まで一人のオペレーターで施工しました。その結果、かなりきれいな一面ができたと自信を持っています。ここ10年ほど、このダムを見ていないのですが、まだリップラップの白さを保っていますか?

中野: 南相木ダムについては、美しい白い堤体ということで、ダムマニアさんの好きなダムナンバーワンに挙がる程です。

小原: そうですか。私は山歩きがあまり得意ではないので、まだ試みたことがないのですが、八ヶ岳を縦断するとダムが見えると聞いています。又、リップラップの法尻にはコンサートが出来るような、ちょっとしたホールも設置させていただいています。ダム本来の機能だけではなく、観光や地域活性化にも貢献できているとしたら、大変嬉しいです。
夢の建造物を造る前田建設ファンタジー営業部

中野: 南相木ダムが終わって本社に戻られますが、「ファンタジー営業部」のことをお聞きしたいと思います。小原さんが立ち上げられたのですか?

小原: 現場から、いきなり経営管理本部総合企画部長として本社に赴任しました。その総合企画部長の時に「ファンタジー営業部」ができました。できましたといっても本当にそのような部をつくったわけではありません。あの部は私の部下の発案です。当時、建設会社というのは、世間からなかなか理解が得られていなかったので、世の中の人に建設会社はどういうことをやっているかを、なんとか理解してもらいたいと思っていました。そして、それは普通のやり方ではなく、もう少し人目を引くような、何か独自性ある企画がないかというので、「マジンガーZ」の格納庫を作るということを企画してみたいと部下が3人ぐらいで持ってきました。チームには女性もいました。私の時代は「鉄人28号」の時代ですから、「マジンガーZ」というものがどの様なロボットなのかもよく分からないし、その企画が本当に世間から注目していただけるのかも、その時点では理解できませんでした。しかし、従来通りのことをやっていても進展はないだとうと思い、反対はせずに若手職員の好きなようにやらせてみました。そうしたら、彼らがあれこれと練って「マジンガーZ 」を本にしてしまった。それが売れたのです。この本は面白いから韓国語で出版してみないかという話にもなり、韓国でも出版されました。

中野: 部下が本当に一生懸命にやっていたら、やれるだけやってみろと、声かけしてくれる上司がいるといいですね。部下としては燃えます。夢を現実に出来るのが、「ファンタジー営業部」という発想になったのですね。

小原: 「ファンタジー営業部」は空想世界に存在する建造物だけでなく、今は存在しないけれど「あったらいいな」という実現可能性の検討を行っています。前田建設の人間だけが考えたのではなく、「銀河鉄道999」列車が空に向かって発車する地球発進用高架橋、「機動戦士ガンダム」地球連邦軍基地はどうしたらできるかという考え方は、いろいろな会社のエンジニアの方々、大学などに相談しているのです。すると、他の会社の方が、逆に面白がってボランティアで助けてくれたのです。人を惹きつける夢の力、関係する会社の方たちとのコラボレーションで形になっていきました。

中野: 非常にユニークで、前田建設ってこんなことをやっているのかという驚きが私も聞こえてきました。

小原: 弊社のホームページをみて、学生さんも面接の時によく「どの部署へ行きたいか」と聞けば、「ファンタジー営業部へ行きたい」と、しかし現実にそんな営業部はないのです。
「夢を実現する」ということで、公開しているコンテンツなのです。

中野: リクルートにも企業イメージを上げる効果もあったのではないでしょうか。

小原: この活動は、先駆的な試みで、建設業に全く興味のない方々に、楽しくかつわかりやすく建設会社の仕事を理解していただけるという成果が出たと言えるのではないでしょうか。

中野: それが今も続いていて、テレビでも紹介されましたね。

小原: そうですね。いろいろな企業から、今度こういう企画をやりたいけど、建設会社としてのアイデアを出して欲しいという要望も来ています。結構そういう話が持ち上がっていますが、すぐに利益にはならないのです(笑)。しかし、前田建設としての名前を広く知ってもらい、建設業への理解を深めてもらうための画期的な活動です。従って長期的な成長には寄与していくと考えています。

ダム技術は新たな方向性へ



中野: 今は新規のダム事業は減り、営業的な数字としても建築と土木の分野が逆転しているということですが、今後のダム技術の継承についてはどのようにお考えでしょうか?

小原: その問題は本当に難しいですね。ただ、今は、既設ダムの再開発。例えば、ダムの嵩上げ、既設の洪水吐きが最近の突発的な雨で容量が足らなくなっているので別途もう1本設けるとか、あるいは新たにトンネルを掘るなど、まだまだダムのリニューアル技術というのが出て来ると思います。それに海外へ出て、ダムを建設する。そういう発想もあります。現在のダム技術者が、今の時代の要請に合ったものを工夫して開発していく、という発想をもつのが大事なのかなと思います。最近思うのは、日本の技術を世界にどうやって発信していくかということ。我々も海外で土木の仕事をしていますが、土木ではなかなか利益が上がらない訳です。経営的にはそういう状況ですが、客観的に見るとやはり日本の土木技術はすごい。東南アジアを中心にして、これからはアフリカ、南米などに日本の土木の技術を伝えていきたいという想いはあります。
ダムを考える際の時間軸とは

中野: 日本の川は急峻で水を溜めるところがないので、ダムを造って飲み水を確保し、あるいは治水をやっていかないと、日々の生活が出来ない訳ですから、ダム技術は進んでいると思いますが、海外への展開はどうですか。

小原: 日本で初めて水道用のダムを造ったのは明治時代ですが、コレラ菌が入ってきたことがきっかけで、安心して飲めるきれいな水のためにダムを造ったということを本で読んだことがあります。そういう点では、今の近代的な我が国の土木技術を、これから大きく発展する東南アジアを中心に広めていく為に、日本の国として戦略的に考えてもらいたいと思います。ダムは無駄だ、自然破壊だとかは、私がダム建設に従事している時にもよく言われてきました。しかし、その言葉は当たっているのでしょうか?ダムを造ると無駄じゃないかなどと言われますが、長い時間軸でみると、ダムというのは、時代を超えて変わらぬ「普遍的価値」を有するものだと思いますし、更に、文化、景観、環境などを形成する「ランドマーク」の機能をもつものだと思います。私は長野県で12年間仕事をしてきましたが、自然を目当てに多くの観光客が訪れる白樺湖、美鈴湖などもダム湖です。今は国定公園になっている訳です。ダムを造ると自然破壊じゃないかという意見もありますが、確かにダム建設のため、山を掘削すると、かなり広い範囲の掘削になりますから、施工途中の現場だけを見ると破壊行為だと思われるかもしれませが、でき上がった後の50年、100年という時間軸で考えると、そこには再び自然が帰ってきて、野鳥が育ち、草木は生い茂ります。ダムという構造物を見る場合、そのぐらいの長い目でみる必要があると思います。そういうところをもう少し社会に上手にアピールし、理解をいただくことは出来ないかと考えています。私は社長になった時に「建設業界で環境経営ナンバーワンの会社になろう」と宣言させていただきました。これは、建設の仕事を通して、環境にやさしい世の中を造り上げていこうという強い意思表示です。この経営宣言にも、ダム建設に長年携わってきた者としての思いが込められています。

ダムの新たな使命について

中野: 環境のお話が出たので原子力発電のことを思ったのですが、クリーンエネルギーとして水力発電でダムが見直されると良いですね。

小原: そうですね。水力発電の関係者の方にお聞きすると、今、新たにダムを造って水力発電を行うことは難しい。大正や昭和の初めに建設した古い発電所のリニューアルに取り組んでいるようです。昔の発電所で、例えば6基発電機があったところを、大出力の発電機2基に替えて、パワーアップしてリニューアルする。そういった仕事が、今後増えていくのではないでしょうか。

中野: せっかく造ったインフラですから、永く使って欲しいですね。

小原: 弊社も明治、大正、昭和初期のコンクリート構造物のリニューアルの仕事を数か所で行ってまいりました。昔のコンクリート構造物はとても硬い。球形で堅固な骨材が良く締まっていて、すごく強度がでていてなかなか壊せない。リニューアル工事では、古いコンクリートを壊すのにとても苦労します。又、山の中でダムを造りますと、資材をどうやって運搬したのか大きな課題になります。生コンはどうしたのか。やはり時代、時代の人が、素晴らしい知恵を出して工夫して造って来た訳です。ですから、我々に与えられた課題は、先人に敬意を払い、先人の声に耳を傾けながら、我々の今の技術をもって既存のものを最大限活用する、もしくは造り変えていくか、ということではないでしょうか。構造物をただ直すのではなく、新たな、そしてより大きな使命を与えてやる、それがリニューアルの本質だと考えています。

ダム現場はひとつの企業である

中野: CMED(ダム総括管理技術者)の試験というのがありますが、これはダム造りの全ての工程をマネジメント出来るようにと、いろんなことを知ってないとなかなか通らない。この資格を持つ技術者が中国の三峡ダムにお手伝いに行ったら、事故が劇的に減って死亡する人が少なくなったとかという話を聞きました。

小原: 三峡ダムでは、弊社は一部のCM、コンストラクションマネジメントの業務、安全管理を請け負いました。さらに三峡ダムの上流にあるダムにも3人程を安全管理で出していました。こうしたプロジェクトマネジメント能力については、日本はやはり世界でも最高水準だと思います。

中野: やはり公共事業は安全でないといけないのですね。

小原: 社会基盤を作り、支えていくのですから安全にやって当たり前です。しかし、その当たり前のことをやることが非常に難しいのです。ダムというのはどうしても工事範囲が広いですからね。それに様々な業種が入ってきます。そういう点ではマネジメント能力、この力がないとダムはなかなか出来ないのです。特にダムの所長、次席クラスにとっては、広範囲のマネジメント能力が非常に大事だと思います。

中野: そうですね。社長になられてからも、マネジメント能力などダム現場で経験されたことは役に立ちましたか。

小原: 技術的なことは勿論ですが、経理や人事、営業活動、情報管理、リスク評価、自然環境や地域社会との関わり、企業の社会的責任など、非常に多くの面でたくさんの経験ができました。ダムという総合プロジェクトを担う現場は、いわばひとつの会社であり、所長はその社長ともいえるでしょう。様々な業務を経験し、最後は所長として俯瞰的にマネジメントする。そういう経験がなければ本社に戻った時に総合企画部という経営の方向性を企画していく部はまとめられなかったと思います。もちろん、社長である今の私を作り上げてくれたのも、この33年のダム現場での経験と学びであり、ダム建設は建設会社の企業経営のほぼ全てを内包していると言っても過言ではないと思います。ダムから全てを学び、それを経営に活かすことができました。

ダム建設、そして社会人人生より学んだこと

中野: 経営トップから若手の技術者、新入社員の方に何か言葉をかけるとしたらどんなことをお話になりますか?

小原: 新入社員に対しては、まずは仕事をしろと。私の信条としてというと変かもしれませんが、いつも新入社員に言うのは、仕事の成果というものは、「資質×やる気×愛嬌」だと説明しています。恐らく、我々の会社に入ってくる人間は、それなりの資質は持っていると思いますので、あとはやる気×愛嬌です。これは男も女も愛嬌。やる気というのはすぐに判りますが、愛嬌というのは、上からも下からも慕われる、尊敬される、そういった人間味。1つのコミュニケーション能力。それが大事ではないかという話をさせていただいています。それと、やる気という部分を補足すれば、自分自身の高瀬ダムで学んだことですが、今は100%だと、もうこれ以上は力を出せないと思ってからでも、もう20%は力を出そうと思ってやってきました。最後の一踏ん張りの部分が大事で、120%の力を目指して全力プラスαを意識するということでしょうか。それと、仕事面ではいつでも勉強を心掛けるということ。情報に敏感になれるよう常にアンテナを高くして、80%は仕事のことを考えて、20%は仕事以外のところで自分の教養を身につけろということを強調しています。仕事のやり方は入社以来33年間のダム現場から学びました。

中野: 社歴の3分の2ぐらいはダムで、入社以来33年間ダムに関わられてきたというのは長いですね。

小原: そうですね。本社勤務になってからまだ十二、三年しかたっていません。ダムは多くの業種を経験できて、大変面白いと思います。もちろんダムは土木工事の総合建設と言われるぐらいで、私もトンネル、橋梁、大型掘削、グラウチング法面防護も経験しました。

中野: 最初の高瀬ダムでの経験というのは、ご自身の基礎になっていて、その後はどこへ行っても役に立ったということですね。

小原: 新入社員の現場というのは非常に為になります。「鉄は熱いうちに打て」ではないですが、新入社員の頃、上司がきちんと教育をしてくれました。すると、その人間というのは仕事に対する意識が変わってくるような気がします。私が強く感じたのは、公共事業ですからダム技術者は仕事で失敗してはいけない。それは誰もが肝に銘ずるべきだと思います。特にダムというのは自然との戦いになりますから、自然に対する畏敬の念というか、畏怖感というか、そういう精神的な柱の存在も大きい。自然を押さえ付けるのではなく共存、どうすれば一緒にいられるかを教えて貰うという謙虚な気持ちでいることだと思います。

コミュニケーションの大切さ

中野: 今の若い方というのは、割と自分の場を作ってしまっているので、なかなか心の扉を開いてくれない。知識は豊富だと思いますが、人見知りが強くて誰とでもコミュニケーションをとるということが苦手というか、そんな人をどう指導していけば良いとお考えでしょうか?

小原: 実は我々も今、社内的にはコミュニケーションをどういうふうに取っていけば良いのか、これには頭を悩ませています。何でもないようなことですが、非常に大きな課題ですね。我々がダム建設の現場にいた時代は、全てではありませんが、同じようなメンバーでダム建設の現場をローテーションしていました。従って、現場は違っても気心の知れたメンバーが一緒にいたので、心置きなく仕事ができたような気がします。しかし、今は、現場が変わるごとに、常にメンバーも変わり、新しいメンバーで仕事をしなくてはならないという状況になります。その際のコミュニケーションの取り方が重要(必要)になってくるのです。従って、現場のトップの所長という立場の職員が重要になるのではないでしょうか。いかに、その現場のコミュニケーションという輪を育てることができるか。しっかりとした輪をつくり、その輪を保つことができる職員を所長として配属するよう心掛けています。


中野: 気持ちをうまくほぐして、協力したいと思わせる。人が惚れるのではなくて、惚れさせる魅力を社長は持っておられますね。そうでなければなかなか話は聞いてはくれないですから。

小原: いや、もっているかどうかわからないです(笑)。

母校での講義を通して次の世代に伝えたいこと


中野: 最近は、ご自身の出身の埼玉大学で講義されているそうですが・・

小原: リクルートの意味も含めてやらせていただいています。私は、66歳というスタンスで話しますが、聞く方は平成8年とか9年、今なら平成10年生まれの大学生です。私が最初に講義した時に「昭和47年卒業」といったら、大学の先生が、「小原さん、昭和で言っても判りませんよ。西暦で言ってください」と。それで1972年卒業と言い直しました。私が入社した頃、まだ彼らは生まれてなかったので、昭和といっても判らないという訳です。確かにそうでしょう。だから、今の若い方と私の話が本当に噛み合っているかどうか、話したかったことを本当に理解しているかどうかというのは判然としません。しかし、彼らには、土木の本質を勉強して欲しいと話をしています。これからの建設業も製造業同様、機械化が進んでいく。20年後、30年後、建設業はどういう姿に変わっていくのだろうかと機械化される姿を示し、それだからこそ土木の本質を理解していないと機械をうまく使いこなせないといった内容の話をさせていただいています。



中野: 具体的に大学でどの様な話をされたのですか?

小原: 今年は、埼玉大学でインダストリー4.0(第4次産業革命)の話をさせて頂きました。工業のデジタル化でこれからはロボット化になるだろう。本当に30年後あるいは50年後は、土木の世界、建築の世界も、全部ロボットで建物を造るようになるのかもしれない。しかし、コンクリート打設を全てロボットで行っても、そのコンクリートが良い品質なのか。ロックフィルダムでロボットが全てコア材を盛土してくれても、本当にそのコア材が良いかどうかというのは人間が判断しないといけない。コンクリート打設時のコンクリートの状態、コア材を盛土する時のコア材の状態は目で見た経験がものをいうのではないか。建設は経験工学だから、我々先輩が後輩に威張っていられる訳です。コンピュータの世界は、若い人の方が年寄りよりわかっているので逆に後輩から叱られてしまう。やはり、バーチャルの世界ではなくリアルの世界においては、人間の経験が生み出す知が果たす役割は重要だと思いますね。
中野: 今の若い職員たちの反応はどうですか。

小原: 我々の時とそんなに変わりませんが、ただ、コミュニケーションについて言えば違いがあります。例えば、私達の時代は、先輩から一緒に酒を飲もうと誘われれば躊躇なく行ったけど、今は誘ってもすぐに嫌だと断る人もいるし、なんだかんだと理由を付ける人もいます。その辺が多少コミュニケーションを取りにくいという話をよく耳にします。そこはやはり課題ではないかと思います。又、若い職員には我々の本当の意味での経験を残してやりたいと思います。私はロックフィルダムの建設を長年経験してきました。その中で、例えば、表土を剥ぐと岩盤が出ます。そこに岩盤を清掃し、清掃後、着岩材を施工します。その後、コアを盛り立てします。そうした時、岩盤はどの程度まで清掃しなくてはならないのか。岩盤に着岩材を施工する時、どういう状態で施工しなければならないのか。岩盤から湧水がでてきたらどの様に対処するのか。理論的には理解していても経験していなければ難しい問題だと思います。

中野: ダム造りは総合的に全部できるので、大学にダム工学科とかできるといいですね(笑)。

小原: ダム工学科となると非常に多くを勉強しなくてはならない。今、土木屋がやっていることのほとんどを勉強しなくてはならない。プラス、先ほどから話題になっているマネジメントの世界も勉強の対象になります。地元対策の方法も対象になるかもしれませんね。地元対策だって経験工学ですから、いきなり若い人がぽんと来ても地元対策は出来ない。いかにうまくコミュニケーションをとれるかが大事です。更には社会への長期的影響や環境評価手法も学ぶ必要がある。ですので、ダムの全てを大学で学ぶのは難しい。ダムに求められるのは「土木工学」ではなく総合的な「土木学」です。ですので、もし学科をつくるとしたら、それはダム工学科ではなく「ダム学科」という理科系文科系の垣根を越えた総合学科になるのかもしれません。ダム工事を円滑に進めるためにもマネジメントや地元対策ができるCMEDの資格はとても重要です。

土木技術の不易流行

中野: 土木、建築の世界の人間の気持ちとかを、若い人たちに伝えていくということは大事なことですね。

小原: そうです。建設業界というのは日本の中でも2000年の歴史があるのですが、やっていることは多分そんなに変わらないと思います。空海が満濃池の原型を造ったと言い伝えが残っていますが、どうやって造ったのかは判っていません。現場に行くとすごく巨大な溜池、今で言えば完全にダムです。機械力のない時代にどのように造ったのか。その力は偉大です。今は、機械化の技術が発達していますから、根本的に違う技術で再開発しています。機械が発達し、コンピュータが出てきて、時代に合ったものを数値管理しながらものを造っている訳です。しかし、ものを造るという精神は恐らく昔も今も変わらないと思います。ダムを造る。ビルを建てる。昔の人も家を建てたのですから。当時も家を建てるという喜びと、我々がビルを建てるという喜びは多分変わらないと思います。その「モノづくり」の喜びをいかに伝えるかでしょうね。

独創性と将来性を評価する前田賞

中野: 前田記念工学財団工学賞のことをお聞きします。

小原: この賞は平成5年に先代の前田又兵衞翁が、四十有余年の永きに亘って仕事の上で
かかわりを持ってきた「工学分野の発展」と「人類福祉への貢献」を念願し、私財を投じ設立したものであり、平成22年4月に公益財団法人に移行しました。前田賞は、平成5年の設立時に、我が国における「基礎研究の振興」並びに「若手研究者の育成」を目的として設けられた賞であり、主に独創性と将来性を評価し、各年度に応募された博士論文の中で最優秀として位置づけられる論文に与えられるものです。さらに、優秀博士論文賞には総合的に届かないものの、その論文主旨が、斬新で創意工夫に秀いでていると認められる者に対し、平成16年からは、山田一宇賞として賞を授与しています。ダム技術は、2,3年の期間で身につくようなものではなく、一人前と言われるようになるにはかなりの時を要します。ダム技術でこの賞を取得するには、若い技術者が現場等において経験を積み、課題を見つけ、学術的な視点から解決しようとしても、現在その受け皿は、社会人として大学院へ進み、学位としてまとめて取得するしかないのではないでしょうか。

中野: 技術者に賞を与えられるというのは、前田建設はいろんなことにチャレンジしている会社ですね。

【天命を知ることで道が拓ける】

中野: 最後に座右の銘をお聞かせください。

小原: 最近、私は「天命を知って人事を尽くす」ということを言わせていただいています。昔は「人事を尽くして天命を待つ」でしたが、これまでの様々な社会人人生を経て、これは逆だと悟ったというか、気が付いたのです。と言いますのも、33年間ずっとダムをやってきて、本社に戻って就いたのは、総合企画部長という現場とは全然関係ない部署でした。それから調達本部長、経営管理本部長を経験し、社長になりましたが、私がなぜ社長になったのかは、自分でも疑問なのです(笑)。総合企画部長に就任した時は、ダムと関係ないから大変。社長になった時もこれは大変だと。しかし、これは私にとって天命かなと思った時に、私は、自分の人生というのは「人事を尽くして天命を待つ」の逆であろうと。多分生まれた時からそういう天命、定めがあったのではないか。もし、そうだとしたら、自分の天命を知って、その天命を受け入れて自覚し、思い切りその天命のために私が人事を尽くすべきだと思ったのです。与えられたポジションで出来る限りの力を出していく。それが一番幸せな人生なんじゃないのかなと思っています。だから今、若い人にもそういうことを言わせていただいています。土木屋、建築屋で入社しても、ずっと土木屋、建築屋でいるわけではありません。人はそれぞれ活躍の場が用意されているのだと。そこで頑張れば良いのだと。

中野: 天命を待つのではなく、天命を自覚し、自ら飛び込んでいって、何でも頑張ってやるというのがやっぱり大事なのですね。本日は貴重なお話ありがとうございました。



(参考)小原好一さんプロフィール

氏  名    小原 好一(おばら こういち)
生年月日    昭和24年6月22日
本 籍 地    東京都

最 終 学 歴

昭和47年 3月  埼玉大学理工学部建設基礎工学科卒業

職     歴

昭和47年 4月  前田建設工業株式会社入社
昭和47年 6月  新高瀬川発電所新設工事 高瀬ダム工区に従事
昭和52年 9月  玉原発電所新設工事 玉原ダム工区に従事
昭和57年 6月  マレーシア国 バタンアイダム工区に従事
昭和60年 8月  蛇尾川発電所新設工事 八汐ダム工区に従事
平成 3年 8月  葛野川発電所新設工事 上日川ダム工区(所長代理)に従事
平成 9年 7月  神流川発電所新設工事 南相木ダム工区(所長)に従事
平成15年11月  経営管理本部総合企画部長
平成17年 1月  執行役員 経営管理本部総合企画部長
平成19年 1月  執行役員 調達本部副本部長
平成19年 7月  取締役 兼 執行役員 調達本部副本部長 
平成19年11月  取締役 兼 執行役員 調達本部長
平成20年 6月  取締役常務執行役員 経営管理本部長
平成21年 4月  代表取締役社長就任
現在に至る

社  外  歴

平成21年 4月 (社)日本経済団体連合会 常任理事、現在に至る
平成22年 5月 (社)日本経済団体連合会 自然保護協議会 副会長、現在に至る
平成23年 4月 (社)日本建設業連合会 会計・税制委員会委員長、現在に至る
平成27年 6月 (社)日本建設業連合会 土木本部副本部長、現在に至る

[関連ダム]  高瀬ダム  玉原ダム  南相木ダム
(平成27年9月作成)
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